艸砦庵だより

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旧作遠望「絵画によるインスタレーション」 (記・FB投稿2021.8.4)

 (*モデムとルーターの仕様を更新したことで、しばらくブログを開くことができませんでした。以下、主にFBに投稿したものの後追い投稿です。若干見苦しい次第ですが、御了解のほどを。)

 

 昨年から始めた古写真・古アルバムの整理は、断続的にではあるが、進んでいる。一部手をつけかねている領域もあるが、いずれやる。

 そんな中で、見て見ぬふりをしているのが、作品・発表関係の写真。

 学生時代に発表し始めて以来、カメラ音痴、写真嫌いの私は、貧乏なくせに金を払って人に撮ってもらってきた。ポジフィルムの四×五、ブローニーサイズ、35mmスライド、モノクロ・・・。すべての作品は紙焼きし、ファイルにまとめていた。

 時代は移り、デジカメ・データへと変遷。気がつけば、紙焼きはしなくなり、作品ファイルも作らなくなった。撮影自体もサボり勝ち。初期の画像データの中には、開けなくなったものもある。IT弱者である私は、今後どういうふうに記録保存して行けばよいのか、見通しは立たない。

 

 ため息をつきながらそんな写真や画像を見ていて、気づくことがある。これまでの作品のおおよそは2冊の自費出版の作品集にまとめているが、その時系列編集からこぼれ落ちたものがあるということ。思考や作風の傾向的変遷とか、展示空間・会場風景の意味、等々、作品画像一点ずつ見ているだけでは気づかぬこと。

 そもそも30年前、40年前の私の作品を知っている人など、ほとんどいない。また、今見たいと思う人がいるとも思えない。だが、私は見てみたい。私は、作品集にそれとふさわしい形で載せることのなかった、そうした要素を持ついくつかの画像をアップして、遠く(?)から見てみたいという、抗しがたい誘惑にかられる。

 自分個人に向かう「ノスタルジア/懐古」には興味がない。だが、作品自体は過去のものであっても、その意味は「古いもの・こと」ではない。「古・旧」とはとはたんなる時制上の事実にしかすぎず、意味や価値判断はまたおのずから別の次元である。今回、あえて「旧作遠望」というタイトルで、FBというニュートラルなフィールドを借りて、自分自身のための「振り返り/眺め直し/見直し」と「気づき」という試みをしてみようと思う。

 

 今回取り上げるのは、「絵画によるインスタレーション」という志向/思考。

70年代前後の現代美術の中でもとりわけ「モノ派」(註)に対する批判的対峙の中で、特にそのインスタレーション(架設)という手法に対して、「絵画」の観点からどう批判・超克できるのかという、まあ画学生的な、未熟かつ無謀な思考をしていたのである。「絵画によって埋め尽くされた空間/部屋」というのが、とりあえずの中間報告的回答だった。むろん、それはあまりにも情緒的(?)で杜撰なものでしかない。その後、私は現代美術/インスタレーションを「対世界直接性としてしか機能しない(=現実そのものとなり果てる)」という八つ当たり的な総括で締めくくり、以後、絵画に専念するに至った。それについては拙著『メッセージのゆらぎ(博士学位論文)』(1987年 私家版)に論述してある。

 今、これらの画像を見て気づくのは、あらかじめ集合作品群として構想された一群の醸し出す、どちらかと言えば予定調和的な貧しさであり、そしてそれとは別に、個々単独で制作された複数の作品を意味的必然性なく野合・集合させた作品群が期せずして放射するアウラ、という違いである。

 

 いずれにしてもこうした試み(展示)は、物理的制約が大きく、今後実現する可能性は極めて低い。そうした意味では、かつてこうした試みが存在したことを、ここに出して見ることも、まあ、まったく無意味ではないだろう。

 (註)「モノ派」については多くの文献があるが、最近目にした中で比較的わかりやすく公正な記述だと思えたのは「「モノ派」とは何であったか」(峯村敏明 鎌倉画廊 Kamakura Gallery: 峯村敏明「「モノ派」とは何であったか」 )である。

 

 

1. 個展「黄昏の領域」(2000.1.8~23 防府市民交流センター・アスピラート/山口・防府)、展示風景。

 後述の「1998ミューズ春の美術展」(1998.4.3~13 所沢市民文化センター ミューズ ザ・スクウェア/埼玉・所沢)の展示をほぼそのまま再現したもの。一部の作品は天地逆にして展示している。

 以下、すべての画像は紙焼きからスキャンしたものなので、ピントが甘く見えるところはご容赦を。

 

 

2. 図版1の部分拡大

 一つ一つは100号前後の、独立して制作された作品。作品同士の組み合わせに、意味的必然性はない。組み合わせることによって意味が発生する。

 

 

3. 同、図版1の右、部分。この右にももう何点か小さいサイズの作品が続いていた。

 

 

4. 個展「KAWAMURA MASMYUKI  1979~1995  両手を叩いて鳴る音はわかる しかし片手を叩いて鳴る音はなにか」(1996.1.8~30 横浜ガレリア ベリーニの丘キャラリー/神奈川・横浜)第二室の展示の一部。

 

 

5. 図版4の部分拡大。

 

 

6. 同、第二室の別の作品群。



7. これらの「絵画によるインスタレーション」の前段になった集合的作品「水の無い谷間」。全8点、1983年。個展、展示風景(1983.11.17~22 紀伊國屋画廊/東京・新宿)。

 個々の作品はそれぞれ独立しても存在しうるが、本来的に、全体が(集合的)一作品として、構想されたものである。

 こうした展示形式は、現在ではさほど珍しいものではないかもしれない。だが当時、あるいは、それまで無かったわけではないだろうが、私自身は何かの前例をなぞった覚えはなく、あくまでオリジナルとしてやったと自覚している。

 

 

 

8. 6部作というか、6点で1つの作品「彼の岸へ」。各1点はPまたはF100号。

 個展(1984・12.10~15  銀座スルガ台画廊/東京・銀座)展示風景。集合的作品ということの限界が見えたような気がした。



9. 7の「水の無い谷間」と8の「彼の岸へ」、その他の作品を展示した「山口の現代美術‐Ⅲ」(1985.6.14~7.7 山口県立美術館)の展示全景。

作品を床に寝かせたり、壁面展示ではあるが、底辺を床に置いたものなど。今見れば、力感に欠けるのは否めないが、当時の力量からすれば、やむをえない。

 

 

10. 「黄金調和線上の蕩児たち-新たな象徴へ」(1984.6.18~24 田村画廊/東京・神田)。

 地中美術館金沢21世紀美術館東京芸術大学美術館の館長をへて現在練馬区立美術館館長を務めている秋元雄史との二人展(名前および作品の公表については本人の了解をえている。そもそもこの場合は、作家時代の彼の名前を出さなければ話にならない)。

 大学同期、お互い20代後半、彼がまだ作家活動をしていた頃。彼からの発案によって実現した、インスタレーション形式と相互干渉といったことを前提とした展示。これもまた一つの「絵画によるインスタレーション」である。

 中央の「FACE」と床のオブジェ群が秋元の作品。この、趣旨としては「二人展」ではなく、「二人によるコラボレーション(この言葉も概念も当時は身近には無かったと思う)展」。その意味を理解するのには、長い時間がかかった。ちなみに展覧会のタイトルはほぼ私の発案。

 

 

11. 同前。画像10の左壁面。中央の1点が私の、他は秋元の作品。

 打ち合わせというほどの事前協議はほとんどせず、しかし食うか食われるかといった緊張感だけは孕んで臨んだのだが、結果として案外静かなというか、無理のないきれいな(?)空間になったのは少々意外だった。そこからいろいろな問題や可能性を引き出せると思うが、その時点では必ずしも整理できていたわけではない。しかし、同時にある種の豊かといってもよい成果、ああ、自分の絵はやはりこうした非直線的な方向であっても良いのだと何となく感じとれたというのは、今につながる収穫だったと思っている。ただし私の出品作そのものは、当時少し壁に突き当たっていた時のものなので、あまり誇れたものではない。

 今、彼の作品・発表の全体を時系列に沿って正確に思い出せるわけではないが、この時はまだ「FACE」を中心とした絵画制作が軸になっている。その後、絵画から離れ、パフォーマンス的要素が増え、やがて制作から遠ざかったらしい音信不通の10年前後をへて直島で再会した。

 

 

12. 「1998ミューズ春の美術展」(1998.4.3~13 所沢市民文化センター ミューズ ザ・スクウェア/埼玉・所沢)展示風景。

 左奥の部分を後2000年に個展「黄昏の領域」(2000年 防府市民交流センター・アスピラート)で再現。

 

 

13. 画像12の右壁面部分。

 私はある展示空間を前提として、それに合わせて作品を制作するという形はとらない。だから「絵画によるインスタレーション」は、皮肉なようだが、それなりに大きな空間と、新作だけで埋めることができないというネガティブな制作状況と、労力費用といった物理的負担へのサポートという要件が充たされて初めて可能になる表現なのだと、逆説的に結論付けられるかもしれない。

 

(記・FB投稿2021.8.4)