艸砦庵だより

河村正之のページ 絵画・美術、本、山、旅、etc・・・

「信州の山と石仏の旅」

 9月7~13日、信州を旅した。蓼科、別所温泉木曽駒ヶ岳乗鞍岳、そして諏訪市茅野市の石仏探訪。

 

 前半は高校山岳部OB・OG会の仲間と、蓼科の山荘ベースの行動。

 初日は天気が悪く、上田市の戦没画学生慰霊美術館「無言館」や別所温泉周辺のあちこちをまわった。無言館については淡い縁があった。ようやく訪れることができたが、絵描きとしてはそれなりの覚悟が必要だった。

 

 ↓ 戦没画学生慰霊美術館「無言館」の外観。近くに第二展示館「傷ついた画布のドーム」がある。内容は深く重いが、それ以上に、一人一人が見て、考えるべきものである。

 ↑ 無言館の前段の『祈りの画集 戦没画学生の記録』(1977年 日本放送協会)を作った、野見山暁治さんには学生時代に直接教わった。詩人の宗左近さんには、縁あって拙著『メッセージのゆらぎ 博士論文+作品集』の序文を書いていただいた。無言館館長の窪島誠一郎氏には45年ぐらい前、渋谷(だったと思う?)のキッド・アイラック・ギャラリーに靉光展を見に行った時に、少し話をしたことがある。また、直接関係はないが、窪島氏の実父の水上勉の「越前竹人形」の人形は私の予備校時代の友人が作っていた。

 

 二日目、三日目は、木曽駒ヶ岳乗鞍岳登山。局地的に不安定な天候に翻弄された。個人的には予定外の山だったが、結果的には天候に恵まれ、久々の日本アルプスを登った。

 共にバスやロープウェイを使った、登高差300m程度のカンニング的な登山ではあったが、まあそれはそれ。歳相応の登り方かもしれないが、ヨレヨレになった。木曽駒ヶ岳は38年振りの再登、乗鞍岳は久しぶりの50座目の日本百名山

 

 後半は上諏訪を拠点に、諏訪市茅野市の石仏探訪。久しぶりに古い知人と再会し、旧交を温め、その案内で暑い中、あちこちと周る。石仏王国信州ならではの濃くも充実した内容で、やはりヨレヨレになった。

帰宅後、撮りまくった石仏写真の整理・分類・研究に追われることになった。

 一週間の旅だったが、内容が濃すぎて、とりあえず今回は二つの山についての投稿。石仏その他については、また次の機会に。

 

 

 ↓ 9月9日、中央アルプス木曽駒ヶ岳に登る。

 ↑ バス、ロープウェイを乗り継いで千畳敷カールから登り始める。八丁坂の登高差300mでヨレヨレ。いや、私が遅いのではなく、他のメンバーが早すぎるのだ。長い距離ならそうひけを取らないのだが、短時間ではかなわない。

 

 ↓ 八丁坂を上り切った乗越浄土から木曽駒山頂を目指す。右は途中の中岳で、木曽駒山頂はその陰で見えない。

 

 

 ↓ 38年振りの木曽駒ヶ岳山頂、2956.1m。4学年にまたがっているが、山登りを生活のメインにすえている(?)人は強い。私は弱い。



 

 ↓ 木曽駒ヶ岳山頂には三つほど石仏(石造物)があったが、これは蚕神。馬に乗り、桑の葉を持った女神。細部までよく彫られた、美しく面白い像。造立年等は不明だが、そう古いものではないだろう。

 ↑ 養蚕の仏としては馬鳴菩薩があるが、養蚕の盛んだった地域にはそれよりも多く「蚕影山」、「蚕玉神」といった文字塔、あるいはこうした桑の葉を持つ女神や、天敵のネズミを捕る猫や蛇までが蚕神として造形された。蚕の神のルーツには中国東晋の時代の『捜神記』の中に「馬の恋」があるが、そのイメージに通ずる造形である。

 余談だがこの像を紹介している田中英雄の『里山の石仏巡礼』(2006年 山と渓谷社 MY BOOKS)では裏焼きされた(左右逆の)写真が使われている。

 

 

 ↓ 同じく木曽駒ヶ岳山頂にあった、おそらく宝珠を持つ地蔵でないかと思われる像。基礎に「○長(?)○講」とある。造立年等、不明。

 四頭身ほどの可愛らしい像だが、光線の具合か、少しさびしそうに写っているのが残念というか、面白い。



 

 ↓ 登り終えて途中まで同じ道を辿る。中央が中岳、右の三角形が宝剣岳。中岳を右に巻く道を行く。

 

 

 ↓ 下山時のロープウェイから見下ろす中御所谷本谷。ゴンドラの窓ガラスの反射が写り込んでいる。

 手強そうな滝が連続するが、38年前にはあそこを直登していったのだ。当時所属していたY山の会の夏合宿。結婚はしていたが、まだ博士課程の学生だった頃。

 

 

 ↓ 9月10日、バスで北アルプス乗鞍岳へ、写真の畳平2700mまで上がる。

 高い所までバスが登りロープウェイやリフトが架けられ、それを利用して山頂に立つというのは登山者としてはいかがなものかとは思うが、今ここでそれを言ってみても仕方がない。今回の誘いが無ければおそらく一生登らずじまいだったろうとは思うが、登ってしまった。むろん、山そのものは素晴らしい。

 

 

 ↓ 不安定な天気の名残で、時おりガスがかかる。たいした急登ではないが、やはりヨレヨレになる。

 

 

 ↓ とにもかくにも山頂にて。私以外の人は元気。

 

 

 ↓ 頂上近くの権現池。おおらかな山容の乗鞍岳にはいくつもの火山性の支峰や池が点在している。それらをのんびりと巡り歩いたら、さぞ気持ちが良いだろう。

 

 

 ↓ 下山途中。宇宙線研究所観測所への道路にて。先行するKの後姿。もっと絵になる良いシーンもあったのだが…。いつか絵にしてみたい構図。

 

 

 ↓ 天候に、各種の天気予報に振り回された三日間だったが、なんとかその隙間をかいくぐって、快適な山行ができた。青空に感謝。

 

(記・FB投稿:2022.9.14)

小山利枝子展と石仏探訪-42「元箱根石仏群」

 8月30~31日、友人S夫妻と女房とで、伊豆と箱根に行ってきた。

 50年近く前に、ほんの淡いかかわりがあっただけの、小山利枝子さんの池田二十世紀美術館での回顧展を見に。プラス箱根方面の石仏探訪。

 

 会場での撮影はOKだったが、SNSへのアップは「禁止」ということなので、ここでは美術館のHPに挙げられていたチラシの画像1点だけ。私の下手な写真を上げて誤解を招くよりも、その方が良いかもしれない。

 

 ↓ 小山利枝子展チラシ サブタイトル「LIFE BEAUTY ENERGY」

 

 

 昨年再会するまでの40年以上、その消息、作品をほとんど知らずにいた。彼女は美の巫女になっていた。何点か実に良い、心惹かれる作品があった。表現者・制作者としての私自身の深奥に直接影響を及ぼすような魅力。思うところ、感ずるところ、多し。その影響をまだ飲みこなし切れない。いろいろと展覧会を見ていても、久しぶりの体験だ。絶対に飲み下さなければいけないその印象と、しばらく大事につき合って行こう。

 

 元箱根の石仏群はある程度有名なのだが、有名観光地が好きではないので、今回の話が無ければ、自分から見に行くことは無かっただろう。

 箱根という地域性と鎌倉時代という、これまでほとんど無縁だったカテゴリーのゆえか、私の現在の力量と範疇とはまた微妙に異なった、新しいもの(美)を見たような気がする。芦ノ湖周辺に蝟集する多くの観光客もほとんど来ず、静かに見ることができた。

 

 途中での食事や小田原で買った魚の干物なども、超美味だったが、割愛。

 やはり、あれやこれやと、旅に出てなんぼである。

 

 

 ↓ 二日目の朝、宿のベランダから見ると、雨を含んだ雲と立湧雲の合間に虹が出ていた。先が思いやられたが、結局は天候に恵まれた。

 

 

 ↓ 伊豆半島の稜線上で一休み。左の海上には初島が見える。何か、風の魔女(女房)たちに圧倒されている。なぜ、Tシャツの裾がズボンの中? ダサッ!

 

 

 ↓ 元箱根石仏群の最初に現れた「六道地蔵」。正安2/1300年。高さ約3.2m。

 この元箱根石仏群は、古道である湯坂道の峠にあたる精進池の近くにあり、大半が永仁4/1296年からのわずか7年間で造立されたもの。多くが国の重要文化財

 精進池は「生死ノ池」と記されたものもあり、精進池=六道の辻と見なされ、その湖岸は賽の河原とされた(その見立ては後に芦ノ湖畔に移動)。

 刻字は確認できなかったが、資料には「筥根山宝蔵嶽○○○道」とあり、いわゆる「峠の地蔵」の性格(峠→塞ノ神)と、道標も兼ねていたのかもしれない。右手の先は後補。錫杖と白毫は新しいもの。

 「体躯がすっきりしすぎて、何となく弱々しい。大きさの割に摩崖仏らしい迫力に欠ける」とする評もある(佐藤宗太郎)。 

 

 

 ↓ 平成になって室町時代にあった通りに覆屋が再建されたそうだが、それ以前の景がこの写真。和服を着た人が額ずいている。より身近にというか、直接仏と対峙できそうだ。

 覆屋は保存のためには、あった方が良いとは思うが、少し距離ができたように思われるのが惜しい。

 

 

 ↓ 国道と並行して、精進池のほとりに旧道がある。国道の下の通路を通ったり、刈払いの終わったばかりの旧道を歩いて探索する。昔の賽の河原を進んでいるわけだ。楽しい。

 

 

 ↓ 多田満仲の墓である宝篋印塔。塔身の三面には梵字種子、一面には阿弥陀如来

 永仁4/1296年に造立され、正安2/1300に追刻がなされている。関東の在銘塔では現存する最古のもの。精進池が六道の辻に当たると記されているそうだ。

 これが鎌倉の塔というものか。その端正で剛健な重量感。国重要文化財

 

 

 ↓ 「二十五菩薩」と称されている摩崖仏群。

 摩崖仏というと岩壁に穿たれたイメージだが、ここのそれはいくつもの重なり合った岩塊に彫られたもので、摩崖仏という言葉とは若干違和感があるが、まあそれはそれ。それなりの迫力である。

 この一帯に23体、この先の国道の反対側に3体(2体見損なった)、計26体あり、1体の阿弥陀如来と1体の供養仏(?)を除いてすべて地蔵菩薩

 阿弥陀如来、二十五菩薩というからには、多くの菩薩が登場するいわゆる阿弥陀来迎信仰と、箱根地方で特に強い地蔵信仰が習合したものではないかと言われている。全体で国の重要文化財

 

 

 ↓ 一つ一つはそれほど大きくはない。右の最大の地蔵菩薩で1m少々。

 積み重なった岩塊に彫られたせいか、全体としての構成といったものは無いように思われる。



 ↓ 中央の上になぜか一つだけある「供養仏」。

 地蔵ではなく、また特定の仏をあらわしたものではないようだ。鑿跡も残り、未完成とも見えるが、そのせいか、他とは異なった、動きのあるやさしい表情。小さくて見落としそうだが、この1体があるおかげで、荒々しい岩塊のあちこちに彫られたこの「二十五菩薩」全体の印象が、スウ~ッと優しいものに変わるような気がする。



 ↓ 右が唯一の阿弥陀如来施無畏印与願印

 硬い安山岩とのことで、風化剥落等はあまり見られず、状態は良い。

 

 ↓ 少し登ってちょっと見下ろす。「天空の寺院」とか「異星の寺院」とか言いたくなるような趣。

 中央には掘り出した庇があり、その上にはかつて懸けてあった覆屋の痕跡が見られる。

 

 

 ↓ 左の二つが「曽我兄弟の墓」、右が「虎御前の墓」と俗称される五輪の塔。

 むろん曽我兄弟や虎御前とは関係なく、「地蔵講結縁衆」とあるように、地蔵信仰によるもの。「平等利益」とも彫られている。「曽我兄弟の墓」の前面には梵字種子の代わりに地蔵が浮彫されている。

 「虎御前の墓」には応仁2/1295年とあり、そのせいか、こちらだけが国の重要文化財。何にしてもけっこうな迫力に圧倒される。いや、立派だ。

 

 

 ↓ ちょっと趣きを変えて。これは芦ノ湖畔の「賽の河原」という、近年になって紛失や盗難を防ぐために集められた一画の中の馬頭観音

 鎌倉時代のものに比べ大正3/1914年と新しいが、ホッとする造形で愛らしい。馬も馬らしいし、何か好きです。

 

 

 ↓ 同じ境内にある箱根神社と九頭竜神社新宮にも行ってみた。共に由緒ある神社だが、社殿等は新しく、石造物も少なく、あまり興味を引かなかったが、せっかくだからこの狛犬を一点。苔をまとい、背景と一体化し、頑張っている。

 

(記・FB投稿:2022.9.3 ブログ投稿:2022.9.26)

 

「旧作遠望―変位のたまゆら」

 タイミングとしては「小ペン画ギャラリー」の投稿時期なのだが、物憂い。

(今日の気分としては、)飽きたと言ってもいい。「飽きる」という感覚は、創造を担保するものとして大事だ。一事専念も良いが、私は変化や流動性ということを信じ、好む。

 描き終えた作品に執着する度合いは、あまり強くはないと思っている。それはそれとしても、過去の先品を自分で保管するにも限りがある。少しずつ処分することも考えなくてはいけない今日この頃。

 そんなあれこれの思いと微妙に重なりつつ、旧作遠望。

 

 ↓ T.20 「変位のたまゆら/for a moment in transition」

 1981年 F40/80.3×100㎝ 膠塗り麻布に樹脂テンペラ

 

 

 26歳、大学院修士課程在学時。テンペラ、特に樹脂テンペラの使い方の習熟に勤しんでいた頃のもの。言い換えれば、「何を描くか」よりも「どう描くか」に重心があった。

 作品の意味合いやイメージとしては、われながらまことに語りにくい。

 わかりやすいイメージやコンセプトを拒否し、わかりにくいからこそ、それを(わかろうとして?)描くのだという、やや逆説的な価値観やベクトルを最初から持っていた。したがって、具象や抽象や現代美術といった分類概念とはあまり縁が無かった。

 タイトルの「変位のたまゆら」というのも、苦労した割には、あまり意味が明瞭ではない。Google翻訳にかけてみたら「Displacement Tamayura」となって、つまり翻訳不可能。少し工夫してみて「for a moment in transition」というもの。

 ルドン、その他からの影響は容易に見て取れようが、そんなことはまあどうでも良いのである。地塗り層を施さず、樹脂テンペラだけで描いているということもあって、色調は少し変わって(褪色して)いるが、それも含めて、珍しく今でもけっこう好きな作品の一つ。

(記・FB投稿 2022.8.25)

小ペン画ギャラリー-27 「600点」

 小ペン画が600点になった。一頃よりペースは落ちたが、コツコツ描いていれば、点数は自動的に増える。

 いつも言っていることだが、私にとって小ペン画は本道ではなく、脇道。本道はタブロー(油彩・テンペラによる板絵・キャンバス画)なのだが、これは精神的にも、労力的にも大変で、なかなかはかどらない。暑さ、体力・集中力、老化・劣化の相関関係。そこでつい脇道、寄り道、道草となるのだが、苦しい時の逃げ道・アジールはいくつかあった方が良い。比較するのもおこがましいが、漱石芥川龍之介が小説執筆のかたわら、俳句を作っていたようなものだ。

 画家が本道のタブローのほかに並行して別の表現を為す、楽しむというのは、昔からあったが、最近の画家は、その割合が少し増えているような気がする。それは彫刻や陶芸であったり、詩歌(これは私もやっている)・小説の創作、音楽活動(バンド、ライブ、CD制作等)など、人さまざま。それらは脇道かもしれないが、趣味以上の、作家にとってもう一つの別の表現の回路なのだろう。複眼的志向と言ってもよい。

 

 600という数字が別にめでたいわけでもないが、まあ、小さな区切りだ。近作を適当に選んでみた。多少見栄えを気にしているせいか、だいぶ濃いもの、手の込んだものが並んだ。特に括りは意識していないが、結果として民俗学的インスピレーションに由来するものが三、四点。最近の傾向である。

 

 

 ↓ 583 「野神望郷」

 2022.4.26-5.5  18.8×25.3㎝ 雁皮紙にドーサ、水彩・ペン・インク

 

 ↑ 民俗学的インスピレーション。ある地域で不慮の死を遂げた「ノツゴ」などと呼ばれる不運不幸な霊や、祀られぬ祖霊など、零落した神とも呼ばれるべき存在があった。それらを称して「山神」、「野宮」、「野ノ神」、「野神」と呼ぶ地方もあるそうだ。かえりみられぬ祖霊が、産土(うぶすな)の故郷を遠望する。

たまには、遠い祖先やはるか未来の子孫たちのことにも、思いをはせたい。

 

 

 ↓ 585 「道の人」 

 2022.5.2-5  16.3×21㎝ ワトソン紙に水彩・ペン・インク

 

 ↑ 「百姓」を農業民としての「おおみたから」としてのみではなく、網野善彦などの言う、職人や「一所不住、一畝不耕」のマレビトとしての、旅する職能民を含めた「百姓」の可能性。芸能の民や遊行僧、修験者などもその範疇に入る。故郷山口県には数少ない猿回しを生業(の一部)とする地区があったらしいが、そのことへのリスペクト(?)も含む。

それとは別に、東南アジアなどで、こうした弁慶の七つ道具のような商品を持ち歩く行商人を何度も見たことがあるような気がする。

 

 

 ↓ 587 「海を渡って学校へ」

 2022.5.7-12  20.5×14.9㎝ 洋紙に水彩・ペン・インク

 

 ↑ これは昭和30年頃まで実際にあった、沖縄のある小島の生活。新聞か、何かの本に出ていた写真を参考にしたのだが、例によってその図版が何に載っていたのだか、思い出せない。まあ、参考資料の比重というのは、それぐらいがちょうど良いとも思うが。

本島に隣接する小島。家々は貧しく忙しいから、子供たちの通学のために舟を出してやる余裕はない。小中学生は毎日、遠浅の海を竹馬に乗って通学する。天気の悪い日は欠席となるから、学業は遅れがちで、小さな差別が発生する。自然との共生が生むそんな小さな悲哀もさることながら、そこに巧まざるユーモアというか、真正の生活といったもの、さらにはその延長上に南洋的ロマンチシズムまでを見てとるのである。

 

 

 ↓ 591 「野鍛冶」

 2022.5.13-16  20.8×15㎝ 洋紙に水彩・ペン・インク

 

 ↑ 野鍛冶とは、かつては田舎をまわって、野外で生活に必要な簡単な鍛冶仕事をする者たちだったが、タイトルとこの絵柄はあまり一致していない。山野を放浪しつつ、特殊な技術で職人仕事をするマレビト、といったイメージ。その神秘性と畏れ。

 

 

 ↓ 592 「流星群の夜に」

 2022.5.14-26  14.7×10.4㎝ 洋紙に水彩・ペン・インク

 

 ↑ 大地、土地との交流・交感は農業生産のみにとどまらず、人間にとって不可欠なもの。地母神・農業神・作神、地神、地鎮祭、地湧の仏。流星群の降る夜に、地の鼓動をより良く聴く者がいる、というファンタジー的幻想。

 

 

 ↓ 594 「艸露」

 2022.6.27-28  13.9×11.4㎝ 洋紙に水彩・ペン・インク

 

 ↑ 蕎麦猪口などの秋草紋に打たれた三つの点が露を現わすと解明された(?)のは、蕎麦猪口ブームを牽引した料治熊太の著作によってだった。以来、長い間「露」は、いつかは取り上げなければならない小さなモチーフの一つだった。

 ちなみに「艸」はクサカンムリそのままの漢字で、当然「くさ/ソウ」と読む。「くさつゆ」あるいは「そうろ」。

 私のアトリエを艸砦庵(そうさいあん)と称して、ブログ名も「艸砦庵だより」としているのだが、この程度の漢字が、読めないと文句を言われることもしばしば。日本人の漢字能力の低下も困ったものだというのは、余談である。 

 描かれているのは、別に自画像というわけではない。

 

(記:2022.7.22)

ゲルハルト・リヒター展

 7月12日、夕方5時半からの予定に合わせて、懸案のゲルハルト・リヒター展を見に行った。ほぼ予想通りの内容で、2時間の予定が1時間少々で見終わった。

 

 リヒター(1932-)の作品とその行為を見るには、ヨーゼフ・ボイス(1921-1986)とアンゼルム・キーファー(1945-)を前後に据えた時間軸と、ドイツの近現代史・風土性をもう一つの軸とする座標上に位置づけるという過程が必須だと思う。

 ボイスがナチスドイツのヒトラー・ユーゲントを経て、志願空軍兵士として最前線で戦ったことはよく知られている。

 彼の代表的な「作品」はパフォーマンスであり、緑の党創設などの「社会彫刻/政治性」である。つまりは「コンセプト」である。自身の戦争体験を具現化するような、古典的な意味での絵画や彫刻といった「作品」は作らなかった。(余談だが、前提として、戦前戦中のドイツで、現代的美術が「退廃芸術」として禁止されていたという事実は、もっと重要視されるべきだと思う。)

 

 キーファーは戦後生まれで、戦争を直接には体験していない。それゆえにか、大学でボイスに学んで後、ドイツの歴史、特にナチスの時代を基軸とした絵画を制作している。

 

 二人の間に位置するリヒターは、幼少期を戦時下で過ごし、大学で同じくボイスに学んだ。作風は、基本的には絵画性を中核においたもの。戦争や時代性が直接関与する作品は少ない。ボイス、キーファーに比べ、作家の個人性はなるべく隠され、「見ること・認識すること」といった概念以前の認識論を、すでに同時代の誰かによって提示されたさまざまな「方法」を用い、「絵画・性への問い」といったベクトルで提示している。その点で、他の二人に比べて、作品自体が「鑑賞される」べき必然性は、最も少ない。

 にもかかわらず、多くの日本の観客は彼の作品を「鑑賞」しようとし、沈黙する。作家自身の個人性がなるべく隠され、なお「絵画・性」が現前しているということは、たやすく造形性や意味といった、なじんだ仮想へと転化しやすい。つまり、暗示性・暗喩性への回路を求める「思わせぶり」に活路を見い出し、それへとすり寄る。

 思うに、日本人はこの「思わせぶり」というスタイルが大好きなのだ。それは例えば曰く言い難い「侘び・寂び」と容易に重ね合わせやすい。結果として、沈黙が当然の反応となる。その沈黙は「納得」ないし「感動」にたやすく置き換えられ、鑑賞は完了する。それは間違っているとは言わないが、「脱臼した」鑑賞ではないのだろうか。

 

 以上が私の感想と考察である。否定しているのではない。それなりに楽しめたのは事実だ。20年以上前に、ドイツかスペインで彼の作品を初めてまとめて見た時の印象と変わらない。一言で言えば、近現代美術史的既視感。

 

 その後、不忍池弁天島に行って、彼此の落差と対照性に微苦笑することになるのだが、それはまた別の話。

 

 ↓ 「(タイトル失念)」

 

 

 ↓ 「アブストラクト・ペインティング」

 

 ↓ 「8人の女性見習看護師(作品番号130番の写真ヴァージョン)」1971年

 

 ↓ 「4900の色彩」2007年

 

 ↓ 「ストリップ(Strip/条片)」2013~16年

 

 ↓ 「ヴァルトハウス」(2004年)の解説

 

(記・FB投稿:2022.7.16)

 

石仏探訪-40 「裏山ワンダーランド 日の出町・白山神社」

 猛暑が続いた日々、昼間はほぼ外出しなかった。暑さには弱いのだ。少し暑さが和らいだ7月6日、思い立って日の出町の白山神社(白山さま)に行った。

 

 ↓ 参道

 一応舗装されており、車で上がれるが、自転車を途中にデポし、歩いて登る。写真には写っていないが、かたわらには山百合の蕾。

 

 御岳山から続く通り矢尾根の最末端、日の出町の裏山とでもいうべき位置に在る。だいぶ前にこの尾根を歩いているから立ち寄ったかもしれないが、当時は石仏や寺社には興味がなく、記憶にない。

 

 ↓ 標高300mほどのところから振り返り見る都心方面。

 私はこの都心の高層ビル群を遠望すると、それが墓標群に見え、いつも「ネクロポリス」という言葉を思い出す。元旦には初日の出を拝みに多くの人が登るそうだ。

 

 ↓ 参道脇に何対もあった木製の常夜燈。

 「奉祝御大典」と書かれ、令和の御大典の際のものだろう。石造だと大変だが、木製だと安上がりで、数多く建てられる。実際に火を灯すのは年に何回だろうか。「御大典」など、天皇関係のものについて、そのうちまとめてみたい。

 

 ↓ 御神木。

 杉だったか、檜だったかは未確認。なかなか神寂びた風情。参道の途中にあるというのが、少し解せないが…。

 

 ↓ 「敬神」の碑。白山神社崇敬会。

 写真にはないが、下から歩いていると、参道から社殿まで、あらゆるところに数多くの竹箒が置かれていた。実に良く清掃され、整備された神社だったが、この団体がそのようにしているのだろう。地方の小さな神社でここまで徹底しているのは珍しい。ご苦労様です。そうですか、「敬神」ですか…。菊理媛神を信仰する分には文句はないのですが。

 

 主祭神菊理媛神(ククリヒメノカミ)、別名、白山比羊神/白山比咩大神(シラヤマヒメノオオカミ)。修験道の山でもある加賀の白山の女神を勧請した神社。神仏習合においては白山妙理権現(本地仏は十一面観音)とされ、本来は農業に関与する水神であるが、「ククリ」が「括る」と連想され、縁結び・和合の神ともなっている。また、白山の白からの連想か、一部では養蚕の神とされることもあるようだ。

 参道の傍らには、地味だがそれなりに興味深いものがいくつかあった。

 

 ↓ 唯一あった石仏らしい石仏。

 神社だから無くても不思議ではないが、これ一つだけあるというのが気になる。

 刻字等見当たらず、神仏種は不明。頭部の冠と左手の開敷蓮華(?)から観音かと思われるが、開敷蓮華としては少し妙だ。あるいは、桑の葉を持つ蚕神≒ククリヒメの可能性もあるのかとも思う。ただし、ここの白山神社に養蚕神社としての信仰があったかどうかは不明。その意味でも興味深い像である。資料等には見当たらない。

 

 ↓ 社殿全景。

 ここにも茅の輪があった。白山神社牛頭天王とは関係ないが。

 中にプラスチックなどの芯が入っていないと、こういう形にヘタってくるわけだ。それとも宝珠の形なのか?

 

 ↓ 二つの弊社(木造)があった並びにあった稲荷社。

 コンクリート製の社殿(これはこれでちょいと良い味)の右奥の立っている石は陽石、手前の白い石灰岩は陰石ということだろう。その手前に一対の狐がある。

 

 ↓ 金属製(鋳物?)狐

 狐は稲荷社の神使で、ふつうは石造か磁器製。この狐は金属製(鋳物?)なのが珍しい。私は初めて見た。写真には写っていない弊社(神社名不明)の一つに、金属関係の会社の人が奉納した小絵馬があった。稲荷神は本来穀物・農業神だが、一部に金属神の要素もあり、そうしたことと関係があるのか、それとも考え過ぎか。さて?

 

 

 一通り見終わって、社殿の裏から、例によって地図には出ていない支尾根の路を下る。仕事道にしては妙に丁寧に手入れがされている。ところどころに、いくつかの不思議な造形物が現れる。立木彫刻、顔面石、自然石を積み上げた造形物。その前には花立がしつらえられており、礼拝対象と位置づけられている。

 

 ↓ 石祠。詳細不明。

 社殿の裏から尾根を少し歩いたところにあった石祠。宝形造(でよいのか?)の祠のフォルムが実に良い。この屋根の形は初めて見た。刻字は見当たらず、祭神等は不明。

 

 ↓ 一字一石供養塔。

 一字一石供養塔とは、末法思想弥勒信仰に基づく納経行為の一つとして、法華経を小石一つ一つに一字ずつ書き写して地中に埋めるというもの。経典供養塔の一種。

 「紀元 二千五百四十七年 一字 一石 法華經塔 施主 山崎三右エ門」とある。明治19/1886年のものだが、明治という元号ではなく、皇紀年が刻まれたものは初めて見た。

 皇紀とは、明治5/1872年に政府が太陰暦から太陽暦へと改暦し、その6日後に『日本書紀』の記述に基づき、神武天皇即位を紀元(元年=西暦紀元前660年)とすることを布告したものである。むろん歴史的根拠は無い。

 以後、(場に応じながら)正式紀年様式として、元号皇紀が併用されたが、一般的には西暦も使用された。つまり当時の日本では三種類の紀年法が併存した。昭和になってからは、特に戦争との関連(国粋主義的風潮)で多用されるようになった。昭和15/1940年には奉祝国民歌として『紀元二千六百年』が発表され、大いに流行した。

 戦後も皇紀を廃止する法令は特になく、現在でも一部の神道関係者などが使用している。いずれにしても皇紀自体が神道的なものでありながら、法華経という仏教の塔に使用されているのが、珍しい。明治19年という、神仏習合の色合いを濃く残した時代性の一つの表れか。また神社近くにあるということも、同様の理由からだろう。資料には未記載。

 

 ↓ 立木彫刻

 路のかたわらの立木に彫刻したもの。コケシのようだが意図するところはわからない。

 

 ↓ 近づいて見る。

 円空や木食とは似ても似つかぬが、意識したのだろうか。あまり上手いとも思えないが、道具使いというか、技術的な巧拙はわからない。

 

 ↓ 手前と向こうに二つの顔面石。

 なぜか花立があり、賽銭が置かれている。よく見ていると、顔が彫られているらしいことに気づいた。

 

 ↓ 反対側の顔面石。

 目、鼻、口とおぼしき形が彫られている。石材としてはふさわしくない、そこいらにあった自然石を彫ったもののようで、技術的には稚拙としか言いようがない。しかし、この熱意と意図は何だ?

 

 ↓ 「はしご坂」

 先の顔面石の先から振り返る。ちょっとした傾斜だが、丁寧にステップが刻まれている。「はしご坂」と命名されているのは、よほど達成感があったからなのだろう。

 

 ↓ ここからは自然石を積み上げた造形物がいくつか現れる。

 しいて言えば、右奥のそれは五輪塔風。左は毘沙門天のような武人風。

 

 ↓ 舟形光背石仏風。 

 これは未加工(?)の石を台石の上に立てただけだが、全体としては舟形光背の石仏風。あるいは陽石風と見えなくもないか。花立もある。ほかにもう一つあった。

 

 どうやらこの路は、独自の感性(と信仰)を持った地元の誰かが、最近になって整備した「信仰の路」でもあるようだ。一つ一つの造形物にこめられた意味や名称はわからないが、神仏習合的要素をこめた、ワンダーランド(異界)の気配が漂う。麓の人家近くまで降りてきて、結界の注連縄を見た時には、少しホッとした。

 

 ↓ 終点近くの愛宕神社

 扁額はないが、途中の手作りの道標にそう書かれていた。

 

 ↓ 麓近くの十字路。

 注連縄が張ってあり、結界(神域)はここで終わり。やれやれ。右に行けば民家の脇を通って、道路に出た。

 

 近辺の裏山、里山、あるいは寺社の一画でも、気をつけていると、時おりこうしたワンダーランド的領域に遭遇することがある。単に信仰の所産といって良いものかどうか微妙だが、私は必ずしも嫌いではない。人の心性やビジョンの不思議さを思う。

(記・FB投稿:2022.7.7)

小ペン画ギャラリー-26 「民俗・民間信仰系-2」

 ここのところ山、旅、石仏、民俗的な投稿が続いた。

 だが、私の本業は画家である。画家ではあるが、本道であるタブローの制作は、ここのところの暑さや諸般の情況から停滞気味。小ペン画の方も、ここのところ全く天使が舞い降りてきてくれない。

 しかし時おりは作品をUPしないと、単なる暇な、山旅と石仏愛好の人(まあ、決して間違ってはいないが…)だと思われかねない。

 ということで、久しぶりに「小ペン画ギャラリー」の投稿。以前に投稿した「民俗・民間信仰系」の続編。続編と言っても、大した意味はないが、最近の流れからすれば、自然(?)かもしれない。

 個々の画像に簡単なコメントを付したが、ネタバレ(?)、なくもがな(?)、かもしれません。タイトル以外はスルーしてもらってかまいません。

 

  

 ↓ 303 「石抱木守」

 2020.6.10-20 15×10.6㎝ 水彩紙にペン・インク・水彩 (発表済み)

 

 たしか北八ツの蓼科山か、あるいは別の山を登った時だか見た景をもとにしていると思うのだが、はっきりしない。

 岩でも木でも滝でも、大きかったり、他と少し変わった物は、それゆえにカミ(迦微=神)、あるいはカミの降りたもう依り代、神籬(ひもろぎ)となる。アニミズムというか、原始神道というか。そうしたものに注連縄が施されたり、小祠が祀られたりする。そんな感じは、宗教未満、宗教とは言わないにしても、そう悪いものではないと私は思っている。

 

 

 ↓ 307 「指路経によりて告ぐ」

 2020.6.19-21 13.7×9.3㎝ 和紙に着色、ペン・インク・顔彩

 

 あるテレビドキュメンタリーで見た、幻の流浪の民といった内容の番組。そういった類の番組は好きなのだ。

 はるか昔に漢民族に追われ、長く流浪し、現在は辺境の孤絶した山岳地帯に住む苗族(だったか?苗族と言っても無数の支族に分かれている)の末裔たち。死後、彼らの魂は、ひそかに伝えられてきた「指路経」という、流浪の経路を記した巻物に記された道筋を逆に辿り、原郷に帰るのだという。そのなんとも心惹かれるストーリーの全容を描くことは、小ペン画では不可能だが、その一シーンのイメージから。

 

 

 ↓ 439 「石を懐く」

 2020.12.29-2021.1.4 10.9×8.6㎝ ミャンマー紙に膠、ペン・インク 

 

 古いものの断片、残欠といったものに心惹かれる。石仏、発掘品、土器片、化石・・・。たまたまそこに記された装飾や記号があれば、その意味するものを思う。思想でも物語でもメッセージでもない、それ以前のイメージ。

 

 

 ↓ 317 道祖神-2

 2020.7.11-12 13.5×13㎝ 和紙にドーサ、ペン・インク・水彩

 

 

 道祖神の中でも信州に多く存在する、男女双体の祝言タイプの道祖神からの、現代的翻案。

 昔のものでも、作られた当時は、その時点での現代性を有していたはずだ。だから、もしコンテンポラリーな道祖神を作るとすれば、たとえばこうしたものかもしれない。

 

 

 ↓ 485 「同帰」

 2021.7.22-8.4 20.8×15㎝ 水彩紙に油彩転写・水彩・ペン・インク・コラージュ 

 

 墓標に「帰元」、「帰一」、「帰十」、「同帰」、「同帰元」などと刻まれているのを見ることがある。「根元」や「空」、「無」に帰るという、庶民レベルでの哲学的帰結としての死生観。 

 日本人の多くは、死後の魂は葬られてから一定期間を過ぎると、その土地の山から空に昇り、以後、祖霊という集団霊=集合体となって村や一族を見守る・鎮守するという、仏教以前からの自然崇拝的祖霊信仰を最大公約数的に持っている。山中、山上に葬っていたという例も多い。画中の女性が山に運び上げようとしているのは、誰か。

 

 

 ↓ 参考:地蔵菩薩・墓標仏。享保4/1719年。

 

 「同帰元(帰は異体字)」とあり、このように二人以上の戒名が刻まれていることから、何年かたってから子が両親を供養するなど、複数の親族を「一緒に、同じ処へ」という思いを込めたものだろう。

 檜原村の山の中腹の倉茅集落。狭く急な路の傍らの、草に埋もれかけた石仏群の中の一つ。慈しみと言うにふさわしい穏やかな表情。一帯には似たような墓標仏がいくつもあった。山の斜面の、耕地の狭い集落だから、路傍を墓地としたのか?

 

 

 ↓ 543 「案山子」

 2022.1.2-3 12.5×9㎝ 洋紙にペン・インク・水彩

 

 従来の山神論とは根本的なところで異質な衝撃を受けた吉野裕子の『山の神(易・五行と日本の原始蛇信仰)』。その中の、「ヘビ」の古語である「ハハ・カカ」から導き出された「ハハ(キ)/箒」や「カカ(シ)/案山子」論は、不思議な説得力と広がりを持っていた。

 その影響で、気がつけば自然にこの絵を描き始めていた。われながら妙な絵だと思う。われわれの民族的記憶の基層には、まだそうしたDNAがかすかに残存しているのだろうか。

 

 

 ↓ 548 「送られる神」

 2022.1.19-21 15.8×13.5㎝ 木炭紙に水彩・ペン・インク

 

 どんど焼きサエノ神祭)の本質は忘れられかけている所が多いが、一説には正月に迎えた山の神、あるいは歳神をまた山へ送り返すという意味もあったようだ。燃やされるその形態(サエノ神)は、私の勝手な飛躍した連想だが、前述の「案山子」と似ていないこともない。神は招かれ、訪れ、そして送り出され、そして人々の日常が繰り返される。

 

 

 ↓ あきる野市高尾神社でのどんど焼き(サエノ神)。2019.1.14

  同じあきる野市でも自治会(旧部落・村)ごとに形態は少しずつ違うようだ。

 

(記・FB投稿:2022.6.27