艸砦庵だより

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石仏探訪-50 余録‐「檜原村数馬」

 2日前、クロモジ茶用のクロモジを採りに行くという女房の車に便乗。以前から気になっていた檜原村、南秋川の最奥の集落、数馬を訪ねた。数馬には何度も行っているが、石仏を目的としたことはなかった。

 数馬には数馬上と数馬下があり、派生的な小集落もある。数馬上の最奥からその一部をなす南沢沿いの集落をへて、数馬下の浅間尾根登山口までの間の、重箱の隅をルーペで探すような石仏探訪。

 今にも雨が降りだしそうな天気だったが、幸い何とか降られずに済んだ。紅葉は盛りだが、霧模様の曇天のせいで、光と彩の鮮烈さには欠ける。石仏の数は多くはなかったが、思いがけないコンテンツとの出会いもあり、最奥の集落の晩秋の風情は充分味わえた。

 

 

 ↓ 採ってきたクロモジ(黒文字)の小枝。 

 

 昔から高級楊枝や箸などに使われ、お茶や香料としても使われる。クスノキ科。良い匂いがする。

 

 

 ↓ 数馬上 石仏群全景

 

 田部重治の『山と渓谷』(1929年 原著は『日本アルプス秩父巡礼』(1919年/北星社)中の「数馬の一夜」で知られる檜原村、南秋川最奥の集落、数馬。

 九頭竜神社の先で奥多摩有料道路を左に分けるが、右の旧道に入るとすぐにこの石仏群があらわれる。いくつかは墓標だが、庚申塔馬頭観音、観音などがある。風化が進み、苔に覆われ、像容見極め難く、刻字も判読しづらい。紅葉と蘚苔類による自ずからなる荘厳。

 

 

 ↓ 庚申塔

 

 石仏群の中の一体。青面金剛一面六手、浮彫立像、三猿。寛保2/1737年。又兵衛さんと■■■右門さんが施主。

 光線の加減で、今一つ写真の印象は冴えないが、悪くはない。小さくまとめられた三猿の表現も面白い。

 

 

 ↓ 不明神社 全景

 

 数馬上の集落の一番奥にこの小祠2基があった。右の祠の前には狛犬のような形で一対の踏ん張った足(膝から下)が置かれていた。陶製で横には「長寿」などと刻まれている。言ってみれば「狛足」(?)。中には陶器製(?)の合掌する地蔵のような像が2体。

 左の木の洞を祠に見立てた中には、木彫の観音とおぼしき像と「福□□(読めず)」の木札。共に近年の素人の作のようだが、趣旨等は正確にはわからない。だが数馬のような坂道の多い山村で、足の健康と長寿を願うのはごく自然なことだ。その願いを手ずから形にしたのだとしたら、それは素朴な信仰形態の表れというべきであろう。

 民間信仰の一つに「足王様」というのもあるが、それと関係があるのかどうかはわからない。

 

 

 ↓ ヒカンザクラ

 

 南沢に入る。坂道の脇に桜が咲いていた。ヒカンザクラだと思うが、正確な種類は知らない。これから寒くなるというのに可憐な彩。 

 

 

 ↓ 紅葉 数馬上

 

 霧模様の曇天だが、広葉樹はむろん紅(黄)葉している。目についた一景。

 

 

 ↓ 手回し式サイレン

 

 前回、人里での探訪余録でも取り上げたが、ここ数馬にも道路法面の上にサイレンがあった。少し小型で1m程度。裏に手回し式のハンドルがあり、電力は使わないのだろう。

 有線放送や防災無線が普及する以前、細い谷に沿って集落が分散するこのあたりではこうしたサイレンが有効だったのだろう。これまで使われたことはあったのだろうか。

 

 

 ↓ 数馬上 数馬分校

 

 かつては村全体で九つの小学校と三つの中学校があったとのことだが、現在は小中一貫教育校として村立の檜原学園一校となっている。

 この数馬分校は、明治7年に本宿の吉祥寺で行われていた寺子屋を本校とする檜原小学校の第三分校として、ここにあった宝積寺を仮校舎にして「正心小学校」として発足した。宝積寺は明治37年下流の人里の玉傳寺に合寺されて廃寺となった。墓地は今も分校の裏にあり、いくつかの石仏がある。

 昭和34/1959年にこの校舎が新築された。以後、村内の分校の統廃合が続く中、檜原村最後の分校として残っていたこの檜原小学校数馬分校も、平成11年3月に閉校となった。最後の在校生は7人だった。現在は記念館となっている。

 

 

 ↓  分校の狭い校庭の反対側

 

 バスケットゴールと兼用のサッカーゴール。右はなんという名前か知らないが、攀じ登るロープが二本。左の建物は?と考えたが、雨天体育場だろうか。ほかにもいくつかの遊具が色褪せ、錆びつきながら、今も残されている。

 

 

 ↓  数馬上 南沢観音堂(仮称)全景

 

 数馬上でもやや派生的な南沢沿いの集落を歩き、地図上の寺と神社記号を目指す。見つけたのは寺というよりも御堂だから、同じ敷地内にある大きな建物が寺だと思ったが、どうもそちらはただの民家だったようだ。御堂の手前に立て札があるが、文字は薄くなっていて、ほとんど読めない。正式な名称もわからないまま。

 

 

 ↓  観音堂内部

 

 格子戸の隙間から中を覗き込む。観音を祀ってあることはわかるが、正面には注連縄と3柱の御神体?(御幣)が置かれている。御本尊は奥の障子戸の向こうなのだろう。

 しかし、どう見ても仏教建築の中に神様も祀られているという状態。左の布を着せられた像は何か。蓮台と顔は白い石膏の後補のように見えるが、正体は不明。

 ともあれ現代の神仏習合とは言えないにしても、神仏同居であることは間違いない。

 

 

 ↓ 南沢登山道上の廃社跡?

 

 観音堂の上の尾根の笹尾根に通ずる登山道にあるはずの神社記号を目指して登る。最奥の人家の脇に庚申塔嘉永3/1850年のものか)と首の無い地蔵があった。

 地図とGPSによって、あるはずの神社を探すが見当たらない。痕跡もない。おそらくはごく小さな木祠だったのだろう。あるいは前掲の観音堂にあった御神体=御幣が廃社後に移されたそれだったのではないかと思い当たった。

 

 

 ↓ 兜造りの民家 檜原村南沢

 

 先ほどの観音堂に戻る。その左手にあって最初に寺と間違えたのがこの家。今はトタン葺きだが、本来は茅葺の三階(?)建ての兜造り。二階部分は養蚕のスペースでこうした造り。正面の切妻の上部に描かれているのは「龍」だろう。「水」と書かれることもあるが、要は防火のまじない。

 

 

 ↓  兜造り 檜原村数馬上

 

 兜造りの本来のありようはこうした茅+檜皮(こけら?)葺。位置の関係で全容は納められなかったが、堂々とした存在感である。ここは旅館だから頑張って茅葺を維持しているが、数馬、檜原村全体でも今は多くがトタンを被せている。これをもっと大規模にすれば白川郷の合掌造りになるのだろう。

 

 

 ↓ 斜面の畑 檜原村数馬上南沢

 

 このように斜面に畑を作るわけだから、雨が降れば土壌は流れてゆく。したがって耕したりするときには、鍬や鍬を下から上に動かして、土を運び上げるようにしなければならない。重労働である。おまけに斜面だから常にふくらはぎには負荷がかかる。先に挙げた「狛足」神社(?)のように、足腰の健康な強さを願うこと切なるものがあるだろう。

 獣害も多いからこうしたネットや電気柵は必須だ。

 

 

 ↓ 石垣の道 檜原村数馬上南沢

 

 旧道でも新道でも昔はこのように、石垣を積み上げなければならなかった。

山石を割った割石ではなく、すべて河川が形成した丸い川石である。その積上げる技術面にも興味を引かれるが、たいへんな労力を要しただろう。そのことと関係があるかないか、おのずから現れるある種の美しさがある。

 

 

 ↓ 石垣 数馬

 

 石垣の王国と言いたくなる、都道脇に屹立する石垣。

 高さは5、6m?一番高い所では10m近くありそうに見える。傾斜もけっこうある。いつ頃この規模、高さで築かれたのだろうか。今でもその技術は継承されているのだろうか。コンクリートやブロック?に比べて、強度的にはどちらが強いのだろうか。

 

 

 ↓ 前の写真の右の続き

 

 高すぎて写っていない玄関までのこの勾配を毎日何度も上り下りするとしたら、確かに足腰が強くなるだろうし、そうでなければ暮らしていけないだろう。世界中、どこの山国、山里でも同じだろうが。

 

 

 ↓ 石舟橋 あきる野市十里木

 

 一通りの探訪を終え、女房と合流し、数馬の湯で一浴。

 その帰途、瀬音の湯につながる吊橋、石舟橋の紅葉を見に立ち寄る。名所(?)とあって、曇天の平日の夕方にもかかわらず、観光客もけっこう来ていた。

 黒いコートに黒いブーツの女性は、橋の向こう側で仕事の電話をし続けている彼をずっと待っていた。

(記・FB投稿:2022.11.17)