艸砦庵だより

河村正之のページ 絵画・美術、本、山、旅、etc・・・

旧作遠望‐4 大作‐その2

 「旧作遠望」は必ずしも「大作」中心というではなく、「時系列」にこだわるわけでもないが、まあ今回は前回の流れを受けて「大作‐その2」。

 前回投稿の「まなざしの中で 1・2」は研究生から博士課程在学中27~28歳のものだが、今回の3点はその少し前、修士課程2年目26歳の、修了制作と前後する時期のもの。

 婚約し、生活は苦しく、アルバイトに追われ、制作する時間がなかなか確保できない情況で、指導教官だったT先生にピシャリと言われたのが「河村君、100号ぐらい三日で描けなきゃダメだよ」。

 例によってその真意は深奥すぎて必ずしも理解しきれたわけではないが、まさにその当時の(今に至るも引きずっている)私の弱点のど真ん中を見事に射抜いたものだった。感服するしかない。

 例によってクソっと思い、修了制作用のM150号とは別に100号以上のキャンバスを3点用意し、ほぼ同時に取りかかった。三日は無理でも、一週間以内で描き上げてみせると意気込んだ。その時点で自分には無理だと思われるハードルにチャレンジ(この言葉は好きではないが)というか、ぶち当たってみるというのは、確かにある種の快感だ。ワールドカップでベスト8、ベスト4を目指した日本代表の気持ちがよくわかる(?)

 結果としては、1点はほぼ一週間で描き上げたが、2点はもう少し時間がかかった。しかしそれは発表の前に手を入れたということがあったからで、実質9割以上は一週間±αで描いた。私としては(今に至るも)異例の速さである。

 

 

T.24 「きざしのような like a sign

 1981‐1983年 F120(194×130.3㎝) 自製キャンバス(麻布に白亜地)に樹脂テンペラ・油彩

 

 1981‐1983年とあるが、発表直前に手を入れたため。実質的には一週間程度。

 (撮影の未熟さで、水平垂直がずれてます)

 

 

T.25 「きざしのめまい Symptoms of dizziness」

 1981‐1982年 F120(130.3×194㎝) 自製キャンバス(麻布にアクリルジェッソ地)に樹脂テンペラ

 

 これは当初は急いだが、途中からある程度ゆっくり描いたような気がする。

 

 

T.27 「めまいのような like a dizzy」

 1982年 F100(162×130.3㎝) 自製キャンバス(麻布に白亜地)に樹脂テンペラ・油彩

 

 これも実質的には一週間程度か、もう少しか。

 

 この体験から得たものは大きかった。計画性も手順も慎重さも大切だが、一気呵成の集中ということもまた重要なのだ。そうでなければ生まれない勢いやリズム。

 主題(?)や意味といったものは、この際重視しない。ある程度捨て置く。現れるものは現れるだろう。したがって、タイトルには「きざし、めまい」「~のような」といった曖昧なものとなるが、それはむしろある種の表現世界の自由さを担保するタームとなると、開き直ろう。いずれにしても、若く、体力のある時期にしかできなかった仕事だ。

 なおこの3点の間にT.26「たまゆらの変位」という修士課程の修了制作が挟まれるのだが、それは今回の趣旨とずれるので、あるいはまたの機会に。

 

(記・FB投稿:2022.12.11 ブログ投稿:12.21)

旧作遠望‐3 「大作について‐偶感」

 5,6年越しだった実家の墓仕舞いを終え、近くに購入した墓地にようやく改葬(納骨)を済ませ、ホッとしている。 

 そのことと関係があるような無いような話だが、現在二ヶ所借りている作品保管場所を清算して、新たに最終(?)保管場所としての作品倉庫(土地を購入するか?借りるか?して、そこに倉庫を新たに建てる)の案件が進行中。

 自分の作品が残ろうと残るまいと、歴史的な観点からしてもあまり関心はないが、実際問題としての作品の処分(廃棄)や、今後20年程度の保管に関してはやはり自分の責任の範疇だろうと思う。

 撮影したフィルムも劣化するし、デジタル画像や、それを収めたMDやCDなども気がつけばソフトが古くなって(?)読み取れなくなったものもある。いずれにしても、モノは滅ぶ。

であるがゆえに、今ある作品画像をアップして見るのも、意味なしとしない。今回は「大作」ということに少しこだわって、300号を2点(+1参考画像)。

 

 大作とは何号以上かというのは人によって違うだろうが、私の場合、一枚で独立したタブローとしては300号=291×218.2㎝が最大。20代後半、まだ学生だった頃、当時の先生に言われた。「その時、その場で可能な最大の大きさの作品(大画面)を描きなさい」。この言葉は重く響いた。絵は理屈ではない。

 生まれた初めてのF300号を、それも2点ほぼ同時に描き進めた。その内の1点は、一応描き上げたつもりで、撮影までしたものの甘い出来。それを見透かされたように、厳しい批評の言葉をいただいた。腹も立ったが、奮起してあらためて描き進めた結果、腑に落ちる地点まで行けた。

1点は数年後に、とある公共施設に納められ、もう1点は自宅の収蔵室に入れたままなので、実際に見ることは難しい。こうして画像データとして見るだけである。

 

 

T.32 「まなざしの中で‐1」

 1982~1983年 300F(291×218.2㎝) 自製キャンバス(麻布にエマルジョン地)に樹脂テンペラ・油彩

 

 (*当時の撮影者の技術的未熟さのせいで、画面の水平垂直性が正確に撮影されていません)

 

 

*参考 「まなざしの中で-1」途中経過

 

 この状態で完成としていたら、その後の制作態度といったものが、今とはだいぶ違ったものになっていただろうと予想できる。そういった意味では厳しくも、身になった指導であった。

 

 

T.33 「まなざしの中で‐2」

 1982~1983年 300F(291×218.2㎝) 自製キャンバス(麻布にエマルジョン地)に樹脂テンペラ・油彩

 

 少し遅れて描き始めたこちらの方は、苦闘する「-1」のおかげ(?)で、比較的スムーズにいった。大画面というものが理解でき、自分のフィールドとすることができるようになった。

 本作は何年か後に某市の文化会館に納められた。後にその市は合併して、施設としては現在も存続しているが、本作の現状は不明。

(記・FB投稿:2022.11.11)

石仏探訪-50 余録‐「檜原村数馬」

 2日前、クロモジ茶用のクロモジを採りに行くという女房の車に便乗。以前から気になっていた檜原村、南秋川の最奥の集落、数馬を訪ねた。数馬には何度も行っているが、石仏を目的としたことはなかった。

 数馬には数馬上と数馬下があり、派生的な小集落もある。数馬上の最奥からその一部をなす南沢沿いの集落をへて、数馬下の浅間尾根登山口までの間の、重箱の隅をルーペで探すような石仏探訪。

 今にも雨が降りだしそうな天気だったが、幸い何とか降られずに済んだ。紅葉は盛りだが、霧模様の曇天のせいで、光と彩の鮮烈さには欠ける。石仏の数は多くはなかったが、思いがけないコンテンツとの出会いもあり、最奥の集落の晩秋の風情は充分味わえた。

 

 

 ↓ 採ってきたクロモジ(黒文字)の小枝。 

 

 昔から高級楊枝や箸などに使われ、お茶や香料としても使われる。クスノキ科。良い匂いがする。

 

 

 ↓ 数馬上 石仏群全景

 

 田部重治の『山と渓谷』(1929年 原著は『日本アルプス秩父巡礼』(1919年/北星社)中の「数馬の一夜」で知られる檜原村、南秋川最奥の集落、数馬。

 九頭竜神社の先で奥多摩有料道路を左に分けるが、右の旧道に入るとすぐにこの石仏群があらわれる。いくつかは墓標だが、庚申塔馬頭観音、観音などがある。風化が進み、苔に覆われ、像容見極め難く、刻字も判読しづらい。紅葉と蘚苔類による自ずからなる荘厳。

 

 

 ↓ 庚申塔

 

 石仏群の中の一体。青面金剛一面六手、浮彫立像、三猿。寛保2/1737年。又兵衛さんと■■■右門さんが施主。

 光線の加減で、今一つ写真の印象は冴えないが、悪くはない。小さくまとめられた三猿の表現も面白い。

 

 

 ↓ 不明神社 全景

 

 数馬上の集落の一番奥にこの小祠2基があった。右の祠の前には狛犬のような形で一対の踏ん張った足(膝から下)が置かれていた。陶製で横には「長寿」などと刻まれている。言ってみれば「狛足」(?)。中には陶器製(?)の合掌する地蔵のような像が2体。

 左の木の洞を祠に見立てた中には、木彫の観音とおぼしき像と「福□□(読めず)」の木札。共に近年の素人の作のようだが、趣旨等は正確にはわからない。だが数馬のような坂道の多い山村で、足の健康と長寿を願うのはごく自然なことだ。その願いを手ずから形にしたのだとしたら、それは素朴な信仰形態の表れというべきであろう。

 民間信仰の一つに「足王様」というのもあるが、それと関係があるのかどうかはわからない。

 

 

 ↓ ヒカンザクラ

 

 南沢に入る。坂道の脇に桜が咲いていた。ヒカンザクラだと思うが、正確な種類は知らない。これから寒くなるというのに可憐な彩。 

 

 

 ↓ 紅葉 数馬上

 

 霧模様の曇天だが、広葉樹はむろん紅(黄)葉している。目についた一景。

 

 

 ↓ 手回し式サイレン

 

 前回、人里での探訪余録でも取り上げたが、ここ数馬にも道路法面の上にサイレンがあった。少し小型で1m程度。裏に手回し式のハンドルがあり、電力は使わないのだろう。

 有線放送や防災無線が普及する以前、細い谷に沿って集落が分散するこのあたりではこうしたサイレンが有効だったのだろう。これまで使われたことはあったのだろうか。

 

 

 ↓ 数馬上 数馬分校

 

 かつては村全体で九つの小学校と三つの中学校があったとのことだが、現在は小中一貫教育校として村立の檜原学園一校となっている。

 この数馬分校は、明治7年に本宿の吉祥寺で行われていた寺子屋を本校とする檜原小学校の第三分校として、ここにあった宝積寺を仮校舎にして「正心小学校」として発足した。宝積寺は明治37年下流の人里の玉傳寺に合寺されて廃寺となった。墓地は今も分校の裏にあり、いくつかの石仏がある。

 昭和34/1959年にこの校舎が新築された。以後、村内の分校の統廃合が続く中、檜原村最後の分校として残っていたこの檜原小学校数馬分校も、平成11年3月に閉校となった。最後の在校生は7人だった。現在は記念館となっている。

 

 

 ↓  分校の狭い校庭の反対側

 

 バスケットゴールと兼用のサッカーゴール。右はなんという名前か知らないが、攀じ登るロープが二本。左の建物は?と考えたが、雨天体育場だろうか。ほかにもいくつかの遊具が色褪せ、錆びつきながら、今も残されている。

 

 

 ↓  数馬上 南沢観音堂(仮称)全景

 

 数馬上でもやや派生的な南沢沿いの集落を歩き、地図上の寺と神社記号を目指す。見つけたのは寺というよりも御堂だから、同じ敷地内にある大きな建物が寺だと思ったが、どうもそちらはただの民家だったようだ。御堂の手前に立て札があるが、文字は薄くなっていて、ほとんど読めない。正式な名称もわからないまま。

 

 

 ↓  観音堂内部

 

 格子戸の隙間から中を覗き込む。観音を祀ってあることはわかるが、正面には注連縄と3柱の御神体?(御幣)が置かれている。御本尊は奥の障子戸の向こうなのだろう。

 しかし、どう見ても仏教建築の中に神様も祀られているという状態。左の布を着せられた像は何か。蓮台と顔は白い石膏の後補のように見えるが、正体は不明。

 ともあれ現代の神仏習合とは言えないにしても、神仏同居であることは間違いない。

 

 

 ↓ 南沢登山道上の廃社跡?

 

 観音堂の上の尾根の笹尾根に通ずる登山道にあるはずの神社記号を目指して登る。最奥の人家の脇に庚申塔嘉永3/1850年のものか)と首の無い地蔵があった。

 地図とGPSによって、あるはずの神社を探すが見当たらない。痕跡もない。おそらくはごく小さな木祠だったのだろう。あるいは前掲の観音堂にあった御神体=御幣が廃社後に移されたそれだったのではないかと思い当たった。

 

 

 ↓ 兜造りの民家 檜原村南沢

 

 先ほどの観音堂に戻る。その左手にあって最初に寺と間違えたのがこの家。今はトタン葺きだが、本来は茅葺の三階(?)建ての兜造り。二階部分は養蚕のスペースでこうした造り。正面の切妻の上部に描かれているのは「龍」だろう。「水」と書かれることもあるが、要は防火のまじない。

 

 

 ↓  兜造り 檜原村数馬上

 

 兜造りの本来のありようはこうした茅+檜皮(こけら?)葺。位置の関係で全容は納められなかったが、堂々とした存在感である。ここは旅館だから頑張って茅葺を維持しているが、数馬、檜原村全体でも今は多くがトタンを被せている。これをもっと大規模にすれば白川郷の合掌造りになるのだろう。

 

 

 ↓ 斜面の畑 檜原村数馬上南沢

 

 このように斜面に畑を作るわけだから、雨が降れば土壌は流れてゆく。したがって耕したりするときには、鍬や鍬を下から上に動かして、土を運び上げるようにしなければならない。重労働である。おまけに斜面だから常にふくらはぎには負荷がかかる。先に挙げた「狛足」神社(?)のように、足腰の健康な強さを願うこと切なるものがあるだろう。

 獣害も多いからこうしたネットや電気柵は必須だ。

 

 

 ↓ 石垣の道 檜原村数馬上南沢

 

 旧道でも新道でも昔はこのように、石垣を積み上げなければならなかった。

山石を割った割石ではなく、すべて河川が形成した丸い川石である。その積上げる技術面にも興味を引かれるが、たいへんな労力を要しただろう。そのことと関係があるかないか、おのずから現れるある種の美しさがある。

 

 

 ↓ 石垣 数馬

 

 石垣の王国と言いたくなる、都道脇に屹立する石垣。

 高さは5、6m?一番高い所では10m近くありそうに見える。傾斜もけっこうある。いつ頃この規模、高さで築かれたのだろうか。今でもその技術は継承されているのだろうか。コンクリートやブロック?に比べて、強度的にはどちらが強いのだろうか。

 

 

 ↓ 前の写真の右の続き

 

 高すぎて写っていない玄関までのこの勾配を毎日何度も上り下りするとしたら、確かに足腰が強くなるだろうし、そうでなければ暮らしていけないだろう。世界中、どこの山国、山里でも同じだろうが。

 

 

 ↓ 石舟橋 あきる野市十里木

 

 一通りの探訪を終え、女房と合流し、数馬の湯で一浴。

 その帰途、瀬音の湯につながる吊橋、石舟橋の紅葉を見に立ち寄る。名所(?)とあって、曇天の平日の夕方にもかかわらず、観光客もけっこう来ていた。

 黒いコートに黒いブーツの女性は、橋の向こう側で仕事の電話をし続けている彼をずっと待っていた。

(記・FB投稿:2022.11.17)

石仏探訪-49 余録‐「檜原村でカモシカに会った」

 少し前、11月4日の昼過ぎ、思い立ってバスに乗って檜原村へ行った。

 南谷の人里や笛吹は何度も通過しているが、石仏探訪を目的として行ったことはない。ちなみに人里は「へんぽり」、笛吹は「うずひき」と読み、柳田国男を悩ませて以来の有名な難読地名。朝鮮語由来説やらいくつかの解釈があるが、さて解決されたのだろうか。

 

 中途半端な時間なので、山登りをする余裕はない。笛吹で幸先よく石仏群を見つけ、上平五社神社で裏山歩きをさせられた。降り立った上平の林道でカモシカの親子に出会い、また写真には撮れなかったが、猿の群に3回も出会った。檜原村の野生動物率は高い。

 

 日が暮れるのは早い。数少ないバスの時間を気にしながら、事貫、和田を急ぎ足で探訪しつつ、暗くなるころ上川乗バス停に着いた。途中、猿に出会い、法面に押しやられたいくつかの石仏を見た。

 都民の森からの急行バスがあるということを知らなくて、少々時刻表に翻弄されたが、結果的にはスムーズに五日市駅に帰れた。半日足らずのささやかな旅。

 

 

 ↓ 笛吹集落入口石仏群

 

 バス停からすぐの集落の入り口にあった石仏群。風情はあるが、逆光になって、うまく写せない。

 文字塔、像塔、十数基あり、なかなか面白いものもある。

 

 

 ↓ 石仏群の中心に置かれた絵馬型の一石六地蔵。文化11/1814年。

 

 六地蔵ではあるが、中心には少し大きな主尊が加わっていて、七地蔵。

こうした絵馬型の一石六地蔵は隣の山梨県東部に多く、檜原村縄文時代以来甲州から人が移り住んできた歴史を反映している。檜原からさらに先のあきる野市にも数は少ないが、こうしたタイプのものがいくつか残っている。

 

 ↓ 参考

 

 6年前、甲府市の鹿穴から深草観音、大経蔵寺山に登りに行った時に、途中の下積翠寺町の路傍で見かけたもの。ここ以外、また一石六地蔵以外にもいろいろな石仏が数多くあったが、その頃は興味がなく、ただ漫然と面白いなと思いつつ通り過ぎていった。

 

 

 ↓ 手回し式サイレン

 

 石仏群の向かいにはこのサイレン(?)があった。防災、消防用のものだと思うが、もう生きてはいないだろう。集落に火の見櫓と半鐘は見かけることは多いが、サイレンはあまり見かけない。早くに撤去されることが多いのだろうか。

 人工物ではあっても、その役割を終え、錆びて朽ちいくままに放置されていると、もはや自然と同化している風情である。

 

 

 ↓ 紅葉

 

 集落全体が山腹にあるため、どこを歩いても坂道。常緑針葉樹の植林が多い中で、振り返れば一本の欅(?)の色づきに秋の深まりを見出す。

 

 

 ↓ 秋海棠

 

 石垣に見たことのない珍しい花が咲いていると思ったら、花びらの落ちた秋海棠だった。ピンクの花びらのように見えるのは萼(ガク)で、葉柄までピンクだったのだ。

あまりまじまじと見たことがなかったのでちょっと調べて見たら、雌雄異花同株とやらで、どうやらこれは下向きに咲く雌花らしい。知らないことだらけ。

 

 

 ↓ 人里集落遠望

 

 人里の上平にある五社神社に向かう。裏山歩き程度は登らされる。見返れば人里の集落が静かにたたずんでいる。

 

 

 ↓ 念三夜塔

 

 参道途中にあった。資料では「念は廿の代わりである」(つまり二十三夜塔)としている。その根拠はよくわからない。『続日本石仏図典』では長野・岐阜に見られ、月待か踊念仏系か不明としている。これはどう系統のものなのだろう。嘉永4/1851年だからそう古いものではなく、地元の人にでも聞いてみたいが、その地元との人とは会わずじまい。いずれにしても珍しいもの。

 

 

 ↓ カモシカその1

 

 五社神社裏参道(?)の林道を歩いていたら、久しぶりにカモシカの親子に出会った。ちょっとわかりづらいが、二頭が重なっている。ほぼ同じ大きさで、どちらが親か子かわからない。

 

 

 ↓ カモシカその2

 

 手前の一頭はすぐに駆け去った。もう一頭は不思議そうにじっとこちらを見ている。おどかさなければそう簡単には逃げない。

 

 

 ↓ カモシカその3

 

 やがてこちらを見飽きたのか、ゆっくりとお尻を向けて去って行った。お尻もかわいい。これまで見たものよりも色が黒いように思う。地域性なのか、季節色なのか。

 

 

 ↓ 参考:カモシカその4

 

 こちらは前回2016年の4月に笹子峠の下で出会ったもの。わりと大きく、色は薄褐色。つぶらな目がかわいい。

 

 

 ↓ 民家

 

 降り立った都道沿いの事貫か和田の民家。こうした焼杉の板壁(?)の家は少なくなっている。縁は無いけど、懐かしみは覚える。

 

(記・FB投稿:2022.11.14)

小ペン画ギャラリー‐29 「近作より」

 ちょい久、二ヶ月ぶりの「小ペン画ギャラリー」。

 最近の小ペン画制作ペースは、ほとんど描かない月もあれば、10点以上描く月もある。以前より画面が少し大きくなり、1点にかかる時間も増えたが、それらはまあ現象的なこと。

 絵描きとしては本筋のタブロー制作が優先だが、実際には筆を持っている時間より、ペンを持っている時間の方が長い。

 今回も特に括りといったものはなく、「近作」。前々回が「600点」だったから、今回はその近辺のもの。少し前の作品、といっても7月の作品。

 2点にはコメントを付したが、他は純イメージ的な作品なので、特に付すべきコメントはない。鑑賞、解釈はいかようにも。

 

 

 ↓ 601 「歩行器」

 2022.7.22-26  15.8×12.4㎝ 木炭紙に水彩・ペン・インク

 

 元になったのは15~16世紀のフランドルの2点の作品。一つは20年以上前にウィーンで見たヒエロニムス・ボッシュのごく小さな作品。

 もう一つはボッシュかピーター・ブリューゲルのどちらかの、たぶん大作の一部。最近ネットで見つけたもの。現物の全体は彼の地で見たことがあるかもしれないが、記憶にない。ネットの画像も保存していない。

 そうした直接的な引用(?)を元にして制作することはあまりないが、小ペン画ではたまにやる。

 共に何らかの当時の寓意が籠められているのだろうと思うが、今ではその意味はほぼわからなくなっている、つまり意味の賞味期限・有効期限が切れているとも言えるので、その図柄に新たな意味を乗せることは可能だと考える。

 

 

 ↓ 602 「繭としての自分をどこに運ぼうというのか」

 2022.7.23-25 11.9×16㎝ 洋紙に水彩・ペン・インク

 

 

 ↓ 603 「ネムリ」

 2022.7.26-30 14.8×10.5㎝ 洋皮紙風雑紙に水彩・ペン・インク

 

 「洋皮紙」という商品名(もちろん羊皮紙ではない)の、やや滑らかな肌合いの紙に描いてみた。水彩は乗りにくいが、ペンは描きやすいが、特にどうということもなかった。

 

 

 ↓ 605 「宿神の翁が夜を往く」

 2022.7.27-30 14×19.2㎝ 水彩紙に水彩・ペン・インク

 

 中沢新一の、謎の神「シャクジ、ミシャグジ、宿神」を論じた『精霊の王』にインスパイアされた作品。

 その内容論理が学術的にどうなのかは判断がつきかねるが、いわゆる民俗学レベルでは太刀打ちできない幅広いジェットコースター的論理展開と華麗な文学性に魅了され、そこから数点の作品が生まれた。久しぶりに読書の楽しみを堪能した。

 しかし、その検証証明不可能(?)な論考は、学術、学問と言えるのだろうか。文学的エッセイとしては楽しめるし、問題ないのだが。まあ、作品とは関係ない話です。

 

 

 ↓ 606 「召命」

 2020.7.31-8.8 14×13.9㎝ アルシュ紙に水彩・ペン・インク

 

 まあ、安珍清姫みたいなものかな。いや、違う。(独り言です)

 

(記・FB投稿:2022.11.23)

「上州紀行‐紅葉と石仏の旅」(石仏探訪-48)

 群馬県在の作家O氏から電話。桐生から日光への旅に誘われた。

 40年来の知り合いだが、そう深い付きあいがあったわけではない。ごくごく淡い縁。なぜ誘ってくれたのか、今もよくわからないが、これもまあ、ありがたい機縁だ。

 

 10月18日、桐生で、彼も実行委員の一人である、桐生ビエンナーレの一部を見る。知り合いも何人か出品していた。最近、全国各地でこうしたビエンナーレトリエンナーレ、つまり地域おこし的芸術祭(?)が盛んにおこなわれている。私は、感想や意見を言えるほど多くを見てはいない。

 みどり市の草木湖畔で一泊。翌日、日光から中禅寺湖畔、奥日光をへて片品村丸沼高原で二泊め。20日奥白根山日光白根山)の肩までロープウェイで上り、周辺の史跡自然観察コースを歩く。往時の修験道の痕跡をかすかに偲ぶ。昔登った奥白根の山頂が見えた。

 沼田市、昭和村経由で帰宅。行く先々、途中途中で石仏を見た。すべては偶然と御縁。

 栃木、群馬もまた石仏王国だった。地域性というか、初めて見るもの、味わい深いものが多かった。周辺の山にはかつてけっこう登ったが、それは石仏などには関心の無かった頃の、人里離れてからの高みの世界。今回のような山麓・人里を行けば、全く違った世界の姿を知ることができる。

 それにしても、なぜ人はいともたやすくかつての信仰を忘れ、捨ててゆくのだろうか。それが私には不思議なのである。

以下、旅っぽさをメインに紹介。石仏はまた別の機会に。(信州の旅の石仏のネタもまだあと二つ残っている…)

 

 

 ↓ 桐生ビエンナーレ展示風景

 かつての工場や倉庫の跡を利用した展示会場。歴史や生活感に分厚く裏打ちされた空間は素晴らしい。だが、そこに作品を展示するというのは、やはりある種の難しさがあり、思想が必要となる。

 

 

 ↓ 桐生ビエンナーレ展示風景

 アトリエで制作した作品をホワイトキューブではない異質な空間にただ持ってきて置くだけでは、やはり空間や壁の存在感に圧倒されてしまう。だから暗くして(空間の特性を弱めて)、こうしたテクノロジカルな光モノを置くというのは、よくあるやり方だ。それは一定の効果を発揮しはするが、場の固有性や場との必然性とはあまり関係がないのではないかと思ってしまう。

 蛇足だが、取り上げた2点は作品としては悪いものではない。楽しめた。ただ、その場との関係性については、さほど濃密なものは感じられなかった。

 

 

 ↓ 庚申塔 桐生市東 観音院

 観音院には面白い石仏が多くあった。これもその一つで、丁寧な作の青面金剛庚申塔

 庚申塔といえば、三猿が付き物だが、これにはない。あるいは本来あった別石の基礎にあったのかもしれないが、他所から移された時に失われたのかもしれない。結果として頭を踏みつけられた二体の邪鬼が残った。邪鬼はふつう一体。このように二体の邪鬼は初めて見た。

 今回の旅では庚申塔だけでも様々なバリエーションを見ることができたが、これもその一つ。

 

 

 ↓ わたらせ渓谷鉄道  足尾駅

 現在の草木湖ができる前から、わたらせ渓谷鉄道(旧足尾線)沿線には心惹かれるものがあったが、実際にはまだ乗ったことはない。

 これも途中で立ち寄っただけだが、懐かしさをおぼえる。これが正しい、かつてはどこにでもあった「国鉄の駅」。

 

 

 ↓ 日光 含満淵 梵字カンマーン

 せっかく世界遺産の観光地日光に来て東照宮にも輪王寺にもよらず、ここ含満淵と寂光の滝にしか行かない我々も少し妙だが、O氏はここ含満淵だけは見せたかったとの由。

 写真は含満淵の初めにある霊庇閣の対岸。かつてその上には高さ2mの不動明王があったが、明治35年1902年の大洪水で、上流の多くの地蔵と共に流されてしまったとのこと。

今は大岩の中ほどに刻まれた梵字種子「カンマーン」だけが残っている。

 

 

 ↓ 拡大してみる梵字種子「カンマーン」

 不動明王梵字種子(仏の種類などを象徴する、様式化された古代サンスクリット文字)は「カーン」だが、刻まれているのはその重字と呼ばれる二文字を重ねたもので、この場合は「カンマン」と発声する。そこから含満淵、憾満ヶ淵となった。同様の伝承を持つカンマン淵の地名は他でもいくつかある。

 字の下の方は水流に洗われるせいか、薄れているようだ。

 

 

 ↓ 「化け地蔵」

 大谷川沿いの道を進むと、このような「並び地蔵」あるいは「化け地蔵」と呼ばれる地蔵群が現れる。約百体ほどあったものが、明治35年の大洪水でいくつか失われ、それ以後数えるたびに数が違うので「化け地蔵」と呼ばれるようになったとか。

 なかなかの壮観である。ただしこの写真もそうだが、入口近くの慈雲寺本堂近くにある石仏群のものは、厳密に言えば慈眼大師天海の弟子たちが建てた「含満淵の地蔵」ではなく、慈雲寺の石仏ということになるらしいが、まあ、一続きのものとして見てかまわないだろう。

 

 

 何はともあれ、素晴らしい苔の衣装。物の怪やら精霊やら山の神やら、もろもろのものと合体習合した風情。もうこれは「森の神」だ。

 

 

 ↓ 振り返ればまた微妙に異なった印象の「化地蔵」たち。

 そもそもの造立の趣旨や一点ずつの由緒あれこれなどよくわからないが、とにもかくにも、数量と整列の圧倒性。数量信仰というものは、世界中のどの宗教でもかなり普遍的に共通してあるようだ。

 

 

 薄暗い大谷川含満淵を離れ、奥日光の高原、龍頭の滝へ向かう。写真はその手前の駐車場の付近。紅葉には少し早かったかと思っていたら、標高が上がるごとに次第にその彩を深めはじめた。これはまだ序の口。



 

 さらに奥へ進み、戦場ヶ原の先の湯滝へ。湯ノ湖から一気呵成に流れ出る、圧倒的な水量にただボーゼン。落差は70mぐらいだが、冷静に見ると、この滝はノーザイルで直登できる。ただし、もう少し水量が少ない時ね。私はもうそんなことしないけど。

 このあと少し自然散策コースを歩いた。

 

 

 ↓ 奥日光から片品村丸沼へ向かう途中、金精峠手前から振り返る男体山

 日本百名山で、立派な山だが、まだ登っていない。どこから登ってもけっこう大変だし、人は多いし、おそらく自分から登ることは今後もないだろう。

 

 

 丸沼高原の宿の前の白樺。いかにも高原風。このあとすぐに夕陽に照らされて、赤く燃える色彩に変わった。



 

 ロープウェイで奥白根山の肩まで登り、しばらく付近のそぞろ歩きを楽しみ、1000年前の修験道の世界を偲ぶ。ささやかな六地蔵血の池地獄大日如来…。

 前夜あたりの雨がここでは雪だったようで、わずかに残っていた。当然、こんな霜柱もふつうにある。



 何の樹だったか、樹皮の模様、小枝の生えていた跡。妖精、ゴブリンとかの叫ぶ顔のように見えなくもない。



 ↓ ロープウェイ頂上駅から見る奥白根山日光白根山)山頂、2578m。

 これより北でここより高い山はない。

 40年以上前のゴールデンウイークに女房と二人で登った。雪が多かったのに、ピッケルもアイゼンも持たず、上の避難小屋に泊まって寒さに震え、下り斜面で難渋したのは、みんな私の計画の甘さと若(バカ)さでした。女房が滑落しなくて良かった。

 

 

 ↓ 清雲寺 昭和村糸井

 沼田インターから関越道に乗るつもりが、事故で通行止め。昭和インターに迂回する途中で、このやや荒れた(失礼)趣きの寺を発見。時間は気になるが、私の石仏センサーが発動して急きょ車を止めた。これが大当たり。

 山門前右の塔については後述。

 

 

 ↓ 山門手前にはなぜか、大量の未整理の石仏群があった。これはその一部。

 折よく来合わせた住職の御子息(?)から聞いたところでは、近辺のあちこちの自治会館などの改修工事のさいに「邪魔だし、不要だから」といって持ち込まれたとの由。

 それ以前、戦前戦後の道路拡張等の際に、寺社や自治会館などに集められたものを、現在の吾々は見ているのだが、今回再度の移動に至った現場を目撃したわけだ。地元の人にも、もはや信仰心も執着もないらしい。

 それはそれでやむをえないが、文化財的認識もないようだ。現在の日本において、そういった集落、自治体の行政の方が多いことを、私は知っている。中には相当面白いものがあったが、すべてを確認する余裕はなかった。

 少しだけ立ち話をした方は僧籍にもあるようで、ある程度石仏にも詳しく、もう少し話ができればよかったのだが、情況的にも時間的にも余裕がなく、残念。

 

 

 ↓ 「禁藝術賣買」塔 昭和村 糸井 清雲寺

 一点だけ上げる。

 禅宗寺院の山門前によくある「不許葷酒入山門」と記した塔と並ぶ、境界碑の一種「禁藝術賣買」塔。二つ前の写真を参照。造立年等、未確認。

 「藝術」とは今日いうところのアートの意味ではなく、縁日などに境内に入り込む、旅芸人・門付・博徒といった輩(の技)を言う。そういう人は、酒や、ニンニク、ネギなどの臭いものと同様に、修行の妨げになるからこの山門内には入るなと言っているのである。

 「禁藝術」と言われると、私などは少しドキッとしてしまう。アート=芸術も、旅芸人・門付・博徒なども、根っこには共通したDNAがあるのを自覚しているからだ。

 塔の左面には蓮弁に乗った阿弥陀如来?が浮き彫りにされ、その下に「經王■」とある。経王とは妙法蓮華経法華経)のこと。

 ともあれ、宝暦頃から江戸末期の群馬・山形・千葉の曹洞宗寺院にわずか数基あるのみとのことで、希少。いや、高速道路の事故のおかげ(?)で寄り道して、良いものが見られた。わずか数基だから、確率的には普通ではまず一生見ることができないものなのだ。いずれにしても、これはもう少し、文化財的に保存した方が良いと思うのだが。

(記・FB投稿:2022.10.24)

近況「山羊と『大漁地蔵大菩薩(石仏探訪-47)』と書見台」

 10月某日。誘われて、あきる野市のとある山あいでの「ピザの会」。

 手作りの窯で焼いたピザ、その他あれこれ、美味しかったです。私も熊汁を圧力鍋ごと持って行った。昼すぎから夜更けまで、延々とだらだらと、飲み、かつ食べた。

 参加者の一組が連れて来ていた山羊二頭。手作り山羊チーズは、ワイルドな風味で美味しかった。

 写真の山羊は雄で、当日(?)角を切られたばかり。最近発情期(?)のせいか、角突き合わせて戦うので、ケガをするのを恐れて、角を切ったばかりだとか。山羊の体のところどころが赤いのは、その時の血の跡。

 

 ↓ 呼んだわけでもないが、すり寄ってくる。というか、ぶち当たってくる。

 顔が赤いのは、すでに飲んでいるから。ご容赦を。

 

 妙に人なつっこい山羊で、ぐいぐいとすり寄ってくる。飼い主のお子さんもすり寄ってくる。孫ではないが、私もたまにはこんな表情になる。

 

 ↓ そうかそうか、うんうん。

 おや、この子もすり寄ってきた(そういえば名前を聞いたけど覚えていない)。

 

 ↓ みんな良い顔。

 

 

 以下、関連があるような、ないような。

 ピザの会の少し前に、同じ地区にある天王岩に行った。天狗岩とも言い、その名前の混同と私の思いこみから場所がわからず、長く探していた。知ればあっけない。平日でもクライマーがいる。

 すぐそばの地蔵堂のある広場が本命。かつて火葬場だった場所で、今は小さな地蔵を安置した御堂と文字塔がある。「天王山大漁地蔵大菩薩」、名前にびっくりする。何はともあれ、一つ課題に辿り着けて、うれしい。これを探していたのだ。

 

 ↓ 天王岩そばの地蔵堂(?)全景。

 本尊の地蔵は安永4/1775年のもの。刻字からすると、もともとは二人の女性を供養したものだったようだ。

 御堂の篆書の扁額が読めない。「地蔵堂」というよりも右の字を「龍」と読みたくなるが、「龍神堂」ではない。「龍化堂」??「龍化」という言葉はあるようだが、今一つ信用できない。どなたか読み方を教えて下さい。

 

 ↓ 「天王山大漁地蔵大菩薩」と刻まれた石塔。

 平成16/2004年。素人の刻字、機械彫り。裏面には「寄」以下、建立者6名の氏名。

 下には釣竿釣糸と釣られた魚が彫られている。けれん味はあるが良い石で、全体としては悪くないが…。開眼供養とか、したのかな?

 「天王山」は場所から、「地蔵」はもとからあっただろう小さな地蔵に由来するとして、「大漁」はなんだ?と思ったら、御堂の奥の木札で解明した。

 

 ↓ 御堂を改築した時の木札。「天下泰平 家内安全 佛日増輝 交通安全」は良いとして、「釣行安全 釣場繁栄」で???となる。願主として「秋川漁協組合長 ○○○ 軍道自治会長 ○○○○」とあり、なるほどと、何となく経緯がわかるような気がする。まあ、気持ちもわからなくはない。

 ↑ そうですかというところだが、そばにあるフィッシングセンターには以前から疑問を持っている。川全体を餌釣りとか、フライフィッシング専用とかエリアを決めているのだが、要するに現実的には占有しているのだ。商売ではあるが、日本では川(と川原)は私有できない(海岸も同様)はず。しかし、入漁料を払った人以外は実質立ち入り禁止である。釣りはしないが、川原歩きをしたい人だっている。しかし、実際にはとてもできる雰囲気ではない。私有地・私有制と公共性。岩登りの対象としての天王岩(私有地)も含めて、少々悩ましい問題ではある。

 

 

 その後の探索で、上流右岸に、地図に出ていない小さな神社を見つけた。新しい石碑には八坂神社とあるが、文政7/1824年の石燈籠には「奉納天王宮」とある。全国どこにでもある話。廃仏毀釈以前は牛頭天王を祀った天王社だったのだ。そこから天王岩の名がついた。元火葬場のそばだからとて「涅槃岩」と称する輩もいるそうだが、少々失礼だろう。

 

 ↓ その後近所で発見した八坂神社=天王宮。これが天王岩の名の元。ほとんど車の通らない裏道側にある。懐かしい良い雰囲気の神社。今でもよく手入れがされている。

 

 

 こんな最近だが、上記の場をからめつつ、あれやこれやといくつかの大事な案件・事態が、並行ピンボール状態で同時進行していて、忙しい。行かねばならなかった展覧会もいくつか失礼してしまった。申し訳ないが、仕方がない。明日からまた旅に出る。

 

 ↓ 深夜、そんなことを考えながら、上述の事とほとんど関係ないが、ほんの少しだけ関係があるMちゃんから借りた詩集を読む。借りたというか、強引に読んで下さいと押しつけられたもの(失礼)。私には未知の詩人だが、読んでみたら良かった(さすが)。ありがとう。自分でも欲しくなりそうだ。あと二冊ある。

 右、焼酎のお湯割り。細かいところは見ないでね。

 

 ↓ ふだんの読書コーナーは食卓の一画。

 深更、制作を終え、筆を洗い、居間に降りる。食器洗いを終え、風呂に入って、一杯飲みながら、本を読む。

 読書用ライト。読書用メガネ。煙草とライター。傍らには並行して読んでいる本が常にこの小山状態。なかなか減らない。今日はこの書見台を使う。

 文庫本なら片手でいいけど、ハードカバーの束の厚い本だと、この書見台が便利。こんなもの、と思っていたが、使って見たら、役に立つ。金属タイプのも買ったが、そちらも良い。絵描きには腱鞘炎気味の人が多いが、そういう人にはお勧め。

 

(記・FB投稿:2022.10.16)