艸砦庵だより

河村正之のページ 絵画・美術、本、山、旅、etc・・・

秋合宿・弾丸日帰り百名山 その2 八幡平 (2018.10.16)  

 

10月16日(火)

 前夜は、いこいの村岩手・焼走り温泉に泊まった。今日のコースは時間の余裕もある。ホテルでゆっくり朝食を食べて出発する。

 アスピーテラインなる有料道路を行く。アスピーテライン?どこかで聞いたことがある。霧ヶ峰だ。そうか、八幡平もアスピーテ=楯状火山、つまりそれで高原状なのかと腑におちた。針葉樹と白樺で織りなされたおほどかな広がりである。

 

 茶臼岳登山口と表示された駐車スペースに車を止める。そこはすでに標高約1350m。瀟洒な面持ちの茶臼岳が少し気取って肩をそびやかす風情だが、標高差はたかだか228m。最終目標の八幡平山頂でも1613.3mだから標高差は263m。昨日の標高差1450mを思えば気楽な高原ハイキングである。

 

 ↓ 茶臼岳登山口から見る茶臼岳

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 ↓ 笹原の中に敷かれた木道

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 指導票に導かれてよく整備されたゆるやかな登山道を進む。笹原を切り拓いて木道が敷かれた道。かたわらのナナカマドの木には宝石のような赤い実が生っている。振り返れば昨日登った岩手山が重厚な姿を見せている。

 

 ↓ 振り返れば岩手山

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 ↓ 賢治の作品の中に出てきそうなナナカマド

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 ↓ 茶臼岳直下より振り返る

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 明るい山稜を40分ほどで茶臼山荘。左に低いオオシラビソの中の路を少し進めばもうそこが頂上だった。三角点のすぐ前が大岩のある大展望台となっている。いまさらながらの膨大な広がり。点在する湖沼群。顕著なピークのない中で少しだけ目立つあの山は何だろうか。

 

 ↓ 茶臼岳三角点の前の展望台にて

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 ↓ あのモッコリは何山?

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 いったん茶臼山荘に戻り、縦走路を進む。縦走路とは言ってもそもそも尾根の感じは全くない。入山者の多さからか、道はえぐれ、掘りこまれたところも多いが、木道、木段はよく整備されており、地面を歩くよりも木道・木段の上を歩く割合の方が多いほどだ。

 ゆるやかに下ると湿原が現れる。季節がら、花がないのは仕方ないが、秋の湿原の風情もそう捨てたものではない。

 

 ↓ 黒谷地湿原 一片の花もない

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 その湿原を過ぎ、笹原を歩んでいると突然先頭のKの声。「熊だ!」数m先の登山道を横切って、笹薮の中に消えていったと言う。他の三人は残念ながら目撃していないのだが、まさか幻でもあるまい。とりあえず大声を出し、追い払う(?)。

 これまで山で熊と遭遇したことは何度もある。といっても多くの場合は遠くから見たり、今回のように一瞬の出会いだったが、一度だけ蔵王沢登りのビヴァーク明けの起き抜けに、二頭の親子熊(といっても両方とも同じぐらいの大きさ)と5分ばかり間近で対峙した時は、さすがに恐怖を覚えた。

 まあ、とりあえずもう大丈夫だろうと先に進む。すれ違う登山者に一応情報を伝え、注意をうながしておく。八幡平は楽に登れる百名山なので、さすがに登山者は多い。体力的なことからも、岩手山に比べ、年配者の率、女性の率が高い。

 ほどなく源太森1595mの頂上(11:53)。特にどうということもないが、まあ一応頂上である。

 

 ↓ 源太森山頂 何だろうこのノリは?

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 下ればほどなく大きな八幡沼の一端にでる。先ほどよりも規模の大きい湿原が広がる。曇ってきて少し暗い印象だが、盛夏のころはまた違った印象となるだろう。

  

 ↓ 八幡沼

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 ↓ 八幡沼横の湿原。まさに「平」は「岱」でもある。岱はぬたとも読み、山上の湿原湿地のことを言う。

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 沼の畔の凌雲荘のそばで昼食をとる。そこで初めて気がついた。弁当を車に置いてきたことを!仕方がない。持っていたバナナと行動食、そして皆から少しずつ恵んでもらえばもう充分であった。それにしても昼食を置き忘れてきたというのは初めてだ。まったく、長く生きているといろいろあるものだ。

 周辺には軽装の、容姿から見て中国人と思われる人が多くいる。それにしては静かだなと思っていたが、下山後のホテルでは台湾からの団体客が多く来ていた。その人たちのようだ。同じ中国人と言っても、中華人民共和国の人と中華民国の人ではだいぶ印象が違う。

 

 ↓ 八幡平と左が凌雲荘

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 昼食を食べ終わって歩き出せば、すぐ先が八幡平の山頂だった。単なる笹薮の中の何の変哲もない一地点に大きな櫓というか展望台がある。ふと気づけば、その足元に三角点がひっそりと在る。まあこのロケーションでは、三角点はあっても櫓でもなければ頂上の格好がつかないのだろう。

 

 ↓ 八幡平山頂 左奥に三角点が見える

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 ↓ 八幡平山頂展望台にて

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 下りだす頃から少し雨が降り始めた。その中を軽装で登ってくる人がまだ多くいる。この天気と時間では頂上の櫓に登って、八幡沼まで往復して終わりだろう。四月に登った四国の剣山では、歩き出して最短時間で登れる百名山と言っていたが、こちらはそれよりも短いのではないか。少なくとも車を降りてからということでは、間違いなくこちらの方が早く頂上に着ける。

 

 ↓ こんな小さな沼があちこちにある

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 頂上から駐車場まで30分足らず。何台もの大型バスや車が停まり、もはや下界である。1時間ほど待って定期バスに乗り、車を置いてきた茶臼岳登山口に戻る。かくて今回の登山は終了である。

 

 アスピーテラインを下りはじめ、標高が下がると、雲の領域を抜け出したらしく、晴れてきた。途中、大きく湯気を上げていた地熱発電所(関係の施設?)や団地のような廃墟らしきものが見えた。どうやら地図にある旧松尾鉱山関係のものと思われ、興味がわいた。近寄って見てみたいが、そう簡単にはいかないようだ。

 

 ↓ 地熱発電所関連

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 ↓ 旧松尾鉱山関連の住宅廃墟群

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  途中前の車が徐行している。ふと見ると犬がいる。犬?いや狐だ。少しケガをしているようだが、逃げもしない。餌をねだっているのどだろうか、車に寄ってくる。つい、何か与えたくなるが、与えるべきではないのだろう。それにしてもなぜこの狐はそんなに悲しげな眼をしているのか…。

 

 ↓ 狐…です

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 ともあれ、私は狐を見たのは初めてだった。これで本州に棲む哺乳類はほとんど見たことになるのかもしれない。月の輪熊、鹿、猪、狸、穴熊、イタチ、オコジョ、テン、黄テン、モモンガ、ムササビ、リス、兎、鹿、カモシカキョン(鹿の一種、外来種だが)、アライグマ(外来種)・・・。さすがに羆やアマミノクロウサギイリオモテヤマネコは見たことがない。そういえば、ヤマネも見たことはなかった。思えばそれぞれ貴重な体験だ。

 

 そうこうしているうちに、ふと松尾鉱山資料館という看板を見つけたので、立ち寄ってみた。松尾鉱山そのものについては何も知らなかったのだが、ふんふん、そうかといった感じで、少し勉強になった。

 吾々の世代ではまだ多少は体験している昭和の雰囲気・ありようが実感される部分もあり、それなりに面白かった。特に一頃(今でもまだ多少はそうであるが)、明治から戦前にかけて日本の主要輸出品の一つであったマッチのラベルのコレクターであった私には、マッチ=硫黄の線で興味深かったのである。このように、旅先で思いがけず自分と関係あるものと出会うことがあるということの、その可能性も、こうした遠隔地での山旅の面白さの一つでもあるだろう。もちろん、そうした個人的興味に、共感ないし少なくとも寄り道に付き合ってくれるメンバーでなければ、通り過ぎて終わってしまうのであるが。

 その夜は八幡平温泉郷ライジングサンホテルに泊。台湾からの団体客が多かった。前夜のいこいの村岩手・焼走り温泉もそうだったが、温泉、食事ともあまり印象に残っていない。もちろんそれなりにリーズナブルな観光ホテルなのだから、やむをえないというか、多くを望むのは贅沢にすぎるというものかもしれない。ちなみに当初私が計画していた、蒸ノ湯温泉も後生掛温泉も、宿は満員で、結局は泊まれそうになかったわけだから、なおさらそう思わざるをえない。

 

【コースタイム】2018年10月16日(火)

茶臼岳登山口9:25~茶臼山荘~茶臼岳1578.2m10:02~源太森1595m11:53~八幡沼凌雲荘12:25~八幡平山頂1613.3m13:05~見返峠13:35 バス発14:30

 

 

10月17日(水)

 ホテルでの朝食後、前々夜泊まったホテルに置いていた、Tの旅のバイクを回収しに、盛岡市街に向かう。山口県からバイクで山陰~北陸と走って盛岡で合流したTは、この後さらに十和田湖津軽~恐山と走って東京に向かい、その後フェリーで北九州を経て帰るという。トータル18日の、(主に)バイクと(一部)テントの旅。孫もいるというのに、いったい何を考えているのだろう、この男は。まあ、あまり人のことは言えないが…。

 

 吾々の方は毎度のことだが、帰りがけの駄賃に、今回は私の希望もあって、宮沢賢治ゆかりということで、小岩井農場に寄ってみた。名作の長詩「小岩井農場」の舞台である。もとより当時の雰囲気そのままというわけにはいかないだろうし、一部はテーマパーク化しているが、有形文化財に指定されているという、牛舎(今も現役)や関連建造物、資料館などを見ることができた。一部は宮沢賢治の時代にもあったものである。100年近い年月は隔たっているものの、それなりのゆかしさというか、当時のハイカラさを感じとることができた。何点かの建造物をスケッチした。賢治の詩碑も悪くなかったが、詩文の書体が活字体だったのは残念。

 

 ↓ 小岩井農場 有形文化財の一つの牛舎

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 ↓ 小岩井農場 これは別の牛舎の内部

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 ↓ 同じく小岩井農場 双子型サイロ いい感じだ~

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 ↓ 同じく小岩井農場の木造サイロ。私の一番のお気に入り。いずれ私の作品に出てくるかもしれない。

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 ↓ 賢治の詩碑

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 ついでにF嬢の希望で、さらに足を少し伸ばして「小岩井農場の一本桜」なるものを見に行く。私は今回までその存在を知らなかった。いやどこかで画像を見たことはあるのだろうが、特に意識はしなかった。日光戦場ヶ原のそれやら、尾瀬のそれやら、同様のものはよくあるが、有名なそれらを画像で見ても、多くは(おそらくはそれらが有名であるがゆえに)人工的というか、美しく加工されすぎという印象を持つのである。もちろん現物を見ればまた違うだろうが、要は画像化されたものに対する不信感が最初にあるのだ。つまりは有名なものは嫌いというへそ曲がり。

 今回の小岩井農場の一本桜は、それはそれで悪くない。残念ながら岩手山は雲の中、雪もなく、当然ながら花も咲いていない。しかし確かに残雪の岩手山を背景にして満開の花の時期であればさぞやと思わせるものはある。そこに多くの観光客さえいなければ。

 

 ↓ 小岩井農場一本桜 農場の敷地内なので近づくことはできません。

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 ↓ 同上ズーム 岩手山は雲の中

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 その後はひたすら東北道を南下し、20時過ぎにわが家に到着。二人ともわが家で最後の一泊。

 

10月18日(水)

 昼過ぎの羽田発の飛行機に間に合わせるには、F嬢希望の高尾山に登るにはちょっと余裕がない。ということで、今回はわが家の裏庭というか、私の山散歩コースの一つの、広徳寺から金剛の滝に行った。Kは二度目だが、F嬢は初めて。ま、東京の裏山はこんなもんです。

 

 ということで、今回の秋合宿、岩手山と八幡平の二つの日帰り百名山は完全終了。

 今回の二つの山は、一つは富士山型成層火山(コニーデ)、一つは楯状火山(アスピーテ)≒高原ということから、火山特有の地形の単調さゆえに、山登りとしてはそう面白いものとは言えなかった。だが火山であれ、褶曲山脈であれ、準平原であれ、それぞれが山の個性なのだ。そして登り自体の面白さと、登った喜びとは、本質的にはまた別のものである。要はいろんな山があるということなのだ。

 そして、久しぶりの東北の風土性を多少とも味わえたことは、やはり楽しかったのである。

 

 

附録:帰宅後に作った拙作五首。

 

   みちのくの山 五首

成層火山(コニーデ)の単調なれば優美なる

姿態をさらす岩手山 午后   

 

愛らしきゆえに忘らる人あるべし

姫神山の小(ち)さく可愛ゆく

 

茫洋とただ連なれるみちのくの

山山の憂ひ誰ぞ知らなむ  

 

山中の瞳のごとき沼沼の

秘かな息は今日も吐かれる

 

みちのくの山巓に在る不思議さよ

かく人生のその意味不可知(しらず)

 

 *( )内は本来はルビなのだが、このサイトではルビはフリガナとして表示されず()に入れられてしまう。ちょっと読みづらくなるが、ご勘弁を。

 

                           (記:2018.10.29)

展覧会(グループ展)のお知らせ・二つ

 間近になってのお知らせで申し訳ありませんが、まもなく始まる二つのグループ展についてお知らせします。

 御時間ございましたら、ぜひ御高覧下さい。

 

 

1.「年末年始に飾る絵画」

 会期:11月2日(金)~17日(土) 12:00~19:00

 会場:数寄和 杉並区西荻北3-42-17 ℡ 03-3390-1155

 

 ↓ DM 表面

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 ↓ DM 裏面

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 急に決まった企画展ですが、新作の小品5点を出品します(会場の都合で当日すべてが展示されているとは限りませんが、申し出ていただければ、すべて見ることはできます)。

 酒飲みにやさしい(?)、今人気のおしゃれな街西荻窪散策と合わせ御高覧いただくのも良いかと思います。

 出品作家等については数寄和のHP( https://sukiwa.net/ )をご覧ください。

 

 

 

2.「Art Viewing OME」

会期:11月17日(土)~12月2日(日) 9:00~17:00

 会場:青梅市立美術館 市民ギャラリー(入場無料)

 ギャラリートーク 11月25日(日)14:00~16:00

  *参加作家による自作を前にしてのトークです。

  

 ↓ 展覧会チラシ 表面

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 ↓ 展覧会チラシ 裏面

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 昨年に引き続きの青梅市立美術館市民ギャラリーでのグループ展です。18人の現代的傾向の作家が参加。私の作品は未発表作を中心とした小品5点による構成で、静かなふんいきのものになると思います。

 ちょうど見ごろの多摩川渓谷の紅葉の鑑賞と合わせて御高覧いただくのも良いかとおもいます。

 

 以上、ご多忙とは存じますが、よろしくお願いします。

秋合宿・弾丸日帰り百名山-その1 岩手山 (2018.10.15)

 恒例の(といってもまだ3回目だが)防府高校山岳部OB会の秋合宿である。前回の山から、中三か月も空いた。

 7月下旬に夏合宿として北海道、雌阿寒岳羅臼岳斜里岳等を予定し、宿も飛行機のチケットも手配済の7月3日、そのトレーニングを兼ねた奥多摩蕎麦粒山から帰ってみると、メンバーの一人Kが箱根金時山の一般登山道で転倒し、手首を骨折したとの報が入った。当然、夏合宿は中止である。数日後、追いかけるようにして、その時に肝臓も損傷していたことが判明し、即刻入院したとの連絡があった。

 それはまあ仕方がないのだが、その後の連日の猛暑は異常だった。山に向かうモチベーションはおろか、日中は外出する気力すらわかず、ひたすらエアコンを入れたアトリエに逼塞するのみ。9月に入っても猛暑は続き、その後は毎週ごとの台風襲来と、天候に振り回された今年の夏だった。ただし、山を早々にあきらめたその猛暑の中で、ただ制作に専念したことはそう悪いことではなかったが、それはまあ山とは別の話。とにかく、それ以来の山なのだ。

 

 山は、百名山好き、有名山岳好きなFとKの意向もあり、早い段階から岩手山(プラス近いということで八幡平)ということは早くから決まっていた。私自身としても、宮沢賢治ゆかりの山ということから、念願の山でもあった。一応、私がリーダーということで、計画を立てようとするが、山口県から来る三人の交通手段や現地での移動手段まで含めて考えると、なかなかルートも決まらない。メンバーの一人2学年後輩のTはなんと山口県からバイクで旅をしつつ、現地で合流するという!

 私の方は、山とは別に、9月に孫が生まれたり、その他、身辺の雑事・俗事の多忙さもあって、とうとう、私なりの原案のみ提示して、具体的なことはすべてKにゆだねることにした。こうした実際面については、私よりはるかに能力の高いKはあっという間に新しい計画書を書いた。

 当初の私の案では、岩手山は柳沢コースから避難小屋泊り、翌日主稜線を縦走し、網張温泉に下山、次の八幡平は安比高原あたりから入って蒸ノ湯もしくは後生掛温泉で一泊後、田沢湖方面に下山というもの。避難小屋泊まりを含む二日×2では、確かに吾々には少々荷が重いかなという気はした。

 Kの新案では、羽田からレンタカーを駆り盛岡へ、岩手山焼走りコースから日帰り、八幡平は茶臼岳登山口から頂上へという、最短コースの日帰り2本という、なんともシンプルというか、効率的なもの。つまり「日本百名山弾丸日帰り登山×2」に変貌していたのだった。私はそのシンプルかつ効率の極致のような計画を見て、圧倒された。感動したといってもいい。

 ルートに意味や美しさを求めがちな私からは絶対出てこない計画である。悪いとは言わない。むしろ、今の吾々の力量に見合った、良い計画だと思った。それにしても発想(における個性)の違いというのは侮れないものだと思った。そして、昨今の多くの百名山志向の(中高年)登山者の多くは、おそらくこんな感じの計画を立てるのだろうと、思い当たったのである。

 ちなみに宮沢賢治はこの岩手山を愛し、学生時代だけでも三十数回登ったという。「岩手山」という詩も書いている。彼が登ったのはほとんどが柳沢コースからで、「柳沢」という作品もある。私が柳沢コースに多少のこだわりがあったのも、そのことが影響していないわけではない。ともあれ、Kに計画をゆだねたことによって、賽は投げられたのである。

 

 10月14日昼前、山口から飛行機でやってきたKとFが羽田からレンタカーで迎えに来てくれた。現地盛岡でレンタカーというのは私も考えたが、羽田からとは恐れ入った。

 一路盛岡へ。数日前に山口を出てバイク旅を重ねてきたTと盛岡のホテルで合流。一杯飲み(KとFはほとんど飲まない)、盛岡じゃじゃ麺などという不思議なものを食べた。帰途、翌日の朝食と昼食をコンビニで仕入れる。

 

10月15日

 朝6時すぎ、ホテルを出る。登山口の岩手山焼け走り国際交流村の駐車場で、前夜買ったコンビニ弁当の朝食。駐車場のすぐ脇が登山口。7:00に歩き出す。

 

 ↓ 焼走り登山口 左から欲深キョーコ 防長マグロK チャリダー兼バイカー兼旅人T          

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 植林はほとんどなく、ミズナラなどの落葉広葉樹を主とした林相である。紅葉というにはやや中途半端な彩合いだが、まあ今年はこんなものなのだろう。新緑に比べて紅葉は、一斉にといったまとまりのタイミングで行き当たることは、案外難しいのである。

 

 ↓ こんな感じ 以後植生の垂直分布が観察される          

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 岩手山は南部富士の別名のごとく富士山型の成層火山(コニーデ)なので、ゆるやかで均一な登りが続く。道はよく踏まれているが、火山帯特有の軽石のような砂礫交じりで、その分少し滑りやすい。焼走りコースというからにはその溶岩流の上を歩くのかと思っていたら、並行してその右側を登るばかりで、溶岩流そのものを見るところはほとんどなかった。

 変化の少ない、単調といってもよいゆるやかな路を淡々と登る。緊張感もなく、時おり、周辺にキノコを眼で探すが、不思議なほど見当たらない。

 単調とは言っても、次第に傾斜は増してくる。先行の三人に少しずつ遅れる。必ずしも私のペースが遅いわけではないのだが(決して早くはないが)、前の三人が元気良すぎ、早すぎるのである。Kの手首の痛みも登るぶんにはあまり問題ないようだ。時々立ち止まって待ってくれるが、かえって少し苛立つ。パーティー登山ではよくある、仕方のない現象である。すがれたウスユキソウの渋い美しさに慰められつつ、自分のペースで登るしかない。

 第2噴出口跡は少し開けた溶岩の台地。気持ちの良いところだ。仰げば岩手山山頂がまだまだ先の高みを優雅な傾斜の上に見せている。反対側を見下ろせば、雲海の上に姫神山がその愛らしい山体をのぞかせている。

 

 ↓ 第二噴出口 見えている頂上まで標高差はまだ1000m近くある          

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 ↓ 雲海の彼方の姫神山をズーム

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 伝説によれば男らしいイケメンの岩手山と、あまり美しくない(?)正室姫神山と、美しい側室の早池峰山の間で、オクリセン(送仙山472.4m/岩手山の東北東)を介して人間臭い(?)葛藤悲劇があったとのことだが、遠望するかぎり、十分可愛らしい山容である。

 第2噴出口跡のすぐ先が第1噴出口。傾斜は少し強まっているはずだが、巻き気味に登るのでさほど苦にはならない。気が付けばいつのまにか高い木はなくなり、岳樺などの灌木帯となっている。

 

 ↓ 第一噴出口と溶岩流

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 ↓ 第一噴出口の先

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 ツルハシの分かれで上坊コースを合わせ、やや傾斜の増してきた登りを続けると、ちょっとした岩とその下の祠が目に入った。帰宅後に見た山と高原地図では「三十六童子」と記されてあった。わずかに名のみ知っているセイタカ童子やコンガラ童子を含めた、不動明王の眷属ということらしいが、詳しいことは知らない。

 

 ↓ 三十六童子と記されていたところ~後述

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 ↓ この溶岩塊全体を平笠不動というのだろうか? 手前が避難小屋 遠くは八幡平 まわりはハイマツ帯

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 その先一登りで平笠不動避難小屋。小屋の背後の大きな岩塊が平笠不動(の御神体)ということなのだろうか。ちょっと攀じ登ってみたくなる風情だ。あたりにはハイマツも出てきた。頂上まではあと一息。その一登りでまた十分に遅れ、ようやく皆の待つ山頂(薬師岳)2038mに着いた。

 

 ↓ 岩手山山頂(薬師岳) 八幡平方面は雲

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  さすがに東北を代表する名山。平日とはいえ、登山者も多い。やや雲が多いものの、展望やロケーションは素晴らしい。ことに当初の私の計画にあった鬼ヶ城の岩尾根や、それと対照的な御苗代湖のある草原湿地帯に目を惹かれる。

 

 ↓ 御苗代湖と奥の乳頭山秋田駒方面 手前左が鬼ヶ城の一部

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 ↓ 鬼ヶ城の岩尾根をズーム

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 八幡平方面は折あしく雲の中だが、遠望すれば秋田駒や早池峰に限らず北東北一帯の山々が見えているはずだが、茫洋となだらかな起伏で連なる、いかにも東北的な山々は、一目でそれが何山だとは同定しにくい。

 遠望もさることながら、眼前にあるのは、一周1時間ほどのカルデラのお鉢巡りの路と、その中に、何となく恥ずかしそうに佇んでいる中央の墳丘。意図的にか、その頂上の二か所に積まれたケルンによって、それはアドレッセンス中葉の少女のまだ硬い乳房を思わせる。乳房山とか乳頭山といった山名はいくつかあるが、これほど魅力的な乳房は初めて見た。

 

 ↓ 少女の乳房

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 ↓ 何してるの? いや、させられてるの?

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 少し楽しみにしていたお鉢巡りは、時間の点から中止という。少々残念ではあるが、反対する者もおらず、もったいない、残念だと思いつつ、そういう私がこの時点では一番疲れているのだから、仕方がない。

 いったん避難小屋に下り、昼食。コンビニ弁当以外に、例によって具沢山の熱いみそ汁やコーヒー等々の豪華な昼食である。

 

 帰路、少し気になっていた三十六童子に立ち寄ってみる。祠の前には赤さびた鳥居と剣。剣は不動明王の持物で問題はないが、ヒンドゥー由来ではあっても一応仏教の範疇である。それと神道の鳥居が同居するのは、神仏混交時代の名残なのだろう。右の首のない石仏ははっきりとはわからないが、地蔵のようにも思われる。もう少しゆっくりと観察したいところだが、そんなことに興味のない皆はとっとと下っている。

 

 ↓ 左:鉄の剣と鳥居の組み合わせ        右:地蔵?不動と見えなくもないか。 詳細不明

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 下りでは遅れることはない。ツルハシの分かれからは往路と分かれ、上坊神社に至る上坊コースを下る。こちらも登りと同様の、変化の少ない単調な下りが続く。時おり現れる美しい紅葉を愛でる。どういうわけかTが何度も滑って尻もちをつく。昨日までの連日のバイク乗りのせいか。この歳になると、下りでひざが痛いという人が多い。他の三人ともその傾向があると言う。私もまったく経験が無いわけではないが、普段はほぼ全くないのは幸いである。

 次第に薄暗くなりつつあることもあって、上坊神社でもゆっくり観察する余裕はなく(他のメンバーはもともと関心がない)、地図上でやや不安のあったその先の路も問題なく、まもなく舗装道路に出た(16:30)。そこから車道を歩くこと30分ほどで駐車場に着いた。途中で振り返ると、岩手山が大きく優美な姿態を見せていた。

 

 ↓ 見返れば暮色に包まれた南部富士

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 省みると、今回の登りでは一人だけ常に遅れていたわけだが、実際にかかった時間は休憩を入れても5時間25分。山と高原地図のコースタイムでは5時間20分。コースタイムは一つの目安にしか過ぎないのだが、休憩時間は含まないことになっている。したがって実質的にはコースタイムよりだいぶ早く登っているのである。上等ではないか。まあコースタイムより早く登ろうが遅かろうが、想定内であれば問題ないのであるが、パーティー全体の力量を配慮しろよと言いたくはなる。しかし一人遅れる私としては言いにくいのだ。ただ「ブツブツ…」とつぶやくのみ。

 ちなみに今回の標高差は1450m。登りやすい単調な富士山型の登降なので、特にきついとは思わなかったが、やはり吾々の年齢としては、日帰り登山としては標高差1000mというのが目安だろう。まあこのコースと移動手段の効率の良い計画だったからこそ、充分日帰り可能だったのである。とにかくまた一つ百名山を登ったのである。

 

 【コースタイム】          

焼走り登山口7:00~第2噴出口跡8:45~第1噴出口跡9:10~ツルハシ分かれ10:05~平笠不動避難小屋11:10~岩手山山頂(薬師岳)2038m12:25 平笠不動避難小屋13:05~ツルハシ分かれ~上坊神社~車道16:30~焼走り登山口駐車場17:00

 

犇めく観客!!「縄文―1万年の美の鼓動」展(東京国立博物館平成館)を見に行った。

 8月28日、「縄文」展を見に行ってきた。

 

 ↓ 東博HPより

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 観測史上最高という猛暑の続く8月。会期終了まで1週間足らずとなり、その暑さもわずかに和らいだかと思われる28日、この日行かねば行く日はないという思いで、決死の覚悟(?)で見に行った。暑いのは仕方がない。電車の中や会場に入れば、冷房は効いているはずだ。

 

 問題は、大好評であるがために、8月17日で入場者数が20万人を超えたという混雑ぶりである(註1)。平均1日5000人弱。今日まで25万人以上か。20万という数字の大きさは実感がわかないが、私は美術館であれラーメン屋であれ、基本的に順番待ちの行列に並ぶことはしない。嫌いだからである。行列してまで見たのは2003年ワタリウム美術館か2007年の原美術館だったかの「ヘンリー・ダーガー展」のいずれかぐらいであろうか。この時は、作品劣化を防ぐために、海外でまとまった展覧会をするのは最後だとかいった触れ込みだった(註2)ので、予期せぬ行列を見たときには一瞬帰りかけたのだが、グッと我慢して行列に並んだ。

 2016年の東京都美術館の「若冲」展の時は多少の予想はしていたものの、文字通り長蛇の列を見て、1~2時間待ちと聞いて、あっさりあきらめた。しょせん縁が無かったのだ。ちなみにこの時の入場者数は31日間で44万6000人だったとか(註3)。

 

 今回並ぶかもしれないというのは、あらかじめある程度は予想していた。それを少しでも避けるために、平日のあえて一番暑い時間帯に行ったのである。今回はやはりどうしても見たかったのだ。見なかったら、必ず後悔することはわかっていた。

 一瞬の躊躇の後、チケット売り場の列の最後尾に並んだ。幸い、待ち時間は20分足らずで済んだ。その間にも続々と後続は増えるばかり。この日の入場者は5000人では済まなかったのではないか。

 誘導係の人から会場での入場制限があるかもしれないと言われていたが、それはなかった。しかし、その分、一挙に大勢が展示物の前に集まるのである。初めのあたりは、現物の前になかなか立てない。ひたすら忍の一字。どうしても展示の最初のコーナーから順次人が溜まっているようなので、コーナーによってはショートカットする。会場内での係員もそのように誘導していたのにはちょっと驚いた。後で若干後悔したが、最後に見に戻る気力はもう残っていなかった。

 

 縄文式土器自体は、全国あちこちの博物館やら郷土資料館やらに無数にあり、見る機会は多い。私自身、縄文式土器のかけらや断片はいくつも持っている。とある工事前の試掘で出てきたものをもらったり、ある時期住んでいた土地の近くで自分で表面採集したものなど。

 しかし、どんなものにも出来の良し悪しということは当然あり、また照明やキャプション等の見せ方、コンセプト・展示方法によって、見え方はまるで違ってくる。そうした意味で、国宝6点が展示されるということはさておいても、今回の展覧会が良いものであろうということは想像できた。そこはなんといっても、「東博」なのである。

 前回まとまって「縄文」を見たのは、2001年のやはり東京国立博物館での「土器の造形 縄文の動・弥生の静」展であり、それが実質初めての縄文体験であった。その時に初めて見た火焔式土器や初期の土偶に、強烈な印象を受けた。今、あらためてその時の図録を見てみると、今回と同じものもだいぶ出品されているが、17年も時間がたつと、多少印象は違う。

 

 ともあれ、展示物そのものはともかく、あまりに人が多いのである。押し合いへし合いというほどの混乱はないが、汗牛充棟(うん?意味が違うか)というか、犇めくという文字が思い出されるほどではあった。

 必ずしも時間に余裕のある年金生活のシニアクラスばかりではない。老若男女万遍なし。夏休みのせいもあり、子供連れも多い。美術愛好家だけではなく、歴史好きの人、とりあえず評判になっているものは何でも見たいという人も多いだろう。まあ、どんな人にも美術館に行く権利はあり、むろん多くの人が見ることは良いことだ。しかし、やはりここまでくると、入場制限をした方が良いのではないだろうかと思ってしまう。

 私自身は、先に述べたように行列するのが嫌いなこともあり、日本の美術館で入場制限といったことは、経験したことはない。ただし、海外ではある。二度目の、イタリアのパドヴァにある、修復が終わった壁画のあるスクロヴェーニ礼拝堂だったか。最初は入場制限と聞いて多少憤慨した(それが初めての体験だったので)が、30分程度待たされた後に入場してみれば、作品保護のための空調のありように納得し、2,30人ずつで本当にゆったりと落ち着いて見られることに納得した。したがってこの場合の入場制限とは、多すぎる観客のコントロールとは意味合いが異なるだろうが。

 まあ、そんな風にして「縄文展」を見たのである。ほとんど喘ぎながらといった態の鑑賞だったが、やむをえない。一休みしたいと思っても腰を降ろす休憩用の椅子は満員。ここまで人が多いと鑑賞のマナー云々と行って見たところで、意味はない。ここは、博物館・美術館の入場者数至上主義を批判するよりも、むしろそれに呼応して群集する日本人の美術好きのエネルギーをほめたたえるべきであろう。せいぜい図録を買って、帰ってからゆっくり見ようと思った。

 

 ↓ 図録 表紙

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 ↓ 図録 裏表紙 ある人から、私はこの遮光器土偶に似ていると言われたのだが…??

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 それはそれとして、今回一つ気になったのは、この暑さのせいであろうが、犇めきあっている人の匂い、汗が冷えた後の体臭である。体を密着させるようにして見ざるをえないところでは、特にそれがひどい。館内の冷房は効いているはずだが、人いきれのせいで、また体が密着されることで、いったん汗の引いた体が再び汗ばんでくるのである。有体に言って、汗臭い。私は匂いに対してさほど敏感な方だとは思っていないが、その私が臭いと感じるのだから、多くの人が感じたのではなかろうか。残念ながら高齢者のほうが匂いの強い方が多かったようである。むろん汗かきの私も臭かったのだろう。

 だからといって、どうすべきだとは言いようもないのである。せいぜい「これは縄文人の体臭だろう」などと、つまらぬ空想をしてみても、やはり臭いものは臭いのである。

 

 展示内容については、まずは、素晴らしかったと言える。しかもその素晴らしさが、前後左右の美術史の文脈と孤絶していることにあらためて驚くとともに、そのよってきたるところというか、あまりの独自性をまだ飲み込めないでいるというのが、現状である。それはこれから図録でも眺めながら、またゆっくりと味わい、考察するとしよう。

 

 ↓ 展覧会のチラシ この6点がすべて国宝!

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 今回は私が体験した、過去最高に混雑した展覧会の印象を書きとどめてみたまでである。

 それにしても、美術館に行くのに適季といったものは特にはないと思っていたが、やはり夏は不適というべきであろうか。それとも自宅を出て駅までの20分を歩きだすのに大きな勇気を必要とする、今年の暑さが異常と言うべきなのだろうか。美術館に行くのは、半ばは仕事であり、勉強であり、修行であると思っているが、それが辛くなってきたというのも、歳ということなのだろうか。

 

(註1)朝日新聞DIGITAL 2018.8.18

(註2)この触れ込みは2011年ラフォーレミュージアム原宿での「ヘンリー・ダーガー アメリカン・イノセンス。純真なる妄想が導く『非現実の王国へ』」展だったかもしれない。

(註3)日本經濟新聞デジタル版2016.5.24

                              (記;2018.8.28)

 

蕎麦粒山から天目山へ (2018.7.3)

 前回の山行から、また二か月空いた。5月から6月にかけて、ウズベキスタンに15日間旅した(別稿:カテゴリー「海外の旅」参照)。そのうち、少なくとも10日間は毎日2万5千歩前後歩いているから、必ずしも運動不足とは言えないだろうが、やはり山登りと、平地を歩くのでは、違う。前後にもう1、2回、行って行けないことはなかったとも思うが、頼まれて友人の山林ボランティア(スズメバチ退治+漆の木除去+笹薮伐採)や食料差し入れ緊急ボッカなどをやったりはしたけれども、実際の山登りには行かなかったのだから、仕方がないのである。

 今年の関東甲信の梅雨明けは、例年より22日も早い6月29日という早さだった。観測史上最も早かったそうだ。うっとうしい梅雨が早く明けたのは喜ばしいが、暑い夏が長く続くというのも困る。私は昔から暑さには弱いのだ。

 そうこうしているうちに、高校山岳部OB会の夏合宿(7月19~26日 雌阿寒岳羅臼岳斜里岳・旭岳)が近づいてきた。いくら暑さに弱くても、トレーニングせねばならぬ。

 

 今回のルートは、奥多摩の鳥屋戸尾根から長沢背稜、蕎麦粒山・天目山をへて横スズ尾根下降。久恋の、というほどではないが、けっこう前から懸案の山だった。標高差1100m、実働8時間程度の、日帰りにしては、ちょっと長く、要体力のルートである。

 アプローチもそう問題があるわけではないが、奥多摩駅発東日原行きのバスは平日7:04と8:10。7:04はともかく、8:10のバスに乗るためには、五日市発6:27の電車に乗らなければならない。そのためには5時前に起きなければいけない。日常遅寝遅起きの私にはそれが辛い。それがために、これまで先延ばしにしてきたのである。

 しかし、帰路の東日原発奥多摩駅行きのバスは、17:50と18:52の2本。つまり、無理して早く登り始めても、結局降りた東日原でバスを待つことになるのだ。幸い、今の時期は日が長い。ならば、登り始めるのは多少遅くても特に問題はない。バス部分はタクシーを使ってもたいした金額にはなるまい。夏合宿のトレーニングとしては、この程度のルートはぜひとも登っておきたいところだ。

 

 前夜はワールドカップの日本VSベルギー戦がある。心を鬼にして(?)録画予約する。4時間半の浅い睡眠で、7:18の電車に乗る。たった50分の違いだが、その壁を乗り越えられないのである。奥多摩駅から川乗橋まで、タクシーで1540円。安いものだ。

 ゲートの脇から川苔谷沿いに入れば、すぐに小さな標識がある。それに従って杉の植林帯を登り始める。植林帯ではあるが、間伐されており、意外と明るい。「山と高原地図」では難路の破線で記されているが、案外登る人は多いようで、わかりにくいところもなく、歩きやすい尾根を淡々と登り続ける。

 

 ↓ 登り始めの植林帯。地形図上の傾斜からすると登りやすい。

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 実は今回、どういうわけか、必要な2.5万図「武蔵日原」と「山と高原地図」を持ってくるのを忘れてしまったのである。持ってきたのは、置いてくるつもりだった方の2.5万図「奥多摩湖」(最初の登り口がほんの少し記載されている)と、ルートの後半しか出ていない「奥多摩登山詳細図」。チョンボである。以後一応、スマホ地理院地図を出して時おり参照しながら登るが、私にとっては、使い勝手の良いものではない。幸い読図の必要なところもほとんどなく済んだが、地図のない山登りは、少し寂しいものである。

 登るほどに暑さも和らぐ。自分の体調を観察しながら登るが、そう悪くもない。ウズベキスタンでの歩きの貯金が、多少は残っているのだろうか。

 

 ↓ 広葉樹の自然林がでてくる。

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 1ピッチも登ると自然林も出てくる。緑は濃く、展望はほとんど無い。ところどころ尾根が少し狭くなるところもあるが、おおむね幅広い尾根で、快適に登れる。自然林と植林の割合は半々か、やや自然林が多いかというところ。だんだん蝉の声がやかましくなる。小鳥のさえずりも多いが、鴬とホトトギス以外はわからないのが残念だ。

 

 ↓ 笙之岩山山頂。

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 笙ノ岩山(1254.8m)着、11:35。なにやらゆかしく思われる名前の、樹林の中の小広い山頂は、悪くはないが、特にどうということもなく、写真だけとって通過。

 

 ↓ 笙之岩山山頂からのゆるやかな上り下り。

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 ↓ 途中から見た川苔山(左)と大岳山。

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 ↓ 主稜線=水源林巡視路にぶつかる。蕎麦粒山山頂へは右正面。

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 鳥屋戸尾根の急な部分はすでに終わり、後はゆるやかな登降を繰り返しながらゆっくりと登っていくわけだが、そこからが案外長かった。登り始めから蕎麦粒山山頂までの標高差が1000mだから、休憩も入れて4時間もあればと思っていたが、実際にはもう1ピッチ分かかってしまった(13:40着)。これが実力だろう。

 

 ↓ 蕎麦粒山山頂。

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 ↓ 蕎麦粒山山頂から日向沢ノ頭と川苔山(奥)を望む。

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 いくつもの大岩がある狭い蕎麦粒山山頂は、感じが良い。日向沢ノ峰・川苔山方面しか展望がきかないのが、少々残念だ。山名は、尖った三角錐状の蕎麦の実のような形から付けられたようだが、山頂に立ってみても、あまり尖がったピークとは思えない。見る方向によっては、そうも見えるのだろうか。簡単な昼食をとったのち、主稜線の長沢背稜を天目山に向かう。

 

 ↓ 山頂からの下り。

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 この主稜線につけられた登山道は、確か水源林の巡視路としてつけられたはず。そのため、尾根上を忠実に辿るというよりは、なるべく水平に、労の少ないようにつけられている。私は縦走の場合は、なるべく忠実に尾根上を辿りたいという美意識を持っているのだが、実際問題としては、小さな上り下りを繰り返すよりも、水平な路を歩く方がはるかに楽である。

 

 ↓ 主稜線上は山毛欅の大木が多い。

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 すぐそばの仙元峠にも立ち寄ってみたいと思っていたが、峠と名は確かに付いているものの、この場合は「峠=トッケ(朝鮮語由来?)」で、つまりピークであり、水平の巡視路によってあっさりと巻かれている。分岐から再び登り返す気もなく、そのまま進む。いつか仙元峠に立って、そこから秩父へと下る山旅をすることがあるだろうか。

 やがて天目山へと標識には記されていないが、尾根伝いに直接天目山山頂に至ると思われる分岐が現れた(15:10)。実はこの前から迷っていた。天目山へ向かうとなると50分ほど余計にかかるのだ。コースタイムからすると、東日原発17:50のバスにギリギリ。間に合わないかもしれない。疲労感も結構ある。天目山山頂を割愛し、このまま一杯水小屋から横スズ尾根を余裕をもって下るという案もある。

 しかし、一つの尾根を登り一つの山頂に立ち、さらにもう一つの山頂から別の尾根を下るという美しい(?)プランからすれば、天目山山頂を割愛するというのは画竜点睛を欠くと言うべきであろう。バスは17:50の後にもう一本、18:52もあるのだ。1時間バス停でぼんやり待つというのも乙なもの。

 

 文字通り疲れた体に鞭打って、天目山山頂に向かう。ちょっとしたピークの先から下りとなり、再び登り返す。思っていたよりもアルバイトを要求されるが、まあ好きでやっていること、誰にも文句は言えない。登山はしょせん修行である。

 

 ↓ 天目山山頂。

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 天目山山頂はぽつんと三角点が一つあるだけだが、好ましい山頂だ。蕎麦粒山よりも100m高く、おおむね展望も良い。やはり、来て良かった。川苔山、大岳山、御前山、雲取山と、奥多摩の主要なピークを指摘することができる。

 

  ↓ 天目山山頂より先ほど登った蕎麦粒山(左)を見る。右は川苔山。

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  ↓ 天目山山頂より大岳山(左)、御前山(右)を見る。

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  ↓ 天目山山頂より雲取山(左)を見る。夏山だ。

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  ↓ 天目山山頂より富士山を遠望。雲がかかって、頂上付近だけがわずかに見える。(富士山好きのFさんのために)

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 さて、時間のことがある。下山を急ぐ。一杯水小屋の裏手に出て横スズ尾根に入る。

 

  ↓ 一杯水小屋

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 この尾根も幅広く、尾根上から巻き道へとうまく路がつけられており、実に歩きやすい。休憩を減らして、さらにそれなりのハイペースで下りなければならないのだから、この歩きやすさはありがたい。

 

  ↓ 横スズ尾根の下り始め。

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  ↓ 横スズ尾根の途中。快適である。

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 横スズ山1289mは知らぬうちに巻き過ぎる。滝入ノ峰1310mはその手前から左に大きく巻き、以後ずっと自然林と植林帯の境の山腹を行くようになったが、このあたりからが実に長く感じられた。一本バスに遅れても1時間待てばよいだけだとわかってはいても、ついつい頑張ってしまう自分がいる。

 

  ↓ 山毛欅はこのようにウロになっていても結構踏ん張っている。

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 汗だくになって17:45、東日原バス停に着。バンガローにでも泊まったらしいさわやかな若者グループを横目に、大急ぎで汗に濡れたTシャツだけ着替えてバスに乗り込み、最後まで誰とも会うことのなかった山行を終えた。それなりの達成感を味わいつつ、眠りに落ち込んだ。

 

 今回気づいたことを一つ。

 この日原川の流域は昔、沢登りで何度か訪れたことがある。大雲取谷、小雲取谷、巳ノ戸谷、滝谷、カロー谷(中退)、川乗谷、など。そのうちのいくつかでは詰めの濃密な笹藪漕ぎで苦しめられた記憶がある。この笹とは「横スズ尾根」のスズ=スズ竹のこと。それが今回歩いていて全く見かけなかった。わずかに横スズ尾根の下部で、だいぶ古い枯れた株をほんの少し見かけただけである。

 笹に限らず、全体を通して下草がほとんどない。奥多摩に限らないのだが、笹=スズ竹が一斉に広範囲で枯れ死したというのは、だいぶ前から耳にし、実際目にしてきている(同じ笹でも熊笹などはこの限りでなく、今も健在である)。沢登りの詰めの藪漕ぎに限らず、スズ竹がなくなったことでずいぶん楽になったことは確かなのだが、いずれ復活するものだと思っていた。しかし、少々期間が空きすぎるのではないか。

 調べてみると「ササは40年から60年周期でどちらも開花後には枯死する」(ウィキペディア)とある。それはまあ、一応知ってはいるのだが、もう少し詳しくと思ったが、良い情報がない。

 ヤマレコのhayashiさんの日記で「スズタケの開花について」として、以下の記述があった(https://www.yamareco.com/modules/diary/5787)。

 「スズタケの開花を継続的観察している。奥多摩の開花は終息に向かっている。秩父や大菩薩も終わりに近づいているようです。スズタケ開花の情報は5年位前から非常に増えて、静岡県、長野県、群馬県茨城県、愛知県、岐阜県三重県兵庫県、四国、九州、岩手県と、スズタケが生えている場所のほとんどで見つかっている。各地の開花規模は不明だけど。少なくとも関東中部の太平洋側のスズタケは7割以上は開花枯死するみたいだ。東京都、埼玉県、山梨県の開花はほとんど終了。神奈川県、静岡県、長野県、愛知県、岐阜県三重県兵庫県、四国は開花継続中。群馬県茨城県、九州と東北は不明。」

 ちょっと知りたいことの核心からは、ずれているのだが、まあ貴重な情報である。ともあれ、奥多摩あるいは他山域でのスズタケの復活はあるのだろうか。スズタケはどちらかといえば嫌われ者というか、やっかい者の感がある。だから私としても必ずしもスズタケの復活を願うというわけではないのだが、現状のような樹林帯に下草が全くない状態というのは、見た目にも、生態学的にもちょっとヤバいのではないかと危惧するのである。

 

  ↓ 杉(檜?)の〆木。

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 もう一点。上に掲載した写真は横スズ尾根の下部の植林帯にあった杉の木であるが、ご覧のように見事にくるりと一回転、ねじれている。それ自体はそれほど珍しいものではなく、山では時々目にし、山関係のサイトでも取り上げられている。

 これは〆木などと言われ、いわゆる「山の神」が、12月12日、1月12日など12にまつわる日に、山で木の数を数え、100本とか1000本ごとに心覚えとして木を捩じっておくというもの。したがってその日に山に入ると木と間違われてねじられてしまうとして、山に入ることが禁止され、当日は「山の神祭」が執り行われるのである。「山の神」や「山の神祭」にも様々なバリエーションがあるが、この〆木という現象と、入山禁止のタブーはかなり一般的であるようだ。以上、ちょっと紹介しておく。

 

 さて、そんなあれこれの山行を終えた帰宅途中に、Kからメールがきた。いつもの山と旅の仲間であり、今度の夏合宿の主要メンバーでもあるKである。箱根金時山を登って下りの、流水とオーバーユースで溝状にえぐれた一般登山道で転倒し、右手を骨折したとのこと。

 ご愁傷様ではあるが、とりあえず、間近に迫った北海道合宿をどうするかだ。以後二日ほどかけて協議し、中止とあいなった。

 まあ、いろんなことが起き(う)るのである。年齢、体力、技術、状況。リスクのない、安全登山などというものはない。要はそれらに対して自分がどう予測し、対応するかである。他山の石として、今後の山行にのぞまなければならない。

 

  ↓ 今回のルート。手持ちの2.5万図をスキャンしたので、ちょっと見づらいかも。登り口の右下は少し切れています。左の赤線は昔のカロー谷遡行時のもの。

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【コースタイム】2018.7.3(火曜)晴 単独

川乗橋バス停9:03~最初の標石10:20~笙ノ岩山1254.8m11:35~蕎麦粒山1472.9m13:40-57~仙元峠分岐標識14:15~天目山分岐15:10~天目山1576m15:38~一杯水小屋14:02~東日原バス停17:45

 

「なぜウズベキスタンなのか―過去の海外の旅を概観してみる―完結篇」 (モロッコ+チュニジア・アメリカ・トランスコーカシア三国・ウズベキスタン 篇)

⑲2015.2.1~18 (18日間)

ロッコカサブランカマラケシュ・ザゴラ・トドラ・メルズーガ・フェズ・メクネス)~チュニジアチュニスカルタゴ

同行:河村森(息子:無職) S嬢(姪:無職)

 

 この旅については以前「モロッコチュニジアの旅 1-10」(カテゴリー:海外の旅)として途中まで書いて、挫折した(興味ある人はそちらの方も御高覧下さい)。

 なぜ挫折したのか、直接の理由は今となってははっきりとは思い出せないが、少なくとも紀行に関しての自分の表現スタイル/思想を確立していないまま書き出してしまったことが、大本の理由である。

 

 

 ヨーロッパ(西欧・北欧・南欧)、アジア(東アジア・東南アジア・南アジア)、中南米と巡ってくると、次はやはり、アフリカに行きたくなってくる。アフリカ美術・アラブ美術については国内外の美術館である程度は見ている。しかし、できればその風土の中で、全体性として見てみたい。

 アフリカらしいアフリカとなればやはりサハラ以南か東アフリカということになろうが、美術を期待できそうで、なおかつある程度安全快適に旅できる国となると、なかなか見当たらない。東アフリカの自然や野生動物には、二次的以上の興味はない。まあ、こちらとしても初アフリカなのだからということで、ここは敷居の低そうな北アフリカから手をつけることにした。思い起こせば15年前にもモロッコを計画したことがあったのだ(「なぜウズベキスタンなのか その1」 ②)。

 

 北アフリカ、モロッコチュニジアといえば、アフリカ大陸ではあってもアラブ・イスラム圏の印象が強い。先に行ったトルコとインドの一部でのイスラム美術体験は、なお新鮮かつ未消化なままであった。

 公務員試験に落ちまくって、結局春から別のIT企業に就職を決めた息子の最後の無職期間を活用するため、二月という時期になった。偶然だが、同様に転職前の無職期間であった姪も同行することになった。いわば親族旅行となったのであるが、それはそれで今までとは違った責任もあるような…。

 

 ↓ モロッコ料理。確か、タジンとか言ってたような? おいしいが、連日これでは・・・~。

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 結果としてはイスラム的要素とアラブ的要素、そして古代地中海世界的要素の混在した異文化・美術・自然を大いに味わい、楽しむことができた。予断をもって訪れたマラケシュのイブ・サン・ローラン・ギャラリーでは、かえって、美術という文脈ならではの、西欧とオリエントという異文化同士の幸福な結合に出会えた。

 

 ↓ イブ・サン・ローラン・ギャラリーの庭園。外部の眼/エキゾチシズムを通して見ることで、かえってその固有性が明確に立ち上がってくることがある。詳しくは「モロッコチュニジアの旅 7」(カテゴリー:海外の旅 参照)。

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 そして、マラケシュやフェズのメディナ(旧市街)と、メドレセ(神学校)などの装飾アラベスクに通底する、めまいのするような迷宮感覚。

 

 ↓ ベン・ユーセフ・マドラサにて。

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 ↓ メディナ(旧市街)=迷宮 マラケシュにて。

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 ↓ 昼間のメディナもまた迷宮である。フェズにて。

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 ↓ 迷宮の一角に、ふとこんなモロッコ的色彩が立ちあらわれる。

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 ↓ 異文化どうしの迷宮の出会い。

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 ↓ 装飾とは畢竟、迷宮のことなのか。絨毯。

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 アトラス山脈越えの雪と思いがけぬ寒さ。砂漠での一夜、二夜。

 

 ↓ アトラス山脈は予想だにしなかった雪の世界。そこを越えれば、サハラ。

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 ↓ トドラ渓谷。絶景です。

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 ↓ しばしの旅の仲間、スペインの大学生たち。砂漠の一夜を共にした。焚火を囲み、スぺインのロックバンド「Mago De Oz」の歌を一緒に歌った。

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 ↓ 砂漠の舟。

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 ↓ 砂漠のテント泊、二泊目。寒い。

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 ↓ 砂漠の夜明け。寒い。

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 沿岸部カルタゴ古代ローマ帝国文化の残照、モザイク。濃いコーヒーとオリーブの美味さ。等々。

 

 ↓ カルタゴ遺跡。遠くには地中海。だとすると、左遠くにうっすらと見えるのはスペインか?

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 ↓ 古代ローマ彫刻。技術の極み。

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 余談になるが、砂漠地帯での長距離バスの乗り継ぎに失敗して、まったく予定外のところで降ろされたときは途方に暮れたが、同時に旅の醍醐味を味わった瞬間でもあった。

 

  ↓ チュニス旧市街の街角の門扉。このバリエーションが実に面白い!

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  そしてその一か月後、私も大いに楽しませてもらったチュニジアのあのル・バルドー博物館が、日本人観光客も巻き込まれたテロの舞台となったのである。

 

  ↓ ラ・バルドー博物館にて。素晴らしいモザイク群。

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  ↓ 同上。それにしてもアフリカで、ダウンジャケットに山用パーカーを重ね着するとは思わなかった。

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  ↓ チュニスの街角でいきなり女子大生の群に囲まれて、一緒に写真を撮らされた。決して私から声をかけたのではありません。世俗主義万歳!

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⑳2015. 9.15~28(15日間)

アメリカ(ニューヨーク・グランドキャニオン・ヨセミテ・ロサンゼルス)

同行:K(無職)

 

 この旅についても、以前「アメリカの旅 1-2」(カテゴリー:海外の旅)として途中まで書いて、「モロッコチュニジアの旅」と同様に挫折した(興味ある人はそちらの方も御高覧下さい)。なぜ挫折したのかというと、やはり同様に、まず紀行に関する表現スタイルを確立していなかったということがある。

 次いで、アメリカについては、一般的にも自分自身としても、他の国よりどうしても手持ちの知識や情報が多いため、考察や検証において最初から深く突っ込むことが可能であり、その分、より厳密精確な検証性・典拠性が問われるからである。つまり、漠然とした感想ではすまないハードルの高さがあるのだ。考察に対する検証性・典拠性については、本来はどこに対しても同様なはずだが、ハードルの高さに関しては、現実的には、おのずと高低の差が存在する。そして書き始めてみると、そのハードルの高さは予想以上だった。

 私は考察の存在しない紀行/文章を書こうとは思わない。そして、検証に耐えられない、当人の感性だけが表出された紀行文というものは、もっと書きたくない。それゆえにそのハードルの高さを前にして、ひるみ、挫折したのである。

 以下、本論。

 

 

 アメリカに行くことは一生ないと思っていた。アメリカという国家に対して、私は子供の頃から良いイメージを持っていない。心情的反米帝主義者としての少年~青春時代を送り、今日に至っているのである。

 

 ↓ エンパイアステートビルからの夕暮れのマンハッタン

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 ↓ 9.11の跡地に作られたグランド・0。そこに刻まれた犠牲者の名前。あれから世界が大きく変わった。

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 ↓ ホイットニー美術館だったか、NY近代美術館だったかにあった9.11をダイレクトに描いた絵。日本の美術館では現実の社会との関係性は、どうなのだろう?

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 ↓ 同じくホイットニー美術館だったか、NY近代美術館だったかにあった、反体制的、反戦的、反政府的作品群を集めたコーナー。日本の美術館にこうした発想が可能か?

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 しかし実際問題として、世界的に見て、その圧倒的な影響力は否定しようもない。美術においてもまたしかり。アメリカ美術そのものは、日本においても見る機会が多い。ついわかっているような気がしてくる。だが美術の世界においてアメリカが圧倒的な力を発揮するようになったのは、戦後のこと。それ以前はヨーロッパに対する大いなる辺境にすぎなかったのだ。日本にいては、そのあたりのことが正確にはわからない。

 

 ↓ 巨大なメトロポリタン美術館。一日かけても、とても見切れない。しかし、あえて言えば、そこにあったルネサンス印象派以前のヨーロッパ美術のコレクションは、ヨーロッパのそれに比べれば、1.5流以下のものがほとんどである。アメリカの購買力が増した時に買えた一流のものは、主として同時代の印象派以降のものだということ。(ただし非ヨーロッパの、例えば日本のものなどは、超一流のものを持っている)

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 ↓ 巨大すぎるMOMA=ニューヨーク近代美術館。こちらはとにかく閉館までになんとか見切ったと思ったら、最後の大規模なピカソの彫刻展をそっくり見落としていたことに気づいて、がっくり…。

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 ↓ ホイットニー美術館だったかMOMAだったか、とにかく巨大すぎる展示スペース。世界中のあらゆる美術を蒐めようという、その執念と金力には脱帽。

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 ↓ 巨大な壁、巨大な作品。余裕ある展示空間。

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 私も20回も美術を巡る海外の旅をしてくると、たいていの「〇〇美術」「△△絵画」は見てきたという気がしてくる。しかし、考えてみれば「アメリカ現代美術」や「抽象表現主義」・「ポップアート」ではなく、「アメリカにおける美術」を、その全体性を見たことはない。これでは画竜点睛を欠く(?)というものではないか、と思い至った。

 

 ↓ これはフランス古典主義のアングルの作品。完璧な作品である。この作品におけるような、ヨーロッパ文化に対するコンプレックスが、両大戦を通じて経済力を持ったアメリカの、蒐集欲の源泉である。

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 ↓ ⑰「ペルー」でも触れたコロニアルアート。これはロサンジェルスの美術館にあったものだが、出来が良いので、再度取り上げる。

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 ↓ これもロサンゼルスカウンティ美術館(?)だったかの日本コーナーにあった須田剋太の書。司馬遼太郎の『街道をゆく』の挿絵で知られ、書も良くするとは聞いていたが…。

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 そのアメリカに長く駐在し、今でもアメリカ大好き男であるいつもの旅と山の仲間Kが、ようやくめでたく正式に完全退職することになった。帰郷するに前に、2週間の有給休暇を消化する必要があると言う。

 私はアメリカという国家に対しては良いイメージを持っていないと書いたが、その自然に対しては、逆に昔から大いに心惹かれてきた。グランドキャニオンやヨセミテには昔から行ってみたかったのだと、ふと思いだした。

 一生アメリカに行かないということは、一生グランドキャニオンやヨセミテに行けないということである。2週間あればその二か所だけではお釣りがくる。ここはやはり長い間の怨讐(?)を忘れて「アメリカ美術」を見に行かねばなるまい、となった次第である。「アメリカにおける美術」と「アメリカの自然=ヨセミテとグランドキャニオン」を結び付けることに、さほどの必然性があるわけではないが、必ずしも、無理のあるものとも言えまい。私としては、旅程として合理的・効率的(?)であると思った。

  なにせアメリカに慣れたKとレンタカーを駆使しての旅である。快適でないはずがない。

 

 ↓ 広大なアメリカのフリーウェーを行く。広大な空の広大な夕焼雲。

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 結果として大いに味わえ、大いに勉強できた。訪れた、あらゆる美術を包含した美術館の規模はでかく、まさに肉体労働的鑑賞の明け暮れではあった。ただし、スタンダードなものを見るだけで、手一杯だったため、課題の一つであった、アメリカにおける初期の美術の「ハドソンリヴァー派」や、アウトサイダーアートをも含む「アメリカン・フォークアート」については、あまり見れなかったのは残念だった。

 

 ↓ 「アメリカン・フォークアート」=ホームレス・アーティストのビル・トレイラー(たぶん)の作品。

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 ↓ 「アメリカン・フォークアート」=(たぶん)エイブル・アーティストの刺繍による作品。これらが他の専門画家の作品と同列に展示されている。

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 それに対して、ヨセミテとグランドキャニオンは純粋に素晴らしかった。

 グランドキャニオンでは、ブライド・エンジェル・トレイルをプラトー・ポイントまで往復した。予防していたつもりでも、あまりの暑さに、軽い脱水症状になった。(これについても別に「山行記-7 グランドキャニオンのブライド・エンジェル・トレイルを歩いた」として「山」のカテゴリーでアップした。興味のある方はそちらも参照していただければ幸いです。)

 

 ↓ ブライド・エンジェル・トレイルをコロラド川河岸段丘のインディアン・プラトー目指して、右の影の中のトレイルをくだる。

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 ↓ 前方の人がいるところがインディアン・プラトー。奥のピーク、右がシヴァ・ピーク、左がブラフマ・ピーク。

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 ヨセミテでは、三日間で三本のトレイルを歩いた。それらのすべては美しく、快適で、大いに楽しめた。

 

 ↓ バス停(グレイシャー・ポイント)でおりるといきなりこの絶景。前方はハーフ・ドーム。

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 ↓ ヨセミテ!である。花崗岩の王国。文句はありませんが、クライミングはともかく、もう少し山登りらしい山登りをしたかったなぁ…。

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 ↓ ハーフ・ドームの裏側を巡るパノラマコースの途中にあるバーナル滝だったかの滝壺に耀く虹。

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 ↓ エル・キャピタンを登攀中のクライマー。精一杯ズーム。

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 ↓ さらば、ヨセミテ、名残は尽きねど。ヨセミテ渓谷の入り口近くにて。

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 そして端的に言えば、それらの整備され(過ぎ)た「トレイル」は、楽に過ぎるコースだったのである。それはそのように設定されたトレイルなのであるが、麓から登り、見通しのきかない樹林帯にあえぎ、しんどい思いをして山頂に至るという、日本的登山に慣れ親しんだ吾々には、その楽しさはどこか違和感、不満足感のあるものでもあった。

 

 そして正直に言えば、それら「アメリカにおける美術・アメリカ美術」にせよ、「グランドキャニオンとヨセミテ」にせよ、すべてのものに、なにがしかの既視感があった。つまり事前に知識・イメージとして了解済みのものばかりで、予期せぬ出会い、未知なる異文化といったものは、なかったのである。半ば予想通りではあるが。

 旅とは難しいものである。

 ともあれ、納得はした。「見た」という気はする。 

 

 

 

 

㉑2016. 9.10~24(15日間)

トランスコーカシア三国 アゼルバイジャン(バクー)~グルジアトビリシ・クタイシ・ツカルトゥボ)~アルメニア(ハフバット・エレヴァン・アルガツ山麓

同行:K(無職)

 

 最近は身を焦がすような思いで「行きたい」「見たい」と思うところがなくなってきた。地域としてはオセアニアが残っているが、なぜかあまり心惹かれない。自然はともかく、美術に関して期待できないからだろう。

 

  ↓ グルジアから陸路国境を越えてアルメニアのハフバットにに入る。ホテルからの夕景。

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  ↓ 山関連で。アルメニア、アラガツォトゥン地方・アラガツ山麓を行く。見えているのは、最高峰アラガツ山4090m(?)。

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 しかしそうはいっても、年に一度ぐらいは未知の国に行きたいという旅心は、まだ健在である。そうなると目的地と目的とを考えるのが、一種「重箱の隅を」探す作業に近くなってくる。しかし「重箱の隅」にもお宝は眠っている。今回のトランスコーカシア三国は、私にとってそういった「とっておきのエリア」だったのである。

 

      ↓ アゼルバイジャンのバクーのメディナ(旧市街)をさまよう。

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     ↓ アゼルバイジャン、バクーの乙女の塔(世界遺産)で地元の乙女たちが駆け寄ってきた。

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  ↓ 左、グルジアを代表する画家ピロスマニの作品。彼の住む街を訪れた旅回りの女優に恋をし、描いた作品。そのエピソードを加藤登紀子が「百万本のバラ」として歌った。

右は彼が貧困のうちに死んだアトリエ兼住居。奥の右の、今は記念館になっている、階段下のごく狭い部屋(ただし、正確には少し離れた別の場所であるとのこと)。

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  コーカサス以遠はヨーロッパ文明にとって、トルコやモロッコと同様に、一番近いオリエント、すなわち異世界の入り口だった。その意味で東西の十字路であり、歴史・民族・文化の交差点であり、実に魅力的なトポスであるように思われた。むろんアルメニアが「世界で一番美人の多い国」であるといった下世話な評判は、動機としては(あまり)無い。

 

    ↓ アゼルバイジャン、ゴブスタンの岩壁画。先祖は舟でやってきたのか?

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   ↓ アゼルバイジャン、ゴブスタンを歩く。こういうところを自由に歩くのが楽しい。

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 結果として、やはりかなり面白い地域であり、かなり面白い旅となった。

 グルジアアルメニアの、再建もしくは修復された古い教会建築そのものの暗鬱なたたずまいは、実に良かった。

 

  ↓ グルジア、ムツヘタ。要害の地に立つジュバリ聖堂。

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   ↓ アルメニア、アラガツォトゥン地方のとある教会。アルメニアの古い教会等は再建ないし修復されたものが多い。

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   ↓ アルメニア、セヴァン湖畔に二つ並んで立つサナヒン修道院かセヴァン修道院のどちらか。

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 だが、そこには当然ながら、当時の絵画は、ごく一部の壁画の残欠を除いては残っていない。蒙古とトルコに徹底的に破壊されつくされたのである。現在も信仰の対象である教会には、油絵で描かれた素人臭い真新しい小さな聖像画がささやかに置かれているばかり。美術館にもその当時のものは残されていなかった。そうしたことの歴史性に胸が打たれる。

 

  ↓ アラガツォトゥン地方のとある教会を訪れると、若い修道士が鍵を開けにきてくれた。

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  ↓ アルメニア、ゲガルト洞窟修道院内の一隅で、思いがけずポリフォニー(多重唱)の合唱を聴く。味わい深いものだった。

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 別に、ミニアチュールの類に地方色の濃い面白いものがあり、またハチュカルと呼ばれる石造の十字架群がたいへん良かった。

 

  ↓ アルメニアのマテナダタン(古文書館)所蔵のキリスト教のミニアチュール。アルメニアは西暦301年に世界で初めてキリスト教を国教と定めた国。

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   ↓ 同じくアルメニアのマテナダタン(古文書館)所蔵。色使いが独特で、地方色豊か。

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   ↓ ハチュカル。簡単に言えば「十字架石」とでもいうべきもの。主に墓石として用いられたようだ。

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   ↓ これはハチュカルとは言えないのだろうが、同根のもの。アルメニア、ゲガルト洞窟修道院

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  ↓ アゼルバイジャン、バクーの公園にあったもの。ハチュカルとは異なるイスラム的(?)装飾性なのだが、なぜかハチュカルとの親近性を感じる。

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  ↓ グルジアの首都トビリシので街角での路上(壁ですが)のアート。

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  ↓ 最終日、何も知らず、期待もせず、時間潰し(?)に行ったパラジャーノフ博物館。これが素晴らしかった。パラジャーノフは「火の馬」や「ザクロの色」などの作品で知られるグルジア生まれの映画監督。反体制的な言動から投獄され制作禁止の間に以下のような、アッサンブラージュ・コラージュ・ドローンイング等の美術作品を作った。

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 ↓ アッサンブラージュ作品

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   ↓ コラージュ作品

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   ↓ ドローイング作品

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 遠望するアルメニア人の心の故郷、アララット山にも感動した。(現在はトルコ領であり、かつてその山麓一帯で100万人規模の民族浄化=虐殺がおこなわれ、今に至るも未解決の民族的政治的アポリア/難題である)。 

 

   ↓ アララット山、遠望。左、小アララット、右、大アララット。

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   ↓ 首都エレバンアルメニア人虐殺博物館にあるモニュメント。

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 蛇足ではあるが、美人はやはり多かった。

 

 

  

 

㉒2018.5.25~6.8

ウズベキスタンタシケントサマルカンド・ブハラ・ボーストン近郊・ヒヴァ)

同行:K(無職)

 

 今回の「ウズベキスタン紀行」を書くために、ここまで書いてきた。長い間、うっちゃっておいたそれらの記録と記憶を、大急ぎで、概要・覚書・感想録としてまとめたのである。その間に私の「紀行」にふさわしいスタイルが見いだせたかというと、そうではない。

 私は紀行とは、基本的に時系列に沿って、客観的な事実の記述を経(たていと)として、感想や考察や検証を緯(よこいと)として編み込むべきものという考えを持っている。しかし、そのやり方は、自分でもあまりに古典的であると思う。時として、独りよがりな冗長さを陥りやすい方法でもある。書物という形をその先に夢見るのならばともかく、何よりもブログというメディアにあっては、長すぎるということは、読者を退屈させかねない。

 そうした点から、①~㉑を前段とした、新たに独立した「ウズベキスタン紀行」を書くのではなく、とりあえず、これまでの延長上に、今現在身に付いているリズムで一気に㉒を書き終えることで、このシリーズを終わらせようと思う。

 

 ↓ 旅の始まり。ウズベキスタンに向かう飛行機の窓から。天山?パミール

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 先回のトランスコーカシアの旅の印象や記憶がなんとなく消化できぬまま、そしてその理由が自分でもうまく解釈できぬまま、1年間旅を休んだ。休んだからといって何か見えてくるかというと、そんなこともないのであるが。

 旅は仕事や義務で行くものではない。しかし、年に一度の習慣として惰性的に消費するのもよろしくない。何よりも感動が薄れる。

 自分なりの「美術を軸とする旅」という方針を貫いてきた結果、身を焦がすような思いで「見に行きたい」と思う対象がなくなってきたのは、自然な成り行きである。かといって単なる世界遺産巡りや、美しい自然を見に行くという「観光旅行」に方向転換するのは、私の望むところではない。

 

 ↓ ブハラの城壁

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 ↓ サマルカンドの裏通り。ウズベキスタン的色彩。

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  ↓ ウズベキスタン的めまい。

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 今回のウズベキスタンは、本音を言えば、中央アジアという風土性が最大の魅力であったことは確かだ。未知を求める旅の軸が、自然に「美術」から、次第に「自然・風土性」に比重を移しつつあることは、そろそろ認めざるをえないのかもしれない。

 だがそれとともに、今回の旅には、トルコ~インド(の一部)~モロッコチュニジアアゼルバイジャンと続いてきた、イスラム圏とその美術の総まとめ(?)という意味合いもあった。そのゆえに、かろうじて「美術を軸とする旅」という目的意識というか、面目(?)は維持できたのである。

 

 ↓ レギスタン広場(圧倒的である)のシェルドル・メドレセ。

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 ↓ レギスタン広場のティラカリ・メドレセ

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  ↓ ティラカリ・メドレセの礼拝所。圧倒的である。

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 結果としてウズベキスタンは想像以上に美しく、快適な旅ができた。人も穏やかで、やさしく、親切だった。食い物も美味く、物価も安く、女性はみな美しかった。日中は猛烈に暑かったが、湿度が低いせいか、日陰に入ると死ぬほど爽やかだった。

 

  ↓ 手前、ブロフ(ピラフ)。左上、サラダ。その右、マンティ(饅頭≒餃子)。右端、サマルカンド・ナン

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  ↓ 昼食に寄ったチャイハナ(中央アジア風喫茶店)の店先で。

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  モスクやメドレセ(神学校)といったイスラム建築とそのモザイクタイルの装飾は素晴らしかったが、その内部は、現在はほとんどが工芸品の工房ないし土産物屋となっている。

 

   ↓ 小さな作品を制作中。画材は固形水彩絵具、その奥のチューブはロシア製テンペラ絵具。

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   ↓ シルクロードに流通したサマルカンド・ペーパー。原料は桑。和紙と全く変わらない。帰宅後調べたら、日本でも桑は和紙の原料として使われていたとのこと。そういえば楮も桑科だった。

紙を板の上に乗せ、宝貝で磨く、このやり方はイタリアルネサンスからアジアでも同様で、まさにシルクロード的技法の存在を確認した。

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   ↓ どこかのメドレセ(神学校)か博物館の店で物色中。手にしているのは、絣。

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   ↓ スザニ(刺繍) これは博物館に展示されていたもの。

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   ↓ 路上の土産物屋のスザニのバッグ。見ていると、どれもこれも欲しくなる。

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   ↓ 路上の宣伝用絨毯。

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 ソ連時代の宗教政策とその功罪が垣間見え、複雑な気分になった。人々のありようや、暮らしぶりなどを見てもイスラム色はごく薄い。

 サマルカンドのアフラシャブの丘や、予定にはなかったが現地でいきなり予定変更して行った四か所のカラ(城塞遺跡)巡りなど、いかにも吾々らしい行動も楽しかった。毎日歩きまくった。

 

   ↓ アフラシャブ博物館を目指して、なぜか山道を登る。楽しい。しかし、登りつめたら、そこは広大なユダヤ人墓地だった。

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   ↓  寄り道して行ったアヤズ・カラ。

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   ↓ カラ(都城跡)の城壁の日干し煉瓦の窓から、ステップ(草原地帯)を望む。

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 不思議なことにミニアチュールはほとんど見られなかった。ソ連時代にモスクワにでも持っていかれたのだろうか。

 残念だったのは、ヒヴァのさらに先のヌクスに行けなかった(行かなかった)ことである。出発する間際になってNHKBSで観た番組で、そこの美術館に、スターリン時代に弾圧されたロシア・アヴァンギャルド絵画が秘かに救い出され、膨大なコレクションとして在るということを知ったのだ。あらかじめ知っていればタシケント滞在を一日削って何の問題もなく見に行けたのだが、後の祭り。そんなものである。行けなかった所もふくめて、旅なのである。

 

  ↓ ヒヴァのどこかのメドレセの一隅で見た現代の絵画。何やら宗教への皮肉がユーモラスに仄見えるような…。

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 なお、これは余談というべきであろうが、同行のKは大のスマホ・FB・ライン好き。日々、行動と写真をアップしている。ラインのメッセージの一部は私のスマホにもガンガン入ってくる。旅とは、とりあえずそれまでの日常から断絶され、異土にあって、途方にくれることだと思ってきたが、その空気は今回あっけなく崩壊した。鬱陶しいと思いつつも、そのやりとりを多少なりとも楽しんでいる自分に気づいて、いささか複雑な思いを抱かざるをえないのである。それは私の旅の堕落だろうかと。そして、SNSが遍在することを前提とする世界の中で、自分はどのように振舞うかを考えざるをえないのである。

 

    ↓ 旅の終わり。飛行機から見る朝焼け。

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(2018.6.22 了)

「なぜウズベキスタンなのか―過去の海外の旅を概観してみる―その3」(インド・バリ島・ペルー・ラオス 篇)

 「なぜウズベキスタンなのか―過去の海外の旅を概観してみる」のその3である。

 文章は大体のところは、とっくに書きあげている。短い文章だから、考察やその検証性については、あまり深入りせず、印象が中心である。そのため、たいした労力は必要としないのだ。

 だが、挿入する写真の選択やら、圧縮処理やら、コメントの挿入といった作業が、わずらわしく、私にはえらく時間がかかる。

 しかし思えば、私自身にとっても、自分の旅を振り返るまたとない機会だ。何としてでもやり上げてしまおう…。

 

 

 *国名(都市名)の記載順は必ずしも行った通りの順番とは限らない。同行者名については実名にした場合もあり仮名の場合もある。( )内の立場は当時のもの。

 

 

⑮2013. 3.2~19 (18日間)

インド(デリー・ヴァラナシ・アグラ・ジャイプール・ムンバイ・アウランガーバード・エローラ・アジャンタ)

同行:I T T(全員東京藝術大学油画1年生)

 

 前年、母校の藝大で、同級生I君の遺作展が開催された。同じ同級生で現在同大学教授のOが声をかけて、その展示作業等を手伝ってくれた学部1年生たちを交えて、オープニングパーティーで飲んだ。その席上で初対面の彼らに、海外に行けと、例によってけしかけたらしい。しばらくして彼らの一人から電話がかかってきた。一緒に行きたいという。

 

 ↓ 若者たちと。大学1年生、18歳…。アジャンタにて。

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 まさかと思ったが、どうやら本気らしい。とはいえ全員大学1年生。うち二人は現役入学なので18歳という。何度か会っていろいろ目的地等を検討し、途中メンバーの交代も一人あったが、結局つい先日まで見ず知らずだった若者たちと一緒に、いきなりインドに行くことになった。しかも国内便と夜行列車を予約(これだけは年長者特権で従ってもらった)する以外は、すべて現地でやるという若者旅である。

 われながら不安になった。不安ではあるが、近来にないときめきも感じた。還暦近くなってインドを若者旅で旅するというのは、どう考えてもハードである。しかし、楽しそうだ。こんな機会は二度とあるまい。そう思えば、つい気合が入る。

 

 

 ↓ 夜、ガンガーのほとりでロシアのお姉ちゃんが瞑想に耽りつつ、絵を描いていた。

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 ↓ ちょっと面白い絵だったので、3点買ったら感激していた。

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 ↓ その2 共にタイトルは未詳

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 還暦近い年齢ゆえのこれまでの経験を、彼らの若さと協働させて、結果としては実に面白い旅ができた。エピソードには事欠かない。例えばベナレスのガンジス川では頭まで水没の沐浴もした。若者たちは、財布は落とす、ケータイはなくす、迷子にはなる、等々、腹は壊す、その他色々と、やってくれる。

  

 ↓ ガンガー(ガンジス川)での沐浴。近くには火葬場やら、全裸の行者やら、牛やら、犬やら、観光客やらの混沌(カオス)。

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↓ 聖なるガンジスのほとりを感慨にふけりながら歩いていて、目にとまったのがこれ。国辱もの(?)だと思い、帰国後その話を絵描き仲間、麻雀仲間、飲み仲間のM君にしたら、なんと、それは彼が〇〇年前に、泊まった宿の人に頼まれて書いたものだとか! その後何度か上書きされているが、初めて書いたことは間違いないとのこと。呆れもしたが、まさかガンジスのほとりで彼の過去の行状に出くわすとは思いもしなかった。世界の狭さを感じた。ちなみにそのM君は、現在某大学の教授である。

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 かくて、人および人以外のあらゆるものから諸宗教までもが多様にかもしだす混沌(カオス)を、充分に堪能した。

 また、食事面はほぼ過去最悪と言えるものだったが、私以外の三人が次々とダウンしていく中で、なんとか一人踏み止まれたのも、経験の力と気合のおかげだと思う。

 

 ↓ 移動途中のドライブインのようなところで。三種のカレーだから、割と豪華な定食。不味いとは言わないが、完食は無理。左のコップの「ラッシー(ヨーグルト系飲料)」にどれだけ救われたことか。

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 ↓ 幅広い国道の路肩で、丸く練り広げられ、貼り付けられた牛糞(燃料用)とともに、無数の洗濯物が(写真ではわかりにくいが)広大な面積で干されている。洗濯をするカーストの存在に思い至り、また、インドは色彩の国でもあると知る。

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 美術にかぎらず、インド全体(食事を除く)が私には魅力的だった。インド美術全般の中でも、とりわけミニアチュールの素晴らしさは格別だった。

 

 ↓ いろんな種類があるミニアチュールの一つ。作品は素晴らしいが、展示状態、保存状態は悪いところが多い。

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 ↓ ジャイプールでミニアチュール制作者の店で研究中。当たり前といえば当たり前だが、洋の東西を問わず、技術や材料・道具は共通するものが多い。やや古い作品を1点と、紙(ライズペーパー)、筆などを買う。

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 ↓ これはミニアチュールではない。どこかの美術館にあった、何だったのか覚えていないが、精巧緻密なもの。こうなると、ヒンドゥーだか仏教だか、両方の要素があるものだか、よくわからない。

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 タージマハルおよびその他のイスラム建築(とその装飾)の華麗さは言うまでもない。ヒンドゥー寺院の過剰きわまりない美は、めまいがするほど魅力的ではあったが、私の中には入りようがない。

 

 ↓ タージマハル遠望。完璧な美。

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 ↓ イティマド・ウッダウラー廟だったか、マターブ・バーグだったか。

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 ↓ イスラム建築とは言えないが、ジャイプールにあるジャンタル・マンタル。数多くの巨大な天体観測装置群や日時計がある。なんとも不思議で、超現実的で、美しい建造物・構築物群。

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 ↓ どこかの壁面装飾の一例。美しいです。

中央の天秤秤は、死後に生前の善悪の軽重を調べるもの。イスラム教もキリスト教でも仏教も、発想は同じ。比較宗教学的には、おそらく相互にその教理を取り入れたものであろう。

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 よくインドに行った人は、二度と行きたくないという人と、その魅力にハマってしまう人と、二様に分かれると言われるが、それは年齢にもよるだろう。若い時に行ってみたかった気もするが、この歳で行ってちょうど良かったのだとも思う。今の私としては、カシミール方面か、南インドならば、もう一度行って見たいと思っている。

 

 

 ↓ アジャンタの窟院。保護のために照明は暗く、一部のものは修復中だったりして、一番有名なアジャンタ美人は見えずじまい。

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 ↓ 少し明るい窟の手前などには見やすいものもある。

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 ↓ 本命の人物群でなくても、このような素晴らしい装飾部分もある。

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  ↓ ふと気づけば、目立たないこんなところにも!

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 ↓ これはエローラの石窟。欠けてこそ匂いたつエロティシズム。

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 このブログの読者に一つだけ言い添えておくと、インドに行くなら、ムンバイ(他にもあると思うが)のスラム街ツアーだけは体験してみるべきだ。内部の撮影は禁止なので、画像を上げることはできないが、インド的混沌の極がある。それを通して、環境問題や国際的資源リサイクルの実相が見えてくる。

 

 ↓ ムンバイのスラム遠望。

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 なお、この時同行した三名の芸大1年生たちのその後の動向を記しておけば、I君はレオナルド・ディカプリオ基金による環境チャリティーオークションに最年少で参加したことをきっかけに、あれよあれよという間に、海外で売れっ子アーティスト(?)として活躍している。一番おとなしかった方のT君はその後ほどなく、「芸大は自分のいるべき場所ではない」といって大学を去った。もう一人の最も知的だったT君については、特に消息を聞かないが、元気でやっていることだろうと思う。

 う~ん、青春である。

 

  ↓ エレファント島の小さな波止場で偶然行きあったドイツの青年。同じ絵柄のTシャツに注目。同じ時に同じメキシコでそれぞれに買ったものが、地球の裏側で再会するとは。世界の狭さを実感。

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⑯2013. 7.10~15 (6日間)

インドネシア(バリ島/キンタマーニウブド・デンパサール)

同行:K(高校山岳部の同期:会社員)

 

 海外の旅にも脂がのってきたという感じで、8月からのペルーが決まっているにも関わらず、Kと共に短期・近場のバリ島に行った。しょせん吾々二人はリゾート地とは無縁。目的は二つ。一つはキンタマーニでのバトゥール山(1717m)登山と熱帯雨林の棚田巡りという自然ツアー。もう一つ、こちらが本命だが、ヴァルター・シュピースの作ったバリ島芸術を見ることである。

 

  ↓ バトゥール山(1717m)遠望

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 ↓ バトゥール山の火口壁。あちこちで小さな噴煙が上がっており、ところどころの岩や地面が熱い。

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 ↓ 頂上稜線、火口を一周縦走する。よく踏まれているが、ロープ、手すり、階段等はない。つい最近も転落事故もあったそうだ。

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 ↓ 世界遺産の棚田ではなかったが、熱帯農業の視察。癒される…。

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 ↓ 無数の気根を降ろす熱帯雨林の樹霊に、魂を吸い取られている。

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 ↓ このヒンドゥー寺院では腰に腰巻のような布をまとい、沐浴しなければ、域内に入ることができなかった。

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 ↓ ヒンドゥー寺院の造形。ここは大した観光地ではなかったせいか、腰巻は着けなかったような。

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  両者ともに目的を達成したというか、満足できるものであった。バリ島芸術=伝統的風土的と見える要素形態が、実はヴァルター・シュピースというヨーロッパ人(ロシア生まれのドイツ人)の異国趣味(エキゾチシズム)の目を通して1920年代以降に作り上げられたものという、作られた伝統、いわばねじれた構造が定着しているということ。その双方向的に外部性が挑発・発動しあう面白さ。

 人物画を描くことが基本的に宗教で禁じられている、世界最大の人口を持つイスラム国家インドネシアの中で、例外的なヒンドゥー教徒の島、バリ。そこでのみ開花しえた、エキゾチシズム=異文化交流の結果としての、実は新しい伝統としてのバリ島芸術の、怪しき美しさ…。

 

 ↓ ヴァルター・シュピースの作品。ただしこれは複製。実物はほとんど無かった。

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 ↓ バリ島絵画。これは大作の一部分。比較的新しいもの。

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 ↓ バリ島絵画 その2。同じく新しいもの。古いものより、新しいものの方が、より面白い、

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 ↓ バリ島絵画 その3。新しく、ゆるいテイストのもの。

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 ↓ 現代美術もある。若い作家のインスタレーション

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 そしてそのシュピースが第二次大戦末期に日本軍の飛行機の機銃掃射で殺されたということにも、なにがしかの因縁というか、慨嘆を禁じえないのであった。ただし残念ながら、シュピース自身の作品は、現地ではほとんど見ることができなかった。

 

  ↓ ふと森の中に足を踏み入れると、シュピース的世界。

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  ↓ ダンスや演劇、シュピースの(再)創造したケチャ、人形劇等、いろいろなバリ芸能を観た。

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  ↓ 最後に訪れた海岸で見かけた光景。何を思い、海を見つめているのか…。

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⑰2013. 8.23~9.5(14日間)

ペルー(リマ・クスコ・ナスカ・マチュピチュチチカカ湖

同行:K氏(国立音大教授)

 

 この年3回目の海外。K氏は現在国立音大の優秀な音楽学の先生であるが、その前は東京学芸大で学長補佐の身でありながら、同僚としても同じ授業を何年か一緒にやっていたこともある間柄。その後私は早期退職し、彼は大学を移り、縁は切れたかと思っていたが、なぜか一緒に海外に行こうということになった。とりあえず南米ペルーということで一致。

 

  ↓ リマの教会群の一つ。どこも異様に(先住民から収奪した)金をかけた、豪華絢爛な装飾でおおわれている。もう一歩でウルトラバロック

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 リマ・クスコという都市はともかくとして、ナスカ・マチュピチュチチカカ湖もという、かなり欲張った計画ではあったが、結果として中身の濃い、充実した旅になった。

 

  ↓ 夕暮れ近いナスカに、ただ一か所小高い丘。ここから彼方に一直線に伸びる直線(地上絵)が見える。

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 ↓ ナスカ上空の遊覧飛行。下を見ても、意外と地上絵はわかりにくい、というか、そうは鮮明には見えない。アクロバティックな旋回飛行のせいで酔った、前の座席のお姉さんのゲロのとばっちりを食らった…。

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 ↓ ナスカの地上絵の最初期の研究者マリア・ライヒの元研究所が、現在は博物館となっている。奥の人形が彼女。詳しくは楠田枝里子『ナスカ 砂の王国』を読んで下さい。

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 ↓ インカの遺跡の上に建てられたクスコの街並み。すぐ近くにあの有名な12角の石がある。リマから飛行機で標高3400m以上あるクスコに入ったため、初日高山病でちょっと苦しんだ。

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 ↓ 多様な色、デザインのアルパカ製品が大量に並び、面白かった。思わず、柄にもなく、セーターやマフラーを買いこみ、今でも愛用しています。

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 ↓ マチュピチュの画像はありすぎるので、この1点のみ。

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 ↓ マチュピチュから見る、周囲の素晴らしい山々の景観。

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 ↓ クスコからアンデス分水嶺を越えて、チチカカ湖までの長い長いバスの旅。この長い旅がまた、味わい深かった。そういえば、このあたりの草原・湿地帯がアマゾンの源流なのだ。

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 ↓ チチカカ湖クルーズ。空は死ぬほど青い。

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 ↓ 葦の浮島の上の生活。ある程度は観光客相手かもしれないが、基本、変わっていないと思われる。

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 初めての南米の風土性・異文化の面白さ、自然景観の多様な素晴らしさは言うまでもない。それに加えて、特に宗教画における文字通りのコロニアルアート/植民地芸術ということのバロック的面白さは、インカ文明等の先住民文化のそれらが時間軸を越えて共時的に併存しているという環境の中で、さらに複雑で摩訶不思議な味わいを見せてくれたのであった。

 

 ↓ コロニアルアート その1 イエスはスカートというか、腰巻をはかせられています。

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 ↓  コロニアルアート その2 ここまでの味は本国スペインでもなかなか見ることができない。

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 ↓ 一般的なインカのイメージの陶器。副葬品として作られたため、保存状態の良いものが多い。

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 ↓ 画像では見にくいが、陶器ではなく、木製品に彩色されたもの。他ではあまり見ることのない類のもので、お気に入り。

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 ↓ キープ。「結縄(けつじょう)」といい、文字を持たなかったインカで、結び目の位置などで数などを表わしたもの。こうして見るとすでにアートである。

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 オマケではあるが、思いがけずワイナピチュ山(2720m)とマチュ・ピチュ山(3082m)(共にマチュピチュ遺跡の前後のピーク)に登れたのもうれしかった。

 

 ↓ 左のピークがワイナピチュ山。明暗の境目のリッジを直登する。

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 ↓ ワイナピチュ山山頂2720mにて。写真の二人は現地で知り合って一緒に登ることになったお姉さん。登りの傾斜はきついが、ロープ等は設置されているので、慎重に登れば問題ない。一日の人数制限はされているが、結局は数珠つなぎ。狭い頂上では外人さんたちは決して場所を譲らず、大混雑。下山はほとんどの人は同じルートを下るが、私一人、反対側の「月の宮殿」を経由するコースで降りた。時間は少しかかったが、おかげで人がほとんどおらず、楽しめた。

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 ↓ マチュピチュの後方にそびえる、ワイナピチュ山と対峙するマチュピチュ山。山頂は一番高く見えるピークのさらに向こう側。登る人は少なく、むしろこちらの方がおすすめ。手前は「インカの道」。相棒のK先生は登山はもうコリゴリとかで、ゆっくり一人で楽しんだ。三日連続でマチュピチュを歩いたことになる。

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 ↓ マチュピチュ山の狭い山頂。360度の大展望。

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 ↓ 氷雪のアンデスを遠望する。

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 なお、これに気をよくしてK氏とは翌年もウズベキスタンに行こうと約束していたのであるが、不運にもその後、彼に親の介護の問題が出てきて、以後永く延期となったのである。

 

 ↓ とある美術館の中庭で見た景。南米的でもあり、スペイン的でもあり…。

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⑱2014. 12.10~17(7日間)

ラオスビエンチャンルアンパバーン

同行:K(高校山岳部の同期:会社員) 河村森(息子:無職)

 

 例によってKとの短期・近場の東南アジアシリーズ。もともとラオスに積極的興味はなく、また、そこにどんな美術があるのか全く知らなかったが、人気の高い(=観光客の多い)タイを避けて消去法的にラオスとなった。Kは勤務の都合で5日間。ならばと、当時公務員試験を目指して試験勉強中=無職だった息子も気晴らしも兼ねて誘い、7日とした(帰国は8日目)。

 

 ↓ とりあえずホテルの前のメコン川岸の屋台で夕食。

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 ラオスの旅自体はほぼ観光旅行状態で、美しい自然と穏やかさを楽しめた。

 

  ↓ どこの寺であったか。静かなたたずまい。

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  ↓  どこの寺であったか。こんな感じです。

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   ↓  とある寺院の外壁装飾。

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  ↓  どこの寺であったか。内部はこんな感じ。仏像が金ぴかなのをのぞけば、日本のそれとあまり変わりはありません。

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  ↓ どこの寺であったか。仏像はゆらりと背筋を伸ばし、指先が異様に長いのが特徴。より多くの衆勢を救おうとしてとのこと。

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 ↓ ルアンパバーンのプーシーの丘にて。

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 ↓ 美しい風景の傍らには、対空機銃座の残骸が残っている。ラオス内戦時のものだろう。

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 ↓ 早朝のメコン川を遡り、パークウー洞窟へ。その後、焼酎作りの村(バーンサーイハイ)、紙漉きの村、タート・クアンシーの滝などを訪れる。

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 ↓ パークウー洞窟入り口。

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 ↓ 広い内部は仏教遺跡。数多くの仏像や、かすかに残った壁画がある。

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 ↓ タート・クアンシーの滝の手前の渓流。

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  ↓ 払暁の路地を僧たちが托鉢の列をなす。

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  ↓ 双方無言のまま、布施を施す。いや、施させていただく。

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 しかし驚いたことに、絵のある美術館が一つもなかったのである。歴史的あるいは政治的文物を見せる博物館はあったが、「美術」を見せる美術館が一国の首都に無かったのである。こんな国は初めてだ。私の「美術を軸とする旅」という原則が勝手に外側から崩れてしまったではないか。

 

  ↓ メコン川沿いの紙漉の村で。素材の木の皮(楮?)を搗くやり方は、私が子供の頃自宅で使っていた足踏み式のそれと同じもの。

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  ↓ 紙を漉く時のやり方は、ちょっとだけ違う。少々、荒っぽい。

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 唯一見たのがブッダパーク。

  ↓ ブッダパーク その1 楽しい!

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  ↓ ブッダパーク その2 制作の動機はまじめなもの、らしい。

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 決して「トンデモ的」なキワモノではないが、結果としては、どちらかといえばアウトサイダーアート的なもの。これはこれで充分楽しめたが、せめて今現在の作家が描いた絵が見たかった。

 

  ↓ 街角の朝市にて。リスやらコウモリ(?)、その他生きたカエルや、竹籠に詰め込まれた生きた猪などが、食材として売られていた。

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  ↓ 暮れなずむメコン川で投網を打つ。今夜の夕食ななおか、明日の市場に売りに行くのか。

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