艸砦庵だより

河村正之のページ 絵画・美術、本、山、旅、etc・・・

石仏探訪-20 「人頭杖-その1 地蔵堂廃寺跡を確認しに時坂峠へ」

 石仏に興味がなかった頃に浅間嶺時坂峠で撮った不思議な一枚の写真が、手元に残っていた。頭だけが二つ並んだ石仏。

 

 ↓ 時坂峠の「道祖神」?人頭杖? 

 2014年10月9日撮影。ガラケーで撮った、夕暮れ時の逆光の写真なので、見づらい。刻字等は見当たらない。

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 ↓ 同上。

 地蔵(宝珠錫杖 浮彫立像 舟形光背 刻字があるようにも見えるが風化激しく読めず)と、右の御堂の一部が写っている。

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 だいぶたってから思い出し、調べてみると、『檜原の石仏 第二集』(昭和48年 檜原村教育委員会)には道祖神とあった。道祖神といえば、自然石から双体像まで様々な形と、多様な信仰形態をもっている。だが、この双頭像が道祖神とは思えない。

 その後読み終えた『日本石仏事典 第二版』の最後の方の一頁に、それと酷似した像が出ていた。「人頭杖(じんとうじょう)、または檀拏幢(だんだとう)ともいう」とある。さらに隣のページに出ていた「倶生神(くしょうじん)との混同」、これでビンゴ!だ。

 詳しくは別稿に譲るとして、要は人頭杖とは、閻魔大王の関連アイテム。閻魔堂などでは閻魔やその本地としての地蔵が主役。以下、十王、司命・司録、奪衣婆等といった脇役があり、さらに倶生神、人頭杖、浄玻璃鏡、業の秤などの周辺アイテムとでワンセットである。したがって、人頭杖が単独で造られ、祀られることはない。

 つまり、この双頭像が人頭杖なら、他の脇役主役等も在ったはずで、少なくともその痕跡ぐらいは残っているのではないか。この像のある時坂峠あたりを地蔵堂廃寺跡と記した資料も見た覚えがある。「地蔵」堂なら閻魔関連もありうる。この人頭杖を写した写真には、小さな石仏(地蔵?)と御堂の一部も写っている。その御堂が地蔵堂廃寺跡なのだろうか。とにかく、もう一度現地を確認しなければ、確かなことは書けない。

 ということで、少し前(5月26日)になるが、思い立って現地確認に再々訪してみた。五日市駅前からバス30分で登り口の払沢の滝前。案外近い。峠は標高530m圏だから、標高差は300m、せいぜい1時間程度。ニ三度歩いたことのある道だが、古道の方をゆっくり観察しながら歩く。二ヶ所ほどの石仏群などを見出す。立派な裏山歩きだ。

 

 

 ↓ 古道の途中で、「落し文」を見つけた。オトシブミという甲虫が中に卵を産み付けた、食料兼用のゆりかごである。

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 ↓ 古道途中の石仏群5基。左から月待塔(二十三夜塔)万延元年/1860、庚申塔馬頭観音(文字塔)、馬頭観音(像塔)、馬頭観音(上半身のみの残欠像塔)。

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 ↓ 峠近くの民家脇の寒念仏塔と聖徳太子塔(文字塔)。

 聖徳太子は日本に仏教を導入したが、それと共に仏像建立や寺院の造立に欠かせない先端的な技術や道具も朝鮮半島から導入した。聖徳太子塔は、山仕事にかかわる職人の多かったであろう地域に多い塔である。

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 ↓ 古道の途中にあった建物。

 あるいはこれが地蔵堂廃寺跡か閻魔堂かとも思ったが、正体は不明。たぶん違う。軒下の墨書には「時坂道路改修工事寄付者名~」とあった。

*後日、消防器具類の倉庫だと判明しました。

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 ↓ 峠直下から見下ろす。右奥の遠くに小さく見えているのが檜原村で現在唯一の小中一貫教育校、檜原学園=檜原村立檜原中学校のあるあたり。かつては村全体で九つの小学校と三つの中学校があったが、現在は合わせて一校だけ。

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 時坂峠には以前と同様に、双頭像と地蔵があった。その傍らの御堂は、なんと神社だった(神社名不明)。明治の廃仏毀釈地蔵堂(仏教)から神社になったのか?

 

 

 ↓ 現在の時坂峠。

 以前と変わりないが、御堂は神社だった。三社がまとめられているが、神社名等は不明。

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 そのすぐそばの小さな平地には、石灰岩の百番供養塔と、徹底的に破壊された地蔵等の残骸があった。

 

 

 ↓ そのすぐ近くにあった石仏群。このあたりが地蔵堂廃寺跡なのだろうか。

安永3年/1774年の石灰岩の百番供養塔以外はすべて破壊されている。場所や状況から比較的最近の人為的破壊。何がどうしたんだろう。

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 『檜原村の石仏 第三集』には青面金剛立像の庚申塔1基と地蔵7体の存在も記載されているから、昭和48年以降の人為的な破壊である。痛ましいことだ。

 ともあれ、地蔵堂のあったのは(破壊された)地蔵7体の存在などからして、この峠で良いとしても、現在の神社との関係はわからない。周辺にも閻魔関係のものと思われる破片のようなものは見出せなかった。現状ではこれ以上の考察は無理だ。地元の人に話を聞いてみたかったが、かつて上から下まで9戸ほどあったはずの時坂集落では、結局人一人も見いだせなかった。

 

 観察考察を終え、往路を戻る。そのまま歩いて本宿、上元郷、下元郷の寺社、路傍の石仏群などに寄り道しながら、下元郷からバスに乗り帰宅。

 

 

 ↓ 本宿の春日神

 のぞいてみるとと、中の古い本殿まで全部見えた。なんともあけっぴろげで、風通しが良い。上がり込んで近くで見たい気もするが、通りすがりの身としては、これ以上は遠慮せずばなるまい。

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 ↓ 北秋川と南秋川に分かれる橘橋近くにあった石仏群。大きな三界万霊塔に隠れているのも含めて7基の石仏がある。

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 ↓ その石仏群の真ん中に、木祠の中に納められている。資料に記載なく、説明板等もないが、石棒(=陽根)として、金精様とか道祖神として扱われているように思われる。だが、物そのものは宝篋印塔の一番上、相輪の部分なのではないかと思うが、さてどうか。これも一言地元の人に聞けばわかると思うのだが…。

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 ↓ 吉祥寺の本堂

 檜原村全体で最も大きく、由緒あるお寺。石仏も結構ある。たまたま来合わせてご住職と少し話をしたが、三年前に京都の方から派遣されてきたので、何もわからないとのこと。残念。

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 ↓ 境内にある十六羅漢

 そう古いものではない。出来も悪くはないのだが、石仏はやはりある程度の古さがつかないと、何か落ち着かないというか、俗な感じが抜けないものだ。

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 ↓ 名号塔

 「南無阿彌陀佛」と彫られただが、実際には檜原の経済の生命線である木炭価格の交渉に江戸に行き、獄死(?あるいは処刑された?)した二名を義民として供養したもの(住職談)。郷土史関係の本でも読んだことがある。文久2年/1862年のものだが、差しさわり=お上への配慮があったのか、年記の部分が削られている。当時の檜原村の人々の生活実感のようなものが感じられる。この塔の周辺に10基ほどの石仏がまとめられている。

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 人頭杖についての考察も、派生的にずいぶん前に書き出しているのだが、長くなるので、それはまた次の稿で。

 

 

 ↓ 上元郷の日枝神社

 日枝神社と言えば山王、そして猿(神使)。左手前に共に自然石の文字塔、道祖神猿田彦安政7年とあるが万延元年/1860年)と寒念仏塔(安永2年/1773年)。道祖神猿田彦としたのは神道勢力が力を増した幕末以降のこと。奥にもう1基角柱文字塔があるが、剥落崩壊激しく、千部供養塔か「奉納山王大権現」か、判別できず。

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 ↓ むき出しの社殿には、小ぶりだが良い味の彫刻が施された古い本殿があった。この日枝神社はちょっと拾い物の感じ。

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 ↓ あてもなく対岸に渡り歩いていると、何となく気を惹かれる脇道がトンネルをくぐって伸びていいた。ふらふらとそれを辿る。

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 ↓ その小道はすぐにこの吊橋に辿り着く。ちょっと良い感じ。秋川本流の清流を見て対岸に渡れば、下元郷バス停の手前に出る。ちょっとした道草。

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 ↓ 下元郷バス停手前にも、やや乱雑に置かれた10基ほどの石仏群と葺屋があった。それらから少しだけ離れて小沢のそばに置かれていたのが、この小さな聖観音。下半は欠けているのか、無理に岩にはめ込まれているようにも思えるが、何となく心惹かれる。刻字もあり、墓標仏のようだが、風化激しく読めず。資料にも記載なし。

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(*フェイスブックに6月23日投稿済み)

「石仏探訪-19 羽村・福生の石仏探訪と水族館劇場」

(* 最近、フェイスブックへの投稿が主となり、ブログへの投稿をサボり勝ちでした。FBをやっていない人もいるので、これではいけないと反省?し、一度FBに投稿したものではありますが、時間のある時に、こちらにもコツコツと(再)投稿しますので、御了解下さい。)

 

 5月8日午後、秋川駅前の歯医者で治療。予想以上に早く終わったので、羽村に石仏探訪に向かう。羽村は近くではあるが、そこに行くことを目的として行ったことはまだない。

 羽村市の石仏に関する資料は持っていなかったが、たまたま「日本の古本屋」で注文した『羽村町の板碑・石仏 羽村町史史料集第1集』(1976年 羽村教育委員会編)が午前中に届いていた。出がけにさっと目を通し、「全く石仏がない」ということはないということだけは確認しておいた。

 行ったのは、羽村市の稲荷神社、禅林寺、聖徳神社、宗禅寺と、福生市の永昌院、神明社、長沢薬師堂と長徳寺墓地。このうち、禅林寺、宗禅寺、永昌院、長徳寺墓地には、それなりに面白いものが結構あり、楽しめた。それらの内のいくつかを紹介する。

 

 禅林寺には境内の石仏群ほか、いくつかの石仏があり、楽しめる。

 

 ↓ 禅林寺境内の石仏群。馬頭観音、地蔵、庚申塔如意輪観音、など。

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 ↓ 庚申塔青面金剛立像、一面四手、三猿。

 剥落して像容は見づらい。資料には邪鬼とあるが? 三猿のポーズが面白い。 

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 ↓ 禅林寺左奥に3基あるうちの一つ。自然石に「金龍王」。水神で良いのだろうが、「金龍王」と彫られているのは初めて見た。

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 ところでこの寺は中里介山ゆかりの寺だということを、現地に来て初めて知った。中里介山の『大菩薩峠』は文庫本で20数冊という長大でしかも未完の大作だが、完読した人はごく少ないらしい。しかし私は完読した。最初の数冊は普通に面白いのだが、それ以降は介山特有の仏教思想と相まって、何が何だかよくわからない世界に入っていき、その辺で挫折するらしい。私は意地と根性で読み通したが、結局よくわからないままである。

 宮沢賢治も連載中の「大菩薩峠」を愛読し、それに題材をとった作品も書いていた。賢治が完読できなかった「大菩薩峠」を私は完読したのだから、まあそれで良しとしようなどと、非合理的な感慨を持ったりする。

 ともあれ、そこの墓地には介山の墓もあるはずだが、墓地が少し離れて分散していたりして、結局見つけられずに諦めた。ここはもう一度来る必要があるか。

 

 次いで訪れたのは宗禅寺。ここにも「心経塔」ほか、いくつかの興味深い石仏がある。

 

 ↓ 宗禅寺境内の石仏群の一つ「心経塔」。

 この文字が刻まれた塔は珍しい。羽村にはもう一つあるそうだ。心経とは般若心経のことで、昭和30年代まで心経講があったとのことである。

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 また、それらとは別に双体道祖神があった。驚いたが、よく見るとそれは今出来のものらしく、土地の信仰民俗とは関係なさそうだ。別に阿弥陀三尊を刻んだものもあるが、表情等見ると同じ作者のもののようだ。可愛いお地蔵さんや、よくわからない新しい像が据え付けられているのもよく目にする。寄進者(?)の意識などはわからぬが、それを受け入れる寺側の見識も問われる。やはりこうしたものは、土地の歴史や宗旨などとの関係あってのものであって欲しいと思うのだが、寺には寺の言い分もあるのだろう。

 

 ↓ 双体道祖神(新しいもの)

 宗禅寺の境内には別にもう一つ似たような双体道祖神阿弥陀三尊像の石仏があるが、いずれも同一作者と思われる新しいもの。女神の髪型を見ても現代的。このような信州系の双体道祖神は多摩地区にはもともと存在しない。寄進者の意識などはわからぬが、それを受け入れる寺側の見識も問われる。やはりこうしたものは、土地の歴史や宗旨などとの関係あってのものであって欲しいと思うのだが、寺には寺の言い分もあるのだろう。

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 なお、石仏とは関係ないのだが、隣接する駐車場に大きな構築物が建てられつつある。少し前に聞いていた「水族館劇場」が舞台を作っているのだ。水族館劇場は40年以上前の伝説の(?)アングラ劇団「曲馬館」から始まり、今なおアングラの王道を走り続けている劇団。曲馬館時代、今も水族館劇場の看板女優たる千代次さんが私の幼なじみと結婚していたことから、18、9歳の頃、よく見に行った。魂が震えるような体験だった。数年前に40年数年振りでその公演を見て、感慨深いものがあった。今回もぜひ見に行こうとは思うが、このコロナ非常事態宣言下で、果たして公演できるのかどうか心配だ。

 

 ↓ 水族館劇場は大規模な仮設野外テント劇場を、一座の役者全員で建てる。劇中で大量の水を使い、火を使い、役者を空中に吊り上げ舞わせる。

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 ↓ 「Naked アントロポセンの空(うつほ)舟」のチラシ。

公演は5月14・15・16・20・21・22・23・25・26・27・28・29・30・31日。当日券のみ。

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 次いで永昌院に行く。真言宗醍醐寺三宝院派というから、修験道系のなにやら怪しげな匂いがプンプンする。倶利伽羅不動尊はや火渡り神事はともかく、昭和9年奥多摩四国八十八ヶ所霊場やら、狸魂地蔵やら、神馬やら、蚕影山(養蚕の神)やら、狛犬ならぬ龍の門(?)やらが、てんこ盛りで、クラクラしそうだ。

 

 ↓ 永昌院の木堂の一つ。左に奥多摩四国八十八ヶ所霊場の2基、右に地蔵丸彫立像、その他奉納物だろうと思われるあれやこれやで、駄菓子屋のような感じ。

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 ↓ 「狸魂地蔵」

 永昌院の木堂の一つ。今のところ正体不明。左には本物の狸の剥製が置かれていた。

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 ↓ 境内には剣を飲み込む倶利伽羅不動尊があり、入口にはこのような、上部で連結された狛犬ならぬ見事な龍の門?鳥居??が左右に建てられている。

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 永昌院を出て少し離れた加美上水公園内には、永昌院の代々の住職のものと思われる墓地があった。一瞥しただけだが、そう変わったものは無さそうだ。そばを流れる玉川上水の流れに、しばし疲れを休める。

 

 ↓ 永昌院を出て少し離れた加美上水公園内には、永昌院の代々の住職のものと思われる墓地があった。これはそこにあった地蔵だが、手前の半ば枯れた供華はともかく、身体にまといつく半ば色褪せたプラスチック製の花束(ブドウもある)が何とも言えない風情を醸し出していた。バロック?ゴシック? 思わず「ゴスバロ地蔵」という言葉が口をついて出てきた。茶化しているのではない。このありようを、どうとらえるかである。

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 ↓ 永昌院の様々な事物に当てられて(?)、クラクラした頭を冷やしてくれた玉川上水の景。このあたり、水流は澄んで、美しい。魂がこのままどこかへ運ばれてしまいそうだ。

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 長徳寺墓地は神明社、薬師堂と隣接している。その入口の左右の石仏群と地蔵堂には、石仏群は、珍しく白い土台に美しく整えられており、アートっぽい雰囲気で、一体ごとに向き合えば、なかなか味わい深いものがある。

 

 

 ↓ 長沢薬師堂そばの長徳寺墓地入口の石仏群。珍しく白い土台に美しく整えられており、アートっぽい。この右には古い六地蔵を彫った六角型の石幢のある地蔵堂もある。

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 ↓ 同石仏群の一つの庚申塔青面金剛立像一面六手。日月天、三猿、舟形。風化が進み刻字は読めないが、良い感じ。

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 ↓ 同じく自然石に彫られた文字塔。よく見ると梵字種子(バ:水天?)の下にうっすらと「水神」と読める。土台の白地、石の大きさと形状と苔の色合い、かすかな刻字とそろって、詫び寂びの極致。

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 あるブログには「羽村には石仏が全くない」と書かれていた。確かに今回歩いた範囲では路傍には見当たらなかったが、寺社をふくめて、ちゃんと見ればまだいくらでもありそうだ。多摩川べりの緑の濃さももう一つの目的として、また訪ねてみよう。 (2021.5.12 9.16投稿)

小ペン画ギャラリー16 「中断再開後の近作‐油彩転写」 

小ペン画ギャラリー16 「中断再開後の近作‐油彩転写」

 

 今年も半分過ぎ去ろうとしている。年明け以来、憑き物が落ちたように、小ペン画を描かなくなった。それまで平均して週に5、6点ぐらいは描いていたのが、一月は4点、二月0点、三月1点、四月5点、五月4点。そのぶん、タブロー(キャンバス・パネル画)を制作し(ようとし)ていたのだから、制作としては帳尻は合うのだが。

 それが六月に入ると、なぜか再び15点と増えた。小さなきっかけのようなものが無くはないのだが、たいしたことではない。描き方、技法的なところは多少の変化があるが、それらは要するに技術的・造形的なことである。それはいつだって変化していって良いのだ。

 取り組み方、といったところが、多少以前と変わった。どうも現在は、憑き物にはとりつかれていないようだ。サイズも総じて少し大きくなり、一日二日で仕上げるという性急さ(?)も影を潜めた。ゆっくりやれば良いのだ。

 もともと、同じような方法、絵柄を後生大事に繰り返す、この道一筋、というのは好きではない。繰り返しは、円熟よりも、マンネリズム・退廃に至りやすい。そして、タブロー制作、大画面の制作と、バランス良く進めること。

 

 ということで、今回紹介するのは、正月明け中断以降のもので、どれでも良いのだけど、同時期に連続して制作した5点を並べてみる。たまたまというか、本性通りというか、「くどい」と言われそうな、人物系ばかり。まあ、感じ方は人それぞれですからね。

 

 共通しているのは、油彩転写という手法を途中で用いていること。パウル・クレーが一頃使っていたやり方で、油絵具を塗った合紙をカーボン紙的に使うという、一種のモノタイプ。以前から時おりやっていた。いろいろ加減が微妙で、クレーほど緻密ではない私は、なかなか彼のようにはいかないが、まあ、似せる必要もないし。

 あまりその効果が出ているわけではないが、かえってその方が、結果として自分らしい表現に至りえているのではないかと思う。和紙の上に油絵具が乗り、その上からペンで描くのだから、当然描きにくい。その描きにくさ、不自由さが、私にとっては新たな自由への鍵にもなるのだろう。

 

 

452 「調香学者」

 2021.5.25-6.3 16.4×13㎝ 和紙に膠 油彩転写・ペン・インク・水彩

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 描き進めるうちにいつのまにか、画面に化学実験に使うような瓶のような形態がリズミカルに出てきたことから、発想したタイトル。

 

 

453  「地球物理学者」

 2021.525-6.3 18.1×15.2㎝ インド紙にドーサ 油彩転写・ペン・インク・水彩

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 地理、地質、地学、地磁気、測量、探検、そういったコンテンツも好きなのである。

 

 

454 「光学工学者」

 2021.5.31-6.5 18×12.9㎝ 和紙に膠 油彩転写・ペン・インク・水彩

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 光学と工学、絵柄とタイトルの関連は、あまりうまくいってないが、まあ、いいか。

 

 

455  「植物学者(プラントハンター)」

 2021.5.31-6.5 17×12.3㎝ 水彩紙?に油彩転写・ペン・インク・水彩 

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 プラントハンターというのは17~20世紀半ばにかけて、有用植物や観賞用植物の新種を求めて(植民地主義と連動しながら)、世界中を探索した人たち。描き終えてみたら、人物の顔が学者と言うよりも何だか小ずるいというか、抜け目ないハンターのように見えて。

 

 

456 「卵を抱く者」

 2021.6.3-6.6 16.8×12.6㎝ 和紙に油彩転写・水彩・ペン・インク

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 仏教的な要素から描き出したのではないが、卵(≒珠)や三面などから、菩薩等の座像にも見えなくもないものになった。

(2021.6.30)

「小ペン画ギャラリー-15 コラージュ」

「小ペン画ギャラリー-15 コラージュ」

 

  「小ペン画ギャラリー」で人物を描いた作品を紹介することに、少々飽きた。人物を扱った割合が圧倒的に多いのだから、やむをえないのだが。

 では次は「人物の登場しない絵」を出そうかと、リストアップしてみたら、案外面白くない。一点一点はともかく、共通するテーマや要素もなく、「人物が登場しない」というだけでは、何となく納得できる括りが見えてこないのである。

 それらの中で、数は少ないが、コラージュを用いた作品群が、ある種のまとまりを見せていた。今回はこれだ。

ほぼ同時期に、ほぼ同じ技法で描いた一群で、この手のものはこれですべて。その後はこうした感じのものは描いていない。今後もしないと決めているわけではないが。

 

 コラージュには、ピカソたちキュビストが創始したパピエ・コレという、異素材性・物質性に重点をおいた造形性重視のものと、シュールレアリストのマックス・エルンストが始めた絵柄・意味性をデペイズマン(置換)することを重視した(便宜的な言い方だが)コラージュ・ロマン的な傾向の二種類がある。後者の方が、現代に至るより広範な影響を及ぼしている。「解剖台の上のミシンとコウモリ傘の偶然の出会い」は、すでに現代の(絵画に限らず)表現の常数としてある。

 とまあ、大上段に振りかぶった話でもないのだが、私はその二つの方向のどちらにもつかないが、しいて言えば、コラージュ・ロマンにやや近い方向で、20年前後前からドローンイング作品として制作してきた。絵の一部にコラージュするというやり方。今回の作品もその延長上のものである。

 

 今回使っている印刷物の多くは、私自身の作品図版の一部である。作品集の試し刷りや、あまった個展案内状を再利用したもの。

 「小ペン画」と言いながら、黒地の用紙の作品では、ペン・インクは全く使っていない。黒色の用紙ではペンとインクが効かないのである。

 黒地の作品というのは何か、静寂とか沈痛といった感じがして、好きだ。描画材の載せ方には工夫が必要だが。これらの小ペン画からタブローにしてみたいという誘惑にも、少しかられる。

 

 

102 「夜の島 」

 2019.10.27-28 15.6×10.3㎝ 黒色紙にコラージュ・修正白

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 今回紹介する9点中の3点は発表済み。その中で唯一本作が、遠隔地の方に買っていただいた。ありがとうございました。

 

 

103 「三角に囲まれて 」

 2019.10.27-28 13.4×10.4㎝ 古アルバム台紙(黒)にコラージュ・ペン・インク・グワッシュ

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 使用している紙は80年ほど前のスクラップブックとして使われていた紙。経年変化もあり、危なっかしく、使いにくい紙ではあったが、そのムラムラの風合いの魅力ゆえに使用。

 

 

104 「夜の島‐星跡」

 2019.10.27-29 12.5×9.5㎝ 灰色紙にコラージュ・ペン・インク・グワッシュ

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参考:617 「浦圖(澪つくし)」

 2012~2013 M120 自製キャンバス(中国製麻布にエマルジョン地)に樹脂テンペラ・油彩。

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 102~104の3点に用いた図版はこの「浦圖(澪つくし)」の部分。

 本作には、それと意識したわけではないが、アルノルト・ベックリンの「死の島」からの淡い影響があるといえるかもしれない。だが構図や島々の形、配置等においては、曽我蕭白の真浄寺襖絵「楼閣山水図」ほかの水墨画を参照した。さほど似てもいないが。

 

 

参考:アルノルト・ベックリン「死の島」(バーゼル美術館蔵)

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同名の作品に五つのバージョンがあるが、これが最も有名なもの。 

 

 

109 「北辺の御堂」

 2019.10.29-11.1 12.5×10㎝ 古アルバム台紙(黒)にコラージュ・修正白

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 同名のドローイング作品が別にあり、その作品の図版の一部を使用。

 本作と、115、117に使用した紙は80年ほど前の写真アルバムの台紙。短い繊維を圧縮しただけのような紙で、脆い。描画材の載り、吸い込みも他と違い、気をつかう。まあ、普通の絵を描く基底材としては不向きな紙だが、何となくその特有の時代を帯びた物質感が魅力的だったのだ。

 

 

115 「北辺の小さな天文台

 2019.11.2-03 16.6×12㎝ 古アルバム台紙(黒)にコラージュ・アクリル・修正白

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 同じく同名のドローイング作品が別にあり、その作品の図版の一部を使用。

 

 

116 「トパーズを見る」

 2019.11.2 12.4×9.9㎝ 黒紙にコラージュ・アクリル

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 中央のトパーズ(だったか?)と二つの頭部以外は自作の図版から。

 

 

117 「空の大三角-北辺の城壁より」

 2019.11.2-03  12.5×16.1㎝ 古アルバム台紙(黒)にコラージュ・アクリル・修正白

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 左右の小さな円形は煙草のパッケージの銀紙。他、2ピース以外は自作の図版から。

 

 

164  「うつろいのイノセント」

 2019.12.28-2020.1.4  13.5×9.4㎝ 和紙にマルチアクリルサイジング、ペン・インク・コラージュ・鉛筆・水彩・グァッシュ

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 四角の額状の部分が私の作品の一部。中央は本物のカゲロウの翅。正式な種類や名称は知らないが、蝶などもそうだが、季節になると自宅付近で時々拾い、コラージュ素材として何度も用いてきた。

 下の図版はたぶんグレコの絵。展覧会チラシなどから切り抜いたものだろう。

 

 

165 「結晶柱の森」

 2019.12.28  11.9×8.8㎝ 古雑紙にペン・インク・コラージュ・鉛筆・水彩・グァッシュ 

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 三角と下の形が私の作品図版から。上の四つは教王護国寺あたりの両界曼荼羅の一部。胎蔵界だか金剛界だか、わからない。

 この紙も戦前の古い雑紙で脆く、使いにくい紙。

(2021.5.22)

小ペン画ギャラリー‐14 「をみな」

 振り返れば、「小ペン画」で描いた人物は、圧倒的に「女」が多い。8割以上か。

 小画面を描くにあたって、人物が格好のモチーフであると再認識したことについては、以前に別の場で述べた。ではなぜ「圧倒的に女が多い」のか。「女」でなければならないのか。

 

 私はタイトルに「女」ではなく「をみな」と表記することが多い。女、おんな、女性、婦人、娘、少女、乙女、処女(おとめ)、かく様々な表記のしかたがあるのに。

 「をみな」とは古語で、「若く美しい女性。女。」の意。少年を意味する(早くに廃れた)「をぐな」の対義語。平安時代に撥音便化され、「をんな」となった。結婚適齢期に達した若い女性は「をとめ」であり、両者は古くから混同されている。だそうである。

 

 私が描きたいのは、若い(アドレッセンス中葉の14、5歳から20歳代)女性なのだろう。別に思春期だとか、処女性とかにこだわる気はないのだが。なぜ若い女を描きたいのだろう。要は「若く美しい女性」なのだ。永遠の憧憬なのである。それ以上説明のしようがない。

 

 ときどき考える。宗教画―歴史画―肖像画という西洋絵画の伝統的ヒエラルキーの中で、描かれた人物の男女比はどうなのだろうか、とか。そしてそのヒエラルキーが解体されて以降の、つまり絵画が一般市民のものともなった、印象派以降に描かれた人物画においては。

 その前提として、そもそも画家という職業領域におけるジェンダーを無視するわけにはいかないが、それは一応ここでは措く。また、その後の、美大等への美術分野への進学者数において圧倒的に女性の割合が多くなった、現代においては。

 男が女を描く⇔男が男を描く。女が男を描く⇔女が女を描く。それらの割合と必然性。需要と供給の問題を言いたいのではない。人間表現の、モチーフ選択の際の必然性、根源を知りたいのだ。そして結局のところ、「永遠の憧憬」といったあたりに着地することになるのだろうか。

 

 ともあれ、今回選んだ6点にはテーマなどの共通性はない。選択において、特に基準とかあったわけではない。意味はまた別の話だ。描いてしまったことで、事態は決着している。とりあえず、並べてみよう。

ところで、「永遠の憧憬」とは個人的な趣味の問題なのか。もうしそうだとしたら、そこから普遍性への回路はありうるのだろうか。

 

 

119 マスクをしたままぼんやりしている植物の巫女

 2019.11.4-12 11.4×9.6㎝ 和紙・膠引き ペン・インク・水彩

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 本作を制作した時、すでにコロナ禍は始まっていた。それと関係があるのかないのか、覚えていないが、マスクをしている人物の絵は、たぶんこれが最初で最後だろう。

 

 

126 ポニーテール

 2019.11.16-18 10.2×8.2㎝ 和紙・膠引き ペン・インク

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 ポニーテールはなぜかあんがい好きな髪型の一つ。特に女子高生のそれは好き。ちなみに50年前の私の高校では、女子はショートカットか三つ編みとかでなければならず、ポニーテールは不可だったようだ。それが今に至るも、私のポニーテール好みの遠因なのか。画中では髪が妙な変容を見せているが…、たぶん意味はない。

 

 

297 感情装飾

 2020.6.3-5 14.8×10.5㎝ 水彩紙 ペン・インク・水彩

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 今回の6点の中で唯一発表済みの作品。タイトルの「感情装飾」は、新感覚派と言われたモダニスト横光利一の小説のタイトル。ただし小説自体は読んでいない。(戦前の)モダニズムという言葉に在るレトロな感覚からタイトルとした。それに呼応されたのか、ある方に買っていただいた。

 

 

299 司令官の若き妻

 2020.6.5-6 13.2×8.6㎝ 和紙にサイジング ペン・インク

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 NHKBSドキュメンタリーだろうと思うが、シリアかイラクでIS (イスラム国)が敗北しつつあった段階の映像にインスパイアされて。ある司令官の若い妻が、赤ん坊を抱いてと見せかけながら、投降をよそおって自爆テロをこころみたのだったか、結末は見ていないと思う。一種の悪夢ではある。

 

 

342 くるへるをみな

 2020.8.25-26 14.8×10㎝ 和紙風ハガキにサイジング ペン・インク・水彩

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 たまに観る、あるテレビ番組に出演する素人アフリカ系タレント(?)が、ある時、ソバージュとアフロヘアのミックスみたいなヘアスタイルで出ていた。そのボリュームと美しさに感動して、イメージを借用。絵柄、印象はまるで違う。タイトルは絵ができ上ってからの印象で。

 

 

351 東方のをみな

 2020.9.13-17 12×9㎝ 雑紙 ペン・インク・グアッシュ

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 これもBSドキュメンタリー(だったと思う)の一瞬の映像から。本題とは関係ない、背景にチラッと映っていた、エリザベス・テーラー主演の「クレオパトラ」のポスターだったのではないかと思うが、正確にはわからない。もしそうだったとしても、ポーズのイメージを借用しただけで、実際とは似ても似つかぬものになっている。ともあれ、ゆえに「東方(オリエント)のをみな」。

 

(2021.5.1)

「石仏探訪-18 二猿庚申塔と二匹の猿」

 4月12日午後、今年24回目の石仏探訪。

 

 檜原村北谷の茅倉、中里、白倉、千足と、本宿の一部。山腹にへばりつく集落の中の細い急傾斜の道を、女房は必死に運転する。

 大嶽神社、熊野神社、御霊檜原神社をメインに、路傍のあちこちに石仏(群)がある。あちこちに良いものがある。

 

 ↓ 白倉の大嶽神社の庚申塔青面金剛立像、日月天、三猿、舟形光背。元禄13年/1700年。檜原村で2番目に古い庚申塔である。

 まじめに憤怒相ではあるが、どこかユーモラス。大嶽神社には灯篭や狛犬なども含めて、7基ほどの石造物がある。

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 ↓  向こうは熊野神社本殿。手前の基壇には何があったのだろうか。今は丸石が一つ置かれている。

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 ↓ 境内に佇む人

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  ↓ 千足の御霊檜原神社-4 の庚申塔青面金剛立像、日月天(いわゆるバンザイ型)、二猿、笠付角柱。二猿は三不のうちの見ザル・言わザル。

 このあたりではかなり珍しいもの。また、鱗のような鎧のような衣がユニーク。宝暦10年/1760年。

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   ↓ 同じく御霊檜原神社庚申塔青面金剛立像、二猿、二鶏(下部に線彫り。これも珍しい部類)、舟形光背。珍しく四手である。

 何よりも、頭光(円光)と、三叉戟の柄が長く錫杖のように見えることから、全体としては地蔵のイメージに見える。もっと言えば、キリスト教十戒のモーゼのようにすら見える。足元の二猿は合掌しているが、右の一匹はこちらを向いたカメラ目線(?)。なんともユニークな像容、類例を見ない表情の庚申塔である。年紀はないが、かなり古そう。

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 千足の御霊檜原神社にも良いものがあったが、偶然にもその隣は、女房の(趣味の)英会話サークルのD先生の家。女房はこの日も午前中、英会話サークルで会ったばかり。そのD先生から「H~i!」の声。あれあれ?!思いがけずしばしの歓談。

 

    ↓ D先生の庭先で。座っているのは先の台風の時、流れてきた流木で作られたベンチ。なんとも魅力的なフォルム。座り心地も良い。欲しいなあ~、これ。

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 山村に暮らすがゆえの猿害に話が及び、彼女の菜園を見にいくと、今しも猿が、厳重に張り巡らしたネットをかいくぐり、やっと芽を出したばかりの貴重なジャガイモをほじくり返していた。

 

 ↓ 貴重なジャガイモが掘り返された跡。合掌。左に写っているのは、雑草のクローバーらしい。

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 追えば一応逃げるが、安全な距離を保ったまま、余裕のポーズ。困ったもんだ。これもまた生物多様性・共棲の一シーン。

 

 ↓ 猿たちを追いかけ、追い払っても敵もさるもの。余裕である。安全な距離を保って、急がない。

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 ↓ 危害を加えないとみて、なめ切って休んでいる困った人たち。

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 二猿の庚申塔を見て感動した直後に、二匹の猿。まさか庚申塔からぬけ出してきたわけでもあるまいが。

 ちなみに合掌し拝んでいるポーズの二猿は「日光型」と言われ、いわゆる「三不(見ざる・言わざる・聞かざる)」とは出自が違うらしいが、まだ詳しくは知らない。

 

 

 ↓ 茅倉では地形図記載の神社を見つけられなかったが、何か所かの石仏群(屋敷墓跡?)があった。

 聖観音や合掌地蔵の墓標に刻まれた「同㱕」「同𡚖元」(㱕、𡚖、共に帰の異体字)の語が奥ゆかしい。「同帰」とは「別々の道筋をたどっても、結局は一緒に帰る=あの世へ行く」の意。

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 ↓ 茅倉の別の石仏群(屋敷墓跡?)にあった、25㎝ぐらい、ほぼ二頭身の、なんとも可愛らしい聖観音(?)菩薩墓標仏。

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 実質1時半の石仏探訪。檜原村も石仏の宝庫である。これからまだ、どれだけ未知の石仏と出会えるか、楽しみだ。

 

 

  ↓ 中里の熊野神社にあった二十三夜塔。「梵字種子(サク:勢至観音) 廿三夜塔 女人講中」。嘉永元年/1848年。

 月待講は多くは女性だけのもの。精一杯粋な筆致とデザインに、案外元気な当時の女性たちの姿が想像される。

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(記:2021.4.13)

小ペン画ギャラリー-13 「濃くて、くどい絵」

 前回の「あっさり」系に対して、今回は「濃くて、くどい、描き過ぎ(かもしれない)」系。(まあ、それほどでもないかもしれませんが…)

 

 「あっさり系」というのは、確かに見るぶんには見やすく、鬱陶しがられず、嫌われない。造形的にも、余白とか、間とか、余韻とか、筆を惜しむとかいった、心地よい種類の緊張感から導き出され、なにがしかの静けさを伴う。世俗的には、(比較的)売れやすい。それはそれで良い。

 だがもう一方で、私は濃くて、くどくどしくて、鬱陶しい、描き過ぎの、時に人の眉をひそめさせるような画面世界も好きなのだ。例えばボッシュやオットー・ディックスやエルンスト・フックスやアドルフ・ヴェルフリや、甲斐荘楠音とかバリ島絵画とか。

 空間恐怖に裏打ちされた、表現性よりも表出性の方が優越しているもの。過剰はわが望むところ。狂気と情念はわが友。やりすぎるぐらいがちょうどいい。

 思えば私のタブロー作品は、そうした濃い絵の方が、割合としては多いような気がする。小ペン画はコントロールしやすい。そのようなコントロールされた良さもあるが、要はバランスということか。

 だから、これからも濃くてくどい絵も、本能の発露として、制作の基本線として、描き続けていく。

 

 ちなみにアップした6点のうち、3点ないし4点には石仏探訪に由来する仏教的・宗教的発想が多少なりともかかわっている。ちょうど石仏探訪にハマっていた頃に制作したものだから。

 

 

259「四月の夜の森の宴」

2020.4.13-18 15×21.2㎝ 水彩紙 ペン・インク・水彩・グアッシュ・修正白

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 ちょっと、コメントのしようがない…。

 酔っ払いたちの宴のようにも見えるが、そういうつもりではない。夜の森では空間が結晶化するといったイメージ。う~ん、理解されなくても仕方ないです。私自身、出てきたイメージに困惑しているのですから。

 

 

319「水と水」

2020.7.18-21 15.1×10.5㎝ 和紙にドーサ ペン・インク

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 主題は人物ではなく、周囲の複雑な曲線の絡み。水や炎や煙のような流動的で非定型の形、リズムを描こうとする試みは、いつでも魅力的である。色を着けないことで、説明抜きで、それを描きたかったのだが、むろん決して成功しない。だが不動明王の火炎光背のイメージにもたれ掛かることだけはしたくなかった。

 女の形も、いわゆるデッサンは狂っている。デッサンなんか狂ってもかまいはしないのだが、結局は良い表情が出ているとは言えない。つまり、あまり評価できない作品なのだが、私はこれを否定しない。こうした試みは今後もやっていきたい。

 

 

336「渡し守」

2020.8.15-16 15.3×12.2㎝ 和紙にサイジング ペン・インク・水彩

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 数多い石仏の地蔵の中に、ごくまれに船に乗った地蔵があり、岩船地蔵などと呼ばれる。近所の石仏探訪でも二つほど見た。

地蔵菩薩は釈迦入滅後、56億7千万年後(!)に弥勒菩薩が現れるまでの無仏時代を、常に六道をめぐって衆生を救うとされているが、閻魔王本地仏でもあり、そのためか、この世とあの世の境にある三途の川(三途とは餓鬼道・畜生道地獄道の意味)を舟に乗って、餓鬼・畜生・地獄道に落ちんとする悪人までも救うという教説が生まれたらしい。彼岸への渡川という観念は、オリエント起源の神話からギリシャ神話カロンの渡し守)にまで広く見られるものと、同様の構造。

 ともあれ、最近までそのことを知らなかった私は、岩船地蔵の意味を知って少し驚いた。その少しの驚きがこの絵になった。まあ、普通だったら取り扱わないテーマ・イメージだとは思うが。

 

 

354「たゆたふをみなたち」

2020.9.18-21 18×13.1㎝ 和紙に膠 ペン・インク・水彩・顔彩

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 エッシャーのように、あるフォルムを数学的幾何学的に組み合わせるという知的なデザインは、苦手だし、あまり好むところではない。だが、ある種の魅力を感じないでもない。

 この作品にはそうした数学的操作はないが、フォルムを組み合わせるといったパズル的な要素がなくもない。だが、要は「たゆたふ(揺蕩う)―をみな(女)たち」というイメージ。とりあえず、意味は無い。だが、左上の小窓を何となく描き入れたことで、にわかに全体が石祠の中といった空間に変容したような気がした。う~ん、よくわからない。

 

 

390「六地蔵

2020.11.2-3 17.1×21.8㎝ ミャンマー紙にドーサ ペン・インク・水彩

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 地蔵については前の画像でも簡単に説明したが、「地蔵菩薩の起源は、インドのバラモン教の神話に登場する大地の女神プリティヴィ」(Wikipedia)ということを知った時には驚いた。「地蔵=(元)女(神)」!そうした、意味の変容ということは、何においても、どの宗教においてもかなり普遍的に見られることだが、「地蔵=女」説はすごい。

 六地蔵は死後に、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道の境涯に転生する衆生をそれぞれに救うための分身であり、そのため寺や墓地の入口に並べて置かれる。6体の丸彫立像が多いが、山梨県を中心とした、一つの絵馬型に六体並べて浮彫されたものもある。わが家のすぐ近所にも一つある。その地蔵を「をみな」に置き換えた作品がこれ。原始仏教=釈迦においては、女性は成仏(解脱、悟ること)できないとされていたのだから、これぐらいの変換は試みられても良い。

 

 

417「天文書を読む乙女」

2020.12.6-10 16.4×12.9㎝ 和紙に膠 ペン・インク・水彩

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 仏教、宗教とは全く関係がない作品。よくあることだが、周りからイメージや構成が固まり出し、それらをまとめるために中央にアンカーとして人物を置く。プロポーションのおかしな、何となくおさまりが悪い人物になってしまって、気に食わないが、仕方がない。タイトルも含めて、これはこれで良しとした。

 

(記:2021.3.23)