艸砦庵だより

河村正之のページ 絵画・美術、本、山、旅、etc・・・

小ペン画ギャラリー‐14 「をみな」

 振り返れば、「小ペン画」で描いた人物は、圧倒的に「女」が多い。8割以上か。

 小画面を描くにあたって、人物が格好のモチーフであると再認識したことについては、以前に別の場で述べた。ではなぜ「圧倒的に女が多い」のか。「女」でなければならないのか。

 

 私はタイトルに「女」ではなく「をみな」と表記することが多い。女、おんな、女性、婦人、娘、少女、乙女、処女(おとめ)、かく様々な表記のしかたがあるのに。

 「をみな」とは古語で、「若く美しい女性。女。」の意。少年を意味する(早くに廃れた)「をぐな」の対義語。平安時代に撥音便化され、「をんな」となった。結婚適齢期に達した若い女性は「をとめ」であり、両者は古くから混同されている。だそうである。

 

 私が描きたいのは、若い(アドレッセンス中葉の14、5歳から20歳代)女性なのだろう。別に思春期だとか、処女性とかにこだわる気はないのだが。なぜ若い女を描きたいのだろう。要は「若く美しい女性」なのだ。永遠の憧憬なのである。それ以上説明のしようがない。

 

 ときどき考える。宗教画―歴史画―肖像画という西洋絵画の伝統的ヒエラルキーの中で、描かれた人物の男女比はどうなのだろうか、とか。そしてそのヒエラルキーが解体されて以降の、つまり絵画が一般市民のものともなった、印象派以降に描かれた人物画においては。

 その前提として、そもそも画家という職業領域におけるジェンダーを無視するわけにはいかないが、それは一応ここでは措く。また、その後の、美大等への美術分野への進学者数において圧倒的に女性の割合が多くなった、現代においては。

 男が女を描く⇔男が男を描く。女が男を描く⇔女が女を描く。それらの割合と必然性。需要と供給の問題を言いたいのではない。人間表現の、モチーフ選択の際の必然性、根源を知りたいのだ。そして結局のところ、「永遠の憧憬」といったあたりに着地することになるのだろうか。

 

 ともあれ、今回選んだ6点にはテーマなどの共通性はない。選択において、特に基準とかあったわけではない。意味はまた別の話だ。描いてしまったことで、事態は決着している。とりあえず、並べてみよう。

ところで、「永遠の憧憬」とは個人的な趣味の問題なのか。もうしそうだとしたら、そこから普遍性への回路はありうるのだろうか。

 

 

119 マスクをしたままぼんやりしている植物の巫女

 2019.11.4-12 11.4×9.6㎝ 和紙・膠引き ペン・インク・水彩

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 本作を制作した時、すでにコロナ禍は始まっていた。それと関係があるのかないのか、覚えていないが、マスクをしている人物の絵は、たぶんこれが最初で最後だろう。

 

 

126 ポニーテール

 2019.11.16-18 10.2×8.2㎝ 和紙・膠引き ペン・インク

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 ポニーテールはなぜかあんがい好きな髪型の一つ。特に女子高生のそれは好き。ちなみに50年前の私の高校では、女子はショートカットか三つ編みとかでなければならず、ポニーテールは不可だったようだ。それが今に至るも、私のポニーテール好みの遠因なのか。画中では髪が妙な変容を見せているが…、たぶん意味はない。

 

 

297 感情装飾

 2020.6.3-5 14.8×10.5㎝ 水彩紙 ペン・インク・水彩

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 今回の6点の中で唯一発表済みの作品。タイトルの「感情装飾」は、新感覚派と言われたモダニスト横光利一の小説のタイトル。ただし小説自体は読んでいない。(戦前の)モダニズムという言葉に在るレトロな感覚からタイトルとした。それに呼応されたのか、ある方に買っていただいた。

 

 

299 司令官の若き妻

 2020.6.5-6 13.2×8.6㎝ 和紙にサイジング ペン・インク

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 NHKBSドキュメンタリーだろうと思うが、シリアかイラクでIS (イスラム国)が敗北しつつあった段階の映像にインスパイアされて。ある司令官の若い妻が、赤ん坊を抱いてと見せかけながら、投降をよそおって自爆テロをこころみたのだったか、結末は見ていないと思う。一種の悪夢ではある。

 

 

342 くるへるをみな

 2020.8.25-26 14.8×10㎝ 和紙風ハガキにサイジング ペン・インク・水彩

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 たまに観る、あるテレビ番組に出演する素人アフリカ系タレント(?)が、ある時、ソバージュとアフロヘアのミックスみたいなヘアスタイルで出ていた。そのボリュームと美しさに感動して、イメージを借用。絵柄、印象はまるで違う。タイトルは絵ができ上ってからの印象で。

 

 

351 東方のをみな

 2020.9.13-17 12×9㎝ 雑紙 ペン・インク・グアッシュ

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 これもBSドキュメンタリー(だったと思う)の一瞬の映像から。本題とは関係ない、背景にチラッと映っていた、エリザベス・テーラー主演の「クレオパトラ」のポスターだったのではないかと思うが、正確にはわからない。もしそうだったとしても、ポーズのイメージを借用しただけで、実際とは似ても似つかぬものになっている。ともあれ、ゆえに「東方(オリエント)のをみな」。

 

(2021.5.1)

「石仏探訪-18 二猿庚申塔と二匹の猿」

 4月12日午後、今年24回目の石仏探訪。

 

 檜原村北谷の茅倉、中里、白倉、千足と、本宿の一部。山腹にへばりつく集落の中の細い急傾斜の道を、女房は必死に運転する。

 大嶽神社、熊野神社、御霊檜原神社をメインに、路傍のあちこちに石仏(群)がある。あちこちに良いものがある。

 

 ↓ 白倉の大嶽神社の庚申塔青面金剛立像、日月天、三猿、舟形光背。元禄13年/1700年。檜原村で2番目に古い庚申塔である。

 まじめに憤怒相ではあるが、どこかユーモラス。大嶽神社には灯篭や狛犬なども含めて、7基ほどの石造物がある。

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 ↓  向こうは熊野神社本殿。手前の基壇には何があったのだろうか。今は丸石が一つ置かれている。

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 ↓ 境内に佇む人

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  ↓ 千足の御霊檜原神社-4 の庚申塔青面金剛立像、日月天(いわゆるバンザイ型)、二猿、笠付角柱。二猿は三不のうちの見ザル・言わザル。

 このあたりではかなり珍しいもの。また、鱗のような鎧のような衣がユニーク。宝暦10年/1760年。

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   ↓ 同じく御霊檜原神社庚申塔青面金剛立像、二猿、二鶏(下部に線彫り。これも珍しい部類)、舟形光背。珍しく四手である。

 何よりも、頭光(円光)と、三叉戟の柄が長く錫杖のように見えることから、全体としては地蔵のイメージに見える。もっと言えば、キリスト教十戒のモーゼのようにすら見える。足元の二猿は合掌しているが、右の一匹はこちらを向いたカメラ目線(?)。なんともユニークな像容、類例を見ない表情の庚申塔である。年紀はないが、かなり古そう。

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 千足の御霊檜原神社にも良いものがあったが、偶然にもその隣は、女房の(趣味の)英会話サークルのD先生の家。女房はこの日も午前中、英会話サークルで会ったばかり。そのD先生から「H~i!」の声。あれあれ?!思いがけずしばしの歓談。

 

    ↓ D先生の庭先で。座っているのは先の台風の時、流れてきた流木で作られたベンチ。なんとも魅力的なフォルム。座り心地も良い。欲しいなあ~、これ。

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 山村に暮らすがゆえの猿害に話が及び、彼女の菜園を見にいくと、今しも猿が、厳重に張り巡らしたネットをかいくぐり、やっと芽を出したばかりの貴重なジャガイモをほじくり返していた。

 

 ↓ 貴重なジャガイモが掘り返された跡。合掌。左に写っているのは、雑草のクローバーらしい。

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 追えば一応逃げるが、安全な距離を保ったまま、余裕のポーズ。困ったもんだ。これもまた生物多様性・共棲の一シーン。

 

 ↓ 猿たちを追いかけ、追い払っても敵もさるもの。余裕である。安全な距離を保って、急がない。

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 ↓ 危害を加えないとみて、なめ切って休んでいる困った人たち。

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 二猿の庚申塔を見て感動した直後に、二匹の猿。まさか庚申塔からぬけ出してきたわけでもあるまいが。

 ちなみに合掌し拝んでいるポーズの二猿は「日光型」と言われ、いわゆる「三不(見ざる・言わざる・聞かざる)」とは出自が違うらしいが、まだ詳しくは知らない。

 

 

 ↓ 茅倉では地形図記載の神社を見つけられなかったが、何か所かの石仏群(屋敷墓跡?)があった。

 聖観音や合掌地蔵の墓標に刻まれた「同㱕」「同𡚖元」(㱕、𡚖、共に帰の異体字)の語が奥ゆかしい。「同帰」とは「別々の道筋をたどっても、結局は一緒に帰る=あの世へ行く」の意。

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 ↓ 茅倉の別の石仏群(屋敷墓跡?)にあった、25㎝ぐらい、ほぼ二頭身の、なんとも可愛らしい聖観音(?)菩薩墓標仏。

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 実質1時半の石仏探訪。檜原村も石仏の宝庫である。これからまだ、どれだけ未知の石仏と出会えるか、楽しみだ。

 

 

  ↓ 中里の熊野神社にあった二十三夜塔。「梵字種子(サク:勢至観音) 廿三夜塔 女人講中」。嘉永元年/1848年。

 月待講は多くは女性だけのもの。精一杯粋な筆致とデザインに、案外元気な当時の女性たちの姿が想像される。

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(記:2021.4.13)

小ペン画ギャラリー-13 「濃くて、くどい絵」

 前回の「あっさり」系に対して、今回は「濃くて、くどい、描き過ぎ(かもしれない)」系。(まあ、それほどでもないかもしれませんが…)

 

 「あっさり系」というのは、確かに見るぶんには見やすく、鬱陶しがられず、嫌われない。造形的にも、余白とか、間とか、余韻とか、筆を惜しむとかいった、心地よい種類の緊張感から導き出され、なにがしかの静けさを伴う。世俗的には、(比較的)売れやすい。それはそれで良い。

 だがもう一方で、私は濃くて、くどくどしくて、鬱陶しい、描き過ぎの、時に人の眉をひそめさせるような画面世界も好きなのだ。例えばボッシュやオットー・ディックスやエルンスト・フックスやアドルフ・ヴェルフリや、甲斐荘楠音とかバリ島絵画とか。

 空間恐怖に裏打ちされた、表現性よりも表出性の方が優越しているもの。過剰はわが望むところ。狂気と情念はわが友。やりすぎるぐらいがちょうどいい。

 思えば私のタブロー作品は、そうした濃い絵の方が、割合としては多いような気がする。小ペン画はコントロールしやすい。そのようなコントロールされた良さもあるが、要はバランスということか。

 だから、これからも濃くてくどい絵も、本能の発露として、制作の基本線として、描き続けていく。

 

 ちなみにアップした6点のうち、3点ないし4点には石仏探訪に由来する仏教的・宗教的発想が多少なりともかかわっている。ちょうど石仏探訪にハマっていた頃に制作したものだから。

 

 

259「四月の夜の森の宴」

2020.4.13-18 15×21.2㎝ 水彩紙 ペン・インク・水彩・グアッシュ・修正白

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 ちょっと、コメントのしようがない…。

 酔っ払いたちの宴のようにも見えるが、そういうつもりではない。夜の森では空間が結晶化するといったイメージ。う~ん、理解されなくても仕方ないです。私自身、出てきたイメージに困惑しているのですから。

 

 

319「水と水」

2020.7.18-21 15.1×10.5㎝ 和紙にドーサ ペン・インク

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 主題は人物ではなく、周囲の複雑な曲線の絡み。水や炎や煙のような流動的で非定型の形、リズムを描こうとする試みは、いつでも魅力的である。色を着けないことで、説明抜きで、それを描きたかったのだが、むろん決して成功しない。だが不動明王の火炎光背のイメージにもたれ掛かることだけはしたくなかった。

 女の形も、いわゆるデッサンは狂っている。デッサンなんか狂ってもかまいはしないのだが、結局は良い表情が出ているとは言えない。つまり、あまり評価できない作品なのだが、私はこれを否定しない。こうした試みは今後もやっていきたい。

 

 

336「渡し守」

2020.8.15-16 15.3×12.2㎝ 和紙にサイジング ペン・インク・水彩

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 数多い石仏の地蔵の中に、ごくまれに船に乗った地蔵があり、岩船地蔵などと呼ばれる。近所の石仏探訪でも二つほど見た。

地蔵菩薩は釈迦入滅後、56億7千万年後(!)に弥勒菩薩が現れるまでの無仏時代を、常に六道をめぐって衆生を救うとされているが、閻魔王本地仏でもあり、そのためか、この世とあの世の境にある三途の川(三途とは餓鬼道・畜生道地獄道の意味)を舟に乗って、餓鬼・畜生・地獄道に落ちんとする悪人までも救うという教説が生まれたらしい。彼岸への渡川という観念は、オリエント起源の神話からギリシャ神話カロンの渡し守)にまで広く見られるものと、同様の構造。

 ともあれ、最近までそのことを知らなかった私は、岩船地蔵の意味を知って少し驚いた。その少しの驚きがこの絵になった。まあ、普通だったら取り扱わないテーマ・イメージだとは思うが。

 

 

354「たゆたふをみなたち」

2020.9.18-21 18×13.1㎝ 和紙に膠 ペン・インク・水彩・顔彩

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 エッシャーのように、あるフォルムを数学的幾何学的に組み合わせるという知的なデザインは、苦手だし、あまり好むところではない。だが、ある種の魅力を感じないでもない。

 この作品にはそうした数学的操作はないが、フォルムを組み合わせるといったパズル的な要素がなくもない。だが、要は「たゆたふ(揺蕩う)―をみな(女)たち」というイメージ。とりあえず、意味は無い。だが、左上の小窓を何となく描き入れたことで、にわかに全体が石祠の中といった空間に変容したような気がした。う~ん、よくわからない。

 

 

390「六地蔵

2020.11.2-3 17.1×21.8㎝ ミャンマー紙にドーサ ペン・インク・水彩

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 地蔵については前の画像でも簡単に説明したが、「地蔵菩薩の起源は、インドのバラモン教の神話に登場する大地の女神プリティヴィ」(Wikipedia)ということを知った時には驚いた。「地蔵=(元)女(神)」!そうした、意味の変容ということは、何においても、どの宗教においてもかなり普遍的に見られることだが、「地蔵=女」説はすごい。

 六地蔵は死後に、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道の境涯に転生する衆生をそれぞれに救うための分身であり、そのため寺や墓地の入口に並べて置かれる。6体の丸彫立像が多いが、山梨県を中心とした、一つの絵馬型に六体並べて浮彫されたものもある。わが家のすぐ近所にも一つある。その地蔵を「をみな」に置き換えた作品がこれ。原始仏教=釈迦においては、女性は成仏(解脱、悟ること)できないとされていたのだから、これぐらいの変換は試みられても良い。

 

 

417「天文書を読む乙女」

2020.12.6-10 16.4×12.9㎝ 和紙に膠 ペン・インク・水彩

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 仏教、宗教とは全く関係がない作品。よくあることだが、周りからイメージや構成が固まり出し、それらをまとめるために中央にアンカーとして人物を置く。プロポーションのおかしな、何となくおさまりが悪い人物になってしまって、気に食わないが、仕方がない。タイトルも含めて、これはこれで良しとした。

 

(記:2021.3.23)

石仏探訪-17 「花と新発見(資料未掲載)の石仏三体」

 3月14日。女房につき合って、横沢入にヨゴレネコノメソウを見に行く。まだ早すぎた。入口にある大きなコブシ(木蓮?)は満開には少し早いが、豪華なくせに静かな印象で、毎年見るのを楽しみにしている。

 

  ↓ 横沢入入口に咲くコブシ(あるいは白木蓮)。

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 そのすぐそば、民家というか作業所の入口に石仏を発見した。何百回も行き来しているのに、これまで気づかなかった。頭部の様子から馬頭観音かと思ったが、手や衣の様子などを見ているうちに、わからなくなった。刻字はない。手持ちの資料にも出ていない。正体追求はいったん保留にしておく。

 

   ↓ 頭部を見ると馬頭観音のように見える。場所的にもあって不自然ではない位置。だが、全体の象容や持ち物などを見ると馬頭観音とは思えない。光背右に文字があるようにも見えるが、読めない。神像にも見えなくはない。結局、今のところ正体不明。手持ちの資料には出ていない。

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 次いで、日の出町肝要方面に向かう。高原社(たかはらしゃ)はふんいきのある神社だが、石造物としては弘化2年/1845年再建の石祠と、明治昭和の二つの手洗石ぐらい。おりからの椿の落花が、神寂びた神域にあって、息をのむほどなまめかしい。

 

   ↓ 高原社。神寂びた良い雰囲気。祭神は天照大神月読命。右の御神木の杉は樹齢300年ほどで町指定の天然記念物。

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    ↓ 御神木の根元の椿。

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  ↓ 古きものと落花の対称。

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 慶福寺には、向かい合った二つの石仏群に、一般的だが、よく見るとなかなか面白いものがあれこれと並んでいる。

 

  ↓ 慶福寺入口左側の石仏群。経典供養塔、馬頭観音、万霊塔など。

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   ↓ 慶福寺入口右側の石仏群。子安地蔵を中心とした六地蔵かと思ったが、必ずしもそうではないようだ。珍しくほとんどの頭部が壊されておらず、当初のまま。地蔵丸彫像にしては、バロック的と言いたいような、肉厚な立体表現がユニークである。

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 奥の小さな墓地に登ると、すぐ近くに小さな神社(岩本稲荷社=個人持ちの社か?)と、小さな御堂やら、寛政10年/1798年の石祠などがあった。石祠には穴の開いた石灰岩=姫石(女陰石)。

 

  ↓ 岩本稲荷社とその左に小さな御堂がある。さらに写真に写っていない左に石祠と九層の層塔がある。

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   ↓ 寛政10年の石祠。側壁に「十一世浄眼氏建之」とある。本来は何を祀ったのか不明。

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    ↓ 石祠には穴の開いた石灰岩が置かれている。姫石(女陰石)。

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 稲荷社傍らの小さな御堂には思いがけず立派な石仏がある。一面八手、浮彫座像櫛型。壁には「疱瘡乃神・山末之大主神」の木札。これで正体がわからなくなった。ともあれ、見ごたえのある像だ。『日の出町史 文化財編』には未記載。

 

 ↓ 「疱瘡乃神」は疱瘡=天然痘を防ぐ神で、住吉大明神があてられることもあるが、要するに民俗神。「山末之大主神」は「古事記」にのみ出てくる大山咋神のことで、いくつもの系統がある「山の神」の一つでもある。いずれにしても石仏としては容像は数少ないく、また儀軌と参照しても当てはまらない。「日の出町の関連文化財群(平成23年)」挿図中の「弁財天(弁才天と書くこともある)座像」がふさわしい。『日の出町史 文化財編』は平成元年発行で無掲載だから、それ以降にこの像の存在が認識されたということだろう。

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  ↓ 一面八手。頭上にはとぐろを巻く蛇。弁才天には二手から八手まで、座像立像といくつかのバリエーションがある。水辺に置かれることが多いが、この場所にあるのは少し不思議なきがする。

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   ↓ 参道から見返る。典型的な春の里山風景。

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 帰路にチラッと見かけた葺屋らしきものに寄ってみる。意外にも立派なというか、妖しく美しい像がある。見慣れない三面八手の座像だが、馬頭観音で間違いはない。やはり上記資料には未記載。

 

   ↓ 馬頭観音 三面八手座像 舟形光背。表面は風化が進んでいるが、全体の象容はよく残っている。刻字塔は確認できなかった。個人の畑の際にあり、個人が管理されているようで、一度話を聞いてみたいと思った。

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 帰宅後三体の石仏の正体を調べたが、横沢入のそれはお手上げ。あとの2体は、ようやく文化庁の『日の出町【東京都】歴史文化基本構想(平成23年策定)』のサイトで、「日の出町の関連文化財群」をみつけ、挿入地図中にわずかに「弁財天座像」と「舟形三面八手馬頭観音座像」とあるのをみつけた。説明も図版も一切なし。象容からしても妥当なところだが、「弁財天」がなぜ「疱瘡乃神・山末之大主神」とされているのかはわからない。もう少し探求してみたいところではあるが…、きりがないのである。

 

 いずれにしても今回は、面白い石仏を見ることができた。石仏は文化財であり、歴史資料であることは言うまでもないことだが、実際にはまだこのように、ほとんど知られることなく、静かにそこに佇っているものが無数にあるだろう。それらに運よく出会えることは、石仏探訪の醍醐味である。

 

 里山には、紅梅白梅をはじとする花が咲きはじめている。石仏探訪も悪くはないが、山登りに行きたいと思うフラストレーションがたまっている、規則正しい遅寝遅起きの画家=私。

(2021.3.15)

 

 

 

 

石仏探訪-16 「福生市千手院の三陸海嘯供養塔」

 3・11。当時、キューバからメキシコへの旅(3.1~3.15)の途上にあった私は、3・11を体験していない。最初に知ったのは、IT事情のきわめて悪いキューバハバナで。新聞や画像を初めて見たのは、翌日のメキシコシティの空港で。

 日本にいなかった私の感じることは、多くの日本人と微妙に違うようだが、それについてはここでは置く。

 

 昨年9月に訪れた福生市の千手院にあった石碑を思い出した。

 

 

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 高さ70~80㎝ほどの自然石の文字塔。中央に「三陸海嘯死亡諸精霊等」、右に「明治二十九年七月十九日」とある(「~諸精霊等」の「等」は「塔」の意。)。左にも一行あり、おそらく建立者であろうと思われるが、撮影した写真では判読しづらい。

 

 明治29(1896)年6月15日の三陸地震は、観測史上最大の海抜38.2mの津波により、2万人以上の死者が出たとのこと。120年以上前に、遠隔地での惨事を、一か月後には遠く離れた福生市の寺で供養するというのは、驚くべきことのように思われる。少し不思議に思い、少し感動する。何か理由があるのかと思い、調べたが、わからない。こうした遠隔地の供養塔は、他にも在るのだろうか。

 福生市郷土資料室のサイトには「福生市の指定文化財」として「9件17基の石造物が、〔千手院の石造物〕として登録されています。」とあるだけで、詳しいことはわからない。文献でも石仏・石造物を中心とした入手しやすいものは、今のところ見当たらない。

 

 それはそれとして、供養が寺院の務めであるということはわかる。ではもう一つの務め、特に密教系の真言天台宗における、「国家安全」に代表される、「国難」や疫病(コロナ禍)や災害を防ぐための積極的能動的な「加持祈禱」は、現在はどうなっているのだろう。

 仏教は国家統一のためのシステムとして輸入された。その後、末法思想下での貴族階級個人の救済(成仏)システムの段階をへて、「国家安全」の御利益をもたらす「加持祈禱」を強力なツールとする真言天台密教が国家体制の一部となった。さらにそれを推進しつつ一般民衆を取り込んでいった鎌倉仏教以降も、「国難」や「防災」のための「加持祈禱」というシステムは存続しているはずである。例えばこのコロナ禍において、それらの寺院は疫病退散のための加持祈禱を行っているのだろうか。行っているからこの程度で済んでいるのだろうか。それとも住職もまた、ただ外出自粛を事としているだけなのだろうか。

 私は、加持祈禱が現実に有効であるとは、むろん思っていない。だが、宗教というものが、本質的に現実よりも非現実(幻想)に根差しているものであるのだから、幻想(=信心)としての加持祈禱という作法を全うしないことには、自身の存在理由を見出せないのではないかと、思うのである。

 

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(かつて高尾梅林と呼ばれた名残の梅の花は、供華の意味で載せました。)  

 

(2021.3.11)

石仏探訪-15 「美しき聖観音と世界の墓地 – 2」

 少し前に八王子市恩方方面に石仏探訪に行った。自転車やバスで行くとなるとかなり不便な地域だが、女房の車で行くと30分足らず。

 恩方と言えば、和田峠に抜ける案下川沿いの陣馬街道と「夕焼け小焼けの里」。だが私が最初に目指したのは、その上流の支流の醍醐川流域。バス便もなく、より不便なところだ。手持ちの資料はない。

 まず地図上の最奥の卍記号龍泉寺に行く。境内に雰囲気の良い石仏群はあるが、小規模でさほど興味を引くものはない。引き返して本命の陣馬街道に戻るかと思っていたら、女房が何やら地元の人と話をしている。ウォーキング途中の、けっこう石仏に興味をお持ちの方。この先に何か所かあり、ウォーキングのついでに案内してあげましょうと言われる。

 資料のないところで石仏を探すのは、難しい。在るのか無いのかさえわからないのだから。地元の人に聞くのが一番だが、地元の人でも、興味のない人は全く知らないということが多い。その方の先導で何か所か見せていただいたが、なるほど、これは知らなければまず見つけられないだろうというところが多かった。実に感謝感謝である。

 

 醍醐川自体はまだ奥まで伸びているが、その人のウォーキングコースの折り返し地点(最奥の集落?)に福寿草の群落と共に、素晴らしい観音像があった。聖観音、開敷(かいふ)蓮華持ち。浮彫立像舟形光背。蕾の未敷(みほう、またはみふ)蓮華を持つものは多いが、開いた蓮華を持つのは比較的珍しい。蕾のままの蓮華はまだ悟りに至らぬ人々を、開いた蓮華は悟りを開いた段階の人々を表す。ちなみに聖観音とは、三十三通りに変化するという観音のスタンダードな姿。だから正観音ともいう。

 

 ↓ 聖観音と三つほどの自然石の文字塔墓石。全体が小さな屋敷墓だったと見るべきか。

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 左右に年記があり、二人分の供養塔と思われる。端正な彫りで、無理のない自然なフォルムと自然な表情。素晴らしい造形である。私が見た中で最も美しいものの一つ。

 端正な彫りで、ゆったりとした自然なフォルムと、飾り気のない自然な表情が素晴らしい。これまで見てきた聖観音の中でも最も美しいものの一つ。

 光背の左右に「天保十亥九月吉日 一應貞□信女」、「 天保十亥七月〔 ]」と刻まれているから、二人の女性、あるいは夫婦つまり両親かの供養塔であろう。天保十年は1839年

 

  ↓  聖観音菩薩 浮彫立像舟形光背。

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 すぐそばには、福寿草の群落と共に、「~早世~」と読める自然石の墓標(残欠?)や、「延宝?□~」「~(読めず)~」といった刻字の認められる自然石の墓標(残欠?)があったから、ここは規模のごく小さな屋敷墓(というべきかどうか、よくわからないのだが)だったのかもしれない。「延宝」年間だとすると、1673~81年だから、相当古い。

 

 そのすぐ近くには、青みがかった自然石に線刻された地蔵菩薩宝珠錫杖があった。正徳2年/1712年。「施主 五人」とある。彫りは素人臭いが、かえって朴訥な味わいの面白いもの。帰宅後確認したら『八王子石仏百景』(植松森一 1993年 揺籃社)に「通称:疣地蔵、勝負地蔵。この年恩方で疫病が流行し子供が死亡したことと関係あるかもしれない。」とあった。

 

 ↓ 地蔵菩薩宝珠錫杖 線刻(下部少し埋没)。正徳2年/1712年。

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 案内していただいた中には、他にも、やはり立派な彫りの寒念仏塔を兼ねた庚申塔を中心とする石仏群やら、それとよく似た彫りの庚申塔と二十三夜塔、一面二手としては珍しい憤怒相の馬頭観音やら、「日蓮上人菩薩祈願所」と彫られた道標やら、珍しい、面白いものが多くあったのは意外であった。今でこそ寒村といった趣きの裏街道沿いの小さな集落の連なりだが、和田峠によって甲斐の国とをつなぐ要衝でもあったのだろうから、往時はそれなりの人通りや経済活動があったのだろう。

 

 

 ↓ 途中の車道から少し入った旧道山道にあった石仏群。寒念仏塔を兼ねた立派な笠付角柱の庚申塔。基礎の三猿は見えにくいが、珍しい、面白いポーズのもの。

隣の地蔵菩薩丸彫立像は新しいもの。ほかにすべて頭部を破壊された六地蔵(?)と同様な地蔵の念仏塔がある。

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  ↓  馬頭観音 一面二手 憤怒相 浮彫立像 角柱。文化11年/1814年。

馬頭観音は本来三面の憤怒相だが、石仏では一面二手慈悲相が一般的。一面二手の憤怒相は珍しい。憤怒相ではあるが、大きな冠(?)の上にチョコンと乗っている馬頭を含めた全体のプロポーションは、むしろ可愛らしさを感じる。

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 いずれにしても、ただ車から見るだけでは、見落としそうなものばかりである。石仏の所在を熟知しておられる地元の方と出会えて、本当に幸運だった。

 

 恩方、陣馬街道にはいずれ近いうちに再訪するつもり。だが、今回の主旨は「世界の墓地 - 2」なのだ。

 世界の墓地・墓標、その2として、グルジア正教アルメニア正教、ユダヤ教イスラム教、そして、古代トルコとローマ帝国のものを少々紹介してみる。

 

 

 ↓ 東西世界のはざまトランスコーカシア地方の一つ、グルジアジョージア)のアルメニア国教近くにあるUbisa教会の古い墓地。2016年9月。

 グルジアはたしかアルメニアに次いで二番目か三番目にキリスト教を国教と定めた国。石棺風と墓塔らしきものと両方が見える。

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 ↓ グルジアトビリシ近郊ムツヘタの教会の床。他の古いキリスト教会で見られるのと同様に石棺の蓋(?)がそのまま床にはめ込まれている。刻まれているのはグルジア文字。

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 ↓ 同じ教会のもの。前のと同じグルジア文字の、違うタイプの装飾的な書体だと思うが、正確にはわからない。少し新しいもののように思う。

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 ↓ 2016年9月。アルメニア、サナヒンのサナヒン修道院かセヴァン修道院のどちらかにあったハチュカル。無縁仏風にまとめて大量に置かれていた。だいぶ古いもののように思われる。

 ハチュカルはアルメニア教会を象徴する石造の十字架。墓標に使われるが、複雑多様な美しいデザインが施され、見ていて飽きない。

 東西世界のはざまトランスコーカシア地方のもう一つの国アルメニアは、世界で初めてキリスト教を国教とした(301年)国。グルジアと同様に歴史的に常に紛争の舞台となる国で、つい最近も隣のアゼルバイジャンとの間でナゴルノカラバフ紛争を再燃させ、ほぼ負けに等しい停戦協定を結んだばかりで、何かときな臭い。

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 ↓ 同じくアルメニア、ハフバットのハフバット修道院の建物に組み込まれていたハチュカル。洗練されたデザイン。周囲にいろいろ文字が刻まれている。

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 ↓ アルメニア、エレヴァンのリプシマ教会かエチミアジン大聖堂かズヴァルトノツ大聖堂の広場に並べられていたものの一つ。大型。

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 ↓ 2018年5月。イスラム圏のウズベキスタンサマルカンドの郊外で見たユダヤ教徒の墓地。周囲には壁が張り巡らされている。石棺方式(?)と墓塔形式と混在。シンプルなものが多い。このあたりの一神教ユダヤ教イスラム教)は、規模や形から見て、現在でも、最後の審判の日に備えてまだ土葬であるようだ。

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 ↓ 2009年9月、トルコ、イスタンブールのシュレイマニエ・ジャミイというモスク附属の墓地。この時が初めてのイスラム圏への旅で、イスラム教の墓地を見るのはたぶん初めて。一部植物文様もあるが、文字が主で、塔のスタイルもいろいろあり、その造形性に驚いた。円柱状のものは日本の無縫塔と言われる多く僧侶の墓石と似ているなと思った。それを機に、少しずつ海外の墓地というものを意識するようになった。

 期せずしてこうしたイスラム墓地を見て、異文化を感じたというか、同時に日本の墓地との共通性も感じた。しょせん人間の考えることには共通性があるということだ。

 よく見ると埋葬部分の中ほどに穴が開いており、そこに植物が植えられている。

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 ↓ おなじくシュレイマニエ・ジャミイの墓地の中の墓標の一例。文字だけを刻んだものもあれば、このように植物由来の装飾文様を刻んだものもある。

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 ↓ これまではほぼ現代のものだったが、ここからは博物館等にあった古代のもの。

2009年9月、トルコ、イスタンブール古代オリエント博物館のもの。正確にはわからないが、個人の墓標だと思われる。いずれも大理石製のためか、長い年月をへて、美術品というかフォークアート的な素朴な美しさに至っている。

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 ↓ 同じくトルコ歴史博物館。両親を供養したものだろうか。日本の双体仏と服装が違うだけで、同じ発想。

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 ↓ 同じくトルコ歴史博物館。これは墓標ではなく、石棺の一部ではないかと思う。

こうなるとほぼ完全にアートである。私はマッシモ・カンピリMassimo CAMPIGLI(1895~1971)の作品を連想した。 

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 ↓ 参考:「メダルのためのレリーフ下絵」マッシモ・カンピリ 1962年

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 ↓ 石棺の一部を上げたので、ついでに堂々たる石棺の全体をあげてみる。同じくトルコ歴史博物館。正確な時代はわからないが、ローマ帝国支配時代の司令官クラス(?)のもののように思われる。 

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 ↓ 同じくローマ帝国支配の石棺の部分復元。見てわかるように、白い大理石材は、本来は着色されていた。いわゆるギリシャ・ローマ彫刻やパルテノン神殿なども、基本的にはすべて着色されていたのである。「真っ白な大理石のギリシャ彫刻」というイメージは基本的には間違いなのだ。着色されていたという点においては、日本の木彫や乾漆の仏像においても同様である。むろん、色がなくなった立体としての像そのものを、時間の経過を含めて愛でることは、それはそれでかまわないが。

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 しかし、世界の墓地や墓標に興味を持つ人はそう多くはないだろう。歴史的、民俗的、美術的な観点からは、面白い対象なのだが。そう思えば、ヒンドゥー教徒の墓地とか、見ていないもの、見てみたいものはまだいくらでもある。そういえば、そんなコンテンツをまとめた本は見たことがないなあ。

 (記:2021.3.4)

「石仏探訪‐14 美しき如意輪観音 二つの墓地と世界の墓地・その1」

 半月前ほど、日の出町細尾の光明寺に行った。寺の前、境内と見て、傍らの墓地ものぞいて見る。私の石仏探訪は、基本的には墓域内の個人墓標は対象としないが、墓地入口あたりに六地蔵をはじめとする石仏群があることが多く、また墓域内にも時には見るべきものがあることもあるので、一応のぞいてはみるのだ。

 その時も山腹を造成した墓地の上の方に、何やらある気配。上がって見ると、そうたいしたものではなかった。だが、その周辺の景色が何かひっかかる。少し観察しているうちに、思い出した。ここ光明寺は両墓制が残っている場所だったということを。

 両墓制とは「遺体の埋葬地と墓参のための地を分ける日本の墓制の一つ(Wikipedia)」で、沖縄から関東、東北まで濃淡はあるが、全国のあちこちで見ることができた。以前、民俗学に強い関心を持っていた頃、沖縄の洗骨風習や風葬などといったことと共に、この両墓制ということを知り、一面でポリネシアや東南アジアに起源を持つと思われるそうした風習に、ある種のロマンチシズムというか、エキゾチックな興味を持ったのである。

 両墓制は各地で様々な形式・特色があるが、共通した要素としては「埋め墓(ミハカ、サンマイ/三昧、ボチ/墓地、ヒキバカなどとも言う)」という遺体埋葬地と、「詣り墓(ラントウバ/卵塔場、ラントウ、タッチョウバ、サンマイとも言う)」という遺体のない墓参用墓地の二つが存在しているということである。日の出町では埋め墓のことをヒキバカと言う。

 

 ↓ 埋墓(このあたりではヒキバカと言っている)。およそ人一人分の面積に石で区画が記されており、プラスチック製の花立が設置されていた。

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 ↓ 傍らには昭和63年/1988年の「○○家埋墓改修工事」という碑が建てられていた。これでその家にとっての両墓制は終焉ということである。

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 実は、石仏探訪とは限らず、これまで山歩きや散歩のおりに、何か怪しげな不思議な感じのするところに出くわしたことは何回かあった。今思えばその内の何か所かは両墓制墓地だったように思われるが、具体的な場所が記された資料を読んだことがなかったので、それと確認することはなかった。

 それは土葬を前提とした、とっくに廃れた過去の葬送形式であり、現在でもそうした場所が残っていることは、最近まで、不勉強のため知らなかった。郷土史関係の資料にも、具体的な場所まで記載されていることは少ないようだ。

 

 もう一つ。光明寺の両墓制の場所を見たあとで、その先の別の林道の脇にいくつかの石仏があるのを見つけて寄ってみた。資料にも出ていない、樹林の中に10基ほどの墓標が立ち並ぶ、一家族だけの、つまり屋敷墓と言われるもののようであった。

 

 ↓ 林道入口の集落の近くの樹林にある屋敷墓。10基ほどが整然と並んでいる。集落の名主とか有力者の一族のものなのだろうと推測される。

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 墓地と言えば、寺院に隣接するものや、地方自治体や組合の管轄する共同墓地が多い。だが、私が住んでいるあきる野市や日の出町に限らずとも、自宅の敷地内や、少し離れた畑と山林の際などに、その一家だけのいわゆる屋敷墓というのも、今でも全国のいたるところで見ることができる。

 その屋敷墓にあった石仏の内の二つが、素晴らしいものであった。

 

 ↓ 如意輪観音半跏思惟座像 浮彫座像 舟形 元禄6年/1693年

  上:梵字種子 右:「十方如来大慈大悲~~」「観秋妙音~~」

  石質良く、彫りの深い実に見事な像。墓標仏と思うが、正確にはわからない。

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 ↓ 地蔵菩薩宝珠錫杖 浮彫立像 舟形 (頭部一部破損)

 梵字種子 右:「~~空~信~」 左:「毎日晨□八於諸定安~~」

 如意輪観音と同様に石質良く、彫りの深い見事な像。作風から見ると如意輪観音同一の石工の手になるものか?

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 丸彫に近い舟形光背の浮彫の如意輪観音半跏思惟座像と宝珠錫杖を持つ地蔵菩薩立像。如意輪観音には元禄6年/1693の年記がある。ほかに偈(仏教用語で、経典中で詩句の形式をとり、教理や仏・菩薩をほめたたえた言葉。頌/じゅ、讃とも訳される)らしき文字が刻まれており、かなり格調の高いもののようだ。こんな炭焼きと林業ぐらいしか生業のない貧しい山村に、このような素晴らしい墓標仏を建立する、どんな歴史があったのだろうか。

 

 一般的に「お墓」にはあまり良いイメージというか、明るいイメージはないだろう。関連して石仏関係の投稿全般にあまり評判は芳しくない。まあ、それはそれで仕方がない。だが、ピラミッドもフィレンツェメディチ家礼拝堂もノートルダム寺院も、言ってみれば墓であり、死者を祀ったところなのだ。国内外の名所旧跡の多くは、そうした死者とかかわる場所が多い。

 

 ↓ ミケランジェロ作 メディチ家礼拝堂 ジュリアーノ・デ・メディチの墓碑

 上:ジュリアーノ・デ・メディチ像 下右:「晝」 下左:「夜」 

 下の石棺には当然ジュリアーノ・デ・メディチの遺体が入っている。

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 思いついて過去の海外の旅の写真を見てみると、そうした墓や墓地を写したものがいくつもあった。見はしたが、撮影はしなかった所の方が多い。意図して墓や墓地を撮ろうとしたのではない。たまたま出会ったそれらが造形的に美しく感じた場合に撮ったまでである。だがそれらを並べて見ると、異なる風土や文化や宗教の違い、あるいはそこから来る死生観や哲学の違いと、逆に共通性といったものまで見て取ることができそうで、面白く感じた。

 石仏探訪においては、墓地・墓石を避けて通ることはできない。そもそも美術・芸術において、死と向き合うことは避けられない。そうした観点から、ごく一部ではあるが、私の見た世界の墓標、墓地を少し紹介してみることにした。

 

  

 ↓ 中国甘粛省敦煌の鳴沙山近くの砂漠地帯。

 車中からの撮影でピントが合わず、わかりにくいが、ところどころに点々とした土盛がある。昔の中国人(漢族)の墓というか、葬った場所だとの事。漢族以外の先住の蒙古族などは墓は作らず、軽く石などを載せて終わり。すぐに場所もわからなくなり、墓参りの習慣はないとのこと。現在の様子はわかりません。

 右下にチラッと見えているのはラクダに乗った現地の人か、観光客。

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 ↓ スウェーデンゴットランド島。古いものだが、詳しいことはわからない。墓標は立てず、石棺の蓋に文字が刻まれている。 

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 ↓ 同じくスウェーデンゴットランド島。詳細不詳。  

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 ↓ スウェーデンストックホルムのとある教会附属の墓地にあった古い墓標。浅く文字が刻まれている。味わいある形。

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 ↓ 同じ墓地のもの。三角形の形の意味はわからないが、同じく、味わいある形。

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 ↓ 2000年に行った、文字からするとドイツかオーストリアと思われる教会の床。正確な場所はわからない。この教会ゆかりの僧侶やパトロンの王侯貴族などが床下に埋葬されている。柩の蓋の意味合い(?)でこのような肖像が彫られたものが床になっている。人々は(かつては)その上を歩き、その結果表面はすり減り、このような風合いとなる。 

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 ↓ 同上。細かい表情は摩滅し、おおよその輪郭だけが残っている。

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以下、「世界の墓地・その2」に続く。

 

(2021.3.1)