艸砦庵だより

河村正之のページ 絵画・美術、本、山、旅、etc・・・

「ふるさとの山―番外編+路上のアート」 これはアウトサイダーアートなのか?~山里に群れなす怪獣たち

 先日(2017.11.8)、山口県鹿野町(現周南市)にある馬糞ヶ岳に登りに行った。その途中で不思議なものを見た。

 最初は徳山から北上して登山口である秘密尾を目指して車で走行中、とある交差点(?場所不明)で何か、黒い大きなフィギュアのようなものが置かれているのを一瞬見たような気がした。しかし、その時は、??気のせいか??というぐらいで、確認する間もなく通りすぎた。そして登山口に近づいたあたりで、今度ははっきりと、道路わきにいくつも群れなしているのを見た。「何だ?あれは?!」同行の一人が知っているらしく、「この辺では結構有名らしいですよ」という声。下山後にあらためて確認すことにして、その時はとりあえず通過した。

 登山が終わって帰りがけに一風呂浴びようと温泉に向かう途中、再度の遭遇。今度は車から降りてゆっくり鑑賞、観察する。

 

 ↓ 人家の前の畑の恐竜・怪獣群

 

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 ↓ 整列行進の恐竜・怪獣群

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 第一印象は、こんなところに素晴らしいアウトサイダー・アートがあった!というものだった。

 なかなかのモノである。恐竜、怪獣たちが群をなしている。道路わきの人家の前の畑の中、整然と隊列をなして車道のほうに向かっている。迫力がある。近づいてみると、思ったより大きい。最大のもので7、8mぐらいか。全部で10体以上ある。小さいものや、人家の庭先の止まり木の上の鳥のようなものまで入れれば20体、いや30体以上ある。ほとんどのパーツがゴムタイヤを切り刻んだもので作られている。細工は細かく、細部までよく工夫され、同じデザインのものは一つもないようだ。

 

 ↓ 一つ一つ顔が違う

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 ↓ 鳥もいる 後ろのが作者の家か?

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 ↓ 前の二人は誰?

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 見れば見るほど、良くできている。言い換えれば、創造的であり、作品的であり、アウラが感じられるのである。つまり、よくありそうではありながら、「ありがち」ではない、ように思われる。

 そこのところの見極めが難しい。つまりオリジナリティあふれる「アート」なのか、それとも「ありがちな造形物」なのかが、今一つ確信を持てないのである。わが鑑賞眼も未だしだなと思う。(「現代美術」にもそういうところがあるが)

 こうした造形物というのは、全国あちこちにけっこう存在する。中にはオッ!と思わせるものもないではないが、たいていはまあ、言わずもがな、といったものだ。その程度のものを私は「アート」と呼ぶ気はない。

 

 今日、「アート」という言葉は安くなった。それは「芸術」や「美術」という言葉の相対的インフレの進行と照応する現象である。「ハイアート」の衰退と「ローアート」の躍進・蔓延。それは必ずしも悪いことばかりとは言いきれない。しかし、そこには功罪が相半ばする。芸術の領域拡大による美の可能性の増大ということもできるし、感性や価値観の低下といった現象もそうである。もちろんそのことは、情報化社会の進行、SNSの普及などといった事態に支えられたものでもある。

 芸術はある文化に属するものであるから、その時代や社会、風土、歴史性といったものによって定義付けられるのは当然のことである。しかしまた、どんな芸術もいずれ外部の要素を取り入れることによって更新されることを必然とする存在である。19世紀末のフランスアカデミズムに対する印象派の勃興において果たした浮世絵の役割など、その典型であると言えよう。20世紀以降の美術における「アウトサイダーアート」の意義もまた同様である。

 

 ここにある造形物群は「ありがちな造形物」なのか、「アウトサイダーアート」なのか。実を言えば、作者さえわかればその区別は簡単なのである。

 「アウトサイダーアート」というのは、その語が使われだした当初は、主に「知的ないし精神的障害をもった人が作ったユニークな作品」といった程度のシンプルな意味合いだったのだが、その魅力と可能性が認められるに従って、領域と意味をを拡大していった。今ここでそのことについて詳述する気はない。別のカテゴリーで、そのことにふれた拙稿「表現のはじまりとしてのアウトサイダーアート -美術と教育の基層として-」〈『平成16年度「広域科学研究経費」に係わる報告書「アートセラピーの現状調査とアートセラピスト要請プログラムの開発」』(pp.50-60 東京学芸大学大学院教育学研究科芸術系教育講座 東京学芸大学美術・書道講座 2005年)〉をあげておくので、そちらを参照されたい。

 

 とりあえず、簡単なアウトサイダーアートの定義の一例として、以下をあげておく。

 

 (1)背景:過去に芸術家としての訓練を受けていないこと。

 (2)創作動機:芸術家としての名声を得ることでなく、あくまでも

    自発的であること。(他者への公開を目的としなければ、さらに

    望ましい) 

 (3)創作手法:創作の過程で、過去や現在における芸術のモードに影

    響を受けていないこと。

  http://outsiderart.ld.infoseek.co.jp./preface.html アウトサイダーアートとはなにか/

   アウトサイダーアートの世界 より引用)

 

 要するに上記三点を満たしている人が作ったものであれば、この造形物はアウトサイダーアートだと言えるのである。

 

 しかし、今日ではアウトサイダーアートの概念は拡大されている。アール・ブリュットという語も一般的になったが、主に知的、精神的障害をもつ人の行為・作品を示すエイブル・アート(able art)以外に、ナイーブ・アート(naïve art)やプリミティブ・アート(primitive art)、エスニック・アート(ethnic art)、マージナル・アート(marginal art)、さらには子供の絵も含めることすら可能なのである。

 もしこの造形物群の作者が上記(1)~(3)の条件を満たしているとしても、ナイーブ・アート≒素朴派といったあたりに位置づけるのが適当かもしれない。

 

 意識されて配列されたと思われる設置状況からして、作者はこの畑の所有者である奥の人家の住人ではないかと想像される。「すみません。ちょっとお聞きしたいのですが」と言って、聞いてみればすぐにわかるだろう。単なるモノ作りの好きな人、工作好きの人かもしれない。しかし、単なるモノ作り好き、工作好きというだけなら、ここまではやらないだろうというか、ここまでのクオリティには到達しないだろうと思う。だから、少し怖いような気がする。でもせっかくだから、聞いてみるべきかとは思うのだが、気の弱い私にはなかなかその決断が下せない。同行のメンバーは、最初は面白がっていたものの、とっくに飽きているというか、あまり深入りしないように距離をおいている、という感じだ。これからの予定もある。ああ、俺はフィールドワークに弱い男だと思いつつ、予定の温泉に向かわざるをえないのであった。

 

 ↓ とっくに飽きている他のメンバー

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 ↓ 布製のパーツは少数派

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 作品は写真を見てわかるように、一見して恐竜あるいは怪獣と見えるものである。しかし恐竜や、既成の怪獣のイメージともちょっと違う。たまたまその直前に立ち寄った氷見神社との関連から、祭神の闇於加美神(くらおかみのかみ)=水の神・龍神=龍を模したものではないかと言う説も出されたが、イメージのくくりとしては恐竜も怪獣も龍も同じこと。

 

 何にしても大した迫力である。ゴムタイヤの色、質感をうまく利用している。

 明らかに鳥を造形したとわかるものはさほどでもないが、ところどころに置かれている人物像はよく見ると案外恐い。作者は必ずしも恐がらせようとしたのではないかも知れないが、結果としては少し怖い。怖いけれども、味はある。可愛いと言えなくもない。

 

 ↓ 恐可愛い二人

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 これを見た多くの人は、結果として何と物好きな!と思うかもしれない。確かに物好きの結果ではあろう。しかし、その物好きの度合いとクオリティによっては、それはアートと言うべきなのもしれないのである。私は、これはアート=芸術だと思う。ただし、少し自信がないのである。ああ、わが鑑識眼、未だし…。

 真価が認められるのに時間がかかることもあるのだ。価値を見出されるまでに時間がかかり過ぎて、作品が消滅してしまうことは、もっと多い。

 ちなみに、こうした素人の物好きが延々と作り続けた結果、今や完全にアートとして認められ、国の文化財として認定された例を紹介しておこう。「ワッツタワー」(アメリカ)と「郵便配達夫シュヴァルの理想宮」(フランス)である。

 

 ワッツタワーの方は、とあるさえないイタリア移民サバトロディアがロサンゼルスのスラム街に33年かけて作り上げたもの。現在は「アメリカ国定歴史建造物」に指定されている。

 

 ↓ ワッツタワーその1

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 ↓ ワッツタワーの下部

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 「郵便配達夫シュヴァルの理想宮」の方は、ある日仕事(郵便配達)の途中でつまづいた石を拾い上げたことがきっかけで、やはり33年かけて作り上げたもの。現在はフランス政府により国の重要建造物に指定されている。

 

 ↓ シュヴァルの理想宮 その2

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 ↓ シュヴァルの理想宮 その1

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 共にたった一人で作り上げたもので、今や共に多くの観光客を呼びあつめている。

 私はまだ見たことがないが、できれば一度ぐらい見てみたい気もする。まあ、見なくても差し支えはないが、そんな事をやった人がいて、そんなものがあると思うだけで、少し暖かい気持になれるのである。

 

 おまけとして、もう一つ紹介しよう。こちらは3年前に見た。ラオスビエンチャン郊外のブッダパークである。こちらは仏教をまじめに広めようとしたあるまじめなお金持ちがまじめに作った(こちらはおそらく職人に作らせた)ものである。しかし、どこかアウトサイダーアート的な感はまぬがれない。私も現地で大いに楽しんだ。

 

 ↓ ブッダパーク その1

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 ↓ ブッダパーク その2

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 ともあれ、思わぬ拾い物をしたような気持ちではある。いまだに自信はないのであるが、ここまで書いてみるともう、アウトサイダー・アートだか、単なる造形物だか、どちらでもいい気が少ししてきた。なにはともあれじゅうぶん楽しませてもらったことは確かだ。

 構造的にはしっかりしているようだからこのままでも長持ちしそうだが、こうしたものの常として、いつまでそこに健在であるかはわからない。私としては、この過疎の山間の集落で、ひっそりと静かに朽ち果てるまで、末永く立ち続けていて欲しいものだと思う。

                       (2017.11.16 記)

 

追記

 その後、同行メンバーの一人Tが、地元の知人を通じて知りえた以下の話を伝えてくれた。

 

 作者は地元の谷川さんと言われる方で、数年前に亡くなられたとのこと。御存命であれば80歳くらい。奥さんがまだ御健在で、その話として、谷川さんは農業のかたわら、林業法人に勤務。そこを退職後、「ゴムタイヤアート」を作り始められたとのこと。きっかけは、「お孫さんを喜ばせようとして」。仕事の経験を活かして、タイヤは木の芯に打ち付けられているそうだ。以前、テレビ等でも取り上げられ、地元では結構人気だったとのことである。

 

 こうして作者のイメージがある程度わかった。そうすると、さて、これはアウトサイダーアートと言えるかどうか。

 前述の三つの定義からすると、おそらく「(1)背景:過去に芸術家としての訓練を受けていないこと。」以外は該当しないと言えよう。しかし、この三項は、狭義のアウトサイダーアート(主としてエイブルアート)について定義されたものである。しかし、別項「旧論再録 表現のはじまりとしてのアウトサイダーアート」で述べたように、より範囲を広げてみれば、「ナイーブアート」には含まれるかもしれない。障害はなく、専門の美術教育を受けていない人によるアートである。素朴派という言い方もある。丸木スマやモーゼスおばさんなどがその例。

 

 まあ、こうして見ると、分類や定義などどうでもよいとは言わぬが、必ずしも本質的な問題ではないとは思えてくる。

 それにしても、やはりこの作品の強度といったものはスゴイと思う。やはりその強度に魅入られたのか、吾々が見た何日かあとで、少し離れた所のある会社の社長が、「ここに置いておくのはもったいない」と言って5体を買われ、持ち帰られたとのことだ。また周辺の何ヶ所か、交差点などに(注意喚起のため?)同様の作品が設置されているらしい。

 「ここに置いておくのはもったいない」かどうかは、微妙だが(私などはそこにまとまってあるから良いのだと思うが…。単体より集合の迫力)、少なくとも私以外にもその魅力に惹かれた人がいることは確かだ。つまりそれだけの強度とアートとしてのアウラを発していたことの証であろう。

 (2017.11.25記)

「ふるさとの山 その3」 これまでに登った最も低い山 天神山 (2017.11.9)

 11月9日木曜

 東京を発ってから6日目、帰京すべき日である。予定していたコンテンツはほぼすべて消化した。

 前夜は馬糞ヶ岳から帰ってきてから、K宅で野郎三人で鍋を囲んで飲んだ。5日連続だ。思い残すことはない。あとは駅に行く途中で、「山頭火ふるさと館」にちょっと立ち寄って見るだけである。途中下車してどこかの美術館を見るのも良いが、正直言って疲れた。満腹である。ということで、さっさと帰ることにする。

 朝食後、山道具や着替えを詰め込んでふくらんだザックを宅急便で出しに行く。いったんK宅に戻って、デイパックとショルダーバッグのいでたちで家を出る。4泊もさせていただいたKのお母さんには感謝のしようもない。

 

 さて山頭火ふるさと館経由、駅に向かうかと思いきや、Kが「天神サマに行こう」と言う。天神様とは日本三天神の一つ、防府天満宮のこと。10分もあれば行けようが、子供の頃からさんざん行っているし、今さら行く気もしない。「いや、天神様ではなく、天神山だ」と言う。天神様は天神山の南山麓にあり、K宅は天神山の西山麓にある。そんな気はまったくなかったのだが、登るとすれば50年ぶりぐらいだろうし、低山ではあるが案外良い感じらしいということも知っていたので、急ぐ旅ではなし、まあ付き合ってみるかという気になった。

 帰郷して以来、Kは日々のトレーニングとして、裏山にあたる天神山を歩いているらしい。確かに玄関から登り口まで3分なのだから裏山歩きとしては最高の位置関係だ。かく言う私も自宅玄関から最短3分で登り口がある高尾山から、尾根続きの網代城山や弁天山などを裏山歩きの場としている。言うまでもなく、高尾山といってもあの有名観光地の高尾山ではなく、あきる野市高尾にある高尾山である。この地の産土神社である高尾神社の裏山だ。あきる野市高尾=旧五日市町は山に囲まれた盆地なので、ほかにも横沢入り・天竺山、秋川丘陵、金比羅山など、1時間半から2時間程度の300mクラスの裏山・里山歩き=裏山散歩の場にはことかかない。弁天山や秋川丘陵はガイドブックにも取り上げられている。

 地図で確認してみたらK宅が標高10mくらい、天神山が166.8mで標高差約155m。私の家の標高が約180m、網代城山が330.7mで標高差約150m。共に玄関から3分で登り口、30分ほどで頂上という、ほぼ同じ環境にあることがわかった。偶然とはいえ、おそろしい(?)もんだ。

 登り口は道路わきの「足王様」という小さな社。猿田彦が祭神で、古くから足の神様として信仰されているとのこと。私がその存在を知ったのはK宅に初めて泊まった昨年の事だが、有名になってきれいに整備されたのもやはり近年のことだという。今は観光スポットとしてある程度有名らしい。山登りをする身としてはまんざら縁がないわけでもないし、猿田彦=足の神様というのもわからなくもないが、「足王様」とはねえ…。

 その足王様の左わきを少し行った先から登りはじめる。入り口には大きな案内図がある。何年か前に遊歩道として天神山全体にいくつものコースが設定整備されたらしいが、詳しいことは知らない。またいくつもあるらしいコースの全貌も、今のところわからない。地理院地図を拡大して見ると、確かに多くの路があるようだが、それがこの遊歩道全体と正確に対応しているのかどうかはわからない。

 

 ↓ 登り口 最初は簡易舗装の道 

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 すぐに整備された幅広い階段となり、それがほぼ頂上まで続く。整備はされていても階段状なので、かえって登りにくい。整備自体は良いとしても、そもそもこんな階段が必要なのだろうか。おまけに鉄鎖の柵まで。行政のやることはまったく・・・。

 

 ↓ こんな感じ 鉄鎖の柵が興をそぐ 

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 すぐに左手、北西に右田ヶ岳が見える。長く両翼を延ばした秀麗豪快な山容である。標高は低いが、視覚的な点だけで言えば、私の最も好きな山の一つかもしれない。その右奥に連なる三谷山、八幡山、山口尾なども、いつか登ってみたい山々だ。

 

 ↓ 右田ヶ岳遠望 右は山口尾(?)方面 

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 路は途中でいくつかの分岐があるが、Kの後を付いていけばあっという間に166.8mの頂上に着いた。頂上にはいくつかの花崗岩の大岩があり、ミニヨセミテとかミニカッパドキアと呼びたいような良い感じである。いや、さすがにほめすぎか?せいぜいマイクロヨセミテ、マイクロカッパドキアという程度。

 

 ↓ 頂上三角点 奥に見えるのが桑山 

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 ↓ 頂上のヨセミテ風の大岩に立つ

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 ↓ 頂上よりカッパドキア風の大岩群の向こうに防府市中心部を見下ろす

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 しかし傍らには、説明板や航空標識用の電柱といった無粋な人工物がいくつもある。航空標識は防府市自衛隊の飛行場がある以上、不要とはいえないかもしれないが、他はさほど必要とも思われない。惜しいことである。

 ともあれ、予想以上に素晴らしい360度の展望に気を良くし、楽しむ。南には山口県最大の防府平野の先に海が光って見える。(建物が多すぎる…。)右手南西方向には佐波川の流れと、その右岸の西目山、楞厳寺山。左手、東から北にかけては大平山とそれに連なる矢筈ヶ岳、多々良山。わがふるさとの山。それらをつなげて歩いてみたいと思う。

 

 ↓ 南西 佐波川と右岸の山々

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  「ふるさとの山に向かいて言ふことなし

   ふるさとの山はありがたきかな」

 

 ↓ 左 矢筈ヶ岳 その手前 多々良山 右下は競輪場

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 この頂上には50年前後前の小中学生の頃に二三回登ったことがあるはずだが、おぼろげにしか憶えていない。その時は遊びの延長でしかなく、少なくとも山登りとしての意識はなかった。Kはここが子どもの頃の遊び場だったという。そして今は還暦をとうに越えた彼の裏山歩き=トレーニングの場。

 彼が実際に歩いているのはどの程度の頻度なのかは知らない。私の場合は年に40回程度(別に本来の「登山」が10回少々)。むろん山を歩くこと自体が好きなのはいうまでもないが、理念としては山登りのトレーニングであり、心身の健康のためである。なるべく多く、できれば毎日、せめて週3回は歩くのが良いと思っているが、実際にはなかなかそうは行かない。

 

 そう思いだし、多少なりとも実践し始めたのは、多少のきっかけがある。9年前に死んだ母が、自宅の近所の桑山(くわのやま)という標高107.4mの山に、ほぼ毎日登り続けていたのを知ったことである。近所とはいっても自宅から登り口までが約1.5㎞ある。そこから標高差100m少々の「散歩」をし、しかも途中の広場で仲間たちと体操を、よほど天気が悪いとか、体調が悪い時以外は、毎日していたのである。正確にはわからないが、80歳で亡くなる直前まで、おそらく10年以上続けていたようだ。その事を知ったのは私が40台半ば、母が70歳台前半ぐらいの頃だったろうか。多少心配ではあったものの、健康のためと言うのだから止める理由はない。

 

 母がそのような「毎日登山=散歩」をしていたのは、70歳前後から海外旅行に行き始めたということが大きな理由だったようだ。海外旅行など夢だった時代と環境に生まれ育った母が初めて海外に行ったのは、1994年66歳の時。中国戦線で6年間兵士として戦った父の戦跡再訪ツアーも兼ねたパック旅行に同行したのが初めて。その後2001年に父が死んでからは毎年のように、多い年は年に三度も行っている。むろん友人と誘い合わせての、「簡保の旅」とかが主の、パック旅行である。その頻度に私も少々驚き、心配でもあり、多少の苦言を呈した憶えがある。少し気を悪くしたらしい母は以後、行って帰ってきたあとでのみ報告するようになった。その、ある程度の全体像を知ったのは、遺品整理の際にパスポートを見つけ、その中身を見て知った時である。あらためて驚いた。

 ともあれ、その海外旅行をすることによって、歳をとってからやりたいことをやるための、健康であることの必要性を感じ、「毎日登山=散歩」をやり始め、やり続けたということのようだ。ちなみに死ぬ二三年前には富士山(!)にも登っている。それまで山登りなど、たぶん、したことはないと思う。心配して同行した20歳年の離れた妹を含めて、ツアーメンバーの三分の二は途中リタイアしたそうで、当然、母はそのパーティーでの最年長登頂者であったとの由・・・。何をかや言わん、である。

 毎日登山と言えば、ちょっと脱線するが、「一万日連続登山」を目指して9738日目で倒れた東浦奈良男さんという人を取材した『信念 東浦奈良男 一万日連続登山への挑戦』(吉田智彦 2012年 山と渓谷社)という本がある。達成間際に倒れたとはいえ、26年以上、毎日雨が降ろうと何があろうと登山し続けるということ。信じられない。何か「業」のようなものも感じさせるが、私自身は面白く、興味深く読んだ。 

 

 話がだいぶ思わぬ方に流れた。

 天神山頂上からの大観を充分楽しんでから下山に移る。三日前の狗留孫山と同様の花崗岩の大岩があちこちにある。水流で掘りこまれた正面コースを下る。東道とか忠魂碑コースとか鐘秀台コースとか酒垂下山道とか、いくつものコースがあるようで、それらのいくつかが分岐合流し、気がひかれるが、それはまた別の機会に。あっという間に天神様=防府天満宮に降り立った。

 

 ↓ 頂上を振り仰ぐ 電信柱は航空管制標識用

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 ↓ 下山路 あまり手入れされていない自然林の中の風化花崗岩に掘りこまれた路

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 参道の石段を下りて、大鳥居から3分。楽しい寄り道をしたあげく、ようやくオープンしたばかりの「山頭火ふるさと館」で「山頭火の句 名筆特選 ~百年目のふるさと~」展を見ることができた。芸術文化に対してはいたって冷淡な気風を持つ山口県防府市でようやくできた施設ではあるし、ある意味、極道の限りを尽くした山頭火を受容し難かったのももっともだと言えなくもない。だから今回はあまり冷やかに批評するのはやめよう。あまり上質なものとは思えないが、とにかく山頭火の真筆も見ることができたことだし。

 

  「分け入っても分け入っても青い山」

  「雨ふる故里ははだしであるく」

  「どうしようもない私が歩いている」

 

 最後に山頭火ふるさと館の前の蕎麦屋で、意外と美味かった鶏竜田揚げ蕎麦とビールの昼食。やれやれ、これでようやく帰宅することができる。そのビールのせいか、新幹線の中ではほとんど寝ていた。

  

【コースタイム】(2017.11.9) 晴れ

とっていない。2時間近く楽しんだと思うが、最短コースなら天満宮から登って下りて1時間以内。

 

付記1

 私はこれまで登った山はすべて「山行一覧」として記録している。基準としては、標高は関係なく、例外もあるが、だいたい歩行3時間程度以上ということ。したがって1~2時間程度の「裏山歩き=山散歩」は、ふつうは「山行」としてはカウントせず、リストには記載しない。したがってこの天神山は「山行」ではなく「山散歩」ということになる。しかし、考えてみれば、「山高きをもって尊しとせず」という言葉もある(?)。ふるさとへの愛着も、山そのものの良さも含めて、今回は山行として扱うことにした。かく、駄文も記した次第である。

 ついでにいえば、作成途中ではあるが、「標高順山行一覧」というリストも作っている。自分の登った山を標高順に並べたものである。それを見るとこれまで登った山で100m台のものは、奥武蔵の天覧山197mとあきる野市の滝山丘陵の170.7m峰の二つだけ。低くても山は山。

 しかし、それらより低い天神山は、登った山としては最も標高が低いという点で、むしろ意味があるのではないか。あ!今、気づいたが、桑山107.4mもあった(その尾根続きにはもっと低い井上山もあったが、現在は上に施設ができて、山頂そのものがなくなったらしい)。これはリストに入れ忘れていた、というか、やはり登山としての意識がなかったのである。麓に母校防府高校があったということもあって、10回以上は登っているはずだが、いつか再訪することがあったら、そのときあらためてリストに載せることにしよう。

 

 

付記2

 天神山は別名「酒垂山(さかたりやま)」とも呼ばれるが、「山の中腹にある岩からの湧き水が飲料水として用いられていたが、東大寺再建のために防府に来た重源が松崎天神の加護を求めて社殿の造営をしたところ、湧き水が酒に変わったとの言い伝えもある。(例によってウィキペディア)」とのことである。天神山=酒垂山ということはなんとなく知っていたが、その所以は今回初めて知った。

 ちなみに私の母校の佐波中学校校歌の2番の歌詞には「山は紫 酒垂の 古き韻の 花かげや」とある。1番の歌詞はかろうじて憶えていたが、この2番は酒垂の一語しか憶えていなかった。

 

付記3

 この機会に母が行った海外旅行の一覧を付しておく。むろん、何の意味もない個人的な感傷ではあるが、どこか今現在の海外旅行好きの私自身に重なるところからの、そして親を心配させ続けた息子からの、ささやかな供養であると思って看過していただきたい。

 

① 1994年1月20~25日 

 中国/石林・桂林 香港経由(初めての、そして父と一緒の最初で最後の海外旅行)

② 1995年12月11~13日

 韓国/ソウル

―2001年父死亡―

 

? 2002年12月12~15日 (詳細不明)

 ?

③ 2003年11月15~20日

 ハワイ

④ 2005年2月6~13日

 中国/大連・旅順

⑤ 2005年9月2~5日

 台湾/台北

⑥ 2005年10月27~30日

 ベトナムサイゴンメコンデルタ

⑦ 2005年2月6~13日

 メキシコ/メキシコシティメリダ・チチェンイッツァ・ロンクン

⑧ 2006年2月11~18日

 フィンランド・ロシア/ヘルシンキ(市内)・モスクワ・サンクトペテルスブルグ

⑨ 2006年7月4~8日

 中国/山東省 曲阜・黄山・泰山・青島

⑩ 2007年2月11~17日

 インド/デリー・ジャイプール・アグラ・ベナレス

⑪ 2007年8月22日~9月2日

  ブラジル・ペルー/イグアスの滝マチュピチュ・クスコ

⑫ 2008年2月21~28日

  フランス/南仏+モン・サン・ミシェル

―2008年 母死亡―

 

*(2005年から2007年の項の年月日に疑問があるが、今確認する余裕がなく、とりあえずそのまま記載しておく)

                        (記 2017.11.15)

46年目の達成 霧の秘密尾から馬糞ヶ岳へ(2017.11.8)

 前稿に続き「ふるさとの山 その2」なのであるが、46年前の高校生の頃、故郷防府からは旧鹿野町(現:周南市)や錦町(現:岩国市)は遠いところだった。したがって同じ山口県ではあっても、寂地山や馬糞ヶ岳を「ふるさとの山」とよぶには、少々違和感がある。私にとって「ふるさとの山」と呼べるのは、やはり佐波川の流れる防府平野を囲繞する山々であろう。

 

 それはそれとして、高校2年生だった1971年12月25~26日に、長野山から縦走して馬糞ヶ岳を目指したことがある。当時としてはそれなりに意欲的な計画だったが、その時は時間切れで結局、馬糞ヶ岳手前のドウギレ峠から西の秘密尾という名の集落に降りた。目的の山頂に登れなかったという残念さとともに、秘密尾といういわくありげで魅力的な地名が深く記憶に刻みつけられたのである。馬糞ヶ岳という全国でここだけという珍しい山名も同様であるが。私は今でも地名というものに大いに惹かれるところがあるのだが、思えばこれが最初のきっかけだったのかもしれない。

 今回の帰省登山=秋山合宿(?)では、当初の心づもりでは山麓二泊程度の九州か四国の山と考えていたのだが、諸般の情勢から県内日帰り山行×2となった。その方がこちらとしては有難い=楽というのも正直なところではある。したがって馬糞ヶ岳の名が出た時、何の異存もなかった。

 調べてみると秘密尾周辺の林道工事が進んでいることがわかり、急に興味が薄れ、まだしも歩行距離の長くとれる東側の谷合いの高木屋(地形図には谷あいと尾根上に二カ所記載されている)から北北東の尾根上の高木屋に降りるコースを提案した。しかし、前稿に記したように、当初晴天の6日に登るはずだったのを8日に替えたことによって、天気予報は雨後晴れと変わり、短時間で頂上を踏める秘密尾からのコースに決定した。結果としては、これはこれで正解でもあった。

 

11月7日

 山口県立美術館で「奈良 西大寺展 叡尊と一門の名宝」と「雪舟発見!展 発見!幻の雪舟」を見、N法律事務所を訪れる(気まぐれ)。その後、毛利博物館で「特別展 国宝 雪舟筆『四季山水図(山水長巻)特別公開』」を見、KJ氏とS氏に会う。S氏とは偶然。夜、高校同期数名で飲み会。

 

11月8日水曜 曇り・霧

 前夜の飲み会の名残りの、多少酒の気の残る頭で7:50、K宅を発。富海でS嬢をピックアップ。一路登山口の秘密尾を目指す。例によって土地勘のない私は、どこをどう走っているのかさっぱりわからない。曇天、霧模様の川沿いの道は、すでにそれだけでどこか神秘的で、これから目指す秘密尾の名にいかにもふさわしく思われる。

 近づくにつれて山あいの道路はせばまり、ほとんど人家も見えず、車も通らない。そんな中、向こうからやってきた白いタクシーとすれ違った。こんなところにタクシー? 駅からは相当な距離がある。乗客は乗っていない、と言っていたら、Kが「おばあさんが一人乗っていた」と言う。K以外の三人にはそんなものは見えなかった。別にオカルト話に興味はないが、まあそんな雰囲気はあった。

 

 終点の秘密尾・氷見神社入り口で周防大島と周南から参加のF嬢、W嬢と合流。車をデポする。

 

 ↓ 舗装された林道を歩き始めたあたり。常緑樹の中に点在する紅葉。

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 舗装道路はそのまま奥にも延びているようだが、右の札ヶ峠方面に延びる林道を進む。雨は降っていないものの、あたりは霧の世界。左から入ってくるはずの古い山道を探しながらゆくと、30分ほどで幅の広い荒れた道があった。山道というよりも林道の法面の工事用のブル道かとも思われたが、とりあえず入って見る。しばらく行くと幅も狭くなり、山路らしくなる。

 

 ↓ 舗装林道からブル道を登り、古い山道になったあたり。

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 ↓ 薄暗い植林帯

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薄暗い植林帯を過ぎると、突然広大な伐採地に出た。縦横無尽といってよいほど伐採用の車道が走り、無惨な明るさが広がる。本来の山道は見出しようもないが、何とか見当をつけて進むとどうやら今現在の、林道から直接登ってくるらしいルートと合流した。そのすぐ右手の尾根が昔からの山道=登山道であった。

 

 ↓ 皆伐地帯 縦横に車道が走っている

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 ↓ 一応ここが今現在の正規ルート

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 辿り着いた尾根のすぐ先が札ヶ峠。弘化三年と記された道しるべが建っていた。私は道しるべというものが好きだ。それが古ければ古いほど、なぜか暖かい気持ちになる。おそらく昔の人たちの生活というか、人生を少しだけ垣間見れるような気がするからだろう。

 一つの面には「右 すま 左 ひろせ」、別の一面には「右 ひみつを 左 すま」と刻まれている。弘化三年は1846年、180年前のもの。ちなみにその面には「世話人 谷屋完左衛門 石工 藤左衛門」とも記されている。世話人はともかく、石工の名前まで彫られているのはちょっと珍しいように思う。少しほほえましい。

 

 ↓ 札ヶ峠の道しるべ 味わいのある筆跡                        (なぜか二つの写真の間にスペースがとれない。誰か教えてくれ。)

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 ↓ 藤佐衛門さんの仕事です

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 工事用の道から解放されて尾根上の道を辿る。右が自然林、左が伐採地だが、霧が幸いして皆伐された伐採地も見えず、気にならない。むしろ凄絶というか、夢幻の境を行く思いで味わいが深い。

 30分ほどで傾斜の落ちた笹原に出た。ここから尾根は右に曲がるが、前方にも延びているようで、薄いながらも踏み跡があるように思われた。そのためこの地点を910m圏の長野山への分岐だと誤認してしまった。何せ霧のため遠望がきかないのだ。そのためその後の山行中何か釈然としない思いに付きまとわれたのだが、帰宅後よく地形図をみてきたらそこは860m圏だったようだ。霧のなせるわざか、単なる読図力不足か。

 

  ↓ 霧の中の登高 凄絶というべきか 夢幻というべきか

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  ↓ 霧の中 夢幻

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  ↓ 黄葉の楓 これは夢幻というべきであろう

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 傾斜の落ちた幅広い尾根を進む。楢を主とする落葉広葉樹帯から背丈ほどの笹原へと続くルートは、不思議な霧の世界。葉は色づいているが、みな黄色のものばかり。これから赤くなるのか、それともそういう種類なのか。霧の中、ときおりいくつかの巨岩が現れる。

 

  ↓ 馬糞 横皺あり

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  ↓ 背を没する夢幻の笹

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 地図を読み違えていたせいで、どうも頂上が遠すぎるなと不安を覚えてきた頃、新たな分岐に出た。先ほどすでに長野山への分岐は通りすぎたと思い込んでいたため、現在地がわからない。とりあえず男子が二手に分かれて偵察してみる。私が進んだ左の路はしばらく行くと高木屋への標識があった。それでますますわからなくなった時、右の路に行ったKから「こっちだよ」のコール。分岐に戻って合流し、右手の路をしばらく進みほんの一登りであっけなく、ぽっかりと開けた馬糞ヶ岳985.3mの頂上に着いた(12:25)。

 

  ↓ 山頂にて 46年後の元高校生たち

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 やれやれ、何はともあれ、良かった。一等三角点の山でもあり、展望は良いはずなのだが、霧のせいで何も見えない。しかし46年ぶりの目標達成というか、久恋の山頂なのだ。Kや昨年から山行を共にするようになったF・W・S嬢はともかく、Tと山に登るのは彼が高校1年の時の新人歓迎山行以来である。うれしくないはずはない。そんな感慨にふける私をよそに、さっさと昼食が始まる。

 

 1時間後、下山開始。天気が良ければ長野山方面に進み、46年前の中退ルートに選んだ、途中のドウギレ峠から秘密尾に下るという選択肢もないではなかったが、当時でも荒れていた(記憶がある)路はあてにできないし、何よりもこの霧である。おとなしく往路を戻ることにする。

  先ほど迷った分岐で、下に落ちていた頂上の方向を示す標識を発見した。これを見つけていれば迷わなくても済んだのに…。再び現れる巨岩を見ていると、これが馬糞の名の元なのではないかと思い当たった。それらしい横皺もよっているし。山名考証としては、平家の落人の騎馬武者三百騎が云々という伝説や、遠くから見た形態説もあるらしいが。

 

  ↓ 夢幻の中の馬糞

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  ↓ 笹がないと歩みもはかどる

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 濡れて滑りやすくなった下りで尻もちをついたりしながらも、何とか順調に峠まで戻った。途中、平均年齢70歳を超えるかと思われる男女三人パーティーと遭遇。すでに午前中に一山登ってきたとのこと。元気で何よりというよりも、ちょっと頑張りすぎというか、慾をかきすぎではないかとも思うが、まあ、それはむろん余計なお世話というものだろう。

 峠からはすぐ眼下に見える林道に直接下りる。やはりそこが現在の正式の登山口であるらしく、標識が立っていた。あとは舗装道路を歩くだけ。

 

  ↓ 左上は桐の実 手にしているのは用意周到なアケビ採り用の木の枝

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  ↓ 路上のアート 落葉篇

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 常緑樹の中のときおりの紅葉を愛で、アケビ採りにチャレンジし、あれやこれやと駄弁りながらのんびりと車デポ地の氷見神社入り口に辿り着いた。簡単に着替えて、帰りがけの駄賃に、奥社がいまだに女人禁制だという氷見神社にお参りして、山行を終えた。

 

  ↓ 謎の氷見神社若宮 写真には写っていないが神社なのに右手に大きな釣鐘があった。

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 標高差522m、一カ所の読図ミスによる不安はあったものの、ルートそのものは特に問題になるところもなく、霧がかえって幸いし、夢幻的ともいうべき、印象に残る山行となった。

 あとは途中の石船温泉に一浴し、帰るだけである。その途中で「路上のアート」というか、ある種のアウトサイダーアートと言ってよいような面白い造形物群を見つけたのであるが、これについては別のカテゴリーで取り上げてみようと思うので、ここではふれない。

 

 以上で山行記録としては終りのはずだったのだが、帰宅後調べてみると色々と面白いことがわかってきた。ちなみに私は当然ながら、山行前にある程度の研究や調査はするのだが、それは主としてコース・ルートやアクセスなどに関すること。それに対して下山後には、実際に現地で見たものやコース・ルート以外で興味をひかれたもの・事に範囲を拡大して、記録を書きながら、あれこれと事後学習することが多い。やはり実地に見、体験したものから発して、調べ、考えるというのは、個人的体験から普遍化へというほど大げさではないにしても、世界が広がるというか、面白いものである。

 

 さて、神社に関して基本的にあまり興味のない私は、氷見神社についても、そのときは特に何の興味もわかず、入口にあった説明板もロクに読まず、写真にも撮っておかなかった。しかし、帰宅後調べてみたらこの氷見神社というのが実はなかなかたいしたものだということを知った。とりあえずウィキペディアの以下の記述を紹介しておく。

 

 「祭神は、闇於加美神ほか」、「平安時代の歴史書にもその名を残す由緒ある神社で、貞観9年(856年)に須万村秘密尾に創建されたと言われている。~(中略)~「露嶋宮」とも呼ばれ、若宮のほかに、山の中腹に中宮があり、山全体を上宮としている。上宮である奥社は今でも女人禁制である。の行場としても有名で、明治時代には神道家の川面凡児がここに籠り、神道の修行法を編み出したと言われている。現在でも山口県下の神官たちの禊ぎ行場として使われている。~(中略)~伊勢神宮同様、「遷宮祭」も20年ごとに行なわれており、二つの御社地の宮を交互に建て替えている。山口県下で遷宮を行なっているのは氷見神社だけである。」

 

 闇於加美神(くらおかみのかみ)というのは、私は初めて聞く名前だが、基本的には水の神・龍神とみなされているとのこと。「露嶋宮」という名のいわれは何なのだろう。「氷見」との関係は? それにしても何と千年以上前からあんなところにあるとは! あんなところと言うのは失礼かもしれないが、実際、平家の落人伝説はともかくとしても、現在人は住んでいるのだろうか? 限界集落どころではないように思われる。神社周辺に人家は見えなかったように思うが、地理院地図を拡大してみると神社の手前に道路を挟んで2軒の建物記号が記されているが、実際はどうだったのだろう。また46年前に私たちはそこを通過し、石ヶ谷集落の先の中村集落まで歩いたように手持ちの地図には赤線が引かれているが、その時何軒の家があったのかは当然記憶にない。 

 いずれにしても昔も不便であったことは間違いないであろうこの地に、なぜこのような規模の神社が存在し続けてきたのだろう。いや、それ自体は特殊なこと、不思議なことではないのかもしれない。20年ごとの遷宮も単に古式を守っているに過ぎないのかもしれない。

 

 吾々の行ったのは若宮(まで)である。そこでは20年ごとに遷宮(二ヵ所での交替で移動建て替え)ができるようなスペースはなさそうだから、遷宮されるのはその奥、中腹にあるより小規模と思われる中宮なのだろうか。さらにその奥に女人禁制とされているという上宮(奥社)があるということだ。

 神社の裏手に回ってみたが、確かに踏み跡は奥へと続いている。しかし地理院地図には若宮の所在しか記されていない。ネットで探してみても若宮から上宮までの全体が描かれた地図は見いだせなかった。そもそも「山全体を上宮としている」というが、その山とは具体的にはどの山(ピーク)を、あるいはどの範囲を示すのだろうか。地理院地図を見ると、神社の裏から直接始まっているわけではないが、神社の左手の沢の右岸沿いに928mピークまで道記号が記載されている。それはピーク直下で二分し右はピークをこえて反対側の五万堂谷へ下り、左は南の尾根を下って再び神社近くに降りている。この道が中宮~上宮へと至る路だとすると「山全体を上宮としている」にしても一応この928mピークを奥社あるいはその象徴と見ることができる。山麓にある神社の奥社は、その上の山頂(ピーク)に置かれている場合が多いからである。しかし見方によっては支尾根上の一突起にしかすぎない928mピークよりも、その西北西に位置する、沢筋を北に登りつめた990m圏の幅広くなったあたりの方が奥社にふさわしいようにも思える。

 前回の遷宮が2011年だったということだから、次回は2031年か。生きている可能性は半々か。せめてそれまでにこの神社裏手の踏み跡と、この沢の右岸の道記号を辿って上記の疑問を晴らしに、中宮と上宮を訪れてみたいものである。ともあれ、あれやこれやと興味はつきない。どなたかこのあたりについての良い郷土誌資料でも探し出してくれないものかしら。

  

 山から下りてからの事後学習が面白い、好きだと書いた。その対象の多くは歴史と民俗学的なものである。したがって郷土史・郷土誌的な文献にあたるのは必須だが、やはりそこには興味度の深浅ということがある。縁もなじみもない土地に興味は持ちにくい。私は以前、越後の下田・川内山塊と呼ばれる一帯に入りびたっていた頃、そうしたことに対する面白さを知った。しかし、そこでの沢登りや四季を通しての山行を実践することがなくなった現在では、もはやほとんど興味がなくなったというのが正直なところだ。

 今現在住んでいる東京都あきる野市や隣の檜原村にも、意外なほどにそうした面白さはあるのだが、やはり愛着とまではいかない。にもかかわらず、もはや住むことはない(であろう)山口、防府に対するそうした興味が、あらためて湧き起っているのを感じるのである。かつて住んでいた頃、あるいはいずれ帰るべきところだと思っていた40歳台までは、実地体験する機会がほとんど持てず、また文献等との出会いも少なかった。皮肉なものである。今さら秘密尾やら狗留孫山などに興味と愛着を持ってみたところで、やはり今後とも実地に体験する機会がそう多くあるとは思えない。そう思っているにもかかわらず感じるこの愛着、やはりそれがふるさとというものなのであろうか。「ふるさとは遠くにありて思ふもの そして悲しくうたふもの」であるか。

 「読み、書き、登る」と記したのは、確か、ヒマラヤ登山のパイオニアの一人ではなかったか。事後学習ということで言えば、ささやかではあっても、私もそのようでありたいと思う。

 

 ↓ 青線が1971年のルート 赤線が今回のルート 例によってうまく地図ソフトが使えず(持っていず?)、見づらくてすみません。

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同行:K(高校同期) F嬢・W嬢・S嬢(高校1学年下) T(高校2学年下) Thanks!

【コースタイム】2017.11.8 霧 

秘密尾・氷見神社入り口車デポ10:00~林道から登山道へ10:40~札ヶ峠:現登山道と合流11:20~長野山分岐~馬糞ヶ岳985.3m山頂12:25/13:25~林道現登山口14:35~氷見神社車デポ15:00~石舟温泉入浴

 

追記

「法師崎の山歩き」(http://www.geocities.jp/houshizaki/bahungatake2.htm)の「馬糞ヶ岳(ばふんがだけ)山口県周南市鹿野」(2011年9月27日)に奥宮(遠望)と中宮の写真が出ているのを見つけた。「ゴムタイヤの恐竜」の写真も出ていた。(2017.11.16)

ふるさとの山 狗留孫山と三十三霊場めぐり (2017.11.6)

 前回の山行からまた二ヶ月空いた。この間、個展やら、息子の結婚式やら、いろいろあったのだが、何より大きかったのは天候不順である。ちなみに東京の十月の一ヶ月間の降雨日は23日で、過去三番目に多かったとのこと。しかし今さらそんなことを言ってみてもはじまらない。

 そうしたこととは関係ないが、今年は父の十七回忌である。そのための帰郷と合わせて、あれこれと予定を組んでみる。いつもの高校山岳部OB何人かと県内の日帰り山行をすることになったが、それだけでは物足りないので、もう一つ近場の日帰りの山に行くことにした。

 

11月4日

 朝、東京発。徳山で一つ所用を済ませ、夜は下松の姉夫婦宅に投宿。義兄と飲む。

11月5日 

 旧徳地町野谷の徳祥寺での法事を済ませ、さらにいくつかの用事をすませた後、いつものように防府のK宅にごやっかいになる。夜は二人で飲みに出かける。

 

11月6日(月曜)快晴

 当初の予定ではこの日は旧鹿野町の馬糞ヶ岳に山岳部OB会の皆と登り、8日にKと二人で狗留孫山に登る計画だったが、メンバーの都合により日程を入れ替えた。

 

 朝食後、ゆっくりと出かけ、車で登山口の旧徳地町(現山口市)堀の法華寺に着く。寺の正面手前には「法華寺(金徳寺跡)」の説明板があり、本堂には「東狗留孫山三十三カ所霊場 観世音菩薩配置見取り図」の図が掲げられていた。しかし、「法華寺(金徳寺跡)」の説明板には明治維新奇兵隊との関係は記されているものの、寺そのものについては何だか要領をえず、山中の三十三霊場についてもよくわからない。

 

 ↓ 登山口となる法華寺

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 ↓ 三十三霊場の案内図 右上が登山口方向 とりあえずこの撮影時点では何が何だかさっぱりわからなかったが、山行中はこの図がずいぶん役に立った。

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 「東狗留孫山」とあるのは、山口県にはもう一つ、西方の下関市(旧豊田町)にも狗留孫山(別名:御岳)があり(知名度ではそちらの方が高いようであるが)、それに対して東と冠したものだろう。

 狗留孫というのがわからない。三重と奈良の県境上にも倶留尊山があるが、これも同主旨の山名であろう。帰宅後調べてみると、狗留孫とは「実に妙なる成就」の意で、「過去七仏の一つ。過去七仏とは釈迦仏までに(釈迦を含めて)登場した7人の仏陀をいう。拘留孫はその四番目。」(ウィキペディア)とあるが、ただし「この記事は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です」とある。結局よくわからずじまい。いずれ,、ヒンドゥーの影響を受けたりして、仏教が複雑錯綜化していったということなのだろう。

 

 ともあれ、寺の右の道に入り、すぐに中国自動車道を渡る陸橋を越えると、案内板がある。舗装された階段の登山道が続くようだが、すぐに左から山道が入ってくるので、そちらを進む。間もなく大きな石の鳥居が現れる。鳥居といえば神社であるが、この先に記されているのは卍の記号。神仏習合時代の名残であろうか。路は風化花崗岩穿った溝状のところが多いが、歩きやすい。古くからそれなりに良く歩かれているようだ。周囲は常緑広葉樹を主とした自然林。いかにも南西日本の山の植生、雰囲気である。

 

 ↓ こんな感じ

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 ↓ 三丁目の丁目石と石仏(地蔵)

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 路のかたわらには、時おり石仏とセットになった丁目石(丁塚)が出てくる。石仏は地蔵のようだ。路はおおむね見通しのきかない樹林の尾根上を行くが、雰囲気は明るい。ときおり紅葉もまじるが、やはり常緑樹の割合が圧倒的に多く、紅葉の山という感じはしない。

 

 ↓ 何丁目めだか? 根に巻き込まれて浮いている

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 ↓ 尾根上の路を行く

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 ほどなく十五丁目で、「狗留孫山霊場入口」と刻まれた石柱があった。ここが結界ということか。かつてここから先は女人禁制だったとのこと。そのすぐ先に何やら和歌らしきものが刻まれた巨岩がある。そんなものに興味のないKはさっさと通過するし、風化と苔のせいもあって読み下せなかったが、帰宅後調べてみると御詠歌岩と言われるもので、「八重がすみ 峰よりかけて狗留孫の 仏のちかいたのもしきかな」と刻まれているとのこと。

 

 ↓ 「狗留孫山霊場入口」

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 ↓ 1番目の摩崖仏

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 そのすぐ先に最初の摩崖仏があった。かたわらには「1」と記されたパウチされた番号札がかけられている。摩崖仏とはいっても昨年訪れた臼杵のそれのような、立体的に圧倒的に彫り出されたものではなく、道端の大岩に小さく、浅くレリーフ状に刻まれたもの。どちらかと言えば、可憐というか、可愛い感じのものである。手前には地蔵と思われる小さな石仏が置かれている。この日は三十三カ所の摩崖仏の内の約三分の二ほどを見たのだが、図像的には如意輪観音や千手観音等の違いはあるが、設置状況等はほぼすべて同様である。

 そのすぐ先に小さな御堂がある。こぢんまりとした良い感じだ。屋根はこの地方特有の赤い釉薬をかけられた石州瓦で葺かれている。案内図には奥の院と記されていたが、麓の法華寺奥の院ということなのだろうか。そもそもここの霊場や摩崖仏がいつ頃のものなのか、どういう性格のものなのか、私は今も知らないのである。地元の図書館などで調べればわかるのだろうが…。

 

 ↓ 奥の院

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 ↓ 12番(だったか?)

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  ↓ 穴観音への途中から佐波川右岸の山なみを見る

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 奥の院から左の分岐を進むと「穴観音」への標識がある。なるべく多くの摩崖仏も見たいが、穴観音といういわくありげな名前にも惹かれる。案内図では路は行き止まりで、往復することになりそうだが、すぐ近くにありそうに思われて、そちらの路を選ぶ。路はおおむね山腹をトラバース気味に続いているが、案外と長い。やがて「穴観音」の標識のすぐそばに「山頂」への標識が現れ、戸惑う。要領を得ぬまま路を辿ると、ほどなくその前に出た。それは大岩に穿たれた直径20~30㎝ほどの穴。人工的に広げられたようにも見える。中には小石がいくつかあるだけで、仏像等は何もない。釈然としないままに、もう一度ゆっくり全体を眺めてみると、かたわらに金精様の形をした岩が、その先を穴に向けて置かれているのに気づいた。やはりそういうことか。

 

  ↓ 看板の右の石が金精様

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 とは言え、この穴観音と金精様は三十三霊場とは本来は無関係なのではないか。場所的も離れている。そもそも西日本(の山)には金精信仰はあまり無いのではないかと思う。私が知らないだけかもしれないが。当初は小さかった穴を見つけた後世の誰かが、それを広げ、半ば冗談で金精様の形をした岩を探し出してわざわざ設置のではないだろうか。それはそれで、まあ悪い話でもないが、などと思っていたら帰宅後、この穴観音は「『防長風土注進案』堀村の寺院の項には、穴観音について「是より奥の院に穴観音方九尺位の石の中に尺位の穴あり、深サ曲がりてしれず、内は水晶石なり、是を出現石といふ」とある。」という記述を見出した(「鷲ヶ嶽・狗留孫山(剣谷川ルート)」 山へgomen … 山口県の山歩き記録 http://gomen.blog.so-net.ne.jp/2014-03-25 )。やれやれ、わからないもんだ。

 なお『分県登山ガイド 山口県の山』(中島篤巳 1995年 山と渓谷社)には「穴地蔵分岐」という記述があるが、どういうことだろう。

 

 岩観音の所から標識に従って尾根をほんの少し登ればすぐに主稜線上の通常ルートと合流する。いったん鞍部に下り、若干の急登で狗留孫山の三角点の設置されている543.9mの頂上に着いた。

 

  ↓ 頂上にて。11月とは言え、暖かくTシャツ一枚。このあと一組の登山者夫婦がやってきた。この日会ったのはその二人だけ。

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  ↓ 頂上からの展望

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 小ぢんまりとした頂上だが、気持が良い。東から南にかけての展望が良く、ススキの穂の向こうに、ふるさとを貫く佐波川方面が良く見える。標高は低いが、懐かしい山々。大都市近郊と異なり、こうした地方の山では一部をのぞいて、山道はどんどん消滅していきつつある。そのため縦走や周回ルートがとれなくなり、同じルートを往復せざるをえない場合が多く、もったいないことだと思う。ここの山頂には北に延びる尾根に向かうと思われる薄い踏み跡があったが、今はそれを辿ってみる余裕はない。それに心を残しつつ下山にうつる。

 

 穴観音へのルートと合流したすぐ先に狗留孫山方面を指す標識があった。それに手書きで「ここは510mピーク(昔はここが山頂?)」と書かれていた。しかし、上記『分県登山ガイド 山口県の山』には「標高510㍍の展望の峰、さらに尾根をたどると狗留孫山山頂に着く。頂上には石仏。東に石ヶ岳方面180°のパノラマが展開する。」とある。さらに「544㍍の山頂三角点はこれから西に25分であるが、ヤブ漕ぎ道であり、すすめるほどではない。」と記されている。この山に以前登ったことのある後輩のTによれば、確かに数年前まではヤブだったとの由。当時の山頂の正確な位置関係はわからないが、その標識の近くには石仏が一体あり、そこが旧山頂であろう。展望はきかない。ヤブの繁茂しやすいこのあたりでは、刈り払いをしなければあっという間に木々が繁茂し、状況や景観は変化するのだろう。なお510mピークを狗留孫山、543.9mピークを鷲ヶ嶽とした記録もある(上記「鷲ヶ嶽・狗留孫山(剣谷川ルート)」)。

 

  ↓ 旧山頂510mピーク?

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 尾根道を辿っていくうちにシダの群落の中を降りてゆくようになる。風化花崗岩とこのシダは相性が良いのか、このあたり一帯の山によくある景観である。緑が輝き、他では見られない私の大好きな風景だ。ただし足元が見えなく、滑りやすいのが難。

 

   ↓ 緑金色に耀く羊歯

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  ↓ シダの群落の中を駆け下るお地蔵様

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 そうこうしている内に26番から33番へと至るコースとの分岐となり、右の25番から13番へのコースに入る。いくつもの摩崖仏が出てくる。場所や向きによっては風化が進んでいたり、苔に覆われたりしていて、パウチされた番号札がなければ見落としそうなものも多い。図像は正確にはわからないが、千手観音や如意輪観音が多いようだ。ほぼ同じような大きさで、下に地蔵が置かれているのも同様。岩に当たる陽ざしと、樹々の影と、苔とに同化しているような風情である。

 

  ↓ 光と影と苔とたわむれる観音様たち

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   ↓ 何番目だかの如意輪観音 解脱と諦念と慈悲の表情? この像が一番好きかも

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 途中、東方遙拝所と記された展望の開けたテラス状のところがある。その先で先の穴観音への分岐と合流する。奥の院からは御堂の裏手に回る。「悪人戒め岩」という直立した岩がある。そちらに回ったせいか、御堂のわきにあったはずの「御勅願岩」は気づかずじまい。その先に「西院ノ河原」とあったので「東院ノ河原」もあるのかなと思っていたが、しばらくして西院ノ河原=賽ノ河原であることにようやく気づいた。

 

  ↓ 悪人戒め岩

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  ↓ 光と影と石仏と

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 まもなく1番の摩崖仏に出て往路と合流。以後、往路を戻る。中国自動車道の陸橋を越えたところにもいくつかの石仏があったのに気づいた。その一つである青面金剛が吾々をみて笑っているように見えた。

 

  ↓ 登山口近くにある青面金剛

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 今回の標高差は420m。頂上往復だけなら3時間かからないところを、あれやこれやと楽しみながら4時間かけて登った。丁目石、奥の院、穴観音、摩崖仏、その他、楽しみどころの多い、良い山行であった。

 その後近くのロハス島地温泉で一浴。夜は山岳部OB会のメンバーとの飲み会で一日を終えた。

 

 ↓ 赤線がルート

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【コースタイム】2017.11.6 快晴 同行:K(高校山岳部同期)

法華寺10:10~奥の院11:20~穴観音11:40~狗留孫山543.9m頂上12:05~法華寺14:20 

個展開催のお知らせ 10月1日~8日 西荻窪・数寄和

西荻窪の数寄和で個展をします。

 

一昨年は同じメンバーで、二人ずつ二期にわけて発表しましたが、今回は四人の連続個展の全体で「秌韻」展です。

他のメンバーは細川貴司 岸本吉弘 吉川民仁 。

 

私は会期中毎日(日によって時間は異なりますが)午後は会場に行く予定です。

皆様の御来場、御高覧をお待ちしております。

 

詳しくは下記のリーフレットをご覧ください。

*(PCで見づらい場合、画像をダブルクリックすると拡大されます)

 

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「有朋自遠方来」 三ヶ月ぶりに登った王岳 (2017.9.5)

 Kから電話がかかってきた。有朋自遠方来。不亦楽。いや、共に山に行かざるべけんや、である。

 Kは本ブログにも、山と海外旅行の際の相棒としてたびたび登場する、中学・高校時代の同級生、高校山岳部のときの相棒。退職帰郷後も、郷里山口と東京と海外をしょっちゅう行き来している、せわしない男である。

 

 それにしても今年の夏は辛かった。そもそもまだ夏前の5月半ば、グループ展のさ中にギックリ腰になった。一応回復したと思われた6月初旬には上野原方面の権現山に登ったが、ほどなく再発した。今度は病院(整形外科)に行ったが、老化による筋力低下との診断。そうですか・・・。

 6月には風邪から気管支炎になり、10日ほど沈没。7月には60肩になり、左肩の痛みから腕の痛み、痺れへと移行し、指先の痺れが常時出るようになった。こちらは今も時々鍼治療に通っている。ギックリ腰も60(40、50)肩も40代から何度も経験しているが、良いものではない。ついでに(?)右足に魚の眼ができ、おまけに歯の具合も悪くなって治療に通った。散々である。

 女房の方も、7月に自宅の庭で足長蜂に眼球を刺され病院に行き、さらに8月には今度はスズメ蜂に太股を刺され、先の足長蜂の抗体ができていたせいか重症で、救急車で病院行き。以後女房も何かと不調。

 かてて加えて、今夏の猛暑と40数年ぶりとかいう19日連続の雨ですっかり体調が狂ってしまった。絶不調である。もともと夏は弱いのだ。それでも若いころは気力で制作に集中し、なんとかしのいできたが、今年はもうバテバテ。山やトレーニングどころではない。ブログを更新する気力もない。日々のわずかばかりの制作が精一杯。そのため、以前からの約束だった穂高行きもキャンセルのやむなきにいたった。仕方がない。もう限られたエネルギーは制作にしか向けないのだと、開き直るばかりの夏であった。

 そしてようやく秋めいて涼しくなった頃、上記のKからの電話である。すっかり腰の重くなっていた私には、まさに干天の慈雨。まさに、行かざるべけんや、である。

 

 前夜、Kは立川での飲み会の後、わが家で一泊。翌5日、朝5時起床のはずが、なぜか1時間遅れた。その後もアプローチの電車、バスの選択ミスが重なり、登り口の「いやしの里根場」バス停に着いたのは予定より1時間半も遅い11:25。私一人ならたぶん起床が1時間遅れた時点で中止している。Kの辞書には「山行中止」という言葉はないようだ。

 

 「いやしの里根場」は1966年の台風26号の集中豪雨で40数戸の家屋の内4戸を残し、他は流出または倒壊し、死者94名を出したところである。その後残った住民は西湖対岸に集団移住し、2006年以後、元の集落の復元・展示がなされ、観光施設として今に至っている。(以上、ウィキペディア「西湖によるいやしの里根場」から。なお本ブログの2015.7.14の『山行記5 富士周辺・節刀ヶ岳~鬼ヶ岳』では「40軒の家のうち3軒以外はすべて流され、200人未満の住民のうちの63人が亡くなられた」と記している。出典を明記していないため、数字の違い等の詳しい事は不明だが、今回は一応ウィキペディアの記載によった。)

 海外からの観光客も多いその「いやしの里根場」を後に、ともあれ歩き始める。

 

  ↓ 復元された茅葺の兜造りの民家群の奥から山に入る(撮影:K)

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 そこから主稜線上の鍵掛峠までは一昨年、一度下っている。その時、大石峠から節刀ヶ岳をへて立った鬼ヶ岳の山頂から見た王岳の山容がすっきりと魅力的に見え、ぜひ登りたいと、その時から私にとって課題となっていたのであった。

 

  ↓ 鬼ヶ岳から遠望する王岳への稜線(2015.7.13撮影)

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 まるまる三ヶ月山登りから遠ざかっていた身体に最初の1ピッチはキツイはずだが、歩きやすい路のせいか、意外にも脚は動く。言うまでもなくKのピッチはマイペースで速い。私が山に行かなかった三ヶ月の間に、Kは穂高を含めて5、6回は登っているという。まあ、身から出たサビ(?)ではあるが。

 

  ↓ 登り始めはこんな感じ。足裏にやさしく、登りやすい。

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  ↓ 岩を食む橅の造形

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 沢沿いの砂防ダム建設用の道から、やがて右手の尾根に乗る。下草のない樹林帯で展望はきかないが、登りやすい。左手、大岩の下の石仏を過ぎ、鍵掛峠着13:06。登り口からの標高差約600mだからまあいいペースだ。峠とはいうものの、標識のあるところは峠状をなしていない。そのまますぐ先の鍵掛という名のピークを目指して、主稜線の縦走に入る。

 

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 すぐ先で山向こうの鴬宿に下る路が右に分岐する。その先一登りで鍵掛1589m。とはいうものの、境界票石が一つあるだけで山名標識も展望もなく、およそ山頂らしからぬ所。今回のルートは地形図で見るかぎり、地形的にもすっきりと細長く延びる良い尾根なのだが、実際に歩いて見ると全体に樹林帯で、展望のきくところもほとんど無い。新緑やもう少し落葉した頃なら気持が良いだろうが、この時期でしかも曇天とあってはいささか魅力が乏しく感じるのもやむをえないところか。
 
  ↓ 鍵掛という名のピークだが、境界標石以外何もない。 

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 鍵掛からはゆるやかなアップダウンの歩きやすい尾根筋が続く。あいかわらず展望はないが、時おり現れる少しばかりの端境期の花に慰められる。といっても、早咲きのトリカブト(これだけは鹿も食べないようだ)と、遅れ咲きのハクサンフウロ以外は名前も知らないのであるが。
 
  ↓ トリカブトの群落が多かったが花期には少し早いようだ。 

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  ↓ 名前は…忘れた。 

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  ↓ これはたくさんあったが、名前は知らない。 

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 王岳周辺では多少の展望がえられる。西湖が見える。一瞬頭だけのぞかせた富士山もすぐに雲に隠れた。

 

 ↓ 西湖を見下ろす。遠方は足和田山 

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 ↓ この日唯一度見えた富士。この後一瞬にして雲の中。 

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 王岳の山頂はやはりあまり山頂といった感じがしない。三角点と山名表示板と、石仏のようなものがあり、お賽銭があげられている。近寄って見れば、日蓮宗の名号というのか(?)が石に彫られたもの。

 

 ↓ 王岳山頂右の石造物が日蓮宗物件。

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 甲州には日蓮宗の信徒が多いのだろうか、他でも新しいものが設置されているのをみかけたことがある。それがここにも置かれている。そう古いものとも思われない。古くから特定の(土着的)信仰と結びついた山は確かにあり、その意味での伝統はそれなりに尊重すべきだと思うが、言うまでもなく、基本的に山は特定の宗派のものではない。昔からあるものならばともかく、近年になってむやみに新たに設置するのはいかがなものであろうか。たとえそれが信仰のなせるわざだとしても。仮にそこに十字架やらヒンドゥーの神像やらがある日設置されることを想像してみればいい。

 

 ↓ 来し方を振り返る。雲が厚くなり、暗くなってきた。

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 遅めの昼食をとって、先に向かう。高度が下がる分、笹が路に覆いかぶさり、足元が見えないところが増える。先頭のKは蜘蛛の巣払いに大わらわ。御苦労さまです。

 多少のゆるやかなアップダウンを経ると、五湖山の表示がある。全く山頂とは言えない路の途中といった場所で、1340mと記されているが、地形図で見るとその手前の1330m圏あたりだと思われる。すぐ先が1340m圏の多少なりとも山頂らしさのあるところ。五湖山とあるからには富士五湖すべてとは言わぬまでもいくつかは見えるのだろうと期待していたが、見えるのは精進湖一つ。よくわからない山頂(山名)である。

 

 ↓ ここは笹藪がなく感じが良いところ。しかし暗くなってきた。

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 ↓ よくわからない五湖山の標識

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 多少の岩場混じりの小さな登高を二つ三つ繰りかえすと、ようやく女坂峠(阿難峠 1210m)に辿り着いた。

 

 ↓ 女坂峠。悲しい伝説の残るかつての生活道。

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 この峠を越えようとして子供と共に難に遭った母親の昔話が存在していることからわかるように、この峠は古くから山向こうの芦川とを結ぶ生活道だったのだろう。実際、下り始めれば、それまでの細い尾根筋とはうってかわった、幅広い九十九折りの歩きやすい路。数少ない帰りのバスに間に合いそうだ。そんなに急がなくても大丈夫だというのに、下りではペースが遅くなるはずのKのスピードは衰えない。ずいぶん余裕をもってバスの時刻に間に合った。山中誰にも会わない静かな山行だった。

 バスを待つ間に今日一日サポートしてくれ、圧迫し続けてくれたタイツを脱ぐと、ようやくほっとすることができた。

 その後、河口湖駅、大月を経由して八王子で降りて、夕食をかねた一杯に今日の山行を振り返った。

 

  今回の山行は私にとっては課題の山ではあったが、季節、天候のせいもあってそれほど好印象のものではない。しかし、課題を達成できたことはもちろんだが、それ以上に三ヶ月ぶりの山行ができたこと自体(それも珍しくコースタイム以上のスピードで)が、うれしいことである。Kよ、付き合ってくれてありがとう!

 山は逃げる。山は行ってナンボ。行けなかった山の計画にも味わいはあるにしても。

 ともあれ、今年はまだ四カ月近くある。暑さも終わったこれから、せいぜいがんばって山行に励むことにしよう。それにつけても強力なのは、外的推進力=相棒であると、今さらながら思うのである。

 

【コースタイム】2017.9.5 曇り

河口湖駅~いやしの里根場バス停11:25~鍵掛峠13:06~鍵掛1589m13:30~王岳1623.4m 14:27-14:55~五湖山16:10~1340m峰16:25~女坂峠16:53~精進バス停17:20~河口湖駅

 

権現山から麻生山・三ツ森北峰

 私の最も好きな山歩きの季節は、四月中旬から五月いっぱいにかけてである。最近の山歩きの中心である東京近辺の山を前提としての話だが。

 その四月五月に、今年は三回しか行けなかったというか、行かなかった。その三回も奈良県の観音峰山、三輪山山口県の寂地山と、西日本の山である。いずれもほぼ他動的な縁によるもので、行った山に別に不満はないが、肝心の東京近辺の四月五月の山に行けなかったことを残念に思うのである。落葉広葉樹林帯の木々の、芽吹きから新緑へと推移してゆくあの美しさを、今年は見ずに終わってしまったのだ。

 四月は伊勢志摩・大峰・奈良と結んで6日間家を空けたほか、あれこれと用事が多かった。五月は思いがけない郷里山口での葬式や、グループ展、ギックリ腰などがあった。また制作の金箔貼り関係の作業で、丸3日は費やした。忙しかったのである。だから、葬式のついでの一回だけでも良しとしなければならないかもしれない。

 まあそれは良い。そうこうしているうちに、前回の山行からまた中一ヶ月空いてしまった。早く行かねばならない。早く行かないと梅雨入りしてしまう。

 

 今回の山は権現山。中央線の上野原から猿橋の北方で長く東西に延びる尾根である。尾根と書いたが、周辺の山から見て、その長く延びる大きな尾根の存在を指摘することはたやすいのだが、それが何山なのかというのは判りにくい。明瞭な三角形の山頂や特徴的な山容を持っておらず、長く大きいだけが特徴で、とらえどころのない山なのだ。そうは言っても、そこには当然最高地点があり、それに権現山の名が冠せられている。一般的には昔からそれなりによく登られている山である。しかし私の印象としては、上記したように、何となくとらえどころがないというか、個性が見えないという印象だった。個性的ではないというのが、この山の個性なのか。また、アプローチの便が悪く、しかも長丁場のコースだと思い込んでいて、食指が動かなかったのである。

 しかし、赤線が増えた地図の中で、その一帯だけが赤線の空白地帯であることが気になる。調べてみると、確かにバス便は午前中1本だけだが、歩程としてはそれほど長くもない。そんなにハードルの高い山ではないのである。ハードルは私の起床時間だけだ。平日午前中1本だけのバスは上野原駅発8:30。それに合わせて五日市を6:52の電車に乗ればよい。いつもより少し早いが、仕方がない。

 

 いつにもまして寝不足のうちに、5時前に目が覚めた。寝不足だけなら仕方がないが、何を寝呆けたか、勘違いして1時間も早い5:47の電車に乗ってしまった。やっちまったことは仕方ないし、早く着くのはむしろ良いことだと思ったが、よく考えたらバス時刻まで、1時間半も待つことになる。上野原駅のバス・タクシー乗り場がある側は、本当にバス・タクシー乗り場しかない。そして一台のタクシーだけが止まっている。とりあえず用竹バス亭まで幾らぐらいかかるか聞いてみた。2500円くらいかなという答え。若干のためらいもあるが、1時間半待つ気にはなれず、タクシーに乗り込む。あると思っていたコンビニもなかった(反対側にあったようだ)ため、途中のコンビニに寄ってもらい、弁当、飲み物を買う。

 用竹バス亭のまだ手前で、メーターが2800円を超えたところで、運ちゃんはメーターを止めてくれた。2500円くらいと言った手前、バツが悪かったのか。そのままだと3000円は超えただろうから、とりあえず感謝である。

 

 いつもに比べるとずいぶん早く7:30に歩き始める。バス亭から左に舗装道路を辿り、すぐに標識に従って右に入る。その道の突き当たりから山路になる。炭焼窯の跡がある。路は幅広く、雑木林の中をゆるやかに登ってゆく。

 

 ↓ 登り口近くにあった炭焼き窯跡

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 ↓ こんな感じ

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 おおむね展望はきかないが、それでもところどころで展望が開けるところがある。新緑というにはやや緑が濃くなり、初夏の山の風情であるが、気持が良い。

 

 ↓ どの辺の山か、まだ見当がつかない

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 神戸山道分岐で主稜線に乗る(8:02)。主稜線に出ても幅広い路は尾根を丁寧に右に左にと縫うように、ゆるやかに続き、実に歩きやすい。墓村への分岐を過ぎ、三本松908.9mの三角点は気づかないうちに通り過ぎてしまったようだ。2時間ほどで寺入山1028mの山名表示を見つけた。特に山頂といった感じもなく通過する。

 

 ↓ ゆるやかで幅広い路 あふれる緑光

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 ↓ 寺入山山頂

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 雨降山1177mは大きなアンテナや観測所が立ち並んでいて、立ち寄りようもなく、早々にそのかたわらを通りすぎる。「すみれの丘」の表示があったが、盛りはもう終わっただろうと通りすぎる。

 ともあれ、この尾根は自然林と植林が交互に、あるいは左右に現れる林相で、思っていたより自然林の割合が多い。楢を主とし橅も交えた自然林のところは、特に気持が良い。

 

 ↓ 広葉樹林と針葉樹植林帯の違い 植林帯は光も彩も乏しい

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 歩いているうちに、ふと一基の馬頭観音が佇んでいるのを見つけた。観音像は刻まれておらず「馬頭尊」の文字。裏面を見ると明治38年11月、表には桑久保の文字が刻まれている。桑久保は南麓の集落の名。それで気がついた。この登山道は、昔の馬や牛に荷を運ばせていた交易路、生活道だったのだ。ふつう新しくつけられた登山道は、稜線上をそのまま忠実に辿るようにつけられていることが多い。その元になった仕事道の性格が強いものでは、可能な場合はピークを巻くようにつけられているが、それでもここのように可能な限り急登を避けるようにゆるやかに、丁寧に尾根を縫うように、しかも幅広くはつけられていないものである。ここの主稜線がおおむね幅広く、またそれを可能にする地質だったということなのだろう。明治38年といえば1905年、100年以上前だ。いつ頃までこの尾根を馬や牛が荷を運んでいたのかはわからないが、おかげで(?)今日こうして、ゆるやかな道を楽に歩けるというものだ。

 

 ↓ 刀痕も潔い

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 ところどころに山ツツジの朱い花が咲いている。

 

 ↓ 山ツツジ

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 ↓ 笹尾根と左:三頭山

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 そろそろ大宝沢ノ頭1245mあたりかなと思うあたりで、ふと足元を見ると、なにやら赤く塗られた三角点のような標石がある。側面には「㤙(恩の異体字)」と「九七」の数字。以前にも見た御料局三角点には「三角点」の文字があった。「恩賜林」という単語が思い浮かんだ。思い浮かんだが、その内実は全く記憶にない。そういえばこの標石自体もこれまで何度も見かけたことがあるような気がする。帰宅後の事後学習で「明治末期に山梨県に下賜された山梨県内の元御料林の通称。現在は県有林で、管理の一部を恩賜県有財産保護組合(通称 恩賜林組合)などが行っている。(ウィキペディア)」と知る。この標石は恩賜林の境界を示す標石だったのである。それはそれとして、ではその恩賜林という措置は、水害で苦しんだという山梨県民に対してだけ行われたのだろうか。そして恩賜林は山梨県以外には存在しないのだろうか。新たな疑問が出てきた。

 

 ↓ 恩師林境界標石

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 その少し先に御社がある。近寄っていくと、このあたりでは珍しい大岩の上に鎮座しているが、社に登る石段そのものが、その大岩を刻みこんで作られている。小さな足掛かりを岩に刻んでいるのはよく見るが、このようにしっかりした階段を大岩から直接彫り出しているというのは、ちょっと珍しいのではないだろうか。御社は大ムレ(群)権現。権現山の名の元だ。あまりパッとしない山頂よりも、やはりこのような巨岩を依代(よりしろ)として必要としたのだろうか。

 

 ↓ 大群権現

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 ↓ 大岩から彫り出された石段

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 大群権現の脇からは左に水平に続く古い道型を捨て、裏手の尾根を直上する。ほどなく権現山頂上1311.9mに着いた(11:15)。さほど頂上らしいところでもないが、周辺には山ツツジが咲き、北側には三頭山から奥多摩方面が望まれ、気分は良い。良い位置にある山だなと思う。ともあれ、登り口の用竹が標高337mだから1000m弱の登り、ゆるやかではあったが、充分登ってきたのだ。

 

 ↓ 権現山山頂 二つの三角点(?)

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 ↓ 山頂からの三頭山とその奥、奥多摩の山なみ

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 ここにも三角点?が二つある。側面は削られているようで、何も読みとれないが、例の御料局三角点か、あるいは先ほど見た恩賜林境界票石かのいずれかだろう。昼食を食べていると単独行の年輩の男性がやってきた。この日会った唯一の人。

 

 権現山頂上からさらに西に進む。ふだん通りだったら、ここから浅川方面に下りる確率が高いのだが、今回は時間的にも余裕がある。麻生山、さらにはその先の三ツ森北峰を目指す。まあ例によって欲をかいたのである。浅川への分岐からは、多くの人はそこから浅川へ下るようで、歩く人が減るせいか、心もち路も細くなる。これまでと異なり、植林帯がほとんどなくなり、ほとんど広葉樹林。ゆるやかに下りながらまことに気分が良い。途中、エビネのような花を見つけた。まだ蕾だったせいもあるが、正確な名はわからない。また「㤙 四三」と刻まれた恩賜林の票石があった。

 

 ↓ エビネ? どなたか名前を知っていたら教えてください。

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 快適な尾根歩き1ピッチで麻生山頂上1267.5mに着いた。麻生山の名を「地図の四隅に秘境あり」との名言と共に知ったのはだいぶ前のこと。確かに麻生山は五万図「五日市」の左下隅に、山名はなく、三角点と標高のみ記されている。見落とされるべくして見落とされる山だと言えよう。だからこそ「地図の四隅に秘境あり」とは名言なのである。この名言、出典は『静かなる山』『続・静かなる山』(川崎精雄・望月達夫・ほか 茗溪堂)あたりかと思って見てみたが、見当たらない。あるいは麻生山とは関係なく、深田久弥あたりだったかもしれない。

 

 ↓ 麻生山山頂 特に展望もなし

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 麻生山から先、左へ駒宮への分岐(尾名手峠?)を分けると、尾根筋はそれまでと変わって岩場混じりの細いものとなる。変化があって楽しい。急なアップダウンを少しばかり繰りかえした先が、三ツ森北峰の頂上(13:23)。南側の見晴らしが良い。その南側の木には、なぜかデコラティブな大きな鏡が取り付けられている。ちょうど晴れていれば富士山が大きく見えるはずの方向である。今日は雲がかかっていて見えないが、富士山と鏡に映る自分とを比較対照して反省せよ、ということか。それとも少し割れていることを含めて現代アートなのか。必ずしも100%嫌味ではないが、意味不明である。なお「北峰」の手書きの表示板には1202mと記されているが、地図で見てわかるように標高点はないものの、正しくは1250m圏である。

 

 ↓ 本来は富士山が見えるはず この鏡は???

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 ちなみに三ツ森というが、三ツ森が三つの山峰であるとして、ここがその北峰とすれば、南峰はどこなのか。地図を見ると北に三つピークが連なっている。この三つが三ツ森なら、ここは北峰ではなく南峰にあたる。ここを北峰とするなら南西の麻生山までを三ツ森ということになるが、さて本当はどうなのだろう。ともあれ一人っきりの静かな山頂を堪能した。

 

 下りの鋸尾根には地図とは違って、少し主稜線を行った先の分岐から入る。この尾根も広葉樹主体の気持の良い尾根。二つほどある小ピークは左に巻く。下るほどに幅広い、ゆったりとした歩きやすい尾根となる。

 

 ↓ 鋸尾根の上部を見上げる。まだ尾根は少し細い。

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 ↓ 鋸尾根の下部 尾根はだだっ広くなる

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特に問題もなく、小姓集落に降り着いた(15:05)。一ヶ月ぶりということもあって、後半、足はあちこちだいぶ痛んだが、まあこんなものだろう。

 橋を渡れば杉平入口バス停だが、バスが来るまで40分以上ある。せっかく初めて来たところなのだからと、いつもの流儀で歩きだす。路傍にはいくつもの石仏がある。丸石神がある。かたわらの林では猿の群れが騒いでいる。

 振返ると、どうやら「三ツ森」の名の由来と思われる山容が見えた。ただし山座同定には自信がない。浅川入口バス停まで歩き、15分ほど待ってやってきたバスに乗った。

 

 ↓ どうやらここからの眺めに三ツ森の名のいわれがありそうだが…

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 今回は出発時点でのミスから、かえって余裕のある山行ができた。山そのものも予想以上に良い山で快適だった。特に権現山以降は樹林の相もさらに良くなり、また変化もあって楽しめた。この周辺はもう少しルートがとれそうである。もう一ヶ月ぐらい早い時期に再訪してみようか。

 

 ↓ 山ツツジ

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 ↓ ギンリョウソウ

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【コースタイム】2017.6.5(月)(晴れ)

用竹バス停留所7:30~神戸山道分岐8:02~寺入山1028m9:40~雨降山10:15~和見分岐10:20~権現山11:15‐40~麻生山12:36~駒宮分岐12:58~三ツ森北峰13:23‐38~小姓登山口15:05~杉平入口バス停15:25~浅川入口バス停16:00‐15~猿橋駅