艸砦庵だより

河村正之のページ 絵画・美術、本、山、旅、etc・・・

新緑から万緑の世界へ 御坂・黒岳から釈迦ヶ岳へ

 また中一ヶ月空いてしまった。この間一度、わが「裏山」の秋川丘陵の小峰公園桜尾根から金剛の滝をへて、今熊山505mというコースを歩いてはいる。歩程3時間ほどで、一部初めて歩く部分も含まれているのだが、「登山」というよりはやはり「裏山歩き」の延長といった感が強い。他人からすればどうでもいいことだろうが、自分としては「山行リスト」に記載するにはためらいがある。まあ、ささやかなこだわりなのだが。

 

 ここのところの股関節の不安がある。左肩から指先までの痺れもある。まあ、歩く分には大丈夫だろうと、例によって3時間少々の睡眠で家を出る。目的は昨年黒岳から、今年四月に大沢山から遠望した三角錐の鋭鋒、釈迦ヶ岳。珍しくその姿形に惹かれて登りたくなった山である。

 河口湖駅からのバスは最近毎度のことだが、中国人観光客で満員。事前に調べておいたはずなのに、寝不足のせいか違うバスに乗ってしまったようで、登山口の久保田一竹美術館前のバス亭に着いたのが、予定より15分遅い10:05。

 ここで重大なミスに気づいた。地図を半分忘れてきてしまったのだ。私は普通、山行には国土地理院の2.5万図と5万図の地形図と、あれば昭文社の「山と高原地図」の三種を持っていく。今回予定のルートは2.5万図も5万図も二枚にまたがっているのだが、それぞれその左半分(「河口湖西部」と「甲府」)を忘れ、さらに「山と高原地図」も忘れてしまったのである。おおよそは覚えているし、一般ルートだから特に読図力が必要ということもなかろうが、やはり多少は不安である。現地で見るのは主に2.5万図だが、「山と高原地図」にはコースタイムと、要所要所にちょっとした注意点が記されており、それはそれで結構役立つことが多いのだ。

 今回の入山ルートに選んだ黒岳の南尾根は、半ばで二つに分かれ、そのいずれにも登山道はあるが、共に地形図に破線は記載されていない。左の烏帽子岩コースは現在通行不可のようで、右稜というか右側の尾根を選んだ。山と高原地図に記載されたルートは事前に地形図に書き写していたが、取り付きに関しては覚えていなかった。

  とにかく久保田一竹美術館の横を過ぎ、その先の野天風呂天水の前に至る。実は登山コースに入るには、天水の手前の右手の橋を渡らなければならなかったのだ。気をつけていたにもかかわらず、道標がなかったのか、あるいは寝不足のせいで見落としたのか。念のため天水の玄関先を掃除していたおばちゃんに聞いてみると、このまままっすぐ先に進めとのこと。地元の人に道を聞いても登山道のことは案外知らないことが多い。知らないのはしかたがないが、今回のように変則的な道を教えられるとかえって混乱するというか、困るのである。まあ悪気はないのだろうが。やはり「山と高原地図」は必携ということか。

 釈然としないが、一応そのまま進むと道は二つに分かれ、そこにも道標はない。ともかく右手の尾根に登るべく右を選ぶ。少し進むと作業所の廃屋があり、どうにも正規のルートでない事が明確になってきた。正面に、左にと、道らしきものはあるが、どれを辿ってもすぐ先でほぼ消滅する。やむをえず、少し沢沿いに登ったところで、右の尾根を目指して道のないところを登ることにする。幸い藪はなく、錯綜する獣道を上手く使えば、ほどなく正規の尾根上の登山道に出ることができた。やれやれである。それにしても前回、前々回に引き続き三連続で取り付きを間違うとは…。寝不足ばかりではないにしても、少し慎重にやらねばと気を引き締める。とにかくここで30分ほど時間をロスしたようだ。

 ↓ こんな感じ

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 いったん正規ルートに乗ってしまえば、あとは問題ない。よく踏まれた快適な尾根道である。展望はほとんどないが、広葉樹が主の気持良い自然林の中を、ゆるやかな登りが続く。あたりは蝉や野鳥の声がうるさいほど。新緑を過ぎ、万緑とも言うべき緑の中、風に吹かれつつ、さわやかこのうえない登行である。

 

 ↓ あちこちにオトシブミが落ちていた。これはオトシブミ科のオトシブミというゾウムシに似た甲虫が中に卵を産みつけて落としたもの。

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 やがて左側から烏帽子岩コースを合わせ、中沢山1554mはそれと気づかぬうちに過ぎた。少しずつ傾斜を増し、一汗かくとようやく展望がひらけ、富士山の見える岩場が出てきた。今日の富士山は、残雪は少ないが、なかなか立派である。前方の毛無山、十二ヶ岳方面もよく見える。こちらも青巒といったおもむきで、なかなか立派である。この初夏の万緑の頃の山の魅力も、また捨てがたいものがある。

 ↓ 今日の富士山-その①

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 ↓ 左毛無山から十二ヶ岳、右節刀ヶ岳の稜線

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 ↓ もう少し先から 今日の富士山-その②

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 ↓ 正面、毛無山~十二ヶ岳、右節刀ヶ岳の青巒の主稜線 

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 黒岳山頂直下でこの日はじめて登山者二人と出会った。黒岳頂上は昨年5月以来二度目だが、展望もなく、やはり特にどうということもない。

 府駒山、釈迦ヶ岳に続く尾根すじもまた、今まで以上に気持が良い。「山梨の森林10選」とかの看板があった。最近は山も滝も道も森林も、何につけランキングばやり。むしろ興をそがれる思いがするのだが、まあ、いいか。それはそれで、橅の多い、確かに気持の良い森である。

 ↓ 水楢や橅の森 

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 ふと思いついて、スマホで「地理院地図」を開いてみる。おお、何と!開ける。小さい画面ではあるが、ちゃんと地形図が見えるではないか。これでだいぶ気が軽くなった。そう言えば、あとで気づいたのだが、グーグルマップは使えたのだろうか。スマホ片手に山登りと言うのも様にならぬが、今度一度試してみなければならないだろう。

 

 日向坂峠(どんべい峠)で車道が横切っているが、そこに救急車や何台かの車が止まっていた。こんな山の上で交通事故かなと思うが、とりあえず通過する。少し行った先で、何やらやかましく降りてくる団体が来ると思ったら、事故者の搬出だった。道をゆずり、見ると60か70歳台の女性が担架に乗せられ、救助隊数人によって運ばれている。顔に青あざがあるものの、目は開いて、意識もあるようだった。転倒して打撲と捻挫あるいは骨折といったところか。少し先にそのパーティーの数名がいたが、推定平均年齢60歳台後半。

 う~ん、人ごとではない。寝不足、地図の忘れもの、ルートミスによる時間の遅れ、股関節の不安と、私自身ずいぶん不安材料を抱えての今日の登行である。特に黒岳頂上を出て以来、帰路のバスの時間が気になって、早めに予定ルートをカットして降り始めるべきかと葛藤しつつも、釈迦ヶ岳に登りたいという「登山慾」にかられて歩を進めているのである。背筋を少し冷たいものが走るようだ。せいぜい残りを慎重に行こうと、気を引きしめる。

 府駒山1562.4mは三角点はあるものの、およそ山頂らしくないところ。写真を一枚撮っただけで、休みもせず先に進む。釈迦ヶ岳山頂直下は岩場も出てくるが、気をつけて登れば特に問題はない。先ほどの事故者もこうした岩場では慎重にやり過ごして、その後の何ということのないところで転倒したのではないだろうか。えてしてそういうものである。

 ↓ 釈迦ヶ岳山頂直下の岩場 

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 ↓ 釈迦ヶ岳山頂直前から見る 今日の富士山-その③ 

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 釈迦ヶ岳山頂1641mは岩累々の気持の良いところだ。360度の大展望が素晴らしい。いつもだったらこの時間、富士山は雲に隠れていることが多いのだが、今日はまだその秀麗な姿態を黒岳から鬼ヶ岳へと続く稜線の向こうに見せている。その稜線のこちら側、芦川の谷の風情もすばらしい。

 ↓ 釈迦ヶ岳山頂

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 ↓ 山名のゆえか、地蔵仏やこうした信仰関係の新しい設置物がいくつも置かれていた。まあ気持はわかるが、古いものは大事にしたいが、あまり増やさない方が良いと思いますけど。

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 ↓ 釈迦ヶ岳山頂からの 今日の富士山-その④ 

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右岸の神座山、春日山と連なる稜線とにはさまれ、緑の波濤と形容したくなるような景観である。思わず、この光、この彩を見るために、ここに来たのだと思ってしまう。実に絵になる。しかし、私がこれを絵にしようと試みることがあるのだろうか。

 

 ↓ 緑の波濤 芦川谷 

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 ↓ 芦川谷右岸 神座山から春日山へと連なる稜線

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 ともあれ、時間が気になる。コースタイムの記されている山と高原地図がないために、時間のめどが立たない。スマホ地理院地図を見ると2時間はかかりそうに思える。17:36のバスには間に合わなくとも、最終18:36には乗らなくてはならない。しかし先ほど事故者を見たばかり。こういう時ほど慎重にいかねばならない。山頂からの下りも岩場が続くがロープもあり、慎重に行けば問題ない。間もなく道は無名の峠から芦川へと下る。九十九折りの後、林道から立派な舗装道路に出た。

 頑張れば、ひょっとしたら17:36のバスに間に合うかもしれない。そう思えば、何とか間に合わせたいと思うのは人情(?)で、ついつい頑張ってしまった。結局、すずらんの里バス亭の少し手前でやってくるバスに出会い、手をあげて乗りこむことができた。自由乗降区間だったのである。

 

 かくして懸案の、少し憧れの、釈迦ヶ岳に登ることができた。全体を通して樹林の美しい、良いルートだった。寝不足、股関節痛、地図忘れ、等々の不安材料、失敗にもかかわらず、充実した一日だった。それにしても、何とか充分な睡眠をとってから登ってみたいものである。もっと素晴らしい山行が堪能できるのだろう。相変わらずの永遠の課題だ。そして、ある程度の無理はやむをえないにしても、今後とも充分気をつけて慎重に行動しなければならないと、人ごとでなく、あの事故者の搬送作業を思い出すのだった。                  (記 2016.6.4)

 

【コースタイム】2016年6月2日

河口湖駅~久保田一竹美術館バス亭10:05~黒岳南尾根右尾根~左尾根と合流12:05~黒岳1792.1m13:40~日向坂峠(どんべい峠)14:55~府駒山1562.4m15:25~釈迦ヶ岳1641m16:08-20~峠16:40~舗装道路17:15~すずらんの里バス亭手前17:40~河口湖駅

緑に癒され 風に吹かれ 股関節痛に悩まされ~ 外秩父・鐘撞堂山から陣見山へ

 一週間ほど前から右の股関節の調子が妙な具合に痛い。二三日前も一時間少々の裏山歩きのあと、舗装道路に降り立ったとたん、右足がアレっという感じで、一歩二歩が前に出なくなった。なんとかだまして歩いたが、なんだ?これは?といった感じだった。

 その少し前には急に歯グキが腫れた。かかりつけの歯医者が休みで、急きょ別の年中無休の歯医者に駆け込んで、切開して膿を出した。四月初めにはいきなり花粉症らしき症状となったが、二日間寝込んだら治った。花粉症だったのか風邪だったのか、いまだによくわからずじまい。その前三月には、これは確実に花粉関係で、二三週間ほどまぶたが爛れて困った。これは教え子のカヨちゃん(「『蜂の子』を料理して食べた」の送り主)が作った蜜蝋人参オイルワックスを何日か塗ったら、何とか治った。今年の正月に転倒して左ひざを強打して以来、腰痛肩凝りを含めて、あちこち、どこかしら痛いといった状態が続いている。

 歳なのだろうか。たぶんそうだろう。しかしその直接的な原因は、高め安定の体重であり、それと連動する、絵描きとしてまじめに制作にいそしむことによってもたらされる慢性的な運動不足である。

 なんであれ、ああ~、ジジくさい。何にしてもまたそろそろ山にでも行かないと、身体が倦んでいるなあと、ひしひしと感じる。心と精神は決して倦んでいないのだが、身体が倦んでいるとやはりダメなのである。

 

 そんなことをボンヤリ思いながら前夜、古い美術関係の雑誌を見ていたら、ある寺の五百羅漢の紹介が載っている頁に目がとまった。何かいいなあ、見に行きたいなあと思って何気なく調べると寄居、長瀞の近く。つい地図を取り出して見ると周囲は山だ。鐘撞堂山。聞いたことがある。家族向き低山ハイキングコースとしてポピュラーなところだ。この辺りは奥秩父からも奥武蔵からもちょっと離れているため、何となく所属が曖昧な、外秩父とか北武蔵などといった要領をえぬくくられ方をされているところ。そのためもあってか、山登りの対象としてはあまり魅力を感じるということもなく、20年ほど前に大霧山に家族で登って以来足を向けたことはない。したがって私の「登山予定リスト」には載っていない。

 股関節は微妙に痛い。そういえば明日は久しぶりに晴れだとか言っていたな。でも明日は連休の初日だし、どこも混むだろうな。などと倦んだ頭で考えていたら、閃いた。ウダウダ言わず、行けば良いのだ。股関節が気になるなら低山ハイキングコース、結構、ポピュラールート、上等ではないか。季は新緑。晴天。楽ルート。完ぺきである。多少人が多いくらい、なんだ。何せ私はこの身体の倦みを早急になんとかせねばならぬのだ!ということで、唐突に行くことに決めたのである。五百羅漢はどこかへ飛んで行ってしまった。さすがにここまで唐突なのは吾ながら珍しい。まあそれはそれとして、あまりなじみのない所に行くというのは、それだけでも結構心躍るものだ。

 

 ↓ 国土地理院の地図を利用して初めて作成してみました。赤い線が歩いたラインです。縮尺の関係で見えるかどうか。PCではクリックすると拡大されます。 

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 4月29日、五日市発7:47。拝島、高麗川、寄居と乗り継いで桜沢という妙に風情のある名前の駅に降り立つ。近くにはこれもきれいな杏沢(あんずさわ)という地名もある。

 ここに至るまで、八高線の車窓からは案外ときれいな新緑の里山が続いているのが眺められた。実はその間、微妙な違和感を感じていた。そしてそれは、そのきれいさが、人里近くの里山でありながら杉檜の植林が少ないことによるのだということに思い当たった。考えてみれば私の住む五日市にせよ、奥多摩、中央線沿線にせよ、人里近くはほとんどと言っていいほど植林されている。緑は多いが視界のほとんどは暗緑色の杉檜の常緑針葉樹なのだ。それがこの八高線沿線では、かなりの割合で落葉広葉樹なのである。その理由はよくわからないが。したがってこの季節、ここら一帯の山々は全体が新緑、銀緑色に「うるうるともりあがって」いる。何か、うれしい誤算、うれしい発見である。

 ↓ 入口の八幡山 

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 ともあれ駅の目の前にある小さな丘、八幡山めざして八幡神社から登りだす。最初は少し急だが、すぐになだらかな良い路となる。新緑の広葉樹。10分で八幡山山頂。う~ん、良い感じだ。以後も新緑と言うには若干濃くなった若葉のなだらかな尾根を、急がず、快適に歩く。季節のせいもあるだろうが、どうやら思っていた以上に良い山だ。あちこちで朱い山ツツジが満開である。展望はさほどないが、飽きない。まことに気分が良い。

 ↓ 登り始め

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 ↓ 八幡山山頂

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 そういえば今日は強風注意報が出ているそうだが、確かに風は強い。「風はゴーゴー、森はザワザワ」。もう又三郎がやって来たのかと思うほど。

 たしかにポピュラーなコースだけあって、行きかう人は多い。犬を連れた人、犬を背中のザックに入れて歩いている人、会社員風の服装で黒い革靴の人。しかしみなすれ違うばかり、降りてくる人ばかり。ああそうか、また時差登山のせいだと気づく。

 北側に遠望される谷津池の傍らでは、大きな桐の木の紫の花が満開だった。山中にも桐の木は多いらしく、歩いていて桐の花、藤の花があちこちに咲きこぼれている。これも今日の強風のおかげだ。

 ↓ いたるところに山ツツジが満開

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 ↓ 桐の花 そういえば手にとって見るのは初めてかもしれない。

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 ↓ 谷津池と満開の桐の木

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 鐘撞堂山(330.2m)の山頂に11:30着。わが家の裏山の網代城山330.7mとほぼ同じ高さ。歩き始めて1時間ほどである。戦国時代は見張り場だったという、よく整備された、歴史ある山頂。外秩父の山々が意外なほど近く、新緑の衣につつまれて美しく耀いて見える。前日までの雨と今日の強風で、大気中の塵が洗い流され吹き飛ばされたのだろう。

 ↓ 鐘撞堂山山頂

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 ↓ 外秩父 北武蔵の山々 

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 鐘撞堂山からはいったん円良田集落を目指して下る。途中の峠状のところに今も現役の炭焼き窯があった。

 ↓ こんな感じ 

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 ↓ 現役の炭焼き窯 

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 円良田集落から道路わきの最初の指導票に導かれて左に入る。すぐに左右に分かれるが、そこに指導票はない。右か、左か。右を選ぶとすぐに最奥の二三軒の廃屋。あれっ?と思いつつ、もう一歩踏み出すと、目の前を狸が通過した。そこは竹林だったところを前年に伐採したようで、竹は生えていないが筍ばかりが生えている。上を伐っても根は生きていて、今年生えてきたのだ。などと考えながら進んで行くと、路は次第に踏跡へと変わり、それがいつしか怪しくなってくる。ああ、やはりあの分岐は左だったのか、それとも狸に化かされたのかと思いつつも、この踏跡は何とかうまいこと稜線まで続いているのではないかと甘い期待にすがって引き返さない自分がいる。人はそうやって遭難するのである。やがて当然のように藪に突入。地面を横に這う藤蔓をかいくぐるのは厄介である。ヤバい、ヤバいと汗だくになる頃、かすかな獣道を見つけた。それを慎重に辿ればあっけなく、左手の支稜に乗ることができた。かすかにかつて人が歩いていたようにも思われる尾根だ。少なくとも歩く分には差し支えない。やれやれである。ありがとう、狸さん。ほっと一息入れる。反省すべきではあるが、しょせんたかがしれた藪こぎ、その逆境を楽しんでいる自分もいる。

 その支稜を少し登ればなんの苦もなく正規のハイキングコースに出れた。そこから一投足で337mの虎ヶ丘城址(資料では亀ヶ岡城となっているものもあったが、ここでは現地での表示に従う)に到着。13:05。小さな館というか、砦が置かれるに充分な広さである。ここの前後の尾根には二三層の空堀の遺構と思われる地形があった。

 ↓ 虎ヶ丘城址 

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 鐘撞堂山を出て以来、人に合わない。ここまで足を延ばす人は少ないのだろう。以後も気持の良いなだらかな尾根が続く。防火帯かと思わせるような幅広い路が長く続くところもあった。そうしたところには敷石のような、秩父青石と呼ばれる緑泥片岩の露頭が多く見られた。この石のスレート状に加工できる性質を利用して作られた「板碑(または板石卒塔婆)」と呼ばれる石碑が檜原や青梅周辺でいくつか発見されている。その色合いや彫りこまれた梵字などの様相と相まって、ちょっと趣のあるものだが、それらは鎌倉から室町前期にこの長瀞付近で作られ、はるばる青梅や檜原まで山を越えて運ばれたものである。下山の時に通過した地元の集落では、いつの頃のものかわからないが、墓地にいくつか見受けられた。比較的近年まで使われていたのかもしれない。

 馬頭観音のある大槻峠をへて(13:30)、稜線上の舗装道路を渡ればほどなく陣見山山頂(531m)。

 ↓ 大槻峠 秩父青石に彫られた馬頭観音の年記は安永9年(1780年)  

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 ↓ 途中で見かけた不思議な三角点 コンクリートのふたの下に埋められているのか?

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 ↓ 味気なき陣見山山頂f:id:sosaian:20160501143657j:plain

 

ここは残念ながらテレビ埼玉の施設が設置された植林帯の中のまことに味気ないところ。写真を一枚撮って早々に通過する。この少し前頃から心配だった右股関節が痛み出してきていた。まだなんとか歩ける。時間的にも余裕はあるが、予定していた雨乞山や不動山まではちょっと辛い。残念だが、今日は充分堪能した。きりの良い次の榎峠から降りることにした。

 ↓ 榎峠の看板

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 榎峠には林道が上がってきている。あまり突っ込む気にもならないが、「長瀞八景 ~『間瀬峠と陣見山のビューライン』と命名しましょう」という看板があった。峠からは痛みたがる股関節をだましだまし下り、1時間ほどで秩父鉄道樋口駅に着いた(16:20)。

 

 ↓ 下山途中から見る521m峰 やさしい風情 ここもちょっと登ってみたい

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 股関節痛はともかく、意外にも、予想以上に楽しめた今日のルートの余韻にひたりながら帰途に着いた。

 

 そしてこの後、おまけがある。17時少し前に着いたJR寄居駅のホームで時刻表を見ると八高線は何と1時間以上無い。ゲッ、まさかと思ってスマホの「駅すぱあと」で検索すると17:01発がある。何だ、あるではないか???と思いつつ待っていたが、やはり来ない。ちょうどその時間、向こうのホームを出発する電車があったのをボンヤリ眺めていた。窓口で「駅すぱあと」画面を見せて聞いたら、何と寄居駅にはJRと秩父鉄道以外に東上線も乗り入れていて、ちゃんとその東上線の時間が表示されていたのだった。すみません、そんなこと知らなくて、「駅すぱあと」を使い慣れていなくて。

 仕方がない。駅員に断って煙草を吸いに、いったん外に出た。さて、と、幸か不幸か目の前に赤ちょうちんがある。当然、一杯、二杯とビールを重ねる仕儀とあいなってしまったのであった。その最中に教え子のイトキン嬢から一年振りのメールが届いた。飲み会のお誘い。明日30日も5月2日も飲む予定が入っている。「では1日に」と。もちろん「了解」と返信したのであった。

 

コースタイム】 2016.4.29

桜沢駅10:00~八幡神社10:15~八幡山10:30~鐘撞堂山330.2m11:30~円良田集落~道を失う・藪こぎ~支尾根上12:40~虎ヶ丘城址337m13:05~大槻峠13:30~陣見山531m~榎峠15:20~樋口駅16:20

                         (記:2016.5.1)

 

筍を掘る! 

 四月、春たけなわ。「四月は残酷な月だ」と歌った詩人もいたが、つまりそれは裏返しの生命力の祝歌(ほぎうた)である。

 ↓ わが家の枝垂桜 清楚にしてあでやか

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 ↓ アトリエから見るNさん宅の八重桜 物狂おしく、妖しきほどに濃厚

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 ↓ 同上 この過剰なまでの豊穣

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 生命力―花。多くの花がいっせいに彩美しく咲くというのは、考えてみれば不思議な話だ。かくして花は形而上学的な思いへともいざなってくれるが、もう一つ、より多く形而下的な喜びに寄与してくれるのが、春の山菜や野草食である。

 

 蕗の薹にはじまり、土筆、甘草、野蒜、コゴミ。いずれも庭先やごく近所で自採りするもの。山葵の新芽は檜原の友達からもらった。ワラビの自生地は知っているが、今年はスーパーで購入。イタドリとタラの芽は、今年は採りそこなった。まあ、いい。ほんの少し、二三回で良いのだ。ただ自分の食べる分だけ採り、シンプルに季節を食すのである。おすそ分けなんかしない。必要以上に採るから自生地が消滅するのだ。コシアブラ、ウルイ、シドケ、ユキザサ、根曲竹などの山地性のものは、もはやなかなか手にすることができない。

 しかしなんといってもこの美しき季節に燦然と輝くもの、それは自採りの筍(孟宗竹)である。まあ、ふつう山菜とは言わないが。

 

 縁あってここ五日市に住むようになって以来、お付き合いさせていただいている隣家のNさんの敷地に竹林がある。その半ばを占める沢床に向かう斜面は、数年前に残土捨て場(?)~造成予定地として売却され、その後何らかの事情で放置されているから、正確にはNさんの土地ではないのだが、Nさんにとっては頑として「俺んちの筍」であるらしい。Nさんは今年89歳。根っからの地の人。かつて五日市が山村と呼ばれるにふさわしかった時代から、農業と山仕事をなりわいとしてこられた人である。そのNさんも寄る年波には勝てず、ここ数年は私が許可をえて、採らせてもらっているのである。

 筍掘りといっても、栽培農家でのそれと違って、ここでのやり方は別にそう難しいものではない。とは言え、ほんの少しだが一部急斜面の登降があり、また採ったあとの重い(けっこう半端ではない)筍を担ぎあげるアルバイトもある。しかし、こうした山仕事的な作業はお手の物、どちらかと言えば、好きなのだ。

 服装は汚れてもかまわないもの、つまりアトリエでの制作用の格好そのまま。足回りは重要で、長靴でもよいが、やはり登山用の靴は信頼できる。そして採った筍を詰め込んで一気に担ぎあげる50~70ℓ程度の山ザックと、汗止め用の手拭。

 ↓ いざ出陣 本日は長靴着用

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 何といっても一番重要なのが、鍬である。これはNさんの使い込んだそれを、毎回借用させてもらっている。いわゆる打ち鍬というやつだろうか。調べてみたらなんと「筍掘り鍬」というのがあった!まさにこれである。柄の長さは1m弱。斜面登降の際には、これを逆に持って、ピッケルのようにして使うと便利。

 竹林の上の方の平らなところはNさんやその親族が掘れるように手をつけず、私が掘るのは急斜面を下った下の方。そこは暗くやわらかい腐葉土層の斜面という立地条件もあって、技術的には(慣れれば)簡単だ。

 ↓ 上部は写真で見るより急傾斜 鍬をピッケル代わりに下る

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 あちこちに10~30㎝も顔を出した筍の、谷側(下側)の根元の落葉、腐葉土を少し掘って、出てきた湾曲部の外側の白い部分に狙いを定め(一二度素振りをして)、足場をかため、一気にザクっと打ちこみ、そのままテコの原理でグイッと引き起こせば、きれいにポロリととれる。一丁上がり。

 ↓ ドヤ!

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 今年二度目の今回は、撮影役として女房を同伴したのだが、最初の一つが採れると以後皮むきに専念したようで、肝心の、鍬で一撃!のシーンを撮っていない。まったく何のために同伴したのか。

 

 まあ、だいたいそんな感じである。

 採ってからは皮をむき(廃棄率60~70%)、あく抜き用に米糠を入れてゆでる。わが家では圧力釜を使用しているが、普通の鍋でもかまわない。

 ↓ ドヤ!

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 ↓ さて、皮むき

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 ↓ むけばこんなもの

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いろいろな食べ方があるだろうが、私はシンプルに昆布+鰹だしで、鶏肉か豚肉(牛肉でも可)と一緒に醤油で煮るのが一番好み。他にも、バタ焼き、味噌炒め、サラダ、中華風、汁の実、スパゲッティや焼きそばの具と、色々できる。なお冷凍にすると、やはり味は一段落ちる。保存用に、細切りにして干して見たこともあったが、戻しがうまくいかず、これは今のところ失敗。やはり、採ってから間をおかず食べるのが一番うまい。むろん作るのはすべて女房である。

 よくまだ地面から顔を出す前のものを朝方に掘って、穂先を刺身でという食べ方もあるが、それはまあ専門栽培農家の料亭用だろう。私流は結構大きくなったものが好きなので、そうした食べ方は向かない。実際、そう美味いものでもない。やはり筍なんてそんな上品なものではなく、ガンガン採ってゴンゴン田舎っぽくシンプルに食べるのが一番美味いと思う。

 そう言えば同じ筍でも、私は孟宗以外の真竹などの細いものも好きだ。中でも雪国の根曲竹(地竹という言い方をするところもある)の採りたてのものの味は、確かに一ランク以上、美味い。以前に残雪から初夏の越後や会津の山を歩いていた頃、よく採っては焚火に放り込んで焼いて食べたものだが、あれは確かに絶品であった。だが、それも今は昔。

 ↓ 参考画像 ネマガリタケ

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 今年はどうやら筍は豊作のようだ。日々の裏山歩きでも、その感はある。ただし近年の手入れをしないせいか、広がっていく一方の竹林を見ると、肝心の筍の姿があまり見えない。かわりに無数の掘り返した跡がある。猪である。猪も今年は喜んでいるらしい。竹林はその領域を広げようとして、その外側、人の生活圏にも筍を生やすのだが、不思議なことにそれらは取り残されている。猪も人間を警戒するらしい。ちなみにNさんの竹林は山からちょっと離れていることもあって、被害をまぬがれている。

 五日市に住んで20年近くなるが、私の家の周りでも、新しく住宅や建物がずいぶんと増えており、その分、空き地や山林が減ってきている。私の筍掘りもいつまで可能か、予断を許さない。願わくば、猪と共存しつつも、何よりもNさんが少しでも長く健康であられんことを!

 ↓ 今夜の食卓。こういうのを出すのはあまり好きではないのだが、せっかく作ってくれたことだし。

中央:●筍と牛肉の煮もの その上、●シラスのソテー 以下時計回りに●アジフライ+千切りキャベツ ノラボウ菜(五日市特産の地野菜)のおひたし 寝かせ玄米ご飯 餃子とニラのスープ 独活+ニンニク味噌とマヨネーズだれ その左にチラッと見えているのは●山形の三五八漬け ビールは当然発泡酒 (今日はちょっとつまみが少ない) 女房よ、いつも美味しいものをありがとう。

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                         (記:2016.4.27)

『国会議事堂・四季山水画壁画』の謎 

 某月某日、安保法制施行の日、国会議事堂を見学に行った。私と国会議事堂-われながら似合わない組み合わせだとは思うが。

 外側の正門前では多くの人が抗議行動を行っている。私の居るべき場所はあちら側ではないのか。

 

 ここ数年、高校時代の同期で月に一度飲食を楽しむ集まりに、義理堅く出席している。そのメンバーの一人の勤務先が、国会議事堂だか衆議院だかなのだ。彼女Sさんもこの三月いっぱいで一応定年退職との由(ただし再任用とかで、勤務日数を減らしてもう少し現在の仕事を続けられるらしい)。お疲れ様でした。まずはめでたいことである。そしてそのあと、誰しもが20年前後の残された、人としての年月を生きることになるのだ。しかしそれはまあ、また別の話。

 その話題になった時、ふと、彼女がまだ勤めている間に一度見学に行こうではないかという話になった。平日にもかかわらず、賛同者が数名いた。物好きというか、好奇心旺盛なことである。

 国会議事堂には行ったことがない。東京タワーもスカイツリーもディズニーランドも行ったことはない。それらに行くことはおそらく一生ないと思うが、別に差し支えはない。国会議事堂も皇居も同様である、と思っていたが、昨年、国会前のデモに初めて参加して国会議事堂に対峙した時、その国会議事堂という建造物が妙に抽象的な迫力をもって見えたのである。国会議事堂とは一個の具体的建築であるにとどまらぬ、国家や歴史や民族などといった様々な意味においての、制度性そのものの実体化であることは言うまでもない。デモの側に立ち、シュプレヒコールをあげながら眼差すその先に、それは強固な幻影のように「きたなくしろく澱」んで建っていた。

   ↓ 昨2015年9月14日 戦争法反対のデモに参加している武蔵美有志の会の幟。芸大有志の会もこの日、幟を立てて参加していたようだが、場所が違ったせいか確認できず。

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  ↓ 眼差す先に「きたなくしろく澱むもの」。建築史的にはドイツのノイエザッハリッヒカイト(新即物主義)やナチス建築との関連が気になる。

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 当日11時に衆議院会館前で待ち合わせ。警官が異様に多く、煙草もすえない。案内は、これも奇遇だが高校同期のN君。議員秘書という立場である。県民性といったことは、私はあまり信用していないのだが、思いおこせば、私の高校の同期同窓には自衛隊防衛庁関係やら自民党関係やらの人間がけっこう多い。

 合流後、なぜかとりあえず敷地内の吉野家で全員、店舗限定とやらの牛重のランチ(味は可もなく不可もなし)をとってから見学に出発。

 内部のことについては、個々の感想はあるが、まあ、おおむね省略。一言だけ言えば、思っていたより質素というか、簡素な印象だった。1918年大正7年)にデザインが公募され、翌に選ばれた宮内省技手の案を参考にしつつデザインを大幅に変更して、大蔵省臨時議院建築局が実際の設計を行ったとのこと。途中いろいろあったようだが、着工から17年後の1936年(昭和11年)完成したとのことである(内容はウィキペディア等に拠る)。ほぼ100年前のデザイン・設計思想だから、現代の目からすれば質素簡素に見えるのも当然と言えば当然かもしれない。

 

 私が取り上げたいのは、議事堂内の絵、中でも中央広間の上部壁面にある4点の壁画についてである。

 ちなみに「壁画」というと「=フレスコ」と思う人がいるが、「フレスコ」とは、生乾き(=フレッシュ=フレスコ)の漆喰壁に水溶きした顔料で直接描いたものを言う。一般の絵画と異なり、「絵具」に固着剤は含まれず、顔料が漆喰壁に直接沁み込み、壁と一体化することで発色する。ヨーロッパの古い教会等の壁画は=フレスコでほぼ間違いないとしても、現代では、まして気候風土の異なる日本ではほとんど建築の壁面に施されることはない。あくまで「壁画=(フレスコ以外の技法で)壁に描かれた絵」か、「壁画=壁面いっぱいに設置されたキャンバス絵画」、ということである。議事堂のそれは遠望ながら、一見して油絵である。つまりおそらくは変形のキャンバスに描いたものを完成後、壁に設置したのだろう。

 写真を撮ることはできなかったので、帰宅後ネットで検索したらすぐに見つかった。さっそくこの欄に載せようとしてよく見たら下段に「著作権について」とあり、「ホームページに掲載している写真等の画像については、無断で転載・複製することはできません。写真等の画像を使用したい場合は、webmaster@sangiin.go.jpへお問い合わせください。」とある。なんだかなあ~、である。法的なことはわからない。かつて必要あって著作権に関する本を一冊読んだことがあり、今回もざっと調べては見たが、要するにわからない。だが、何となく得心がいかない。勝手に載せようかとも思ったが、しかしまあ、お上を相手に何かあっても分が悪いのは明らか。画像自体は「国会議事堂案内 写真集」

 http://www.sangiin.go.jp/japanese/taiken/gijidou/ph/ph23.html で簡単に見れるからまずはぜひそちらで見ていただきたい。しかし、何だかなあ゛あ゛あ゛~~。

 

 それはさておき、絵柄としては「壁面四隅に日本の春夏秋冬を描いた4枚の油絵の絵画がある。それぞれ、春の吉野山、夏の十和田湖、秋の奥日光、冬の日本アルプスをイメージして描いたもの(ウィキペディア)」である。そして「いずれも高名な画家によるものではなく、画学生の作品である」と続く。

 まずネットの画像を見ていただきたい。なんせここに画像は載せられないのである(現地でもらった『国会 衆議院へようこそ』というパンフレットの5ページ目にちらっとその一部が出ているが、小さすぎて参考にならない)。はたして日本の風景に見えるだろうか。私にはどう見ても堂々としたヨーロッパの、フランス、イタリアあたりのそれにしか見えない。アリバイとして日本の各地に取材しながら、それを透して描いているのはヨーロッパの風景、といった趣。画風としてはヨーロッパ世紀末絵画あるいは象徴派風といった感じである。だがそれはそれとして、何よりも意外だったのは、それらがけっこうしっかりした良い絵だったことである。

 

 日本における世紀末絵画あるいは象徴派絵画、そしてそれらと同時期のアールヌーボー等の受容移入については、ヨーロッパのそれとほぼ並行して行われるも、作品として一定の成果を見たのは主としてグラフィックの分野であった。

 絵画においては藤島武二(1867-1943)、青木繁(1982-1911)、小杉未醒(放庵 1881-1964)等に見られるような影響はあったものの、主流とはならなかった。したがってこの壁画に見られるような、堂々とした象徴派風絵画作品を、あまり目にすることはないのである。恥ずかしながら、私は今回実見するまでこの絵の存在を知らなかった。また不勉強のため、これに触れた文献も知らない。

   ↓ 藤島武二 左:「天平の面影」 右:「蝶」

  *掲載図版は本稿の内容と必ずしも合致するものとは限りません

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   ↓ 青木繁武二 左:「天平時代」 右:「わだつみのいろこの宮」

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   ↓ 小杉未醒 左:「一本杉」 右:「水郷」

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 ともあれ問題は、「いずれも高名な画家によるものではなく、画学生の作品である」の一文である。国会議事堂という、まさに国を代表する建築物に描かれた壁画の作者について、単にこれだけの記述しかなされていないというのは、異様である。「画学生の作品である」というが、画風、画格からすれば明らかに力量ある「高名な画家」の構想・指導によるものであり、それは一種の工房制作だと言うこともできる。そうした場合、その工房の主宰者の名を出すのは当然のことである。ルーベンスであれ、ボッティチェルリであれ、そう扱われている。したがって、ここでその画家の名を出さないこと自体が異例なのである。そして「画学生の作品」という言葉から推測すれば、おそらく「高名な画家」の指導・監督のもとに、その指導下にあった複数の「画学生」に実際の制作を担わせたという構図がすぐに思い浮かぶ。

 

 ではその「高名な画家」は誰かと言えば、これは簡単で、1918年のデザイン公募から1936年の完成までの間、ずっと東京美術学校で指導に当たっていた黒田清輝-藤島武二のライン以外には考えられない。藤島は黒田清輝(1866-1924)とともに1896年(明治29年)の西洋画科創設以来、昭和18年の死に至るまで指導に当たっていた。黒田は1924年(大正13年)に死去している。壁画がどの段階で依頼されたのかわからないが、東京美術学校(現東京藝術大学)は西洋画を教える当時の日本で唯一の官学であった。

 ちなみに、西洋画を教える私学として最初の女子美術学校が創立されたのが明治33年、武蔵野美術大学の前身、帝国美術学校が創立されたのが昭和4年であるが、前者は女子のみであり、また後者の昭和4年創立というのは時代的にも、また共に私学であるという性格からも、本作とのかかわりは考えにくい。何よりも官立の美術家養成機関としての東京美術学校と国家や宮中との結びつきの強さに代表される、その存在理由からして、それ以外は考えられないのである。

   ↓ 黒田清輝 「智・感・情」

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 ちなみにこの小論を書くに際して、美術とは関係のない二三の友人に話をしたところ、当然のように「東京美術学校東京藝術大学は国民の税金で運営されているのだから、国の仕事をする、国に奉仕する芸術家を養成するのが当然ではないか」といった反応が返ってきて、驚いた。戦前ならばともかくの、あるいは大学や学問の自主性・独立性といった観点をすっ飛ばして今に生きる「芸大=国立お抱え芸術家養成機関」という認識が一般社会の中で今なお健在であることを知り、めまいを覚えたのである。他の分野であれば、いかに国立大学とは言え、そうした反応はありえないだろう。しかし昨今の東京オリンピック新エンブレム選定に際し、東京藝術大学学長から文化庁長官に転じた宮田元学長の言説等を聞くと、そうした体質がいっこうに変わることなく、脈々と、むしろ誇り高く受け継がれていることを知り、暗澹たる気持ちになるのである。

 

 関連して、東京美術学校は官学だから当然アカデミックであろうと思われがちだが、その場合のアカデミズムはあくまで日本的アカデミズムと言うべきものである。

 黒田・藤島=東京美術学校系譜の前に1876年(明治9年)創立の工部美術学校が存在し、イタリアのフォンタネージ(画家としては黒田の師事したラファエル・コラン同様、純粋なアカデミストとは言えないが)によるヨーロッパアカデミズムの移入の試みがあったが、わずか15年後の1883年に廃校となるにおよび、日本における西洋アカデミズムの移入は中断された。その後、工部美術学校出身者を中心に組織された明治美術会が「旧派・脂(やに)派≒ヨーロッパアカデミズム」と呼ばれ、後の黒田らの白馬会の「新派・外光派・紫派≒日本的アカデミズム」に取って代わられたのは必然である。そもそも、日本におけるアカデミズムは時間差を伴う二重構造を成して出発したということなのだ。

 黒田がフランスで師事したラファエル・コランの画風は、印象派象徴主義の影響を受けた外光派とよばれるフランスアカデミズムとの折衷主義とされる。本国では半ば忘れられた画家であり、作品に確かに甘いところはあるが、私は嫌いではない。黒田とは一歳違いであっても留学は18年後の藤島武二の師フェルナン・コルモンやカロリス・デュランについて、私の知るところは極めて少ないが、フェルナン・コルモンはアカデミストではあっても新しい動向に対して寛容であったとのことである。何よりも20世紀を迎え「反官展を旗じるしにして創設されたサロン・ドートンヌに拠るフォーヴィストたち、マティスブラマンクらの活発な動きにも無関心ではなかった(『日本の美術10 明治の洋画』至文堂p.74)」のである。

 つまり日本的アカデミズムとは、その出発点において、黒田・藤島の留学体験に裏打ちされることによって、ヨーロッパ古典主義(フランスアカデミズム)と象徴主義印象派およびそれ以降の新しい動向との折衷として始まったのである。したがって、黒田と藤島の帰国後にもそうした折々の新しい動向との親和性は担保されており、その延長上に藤島や青木繁の浪漫主義も存在する。そして黒田や藤島が長くリードした日本の美術界においては、以後の様々な海外の新しい動向も意外なほどにスムーズに受容され続ける体質が形成されたのである。 

 ただし、当時の日本社会においては、そうした世紀末絵画や象徴主義の本格的な作品が生み出される土壌も必然性も余裕もなく、それ自体としては、いくつかの個人的な佳作をのぞいて短命に終わらざるをえなかった。ただし、そこで播かれた種子は、ほぼ同時に移入されたアールヌーボーを橋口五葉(1881-1921)などがグラフィックの分野において消化することを経て、竹久夢二(1884-1934)等による矮小ではあるが、日本的な開花を見せ、以後第二次大戦に至るまでの短い期間、独自の展開と結実を見せるのである。

  ↓ 橋口五葉

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  ↓ 竹久夢二

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 話を戻す。

 壁画制作の依頼が国からいつ来たのかわからないが、デザインが完成した1919年(大正8年)の時点で組み込まれていたとすれば、黒田はまだ存命中である。むしろ黒田が最初の依頼を受け、その死後、藤島がそれを引き継いだという可能性は高い。黒田と藤島は同郷、一歳違いのほぼ親分子分あるいは同志といってよい間柄である。フランス留学という経歴も共通している。画家としての同時代的困難も共通のものであったろう。それゆえに帰国後の風土歴史の異なる日本においては充分には開花しきれなかった彼らの若き日の象徴派的世界の実現を、壁画制作の依頼によって共有して夢見たのではなかろうか。

 藤島は晩年に宮内庁から昭和天皇即位を祝い学問所を飾る油彩画制作と、宮中花蔭亭を飾る壁面添付作品の制作の2つを依嘱されていた。それをきっかけに日本各地に取材し、風景画への関心が深まったとされることも傍証となるだろうが、何よりも本作に見られるある種のロマンチシズムは、藤島のそれとかなり共通したものを持っているのである。そこにはまた、黒田がかの地で体験したであろう象徴派との類似も、見てとることができる。

 これらの点から本作を構想し、主導したのは黒田清輝―藤島武二のラインであり、わけても黒田の死の時期を考えれば、実質的には藤島武二であったと結論付けることができよう。

 

 次の問題、「画学生」とは誰か。

 画学生とあるからには、本作の制作当時美術学校に在籍していた、つまり昭和11年以前の卒業生であると仮定してみる。「画学生」としか記されていないから、一人と読むこともできるが、この場合やはり複数いたと考えるのが自然だろう。

 試みに手元にある『杜 杜の会 会員名簿 平成16年版』(東京藝術大学美術学部同窓会 発行)を見てみる。いわゆる同窓会名簿、卒業生名簿である。

 さて、私はその名簿から何を読み取れば良いのか。毎年40名前後記された当時の卒業生たちの氏名を漠然と眺めてみる。意外にというべきか、当然というべきか、知っている名前、つまり、後年画家として名を残こした人の、数の少なさに愕然とするのである。

 とりあえず、該当すると思われる年次の、私が画家として多少なりとも知っている人の名を以下に書き出してみる。

 昭和7年卒 石川滋彦

 昭和8年卒 角浩

 昭和9年卒 西村計雄 川端実 山川勇一郎 佐々木孔

 昭和10年卒 井出宣通 

 昭和11年卒 香月泰男 寺田春弌 

 昭和12年卒 松田正平    

 他は、さっぱり知らない人ばかり。全て故人である。死屍累々の点鬼簿といおうか。まあ、美校卒、芸大卒だからといって後世に名を残す画家になれるのはほんの一握りなどということは、とっくに承知のことだから、どうと言うことはないが。

 

 いずれにしても本作にたずさわった「画学生」の探索は、卒業生名簿をひもといてみても何もわからないということだ。仮に上に挙げた人の誰かが本作にかかわったとしても、後にそれぞれ画家として確立した画風は、そのおりおりでの現代風のもので、世紀末風、象徴派風とは無縁である。むろん、上記以外の学生がかかわった可能性はある。むしろ高い。

 東京藝大はその性格からして、従来から迎賓館をはじめ、あちこちの修復事業にかかわっており、私の知っているだけでも、何人かの知り合いが学生時代に体験したことがあると言う。学生にとってはアルバイトの要素もあろうが、何よりもその技術がなければ声もかからぬのであるから、やりがいもあるかもしれない。しかしそうした経歴と、画家として大成する、あるいは画業を継続するということは、直接は関係のない話である。またそうした修復事業の場合は、一職人一技術者としての学生の名はどこにも記されないのが普通かもしれない。だが、本作は性格が大きく違う。当然その名が残されてしかるべき創作的事業である。『芸大100年史』とでもいったものがあって(おそらくあるとは思うが)、それでも見れば記載されているかもしれないが、遺憾ながら私は見たことがない。

 

 それにしても、やはり不思議である。一国の象徴たる国会議事堂の正面広場(それは最も晴れがましい場所である)の壁画の、作者名も正式な題名もわからないということが。そんな国がほかにあるだろうか。それともどこかには記録が残されているにもかかわらず、単に求められないから公表されていないという程度の話なのだろうか。

 本作は、質の高さからいっても、かなりの重要性と面白さを持つ作品である。また美術史的観点からも、稀有とは言わぬまでも、かなり珍しい部類の作品であることは間違いない。にもかかわらず、私はこんな良い絵、美術史的にも価値のある作品が、こんなところにあることを、今回まで知らなかった。不勉強と言われればそれまでだが、今まで見た、読んだ本、資料で見たことがないのである。美術史的にはほぼ黙殺されている。それがこの『国会議事堂・四季山水図壁画』なのである。

 

 おそらく主宰者であったと思われる藤島武二の名前が、表に出ない理由とでもいうものが、あるのだろうか。それともそれは、単なる無関心の結果にすぎないのだろうか。だとすればそれは、議事堂を拠点とする日本の政治家たちの文化に対する無関心の現れであり、美術関係者、わけても美術史家の無関心の現れでもあると言えよう。民衆はその力量に見合った政府しか持つ事ができないという論があるが、それに則って言えば、吾々は自国の国会議事堂の壁画にも関心を持たない程度の文化しか持ち合わせていない国民なのであろうか。

 

 ともあれ、壁画の完成を1936年(昭和11年)として、既に80年たっている。制作した当時の画学生も1910年前後の生まれだから、共同制作にしてもほとんどの方が亡くなられているはず。画家の手から離れ美術館に入っている作品でも、著作権は確か制作者にあるはず。国会議事堂が堂々と主張している以上、まさか法的な手落ちがあろうとも思えないが、現物でもHP上でも一般に公開しているものを「画像については、無断で転載・複製することはできません。写真等の画像を使用したい場合は、webmaster@sangiin.go.jpへお問い合わせください。」としているのは文化的な手落ちであると言いたい。今日世界中の美術館の多くですら、写真撮影はOKとなっている。したがって、少なくとも、もっと親切であってよい。なぜならば、国会議事堂にある絵は全ての国民のものだからである。

 本作はもっと広く世に知らしめてよいというか、知らしめるべき作品である。それが図版一つ自由に引用転載できないという現実。こうしたエアポケットのような体験を、誰に八つ当たりすればよいのか。むろん私はイチャモンと承知しつつ書いているのである。

 

 付け加えれば、本作は発色の面から見て、保存状態は良い。比較的最近修復されたのではなかろうかと思われるが、にもかかわらず、「秋の図」には何ヶ所か剥落跡ではないかと思われる複数の白い点が見える。そうだとすれば、緊急の対応が必要と思われる。この点でも問題を提起しておきたい。

  

 蛇足と承知しつつもう一点。『国会議事堂・四季山水図』以外にも議事堂内にはあちこちに現代の作家の作品がかけられている。日本画では大山忠作(日展)、上村淳之(創画会)等、洋画では中山忠彦(←やや記憶が曖昧 日展)、奥谷博(独立)等である。他にもいくつかあったが、その時はさほどの興味も持たずにその前を通過した。通過したのは私が知らない作家、魅力を感じない作品が多かったせいもあるが、それらの多くは節電のためか照明も当てられておらず、照明が当てられているものも、なんとも的をえない当てられ方であったせいでもある。

 絵はかけられているが、しかるべき照明もちゃんと当てられていないということ。この点でも国会議事堂という日本を代表する場において、文化(絵画作品)に対する関心見識のなさを、おのずからさらけ出していると言えるのである。

 

追記

 この一文は実見後、比較的短時間で書いた。論文のつもりではないから、検証性において不十分な点が多いことは自覚している。そのため、内容について、実際には私の無知からくる過ちや誤解が含まれているかもしれないことは予想できる。もし、作者やその経緯等について御存知の方がおられたらぜひ御教示願いたい。

                         (記:2016.4.17)

カモシカとご対面 笹子から大沢山・大洞山・笹子峠へ (2016年4月6日)

 

 またしても中一ヶ月空いてしまった。ブログのことではない。いやブログもそうだが、山のことである。ここまで確実に月一のペース。しかし、もう何も言うまい。ともあれ一ヶ月ぶりに登ってきたのだ。

 

 ルートは、ここのところポピュラーなところが続いたが、日もだいぶ長くなってきたことだし、前から気になっていた、ちょっとマイナーな健脚コースにした。駅から歩き始めるのでバスの時間を気にする必要はないが、少しだけ気合いを入れて5:30に目覚まし時計をセットした。ところが何としたことか、鳴ったのは6:30。一時間間違えてセットしてしまったのである。その瞬間、もう今日は中止しようかという思いが頭をよぎった。起床時点で早くも前途多難である。しかしおかげで、いつもよりは少し多めの睡眠をとることができ、行動していてもだいぶ楽だった。やはり前夜の睡眠は重要だ。

 

 笹子駅着9:40。登り口となる追分の神社めざして歩き始める。飲み水は500ccほど持参してきたが、もう一本自販機で買おうと探しながら歩くが、結局買い損ねた。これが第二の蹉跌。今日一日500ccですごさなければならない。まあ~、何とかなるか。

 登り口にあたる追分の神社めざして歩きながら、その最初の分岐を見落としたようだ。それに気づかず進むと、指導標がある。それに導かれるまま歩くと、予期せぬ「追分トンネル」の入り口に着いた。そんなもの、手持ちの2.5万図には出ていない(ザックに入れてある「山と高原」地図には出ていたが、この時点では気づかず)。ままよとトンネルを抜ければそのまま沢沿いに清八峠に向かう道。右から左に大きく迂回して元に戻るのを嫌って、トンネルの出口から左へ、道はないがかすかな踏み跡らしきものを辿って何とか、神社からの正規の尾根道に乗ることができた。30分ぐらいはロスしたか。第三の蹉跌。いよいよ前途多難かと思われたが、以後は、いたって順調と言えば順調。特に問題もなく歩けた。

  ↓ 北東尾根上からの大沢山

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 大沢山の北東尾根の半ばは植林帯だが、明るく、また適度な傾斜が続き、歩きやすい。この尾根を含めて、今回のルートは全体が従来いわゆる篤志家向きとされ、『新ハイキング』や一部の単行本に載ることはあっても、ガイドブック類にはほとんど載っていないと思う。国土地理院の地形図にも破線は記載されていない。まあそうはいっても、最近の「山と高原」地図には破線ではあっても記載されているし、実際現地には新しい指導標が設置されているのだから、だいぶ一般的にはなっているようだ。かつての「秘境ルート」や「篤志家ルート」が事実上「一般ルート」化するなど、登山コースの変遷、流行りすたりと言うものは確かにある。だが近辺の三つ峠山や大菩薩嶺に比べればまだまだ静かなものである。

 

  ↓ こんな感じ。新緑は未だし。頂上間近

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  ↓ 気持の良い大沢山山頂

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 大沢山1460mはこじんまりとした、気持の良い山頂。富士山も見えるが左半分は雲の中。曇天のせいで妙に平板に見える。

 惜しいことに先行者が一人休んでいた。笹子駅着6時台の電車で、中尾根をへて来てこれから下山だという。早いですねと言ったら、遅いですね、と言われた。ふだんより5時間早く起きても、登山開始が3時間以上遅いというこの現実。早立ち早着は登山の原則ではあるが、このいかんともしがたい私の現実。まあ、良い。天気予報を見て日を選び、明るいうちに人里に下りられれば良しというのが、最近の私の計画の基本である。ヘッデンも非常食もレスキューシートもお守り代わりに常にザックに入れてある。若干後ろめたい感もあるが、充分安全には気を使っている。夕闇とともに山里の集落を歩くというのも、捨てがたい味がある。それが私の流儀なのだ。しかしそうはいっても、充分睡眠をとった上で早く登り始めるのが一番良いことにかわりはない。私にとって永遠の課題である。

 

 大沢山山頂から主稜線を辿る。スッキリとした尾根はときおり細くなり、多少のアップダウンを繰りかえす。何ヶ所かの小さな崩壊地も問題はない。ヤブが深いと言われているあたりも数年前の笹枯れのせいか、問題なし。ほとんどが広葉樹の自然林で気持がよい。惜しむらくは新緑にはまだ早すぎたということ。そして晴れのはずだった天気がやや曇りがちで、その分風景に立体感がなく、冴えがないということである。まったく美とは光であると、あらためて思う。

 

  ↓ 細い尾根のアップダウン

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  ↓ 大洞山への稜線とその奥、達沢山方面を望むf:id:sosaian:20160407211524j:plain

  ↓ イワカガミ(たぶん)の群落 花の時期はきれいだろう

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  ↓ 少し陽がさしてきた。

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 ともあれ、思っていた以上に気持の良い尾根をマイペースで快適に進む。ボッコの頭をすぎれば摺針峠。一部不鮮明と言われているが、右に笹子方面への新しい指導標もある。なんといっても一カ月ぶりの山行。太ももはすでに疲れきっている。修行から苦行の域に達している。ショートカットするならここが最適なのだが、気合いを入れ直して進む。大洞山は広くやはり気持の良い山頂。カヤノ木平まで来れば先が見えてきた。

  ↓ 大洞山山頂

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 中尾根の頭1290m圏とおぼしきところで中尾根へ下る路を確認し、少し進むと「中尾根の頭1278m」の標識がある。「中尾根の」というからには、支稜である中尾根が主稜線に突きあげた地点でなければならないはずが、そこから離れた、とあるピークに設置されているのである。地形図に独立標高点が記されているからであろうが、これは設置者の読み違い。こうしたことはときおり見かけることだが、おそらく今後も訂正されることはないだろう。

  ↓ 右下は崩壊地。根の大半は空中にありながらも踏ん張っている。

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  ↓ こちらは必死にしがみついている

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  ↓ 宿り木。常緑ゆえに北欧などでは生命の象徴とされる。落っこちていた薄黄緑色の実を口にしてみたら、かすかに甘かった。種子を包む果肉は異様に粘り気が強く、吐き出そうとしてしても口内にくっついて、なかなか離れない。なるほど。この実を食べた鳥が木の枝にとまって糞をし、その粘り気によって木にくっついて繁殖していくという仕組みに、納得がいった。

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 そこから先も細い尾根は気持よく続き、笹子峠に17:20に降り立った。この古い歴史を秘めた峠もほぼその役割を終え、今は静かにたたずんでいるだけである。この頃になって私は、若干計画に抜かりがあったことに気がついた。つまり峠でほぼ山行は終了、後はゆっくり駅まで1時間程度歩けばよいと、漠然と思っていたのである。しかしよくよくコースタイムを見れば駅まで2時間以上となっているではないか。暗くなるのは避けられない。

  ↓ 笹子峠 在りし日の面影やいまいずこ

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   ↓ 見返ればなんとささやかな笹子峠 

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 まあ仕方がない。ゆっくり行くさと車道に出て、ふと進行方向を見たら、20mほど先に何かいる。熊?犬?大型猟犬?猪ではない、鹿でもないが、何か大きなものがいる。

   ↓  20mほどさきに獣!

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  じっと動かない。まさかいたずらで犬のオブジェを置いた?しかし私はそっちへ進まなければならない。足元に落ちていた枯れ枝をそっと拾い上げる。しかし何の役にも立たないほど枯れ切っている。とりあえず、生き物かどうか確かめるためにその枯れ枝で傍らのガードレールをゴンゴン叩いてみる。動かない。少し落ち着いてきた。今度は威嚇のために大声を張り上げながら少しずつ近づいてみる。「うりゃ~!わあぉう~!ぎゃ~!」。こちらをゆっくりと見た。やはり生き物だ。獣だ。逃げ出してくれ~。その時、一瞬閃いた。これはどこかで体験したことがある。まさか、カモシカ

 以前、積雪期に越後や奥利根などの山によく行っていた頃、特別天然記念物ニホンカモシカにはよく出会った。カモシカを猟銃なしで仕留める法というのを、聞いたのだったか、読んだのだったか。カモシカはたいへん好奇心の強い生き物で、人と出くわすと、立ち止まってじっとこちらを見ている。そこで白い手ぬぐいでも何でも頭上でひらひらさせながら踊りながら近づいていっても、まだ見ている。間際まで近づいて、そっと引き抜いた腰の鉈を振り上げて眉間に一撃、というものである。ほんまかいなと思いつつも、実際彼らはずいぶん近づいてもなかなか逃げようとはしない。しかし私の見たカモシカは積雪期だったせいか、白っぽい、灰色っぽいやつらだったが、今目の前にいるのはかなり黒い。あるはずの角も見えない。しかしやはりどうやら猟犬ではなく、熊でなく猪でもないのだから、カモシカなのだろう。カメラを取り出してズームで見ると、私の知っているカモシカとは若干印象が異なるが、確かにカモシカだ。角もある。手にしていた枯れ枝を捨て、汗止めに巻いていた手拭を頭の上でヒラヒラさせながらゆっくりと近づいてみる。5mぐらい近づいたところで、迷惑そうに、ゆっくりと動き出した。「あ~っ、もうちょっと待って、カモシカさん!」と実際に口に出しながら再びカメラを構えると、撮影の間、めんどくさそうに待っていてくれた。そしてゆっくりと、名残惜しそうに去って行ったのである。

   ↓  撮影のあいだ待っていてくれた。よく見れば角もある。距離5mほど。

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   ↓  声をかけたら最後にもう一度振り向いてくれた。よく見れば爺さん顔。しかしお尻を見ればやはり熊のようだ。

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 上信越、南会津以外の、奥秩父奥多摩カモシカを見たのは一二度あるかないか。それもチラッとぐらいのもので、写真を撮ったのは初めてである。あらためて写真を見てみると、どこか人間臭い表情だ。例えれば、「昔、山の上の方に一人で住んでいたけどいつの間にかいなくなっちゃたお爺さんがカモシカに転生して現れた」みたいな感じだった。

 一瞬の恐怖からほのぼのとした喜びへ。そんな感情に浸りながら、薄暗くなった旧甲州街道を辿る。名所「矢立の杉」もすぐ傍を通りながら、あまりの疲れで割愛し、すっかり暗くなったころ、ようやく駅に辿り着いた。

 度重なる蹉跌にも関わらず、振返って見れば、しみじみとした良い山、良いコース、良い山行であった。

   ↓ 赤線が歩いたルート

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                         (記 2016.4.7)

コースタイム

笹子駅9:40~大沢山北東尾根10:25~大沢山(女坂山)1460m 13:15~ボッコノ頭1445.9m14:20~摺針峠15:05~大洞山1402.6m15:40~カヤノ木平15:55~中尾根の頭16:40~笹子峠17:20~笹子駅19:05

百蔵山から扇山へ(2016年3月1日)

 「月に二回の山行」という年度目標は、一月二月を通じて、早くも崩壊しつつある。

 しかし、「12ヵ月×2回=年間24回」と読み替えれば、何の、まだ充分可能性はある、ということで気を取り直して、百蔵山から扇山へと歩いてきた。

 百蔵山と扇山はその位置が良い。中央線下り列車が四方津、梁川を過ぎ、鳥沢、猿橋に至ると右手北側に連なって、なかなか立派な姿を見せる。二つの山は連なってはいるが、それぞれそれなりに独立した山容で、一瞬こんな良い山があったっけ?と思わせる。

 ただしそれゆえに昔からポピュラーな山であり、ハイキングコースとして今なお人気がある。駅から歩いて登れるのも魅力である。たしか愚息も高校山岳部で登ったことがあるはず。しかしその人気ゆえに、私自身は長い間あまり食指をそそられなかった。だが最近、上野原、大月、笹子周辺の山を歩いていると、次第にその近辺では登っていない山がなくなってくる。その赤線の空白部にこの百蔵山と扇山があるのだから、そろそろ登らないわけにはいかない。

 

 弥生三月一日、例によって4時間睡眠で7時半に自宅を出る。猿橋駅9:45着。バス便もあるが、のんびり歩く。

  ↓ 鳥沢駅のホームから見る左、百蔵山、右、扇山。

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 桂川を渡って奈良子川の手前の高速道路の下に道祖神、馬頭観音等の石仏がまとめて置かれている。以前あちこちに在ったものを、区画整理(?)でここに集められたもの。こうしたものは持ち去られて骨董屋に並ぶこともけっこう多かったのである。甲斐、相模は石仏の多いところだが、中でもここ桂川一帯は丸石神信仰も含めて、特に多いところだ。なかなか良い味わいだ。別の場所では金神様(=金精≒石マラ)もあった。これはちょっと珍しい。

 

  ↓ 石仏群像。

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 ↓ 日輪月輪のある山王権現が好きです。下は三猿。

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 戸並入口のバス停から山へ向かうが、欲しい所に指導標がなく、福泉寺の墓地に迷い込み、若干のタイムロス。正規ルートに戻り、しばらく舗装された林道を歩く。それを嫌って左から合流する細いがよく踏まれている路に入ってみるが、これは間もなく猪よけの柵で囲まれた林間の畑に辿り着いてしまった。またしても若干のロス。今日は勘が悪いか?元の舗装林道に戻り、少し行けば、何のことはない。指導標がある。笹藪の中を過ぎれば、あとはよく踏まれた歩きやすい路。坦々と歩く。その坦々がハーハーとなり、ゼーゼーとなり、ヒーヒーとなる頃に一本というペース。やはり中三週間近く空くと、きつい。この尾根、なぜか倒木が多い。

 11:45金毘羅宮着。見れば中には真っ赤なペンキ塗り(?)の不動明王。手前に白面の小仏像が何体か鎮座しておわす。あれ?金毘羅って海の神で本来はガンジス河の鰐(日本では蛇体)ではなかったっけ?帰宅後確認してみると、「神仏習合の神であり、本地仏不動明王毘沙門天十一面観音など諸説ある(Wiki)」との由。ああ、そうですか。作は正式の仏師のものとも思えないが、素人にしてはなかなか上手に作られている。白面の小仏像もちょっといい味を出している。

 

 ↓ 金毘羅宮。手前の小仏像五体は地蔵か?

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 金毘羅宮から少しばかりの急登を終えれば、なだらかな尾根筋となり、歩きやすい道が続く。この山稜は広葉樹と植林の針葉樹と合いまった林相だが、比較的広葉樹が多いのがうれしい。針葉樹も珍しく松の木が多いためか、わりと明るい印象である。少しぐらいはあって欲しいと思っていた雪は全く無い。

 ↓ こんな感じ

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大同山907mをすぎれば(12:35)ほどなく百蔵山山頂1003.4mに着いた。おお、ここは一応1000mを越えていたのか。やはり1000mを越えていると、ちょっとうれしい。

 

 ↓ 百蔵山山頂

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 ここも例の「秀麗富嶽十二景」の一つ。確かに美しい。でもこの時期としてはちょっと雪が少ないような気もする。

 

 ↓ 今月の富士山。正面が吉田大沢。その昔40年前の11月の末にあそこを登ったのだ。

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 百蔵山からは、直下の急下降以外は、おおむねなだらかな登降が続く。

 ↓ こんな感じ

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 ↓ 途中で見かけたオブジェ。タイトル「よじれともたれ」

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北側には茫洋と大きな、巨大な鯨のような権現山から麻生山への山稜が横たわっている。これも今年登りたい山のひとつである。久保山をすぎればほどなく広い扇山山頂1137.5mに着いた(15:30)。

 ↓ 扇山山頂

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 ↓ 扇山山頂より北面の権現山方面

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 百蔵山もここ扇山も、有名な割には山頂は思っていたほどは荒廃していない。ぎりぎりオーバーユース手前といった感じで、少し救われる思いがする。

 ただし一つだけ不快なことがあった。それはここにもあった「秀麗富嶽十二景」の解説パネルに記された(刻みこまれた)落書きである。一つの山頂に従来からの山名表示板と「山梨百名山」の山名表示板が既にあるところに、さらに「秀麗富嶽十二景」の山名表示板とその解説パネル(写真・解説付)が設置されているというのは、やはり美しくない。多すぎる。確かに私も「秀麗富嶽十二景」については、一部その意義を認めつつも、ある意味では批判的である。これについては、以前に本ブログで書いた(「地下足袋をはいて登った奈良倉山+おまけの大白沢」)。しかしだからといってこの写真に見られる行為はいただけない。記された個人名はどういう関係なのか、どういういきさつがあったのかわからないが、明らかに卑劣な個人攻撃である。記された個人への怨恨というよりも、おそらく行政当局による「秀麗富嶽十二景」に対しての不満なのではないかと想像されるが、なんとも嫌な感じである。

 

 ↓ 問題の解説パネル

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 たしかに山中にこうした写真入りやイラスト入りの解説パネルが設置されていることはままある。そしてそれらの多くが数年と経たないうちに劣化して、例えば判読不能な、景観を汚すだけの不快なゴミとなっているケースは多い。耐用年数のすぎたこうした設置物は当初の設置者が撤去してほしいと思うのは私だけではあるまい。写真下部には判読しづらいが「ごみ自分でもちかえれ」と記されている。

 

 そんな人間世界の汚濁をよそに、富士はすでにその姿の大半を翳りの裡に沈めようとしている。

 

 ↓ 今月の富士山 その2 「人間世界の汚濁をよそに、富士はすでにその姿の大半を翳りの裡に沈めようとしている」

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 15分ほどして下山にうつる。犬目丸から萩ノ丸をへて大野貯水池まで足を延ばしたいところではあるが、時間の事もあり、ここは予定どおり素直に山谷への路を選ぶ。午後遅い陽を受けた、桂川対岸の高畑山から高柄山への山並がじつに美しかった。日本ならではの穏やかな美しさである。

 

 ↓ 美しい日本 右、高畑山

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途中で「女六夜」と読める石碑を見かけた。「女六夜」とは聞いたことがない。女ではなく廿の異体字で「廿(二十)六夜」と読むのか?それなら月待ち講=二十六夜待ち講でわかるが。この近くには二十六夜山という名の山が二つあるが、さて実際はどうなのだろうか。気になる。

 ↓ 「女六夜」?「廿(二十)六夜」?

 

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 下山は特に問題もなく、山谷集落に16:37に着いた。通りがかりのおじさんにあいさつがてら駅への道を尋ねると、「ずいぶん遅い時間だねえ」と言われた。そうか、俺はやはり普通の登山者と比べても行動時刻が遅いのかと、今さらながら思うが、仕方がない。「朝が苦手なので時差登山してます。おかげで人とあまり会わなくて静かに歩けます。」と答えたら、笑っていた。笑いながら、丁寧に近道と絶好の富士のビューポイント(時刻が遅すぎるらしい)と御自慢らしい寒桜(季節が少し早すぎるらしい)並木の所在を教えてくれた。それぞれ良かったです。ありがとう。あとは小一時間鳥沢駅まで歩くだけだ。

 

 ↓ 今月の富士山 その3 おじさんおすすめのビューポイントより

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 という感じで、今回の山行は終了した。出会ったのは単独行三名と二人パーティ一組、計五人。

 百蔵山、扇山は悪い山ではない。むしろ良い山だといっても良いのだが、なんとなくとらえどころのない、茫洋とした、個性の薄い山、といった印象が残る。まあ、それがこの山の個性だと言うこともできるだろうが。

 【追記】

 帰宅後、何となく調べていたら以下のような記述があった。

「山の名と近隣の地名から、桃太郎伝説がある。隣の山の扇山のふもとに犬目集落(上野原市)があり、桂川沿いに鳥沢集落、猿橋集落がある。仲間をそろえた桃太郎は、九鬼山に鬼退治に出かけた、というもの。」(ウィキペディア「百蔵山 桃太郎伝説」)

 ちなみにこの鬼は近くの岩殿山に住んでいたという話もある。

 例によって典拠が示されていないから伝説の存在自体を信じようもない。ホンマカイナというのが実感ではあるが、まあまあよくできた話だなとは思う。             

                          (記2016.3.2)

 コースタイム

猿橋駅9:45~戸並入口バス停10:25~(一部ルートミス)~金毘羅宮11:45~大同山(907m)12:35~百蔵山(1003.4m)12:55~扇山(1137.5m)15:30-45~山谷集落16:37~鳥沢駅17:25

葛藤と挫折の果ての馬頭刈山 (2016.2.11)

 例によって例のごとし。

 山に行きたいのに、行けない。山に行くべきなのに、行かない。

 この葛藤というか、二律背反、あるいはダブルバインディングについては、自分でもよくわからない。説明できない。遠足に行きたくない子が、遠足の前夜あるいは当日の朝にお腹が痛くなるというのは、わかる。だが私の場合は行きたいのにお腹が痛くなるのである。

 しかし、その葛藤の構造についてはわかる。意識と身体、もっといえば感性としての身体がかみ合わないというか、分裂しているということなのだ。意識とは吾であり、身体も吾であり、感性もまた吾である。だがこの三者は必ずしも一体のものではない。したがって、ある局面において、対立し反発するということも起きる。その結果、上記のような、行きたいのに行けないといいう事態が発生する。

 以上が今回の山行の、まことに個人的な背景である。

 

 この葛藤分裂のゆえに、これに先立って二つのプランをのがしたというか、止めた。前日10日の計画が、前回の高川山の時の第一候補だった百蔵山~扇山。すっかり準備をしていたにもかかわらず、前夜酒を飲みつつ、中止にした。翌日になって苦し紛れに思いついた、そんなに朝早く起きなくてすむ、近場の入山尾根~今熊山(これも一応懸案のルートではあるが)に決めた。このルートは自宅から自転車でのアプローチとなるのだが、下山後自転車を回収に行く必要がある。その説明を女房にしていると、彼女の予定は昼過ぎから檜原村泉沢のHさん宅で歌の練習だという。女房はここ一二年、女3人でモモンガーズというコーラスグループを結成して、あちこち小さなライブ等に出演しているのだ。なかなか楽しそうである。まあ、それはいい。

 その内の一人Hさんが檜原村泉沢の最奥に住んでおり、そこは馬頭刈尾根の馬頭刈山の直下といっていい位置なのである。馬頭刈山にはこれまで二度登った。大岳山から行った最初の時に、地形図やガイドブックには出ていない、泉沢に降りるルート標識が二つあることを知った(このうちの泉沢の東側の尾根は泉沢尾根という名前で2014年版の「山と高原地図」には記載されている)。またそれとは別にもう一つ、泉沢の西側の尾根にも破線路が古い資料に記載されているのを知った。二度目に行ったのは8月の暑い盛りに茅倉から千足尾根を登り、泉沢尾根を下った。下って最初に出会うのが、前記のHさんの家なのである。あと二つ泉沢からのルートが残っていることになるが、特に面白いとも思えず、食指は動かない。

 だが不毛な葛藤をくりかえし疲れるよりも、アプローチの不便な入山尾根よりも、入下山共に送り迎え付きの泉沢周辺の方が今回は良いだろう、ということで急遽そちらに変更することにした。前から約束していた、Hさんの引越の準備の手伝いという名目もあることだし。

 

 いつもと同じく朝11時に起床し、近所にすむもう一人のメンバーMさんをピックアップして泉沢に向かう。途中の神社の前で降ろしてもらう。貴布祢伊龍神社(きふねいりゅうじんじゃ)という由緒ありそうな名前だが、貴布祢=貴船であり、それに明治四十四年に払沢の滝入り口にあった伊龍神社を合祀したとの由。社殿の右手が小さな滝になっており、すぐ奥には大きな磐座(磐倉・岩倉・いわくら)があり、それなりに風情はある。あとでよく読もうと、由緒書き等を撮影していたら急にカメラが動かなくなった。壊れた?困ったもんだがどうにもならない。以後スマホで撮影。

 神社の裏手の道を辿り、沢沿いの最後の人家の脇から山道に入る。雪はない。道形はしっかりしているが、やや荒れている。ほどなく一軒の廃屋があらわれる。道形がしっかりしっかりしていたのはこのせいかと思い至る。さらにそこから少し登るとさらにもう一軒の廃屋(?)。こちらは玄関が開いており、遠目ではそんなに廃屋といった感じはしない。手持ちの2万5千図(平成7年9月現地調査)を見たら、その二軒の建物記号がしっかり記載されていた。廃屋というものに特有の風情とともに、ちょっと感動する。

 ↓ 廃屋その1

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 ↓ 廃屋その2 まさか住んでいないよね。

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 その先あたりから道は不明瞭となるが、藪こぎというほどもなく、方向を見定めて歩きやすいところを選んで登ってゆくとほどなく茅倉尾根の支稜に上がった。植林帯の何の変哲もないところである。以後、馬頭刈尾根主稜線に出るまで徹頭徹尾、植林帯。風情も面白みもほぼゼロ。確かにガイドブックには載せようもないわなと思う。しかしまあ全くつまらないかと言えば、そうでもない。天気が良いせいもあって、植林帯特有の垂直のパラレリズムを味わいながら坦々と登る。茅倉尾根の主稜線に出るあたりから雪が出始め、以後上部ではほとんど雪の上を歩く。

 ↓ 茅倉尾根の支陵に上がったところ。下にもうっすらと踏み跡が続いている。

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 ↓ 茅倉尾根 垂直のパラレリズム

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 ようやく植林帯から抜けて、馬頭刈尾根に15:05に出た。ここは文献によっては鶴脚山916mとなっているが、何の標識もない。「山と高原地図」では北西に少し行った先の、ややこしいことにこれも916mのピークが鶴脚山となっている。まあどちらでもよい。ともあれ、多少なりとも展望がきくというのは気分が良い。馬頭刈尾根は人気ルートだけに入山者はけっこういるようで、雪道はしっかり踏み固められている。さっそく先日購入した軽アイゼンを装着してみる。なるほど、なかなか良い感じだ。この季節、やはり持っていると安心だろう。

 ↓ 馬頭刈尾根 

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 ↓ 馬頭刈山山頂 左大岳山 

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 馬頭刈山山頂着15:40。884m。北西には馬頭刈尾根にとどまらぬ奥多摩の盟主、大岳山が堂々と佇んでいる。 

 ↓ 馬頭刈山山頂から盟主大岳山遠望

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 馬頭刈山山頂着15:40。884m。北西には馬頭刈尾根にとどまらぬ奥多摩の盟だが山頂も三度目ともなると特段の感慨もない。写真だけ撮ってさっさと下山にかかる。いったん手前の鞍部まで引きかえし、指導標に従って泉沢に向けて下りはじめる。道は沢沿いに下るものと思っていたら、山腹のトラバースが続く。このままでは登りに使った茅倉尾根に合流してしまうのではと不安になるころ、ようやく支稜を下るようになり、ほどなく泉沢沿いの道となった。この間やはり全て植林帯。二三の造林小屋を見るのみ。面白みゼロ。堰堤を二つ越えれば人家が見える。その二軒目が目指すHさん宅。飼っている羊の啼き声とモモンガーズの歌声が聞こえてきた。

 予定通り登り2時間下り1時間、休憩を合わせて3時間半のささやかな山登りは終了。意識と身体と感性が合致しない時の、こんな山登りもある。

 ↓ 泉沢集落

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 その後は引越の手伝いとやらも免除されて、女房たちの練習を見物しながら、やがてビールから焼酎へ、さらに場所を変えて夕食をとりながらの酒パート2へと移って行ったのである。

 

コースタイム

貴布祢伊龍神社13:10~茅倉尾根支稜上13:45~茅倉尾根主稜14:00~馬頭刈尾根15:05~馬頭刈山884m15:40~泉沢H宅16:30            (記2016.2.12)