艸砦庵だより

河村正之のページ 絵画・美術、本、山、旅、etc・・・

「石仏探訪‐14 美しき如意輪観音 二つの墓地と世界の墓地・その1」

 半月前ほど、日の出町細尾の光明寺に行った。寺の前、境内と見て、傍らの墓地ものぞいて見る。私の石仏探訪は、基本的には墓域内の個人墓標は対象としないが、墓地入口あたりに六地蔵をはじめとする石仏群があることが多く、また墓域内にも時には見るべきものがあることもあるので、一応のぞいてはみるのだ。

 その時も山腹を造成した墓地の上の方に、何やらある気配。上がって見ると、そうたいしたものではなかった。だが、その周辺の景色が何かひっかかる。少し観察しているうちに、思い出した。ここ光明寺は両墓制が残っている場所だったということを。

 両墓制とは「遺体の埋葬地と墓参のための地を分ける日本の墓制の一つ(Wikipedia)」で、沖縄から関東、東北まで濃淡はあるが、全国のあちこちで見ることができた。以前、民俗学に強い関心を持っていた頃、沖縄の洗骨風習や風葬などといったことと共に、この両墓制ということを知り、一面でポリネシアや東南アジアに起源を持つと思われるそうした風習に、ある種のロマンチシズムというか、エキゾチックな興味を持ったのである。

 両墓制は各地で様々な形式・特色があるが、共通した要素としては「埋め墓(ミハカ、サンマイ/三昧、ボチ/墓地、ヒキバカなどとも言う)」という遺体埋葬地と、「詣り墓(ラントウバ/卵塔場、ラントウ、タッチョウバ、サンマイとも言う)」という遺体のない墓参用墓地の二つが存在しているということである。日の出町では埋め墓のことをヒキバカと言う。

 

 ↓ 埋墓(このあたりではヒキバカと言っている)。およそ人一人分の面積に石で区画が記されており、プラスチック製の花立が設置されていた。

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 ↓ 傍らには昭和63年/1988年の「○○家埋墓改修工事」という碑が建てられていた。これでその家にとっての両墓制は終焉ということである。

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 実は、石仏探訪とは限らず、これまで山歩きや散歩のおりに、何か怪しげな不思議な感じのするところに出くわしたことは何回かあった。今思えばその内の何か所かは両墓制墓地だったように思われるが、具体的な場所が記された資料を読んだことがなかったので、それと確認することはなかった。

 それは土葬を前提とした、とっくに廃れた過去の葬送形式であり、現在でもそうした場所が残っていることは、最近まで、不勉強のため知らなかった。郷土史関係の資料にも、具体的な場所まで記載されていることは少ないようだ。

 

 もう一つ。光明寺の両墓制の場所を見たあとで、その先の別の林道の脇にいくつかの石仏があるのを見つけて寄ってみた。資料にも出ていない、樹林の中に10基ほどの墓標が立ち並ぶ、一家族だけの、つまり屋敷墓と言われるもののようであった。

 

 ↓ 林道入口の集落の近くの樹林にある屋敷墓。10基ほどが整然と並んでいる。集落の名主とか有力者の一族のものなのだろうと推測される。

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 墓地と言えば、寺院に隣接するものや、地方自治体や組合の管轄する共同墓地が多い。だが、私が住んでいるあきる野市や日の出町に限らずとも、自宅の敷地内や、少し離れた畑と山林の際などに、その一家だけのいわゆる屋敷墓というのも、今でも全国のいたるところで見ることができる。

 その屋敷墓にあった石仏の内の二つが、素晴らしいものであった。

 

 ↓ 如意輪観音半跏思惟座像 浮彫座像 舟形 元禄6年/1693年

  上:梵字種子 右:「十方如来大慈大悲~~」「観秋妙音~~」

  石質良く、彫りの深い実に見事な像。墓標仏と思うが、正確にはわからない。

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 ↓ 地蔵菩薩宝珠錫杖 浮彫立像 舟形 (頭部一部破損)

 梵字種子 右:「~~空~信~」 左:「毎日晨□八於諸定安~~」

 如意輪観音と同様に石質良く、彫りの深い見事な像。作風から見ると如意輪観音同一の石工の手になるものか?

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 丸彫に近い舟形光背の浮彫の如意輪観音半跏思惟座像と宝珠錫杖を持つ地蔵菩薩立像。如意輪観音には元禄6年/1693の年記がある。ほかに偈(仏教用語で、経典中で詩句の形式をとり、教理や仏・菩薩をほめたたえた言葉。頌/じゅ、讃とも訳される)らしき文字が刻まれており、かなり格調の高いもののようだ。こんな炭焼きと林業ぐらいしか生業のない貧しい山村に、このような素晴らしい墓標仏を建立する、どんな歴史があったのだろうか。

 

 一般的に「お墓」にはあまり良いイメージというか、明るいイメージはないだろう。関連して石仏関係の投稿全般にあまり評判は芳しくない。まあ、それはそれで仕方がない。だが、ピラミッドもフィレンツェメディチ家礼拝堂もノートルダム寺院も、言ってみれば墓であり、死者を祀ったところなのだ。国内外の名所旧跡の多くは、そうした死者とかかわる場所が多い。

 

 ↓ ミケランジェロ作 メディチ家礼拝堂 ジュリアーノ・デ・メディチの墓碑

 上:ジュリアーノ・デ・メディチ像 下右:「晝」 下左:「夜」 

 下の石棺には当然ジュリアーノ・デ・メディチの遺体が入っている。

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 思いついて過去の海外の旅の写真を見てみると、そうした墓や墓地を写したものがいくつもあった。見はしたが、撮影はしなかった所の方が多い。意図して墓や墓地を撮ろうとしたのではない。たまたま出会ったそれらが造形的に美しく感じた場合に撮ったまでである。だがそれらを並べて見ると、異なる風土や文化や宗教の違い、あるいはそこから来る死生観や哲学の違いと、逆に共通性といったものまで見て取ることができそうで、面白く感じた。

 石仏探訪においては、墓地・墓石を避けて通ることはできない。そもそも美術・芸術において、死と向き合うことは避けられない。そうした観点から、ごく一部ではあるが、私の見た世界の墓標、墓地を少し紹介してみることにした。

 

  

 ↓ 中国甘粛省敦煌の鳴沙山近くの砂漠地帯。

 車中からの撮影でピントが合わず、わかりにくいが、ところどころに点々とした土盛がある。昔の中国人(漢族)の墓というか、葬った場所だとの事。漢族以外の先住の蒙古族などは墓は作らず、軽く石などを載せて終わり。すぐに場所もわからなくなり、墓参りの習慣はないとのこと。現在の様子はわかりません。

 右下にチラッと見えているのはラクダに乗った現地の人か、観光客。

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 ↓ スウェーデンゴットランド島。古いものだが、詳しいことはわからない。墓標は立てず、石棺の蓋に文字が刻まれている。 

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 ↓ 同じくスウェーデンゴットランド島。詳細不詳。  

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 ↓ スウェーデンストックホルムのとある教会附属の墓地にあった古い墓標。浅く文字が刻まれている。味わいある形。

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 ↓ 同じ墓地のもの。三角形の形の意味はわからないが、同じく、味わいある形。

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 ↓ 2000年に行った、文字からするとドイツかオーストリアと思われる教会の床。正確な場所はわからない。この教会ゆかりの僧侶やパトロンの王侯貴族などが床下に埋葬されている。柩の蓋の意味合い(?)でこのような肖像が彫られたものが床になっている。人々は(かつては)その上を歩き、その結果表面はすり減り、このような風合いとなる。 

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 ↓ 同上。細かい表情は摩滅し、おおよその輪郭だけが残っている。

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以下、「世界の墓地・その2」に続く。

 

(2021.3.1)

石仏探訪-13 わが家の石仏

 庭に石仏(馬頭観音)をすえてみた。

 

 ↓ 馬頭観音 三面四臂の憤怒相の座像 高41㎝

 とりあえず、枝垂桜の根元へ。横にマンリョウ、手前に春蘭、後ろにバイモやシュウメイギクなどが咲くだろう。馬頭観音だから私の旅の守護仏としよう。

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 石仏探訪に「ハマった」のは昨年6月頃からだ。この馬頭観音は7月にヤフオクで落札したもの。それで思い出したのだが、それ以前から持っていた石仏(石造物)と言えるものがあと二つ、わが家にはあった。

 

 一つは20年ぐらい前に骨董市で買った道祖神。ごく小さな祠型の、おそらくコンクリート製で、大正前後のものかと思っている。ある友人からは「コンクリートだからニセ物」と言って笑われて少しへこんだが、考えてみればこの手のものにニセ物もクソもないのである。江戸の石工が彫ったという態のものではないが、よくある屋敷神の祠などと同様に、商品として造り置いたものではないかと考えるが、どうだろう。少数の例外をのぞいて、どんな石仏や宗教的グッズであろうと、専門職人が手掛けるものである以上、商品としての側面は逃れられないのだ。

 ただし、その後も同様なものは、見たことがない。とすれば、逆にその希少さは貴重なのではないかと、今では思っている。

 

 ↓ 道祖神 妻入小祠型 コンクリート製 高14㎝。しっかりした刻字。

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 もう一つは、ある友人から旅先の土産として貰ったもの。ある場所で、無数の小さな地蔵が奉納されているおり、自由(?)に持ち帰って良いとか言われたとの由。詳しいことは聞いていないが、おそらく願が叶えば2体にして返すとか、そうした風習でもあるところなのではないだろうか。今度会ったら、あらためて聞いてみよう。

 

 ↓ 地蔵 合掌 丸彫立像 高14.5㎝

 首は折れていたのを継いである。素朴な彫だが、花崗岩(?)質で決して彫りやすくはなさそうだが、細かいところまでまじめに彫ってある。

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 さて、ヤフオクで落札した馬頭観音である。

 だいぶ前から野の仏が盗まれたり、行方不明になったということはよく聞く。だから多くの資料では、寺社以外の路傍などに在る場合、その所在場所を特定されないように努めている。

 地方の骨董屋の店先に石仏や五輪塔が置いてあるのは、時々見かける。地蔵や如意輪観音の刻まれた小さな舟形光背のそれらのうちのいくつかは、おそらくは墓標であったのではないかと想像される。墓石であったことを承知で買う人も多くはないだろうから、戒名などは削られていることもあるようだ。

 各地の墓地の整備改修がなされる際に、いわゆる子孫が絶えたり、管理費が払われなくなって無縁仏となった墓標類の処理には、各寺院も昔から苦慮しているようだ。その対応の一つとして、墓地の一画に無縁塔とか万霊塔と称して、そうした墓石を積み上げて一括して供養するというやり方もある。それはそれで悪いやり方ではない。

 

 ↓ あきる野市大悲願寺の無縁塔。

 地蔵や如意輪観音馬頭観音、双体像などいろいろな種類のものが含まれている。

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 ↓ 吉祥寺月窓寺の万霊塔

 元禄期のものなど良い如意輪観音が周囲に廻らしてある。

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 しかし地方の小さな寺ではそれも難しいようだ。昔の墓では土葬時代の個人墓標が多い。魂抜き(精抜きとも言う)という儀式を経てのことだろうが、墓地の一画にそうした無縁仏となった、あるいは家族墓に一括し終わった個人墓標が積み重ねられていたりする。寺院内にあった庚申塔馬頭観音の破片が混じっているのを見たこともある。墓地改修の業者にそれらの処理を頼むということもある。そうした過程での流出ということもあるだろう。

 

 墓石以外の小ぶりな石仏の代表である馬頭観音は、墓域に置かれることはめったになく、したがってどこからか持ち去られた可能性がある。盗品とわかっているものを買うのは嫌だが、実際問題として、誰もかえりみる人がいないそれらが、単純に処分されたということもありうる。ヤフオクには今出来のものを含めて、石仏石造物はコンスタントに出品されている。数多くのガンダーラ仏やアジアの仏像も、そうしてコレクターの手に収まっていく。

 骨董の世界では仏教美術は格が上とされる。そこで流通しているのは、経済的に困窮した寺院からの放出や廃仏毀釈のおりに流出したもの、中には近年の盗品もあるだろう。それを思えば、気が重い。

 ちなみに大英博物館のパルテノン・フリーズやツタンカーメンのマスクをはじめ、自国外の歴史的発掘品は、帝国主義的侵略や植民地時代の略奪品≒盗品である。いまだに元の国から返還要求が出ている。〔*ツタンカーメンのマスクは2019年にカイロのエジプト考古学博物館に変換されたとのことである(知らなかった!)〕。

 

 入札するに際してはだいぶ迷いもあった。だが、経緯は不明だが、事実として出品されているものである。わが家に置けば供養にはなる。

 馬頭観音は、本来は観音には珍しい憤怒相だが、石仏には、どちらかと言えば少女像かと見まがう慈悲相の一面二手のものが多い。これは比較的珍しい本来の三面四臂の憤怒相の座像。左右の第一手には三叉戟と未敷蓮華。第二手は合掌。

 石材は粒子の粗い花崗岩(?)で、表面はだいぶ風化し刻字等は見えないが、雰囲気は保っている。残念なことに、光背上部になにやら削ったような形跡が見えるが、戒名ではなし、梵字種子だったのかとも思うが、わからない。三重県西部のものだとのこと。

 ダメ元で入札したら案外安く落札できた。半年以上ベランダに置いて、腑に落ちるかどうか確かめた。そして庭の片隅、枝垂桜の根元に据えることにした。再度の落ち着き場所を得たと思ってもらって、今後長く付き合うことにしよう。

 

 ↓ 馬頭観音

 三面四臂の憤怒相の座像 高41㎝

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(2021.2.18)

「石仏探訪-12 今熊山と金剛の滝」 (2021.2.11)

 石仏探訪を兼ねた裏山歩き。今熊山は何回か訪れているが、石仏を意識して登るのは初めて。その気になって見てみると、予想以上に多くのものがあった。多すぎて今回はそのごく一部だけを紹介する。

 今熊山は神仏混淆修験道の山というイメージがあるが、今のところ詳しい資料は持っていない。紀州熊野本宮大社を勧請して今熊野宮と称し、祭神は建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)と月夜見命(つきよみのみこと)となっているが、まあ明治維新以降のこと。要するに熊野神社修験道である。

 表参道まで女房の車で送ってもらう。参道に入れば、葺屋の石仏群、道標、2種類の丁目石、いくつもの石灯籠や刻字のある玉垣群、等々。見るべきものは多い。

 

  参道脇にある葺屋。右奥から庚申塔地蔵菩薩丸彫立像2体。中央の地蔵は念仏塔かとも思われるが、詳細不明。

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 ↓ 葺屋の左には板碑型や自然石の塔が数個あるが、いずれも風化剥落が激しく、読めない。おそらく墓標であろうと思われる。 

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 ↓ 参道右脇の福徳稲荷社の手前の空き地に投げ出されていた、馬頭観音の文字塔(文化14年/1817年か?)と、「十六丁目」と刻まれた丁目石(町石とも言う)。同様の丁目石は山頂の本殿までに五つ見出すことができた。参道の入り口には「今熊山大権現入口」「従之三十六丁」と記された弘化2年/1845年の大きな道標が建てられていたから、それに対応するものだろう。側面には寄進者の氏名が記されている。

 またそれと並行して昭和6年/19331年に建てられた花崗岩製の別の丁目石が100mおきに建てられているのが14本確認できた。こちらは「二千百米」などと記されている。

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  ↓ 今熊神社の拝殿と本殿の分岐。左は今熊神社(拝殿)へ。右、本殿(今熊山山頂)へはここから山道となる。

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  ↓ 尾根道の途中の注連縄の結界。ここからさらに神域度が増すということなのだろう。

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 ↓ 山頂の本殿への石段と鳥居。

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 標高505mの頂上の神社本殿周辺には、いくつもの興味深い石碑群がある。いずれも修験道神仏混淆神道の系譜を示すもの。初めて見るものもあった。

 

 ↓ 本殿傍らの石碑群。ほかに新旧8基ほどの石祠群などがある。また本殿の下の段にも興味深い石碑がいくつかある。

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 ↓ 「山神 水神 地神 石経塚」と刻んだ文字塔。こうした山の神を含む三尊(?)形式のものを見るのは、私としては初めて。「地神」という概念は一般的にはあまり知られていないだろう。

 「石経塚」と刻んであるのは、経文の文字を一つの石に一字ずつ書いた「一字一石経」を埋めたということであり、いわゆる経典供養塔を兼ねている。神仏混淆の証である。年記は確認できないが、裏に「別當 鳳明沙?□」とあるので、今熊山中興の祖と言われる鳳明が活躍した安政3年/1856年頃のものと思われる。

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 ↓ 「天満大自在天 雷神 風神」と刻んだ、やはり三尊形式の文字塔。「天満大自在天」とは天神様の菅原道真、つまり雷神。そこから風神につながり、合わせ祀ったということだろう。

 先日NHKBSでやっていた「映像詩 宮沢賢治 銀河への旅 ~慟哭の愛と祈り~」というのを見た。資料をよく読みこんだ、新しい観点の盛り込まれた興味深い内容だった。そこで風神のことが取り上げられていた。山と風神は縁があり、昔から気にはなっていたが、その石碑を見るのは初めてで、少し感動した。

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↓ 今熊神社中興の祖、鳳明と恵賢大和上の線刻像。安政2年/1857年。彫りが浅く、やや見づらい。

 背面に「金色山隠士比丘恵賢大和上生像模之」「當山中興別當鳳明生像模之」の「造立主」として近隣の寺院関係者の名前が記されている。恵賢についてはわからないが、鳳明は他の石碑にもある「沙門鳳明」と同じ。二人並んだ僧形のどちらが鳳明かというと、やはり右の高い位置にある人物が恵賢大和上で、左の低い方が鳳明と考えられる。

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 次いで金剛の滝へ行く。ここは四季を問わず何度も訪れているが、雄滝の左岩壁にある不動明王―金剛童子を確認するため。

 

 ↓ 今熊山頂から金剛の滝へ。春未だ浅し。

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 『東国里山の石神・石仏系譜』(実に面白い本です)の著者田中英雄は、そのブログ「偏平足 山の石仏と独り言。」の「石仏224 刈寄山 金剛童子」で、「~見事な石仏である。不動明王と見間違うこの石仏は、右手に剣がないことと二つの蓮華に立つことから、金剛童子とした。ただ金剛童子の象徴である左手の三鈷杵が羂索になっているのが気になる。」と書いている。

 

 ↓ 金剛の滝。見えているのは雄滝。下に小さな雌滝があり、二つの滝は右岩壁に穿たれたトンネルでつながれている。昨年の台風によって滝壺は浅く埋まったまま。

 滝の左岩壁に不動明王―金剛童子の像がある。この季節以外には草木が繁茂し、岩壁は濡れて黒く、見辛い。

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 金剛童子とは仏教の守護神で、阿弥陀仏の化身ともいうが、如来-菩薩-明王の階層にはないのだから、しいていえば天部以下の周縁的存在である。したがって金剛童子の石仏はめったにない。滝=不動明王と思いこんでいた私は、それを確かめたくて再訪したのである。

 

↓ ブログ「偏平足」では、「右手に剣がないこと」とあるが、ズームして見ると、右手首のあたりから折損している。肩から腕全体の形を見ると、本来は剣を持っていたと思われる。ブログの投稿は11月17日とあるが、写真を見る限り、まだ周辺に草木が茂っており、象容を正確に見るのは難しかったように思われる。手前の植物の葉が、ちょうど右手首あたりを隠しており、完全な見間違いである。また左手の三鈷杵は金剛童子の象徴であり、それが羂索に替わるということは、儀軌上からもありえない。

 また、「二つの蓮華に立つ」とあるが、そのようなものは見えず、意味がよくわからない。したがって二つの観点は、誤読。不動明王で良いと思う。

 なお、頭部の上にある光背には梵字種子らしきものが見える。たしかに他の部分の火炎の意匠とは異なっていることはわかるが、相当にデフォルメされており、拡大してみてもそれが不動明王のものか、金剛童子のものなのか、判然としない。

 私自身、この像は何度も見ているが、こんなに草木に邪魔されず、岩壁も像も濡れて黒くなっておらず、ハッキリと写真に撮れたのは初めてである。

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 今回は冬枯れの季節だったので、草木や苔の繁茂が少なく、岩壁も濡れておらず、正確な観察ができた。詳しくは写真の方でコメントするが、結論としては、金剛童子説は著者の見間違い=誤判断で、やはり不動明王だと判断する。

 

 今回も数多くの石仏、石造物の写真を撮り、帰宅後にその分類分析に時間とエネルギーをとられるのはいつものこと。今回はとりあえずここまで。

久しぶりの裏山散歩(+石仏探訪-11)・金毘羅山から穴沢天神社へ

 昨日、毎月5日に近所で開催されているはずの骨董市「五の市」に久しぶりに行ってみた。行ってはみたが、やっていない。いつの間にか第三日曜に変わったようだ。またしても世の中の変化に取り残されている。

 

 

 ↓ 近所の高尾公園の梅。この木だけはや三分咲き。青梅の吉野梅林に倣ってか、かつてはこのあたりを高尾梅林と言っていたこともあるようだ。

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 予定変更を余儀なくされ、そのまま金毘羅山への裏山散歩に方針変更。山登りも裏山散歩も、昨年は激減した。コロナ禍の影響というよりも、心境の変化プラス体力の衰え。その根底には遅寝遅起きという、生活習慣の固定化がある。

 

 金毘羅山へは何度も登っているが、今回のルートは、ほんの少し初めて歩く部分を含んでいる。とはいえ、基本的には植林帯の何の変哲もない路筋。

 

 ↓ 基本、桧の植林帯。特に面白くはありません。体力不足を痛感。

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 金毘羅山の金毘羅神社とその奥の院的な「ククリ岩」では、いつもより少し丁寧に観察。

 

 ↓ 金毘羅神社社殿に掛かっていた奉納された天狗(左はカラス天狗=秋葉権現)の額。祭神は大物主神(と崇徳天皇)なので天狗は関係ないと思うが、天狗岩からの連想でこうなったのだろう。

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 「ククリ岩」には「イナカブ岩」の手書きの表示が付けられていたことがあった。「天狗岩」という呼称もあるようだ。イナカブは稲株だろうが、「ククリ岩」についてはどこかで読んだ記憶はあるのだが、内容は思い出せない。

 

 ↓ ククリ岩(=イナカブ岩=天狗岩)。磐座ではあるが、金毘羅神社とは直接の関係はなさそうだ。

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 ↓ 写真には写っていないが左手前には文政11年/1828年の石祠が壊れて残置されている。新しく設置されたこの石祠の正体と時代は不明(刻字が浅くて風化しており、読めない)。横には奉塞物の丸石が二つ、ガラスかと思ったら透明アクリルの珠が一つ。

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 ↓ ククリ岩の奥にはもう一つ先があり、下三分の二が欠損した石仏(馬頭観音?寛政十□年)と写真にはないが昭和55年/1980年の新しい地蔵菩薩合掌舟形が置かれている。これはこれで風情がある。

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 さてその先、どこへ行こうか。これまで歩く気になったことのない竹星林道を辿って途中から横根(?)を養沢の本巣にでも行ってみようかと、林道に下りてみたらそちら方面は「通行禁止」。無視して行ってもよいのだが、そんな気にもなれず、逆方向の深沢へ向かった。

 

 ↓ 金毘羅尾根と竹星林道がクロスした深沢寄りの路傍にある鳥獣供養塔。東京猟友会五日市支部による平成元年22年/2010年。

 日本人は神仏・経典や先祖を祀り、供養するが、そのほかにもこうした鳥獣や、はてには筆や針といったモノまで供養する。モノには魂はないという外国人には理解できないようだが、はてさて…。

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 すぐに深沢の手前の南沢へ降りる路が出てきて、そちらに入る。少し下で二つに分かれるが表示の「山の神」にひかれ、そちらに進む。

 山の神=山の神神社はアジサイ山の一画にある、特にそれらしい特徴もない普通の社。入口の石柱に書かれていることだけで、それと知られる。

 

 ↓ 降り立った南沢集落にはあちこちでミツマタの蕾がふくらみはじめていた。近くでは和紙(軍道紙)作りをしていたから、その名残なのだろうか。

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 ↓ 集落にある民家。今時珍しい茅葺の兜造り。隣の家も大きな家で、かつての(?)山林地主だったのだろうか。

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 ↓ 五日市駅からこの深沢一帯には「深沢小さな美術館」の美術作家・人形作家、友永詔三さんの手になるこうした「ZiZi」と呼ばれる妖精(?)が道案内をするように、いたるところに立っている。コンセプト等よくわからないが、まあ、これはこれで。 

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 そこから先は何度も歩いている。途中の奇妙な形をした石灰岩を、あるいは寒念仏塔ではないかと覗き込んでみたが、ただの奇岩だった。

 

 ↓ 寒念仏供養塔かと思って見たら、ただの奇岩(石灰岩)だった。

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 ついでにそこにあった標識に従って、東京都の天然記念物になっている鳥ノ巣山石灰岩産地の山頂に登ってみる。

 

 ↓ 集落の一風情。個人の別荘だろう。これを右手に見て登る。

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 10分足らずで二度目の山頂。表示も何もない、つつましい小さな山頂。単なる突起だから山名もない。

 

 ↓ つつましやかな南沢鳥ノ巣山石灰岩産地の山頂。石灰岩の露頭に浸食された筋が彫り込まれている。

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 南沢から深沢の何度目かの穴沢天神社へ。庚申塔道祖神も、季節のせいか、前に見た時よりもよく見える。

 

 ↓ 穴澤天神社の左、庚申塔享保6年/1721年)と右、道祖神安政4年/1857年)。庚申塔は、石質彫り共に素晴らしい。右第三手には蛇を持っているが、よく見ると蛇の口が開いている。そのように表現されたのは見た記憶がない。

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 ↓ 道路沿いの窪んだ構造物。ひょっとしたら石仏でも安置されていた跡かもと思ったが、この先にも同様なものがあり、どうやら用水・排水関係のもののようだ。 

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 途中では、数は多くないが、山茱萸サンシュユ)?や紅梅(?)などが咲いており、はや春の気配が感じられた。

 

 ↓ 山茱萸サンシュユ)だと思いますが、よくわかりません。

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 ↓ 紅梅? 緋寒桜ではないと思いますが、よくわかりません。

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 (2021.2.6)

 

小ペン画ギャラリー12 「近作」

 

 昨年11月の西荻窪の数寄和の個展「小さな世界」では、描きためた10㎝前後の小ペン画400点の中から、120点ほど並べた。

 この一年半は不思議なくらい、小さなペン画の制作に明け暮れた。おかげで本道のタブローは、全くと言っていいほど進まなかった。表現衝動というものはその時どきなのだから、問題ないと言ってもよいのだが、昨年度描き始めた、小ペン画以外の作品(タブローとドローンイング)がたった5点というのは、いくら寡作の私でも少なすぎる。それ以前から描き継いで完成させたものはもう少しあるにしても。

 その時どきの表現衝動以外にも、制作の流れには、全体の流れのバランスや、外部からの要請ということがないわけではない。

 とはいっても、なかなか憑き物が落ちないというか、(大きめの)タブローを描きだす気になれなかった。少々焦りのようなものを覚え始めたころ、年が明けたらス~っと、憑き物が離れて行ったという感じになり、何とかタブローに向かい始めることができるようになった。

 以後、毎日ほぼタブローだけに向き合っている。小ペン画は描いていない。F100、F50、F30・・・。まだ下絵や下描きの段階。私は筆が遅い。

 

 おまけに時を同じくして、何度目かの六十肩、首(頸椎)痛に見舞われ、首、肩が痛い。右腕が上がらない。首が回らない。筆を持つのは、せいぜい一回15分が限度。絵描きとしては悲惨である。薬を飲んでも、鍼を打っても、気休め程度。寝ていても右側には寝返りが打てない。ついでに腰痛もぶり返してきた。これが年を取るということだろう。困ったもんだが、しかたがない。

 

 それはそれとして、個展以後も年明けに中断するまで、40点余りのペン画を描いた。振り返ると不定期にFBにアップしていた「小ペン画ギャラリー」もその11でストップしている。個展アナウンスの一環としていくつかはアップしているが、少し久しぶりに気分転換を兼ねて「小ペン画ギャラリー - 12」をアップしてみようか。

 統一テーマは、近作ということ以外に、なし。そういう時の常で、作品選定は女房。「少しあっさり系を選んだ」とのことです。

 「あっさり系」というのは造形的に言えば、余白が多く、(某知人の言によれば)空間に張りのあるもの、ということになるのだろうか。私自身はあまり関心がない概念だが。テーマ的に言えば、宗教性や幻想性のあまり感じられないもの、ということらしい。そうですか。それはそれで…。

 

 

 ↓ 414 「楽師」 2020.12.3-8  14.7×9.9㎝

和紙風ハガキにドーサ、ペン・インク・セピア・水彩・ガンボージ

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 ↑ 南蛮図屏風や洛中洛外図などに描かれた南蛮人のズボンの形が気になっている。直接には11月に東京国立博物館で見た「桃山 天下人の100年」展で見たそれらにインスパイアされたか。しかし図録は買わなかったので、イメージ記憶。あまり見たもの(の再現)にとらわれないほうが良い。

 なお412,416も同様だが、本作では何色かのカラーインクを使ってみた。褪色性の観点から言えば、従来のNewtonなどの染料系カラーインクは絵画作品には使えないのだが、ある人から万年筆メーカーの出している顔料インク等で使えるものがあると聞いて使ってみた。一応耐光テストは実施中で結論は出ていないのだが、確かに以前のものより耐光性は良いようだ。色数が少ないのは仕方がない。

 

 

 ↓ 416 「冬の帽子」 2020.12.4-5 11.6×8.5㎝ 

  インド紙にドーサ、ペン・インク

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  ↑  特にコメントはないが、描き終えてみると、一回だけ偶然に知り会ったネパールとのハーフの女の子の記憶が反映されているようだ。アーリア人系の堅気の子だが、首筋にクレーの「忘れっぽい天使」のタトゥーをしていた。

 

 

 ↓ 412 「揮発の歓喜」 2020.12.3-5  15×10.5㎝

水彩紙にペン・インク

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 ↑ 「まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて~」(宮沢賢治)とは直接関係ないが、まったく無縁でもないイメージ。

 

 

 ↓ 425 「静思」 2020.12.17-19 11.8×15.4㎝

 台紙に薄和紙・マルチサイジング、ペン・インク 

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   ↑ 「瞑想」でもよいのだが、少し抹香臭い。もう少しささやかであどけない「静思」。

 

 

 ↓ 428 「独誦」 2020.12.19-20  13.5×9.2 

 和紙に着色・マルチサイジング、ペン・インク・グアッシュ・水彩・ガンボージ色鉛筆 

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  ↑  NHKBSでやっていたエチオピアキリスト教コプト教)の巡礼者たちの一シーンから。とても(一般的にイメージされる)キリスト教とは思えない、呪術的な感じだったが、かえって周縁性・多様性の豊かさといったものを感じた。「読誦」であれば仏教系の言葉だが、そこを「独誦」と読み換えた。

 用紙は、ある人が顔料+アラビアゴムあたり(?)で下色をほどこした和紙。かなり強い色調と筆触だったので扱いにくかったが、何とかその効果を少しは生かせたように思う。

 

 

 ↓ 431 「モダニズム絵画とをみな」 2020.12.20-21  14.7×10㎝

 和紙風ハガキにマルチサイジング、ペン・インク・セピア・色鉛筆 

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  ↑  半ば放心状態の女性。背景の意匠は抽象と色彩ということ。後期のキュビズム各派とかロシア構成主義などのイメージ。まあ、彩りとして選んだのかな。

 

 

 ↓ 801(小ペン画とは別の方の作品番号) 「静かに崩壊するニルヴァーナ(仮題)」 F100 

 自製キャンバス(麻布にエマルジョン地)に樹脂テンペラ・油彩

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  ↑  作品の制作途中、まして描きはじめ段階は、恥ずかしくもあるし、まず公開しないのだが、大きめのタブロー制作に復帰したことの証しとして、部分だけアップします。

 基本的にある程度以上の大きさのタブローは、1/2程度の下絵・下図を作る。5割前後の構想が見えてきた段階で、キャンバスに転写し始め、以後キャンバスと下絵の双方を行き来する。ある程度進めたら、下絵にはこだわらず、キャンバス上でどんどん変更していきたい。そうしないと絵が硬くなる。なかなかうまくいかず、2,3年ぐらいかかるのは普通。本作も完成はいつになることやら。だから毎年大作込みの個展は難しい。          

(2021.1.28)

 

石仏探訪-10 「首無地蔵・丸石地蔵と廃仏毀釈」(2021.1.25) 

  石仏探訪をしていると色々と不思議なことに気づくことがある。その一つが「首無し地蔵」「丸石地蔵」だ。

 

↓ 首無地蔵 地蔵菩薩宝珠錫杖 丸彫立像 あきる野市高尾大光寺

わが家から歩1分のところに立っている。それなりに立派な像塔だが、なぜか資料には記載がなく、詳細不明。基礎正面の刻字も見ただけでは読めず。

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↓ 丸石地蔵 地蔵菩薩宝珠錫杖 丸彫立像 八王子市高月路傍

念仏塔?としての地蔵。宝暦年間(1751~64)?。

地蔵の頭部に据える丸石については、道祖神や、屋敷神や稲荷等の御神体としての丸石と同様の、基層信仰としての丸石信仰があるのだろう。

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 仏像、中でも石仏と言われるものの中で、最も多いのが地蔵菩薩である。

 仏教伝来以来、国家鎮護の制度性として取り入れられた仏教は、貴族支配者階級の独占物から、次第に定着し民衆化していく中で、独自の日本化を進展させていった。その過程における様々な教説の輸入と定着、そして新しい教説の創出と宗派の成立等の過程で、信仰の対象として支持(=人気)を集めた仏(像)は、飛鳥白鳳時代の釈迦如来から、薬師如来阿弥陀如来大日如来観音菩薩地蔵菩薩へと遷り変わる。

 特に仏教が民衆の日常生活に深く根を下ろした江戸期以降は、地蔵菩薩はその二世(この世とあの世)御利益の趣旨もあって、最も身近な仏として愛されていた。さらに経済的にも安定してきた民衆自身によって、形態的にも加工しやすく、比較的容易に造立することのできる石仏という形をとることによって、路傍に、寺院に、また墓標仏として無数の地蔵菩薩像が造立された。

 これまで見てきた石仏の中で、墓標仏も含めた像塔でいえば、その八割以上が地蔵ではないかというのが実感である。今日新たに石仏が建てられることは少ないが、地蔵だけは別である。今なおいろいろな形で、あちこちで新しい地蔵が建てられている。

 そんな、人気のある地蔵ではあるが、そうした数多い地蔵の中で、墓標仏は別にして、寺院や路傍にある丸彫立像に関して言えば、その九割以上が、首がないか、あるいは継がれていたり、丸石に置き換えられていたり、新たに造られた頭部が載せられている。首が折れ、あるいは紛失した地蔵。それがあまりに多すぎる。それはいったいどういうことなのか。

 

↓ 丸石地蔵群 地蔵菩薩丸彫立像 八王子市美山町路傍

元は墓標仏としての地蔵だろうか。どれも小さいもの。すべて丸い自然石が乗っている。詳細不明。

こうして並んでいると、これはこれである種の可愛らしさも感じられるが。

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↓ 頭部新造地蔵 地蔵菩薩合掌? 丸彫立像 八王子市美山町路傍

詳細不明。頭部は近年の補修。自然石を置くだけでは忍びないと思ったのか、近所の素人による作だろう。供養造仏は心の問題だからその巧拙は問題にしないということになっているが、いかがなものだろう。しかしこれはまだましな方である。

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↓ 頭部新造地蔵 右:地蔵菩薩宝珠錫杖丸彫立像 中:地蔵菩薩丸彫座像 日の出町谷ノ入祥雲寺

右は念仏供養塔として建てられた地蔵。正徳2年/1712。中の座像の地蔵は詳細不明

平成元年発行の資料の図版では頭部は欠損のままであったから、それ以降の補修。ここでもその巧拙は問うべきではないかもしれないが、正直言ってやはり見苦しいと言わざるをえない。罰当たりだが、つい「ウルトラ地蔵」と言ってみたくなる。しかしやはり、これでもまだましな方である。

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 明治維新における廃仏毀釈ということは、一応知識としては知っていた。だが、長くその地域で愛されてきた地蔵だけが、民衆自身の手によってことごとく破壊されるということは、人情(?)としても無いだろうと、漠然と思っていた。割合としては多くはないが、庚申塔馬頭観音、特に像の刻まれていない文字塔などは、折れたり壊れている割合は比較的少ないのだ。

 地蔵菩薩像立像の多くは、宝珠と錫杖を持った僧形の丸彫立像である。丸彫立像であるから、プロポーション的には細長く、つまり倒れやすい。倒れれば、足元を起点としての遠心力によって、頭部は容易に破損しやすいだろうということは想像できる。

 私は首無地蔵のある程度は、そのようにして、自然に倒れた際に破損したのではないかと思っていた。だが考えてみれば、それでは割合が多すぎる。冷ややかに見てみれば、形状、構造・力学的に、地蔵の立像は棒切れ一本で容易に頭を打ち飛ばすことができる。

 

↓ 地蔵菩薩宝珠錫杖丸彫立像と寒念仏供養塔 日の出町新井 新井倶楽部

左の地蔵は廃仏毀釈の際、五片に分断され埋められていたが、昭和62年に発掘され復元したとの事。約120年間埋もれて忘れられていた。五片に分断されて埋められていたのだから、周到で意図的な破壊である。所在地の新井倶楽部は、廃仏毀釈によって廃寺となった妙楽寺の跡地である。つまりこの地蔵は寺の境内に立っていたということだ。現在は「妙楽地蔵」と名付けられている。

右の石灰岩の寒念仏塔は享和元年/1801年。こちらは破壊されず、ずっとすぐ近くに在り続けたようだ。ちなみに穴の開いたその形状から「姫石(陰石=女陰石)」とも考えられる。宝珠錫杖の地蔵立像はその形状から古くから陽石(男根)と見立てられることがあったが、据え付けられ直され並立している現状の配置は、そうした昔からの性信仰が今なお尾を引いているとも言えるだろう。

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 廃仏毀釈(=神道の国教化)という(上からの)宗教運動で、頭部や顔が破壊される、それはわかる。顔や頭部の破壊は、手っ取り早いシンボルの破壊だからだ。2001年のタリバーンによるバーミヤンの大仏の破壊はその典型的なものである。キリスト教会の壁画や仏教遺跡の仏像の顔が破壊されているのは、主にアジア圏・中近東の幅広い地域で数多く見てきた。

 

↓ 頭部は馬頭観音丸彫。基礎は別の塔の基礎。あきる野市小川慈眼寺。詳細不明。

頭部の欠けた像塔は多いが、頭部だけ残っているという場合も時にはある。以下、いくつか紹介してみる。

この頭部は馬頭観音だが、丸彫の馬頭観音はきわめて珍しい。惜しいことだ。基礎このあたりに観音霊場があったことを示す「第二十九番」と刻まれている。

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↓ 頭部は地蔵菩薩丸彫。下にあるのは馬頭観音浮彫立像舟形。あきる野市星竹普光寺。詳細不明。

たまたま残った地蔵の頭部を、頭部の欠けた馬頭観音にただ乗せただけのもの。意味はないだろうが、気持ちはわからなくもない。ちょっと面白い造形になっている。

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↓ おそらく念仏供養の浮彫舟形に別の地蔵(?)の頭部をくっつけたもの。その趣旨は不明。八王子市上川町大仙寺。詳細不明。

これは正直いって、異様な印象である。舟形光背の中央には別の像が彫られていて、その像の部分が欠落し、たまたま残っていた別の頭部だけをくっつけたということなのだろうか。しかし、補修?にしてもなんとも不思議な補修である。

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 私が見てきただけでも多すぎる首無・丸石地蔵は、果たしてどの程度が明治維新廃仏毀釈によるものなのか、あるいは他の要因があるのか。それを知りたいと思った。

 

 さて明治維新廃仏毀釈である。それを知るためには、その前提としての神仏分離を要請されるに至った状態、つまり神仏習合について知らねばならない。それについてもある程度は知っているつもりでいたが、実のところほとんど知っていないのだと認めざるをえない。さらに神仏習合を知るためには、そもそもの日本の基層信仰としての神道や、修験道を含めた宗教史全体を知らなければならないと思い至った。

 う~ん、困った。しかし乗りかけた舟である。この際、ある程度体系的に学び直したい。そういう時は岩波新書である。三冊(二冊を購入。一冊はだいぶ前に購入したまま未読)を積み上げて読み始めた。

 

 『日本宗教史』(末木文美士 2006.4.20第1刷 2012.7.5第8冊)

 『神仏習合』(義江章夫 1996.7.22第1刷)

 『神々の明治維新 ―神仏分離廃仏毀釈―』(安丸良夫 1979.11.20第1刷 2007.11.26第13刷)

 

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 なるほど。さすが岩波新書。必ずしもこれらが最良の書であるかどうかはわからないが、また当然ながら、取っ付きにくいある種の学術臭もあるが、とにかく久しぶりに濃厚なお勉強的読書体験を堪能できた。今更ながら、自分の知の体系のずさんさを思い知る。

 ともあれ、日本の基層(古層)信仰としての神社/神道と、普遍宗教/外来の先端的文化としての寺院/仏教と、「完全に開かれた系での複合体」という形で、現実的な相互作用として機能・展開したということを知った。それはヨーロッパにおける先行するドルイド教やゲルマン信仰とキリスト教の関係、中国の道教、南米のインカの信仰とキリスト教の関係等々、つまり先行する基層信仰と新しい普遍宗教との出会いの様相と相似する。

 また、例えば本地垂迹説によって、天照大神大日如来、日天子、観音の垂迹(化身)とみなされたということ。等々を知った。

 結局のところ、宗教とはやはり解釈ないし物語の創作ということなのか、というのが私のいだいた感慨である。

 

 廃仏毀釈ということでは、以前から私の故郷山口県であまり石仏を見ないこと、また石仏関係の資料を探しても、山口県関係のものは妙に少ないということが不思議であった。『山口県の石造美術』(内田伸 1985年 マツノ書店) によると川勝政太郎の1967年発行の『石造美術入門』の「地方別重要古遺品一覧表」には山口県のものは一点も記載がなく、県名すら載っていないということである。私が古本サイトなどで調べた限りでも、市町村単位で発行されているのは、わずかに3点のみ。他と比べて例外的に少ない。

 それに関しては『神々の明治維新 ―神仏分離廃仏毀釈―』によって以下の事を知った。

 明治維新を思想的に準備したのは水戸国学尊王攘夷論であるが、維新前後にその思想を受け継ぎ実践した勢力の中心にいたのは長州藩である。その先駆段階として次のような記述がある。

 「長州藩では天保十三年から翌年にかけて、村田清風(註:幕末の長州藩家老)を指導者とする天保改革の一環として、淫祠の破却が強行された。~(中略)~寺院と村々の小堂宇・小社祠などの全てを淫祠とみて破却し、~(後略)~ 」、「藩の『御根帳』に記載されたいわば公認された社寺堂庵は3376、『御根帳』記載を予定されているもの450、破却されたのは社寺堂庵9666、石仏金仏12510にのぼった。民間信仰的性格のつよい小祠・小堂庵・石仏・金仏などはことごとくは破却され~」

 社寺堂庵だけでも実に7割以上が破却され、膨大な数の路傍の石仏が破却されたということだ。村田清風は明治維新推進の基盤となった経済政策面では今なお高く評価されているが、その反面でこうしたこともしていたのだ。

 石仏探訪に興味を持って以来、コロナ禍もあって帰郷する機会に恵まれていないが、これまでの体験で山口県には石仏が少ないという印象も、そう間違ってはいなかったようだ。

 実は現在私が住んでいるあきる野市でも、養沢地区や盆堀地区では廃仏毀釈が激しく、その結果、寺は廃され、今も住民は基本的には神道だけであるとの事。廃仏毀釈の余波は今なお残存しているのだ。

 明治維新前後における廃仏毀釈の激しかった藩や地方として、津和野藩、隠岐佐渡薩摩藩土佐藩、苗木藩(岐阜県内の小藩)、富山藩、松本藩などがあげられている。その内のいくつかは長州出身の宗教官僚が入り込むことによって、廃仏毀釈が強力に推し進められたということだ。

 

 とはいえ、いかにお上の命令(?)であるとは言っても、人々が慣れ親しんだ習慣であるところの信仰をそう簡単に転向できるとも思えない。したがってたとえ渋々ではあれ、上からの命令・要請に人々が従ったというのには、やはりそれなりの理由があるのだろうと思う。

 その一つに、江戸中期以降、世俗化し、宗門人別改帖や寺請制度などによって権力の一翼と化した寺院仏教への反感というか、ルサンチマンに近いものがあったのではなかろうかと推測される。ただし、そのことについては、私自身まだ納得できる段階には至っていない。 

 

 ともあれ、以上見てきたように、明治維新における廃仏毀釈は、一言で言えば、尊王攘夷運動の理論的進化形である国家神道観(=神道国教化)に基づく、明治維新という近代国家社会確立の過程における、上からの宗教改革であったと言えよう。その本質は復古思想であるがゆえに、一過性の一時的現象でしかなかったが、現実的な一面では昭和20年まで続いた国家神道を完成させたのであり、靖国神社という変形した具体的な形で、今なお存在している。その下に、同時期に実施された神社の様々な再編成(祭神の再編も含む)の推進によって定着した、嬉々として、あるいは粛々と御参りされるべき今日の神社がある。「なにごとのおわしますかはしらねども」

 

 結局のところ、繰り返しになるが、宗教とはやはり創作された物語への帰依でしかなく、それを求める人々の心性が必要とする自己の反映といったもの、ということなのか、というのが私のいだいた感慨である。

 そして廃仏毀釈の実践の最先端で、地蔵の首を叩き折り続けた民衆自身のネルギーの噴出は、「見てきた物や聞いた事 いままで覚えた全部 でたらめだったら面白い そんな気持ち分かるでしょう(「情熱の薔薇」ブルーハーツ)」といった、変革の時代特有の一過性の情念にも由来するのではないかと思うのである。

 あるいは偶像破壊への衝動。それは現代にも通底するものではないだろうか。

 

 

石仏探訪-9 「閑話-三題 烏瓜と石仏と野外アート展(青梅市黒沢・長淵)」

 昨日、女房の所用につき合い、青梅市の黒沢へ。もちろん、石仏探訪という下心あってのこと。
 山あいの沢沿いに延びる集落は、道も昔とあまり変わっていないようで、多くの石仏が昔とあまり変わらない位置にたたずんでいるように思われる。龍雲寺、聞修院、檜原神社と、何か所かの路傍の石仏を見る。
 ↓ 聞修院の向かい地蔵堂の内部。施錠されているが、格子の隙間から撮影。右手前は繭玉を模しているのだろうか。
 右から地蔵菩薩丸彫立像。寛政9年/1797年。台座に「奉供養 六道抜苦尊 常称念仏講」とあり、当時の人々の考えといったものがうかがわれる。その左、地蔵菩薩 丸彫半跏座像。享保4年/1719年。共に前掛け帽子等で像容姿はよくわからない。
 その左は享保13年/1728年の一石一字供養塔。一番左が延享元年/1744年の青面金剛立像浮彫立像 笠付角柱。
 いずれも像容等はよく見えないのは仕方がないが、保存状態は良さそうだ。
画像に含まれている可能性があるもの:室内
 
 ↓ 龍雲寺の墓地入口にある地蔵菩薩錫杖 丸彫座像を主尊とする三界万霊等。
 基礎には「地蔵菩薩大慈悲 若聞名号不随黒闇」とあり、この寺の開基である水村氏の子
 孫が、母と共に建てたようだ。 
画像に含まれている可能性があるもの:立っている人、植物、空、木、草、靴、屋外、自然
  
 ↓ 聞修院の入り口にある観音菩薩丸彫座像を主尊とする廻国巡拝塔と経典供養塔を兼ねたもの。明治14年/1881年観音だから涎掛けは要らないとおもうのだが…。画像に含まれている可能性があるもの:植物、木、花、草、屋外、自然
  次いでこれも青梅市内だが、少し離れた大荷田川中流で開催されている「ONITA 東京里山野外アート展」を見に行く。何人かの知り合いも出品している。作品行為と自然・風景などといったことを、ぼんやりと考えてみる。
  ↓ 「ONITA 東京里山野外アート展」 鈴木斉さんの作品。
画像に含まれている可能性があるもの:木、植物、草、屋外、自然
  ↓ 「ONITA 東京里山野外アート展」 原田丕さんの作品。
画像に含まれている可能性があるもの:屋外
  ↓ 「ONITA 東京里山野外アート展」 平昇さんの作品。
画像に含まれている可能性があるもの:靴、屋外
  近辺には少数だが興味深い石仏などもあったが、はや夕闇が迫り、うまく撮影できない。
 そろそろ引き上げようかという頃、烏瓜を見つけた。今年はなかなかまとまって烏瓜を見ることができなかったが、これでようやく恒例の秋の深まりを感じさせる色彩を飾ることができる。
先に生けた山帰来(サルトリイバラ)の葉は枯れたが、そのまま壁に飾っていたものと合わせて、豪奢な秋の彩合いを楽しんでいる。 
 ↓ 烏瓜にもう少し緑色のものがあると良いのだが…。
画像に含まれている可能性があるもの:植物
 烏瓜も地蔵堂も共に荘厳(しょうごん)ということである。