艸砦庵だより

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石仏探訪-43 「信州石仏探訪その1 とりあえず、珍しい、面白い石仏」

 先日の信州の7日間の旅のうち、石仏探訪に専念したのは二日半だが、それ以外の日も途中途中で数多くの石仏を目にした。写真に撮ったのはそれらのうちのほんの一部でしかないが、さすが石仏王国。初めて見る像、面白い像も多く、驚きと感激の連続だった。圧倒的なその数と多様性。特有の風土性と歴史性を感じることができた。

 今回はとりあえずその中から、私にとって珍しく面白く感じられたものの中からいくつをピックアップしてみる。

 山登りや移動の最中、なるべくそのペースを乱さないように心がけはしたものの、ある程度は付き合ってくれた山仲間、後半の一日半、車を出して案内してくれた古い友人のCちゃん、共に感謝です。また機会を作って再訪しますので、よろしくお願いします。

 

 1. 諸仏/「摩利支天」 茅野市塚原 惣寺院

 

 摩利支天は陽炎を神格化したものと言われる。木曽御嶽山信仰と関連して造像されたようだから、神仏習合修験道系と見るべきであろう。多くはこのように、三面六臂ないし八臂で、猪に乗る憤怒像として造形されるが、儀軌によれば本来は天女形!のはずである。

 長野県が中心だが、群馬、東京、神奈川にも存在する。造形の複雑さのためか、文字塔が多い。火炎光背は不動明王のそれを借りたものだろう。

 像塔は以前に修那羅峠で一体だけ見たことがあるが、惣寺院のこれは大きさといい、彫りといい、素晴らしいものである。全体に彩色されている。造立年等、詳細は不明。

 

 

 1-2 同上

 この像は有名でNET上でも多く見られる。迫力ある細部を見るために、それらの中から一点を転載してみる。う~ん、すごい!

 

 

 2. 諸仏/「摩利支天・不動明王歓喜天」 茅野市米沢北大塩 大清水不動堂

 

 明治23/1890年。「摩利支天・不動明王歓喜天」と三つ並べた、初めて見る文字塔だが、これも三尊形式というのだろうか。不動三尊なら普通は制多迦(セイタカ)童子と矜羯羅(コンガラ)童子梵字種子はタとタラ)だが。

 専門的になるが、梵字種子はそれぞれマ(摩利支天)、カンマーン(重字 不動明王)、ギャク(歓喜天)だが、この塔に刻まれているのはギャクではなく、阿弥陀如来如意輪観音大威徳明王などを表すキリークのように見える。あるいはギャクの異体なのか。

 何にしても文字塔とはいえ、歓喜天を見たのも初めて。摩利支天・不動明王歓喜天と三つ並べた意味合いも知りたいものだ。

裏には和歌(道歌?)のようなものが彫ってあるが、達筆すぎて読めず。読み下したい。

 

 

 3. 諸仏/「摩利支天大菩薩」 茅野市米沢北大塩 大清水不動堂

 

 こちらも摩利支天だが、シンプルな文字塔。「摩利支天大菩(薩)」とあり、まさに神仏習合というか、修験道ならでは。ヒエラルキーの異なる「天」と「菩薩」を何のためらいもなく接続させている。まあ、ありがたいもの、御利益のありそうな神仏には「~~大菩薩」とつけるわけだ。

 

 

 4. 諸仏/牛頭天王 茅野市米沢塩沢辻 牛頭天王石仏群

 

 牛頭天王の像塔を見るのも初めて。座像だが、90×95㎝という数値以上の大きさを感じさせる堂々たる作である。造立年、その他詳細不明。

以前の投稿にも書いたが、もとはインドの祇園精舎の守護神で、薬師如来垂迹であり、素戔嗚尊スサノオノミコト)でもあり、蘇民将来ゆかりの武塔天王の太子でもあるとされている。

 仏教の経典には記載が無く、当然信頼できる儀軌もないため、自由に造形せざるをえない。その結果の一つがこれ。牛角はないが、頭部に小さな牛の頭部が彫られていることで、その個性とアイデンティティー(?)を主張している。肩にしているのはマサカリか?

 

 

 5. 諸仏/第六天 諏訪市湯の脇 兒玉石神社

 

 第六天を祀ったことに由来する「第六天」の地名は各地に残っているが(あきる野市にもある)、像塔は稀で、私は初めて見た。長野、山梨のほか、関東と一部東北地方に分布する。

 「仏教では地化自在天を第六天とする。この天は欲界六天の最上位にあって、~~仏堂のさまたげをするので魔王といわれる。」~「魔力による願望達成を期待して、魔王を福神、守護神に転化させることによって成立したと思われる。」悪魔崇拝とも言える。

 要するに御利益のためなら魔王でも何でも祀り、拝むという、日本人の何とも融通無碍な宗教心の現れの一つと言えよう。

 像としては、魔王の名に似合わない、笏を持ったおだやかな神官(?)姿。江戸時代だろうが、造立年、その他詳細不明。

 

 

 6. 勝軍地蔵 茅野市米沢塩沢辻 牛頭天王石仏群

 

 勝軍地蔵は室町時代に創作(!)された、甲冑をまとった地蔵。足利尊氏が帰依したことから、武将たちに崇拝された。また、勝軍が将軍に通じることから、騎馬像も作られている。つまり戦う地蔵!

 また火伏・防火の神・愛宕明神の本地として、「愛宕勝軍地蔵」の名で知られる。宝珠錫杖を持って頭に帽子のような兜をかぶっているので、わかりやすい。これまでいくつか見たことがあるが、これはそのお手本のような姿。脛当てをした足もむき出しで、フットワークが軽そうだ。

 

 

 7. 勝軍地蔵 茅野市米沢北大塩 接吻道祖神石仏群

 

 こちらも勝軍地蔵だが、頭の兜以外はふつうの地蔵(延命地蔵)と変わらない。顔面等に風化が見られるが、全体としては堂々とした像である。

 なお前掲の勝軍地蔵もそうだが、それらは、現在は石仏群として一か所に集められていても、元々は他の場所に建てられていた可能性が高い。

 つまり寺の外にある場合は、勝軍地蔵の垂迹である愛宕様が、塞ノ神・境の神としての性格を備えていたために、都の西北に当たる愛宕山に鎮座し平安系鎮護の神とされたのと同様に、集落の境や辻などに建てられて塞ノ神としての役割を担っていたと考えられる。一般的な「村のはずれ(境)のお地蔵様(多くは延命地蔵)」もまた同様である。

 

 

 8. 御神体/黒曜石 茅野市北山 大瀧神社

 

 この神社ができたのは比較的新しい。流造平入の石祠に見立てるように重ねられた御神体の二つの黒曜石は、昭和16年茅野市の鷹野原喜平という人が冷山(現在地の西、渋の湯の北)から運んできたもの。南を流れる横谷渓谷の滝にちなんで大瀧神社と名付け、祭神を建御名方命とし、風の神、水の神、鍛冶の神、農耕・狩猟・開拓の神といった幅広い神格を付与した。その後、平成25年に社殿が建てられ、御柱も建てられた。すべて後付けの個人的解釈というべきだろう。

以上の内容が記された傍に建てられていた解説を読むと、古来と同様の、日本における神や神社のあり方、創出過程が、読み取れる。

 巨大な黒曜石の原石に神性を感じとるあたりには縄文以来の固有の土着的感性を感じるが、それに縄文とは無縁の記紀神話を重ね、さらに多様な神格=属性=御利益を結び付けるというあたりが、庶民のしたたかさなのだろう。

以上は批判ではない。仏教であれ、神道であれ、民間信仰であれ、日本人の宗教性の原形(現生利益・二世安楽)が、この神社の創出過程に見て取れるということなのだ。そういった意味で、これは石仏ではないが、宗教史的観点からしても、実に興味深い石造物である。

(記:2022.9.28 FB投稿:9.30)