艸砦庵だより

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「山本作兵衛展」と石仏探訪-36「旦木御嶽神社の焼け仏」

(記・FB投稿:20223.14)

 会期終了間際に知って、3月11日、何とか東京富士美術館に「山本作兵衛展(ユネスコ「世界の記憶」登録10周年記念)」を見に行った(13日で終了)。

 閑散としているだろうと予想していたが、やけにお年寄りの客が多い。メイン展示は「上村松園・松篁・敦之 三代展」だった。なるほど。

 

 

 ↓  「上村松園・松篁・敦之 三代展」チラシ

 京都四条派、美人画という系譜も、松園という画家も、私にはほとんど縁はないが、「上手さ」という無視できない魅力もまた感じる。

松園は京都府画学校時代以来の師、鈴木松年との間に松篁を生む。不倫であり、今だったら大セクハラということになるのであろうが、多くを語っていない。その松篁の二本の椿を描いた「春園鳥語」が実に良かった。

 

 

 山本作兵衛は30年ほど前に読んだ、上野英信の『追われゆく坑夫たち』(岩波新書)など、一連の社会派の読書体験を通じて知った。『筑豊炭鉱絵巻(上 ヤマの仕事・下 ヤマの暮らし)』(1977年 ぱぴるす書房)、『画文集 炭鉱に生きる 地の底の人生記録』(1967年 講談社文庫)などに掲載されていたその絵が、高校時代に手にしたもののすぐに挫折したマルクスの『資本論』中の19世紀イギリスの炭鉱における児童労働の記述と重なるものがあったことが、妙に印象深かった。関連して、菊畑茂久馬や桜井孝実ら「九州派」の画家たちや、中村宏の「ルポタージュ絵画」に対する関心なども、ほぼ同じ経緯から発している。

 それにしても、「世界記憶遺産」に登録された時には驚いた。

 これまで絵の現物を見る機会はなかった。それがなぜ今この美術館で?という感はあるが、それはまあよい。見れる時に見るまでのこと。彼の作品は、しいて分類するならば、専門的教育を受けていない点で、大きくはアウトサイダーアートとして括ることもできようが、「記録」という明確な目的を持っていることなどからすると、据わりはあまりよくないが、ナイーブアート(素朴派)というあたりが妥当かと思う。

 作品の選択にもよるのだろうが、私が抱いていたある種のおどろおどろしさや、情念性といった色合いは今回の展示では薄かった。それはそれでやむをえない。

 

 

 ↓ 「山本作兵衛展」チラシ

 後述の「九州派」の桜井孝実はその後半生、パリに移住したが、日本に帰国時のアトリエとして、あきる野市盆堀にあるギャラリー・ネオエポックと深いかかわりを持った。私の女房はギャラリー・ネオエポックに作品を常陳しており、私も時々行く。つまりごくごく間接的ながら、淡い縁があるということ。

 

 

 ともあれ、目指す「山本作兵衛展」に辿り着くまでには、「西洋絵画 ルネサンスから20世紀まで」の展示室を通過しなければならない。あればつい見てしまう。山本作兵衛を見た後も、せっかくだからと、上村松園もついつい見てしまう。見れば、良いものもある。

 

 ↓ ブーシェの「田舎の気晴らし」1743年。

 山本作兵衛に辿り着くまでの最初の常設コーナーでは、ジョバンニ・ベリーニからピーター・ブリューゲル(子)、ルーベンスフラゴナールルノアール、等々、泰西名画の主に二級品が80点ほどのてんこ盛り。二級品ではあるが、クリーニング・修復の状態は一級で、下手に現地の美術館で状態の悪いものを見るよりもはるかにきれいで見やすく、勉強になる。しかし食い合わせという点では...。

 

 

 中華料理を食べに行ったのに、フランス料理の前菜を出され、シメが懐石料理だったというような、妙な食い合わせの満腹感というか複雑な飽食感をいだいて美術館を後にした。

 

 

 ↓ せっかくだから(?)もう少し。エリザベート・ルイーズ・ヴィジェ(1755-1842)の「マリーアントワネットの肖像」。

 「ルブランの作品による」ということは、模写ということか?全く未知の女性画家だが、ヨーロッパ絵画のスタンダードがわかる。



 

 ↓ ピーター・ブリューゲル(子)「雪中の狩人」

 ブリューゲル一族というのは、たしか150年ぐらいに渡って、何十人もの画家がいる。フランドルの狩野派みたいなもので、同様に粉本、縮図の類を活用して、注文に応じて同じ構図の作品を何点も制作した。これもその一点で、ウィーンの美術史美術館にある大作とは似ても似つかぬ小品だが、同構図。これはこれで。

 海外の大美術館に行き、膨大なコレクションの中のほんの一握りの有名な傑作を見るのも結構だが、こうした大事にされている二級品コレクションを、じっくり自分の目で見る方が、あんがい得るものが多いのではないかとも思った次第である。

 

 

 ついでに、せっかくだからと、いつものおまけの石仏探訪。

 丹木御嶽神社金蔵寺、龍源寺など、6ヵ所を回る。石仏はそれほど面白いものはなかったが、御嶽神社(旧御嶽蔵王権現社)の倉庫?にある焼け仏(?)群は興味深かかった。

 

 

 ↓ 丹木町の御嶽神社

 集落の裏、小高い丘陵上にある。これは何鳥居というのだろうか?手前には安永3/1774年の寒念仏灯篭(?)が一対あった。

 御嶽神社は、元は近くの滝山城跡の山頂にあった蔵王堂が、滝山城築城の際に現地に移され、御嶽蔵王権現社として鎮守・村社になった。つまり、修験であり、後述の麓にある金蔵寺はその別当(神仏習時代に神社を管理するための寺)だった。興味深い経歴。

 

 ↓ 御嶽神社の内部。

 手前が何もない拝殿。奥にある古い社殿が本殿。

 

 ↓ 本殿の右奥にあった倉庫(?)をのぞいてみると、箒や雑多ながらくた類の奥に、焼け仏らしき木製の仏像が十数体見えた。格子戸から暗い中を覗き込んでも、肉眼ではほとんど見えない。スマホのカメラで写してみて、やっと確認できた。

 見ようにもよるが、これはこれで実に味わい深いもの。

 これらは、解説の石碑にあった「蔵王権現立像、十一面観音、菩薩形立像(藤原末期 昭和23年重要美術品認定)」なのだろうか。経緯はさておき、また歴史的、美術的観点からしても、もう少しちゃんとした保存が図られたいものである。

 

 

 ↓  金蔵寺全景。

 右に広い敷地が広がり、てっきり廃寺跡だと思った。近くにいた地元の方に聞いたら、無住で住職は他の寺と兼任だが、今でも寺はあると言われる。右奥のシャッターが下りた倉庫風の建物の軒下に、確かに「金蔵寺」の扁額がかかっていた。

 廃仏毀釈時の破壊から逃れるため、宝物は近くの御岳神社や仏閣に移転されたと伝えられ、また以前に火災に遭って焼け残った仏像類が御嶽神社にあるとも話されていた。また、いつごろか不明だが、大風害によって本堂が倒壊したが、御嶽神社別当寺だったために檀家を持たず(?)、以後、本堂再建に至ることなく今日に至っているようだ。

 いくつかの要素が混じり合っていて、正確なところはよくわからないが、御嶽神社の倉庫の焼け仏群は、本来この寺に由来するものではないかと思われる。

 

 ↓ 加住町の龍源寺にあった「滝山城攻防戦戦没及び受難者供養塔」。

 滝山城攻防戦とは、先に投稿した八王子城と同時期の、豊臣秀吉前田利家真田幸村らによる小田原征伐の一環の戦い。龍源寺との関係は知らないが、その時の戦死者供養塔が今はこの寺の墓地の一画にひっそりとまとめられている。五輪塔如意輪観音、地蔵、文字塔と30基ほどあるが、詳細は不明。

 

 

 適当なところで切り上げてバスで帰ろうとしたら、バス路線を読み間違えて、あるはずのバス停・バス便を見つけられず、結局2時間かけて秋川駅まで歩いた。おかげで、また股関節通の悲哀を味わうこととなった。完全にオーバーワークの一日。

 

(記・FB投稿:20223.14)