艸砦庵だより

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山歩記+石仏探訪-35 「八王子城山」 (記・FB投稿:2022.2.24)

 2月24日、八王子城山(≒八王子城址)に登った。

 

【コースタイム】タウン入口BS11:12~心源院・深澤弁財天・秋葉神社12:00~第六天12:25~八王子城本丸13:33~天守閣跡14:15~富士見台14:40~太鼓曲輪尾根分岐15:26~城山林道16:02~小殿跡~八王子城跡入口BS

 


 ↓ ルート図。「地理院地図」でこんなものを作ってみたが、今のところ使いづらいというか、使いこなせていない。 

 

 私は民衆生活誌=民俗には興味があるが、天皇・武将・大名=支配者たちの権力闘争史にはあまり興味が無い。だから城跡を見ることに重きを置かず、山歩きの部分がなるべく長くなるようなルート設定をした。北の心源院から尾根続きに城山(本丸跡)をへて、北高尾山稜の富士見台550m圏に登り、太鼓曲輪尾根の途中から一般ルートの入口の福善寺観音堂の近くに下る。標高差350m、歩程4~5時間程度。石仏もある程度は見られるだろう。

 

 ↓ 取り付きの心源院の前にあった石仏群。中央がちょっと珍しい寛政/1795年の寒念仏塔。「寒念佛講中」とあるが、主尊は馬頭観音のように見える。右は風化剥落が激しいが馬頭観音か。

 左は日月(?)を頂き、笠をかぶって踊っているような、見たことのない象容のもの。あるいは笠ではなく、富士山=富士講のものか。刻字等は見えず。正体が知りたいが、八王子市に関する良い資料が見つからないのは、困ったものだ。

 

 稱讃寺から心源院・深澤弁財天を見て、秋葉神社から尾根に取り付く。全体としてゆるやかで、良く手入れのされた歩きやすい路。

 

 ↓ 登り始めから見下ろす心源院。写真には写っていないが右の入口近くに深澤弁財天がある。山は春の気配。城山まで地元の愛好家による、うるさいほどの手作り道標が設置されている。多すぎるのも考え物。

 

 

 ↓ 途中の小ピークが第六天。

 昔ここに第六天の魔王を祀る御堂があったことに由来するらしい。第六天の魔王とは、六欲界の最高天に住む他家自在天だとか。男女和合→子孫繁栄を司るとか。詳しいことは私も現在勉強中なので、以下略。ただ、同じく神仏習合時代の「八王子」というのが、牛頭天王の八人の子供のことというのがあり、それとの関係があるように思われる。また、第六天にせよ八王子にせよ、地名としては全国あちこちに残っている。

 

 ↓ 途中の景。歩きやすい路。誰とも行き会わない。

 

 

 ↓ 八王子城山=本丸跡=八王子神社

 延喜13/913年に、華厳菩薩妙行が修行中に、牛頭天王と八人の王子を感得したことにより八王子権現を祀ったのが始まりとか。この伝説により北条氏照八王子権現を城の守護神としたことが、八王子(市)の由来。でも戦に負けて北条氏は滅んだのだから守護神としてはダメだったということ。

 

 

 ↓ 八王子神社手前にあった天狗。山伏姿で巻物と羽団扇を持っている。

台座に「奉納 城山開山五■年 天狗堂創業十年」「昭和十二年三月~建之 東京市瀧川區~~ 納主 長谷川省一 ~~」とある。天狗堂の業種はわからないが、企業が寄進したものだろう。

 少し手前には「覺妙霊神 普寛霊神 ■■霊神」と記された三尊形式の霊神碑もあり、高尾山との関係で修験道も行われていたということ。

 

 

 八王子城址は下の御主殿から見るのが順路でわかりやすいだろうが、上半から見ることになった。豊臣秀吉小田原征伐の一環として、1590年7月に激戦が繰り広げられたらしいが、詳しくは知らない。ただ今も昔も、権力闘争の悲惨さがしのばれるばかり。

 

 ↓ ややわかりにくいが、一本の倒木の主幹から太い四五本の枝が、独立樹のように垂直に伸びている。若く細い枝が伸びているのはときどき目にするが、このように太く成長しているのを目にしたことは、あまりなかった。

 

 ↓  主稜線、北高尾山稜の一画、富士見台。十年ぐらい前に通過したはずだが、まったく覚えていない。

 

 

 飛び出した北高尾山稜は20年以上前に歩いた尾根筋。富士見台で富士を眺め、その先から太鼓曲輪尾根に入り、途中から城山川に降り立つ。

 

 

 ↓ 富士見台とは言っても今日は見えないなと思って、よく見たら真正面にあった。半逆光で、空に溶け込みかかっているが、その分少し神秘的に見えた。

 

 

 あとは福善寺観音堂に直行すればよいものを、せっかくだからと、御主殿とやらに寄り道したのが運の尽き。立派過ぎる曳橋を対岸に渡り、そのまま古道をなぞった遊歩道を歩いた結果、肝心の福善寺観音堂への入口を通り過ぎてしまったことに気づいたのは、大分たってからだった。

 

 

 ↓ 城山川に下ると御主殿跡があった。比較的近年に発掘整備されたようだ。ベネチア製のレースガラス器の断片や中国の陶磁器等も出たとのことで、急に歴史感覚が呼び覚まされる。ただしここを見たおかげで、肝心の福善寺観音堂を見落としてしまった。

 

 

 かつてそのあたりには、今は八王子市津貫町に移転した東京造形大学があった。私は三浪の時に受験した(入学したのは別の大学)。その後ニ三度遊びに来た事もあるのだが、面影は無い。旧所在地すらわからなかった。北条氏とは異なるが、小さな諸行無常

 石仏に関しては、9カ所の寺社をのぞいて見たのだが、不思議なくらい何も無かった。墓域まで足を伸ばせば、もう少しはあったと思うが。まあ、福善寺観音堂をはじめ、今回は縁が無かったのだ。それもまた良しとしよう。再訪するかどうかは未定。

 以下、石仏篇。

 

 ↓ 一番最初の稱讃寺にあった、一つの蓮台に如意輪観音地蔵菩薩が一緒に乗った塔。三尊像というのはあるが、観音と地蔵の二体が並んで刻まれているのは見たことがない。きわめて珍しいように思うが、同なのだろう。こういうのを見ると、知的好奇心が刺激される。下の10行ほどの偈の右に明暦四(?/1658)年と読める.が、結構古い。

 

 

 ↓ 心源院は広い敷地を持つ寺。入口にこの石仏群がある。

右の大きな地蔵は文政元/1818年のもの。ほかに小~中型の地蔵が五体と医者・学者であった「小谷田子寅の碑」があるが、いずれも今のところ詳細不明。

 

 

 ↓  心源院入口の弁天池には深澤弁財天があり、そのかたわらにこの宇賀神がある。弁財天と宇賀神は同一とも別体ともいうが、いずれにせよインド由来の水の神であり、農業神・福神。

 資料には「石の弁天」「人頭の蛇体」とある。確かにその写真では人の顔がうかがえるが、今回は風化が進んだのか光の加減か、顔らしき表情は見出せなかった。残念だ。同じ資料に「祈願のときは、生卵を割ってかけるのであろうか、以前卵をかけたあとがあった。」とある。

 

 ↓ 深澤弁財天の本尊、木造の宇賀神弁天。

 ここでは弁財天は人頭蛇身と解されている。古いものではないが、それなりの味がある。左下には陶器製(?)の白蛇、右下には蛇をイメージさせる縞模様が浮き出ている自然石が奉納されている。

 

 ↓  心源院敷地内の墓域にあった聖観音。特に変わったものではないが、光の加減か、光背から今まさに歩み出る瞬間のような姿に見えた。写真はあまる良くないが、妙に印象に残った一体。

 

 

 ↓ 関係ないけど、こんな雲が出ていた。

 

(記・FB投稿:2022.2.24)