艸砦庵だより

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ゲルハルト・リヒター展

 7月12日、夕方5時半からの予定に合わせて、懸案のゲルハルト・リヒター展を見に行った。ほぼ予想通りの内容で、2時間の予定が1時間少々で見終わった。

 

 リヒター(1932-)の作品とその行為を見るには、ヨーゼフ・ボイス(1921-1986)とアンゼルム・キーファー(1945-)を前後に据えた時間軸と、ドイツの近現代史・風土性をもう一つの軸とする座標上に位置づけるという過程が必須だと思う。

 ボイスがナチスドイツのヒトラー・ユーゲントを経て、志願空軍兵士として最前線で戦ったことはよく知られている。

 彼の代表的な「作品」はパフォーマンスであり、緑の党創設などの「社会彫刻/政治性」である。つまりは「コンセプト」である。自身の戦争体験を具現化するような、古典的な意味での絵画や彫刻といった「作品」は作らなかった。(余談だが、前提として、戦前戦中のドイツで、現代的美術が「退廃芸術」として禁止されていたという事実は、もっと重要視されるべきだと思う。)

 

 キーファーは戦後生まれで、戦争を直接には体験していない。それゆえにか、大学でボイスに学んで後、ドイツの歴史、特にナチスの時代を基軸とした絵画を制作している。

 

 二人の間に位置するリヒターは、幼少期を戦時下で過ごし、大学で同じくボイスに学んだ。作風は、基本的には絵画性を中核においたもの。戦争や時代性が直接関与する作品は少ない。ボイス、キーファーに比べ、作家の個人性はなるべく隠され、「見ること・認識すること」といった概念以前の認識論を、すでに同時代の誰かによって提示されたさまざまな「方法」を用い、「絵画・性への問い」といったベクトルで提示している。その点で、他の二人に比べて、作品自体が「鑑賞される」べき必然性は、最も少ない。

 にもかかわらず、多くの日本の観客は彼の作品を「鑑賞」しようとし、沈黙する。作家自身の個人性がなるべく隠され、なお「絵画・性」が現前しているということは、たやすく造形性や意味といった、なじんだ仮想へと転化しやすい。つまり、暗示性・暗喩性への回路を求める「思わせぶり」に活路を見い出し、それへとすり寄る。

 思うに、日本人はこの「思わせぶり」というスタイルが大好きなのだ。それは例えば曰く言い難い「侘び・寂び」と容易に重ね合わせやすい。結果として、沈黙が当然の反応となる。その沈黙は「納得」ないし「感動」にたやすく置き換えられ、鑑賞は完了する。それは間違っているとは言わないが、「脱臼した」鑑賞ではないのだろうか。

 

 以上が私の感想と考察である。否定しているのではない。それなりに楽しめたのは事実だ。20年以上前に、ドイツかスペインで彼の作品を初めてまとめて見た時の印象と変わらない。一言で言えば、近現代美術史的既視感。

 

 その後、不忍池弁天島に行って、彼此の落差と対照性に微苦笑することになるのだが、それはまた別の話。

 

 ↓ 「(タイトル失念)」

 

 

 ↓ 「アブストラクト・ペインティング」

 

 ↓ 「8人の女性見習看護師(作品番号130番の写真ヴァージョン)」1971年

 

 ↓ 「4900の色彩」2007年

 

 ↓ 「ストリップ(Strip/条片)」2013~16年

 

 ↓ 「ヴァルトハウス」(2004年)の解説

 

(記・FB投稿:2022.7.16)