艸砦庵だより

河村正之のページ 絵画・美術、本、山、旅、etc・・・

小ペン画ギャラリー-9  「へんな男 いくつか」

 今回は「へんな男」というテーマ(?)。いや、テーマではない。テーマにもなっていない。何となくとらえどころのない、そのくせ何か引っかかる感じのものを選び出して並べてみたら、この言葉が浮かび上がってきたのである。したがって、解説のしようもない。

 

 小ペン画を描きだしてから、人物をモチーフとする割合が多くなった。男とも女ともつかない中性的なものもあるが、女性の割合が圧倒的に多い。それは、女性のフォルムというか姿かたちが、いや正直に言えば、私にとっては、女性という存在そのもの(の不思議さ)が、おのずと何かしらのイメージを紡ぎ出すというか、あるイメージに結びつきやすいからであるように思われる。

 それに対して、男性をモチーフとしたものは、どこか具体的なイメージを紡ぎそこねる感じがする。

 

 あらかじめ用意した、結果としての思想やメッセージといったものとは異なった次元で湧き出てきた、そういうイメージというか、妙な気分というか、心境というか。だが案外そんな状態の時に、普段は気づかない何か神秘めいたものを感知することもある。

 

 ああ、やはりうまく言えない。

 

 小ペン画は「小さな世界」なのだ。思想やメッセージ未満の、かたちと彩でとらえた短い詩なのだろう。

 無理にカテゴライズすれば、もっと出せるのだが、今回はここまでとしよう。

 

 

91 「うつせみ」 

2019.10.21 11.7×8㎝ ファブリアーノクラシコ?に膠引き ペン・インク・顔彩・色鉛筆 

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 うつせみとは「蝉の抜け殻」、「この世に現に生きている人。転じて、この世。現世。うつしみ。」というのが一般的な定義だが、私は「魂が抜け去ったさま。気ぬけ。虚脱状態。」という少数派の定義の方を、より重く信じていた。枕詞としては「蝉の抜け殻」からきたと思われる「うつせみ-の」で、「はかないこの世の意の〈よ(世・代)〉にかかるようになった。」とあるから、それはそれで必ずしも間違いではないだろうが。

 虚ろな実存の身体を綾なすもの。

 

 

183 「窓辺の画家」

 2020.1.14 15.3×9.1㎝ インド紙にペン・インク・色鉛筆

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 画家の像ではあるが、自画像ではない。

 あまり私らしくはないが、少し好きな作品。

 

 

198 「想い」

 2020.1.27-29 10.9×8.9㎝ 和紙にペン・インク・水彩・グアッシュ

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 「想い」ではあるが、その内実はわからない。私にも、誰にも。

 

 

231 「呆然と天をあおぐ

 2020.3.13-14 12.5×9㎝ 洋紙に和紙貼り・ドーサ・裏面ジェッソにペン・インク・セピア

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 呆然とする、ということは、そう悪いことでもないと思う。

 

 

256 「ほほえむ修行僧」

 2020.4.10 13.1×8.9㎝ 古雑紙(御朱印帖)にドーサ、ペン・インク・水彩

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 僧というのはどのような宗教であれ、不可思議な存在で、気にかかる。

この絵に描かれているのは、しいて言えばモンゴル仏教の密教系の禅僧であるように見える。むろん教義的にはそんなものは存在しないのだが。

 背景の花などがある薄暗がりが、彼の帰属する宗教の世界か。

 

 

269 「君歩めかし 弱ければ」

 2020.4.28-5.4 14.8×10㎝ 雑紙(エンボス入り)にペン・インク

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 弱い者は幸いである。弱いがゆえに、日々誠実に歩み続けなければならない。

 最後まで色をつけるかどうか迷った。色をつけた時の在りようはほぼ正確にイメージできるが、今でも迷っていると言えば、迷っている。

 

(記:2020.9.13)

 

「暑気払い―その2・古い沢登りの写真」

 古アルバム、古写真の整理は遅々としてはかどらない。先日FBに「暑気払い―古い山の写真」として冬山の写真をアップしたが、案外評判が良かった(?)。だが、やはり当初の目論見であった「暑気払い―古い沢登りの写真」を紹介したいという思いは、何となく強くある。

 沢登りは山登りの一分野であるが、アルパインライミングや、(自然の中での)ボルダリング、アイスクライミングなどと同様に、必ずしもその実相は世間一般(例えば私のFBお友達)には理解されていないだろう。登山と言えば百名山とか富士山とか、いきなり飛んでエベレストなどとイメージされることが多いように思う。まあ、絵も似たように「どんな絵を描いているのですか?風景画ですか?人物画ですか?抽象画ですか?」と無邪気に質問されると、返答に窮してしまうというのと、ちょっと似ている。まあ理解されなくても特に困りはしないが。

  真冬はさすがにあまり行かなかったけど(全く行かなかったわけではないが)、それ以外はほぼ沢登りが中心だった。奥多摩・奥秩父から関東・東北、たまに信州までわりと幅広く行ったが、特に新潟・福島(と書くよりもやはり越後・会津と言った方がピンとくる)が活動の中心だった。有名なところに行かなかったわけではないが、なるべく人に知られていない、記録の無い沢を探して登っていた。未知への憧憬である。

 沢を登りつめても登山道があるとは限らない。別の沢を下降するか、ヤブ漕ぎで尾根を下るか。

 30年前の写真を見ていて、もうそのように登ることはとてもできないし、したいとも思わないが、よくやってるなぁ~!!という感はある。ちなみに、当時はもう結婚していて子供もいて、アルバイト生活は苦しく、そのくせ制作・発表とガンガンやっていたのだから、まったく若いというのは素晴らしいものである。

  というわけで、沢登り、それも「かつて私がやっていた沢登り」の写真をいくつか紹介する。ちょっと「普通の沢登り」とは違うかもしれないが、多少の暑気払いにはなるだろう。

 

 

1.巻機山・米子沢(~上ゴトウジ沢下降~ブサノ裏沢) 1992.7.4~5

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 こんな感じが標準の遡行スタイル。上半身は当時出始めの新素材ウェア。下半身は作業ズボンとフェルト沢用スパッツ、フェルト足袋。ヘルメット着用。ハーネスは普通はウェストベルトのみ。ジャラ(ハーケンとかハンマーとかカラビナとか)少々。山中泊なので、背には中身完全(?)防水の大型ザック。

 米子沢は有名で人気のある沢だが、よくまとまったきれいな沢。源頭の湿原も良い。その後継続した上ゴトウジ沢とブサノ裏沢は雪が多く、ほぼ雪渓歩きに終始した。

 

 

2.下田・光来出川・白根沢右俣(~左俣下降) 1988.9.3~4

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 登っているのはSさん。だいぶ厳しそうだが、この滝は登れたのか、あるいは難しくて結局高巻したのか、覚えていない。ザイルはつけていないようだ。われわれはあまりザイルを使わなかった。でも後続は上からザイルを投げてもらったりする。それをお助け紐と言う。

 

 

3.下田・砥沢川(砥沢川本流~中ノ又沢左俣~中ノ又山1070m~吉原沢左俣下降~吉原沢右俣~五兵衛小屋~日本平) 1990.7.28~31

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 砥沢川本流の下流部のジッピを泳いで突破するAさん。ジッピとはこの地方の方言で、ゴルジュのこと。ゴルジュとはフランス語で喉(のど)のことで、沢の両岸が極端に狭まったところを言う。

 トップは空身でザイルを引いて必死で泳ぎ、後続はザックを浮袋代わりに引っ張ってもらいつつ少し泳ぐ。楽ちんである。本流以外はいずれの沢も記録を見なかった沢である。

 

 

4.下田・川内 (室谷川本流右俣~金蔵沢下降~神楽沢~中ノ又沢右俣下降~)砥沢川本流下降

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 同じくゴルジュ、トゾー(砥沢)のジッピの最狭部。3と同じ砥沢川本流だが、これは別の年に下降した時のもの。写っているのはやはりAさん。私ではとても足が届きません。

 

 

5.下田・白根沢左俣 1988.9.3~4

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 写真2の右俣を登って左俣を下降した時のもの。同じゴルジュでも、規模は小さいが、有機的な局面が連続する素晴らしい渓相で、美しい沢、楽しい山行だった。

 

 

6.奥利根本流~越後沢中間尾根下降 1991.8.14~16 

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 沢登りの対象としては大関クラスの有名渓谷。中ほどのシッケイガマワシあたりだったか、越後沢出合あたりだったか。雪渓が連続し始める。雪渓から流れ出る水はものすごく冷たい。その中を腰まで、胸まで漬かりながら、時には泳いで遡る。写真は同行のYさん。

 

 

7.川内・下田 早出川・今早出沢本流~大川東又沢下降 1991.9.21~23

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 早出川の今早出沢本流を魚返の大滝を登攀してから詰め上げ、尾根を越えて、大川東又沢を下降した時のもの。鷲ヶ沢出合付近の急流をザックの浮力を頼りに突破する。(良い子のみなさんはまねしてはいけません)

 

 

8.下田・光来出川本流 1988.8.18

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 時にはこんなお遊びも。夏合宿最終日の下山時、白根丸渕でドボンしつつ、泳ぎつつ下る。ドボンしているのが私。右に写っている、背負ったザックにに体重を乗せて浮かび泳ぐのが、「ラッコ泳ぎ」。

                              (記:2020.8.17)

小ペン画ギャラリー 8 「常夜燈-浄夜燈」

 「小ペン画ギャラリー」は、ここのところ人物を描いたものが続いた。いや、蝶も蝸牛も登場はしているが、画面上の主役はやはり人物である。少しそれに飽きたというわけでもないのだが、なんだか少し私らしくもないような気もして、今回は人物の登場しない絵にした。自分でも少し驚いたのだが、ここ一年の小ペン画では圧倒的に人物の割合が多く、人物が描かれていない絵をさがす方が難しい。

 

  ↓ 238 「ビルマ浄夜燈」

  2020.3.17-19  13.6×11.9㎝ 和紙にドーサ、ペン・インク・アクリル

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 それはそれとして、お盆である。私の田舎ではお盆は月遅れの8月だったが、現在住んでいるあきる野市では多くは旧暦7月でやっているようだ。まあどちらでも構わないが、最近は何となくまわりに合わせて旧暦でやることが多い。といっても迎え火と送り火を焚いて、3日間だけ仏壇にお供えをするぐらいのもの。

 もともと、私は宗教行事や祭事、季節の行事などにはあまり関心がないのだが、一応本家の長男ということで、祭祀関係の最低限(?)のことはやっているということだ。

 

 話は変わるが、ここのところ石仏探訪にハマっている。それには2月にミャンマーに行ったことが多少影響しているのかもしれない。

 ミャンマーでは、地域的なこともあり、多くの寺院とその廃墟を見た。そして多少は予期していたことではあるが、そこでの、若い人も含めた信仰心の篤さには、やはり少し驚いた。同様なことはモンゴル仏教圏やイスラム圏やヒンドゥー圏でもあったが、特に今回は日本語の話せるミャンマー人が同行してくれたおかげで、事情もわかり、仏教についても多少ではあるが、いろいろな話ができた。

 

  ↓ 2月22日 バガンの某寺院 おそらくここの一画に下記の常夜燈があった。

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 その仏教とは、われわれの慣れ親しんだいわゆる大乗仏教(=北伝仏教≒改良的)とは違う、小乗仏教(現在はこの言い方は不適切との理由で、上座部仏教と呼ぶ=南伝仏教≒原理的)であった。同じ仏教と言いながら、その違いから、かえって私たちが当たり前だと思っている身近な仏教(大乗仏教)とは何かを省みる良い機会になった。

 今さらあえて強調することでもないが、私自身は無宗教者である。しかし画家である以上、絵画や芸術の成り立ちからしても、宗教や信仰といったことを無視するわけにはいかない。つまり、宗教を求める、必要とする人間の心のありようについて。

 ミャンマーから少し時間を置いて再び持ち始めた石仏に対する興味も、同根であろう。

 

 今回紹介するのは、直接仏教や信仰にかかわるものではない。ミャンマーのとある有名な寺院で見た、小さな常夜燈にインスパイアされた作品である。

 

 

 

 ↓ 239 「浄夜

  2020.3.17-19 14×12.3㎝  和紙にドーサ、ペン・インク・アクリル

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 ↓ 240 「浄火」

  2020.3.18-19 18.3×15.3 インド紙にドーサ、ペン・インク・鉛筆・アクリル・顔料

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 一応、常夜燈と書いたが、仏像の置かれた本堂の前に置かれた小さな火を灯す装置である。常夜燈は日本の寺社にもあり、灯篭ともかなりの部分で重なり合うものだが、要は一晩中火を絶やさないようにするもので、ミャンマーのそれも意味としては同じだろうと思う。

 

 ↓ あきる野市岩走神社の常夜 天明2年(1782年)

 「風雨以時 國豊武安」「天下和順 日月清明」等と刻まれている。

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 ↓ あきる野市金毘羅山山頂 金毘羅神社の常夜灯 寛政6年(1794年)

 宝珠・火袋欠 「願主 常州茨城郡 中郡郷士 萩原衛守」等と刻まれている。なぜ茨城の住人が奉納したのだろうか。「この形のものはあまりない」とのこと。

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 単なる蝋燭立てもあるが、私が興味を引かれたのは、火袋がそのままごく小さな御堂とされたようなものであった。御堂全体と同様に白い塗料を分厚く塗り重ねられた、おそらく鉄製の透かし彫りの扉部分がなんとも魅力的だったのだ。遺憾なことにそこにだけ興味を惹かれ、全体を写真に撮り忘れてしまったので、はっきりしたことは言えないが、どうも他ではあまり見かけなかったように思う。

 見た瞬間に美しいと思い、そのままで絵になると思った。実際、ほぼ忠実な写生である。別にネタばらしというわけでもないが、実物の写真もあげておく。

 

 ↓ 上述のバガンの寺院にあった常夜燈の火袋。なんとも言えず美しい。

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 常夜燈、ジョウヤトウと何回か口にしてみると、ジョウヤ―浄夜という文字に変換された。浄らかな夜、浄められるべき夜。常夜と浄夜、あながち無関係とも思えない。そして浄夜から浄火への飛躍。これらの変換によって、このモチーフが作品として成立する骨組みができたように思えた。

 

 現在、田舎には法事の時にしか帰らないし、毎年盆前に行われる墓地組合(わが家の墓地は寺にはなく、宗派とは関係ない墓地組合の管理する共同墓地にある)による墓掃除も、不参加料を払ってお願いしている。その法事も今年はコロナのせいで近くに住む姉に頼み、墓掃除も中止となった。

(記:2020.8.13)

「あるがままのアート ―人知れず表現し続ける者たち-」展と谷中石仏探訪

 7月30日、東京芸大美術館の「あるがままのアート ―人知れず表現し続ける者たち―」展を見に行った。完全予約制というハードルを何回か飛び越えそこねて、結局息子の手を借りるという、お粗末なIT弱者ぶりはさておく。

    

  ↓ 展覧会チラシ

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  二人をのぞいて、他の作家の作品は撮影OKということであったが、それらの画像をFBにあげて良いものかどうかわからないので、これは差し支えないだろうというのを一点だけあげておく。

 

   ↓ 会場入口

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 展覧会としては、コンパクトにまとまっていて見やすく、良い作品も多かった。多くの作品の質も高かったと言ってよい。

 しかし1993年の世田谷美術館での「20世紀美術とアウトサイダー・アート パラレル・ビジョン」展以来、東京及び近県の美術館でのアウトサイダー・アートエイブル・アートの文脈で開催されたほぼ全ての展覧会を見てきたと自負する私にとっては、やはり不満の残るものでもあった。それは、これまでの展覧会以上に、美術と医学と福祉の三つの要素が交錯する関係性が見えくいということである。それを見せないことによって「広く社会に受け入れられて」いるというあらかじめ用意された結論に誘導する、NHK的、また行政的枠組みというか、回路のようなものが透けて見え、そこに「大学」「美術館」が加担しているように見えるということだ。

 結論として「広く社会に受け入れられて」ということでも良いのだが、私が最も知りたいのは、20世紀初頭のドイツで「発見された」そうした「精神病患者」の絵にある、それ以前からのオリエンタリズムやプリミティブアートなどといった異文化の発見とも通底する、何か別の美の原則といったものを、せめてそこに至る学術的なベクトルの可能性を提示して欲しいということなのだ。

 それを今の日本の大学や美術館に求めるのは、無理なのだろうか。しかし、そのベクトルを持たぬ限り、「アウトサイダー・アート」であろうと「エイブル・アート」であろうと、「アール・ブリュット」であろうと、つまりは「広く社会に受け入れら」る=消費される対象にしかならない。それらの持つ豊かな可能性の水脈は、単なる画風や作法の差異として、(「なぜそうなのか」は決して問われない)あたりまえの消費コンテンツとして存在することになる。芸術は消費コンテンツではないし、心地よい娯楽でもない。その点においてこそ、アウトサイダー・アートであれ、ハイ・アートであれ、同列なのだ。

 いささか難しすぎる地点に入りすぎたようだ。だが、大学や美術館が大型スーパーマーケットと違うのは、そうした容易には消費できない、飲み下せないけれども確実に在る美の意味を、社会に向けて提起できる場であるということなのではないか。

 そのことを含めて、今回は図録が発行されないのが残念である。展覧会の性質や予算の事とかあるのだろうとは思うが、やはり研究報告として、記録・資料としての図録は「大学」「美術館」としては必須だと思う。

 

 結果としては案外楽しめた展覧会だったが、予定外に速く見終わってしまった。

 外はどうせまた雨、と思っていたら意外にも降っていない。銀座で見たい展覧会もないし、コロナウィルスの蔓延する都心もできれば歩きたくない。そこで、出がけに、ひょっとしたらと思っていた谷中界隈の石仏探訪を、帰りがてらすることにした。

 スマホの地図を拡大してみると、今さらながらこのあたりは寺が多い。そのくせ学生時代から付近の寺など、行ったことがない。谷中の墓地を抜けて日暮里駅まで歩いたことも十回あるかないか。むろんただ通過するだけ。奈良京都の古美術研究の対象となる歴史的寺院は別として、そこいらに存在している普通の寺社には全く興味がなかったのだ。つい先日までは。

 

 とりあえず日暮里駅方向を目指す。計画も資料も何もない。犬棒方式である。芸大から数分で大雄寺、ついで感應寺。共に日蓮宗のお寺で、この宗派の寺には題目塔があるぐらいで、石仏は少ないようだ。

 次の自性院(真言宗 別名?愛染寺)には入口のところに石仏群がある。多くは菩薩を刻んだ墓石だが、味わい深いものがある。そういえば、アルメニアのちょっと田舎の教会の片隅にも同様にハチュカル(墓標等に使われた装飾的な十字架を刻んだ石板)の残欠がいくつも集められていることがあった。似たような発想なのだろう。

 

   ↓ 自性院石仏群

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    ↓ アルメニアのとある教会の片隅にあったハチュカル群。使用済み(?)無縁仏(?)の墓石、墓標の扱いに苦慮するのは洋の東西を問わず、同様であるらしい。

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 少し奥に入ってみると、見慣れないものがある。上は如意輪観音半跏思惟像でよいと思うのだが、その乗っている無縁塔と刻まれたものが何なのかがわからない。

 

    ↓ 全体としては「無縁塔」という名の供養塔で良いと思うのだが、下部の輪転部について知りたい。どなたかご存知の方はご一報を。

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 似たようなものは昔どこかで見た記憶があり、一度調べたこともあるはずなのだが、忘れた。中に挟み込まれた六角形の地獄・畜生・修羅といった六道名が刻まれた回転する輪。これは初めてだ。マニ車、輪転蔵とは趣旨が違うようだし、さて?

 

    ↓ 輪転部をズーム。左、地獄・餓鬼。右、修羅・人道。

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 次いで訪れたのは大行寺。ここも小さなお寺。すぐに上部をマメヅタでおおわれた庚申塔がある。

 

    ↓ 青面金剛一面六手。刻字等はツタで見えず。

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 笠付角柱に彫られた青面金剛一面六手。足元には邪鬼、その下に三猿ではなく、一猿というのが珍しい。なお見ると左手に見慣れぬものを持っている。両手を合掌する子供?と見える「ショケラ」である。

 

    ↓ 拡大図。帷子を着て合掌する女性の髪の毛をつかんでぶら下げている。青面金剛の胸元には髑髏の首飾り。どう見ても女性を迫害しているようにしか見えないが、その本当の意味は…。

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 実は最近このショケラなるものに興味を抱き、いろいろ調べ、ついにはたまたまヤフオクで出ていた護符というのか、それが描かれている古い刷り物を入手したばかりなのだ。

 

  ↓ ヤフオクで落札した刷り物。惜しいことに寺社名が記されていない。左図は中:青面金剛、右:不動明王だが、左の座像が今ちょっとわからない。

右図はその拡大図。腰巻だけの女性が髪をつかんでぶら下げられている。

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 ショケラについてはその正体が判明したのは比較的最近のようで、私の持っているやや古い資料には以下のように記載されている。

 

 「青面金剛の手に蛇や女を提げさせるのは、本格的でこそないが、種々の付会の説に適合せしめるために、このような形に作ったものと見える。(中略)蛇が女に化けて庚申の夜に諸方の家をうかがい、また立聞きなどをしたのを、~」(武田久吉 『路傍の石仏』 昭和46年初版 昭和50年3版 第一法規

 「ところで、最後までわからないのは、裸の赤ン坊をつりさげていることと~」「赤ン坊をつりさげていること、これもわたしには学問的にもわからないし、はっきり自信をもって言えないですが、ともあれこの庚申の晩には女人を避くべし、つまり女と交わってはいけない。」若杉慧 (『石佛巡礼』 昭和35年初版 昭和36年四刷 現代教養文庫

 「~それにショウケラ(半裸の夫人像)の髪をつかんでぶら下げている。」(檀上重光 『野ざらしの芸術 ―文化財への手引き』 昭和41年 角川新書)

 

 裸の赤ん坊や半裸の夫人像と見られていたショケラの正体については、今現在も私自身が楽しみながら研究していることでもあり、(ネットで検索すれば一応はすぐわかることではあるし)ここでは明かさない。何にしても一度は見てみたいと思っていたそれに出会うことができて、ラッキーだった。

 

 ついで金嶺寺、宝蔵院を見るが、興味を引くものはない。

 大泉寺では三猿のみの庚申塔。「二世安泰?」と記されている。現世と来世の二世ともに安泰を願うという現実的な庶民の願い。

 

 ↓ 三猿のみの庚申塔。「二世安泰(?)」

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 長久院では司命と司録を従えた丸彫の閻魔像。造形的にはさほど興味も惹かれないが、「笑いえんま」と呼ばれているようで、そう見れば多少可愛くなくもない。いつの頃からか、閻魔は地蔵の化身という解釈がされるようになったことだし。ただし、その辺の日本仏教における教義の変遷というものには、ついていけないものを感じるのではあるが。

 享保11年というから1726年。300年前に諸国放浪の六十六部聖の光誉円心という人物が造立したとの由。それも少し味わい深い。 

 

   ↓ 長久院の閻魔。台東区有形文化財

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  長久院の閻魔。少し、可愛い、か?

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 瑞輪寺では庖丁塚なるものを見た。「鳥供養 庖丁塚」「日本全鳥調理師司処 日本全鳥割烹調理師連盟」とある。筆塚、箸塚、櫛塚など、モノの墓まで作る日本文化、日本人の心性。

 

 ↓ 庖丁塚

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 次の安産飯匙(しゃもじ)の祖師では玉垣に刻まれた「東京柳橋組合」「浅草三業会」などの文字に目を引かれた。場所柄もあるのだろう。三業とは「 料理屋・待合・芸者屋の三種の営業」のことで、今風に言えば接待を伴う夜の街のこと。日蓮上人が難産に苦しむ女性に飯匙に御本尊を描いて与え、安産に至らしめたということで、しゃもじから飲食業、三業関係の信仰を集めたということか。

 

 ↓ 他にも寿司屋だとか、飲食関係の寄進者がいっぱい。

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 ようやく谷中墓地に入る。ここを通ったことは過去何度もあるが、単なる通行路に過ぎなかった。墓地自体に興味を持ったことはない。かたわらに毒婦悪女として知られている高橋お伝の墓があった。毒婦悪女というのは魅力的な女と決まっている。ファムファタルである。

 

 ↓ 明治12年、「斬首となった最後の日本女性」高橋お伝の墓。ただし骨は遺骨は小塚原回向院にあるが、墓参すると三味線が上達すると言われ、今でも墓参する人がいるそうだ。

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 誘われたわけではないが、そこを機に、初めて少し墓域に入ってみる。露伴の小説で有名な天王寺五重塔の跡があった。広い霊園は予想と違って何だか雑然としている。きれいに規格が統一されたお行儀のよい最近の霊園とは違って、荒廃した公園のようだ。アジア的ゴシックロマン?墓石もいろいろな種類、規模があり、何か目から鱗が少し落ちたような気がする。掃苔趣味ということは知ってはいたが、谷中墓地ぐらいの規模だったら晴れた日の墓地散策も案外悪くないかなと思った。

 

 ↓ 谷中墓地の景。アジア的ゴシックロマン。

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 ↓ 参考:ウズベキスタンにあったユダヤ人墓地。乾燥地帯の個人墓(土葬)だから、雰囲気は違う。

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 日暮里駅近くには天王寺がある。一応というぐらいの心づもりで入ってみると、いきなり大きく立っていたのが學童守護地蔵。石ではなく、銅像のようだ。基礎の部分を見てギョッとした。制帽制服姿の子供たちの群像が浮彫されているのだが、表面の酸化被膜(錆)や汚れのせい、そして表現そのものによって、なんとも表現主義的というか、恐ろし気に見えたのである。私はてっきり、これは東京大空襲で犠牲になった子供たちへの慰霊碑に違いないと思った。帰宅後調べたところでは、昭和10年に「不慮の事故で亡くなった二人の息子を悼んで」建てられたそうで、時代状況とは関係ないことがわかった。

 

 ↓ 天王寺 學童守護地蔵

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 ↓ 同下部のレリーフ

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 もう一つ大きな釈迦如来銅像にはあまり興味を持てなかったが、別に一基の少々不思議な図容の小さな石仏を見出した。何となく見覚えがある。『野ざらしの歴史』(若杉慧 昭和41年 佼成出版社)に54.「龍佛塔」として紹介されているもの。著者は右の刻字を「薬師瑠璃光佛」と読んだが、今はとても読めない。とにかく類例がなく、詳しいことはわからないとのこと。むろん、私も見たことがない。帰宅後、同書図版と比較して見たが、当時(50年以上前)に比べても風化の度合いが進んでいる。参考のため、同図を揚げておく。

 

 ↓ 類例少なく、正体不明。刻字は読みがたい。

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 ↓ 参考:『野ざらしの歴史』より。下は般若心経らしいとのこと。上図と比較すると風化の度合いがわかる。

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 さてようやくこれで終わりかと出ようとした門の近くに、8基の庚申塔群があった。いささか疲れてはいたが、今日最後の見ものが好きな庚申塔だというのはうれしい。青面金剛が2基と三猿のみが5基、そして基礎に蓮華を浮き彫りにした、塔身は文字のみのものが1基。いずれもなかなか良い。中でも何だかふくれっ面をしているような顔のものが、印象的だった。その右下に持っているのは蛇だろう。

 

 ↓ 庚申塔群。

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 ↓ 青面金剛一面六手、三猿。なぜ、ふくれっ面?

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 かくて谷中石仏探訪は終了した。都心の寺社廻りをしたのは初めてである。だが石仏探訪のフィールドとしては、東京都心はその数、種類、質のどれをとっても宝庫なのだと、つい最近知った。さすが当時世界最大の都市、江戸。これからもまたあちこちに、ごく軽い気持ちで訪れて見てもいいなと思う。

 だがそれにしても、おそるべし谷中、台東区の寺社の数。この調子でいったらいったいどれぐらいの寺や神社が東京中にはあるのだろうと、気が遠くなりそうだ。そしてそれらを支え、必要とした人々とは、何なのだろうと思う。

「小ペン画ギャラリー-7 蝸牛」

 梅雨がなかなか明けない。東南アジアやアフリカの雨期・乾期のそれとは違うにせよ、言い換えればまあ日本の雨季である。雨季には雨季なりの風情があることは認めるにしても、心身は不調気味。

 

 路上や擁壁や樹々に蝸牛が這い出る。蝸牛のフォルムを見るのは好きだ。

 

  ↓ 近所で見かけたカタツムリ

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 そういえば、蝸牛を絵の中に描いた作品があった。2月から3月にかけて描いたものだから、梅雨とは直接は関係ないが、まあこの季節にふさわしい季題みたいなもの(?)。

 前段として、すでに「小ペン画ギャラリー-5 蝶」で紹介済みの221.「肩に蝶の翅」がある。

 

  ↓ 221.「肩に蝶の翅」 

  2020.3.5-6  10×7.9㎝ ミャンマー紙にペン・インク・色鉛筆・水彩

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 この作品の人物の髪型に、なんとなく巻貝のフォルムが見て取れてしまう。無意識にだが、ピエロ・デラ・フランチェスカの有名な「ウルビーノ公夫妻の肖像(ウフィツィ美術館)」が下敷きにあるのだろう。

 

   ↓ ピエロ・デラ・フランチェスカウルビーノ公夫妻の肖像(ウフィツィ美術館)」

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 昔から不思議な髪型だとは思っていた。巻貝のように見えるならばアンモナイトにしてしまえ、いやいっそのこと身を伸ばした蝸牛にしてみたらどうだろう。そうして描いたのが222.「装い(蝸牛を装う)」。

 

   ↓ 222.「装い(蝸牛を装う) 」 

  2020.3.6-8  10.5×7.5㎝ 雑紙にペン・インク

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 グロテスクなエロチシズムというべきか。現れたシンボリズム。バッドテイスト?これはこれで、好きな世界。

 

  勢いに乗って223.「愛の装い」と224.「 愛」を続けて描いた。

 

 ↓ 223.「愛の装い」

 2020.3.7-8  17.3×10.9㎝ ミャンマー紙にペン・インク・顔彩

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  224.「 愛」

 2020.3.10  10.5×7.5㎝ 雑紙にペン・インク

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  さらにすでにひと月ほど前に完成としていた216.「家庭教師」に蝸牛を描き加えた。

 

 ↓ 216.「家庭教師」 

 2020.2.13 3.11  9.6×6㎝ 和紙にドーサ、ペン・インク・水彩

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 それでほぼ蝸牛の憑き物は落ちたようである。

 

 ↓ 2013年 バリ島の蝸牛

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 次いで言えば、私は他の貝類と同様に、蝸牛を食べるのも好きだ。フランス(だけとは限らないが)料理店のエスカルゴ。美味しいことは美味しいのだが、あれは養殖した蝸牛の身だけを缶詰にし、それを調理して別の殻に入れて出すということらしい。

 小笠原母島に滞在していた時には、昔食用に輸入し、野生化したという大きな蝸牛がそこいら中に這い回っていた。食べようと提案したが、居候先のI氏に断固として拒否され、食わずじまい。田螺(タニシ)も長く食っていない。

 数年間に行ったモロッコのフェズのバザールの端っこで、ターメリックとレモン風味で塩ゆでにしたのを売っているのを見つけて食べてみた。悪くはないが、それほど美味いものでもなかった。まあ、蝸牛は陸上に棲む巻貝なのだから、基本的にはサザエやツブ貝と同じようなものだ。

 

 ↓ ロッコ、フェズのバザールで 

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 ↓ こんな感じで。ターメリック+レモン+塩。

 → 日本で食べるのと同様に爪楊枝で。

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                          (記:2020.7.25)

里山・天合峰と石仏探訪(2020.7.19)

 いつものように昼近く起きてみれば、天気予報は外れて、久しぶりの青空。なんだか心が躍る。今日の予定はあるにはあるが、それは必ずしも今日でなくてもよいことだ。

 急きょ石仏探訪と、ちょっと久しぶりの裏山歩きならぬ里山歩きに行きたくなった。石仏探訪はつい最近も行ったばかりだし、どうかとも思うが、時季と天候のせいで、里山(裏山)歩きは間が空いている。運動のためという名目も立つ。

 

 たまたま前夜、ネットであれこれ探していた時に偶然見つけた「天合峰」。地形図にはその名は記載されておらず、知らなかったのだが、以前から気になっていた里山の一つだった。その近辺は以前から何度も車で通ったことがある。新緑の頃は、思いがけぬ美しさだった。周辺の里山にはある程度足を運んでおり、自宅近くとしては数少ない残された領域の一つでもあった。

 

  ↓ 一番上の神社マークが熊野神社。300.2が天合峰。本当は左側の破線を下りるはずだった。

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 天合峰という少し変わった山名は、以前は「天狗峰」だったようだ(三角点名としては「天狗峰」だとの事)。以前、圏央道の建設に際して、高尾山の天狗なども原告となった「高尾天狗裁判」というのがあり、多少評判になった。当時、私自身はあまりピンと来なくて、何のかかわりも持たなかったのだが、その後天狗の本場、奈良県天川村在住の若い画家A君と知り合い、高尾山に一緒に登り、その影響もあって、淡い興味を抱くようになった。元々、五日市と八王子は古くから高尾山と深いかかわりがあったということは知っていた。皮肉なことに、その圏央道は天合峰の真下を通っている。

 それにしても時季が悪い。標高の低い里山歩きは晩秋からせいぜい五月までぐらいのもの。前夜天合峰の名を知った前夜は、10月ごろにでも思ったのだが、今日の思いがけない青空を見ると、無性に行きたくなってしまった。

 

 ブランチ後、14時過ぎに自宅を出る。自転車で小峰トンネルを越え、前回の石仏探訪の終了地点近い熊野神社から探訪スタート。鳥居には「熊野神社 八雲神社」と併記されている。神社そのものにはあまり興味がないが、この地に熊野信仰、修験道、天狗信仰等の普及ということがあったことは想像できる。

 

  ↓ 熊野神社八雲神社

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 社そのものは新しいコンクリート製で、味気ないが、鳥居の近くにはいくつかの神社名などを刻んだ角柱や地蔵が置かれており、もう少し由緒等を知りたいと思う。

 次いで、その上の三光院という寺に行く。ここも新しく再建された立派な寺で、整えられすぎていて興味を持てない。どういうわけか古い石仏類は一切見られなかった。

 早々に辞去し、川口川沿いに下流に向かい、再び山裾の道に入る。やはり感じが良い。ほどなく辻堂があり、いくつかの石仏がある。

 

 ↓ 辻堂。いい感じだ。

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 四面に地蔵の彫られた供養塔。ちょっと珍しい。基礎に「願主 釜沢村女人 講中」とあり、当時の女性たちのそれなりの在りようがうかがわれる。

 

 ↓ 四面に地蔵が彫られているが、基礎の文字を見ると念佛供養塔。

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 ほかの地蔵、如意輪観音、灯篭と見ていると、二つに折れた角柱に目がいく。うっすらと猿の姿。四角柱の三面に三猿を彫ってあるから庚申塔だ。その上に、青面金剛は摩滅したのか、見当たらないが、各面に三猿を彫った形式のものは、私は初めて見た。

 

 ↓ これは珍しい(?)三猿の庚申塔。上部は摩滅していて見えず。読めず。

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 ついでにすぐ傍らの稲荷神社ものぞいて見る。石祠が一つあるだけだが、傍らには最近のものと思われる素人?アーティスト?の作った女性像が置かれていた。まあ、それなりの味…、妙な味ではあるが。

 

 ↓ う~ん…。

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 道なりに進んだ圏央道の下のスペースには、近辺から集められてきた石仏群が置かれていた。

 

 ↓ 圏央道下の石仏群。ここのネットに自転車をデポ。

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 庚申塔、地蔵、正体不明のいくつか、石造物の残欠。表面の風化剥落の激しい青面金剛に比べ、剥落しきった後の三猿が妙に生々しい。

 

 ↓ 庚申塔青面金剛と三猿。

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 近所の方が供花に水をやられていた。ここに自転車をデポする。

 金毘羅山入口の手前の路傍には、植木の陰に隠れていた、ごく小さな如意輪観音。愛らしい。

 

↓ 小さな如意輪観音。小さくて見落としそう。左右に「信」の字が読める?

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 金毘羅山へ向かって進むと、青面金剛庚申塔と、基礎に「念佛供養塔」とある地蔵丸彫立像。庚申塔青面金剛は足元に鬼を踏みつけている。三猿だけではなく、鬼が彫られているのを見るのは初めてだ。

 

 ↓ 青面金剛一面六手が鬼を踏みつけている。写真では写っていないが、その下には三猿。上の二手には何も持っていない。 

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 集落のはずれ、左に「厄除稲荷大明神」を見て、右に墓地を見ると、いよいよ沢沿いの山路となる。路は鉄板敷の立派なもの。湿度は高く、無風で、薄暗い。

 ほどなく、二体の倶利伽羅不動尊竜王の姿で現れた。

 

 ↓ 倶利伽羅不動尊二基。龍王はその変化形。

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 左のは明治29年/1896年のものとのこと。まわりの雰囲気と相まって、以前訪れたバリ島のそれを思い出した。ヒンドゥー教の島ではあるが、倶利伽羅不動明王明王ヒンドゥー由来のものであるから、水神信仰としての蛇(龍はその理想形)の相似は、当然と言えば当然。似たような趣向となる。

 

 ↓ これはバリ島で見たもの。観光客向けの新しいものと思うが、趣旨は同様。ただし龍ではなく、大トカゲ。

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 ↓ 同上。趣旨は知りませんが、まあ水神ということだろう。

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 少し登れば赤い鳥居。ここから金刀比羅神社の神域。頂上には新しい社があるだけで、山名表示板ほか何もない。

 

 ↓ ここから先は神域。金刀比羅神社の鳥居も赤いのか?

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 社の裏から山道を辿ると左に金網の張られた水道施設があり、目の前には広大な伐採地が広がる。その向こうにはニュータウン、宝生寺団地。

 

 ↓ 向こうは宝生寺団地。

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 この天合峰の南面に巨大な物流センター建設の話があるとネットで見たが、現時点ではどうなのかわからない。北側の雑木林と南側の伐採地の際を縫うように進む。特に問題はなく、歩きやすい。ところどころに住宅整備公団や「動植物調査のため」といった立ち入り禁止の看板がある。

 

 ↓ 密生した辞林タイト伐採地の際を歩く(振り返り撮影)。

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 ふと物音に目を向ければ、牝鹿が一頭走り去っていった。こんなところに鹿がと思うが、狸や猪らしい糞も散見していたから、鹿がいても不思議ではないのかもしれない。

 

 思ったよりは簡単に 天合峰頂上に到着。桜の木には300.2m、下の石には299.9mと記されている。四捨五入すればぴったり300m。以前、こうしたぴったり標高や1234mとか2222mとか、数字の語呂合わせというか、カウントマニア的な標高の山に興味を持ったこともあったが、世の中、物好きな人はいて、資料として公表されてみると興味を失った。

 

 ↓ 天合峰山頂。三角点と奉賽物?

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 そんなことよりも、頂上には意味ありげな、不思議な石積みがいくつもある。ケルンのような単なる石積みということでもよいのだが、それらの多くは山頂にはあまりふさわしくない丸い平べったい、河原石。つまり下から持ち上げてきたように思われる。中でも写真右奥の長円形のそれは陽石のようにも見える。天合峰=天狗峰ということからも、昔は何らかの祠か何かがあったのではないかと思われる。これらの丸石はその祠への奉賽物だったのではないだろうかというのが私の推測。そうした例はこれまでに何度も見たことがある。

 

 ↓ 元は奉賽物かと推測した石積。

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 ↓ 右奥のこれは陽石?

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 案外感じの良かった頂上を後にして、尾根筋を辿る。伐採地とは離れ、密生した樹林帯の中を行く。足元はしっかりしているものの、手入れはされていない。倒木が多く、蜘蛛の巣が多く、かなり鬱陶しい路が続く。

 

 ↓ 実際はこの写真以上に鬱陶しいです。

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 これまでも含めて全行程、道標の類は一切ない。視界はきかず、現地確認が難しい。地形図とコンパスをこまめに確認しつつ、慎重に進むが、一度間違え、軌道修正。その後も何か所か分岐があり、そのこれが最後だろうという分岐を一つ早く読み間違えてしまい、三光院に下るはずの尾根よりも一つ手前の枝尾根に入ってしまった。

 最初はそれなりの踏み跡もテープもあったが、次第に怪しくなり、ついに踏み跡も消滅。その尾根を下りきったところの沢の二俣は、下まではいくらもないはずだ。その少し下流には途中まで破線が来ているが、あてにはできない。実際それらしきものは最後まで見つけられなかった。沢筋を下るが、薮はだんだんひどくなっていき、とうとう密薮と言ってよいほどになってきた。さすがに鬱陶しい。悪戦苦闘30分ほど、左に建物らしきものを見つけて登れば、そこは三光院の裏の墓地だった。やれやれである。この時期の低山の藪漕ぎは最悪だ。自分のせいだから文句も言えないが、里山であっても読図の難しいルートだった。

 自転車で通った道を辿り直し、圏央道下の自転車デポに到着。前回と同様に網代トンネルを抜けて帰宅。

 

 普通であれば1時間半ほどの行程だろうが、久しぶりの山歩きだったり、石仏観察に時間を取られたり、藪漕ぎがあったりと、倍以上の時間がかかった。今更ながらこの時期の整備されていない里山歩きは、不快な要素が多いと言うしかない。したがって達成感というようなものもないが、まあそれでも、行かないよりは行ってみて良かったというところか。自分にとっては初めての石仏を見ることができたのは、やはり少しうれしい。

(記:2020.7.20)

 

 ↓ 圏央道下の石仏群の一つ。いくつもの残欠が今もこうして祀られて(?)いる。

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「小ペン画ギャラリー―6 家族」

 家族、つまり自分の妻や息子を、また両親や姉たちを、作品として描いたことはこれまでない。そう思うと、ちょっと情の薄い男なのかなとも、思う。

 若いころは、自画像を描くのが好きだった。と言っても、予備校での課題の油絵数枚にすぎないが。別に、日々の修練としての自主的なデッサン(クロッキー)でも自画像はずいぶん描いた。だが、それも「作品を制作」するようになってからは、描いていない。

 画中にモチーフとしての人物を入れることはあっても、そもそも「人物画」を描くという意識を持ったことがない。そうした志向の結果として、気がつくと、家族を描いた作品が一点もないということになる。要は長く「人間」を描く気になれなかったのだ。その理由の深いところは、今は措く。

 

 具象的な作風であれば、家族や恋人を描く画家はけっこう多い。それはそれで当然のことであって、むしろ描かない方がおかしいというか、なぜ描かないのかと、つい尋ねたくもなる。むろん、それは下世話で、余計なお世話というものである。

 

 小ペン画を描くようになってから、人物を描く割合が飛躍的に増えた。そのほとんどがモデルのいない想像上の人物ではあるが。

 それは10センチ前後の小画面という制約から生まれた現象である。私にとっては「小ペン画」=作品である。つまり意味としての習作ではないので、世界として完結しなければならない。完結性ということからすると、なにがしかのモチーフ(姿・形)がないと、まことに絵になりづらいのである。そして人物という形と意味は、実に優れたモチーフなのだと、あらためて思い至る。

 

 ほんのちょっとした、新聞や雑誌に掲載された写真や、モニターに流れる画像を参考にすることがないではないが、それをモデルと言えるのかどうか。私の場合、写せばたいてい絵としては硬くなる。したがって基本的には写さない。

 だがプロセスはどうであれ、結果として人物を多く描くようになってから、実際の人物を見る眼が少し変わってきたようにも思う。

 

 今回掲載した内の二点は、女房の日常のふとした仕草を、美しいと感じたというか、絵として見えたのである。冷蔵庫を開けてヨーグルトを飲んでいる瞬間。晴れた日に田舎道を歩く後ろ姿。そんなところからでも絵が生まれる。

 

 

 ↓ 262 「ヨーグルトを飲む」

 2020.4.17-20 12.9×9.4㎝ 洋紙にドーサ、ペン・インク・水彩

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 起き抜けにパジャマのまま、冷蔵庫を開けてヨーグルトを飲む妻。

 若いころとは違った丸みをおびた体形だが、何か幸せそうなフォルムと動き。

 

 

 ↓ 263 「光の中を歩む」

 2020.4.19-20 13.5×9.4㎝ インド紙にドーサ、ペン・インク

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 良く晴れた日の少し遅い午后、近くの田舎道を歩く。満ち溢れる光と植物。

 逆光の中を浮遊するかのように歩く妻の動きとフォルム。どこへ行こうとしているのか。

 

 

 後ろ向きの孫を描いたものは、たくさん送られてくる画像の一つから。これも意味合いとしては同様。

 

 

 ↓ 265 「何処へ」 

  2020.4.20-22 13.2×11.4㎝ 和紙に膠、ペン・インク・水彩

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 初孫。そう高くはない仕切りを越えて何処へ行こうとするのか。

 新しい世界、未知の世界、異世界。自分の世界へ、か。人生はこれからだ。

 

 

 最後の一点(制作順としてはこれが一番早い)は完全な心象の景。二人目(になるはずだった)の孫が早い時期に流産したとの知らせを受けた後に描いた。見ることすら叶わなかったがゆえに、かえって命そのものの存在を感じた。

 

 ↓ 168 「いのち」 

 2020.10.3-4 和紙風はがきにペン・インク・水彩 

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 ゆえあってか、この世界の光を一度も見ることなく、名づけられることもなかったが、確かに存在したいのちがあった。「こんにちは さようなら」

 

 今のところ、家族を描いた作品はこの4点ですべて。今後、描くことがあるかどうか、それはわからない。