艸砦庵だより

河村正之のページ 絵画・美術、本、山、旅、etc・・・

プロフィール写真について~光陰矢の如し

 1年間ブログのプロフィールの顔写真の欄が空白というか、グレーのシルエットのままですごしてきた。今現在の素顔をそのまま晒すということに抵抗があったからである。ありていに言えば、私は今の自分の顔があまり好きではないのだ。

 グレーのシルエットのままでも高松次郎*60年代以降に活躍した主知的な現代美術の作家。影をモチーフとした絵画を制作したりしている)的な味わいがないわけでもないが、そうしている人は多い。それは普通のことだが、見ようによっては自分を見せたくないという妙な情念めいたものが垣間見えてくるようでもあり、そう思えば不気味と言えなくもない。かといって飼い猫の写真を載せるというのもありがちすぎる。

 ブログを含めたネット上の表現世界では個人情報やプライバシーは当然ある程度以上秘匿抑制されるべきものとされている。当然と言えば当然。だがそれはそれとして、やはり多少はその人となりを暗示というか、象徴する程度の淡い肉体性のようなものも少しは欲しい。

 そんなことをモヤモヤと感じ思っていたのだが、今回ふと思いついて昔の写真を載せることにした(それはそれでよくある手でもあるが)。昔も昔、ちょうど40年前、20歳の時の大学の受験票の写真である。よくそんなものを持っていたなと自分でも思うが、あの頃カメラを持っている人は、自分を含めて、周囲にそう多くはいなかった。さらに私は昔も今もカメラ・写真は好きではない。そのため若いころの写真というものが数少ない。だから希少性ということもあるが、3年も浪人したあげくにようやく合格した年の記念の受験票ということで保存していたものである。

 

 光陰矢の如し。今より体重は15㎏以上軽く、髪は多く、長く、あくまで黒い。おまけに少しとれているが、パーマまでかけている。スキャンした画像を見ながら、感慨は深い。あの頃の70年代の空気まで映っているように思えるのは、しょせん懐古趣味的な感慨でしかないだろうが、他者の眼にはどう見えるのだろうか。何だか指名手配の過激派の写真のようにも見えるが、気のせいだろう。ブログ上で見る限りごく小さな画像なので、ここに拡大したものを揚げておく。

 

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(記:2016.1.2)

アトリエ風景 ~ この1年

 一月の末にブログとHPを始めてほぼ1年、正確には11カ月がたつ。この間にUPした記事は50本弱、月平均4本少々。いわゆるブロガーには及びもつかぬが、自分としてはまあまあではないかと思っている。というか、現状ではほぼ精一杯というのが本音。

 

 ↓ アトリエの西の壁面。だいぶ前から完成近いF300号。右隅にはボックスアート、幾つ

   か。見えている中で一番古いのは10年以上前に描きだした小品。

            *クリックすると拡大されます。

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 カテゴリー的には「山」がもっとも多く、次いで「旅」。順当と言えば順当だが、自分で少々意外なのが制作・絵・美術・展覧会等にかかわる記事が少ないこと。当初、「制作日記」的なカテゴリーを作ろうかとも思ったのだが、自分の日々の制作や作品を語るというのは案外難しいし、面映ゆいものだろうと予測していた。しかし、自然にまかせておいても、もう少し書くのではないかとも思っていた。

 何を書くべきか、どう書くべきか。誰に向けて、何のために、といった模索ないし疑念は、常にある。もっと書きたいという志向と、何も書きたくないという、相反する衝動の共存。つまりそうした状態こそ、今の私のブログの性格というか、ありようが投影されているのだと言えよう。それはおおむね予想通りの事態であるから、別にそのことでうろたえたりはしないが。

 

  ↓ アトリエの北の壁面。P80とF100、その他。裏返っているのは完成済みのF200。

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 まあそれはよい。

 ある意味で思っていた以上に書いていない理由の一つとして、この一年、それなりに制作に集中している日が多く、そうしたときには、文章化する余力があまり無いということがある。もともと自分の絵や制作については、言葉になりにくいものだ。そもそもその必要性をあまり感じないのである。この点、「山」や「旅」については、従前からやっていた山岳会の会報に載せるような一種の報告書のようなものであるから、事実を時系列で記録することが中心で、あまり頭もエネルギーも使わなくて済む。もっともそれほど「記録」として意味というか、価値のある山行内容でもない。しかしそれでも、時間はある程度食われる。

 また、対社会的なことに対する思考は、論理性や明証性の観点からして、おいそれとは発言しにくいというところがある。論理的な裏付けのない、あまり個人的感情的すぎる発言というものを、私は好まない。

 

 それはそれとして、この一年を振り返ってみると、自分としてはそこそこ真面目に制作に取り組んできた気はある(―人によって基準は異なるだろうが)。この1年に取りかかった、描き出した作品の点数は、大小、タブローもドローイングもボックスアートも、取り混ぜて18点。その多くは現在も制作継続中である。もとより私の場合、制作期間は何年かにまたがることは普通のことだから、単純に多い少ないは言えないにしても、まあ例年より少し少ない。それというのも、昨年からF300号、F200号(完成済み)といった大きい作品を描きすすめており、今年もF100号、P80号といったやや大きめの作品を描いているからである。

 今年度完成させた点数はというと、これがやはり描き出しの年が何年にもわたっているため、集計するのがちょっと面倒で、正確なところは今わからない。まあだいたい描き出したのと同じぐらいの20点か、もう少し少ない点数だろうと思う。

 とにかく点数の多寡に今あまり興味はない。ここで制作や作品自体にかかわる事柄について、これ以上言葉を紡ぐのはやめておこう。そうしたつもりで書き出したのではないのだから。ただ、そうしたことについての言及が少なかったことが自分でも少し意外でもあり、多少のさびしさとして感じないでもないということ。この点で来年から少し増やしてみようかとも思っているが。さて・・・。

 

 そんなところから、アトリエの風景をちょっと紹介してみようかと思いついた。これらは12月7日に撮影したもので、その時点では全て制作途中のもの。その後完成したものも三、四点ある。未発表のものを公開することにもなるわけだが、まあかまわないだろう。

 ともあれ、別にたいした意味はないが、私が日々ほとんどの時間を過ごしている空間である。アトリエの名は「艸砦庵(そうさいあん)」。

 

 ↓ 一隅。

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 ↓ アトリエの東側は書斎的スペースと書棚、ロフト。左のドアは収蔵室。

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                          (2015.12.24記)

冬至の日(12月22日)に陣馬山に登った.

 今年も残り少なくなってきた。年内にもう一度どこかに登ろうと思った。天気予報を勘案して12月22日にする。ふと見れば冬至とある。一年で昼が最も短く夜が最も長い日。この日を境に昼が長くなる。つまり再生復活の日。そう言えば今は25日と決まっているクリスマスも、本来はキリスト教導入以前から祀られていたケルトドルイド教冬至の日であったというのをどこかで聞いたことがある。夏至冬至春分秋分。かくて世界はめぐる。などといったことと今回の山行は関係ないが、冬はやはり寒いし、日は短いしで、自ずと近場の比較的短いルートになる。雪山でラッセルに明け暮れたのは遠い昔の話。

 ミシュランの☆☆☆効果で登山者が殺到している高尾山に興味はないが、やはりその近さは魅力で、☆☆☆認定以前に北高尾山稜と南高尾山稜は何年か前に歩いている。山歩きとしてはあまりパッとしないというか、魅力に乏しいという印象だった。だが、その北高尾山稜を歩いた時に、入山ルートにとった余瀬から薄い踏み跡を辿って立ち寄った矢の音633mにはそこはかとない渋い魅力を感じ、その先をいつか歩いてみたいと思った。もう16年前のこと。

 もう一つこのあたりに心ひかれる理由は、以前、山書蒐集・研究に熱心だった頃に心ひかれていた高畑棟材という人物が後半生隠棲した栃谷の近くだからである。高畠棟材は『東京附近の山々』『奥秩父と其附近』(共に1931年 朋文堂)といったガイドブックのほかに『行雲とともに』(1934年 朋文堂)や『山麓通信』(1936年 昭森社)といった著作を持つ、大正から昭和初期にかけてのいわゆる静観派、低山趣味の鼓吹者の一人。その評伝としては『行く雲のごとく ―高畑棟材伝』(浅野孝一 1999年 山と渓谷社)がある。渋い、良い本である。

 静観派、低山趣味とは今の私自身にほかならない。いや、今にしてみると、結局若いころから私は本質的にそうだったのだと思えなくもない。ともあれ、結果的に陣馬山を結節点として、栃谷をめぐる矢の音の先の稜線と一ノ尾根を結ぶ陽だまりの尾根を歩くことにしたのである。

 

 藤野駅に降り立ち、10:35に歩きだす。

  ↓ 登山口近く のどかな風情

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トンネルを越え、登山口近くまで行くと、道端に一人の年配の登山者が座り込んで地元のおばさんたちと話をしている。「山の上で道がなくなって、仕方がないから下りてきた」「まっすぐに道はあるよ。そのまま行けば明王峠まで行けるよ」「いや、大沢ノ頭という標識の先で道はなくなっているんだ」との会話。ほんまかいなと思いつつ、すぐ先の登山口の標識から登り始める。日当たりの良い尾根上の畑の脇、気持の良い雑木林の中を路は登って行く。一時間足らずで大沢ノ頭と書かれた杭がある。ここかと思うが、その先も特に路がわかりにくいということもなく、5分ほどでイタドリ沢ノ頭505.8mの標識(11:50)。

  ↓ イタドリ沢ノ頭

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ここは奈良本山ともいうらしいが、特に山頂という感じはしない。三方は植林帯だが、北面だけ開けて、陣馬山から笹尾根方面が木の間越しに見える。全体を通して植林と自然林の割合は5:5ないし6:4といったところだが、やはり楢を中心とする広葉樹のあるところは気分が良い。葉はほとんど落ちて明るい。また地図には出ていないよく踏まれた路もが数多く分岐している。

  ↓ 途中から陣馬山方面をのぞむ

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  ↓ こんな感じ 陽だまりハイキングです

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 矢の音(ヤノネと読むのかヤノオトと読むのか不明)は16年振りの再訪となるが、気象観測の装置が設置されていたり、藤野15山とやらの標識があったりして、少々記憶と違う(12:40)。ここで昼食、小休止。コンビニ弁当も美味しくいただける。

  ↓ 矢の音山頂

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 明王峠への中間の鞍部には車道が上がって来ていて、3台駐車してあった。そう新しいものではないが、はて16年前にはこの車道はあったのだろうか。記憶にない。明王峠からはさすがにメインルートとあって、立派な道となり、行き交う登山者も多い。平日の昼間、こうして来ているのは時間と余裕のある(中)高年の人が多い。まあそれは悪い事ではないだろう。

 ↓ 普通は暗い植林帯だが、斜光線を受けてこんな木漏れ日の抽象模様を描くこともある。

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 陣馬山山頂着14:10。快晴の360度の大展望が素晴らしい。てっぺんには例のコンクリート製ペンキ塗り(?)のモダニズム彫刻風の白馬が建っている。ロクでもない代物と思っていたが、こうしてみると意外にも妙に雰囲気とマッチしている。人の感性などあてにならぬものだ。それよりも頂上付近には3軒の茶店があり、それぞれがベンチとテーブルを並べてスペースを主張しており、どこが山頂と言うべきスペースなのかよくわからない状態。まあ良いか。ここは一般大衆の山なのだ。しかし陣馬山でこうだったら高尾山山頂はどうなっているのだろう。やはり私が行くべき山ではないだろうと思う。

  ↓ 「陣馬」ではなく「陣場」という説もあるが、白馬です。

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 頂上滞在もそこそこに下山路の一ノ尾根を辿る。なだらかで歩きやすい路。人出も絶えて、麓まで一人も出会わぬ静かな山路を堪能した。

  ↓ 一年で最も日が短い日のやわらかな西陽と落葉

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 バス亭に至れば待つほどの事もなくやって来たバスに乗り、藤野駅へ。このあたりに来ることは、正直言ってもう無さそうであるが、今回訪れることのなかった栃谷にだけは一度行ってみたい気はある。いくつかの地図上の赤線の切れ目をつなげるためのルートは考えられるが、さて。

                         (2015.12.23記)

 コースタイム藤野駅発10:35~登山口10:55~大沢ノ頭477m11:45~イタドリ沢ノ頭(奈良本山)505.8m11:50~矢の音633m12:40~明王峠13:23~陣馬山857m14:10~落合16:50

通り矢尾根から三室山を越えて青梅・吉野街道に友人の個展を見に行った。(2015.12.6)

 

 古い知り合いの、30代の予備校講師時代の同僚だったS君から個展の案内状が届いた。場所はと見れば、青梅の吉野街道沿い、uoriというギャラリー。ずいぶん辺鄙なところで、と思う。会期は12月6日から20日までの土日のみ、5日間とこれまた妙にイレギュラーな会期である。

 彼との付き合いでは、最近までの20年ほど空白期間があったため、その作品を見たことがまだなかった。案内状の作品図版はなかなか良さそうな絵だ。これは行かずばなるまいとは思うものの、場所的に少々面倒くさい(失礼)。ドライブがてら女房と車でとも思ったが、展覧会前で忙しそう。とりあえず場所はと、地図を眺めているうちに、通り矢尾根のすぐ先であることに気づいた。

 通り矢尾根は、御岳山から東に延びる尾根が日の出山で二つに分かれ、東北東の三室山から南東に向きをかえ、肝要峠をへて日の出町萱窪まで伸びる稜線のうち、三室山から萱窪までの間を言う。以前、その末端部分をほんの少しだけ、散歩として歩いたことがある。登山ルートとしては二三のガイドブックや「新ハイキング」などに取り上げられているのを見たことがあるが、要するにマイナーな里山ルートである。ほんの少し気にはなるが、さりとて気合いを入れて計画するようなところでもない。このままいけば行かずじまいで終わる可能性が高い。そう思うと、これも縁だろうと、個展を見に行くために山歩きをしてみる気になった。妙な理由だが、こういうこともある。

 短いルートなので、無理に早起きする必要はない。ブランチ後、女房に車で送ってもらう。梅ヶ谷峠への途中、水口集落で降ろしてもらい、歩きはじめる。数軒の人家が終り、古い馬頭観音を右に見て進めば、あっというまで出発点の小さな峠、楢山路峠(馬坂峠)である。

  ↓ 最奥の人家の先に進む。

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  ↓ 峠手前にたたずむ馬頭観音。年記は読めず。

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  ↓ ちんまりとした楢山路峠峠を見上げる

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 何年か前の散歩のおりは萱窪から歩き、ここまで来て、反対側の岩井に降りたのだ。手前には手持ちの2.5万図(平成2年発行:現地調査平成元年)には出ていない、田の入林道(岩井―長井)と記された林道が走っている。この林道は尾根と並行し、終始見え隠れしながら二三か所で尾根を乗り越え、上部で別の林道と合流し、ずっと先まで延びているようだった。帰宅後「地理院地図」のサイトで見てみたら、この25年で驚くほど多くの林道が延びているのがわかり、驚く。もしそのことを事前に知っていたら、歩く価値なしと判断して、おそらく行かなかったのではないかと思う。林道のことはともかくとしても、やはり地図は新しい方が良い。

 峠から尾根に乗る取り付きは急だったが、すぐになだらかな尾根上に出る。そこからはいかにも里山といった風情の踏み跡が続く。杉檜の植林帯を主とした中に常緑の広葉樹がまじり、ときおり色づいた落葉樹が点在する。小楢などは黄葉の盛りだ。

  ↓ こんな感じ

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 登り始めの楢山路峠から三室山をへて下山するまでの全工程、2.5万図には一切の地名が記されていない。またルート中に登山用の標識等は全くといっていいほど無いため(林道関係の表示はある)、現在地の把握が難しい。さらに里山ゆえの仕事道があちこちに通じているが、基本的に主稜線を辿れば問題はない。林道の存在もあまり気にならない。結果として、コース全体を通して微妙な変化があり、意外に面白い。むろん、しみじみとした、渋い面白さではあるが。

 細尾山457mとおぼしきピークには山名の標識はなく、山の神の祠が一つ少し傾いて佇んでいた。途中尾根を林道が横切っているところでは登山者のことなど一切顧慮されず、古い山路は寸断され、向こう側とのつながりがわからなくなっている。落ち着いて良く見ればすぐに見いだせるが。

  ↓ たぶん細尾山山頂

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 肝要峠(間坂-まさか-峠との手書きの表示あり)にも林道が通じていた。その後も左手、木の間越しに見える馬頭刈尾根やスルギ尾根、またところどころに点綴された黄葉を愛でながら、三室山646.9mに着いた。御岳方面は暗い植林帯、琴平神社方面は色づいた広葉樹の林となっている。

  ↓ 三室山山頂。ザックが寄りかかっているのは三等三角点

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  ↓ 山頂から琴平神社方面への尾根を見る。f:id:sosaian:20151207231528j:plain

 三室山は別名マルドッケとも言う。ドッケ(トッケ)は朝鮮起源の地名。三つ峠をはじめとして甲武相にはあちこちに見出すことができる。マル、モリもまた朝鮮起源である場合もあるが、このマルドッケの場合は形体的な「丸」で良いと思う。(参考『日本山岳伝承の謎』『「モリ」地名と金属伝承』谷有二 共に未来社

 琴平神社に向かう道は、通り矢尾根のそれに比べれば、まさにマイナールートとメインストリートの違いがある。琴平神社には大正三年の年記の記された、弁慶と牛若丸の絵馬というか額が奉納されていた。絵具の剥落した部分もあるが、ちょっと変わった味の絵馬である。そこから40分ほどで車の行きかう吉野街道に出た。

 ↓ 琴平神社に奉納されていた絵馬。暗いときのピント合わせのやり方がわからなくてう まく撮れない。

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 20分ほど歩き、ようやく今日の目的地(?)uoriに着いた。初めて見るS君の作品は混合技法で描かれた、小品ばかりだが、なかなか良い作品であった。そして当然のようにして一杯二杯とささやかに宴会は盛り上がったのだった。 

                         (記 2015.12.7)

 ↓ S君の個展のDM。20日までやってます。

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コースタイム】水口12:00~楢山路峠(馬坂峠)12:25~細尾山(?)457m13:33~肝要峠(間坂峠)14:10~三室山15:15~琴平神社15:40~吉野街道14:20

風(邪)とともに九州・四国・中国の山旅(黒岳・高縄山・文殊山~源明山) その-2

11月24日(火)晴れ時々曇り

 本日の予定として、私は臼杵から八幡浜経由、松山に夕方着くために昼頃には日向に行かなければならない。K澤夫妻は夜7時過ぎの飛行機。午前中、高千穂峡に行くことにした。ちなみに私は高千穂峡というから当然高千穂の峰があるところだと思っていたら、全然方角が違っていた。いかに何も調べずに来たかということだ。

 出勤前のT辺君に大規模林道入口まで、お見送りを受ける。途中のビューポイントで諸塚村を見下ろす。「日本のマチュピチュ」という言われ方もあるそうだが、高所集落という意味では、マチュピチュの標高は2430mだが、多少は言えている。それはそれとして、なんともしみじみと胸に沁み込むような景観である。日本だ…。

  ↓ 日本のマチュピチュ諸塚村

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 国道なみの大規模林道をはじめとする数多くの林道は山中、山上を縦横に走っており、それを快適に利用させてもらっていると、なんとも複雑な気持ちになる。正直に言えば、私のこれまでの林道観を、多少は修正する必要も感じたところもある。

 

 高千穂峡は言うまでもない有名観光地。連休明けとは言え、それなりの人出。お約束通りボートに乗る。K澤はカヌーはやったことがあるが手漕ぎボートは初めてとかで、オールを逆に漕ごうとする。こんな人は初めて見た。見かねて漕ぎ手交替。狭いトロ場は多くのボートで混雑しており、少々苦労した。ともあれ景観は素晴らしい。つい二カ月前グランドキャニオンとヨセミテ渓谷を見てきた身ではあるが、比較するのは野暮というもの。日本的な小ぢんまりとした、繊細で美しいゴルジュだった。玄武岩の柱状節理の間を穿って続くゴルジュはかつて八代ドッペル登高会がゴムボートなどを使って完全遡行したところというおぼろげな記憶があるが、はたしてここであったか、別の沢だったか、自信はない。

  ↓ 高千穂峡入口のトロ

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  ↓ 橋の上から

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 その後、高千穂峡沿いの遊歩道を高千穂神社まで少し歩く。規模は小さくなるがゴルジュは続いている。ゴルジュの底をザイルに引かれながら遡行したら楽しいだろうなと、ふと昔を思い出す。

  ↓ 上流部

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 その後、日向駅まで送ってもらい、以後、臼杵からフェリーで八幡浜港、JRで松山と向かった。松山駅で迎えに来てくれた従兄弟Sと48年振りに再会。Sは母方の実家の長男で私と同い年。誕生日も一日違い。小学校以来である。久闊を叙し、一夜一献、その後のそれぞれの人生等を語り合い、話は尽きなかった。

  ↓ 曇天の内海

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11月25日(水)曇り

 朝9時にSにホテルに迎えに来てもらう。昨夜久しぶりの邂逅をはたし、今日は一人で近くの山を登るか、美術館にでも行こうかと思っていたのだが、一日休みをとって付き合ってくれるとの由。ありがたいことである。しかもSはその職業がら(元陸上自衛隊)もあって、ひところはよく山登りをしていたとのこと。夕方のフェリーの時間もあるので、そう時間はとれない。彼の自宅の近くの高縄山986mに登ることにした。

 前夜高縄山の資料を渡しておいたのだが、それを読んでか読まずか、横谷から林道に入る。一般には北条側の院内かまたは松山側の幸次ヶ峠から登るようだが、地元在住、しかも何回か登っている(ただし十数年前)とのことで、何の心配もしていなかった。高縄山についても場所と時間などから決めただけで、私としては特に何のイメージも持っていなかった。

 503m地点の近くに車をデポ(10:05)。そばで電線の工事をしている。すぐ先にある甲森塚の標識の所から山道に入る。高縄山の西に延びる尾根を辿ることになるが、地図に破線は記されていない。あまり歩かれていないようだが、それなりに道形は残っている。しばらく歩くとまた電線の工事をしている。聞けばこの先頂上までの尾根上でずっと送電線の工事をしているとのこと。なんだかなあと思うが、まあ仕方がない。

  ↓ こんな感じ

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 展望のほとんど無い植林帯にところどころに雑木が混じるといった尾根上の道形は次第に怪しくなり、途中古い林道を横切ったあたりからはほぼ廃道化していた。しかし基本的には尾根を辿ればよいだけで、藪こぎというほどのこともなく、なんとか進める。要所要所に先の電線工事の現場がある。良い(?)道しるべともなり、工事の人達の踏み跡にも助けられた観もある。

 2時間ほど登ったあたりで急に良い登山道に出た。院内からのルートに合流したようだ。落葉した広葉樹の自然林の気持の良い路である。

  ↓ こんな感じ

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 しかしそれも15分ほどで、あっという間に舗装された林道の通る峠に着いた。そこからは完全に舗装された道を辿ればすぐに頂上である(11:40)。しかし頂上とは言ってもそこには巨大な通信施設がそびえ立っており、しかもヴォ~ンという大きな音を出し続けている。その脇に申し訳なさそうに神社がある。かたわらにある展望台に上がってみるが、今にも降り出しそうな空模様で、あまり展望も効かない。残念ながら今までに登った山頂の中でもほぼ最悪の山頂である。どこかのサイトで「愛媛の名峰」とかあったが、さすがにこれでは名峰とは言えないだろう。しかしまあ、これが私にとって初めての四国の山、しかも48年振りに再会した従兄弟とともに登った山とあれば、若干の感慨は禁じえない。

 時間のこともあり、早々に山頂を去る。舗装された林道を歩き、13:30に車デポに着いた。

  ↓ 右後方が巨大送信施設

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  その後、三津浜港まで送ってもらい、フェリーにで周防大島に向かう。美しき内海の多島海。是非晴れた日に見たかったが、残念ながら曇天。またこの航路をゆくことがあるだろうか。Sと共に彼の、同時に私の母の実家でもあったあの懐かしい山里の家にもう一度行ってみることがあるだろうか。缶ビール片手に僅かな旅情にひたる。

 その夜は周防大島のD荘別館なる宿に泊まる。ここがまた笑ってしまうくらいなかなかな宿だった。一つだけ記せば本館にある風呂に入ったのだが、その名が何と「演歌の湯」。文字通りコテコテの演歌が流れ続けていた。演歌の作詞家として有名な星野哲郎の出身地だからだろうが、演歌が流れ続ける温泉というのはさすがに初めてだ。何にしてもこれを最後にしたいものだと心底思った。

 

11月26日(木)曇りのち晴れ

 宿近くの東瀬戸バス停から乗り、すぐ先の三蒲バス亭で降りる(8:05)。文殊山とおぼしき方角へ車道を進む。

 ↓ 文殊山方面。いかにも西日本的景観。

 

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 棚田、蜜柑畑、点在する民家をゆっくりと愛でながら一時間少々で文殊堂に着く(9:30)。日本三大文殊の一つとあっても何のことやら良くわからないが、黄葉した銀杏の傍らに佇む堂宇の姿は好ましい。

 ↓ 文殊堂。左には海が見える。右の道を行く。

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 右側に延びる道を入ったすぐ先に登山道が合流する。やはり生まれ育った西日本南日本風の林相は懐かしい。歩きやすい山道を辿れば一時間足らずであっけなく文殊山山頂662mに着いた(10:20)。

 周防大島(正式名は屋代島)は「日本のハワイ」、その文殊山や嘉納山、源明山などの山々は「瀬戸内アルプス」と言われているというのを今回初めて知った。前者はここの温暖な風土と、かつてこの地からハワイに多くの移民が行ったという事実に拠るものでまあ納得できなくもないが、後者となると少々首をひねらざるをえない。しかし、気持としてはわからなくもない。昔は聞いた事がないから最近の観光上の命名ではあろうが。記紀源氏物語にもここのことに触れた記述が記されているというから、本当はずいぶん由緒ある島なのである。

 山頂は360度の大展望。傍らにまた立派な展望台が建っているが、無意味、有害でしかない。無い方がよっぽど良いのに。

↓ 文殊山山頂。360度の大展望。

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 ↓ 海峡と大島大橋。対岸の左のピークは琴石山。何年か前に登った。

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 休んでいると風が冷たく、強い。年配の夫婦が登って来た。この日会った唯一の登山者である。文殊堂まで車で来て、源明山まで往復するとのこと。元気なものである。

 嘉納山684.9mへの道は初め林道状のところを行ったりするが、すぐに山道となる。植林帯と照葉樹林を主とする自然林が交互する道は歩きやすく、気持が良い。ところどころ海を見ることのできるところがある。天候も次第に回復しつつあり、多くの島が点在する内海の風情は何とも言えない味わいがある。低い容易な山ばかりだが、九州~四国~中国と続いた山旅の旅情めいたものを感じる。

 ↓ こんな感じ。針葉樹の植林帯と照葉樹林

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 嘉納山の三角点684.9mは山道の途上にポツンと存在しており、山名表示板もなにも無い。そのすぐ先の691m地点のコンクリート製の遺構の中に685mの山名表示板が立てられていた(11:25)。この八角形のコンクリート製の遺構は旧日本軍の高射砲の台座。実際に使用されたことはあったのだろうか。ここからも海と島が見える。

 ↓ 嘉納山山頂

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 通信施設の脇から源明山に向かう。途中小さな岩場から海と今夜の宿がある安下庄(あげのしょう)が見える。

 ↓ 左は嵩山。右は安下庄。

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 のんびり歩きながら最後のピーク源明山に着いた(12:45)。頂上は小広い草地で気持が良い。そばにある大きな岩の上に立てば来し方が全望できる。意外と歩いたように思える。ここには四境の役(幕末)の碑がある。それは歴史的意味もあり、碑の存在自体はかまわないのだが、総理大臣佐藤栄作の名が記されている。どうしても政治家は自分の名前を残したがるのか。

 ↓ 源明山頂上。右は四境の役の碑。

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 ともあれこれで今回の旅の山はすべて終り。あとは今夜の宿、安下庄へ下るだけだ。これまでよりもさらに気持の良い山道を下ること15分で源明峠(13:20)。

 ↓ 源明峠への山道

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 ここには舗装された林道が上がってきているが、何か素朴な道である。左右どちらでも下れるが左の、源明集落から安下庄に直接下る道を選ぶ。舗装された林道ではあるが、ほとんど車は入っていないようで、落葉に埋もれて舗装面が見えない。ときおり椿の花やムベの実が落ちている。山の中でアケビではなくムベを見たのは初めてだ。新しそうな実を拾って少し食べてみたら完熟した甘みが口中に広がった。人家が近くなるとたわわに実った蜜柑畑も出てくる。

 ↓ 源明峠からの、これでも舗装された林道 

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 探すほどの事もなく予約していたH旅館にたどり着く(14:55)。五部屋(?)ほどの小さな、素朴なたたずまいの旅館だが、呼んでも誰も出てこない。玄関には鍵がかかっている。少し早く着きすぎたかなと思い、近くを少し散歩して戻ってきてもまだ帰っていない。何気なく隣の雑貨屋で聞いてみたところ、「つい最近御主人を亡くされて云々」「しばらく休んでいたけど、もうやっているんかい」という話。「一応予約はしたんですけどねえ」、「ああ、それなら大丈夫でしょう。ちょっと買い物にでも行っているんじゃないの」。再び外に出て散歩するも、なかなか帰ってこない。「つい最近」というのはいつのことだ。ひょっとして私が予約した後のことではないだろうか。もしそうだとしたら宿泊どころではないだろう。などと悪い想像が湧きはじめ不安になりだした頃、ようやく帰って来た。一安心。感じの良い宿であった。

 その夜は高校山岳部時代の女子の後輩と一献。旧交を温めると同時に、お決まりの老後の話やら健康の話になったのは当然のこととはいえ、お互い歳をとったということである。

 

11月27日(金)晴れ

 帰る日。

 海沿いを走るバスからの展望を楽しむ。わざわざ大島大橋手前でバスを降り、橋を歩いて渡る。冬型の気圧配置となり、快晴だが、風が非常に強く、寒い。この橋ができたのは1976年というから、すでに私が東京で暮らしはじめていた頃である。したがって私の周防大島のイメージは、橋のかかっていない頃の、あくまでも「島」であり、「島の山」だった。それゆえのあわい憧れをずっと持ち続けてきたということなのだろう。

 ↓ 大島大橋

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 ↓ ――― 旅の終わりの鷗鳥 浮きつつ遠くなりにけるかも(三好達治

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 大畠駅まで歩き、JRと新幹線を乗り継いで、夕方帰宅。新幹線から見た富士山と愛鷹山が実に美しかった。来年は愛鷹山にぜひ登りたいと思った。

 

 結局、五泊六日、九州、四国、中国地方の山と人を巡る旅は予定通り完遂した。風邪は悪化もしなかったが、良くもならなかった。その点からも、よくも計画の変更やら縮小やらしなかったものだ。我ながら珍しい。今回は行程の半ばは一人旅ではなかったが、こうしたスタイルの山旅に必要で、私の最も苦手とする、社会的技術というものがある。今回の旅ではそのへんのところで、多少なりとも今後に活かせる体験をしたようにも思う。これを機に、国内の一人山旅の幅を広げる試みもしてみたいものである。

 なお帰宅後四日たった今日も、風邪はまだ治っていない。

                          (2015.12.1)

風(邪)とともに九州・四国・中国の山旅(諸塚・黒岳 伊予北条・高縄山 周防大島・文殊山~源明山) その-1

 今年七月、甲州小菅に遊び、一夜、K澤夫妻、H川夫妻と飲んだ。その時に出た話が今回の旅の発端である。

 K澤、H川と同様に、私が大学教員時代の一時期顧問をしていたサークルの数少ないメンバーだった一人に、T辺君がいた。東京生まれの東京育ちににもかかわらず、何を思ってか田舎好き。願いかなって現在、九州宮崎の諸塚村に暮らしている。はっきり言って相当な遠方僻地である。

 山口県出身の私にとって若いころ九州は近くであり、何度か行った。最後に行ったのは42年前、高卒後浪人が決まった春、上京前に英彦山、万年山、九重山と一人ヒッチハイクで回って登ったのが最後である。以来、九州は遠い処であった。

 旅好きでのくせに、フットワークの悪さはつとに自覚してきたところ。それがこうして若い連中などと付き合い始め、またいつの間にやらインターネットをおぼつかなくも何とか多少は使えるようになると、最も苦手としてきた時刻表関係やら、宿の予約などがある程度はできるようになってきた。今回、K澤夫妻は仕事の都合上往復飛行機利用の二泊三日だが、それだけではもったいない。地図を見れば九州から四国へはフェリーがある。四国松山からは周防大島へもフェリーの航路がかろやかな曲線を描いている。この際、かねてよりの懸案であった四国松山の従兄弟に48年振りに会うことと、長い間淡い憧憬の対象であった周防大島の山を組み合わせることにした。周防大島にも高校山岳部時代の後輩が一人住んでいる。ただし、計画を全うする自信はない。予定変更、縮小、中退、日和見はお手の物。したがって宿を予約することは、言って見れば退路を断つことにもなるが、その分、気も重い。おまけに何の因果か出発二日前に風邪をひき始めた。さすがに今さらやめるわけにもいかず、必死に回復を図るも、さて・・・。

 

11月22日(日)曇り

 未明4:30にK澤夫妻が車で迎えに来る。羽田発6:50。宮崎空港8:40着。さすがに早い。

 たまたま宮崎市内に用事で来ていたT辺君とすぐに合流。その用事の、諸塚の各地の神楽の写真展を一緒に見る。そう言えば神楽というものはまだ見たことがない。考えて見ればここは本場だ。それ以上に、宮崎のことは何も知らずにこうして来てしまっている。まあ旅の動機は「まだ行ったことがないから」だけでも十分なのかもしれないが。

 その後、諸塚に向かう途中で、尾鈴山瀑布群の一つ「矢研の滝」を見に寄り道をする。尾鈴山は私としては今回の山旅の最大の候補地だったのだが、日程上あっさりと却下。代わりに、というわけでもないが、その麓にある「矢研の滝」見物となったのである。尾鈴山は同じ宮崎の市房山とともに、沢登りの対象として遠く憧れていたこともあった。また若山牧水の短歌を通じて好ましく思っていた山でもある。憧れはしても結局登ることのない山は無数にある。しかしそうした対象をたくさん持っているということは、決して悪いことではないだろう。

 キャンプ場から矢研谷沿いの、いかにも南日本的な山道を25分ほど歩くと、垂直に水を落とす矢研の滝の手前の流れに至る。遊歩道はここまで。右岸を思い切ってへつるか、素直に渡渉すれば直下まで行けるが、素人のK婦人もいることだし、風邪っぴきの晩秋の今、わざわざ濡れるのもなんだしということで、距離を置いて鑑賞する。端正で豪快な美しい滝。

 ↓ 南日本的山道

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 ↓ 矢研の滝

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 その後、諸塚村に向かい、標高410mの山腹に位置する古民家宿泊施設「桜のつぼね」に着いた。谷が大きいせいか、実際の標高以上の高地集落のように感じられる。福岡から来た、やはり同じサークルだったT君が待っていた。その夜は囲炉裏端で宴会。

 

11月23日(月)曇り

 前夜、検討の結果、諸塚村の最高峰である黒岳1455mに登ることになった。予想では村の名を冠した諸塚山1342mになるだろうと思っていたので、事前に資料にはざっと目を通してきたものの、地図も持ってきていない。しかしまあ何度か登っているT辺君がガイドなので問題はない。

 朝8時ごろ出発。林道を延々とゆく。聞けばこの諸塚村は日本で最も林道密度が高い所だとのこと。ふだん林道と聞くだけで拒否反応を起こしがちな私ではあるが、この平地がきわめて少ない過疎地での現実を見ると、納得せざるをえない。耕作可能なわずかな平地を求めれば、住居よりもさらに高い所に行くしかない土地なのだ。車と林道は人々の生活に不可欠である。

 柳原川沿いを下り、耳川本流から吐川沿いに遡り、七ツ山川から小原井川と名前を変える谷筋をひたすら遡る。辿り着いた広い登山口は標高1250mだから頂上までの標高差はたった100m少々。少々釈然としないが、これが現実だからしかたがない。実際、麓からの登山道というか、昔からの山道は、この山に限らずほとんど残っていないとのこと。ガイドブックを見ても確かにこのあたりの山域はそういう状況らしい。複雑な気持ちはあるが、ともあれ出発する(9:15)。簡易舗装の植林帯をへて間もなく広葉樹帯となり、ほどなく黒岳神社へのコルに辿り着く。右の岩場の祠が黒岳神社。毎年地元の人は初詣に来られるとの由。その先の展望台が黒ダキ。この辺りでは大きな岩場、岩峰などをダキと称する。晴れていれば大展望らしいが、見渡す限りの雲海。遠く諸塚山、大仁田山などだけがその頭を出していた。なまじの展望よりもこの雲海を見れたことを幸運に思うべきだろう。

 ↓ 黒ダキ手前の岩場 長靴のT辺ガイドと地下足袋のK夫人

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 ↓ 黒ダキにて。雲海に浮かぶのは大仁田山

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 いったん先ほどのコルまで戻り、左の山道を辿る。途中右手前方にニクダキ、カゴダキへと続く稜線が見えるところがある。

 ↓ 前方右がニクダキとカゴダキ

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 笹や橅なども混じる頂稜の樹林帯を行けばあっという間に黒岳山頂(10:10)。まあ、何といっても初めての宮崎の山である。それなりの感慨はある。広い山頂でゆっくりと休む。

 ↓ 黒岳山頂

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 下山は少し戻った分岐からいったんカゴダキに向かう。一部、鹿除けのフェンスが張り巡らされており、それがないところではバッサリと笹をはじめとするほとんどの下草が食いつくされている。景色としてはさっぱりするが、やはり複雑である。ニクダキ、カゴダキあたりは石灰岩の露頭と橅や楢などの落葉した広葉樹が相まって気分の良い所だ。

 ↓ カゴタキ付近 鹿に食われて下草がない 

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 ↓ カゴタキの小岩峰 

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 カゴダキの小岩峰から引き返し、途中から山腹を巻く道に入る。やがて黒岳神社のコルの上で来た道と合流し、登山口に戻る(12:00)。登山としては標高の割にいささかもったいないというか、欲求不満の感はあるが、林道ドライブも含めて考えるとこれはこれで面白くなくもない。

 

 その後福岡に戻るT君と別れ、美郷町の南郷温泉「山霧」で一浴。さらにそのすぐそばにある「西の正倉院」と「百済の館」という博物館(?)を見た。

 ↓ 「西の正倉院

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 西の正倉院は「奈良正倉院の御物(ぎょぶつ)と同一品といわれる銅鏡を含む、貴重な文化財が存在することから計画されたもの」で、「宮内庁の協力、奈良国立文化財研究所の学術支援、さらに建設大臣の特別許可などにより、門外不出とされていた正倉院原図を元に(中略)忠実に再建された」とのこと(宮崎県美郷町公式サイト http://www.town.miyazaki-misato.lg.jp/2549.htm)。ウィキペディアでは「細部まで忠実に再現されている」とある。しかし内部を見ると当時は存在しなかった鉋(ひょっとしたら電動鉋?)の仕上げとしか見えなかった印象がある。材を提供した勝野木材のHP(株式会社勝野木材 http://www.katsuno-wood.com/jinja/01f.html )によれば「表面の見え掛かり部分は槍鉋仕上げにしました」とあり、つまり「忠実に再建された」とは言えないと思うのであるが。これが例えば「構造面では忠実に再建された」とあればあまり気にならないところだが、少々気に食わない。小さなことかもしれないが、文化の記述としては大事なことだ。

 まあ、かつて長く村長を務めていた人物の引退記念のハコモノ行政とかいうささやきも地元の声として聞こえてきたから、ある程度のことは仕方がないだろうが。中身は銅鏡と地元の神社から出た三十六歌仙の板絵が中心。悪くはないが、やはり渋すぎ、地味すぎる。ただし百済滅亡後に王族が当地に亡命してきたという伝承に基づく「師走祭り」の動画はなかなか興味深かった。

 百済の館も上記の伝承からの関連だろうが、展示物のほとんどがレプリカなのは残念。まあ両者ともにおそらく正規の博物館ではなさそうだからやむをえないかもしれないが、もう少し素朴な見せ方の方が良かったのではないかと思う。

 ともあれ、かくして登山、林道ドライブ、温泉、博物館(?)とそれなりに充実した一日であった。

 

山行記-9 快晴の本社ヶ丸に登ってきた (2015.11.5)

 

 しばらく間が空いた。7月下旬の奈良倉山のあと、9月下旬にグランドキャニオンとヨセミテを歩いたが、それは「トレイル歩き」であって、今思い返してみても「山登り」をしたという気がしない。もちろん、それはそれで素晴らしい体験ではあったが。10月には何度も行こうと思ったのだが、都合やら気分やらで、延期につぐ延期。やはり核心部はいつも出発するまでである。

 

 ともあれ、例によって浅い4時間睡眠で家を出る。平日の河口湖駅から天下茶屋行きのバスには10名ほどの(中)高年ハイカーが乗っていたが、全員三つ峠登山道入り口で下車。天下茶屋からは素晴らしい富士山が見える。まるで絵葉書のよう。太宰ならずとも、少々ケチをつけたくなる気がしないでもない。茶屋の人達も出てきて、盛んに感嘆している。こんなにきれいに見えるのは一年でそう何度もないとの由。九合目あたりから上は多少冠雪しており、夏の黒富士の鈍重さに比べれば確かに絵になっている。

  ↓ フジヤマ 左からの一条の雲が効いている。(クリックすると拡大します。)

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 実は今回のコース設定では悩んだ。というのはこのルートであれば、本来は逆コースの笹子から登るべきなのだ。笹子駅の標高は602.8m。今回の最高地点の本社ヶ丸山頂が1630.8mだから標高差は1028m。天下茶屋からだと標高差は330m。その差は698m。時間で言えば2時間違う。この差は大きい。私は、山登りとは本来下から登るものだから、なるべく標高の低いところから登り始めるべきだと思っている。ヨセミテのトレイルでも感じたことだが、上からゆっくり下るだけというルート設定は、その途中の行程がどれだけ快適なものであろうと、なにかズルというかカンニングをしているような気がしてしかたがない。必ずしも労多い方がエライとも思わないが、やはりその後の達成感というか、納得感というか、満足度が違う。しかしアメリカではあれほど早寝早起きが苦にならなかったのに、日本に帰ればあっという間に逆戻りの生活で、覚悟の上とは言いながらやはり寝不足山行は辛い。それでなくても日帰りで標高差1000mというのは少々きつい。危険でもある。おまけに中三カ月空いたとなれば、この際、背に腹はかえられぬ。いっそのこともっと楽な山に変更しようかとも思ったが、この山は昨年の同時期に隣の鶴ヶ鳥屋山に登ってすっかり気に入って以来、どうしても今年中に登りたかった山なのである。ということで、天下茶屋からのコースに決定。今後もこうした、少しでも楽なコース設定というのが増えてくるかもしれないが、まあそれも仕方がないだろう。

 

 そうなればやはり20分で主稜線というのは楽だ。登り始めに多少のモミジの紅葉はあったが、時期は少し遅かったようで、稜線付近の橅などはすでに落葉している。多少の高低差はあるが、ゆるやかな登り下りを繰り返し、八丁山とおぼしきピークを過ぎて、清八山1593mに12:55着。ここは展望が開け、まことに気持が良い。目の前のどっしりと暖かい御坂山、黒岳、釈迦ヶ岳の御坂山塊から、玲瓏の南アルプス、水晶細工のような八ヶ岳、茫洋と重厚な奥秩父、遠く白く輝く北アルプスまでの大展望。こんなに展望に恵まれたのも久しぶりだ。ただし富士山には早くも雲がかかり始めている。

  ↓ こんな感じ。

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  ↓ 左手前、御坂山、その奥、黒岳。右の三角形が釈迦ヶ岳。遠景は南アルプス

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 ↓ まさに金字塔、甲斐駒ケ岳

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 ↓ 八ヶ岳ダ・ヴィンチの言う空気遠近法が納得できる。

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 27年前に歩いたはずの清八峠(むろん何も覚えていない)を通過し、本社ヶ丸へ向かう。すぐそこと思えば、小さな登り降りを繰り返し、意外に遠い。30分以上かかってようやく山頂へ13:25。岩混じりのすっきりとした山頂だ。ここも360°の大展望。人っ子一人いない。満足である。久々の山頂らしい山頂を堪能した。

  ↓ 頂上手前で休んでいたおじいさん(?)二人連れ。この日会った唯一の登山者。

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  ↓ 頂上。例によって「秀麗富士」の看板が不要。

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 あとは楽しみにしている角研山までの山稜だ。昨年行った鶴ヶ鳥屋山への稜線のように痩せた岩稜まじりかと予想していたが、むしろ穏やかな気持ちの良い尾根道である。葉の落ちた明るい橅の樹林帯をのんびりと進む。

  ↓ こんな感じ。

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 角研山着14:38。ここまで来ればあとはもう見えてきた。急に痩せてきた岩場混じりの尾根道を辿り、笹子への分岐を確認して、下り始める。疲れも出てきた。落葉に埋まった山道をゆっくりと下る。林道を横切り、下るほどに紅葉が増えてくる。光線の具合が今一つなのが残念だが、条件が良ければ素晴らしいだろう。やがて船橋沢に降り着き、二三回の渡渉を交え沢沿いの道を辿れば、自然に笹子駅に導かれた。

 かくて今年の宿願(?)の一つであった本社ヶ丸を登ることができた。河口湖周辺、あるいは笹子周辺はなぜかけっこう好みなのである。まだいくつか課題が残っているが、また来年も何回か行くつもりだ。

  ↓ 紅葉 黄葉

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   ↓ 稜線上でみかけた、たぶん鹿の齧った痕。ちょっと前衛書道風。

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コースタイム天下茶屋10:25~主稜線10:45~八丁山11:55~清八山1593m12:55~本社ヶ丸1630.8m13:25~角研山14:38~笹子への分岐15:00~船橋沢16:00~笹子駅16:25(2015.11.5)