艸砦庵だより

河村正之のページ 絵画・美術、本、山、旅、etc・・・

「小ペン画ギャラリー」その1 とりあえずの(女房が選んだ)3点

 フェイスブックの最近の自分の投稿を見直して見ると、なんだか自然愛好的家的なコンテンツが多い。そういう一面があることは間違いないから、それはそれで構わないのだが、やはり釈然としない。

 

 FBやブログとのつき合い方というか、使い方は、人それぞれであると思うが、正直に言って私は、ブログはともかく、FBとの関係性や距離感のようなものが、いまだにつかめていないのである。さすがに具体的な反応があるということはわかるし、それが少しばかりはうれしいと思うこともある。

 基本的に私は、FBやブログを自分の作品とは限らず、文章を含めた表現の発表の場としてとらえている。ブログで9割、FBで7割程度がそうで、残りは宣伝・広報ないしその他的な場。

 昨年のように個展が2回、グループ展が3回もあれば、その過程でさほど無理もなく、FBに自分の作品や思考を、宣伝・広報と共に、ある程度は上げていくことができる。しかし、今年のように、今のところ確定的な個展の予定もないとなると、その流れがちょっと難しい。ましてや昨今のコロナウィルスによる自粛ムードの蔓延する世の中。

 といって、(あくまで私にとっての感覚であるが)割と多くの作家がやっているような、あまり脈絡や必然性を感じさせない作品やコメントの出し方も、好みではない―むろん、人それぞれなのではあるが。元々宣伝も営業もする気はないのだが、やはり絵描きである自分が作品をあまり登場させないのも面白くない。

 

 そんな気分から、前段として先日、「『小ペン画―その小さな世界』について」をブログに投稿した。最近の制作の中心となっている「小ペン画」についての、といってもその周辺についてのあれこれである。その延長というか展開として、これから何回か「小ペン画ギャラリー」とでもいった感じで、何点かずつアップしていこうと思う。もとより確固とした予定や計画があるわけではない。自分で面白がりたいだけである。

 必然性と言いながら、第一回目だけは、作品のセレクトを女房にやってもらった。他者の目で選んでもらうところからスタートしたかったからである。おそらく今回に関しては、作品どうしの関連性といったようなものはないと思う。女房好み、ということだろう。いずれ今後は、多少の関連したテーマやモチーフということになると思う。

 作品はすべて未発表。ひょっとしたら今年の末か来年にはそれらを中心とした個展をするかもしれないが、今のところ未定である。

 

 以下、作品紹介。

 

 

54 「手から花」

 2019.9.28 11.4×9.6㎝ 膠引きの和紙にペン・インク・色鉛筆

 

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 自分でもよくわからない作品。まあ、そういう「わからなさ」も絵を描く面白さの一つであろうとは思っている。絵柄的にはちょっと面白いかとも思うが、女房がこれを選んだ理由はよくわからない。少し不思議だ。

 

 

77 「石売り花売り」 

 2019.10.11 16×12㎝(中サイズ) 雑紙(淡グレーの封筒)にペン・インク・鉛筆

 

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 紙は小ペン画では珍しく、封筒の紙。いわゆる茶封筒を含めて、多少の色(ハーフトーン)がついている封筒の紙は、イメージ・アイデアスケッチ用には使い勝手がよく、よく使うが、作品用としてはコクが足りず、あまり使うことはないのだが。

 適当に切ったら右下に少しはみだしが出た。手漉き紙などの縁を「耳」と言うが、別の場ではこうした予期せぬ裁断ミスのはみ出しを「福耳」と呼ぶ。

 私は、絵とはキャンバスであれ、紙であれ、「物質」の上に描かれた物であるということを、昔から意識、重視しているので、こうした「耳」はなるべく切り落とさないようにしている。「耳」が紙を「平面」としてだけではなく、物質としての意味も主張してくれるからだ。すなわち「耳」も絵の内。それがこの作品にどの程度貢献しているかどうかはわからないが、少なくとも私はそれがもたらす全体の表情は好きである。

 イメージとしては、アジア的物売りを連想させる。別に実景や写真を参考にしたわけではないが、似たような実景はかつての旅で何度も見た。実際に石(結晶・鉱物)と花などを一緒に売り歩いている商人を見たことがあるわけではないが。

 

 

261 「花の木に佇つ」

 2020.4.16-18 12.9×8.8㎝ ドーサ引きの和紙にペン・インク・水彩

 

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 近作。一瞬視界の隅を通り過ぎた映像の、陶器(?)だったか絵画(?)だったかの絵柄(松?梅?―確認する間もなく、忘れた)の残像が始まり。

 それだけでは絵にはなりようもないが、すかさず、そこに立つ/佇つ人物のイメージが発想/幻視(?)された。一瞬走り描きしてみれば、ガラスのマントの風の又三郎か鳥男かとも思う。しかしそれでは付きすぎ、ありがちだ。そして何者でもない人物になった。

 遠くの街並みと山を組み合わせて風景仕立てとする。空に雲を浮かべるのは初めてか。

 

 

264 「私の赤い繭」

 2020.4.19-20 9.4×8.6㎝ ミャンマー紙(ブーゲンビリア漉込)にペン・インク

 

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 これも近作。

 紙はミャンマーで買った手漉き紙のノートを入れてくれた、いわば包装紙。それも同様の手漉き紙だが、いわゆる民芸紙風に色々な種類の花びらや葉っぱなどを漉き込んである。そうしたものには興味がないのだが、ただ捨てるのは少し惜しい。適当に切って、何となく手元において、そのブーゲンビリアの花びらの赤を見ていたら、ふと、描いて見る気になった。

 この「ふと」が大事なのだ。意識して「生かそう」とすると作為的なものになりがち。その赤い形に見合う形、この場合は顔を描いて見れば、それでイメージは完結する。

 紙にドーサ引きやサイジングはしていない。日本の和紙に比べればかなり雑なつくりなので、丸ペンではきわめて描きにくい。でも丸ペンで描いた。ほんの少し力が入りすぎると、けば立って始末に負えない。慎重にごく短時間で描き終えた。

 「繭」としたが卵でも構わない。なるべく単純に完結したイメージは、私にとっても大切なのだ。

 

 

(記:2020.4.20-21)

「小ペン画―その小さな世界」について

 昨年の6月以来、九カ月以上、「小ペン画」が制作の中心になっている。

 「小ペン画」とは、文字通り縦横10㎝内外の、大きくても20㎝に満たない小さな紙に、主にペンとインクで描く作品。個展や海外旅行などでの中断期間はあるが、それ以外はほぼ一日一点のペースで、現在(4月初め)で250点ほど描いている。

 

 最初に描いたのは昨年(2019年)の6月19日。11.8×7.7㎝のやや厚手の和紙(楮)に、これは例外的に鉛筆と色鉛筆で、一輪挿しに生けた花(ホタルブクロ)を見ながら描いた。

 その前提というか、準備していた必然性のようなものがあったのだが、それについては後ほど述べる。とにかく、その時はおそらく大した意味もなく、何となくといった感じで描き始めた。そして、その出来は全く不本意なものだった。和紙に鉛筆と色鉛筆では、まったく弱い効果しか出せなかった。そもそも、「花」を「見て描く」という必然性は、ほぼ皆無だったのだ。

 

 ↓ 1 「ホタルブクロ」 2019.6.19 11.8×7.7㎝ 和紙に膠 鉛筆・色鉛筆

  不本意な出来。 

なお画像はPCやIパッドで見ると原寸より大きく表示され、タッチが相当荒く見えることがありますが、表示されたサイズを念頭においてご覧いただきますよう、お願いします(作者からのお願い)。 

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 そんな不満な出来なら、ふつうなら捨ててしまい、それ以上同様の制作を続けることはないのだが、なぜか翌日も小さな画面に向かった。紙は前日と同じだが、手にしたのは、今度はペン。インク壺に漬けて使うGペンとかスプーンペンとかといった「つけペン」である。なぜペンを手にしたのか、よく覚えていないが、前日の鉛筆と色鉛筆のあまりの効果の弱さから、反動として、今度はいやおうなしに明確な効果が出そうなペンとインクを手にしてみたということは、あるだろう。

 ペンを手にするのは20代前半以来。ごく短い期間だったが、ある程度集中してペンを使っていたことがある。使いこなせたわけでもないが、割と好きな画材のように思えた。しかしそれ以降はほとんど使う機会も必然性もなく、実質45年ぶりになる。40年以上前に購入したペン先とペン軸もまだ手元にあった。

 ペンと言えば普通はケント紙のような、表面が滑らかな、けば立たない紙を使うのが常道であろう。ドーサ(膠)引きしてあるとはいえ、和紙にペンの組み合わせは、あまり聞かない。案の定、ペン先が引っかかり気味で、描きにくい。

 おまけに今度は描くべき主題というか、モチーフは何も考えていない。モノは見ずに画面に向かう。だが、それはいつものことで、つまりイメージである。なまじモノを見て描こうなどという柄にもない心掛けが、創造的モチベーションを発動させないのは、今さらながら、私という画家にとってはほぼ自明のことなのだ。

 

 ともあれ、その二点目の「ペン画」は、自分としては、少し面白いものになった。何よりも、和紙の質感や風合に、黒いペンのタッチがそれなりの絵画的効果を上げていた。何も考えずに描き出すというのは、やはり良いことだ。

 

 ↓ 2 「遠くを見る」 2019.6.20 11.3×8㎝ 和紙に膠 ペン・インク・鉛筆

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 もとより、何か具体的なイメージを描き表そうとしたものではない。紙の形に呼応して現れた線的・形体的要素は、それ以前から持っていた、いわば手持ちの要素である。そうした直線的、曲線的な形体が現れた後で、何とはなしにといった感じで、中央の人物像が、おさまりよく現れたということなのである。

 内容については、「これはいったい何なのだろう」という疑問は、基本的にはでてこない。自分でもうまく説明できないものが現れるのはいつものことだし、むしろ、そういうものとして、そういう方向で制作するのが私の常態なのだ。でき上った後で、そこに現れたものを味わいながら、それについて考えるということ。

 

 以後、こうした流儀で制作は続いた。「一日一枚」とか決めているわけではない。いつまで続くものやら。嫌になったら、飽きたら、その時はやめればよいと思っていた。

 

 ものを見ないで描くことの限界も訪れる。描き続ければ、おのずと上手くもなるし、慣れも出てくる。とても和紙には使えないと思っていた丸ペンを何とか使いこなせるようになった頃には、その気持ちよさに思わず身をゆだねる時もあった。

 慣れのもたらす退廃感は、部分的であっても嫌なものだが、それもまた己の実力なのだと思い定めれば、手の打ちようもある。

 ものを見ないで描くことをルールに定めたわけでもない。日々の中で、参考資料というほどでもないが、新聞雑誌や、あれこれのチラシ、パンフなどから気になった図版を切り取ってスクラップブックなどにとどめることもある。最近ではネット上で拾ってきた画像をパソコンに保存することもある。テレビを見ながら、チラッと一瞬流れる画像を、手元の紙に描きとどめようと試みることもないではない。時にはそうしたものを、あるいはその一部を参考にして手を動かす。

 

 ↓ 3 「ミニスカートの娘」 2019.6.21 13.3×8.6㎝ 和紙に膠 ペン・インク

 中の人物像は新聞に小さく出ていた図像を参考にした。以下、特別な場合を除き付記しない。

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 そうしたものは、全体の点数の2割ぐらいだろうか。残りの8割ぐらいは何も見ずに描いたものだが、そうしたことにそれほど大きな意味があるとは思わない。現実や実物といったことと、写真やネット上の画像や動画は、多少の自虐を込めて言えば、見ることの対象、イメージのきっかけという意味では、基本的には等価に近いとも思うからである。

 

 ↓ 58 「繭を運ぶ」 2019.9.30  11.4×9.5㎝ 和紙に膠 ペン・インク・色鉛筆・水彩

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 このような「小ペン画」の制作を始め、継続しているのには、いくつかの要因がある。

 一つにはここ何年か断続的に、大学時代の指導教官であった田口安男氏のポストカード大の大量のドローイングを見たことである。いわき市立美術館での個展でも見たし、その後の御自宅でも見、またそれらを膨大に整理・撮影する機会等もあった。そうしたことを通じて、描くということの根源にいやおうなしにふれたような気がしたのである。

 それらの多くは生の(ドーサを引いていない)和紙に、鉛筆や水彩、その他の素材で描かれていた。それらの面白さと凄さに感動した私は、すぐに似たような手法で、自分でもやってみた。だが、悲しいかな、自分自身の必然性とはかみ合うことがないことを、たちまちにして思い知っただけであった。

 

 ロベルト・クートラスを知ったのは2017年5月。日本でも展覧会の開かれたことのある作家だが、私は知らず、実物はいまだに見たことがない。新聞(?)のちょっとした記事を読んで、ある展覧会の図録をネットで買ったのである。それはカルト(日本のカルタと同意)という、トランプと同じような大きさ、形式の紙に、シリーズ的、連作的に描かれた作品群だった。魅力は感じたものの、その世界観はかなり特殊であり、直接の影響を受けることはなかった。しかし、その悲しげでマイナーな世界の魅力には、忘れがたい味があった。

 スタシス・エイドリゲヴィチウスを知ったのは2018年の9月。武蔵野美術大学美術館の展覧会で見た。絵本作家として、そのごく一部は知ってはいたものの、それがスタシスだとは知らずに、美術館で初めてその全貌に接して、感動した。数㎝四方のものでも作品として成立していた。そしてその膨大な量!私もそうした「小さな世界」を描きたいと思った。

 余談として付け加えれば、これは小ペン画を描き出してからのことだが、今年2020年になって、ミナペルホネンの展覧会を見た。その一角に皆川明の同様な小さな作品群があった。

 これらの現象は、私と小ペン画をめぐるシンクロニシティ共時性/非因果的連関の原理)であるように思われてならない。私個人の内面の発動と、外部における共通した事象の併存。それは余談であってもかまわないが。

 

 私が実際に描き出すきっかけを用意したのは、上述した田口先生のアトリエ整理の際に、和紙をはじめとする様々な小さな紙をもらってきたことかもしれない。

 捨てるのも惜しいが、正直言って、ウンザリもする。わざわざもらわずとも、私自身も、一生かかっても使いきれない量の紙類を抱え込んでいるのである。

 作家は日々の制作と並行して、それに関連する無数の材料道具、また資料等を身のまわりに集めてしまう習性を持っている。あるいは、集まってしまうのである。いつか使うだろう、使いたい、使うかもしれないと。だがいつの頃からか、自分の年齢と、抱え込んだ材料道具の量を比較して見て、一生かかっても使いきれないほどのものを持っていることに気づき、がく然とする。

 そのくせ、捨てればすむような小さな材料であっても、できれば有効に活用したいという「もったいながり屋」の自分がいる。小さな「作品」を描きたい、「小さな世界」を正直に描き表したいと思う気持ちは、気がつけば長いあいだ私自身の心の中で息をひそめながらも、確実に存在し、少しずつ大きくなっていたのである。

 

 ある日、アトリエの片隅に置いていたポジフィルム用のファイルに目が行った。以前ポジフィルムを使っていた頃の保管用ファイル。撮影がデジタル化して以降、使い道がなく捨てなければとは思っていたが、未使用だったので、もったいなく、ずるずると捨てかねていたものである。30㎝弱×25㎝弱の、中が四分割されている。それを開いて、ふとひらめいた。そこに入る小さなサイズのものを描けば良いのだ。全ページ分の点数を描けば100点以上。そこまでの数を描くかどうかはわからないが、とりあえずの展望が見えた。

 実は田口先生の作品整理の際に、ほとんどの作品に年記がなく、また何十点かずつ仮まとめはされているのもあったが、全体としてバラバラに存在しており、整理分類するのに困ったのである。

 和紙をはじめとして、紙類は一生かかっても使いきれないぐらいのストックがある。描画材についてもほぼ同様。機は熟したというべきか。

 

 別に、もう一つの要因というか、伏線もあった。40歳をすぎて大学に勤めだして安定収入を得るようになってしばらくたったころから多少、骨董蒐集にハマった。その憑き物が少し落ちた頃、今度は(あまり認めたくはないのだが)仕事上のストレス解消と、大義名分としての資料収集という名目で、ヤフオクを通じての外国切手や外国紙幣、マッチラベル、蔵書票などといった、いわゆる紙モノの蒐集にハマってしまったのである。それらはあくまで私の制作に益する資料材料ではあったはずだが、同時に「紙上の小さな世界」の魅力に開眼したのである。

 「小さな世界」と大作のタブローとの関係については、今ここでは言うまい。というか、私自身、それについて今はまだうまく説明できないのだ。

 ともあれこうした情況が事前の物理的なというか、必然性として「小ペン画」を発動させる下地をつくっていたのである。

 

 ↓ 78 「ダンスを始める」 2019.10.14 11.7×7㎝ 和紙に膠 ペン・インク

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 かくして描画材や技法など、多少の変遷はあるが、今に至るまで小ペン画の制作は飽きもせず続いている。

 それらからタブローへというベクトルもあるかもしれない。それはそれで良い。しかし、正直言って、効率や生産性も、目的性も、計画性も、点数への魅惑も、何も考えていないのである。発表することも、売ることも考えていないし、考えたくもない。たまに家に来るごく少数の知り合いに見せて、いい気になっているだけである。

 どこまで行くのか。「遠くまで行くのだ」と言えれば良いなと、思ってはいるが…。

 

 ところで、つい最近、ある画廊の人と会い、最初は峻拒していたものの、その強い要望もあって、次第にこの「小ペン画」を中心とする個展をやっても良いかなという気になってきた。実際に発表するかどうかは、時期や形式もふくめて、未定である。

 ただ、そうした心境の変化をきっかけにして、小ペン画の位置づけがまだ自分の中での曖昧だったこともあり、考えを整理するために、この一文を記してみた。

 

 ↓ 255 「青の洞窟」 2020.4.2-3 14.6×12.5㎝ 和紙に膠 ペン・インク・水彩

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(付記:私は基本的には、未発表作品は、ブログやFBに画像を投稿しないことにしている。しかし上記の一文を発表するからには、まったく画像を出さないというのも、なんだか不自然な気もする。考えてみれば、基本などというものは、時には変えられることがあるからこそ基本たりうるとも思えるので、今回は適当に何点かの作品画像を上げてみることにした。)

 

                         (記:2020.3.25~4.9)

こんなものを買った

 今日、荷が届いた。昨年暮れに買った植木智佳子さんの「作品」である。

 暮れも押しつまった29日、所用があって都心に出た。そのついでに昔の教え子の植木智佳子さんの個展「物の伏線」の最終日に行った。教え子とはいっても、彼女は日本画研究室だったので、指導教員と指導学生という間柄ではない。たしか大学院修了後、東京都の先生になったように記憶しているが、はっきりとは知らない。まあ、その程度の間柄なのである。ともかく、(たぶん)教員業のかたわら、それなりにコンスタントに制作と発表を続けている。

 会場は茅場町にある「古道具と創作 MAREBITO」という名の、あまりスタンダードとは言えないが、まあ雑貨屋風骨董屋。最近は骨董と現代作家という組み合わせは流行っている。そういうことか。入って見ると、面白そうなモノ(骨董・古道具・ガラクタ)があれこれと置いてあるが、肝心の作品らしきものが見えない。

 ちょっと困っていると、作者の植木さんが、「ここに書(描)いてあるんです」と言って指さす。うん?目を近づけてみると、その器やら古道具やらのどこかしらに、何やら小さな文字で文章らしきものや小さな絵が書(描)かれている。これが今回の彼女の作品だとのこと。

 つまり、彼女の感性で選んだ古道具・モノに直接、おそらくそのモノと照応した彼女の詩的断章が、金泥でかそやかに書(描)きしるされているのだ。それが今回の彼女の表現であり、作品なのだ。なるほど。

 正直言って、その記された断章よりも、モノそのものの表情・魅力の方が見える。しかし、それは当たり前で、モノそのものに、かすかに彼女の想いを目立たないように添わせるというのが、眼目なのだろうから。そう思い至れば納得できる。それが成功しているかどうかは難しい。しかし、それも含めて彼女の表現なのだろうから、こちらはむしろモノそのものの表情・魅力を味わい楽しめば良いのだ。

 そうして見ているといくつも気になるものがある。

 そして買ってしまった。しかも二つ。

 彼女の作品を買ったのか、骨董=モノを買ったのか、自分でも判然としない。いや、正直に言えば、3:7で骨董=モノを買ったのである。

 作者曰く「どちらでも良いんですよ。書(描)いたものなんか消してもらって、モノだけ見てもらっても構わないし」。モノだけ見ても、それが彼女の感性を通して選んだものである以上、それは作家の感性≒表現を買ったのと同等であるということらしい。それは考えてみれば、相当な自信の現れであるとも言えるし、相当な能天気であるとも言えようが、ちょっと煙に巻かれたような、「一本取られちゃったな」みたいな、妙に爽快なやり取りであった。

 

 一つは、見た瞬間圧倒された(?)のであるが、水筒。素材は豚の膀胱。おそらく中国あたりの物ではないかと思う。ボロボロだが、コルクの栓も付いている。フォルムが素晴らしい。半透明の物質感もおもしろい。

 

 ↓ 豚の膀胱で作られた水筒。わずかな半透明感。

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 革製の水筒は世界中どこでもあるから、豚の膀胱のそれがあっても不思議ではないが、初めて見た。いや似たようなものはトルコの博物館あたりで見たことがあったか。そういえば19世紀半ばに金属製のチューブができるまで、油絵具等は豚の膀胱で作った小袋に入れて使用していたのだった。

 肩には「蜂蜜を舌で転がす含まれたそれは喉の奥へゆっくりと落ちてゆく」と金泥で記されている。

 

 ↓ 横には植木さんの詩文(?)

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 もう一つはちろり。「ちろり」と言っても知らない人も多いだろうが、要は酒を温めるための銅や真鍮製の筒型の容器である。これもやはりフォルムが美しいが、特に取っ手の繊細なデザインがおもしろい。

 脇に「こんばんはと天井の遥か上からのジェット音をきく」と、やはり金泥で記されている。

 

 ↓ ちろり。正面に金泥の詩文。

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 ↓ 反対側。取っ手と蓋のつまみの造形が美しい。

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 共にどことなくモランディの絵を思わせるところがある。自ずから在る静謐。

 

 二つの文章は非定型短歌のようにも思われるが、おそらく作者はそんな面倒くさいことはどうでも良いのだろう。こちらも短歌であれ、何であれ、感性の断章として読むことにしよう。

 

 値段は忘れた。むろん私が買えるのだから高くはない。骨董類の場合、買える値段であれば、それがいくらかはあまり問題ではなく、したがって値段もあまり覚えていないのである。二つで3万円台程度だったような気はするが、作品として考えれば安い。

 ともあれ、面白い買い物をしたものだ。

                             (記:2020.1.21)

熊刺しと蜂の子

 久しぶりに熊の刺身を食った。やはり、美味かった!!

 

 正月も終わった一月半ば、教え子のS+Y夫妻が遊びにやってきた。二人は予備校時代の教え子で、美術系大学の出身だが、現在は養蜂業をなりわいとして、富山県を拠点としている。縁あって、彼らの作るハチミツを仲立ちとして、近年付き合いが復活した。ハチミツの方は女房が中心だが、関連して私の方も蜂の子やら、絵画材料としての蜜蝋などを分けてもらうようになった。

 そうした彼らの今回のお土産は、熊の肉!!

 

 ↓ 新鮮な熊肉。赤身と脂身のバランスが美しい。

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 彼ら養蜂業としては、熊さんとはなかなか友好関係は取り結べないようだ。詳しい経緯は知らないが、とにかく富山でも今年は熊の出没が多く、その結果、有害獣駆除の対象とされた熊のおすそ分けが私のところにも回ってきたということなのである。

 

 環境省の令和2年1月7日付の「クマ類の捕獲数(許可捕獲数)について」によると、四国・九州・千葉県をのぞいた北海道・本州で毎年1600~3900頭、平均すると3500頭ぐらいが捕殺されている。昨年令和元年の分は11月暫定値として全国で5424頭とあるから、ここ12年間でずば抜けて多い。これらの数字等についても考察すべき点はあると思うが、本稿の主題からはずれるので、ここではふれない。

 例年捕殺数が多いのは当然ながら北海道(351~827頭)で、次いで東北5県、中でも秋田県が多い(46~793頭)。これはマタギの伝統ということもあるかもしれない。言うまでもないが、北海道はヒグマ、本州ではツキノワグマである。

 東京都でも毎年0~5頭が捕殺されている。ニ三年前におすそ分けしてもらって、初めて刺身で食ったのが、その内の一頭だったわけだ。

 

 私は魚介類は当然、肉類でも可能であれば、まず生=刺身で食ってみたい。料理以前の、味付け加工以前の、それ本来の味を体験してみたいからだ。とはいえ、さすがに熊を刺身で食べる機会はめったにない。私はニ三年前の初体験で、その驚愕すべき美味さを知ったのである。二度目の今回も、食わずにはすまされない。

 むろん、寄生虫等を警戒する女房を筆頭に、周囲からはひんしゅくの嵐である。その視線をはねのけ、かいくぐりして、鹿刺しの、猪刺しの美味さを知ったのだ。いや、猪刺しはそれほどでも美味くはなかったが…。熊も当然、生で食わなければならなかったのである。「フグは食いたし、命は惜しし」ではないが、ジビエなんぞという、こじゃれた都会的美食とは、私は本質的に無縁なのである。

 むろん刺身だったら何でも美味いかというと、そんなことはない。個体そのものの条件、部位、何よりもシメ方と血抜きの仕方、さばき方、そして保存条件によって全然味が変わる。今回の仕留めた猟師は若いが、腕が良く、自信があるとのこと。しかも獲りたての新鮮な肉だ。期待できる。

 

 で、周囲からのひんしゅくもものかは。ニンニク醤油で一口。

 

 ↓ 若干見苦しくてすみません。もともとは公開するつもりがなく撮ったもので…。下、熊刺し、ニンニク醤油。上、蜂の子、塩コショウ・ニンニク・バター・醤油炒め。

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 「!!美味い~~!!」

 ひそかに危惧していた臭みもない。ほんのり、まったりと甘い。赤身と脂肪を同時に嚙みしめるとさらに美味さが増す。他と比べるのも野暮だが、しいて言えば馬肉、それもタテガミと言われる脂肪と赤みを同時に食べるときの美味さに少し似ている。

 S+Y夫妻と女房にも一応すすめてみる。恐る恐る箸を出し、「美味しい!」。しかし、二度三度と箸は出ない。まあ、文化の壁はそれほど高いのである。かつて日本人以外の諸外国の人にとって刺身の味わいが理解できなかったのも、当然である。

 しゃぶしゃぶ(熊しゃぶ!)から、鍋でも食ってみた。もちろん美味いが、熊でなければという必然性は特にない。

 

 ↓ 熊鍋。

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 途中で思いついて一応写真に撮っておいた。SNSで上げる気はなかったが、後で見るとその内の一枚に偶然だが、蜂の子(の塩コショウ・バター・ニンニク・醤油炒め)も写っていた。それを見て、この一文を書いてみる気になった。

 蜂の子はこれまで何回か送ってもらったのだが、巣から蜂の子を取り出すのが実に面倒くさいのである。おそらくよく一般的に「蜂の子」として売られている「地蜂=黒スズメバチ」のそれより、かなり面倒なように思われる。

 養蜂業者としては、蜂の子を、年間のある時期に作業過程として、巣ごと大量に廃棄するらしいのだが、私のためにごく一部を送ってくれるのだ。最初の時に巣から蜂の子を取り出すのに苦労して(その時の事は以前ブログにアップ済)以来、巣から取り出したものを送ってくれていたのだが、考えてみれば申しわけなかったことである。私にとって面倒くさいことは、彼等にとっても面倒くさいということに、思いが至らなかった。

 ともあれ昨秋に蜂の子を送ってくれた時に、一部巣入りのものが混ざっていた。面倒くさいが、それを処理せねばならない。

 さんざん経験済みだが、ほかのやり方も思いつかず、前回のやり方を再度試みてみる。まず自然解凍させたものを一つ一つ箸またはピンセットで取り出す。ああ、らちが明かない。あっという間にテーブルは悲惨な状態になり、即そのやり方は放棄。しかたなく、これも前回経験済みの茹でる方式に切り替える。これがどういうわけか、前回と違ってスムーズにいった。

 小鍋にお湯を沸かして、その中に蜂の子入りの巣をぶち込む。

 

 ↓ 巣が溶けた状態。黄色いのは巣の主成分の蜜蝋(ビーズワックス)。ここから一つ一つ箸でつまみ上げる。

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 すぐに巣は溶け、幼虫が浮き上がってくる。それを箸でつまみ上げる。幼虫には薄い透明な膜に覆われているので、それをピンセットでそっと破り、中の幼虫だけをつまみ出す。以下、これを延々と繰り返すだけである。

 

 ↓ 幼虫はは薄い透明な膜で覆われている。

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 ↓ 指でつまんでそっとピンセットで膜を取り除く。

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 慣れてくれば作業はスムーズにはかどる。前回は溶けた巣の蜜蝋がまとわりついたりして苦労したが、今回はそんなこともない。どこでどのように苦労したのか不思議だ。あるいは今回は一回での量が少なかったからかもしれない。

 

 ↓ プリプリしてかわいい。

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 ↓ こちらは巣の残骸、黄色いのが蜜蝋。それ以外は植物の繊維。蜜蝋も再利用できそうだが、いくらでも入手できるので、まあいいか。

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 茹でる=煮るといことで多少風味が落ちるようにも思えるが、薄い透明な膜に覆われているため、そのエキスは煮だされないものと思う。いずれにしても、これが手間はかかるが、最も簡単なやり方である。

 取り出したものはタッパーや瓶に入れて冷凍。調理は私の場合、一番簡単な塩コショウ・バター・ニンニク・醤油炒め。未来食品としての昆虫食のことはさておき、完全栄養食品なのだ。わずかに臭みはあるが、命の美味しい味がする。パスタに入れたり、蜂の子ご飯にしても良いと聞くが、なんせ女房が食べないので、まだ一人分を実行する機会が持てなくている。

 

 補足しておけば、熊刺しについてはニンニク醤油、生姜醤油が臭み消しもあって有効だろうが、むろん、山葵醤油でもお好みしだい。

 寄生虫云々に関しては、確かに鹿や猪については警戒すべきだが、そうした意味では熊も同様であり、決して人に勧めるわけにはいかない。一般常識としては、火を通して食べるべきであろう。食べて不調をきたしても、責任の取りようがない。したがって本稿はあくまで私個人の美味探求報告と思っていただきたい。

 なお、熊肉、蜂の子以外にも、天然のヒラタケ、手作りのカブラ寿司・・・もいただいた。どれも美味しかった。ありがとう!! 

                           (記:2020.1.15)

養老渓谷 小逍遥

 先日20日、所用があって千葉県いすみ市に行った。御宿に一泊後の帰途、帰りがけの駄賃に養老渓谷を再訪。九月の台風の影響で一部通行止めの個所(梅ヶ瀬渓谷は全面通行禁止)があったが、弘文洞跡や粟又滝などを見た。

 

 房総半島の房総丘陵は最高峰が愛宕山408.2mで、300m前後の尾根すじと沢が、穏やかにではあるが複雑に錯綜し、軟弱な泥岩層の地質に由来する地形と、山上集落や人々の暮らしから生まれた「川廻し(蛇行した河川の流路をトンネルや切り通しを通るように変更・短絡化し、旧河道を水田化させた工事/ウィキペディア)地形」などの、独特の面白みのある山域を形作っている。

 私はこの山域のそうした表情が好きで、主に冬に沢登りで何度か訪れた。今回はほんの小さな逍遥ではあったが、久しぶりの房総の沢の景観を楽しむことができた。

                              (記:2019.12.24)

 

 ↓ 弘文洞に至る「二重トンネル」。最近新聞に掲載されてにわかにインスタ映えスポットとして有名になったらしい。

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  ↓ ここの開口部ぶよって「二重」が成立する。手前は手掘り(?)の跡をとどめているが、奥は人口の壁材が設置されている。

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   ↓ 弘文洞跡。かつての川廻し地形が崩落したもの。詳しくは次の解説板を参照。

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   ↓ 解説板。

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    ↓ 粟又の滝(別名養老の滝)。軟弱な泥岩質の地層がゆるやかに浸食されてナメ滝となった。

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  ↓ 滝壺というか、釜から見る。右から支流が入っているように見えるが、浸食され残された岩によって流れが二分されている。二分している岩は遠からず浸食されて消滅し、一つの流れになるだろう。

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秌韻・外覧会-3 久しぶりの金地テンペラ3点

 金地テンペラ(黄金背景テンペラ)は私の制作の出発点の一つであり、長くこだわってきた技法である。しかし、その制作上、技術上の様々な制約と、志向する表現方法のギャップが大きくなり、ここ20年ほどは描いていなかった。数年前にちょっとしたきっかけがあって、また描いてみる気になった。

 20年も間が空くと、さまざまな技術面を、腕は辛うじて憶えているものの、頭の方はだいぶ忘れていた。それもまあ、いいだろう。

 

 この3点は珍しく具体的な体験がモチーフとなっている。2016年の岩手県の南昌山(作品タイトルでは「南晶山」としてある)登山である。

 小学生の頃から愛読していた宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に出てくる銀河ステーションの発想のもととなったのがこの南昌山の山頂だという説を、地元の研究者が出した『童話「銀河鉄道の夜」の舞台は矢巾・南昌山』(松本隆 ツーワンライフ 2010年)で読んで、登り、あえて頂上で一泊してみたのである(詳しくは、ブログ「艸砦庵だより」の「宮沢賢治ゆかりの山―1 『銀河鉄道の夜』の舞台、南昌山」 http://sosaian.hatenablog.com/entry/2016/07/21/012128 を参照してください。)

 黄金背景テンペラと言えば、本来の彩色は卵黄テンペラとほぼ決まっているが、日本の気候風土では保存上の難しさがあり、本作では最下層の彩色以外は、樹脂テンペラ(卵黄+卵白+ダンマル樹脂+ヴェネツィアテレピンバルサム+リンシードオイル)と、多く油彩を使用。その結果、テンペラらしさ、卵黄テンペラの最大の魅力であるわずかな半透明感は失われたが、絵柄的にはこれはこれでという仕上がりになったと思う。

 いずれにしても久しぶりに使っみたた金箔には、やはり強い魅力を感じた。手元にはまだ何点か分の材料は残っている。あいかわらず使いこなすには難しい素材、技法であるが、何とか手元に在る分だけは制作してみたいと思う。

 

 

『天気輪の柱』

(F10 2016-2019 パネルに麻布・石膏地、卵黄テンペラ、樹脂テンペラ、油彩、金箔、鉛薄板)

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 南昌山の山頂にあったのは石造のいくつかの苔むした獅子頭と、麓の幣の滝あたりから持ち上げられたと思われる何本かの柱状節理の石材。それらが置かれている詳しい経緯などは不明だが、賢治はそれらの存在をきっかけにして「天気輪の柱」を発想したのだろう。

 左右の人物には特定の意味はない。したがって、どのようにでも解釈可能。

 完成近くなってから気がついたのだが、遠景は、翌日登った準平原北上山地のように見える。

 

 

『(カムパネルラと)』

(2016-2019 パネルに麻布・石膏地、卵黄テンペラ、樹脂テンペラ、油彩、金箔、鉛薄板)

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 カムパネルラはジョバンニにともに銀河鉄道で旅する少年。とくに彼を描こうとしたわけではないのだが、構成上、人物を入れてみたら、ジョバンニではなく、カムパネルラであるように見えてきた。

 カムパネルラのモデルは、従来早世した妹のトシであると言われているが、前述の松本隆氏は、やはり早世した一年先輩の藤原健次郎であるという説を唱えられている。それなりに説得力のある説だ。しかし、そもそも創作物のモデルは、必ずしも一人、一つであるとは限らないから、カムパネルラには両者の要素が併存していても無理はない。少年でもあり、少女でもある存在。

 ちなみにカムパネルラ(≒カンパニュラ/Campanula)とは、ツリガネソウ(釣鐘草=ホタルブクロの仲間)のラテン語名である。藤原健次郎の自宅から遠望する南昌山がまさに釣鐘形に見える鐘状火山(トロイデ)であることからの連想というのは、少々こじつけのようにも思われるが、連想≒空想というのはそういうものかもしれない。

 

 

『南晶山にて』

(2016-2019 パネルに麻布・石膏地、卵黄テンペラ、樹脂テンペラ、油彩、金箔、鉛薄板)

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 南昌山に登ったのは7月13日。予定ではその頃の夜の山頂では無数のヒメボタルが乱舞しているはずだったが、当日の雨のせいか、一匹も見ることができなかったのは残念だった。

 南昌山の昌を晶と変えたのは、「南部繁昌」の意から名付けられたというのはあまりに現世御利益的で美しくないし、ここは私の好きな「結晶」の「晶」の字の方が「ナンショウザン」の語感にふさわしいと思ったから。私には「天気輪の柱」なるものは、きっと水晶か何か結晶質の鉱物でできているように思われるのである。

                             (記:2019.11.8)

秌韻・外覧会-2 『花昏』『革命と慈愛』

 外覧会:美術館等での展覧会には、一般入場者とは別に、「内覧会」という、関係者を対象としたオープニングセレモニーがある。「内覧会」があるなら、逆に終わったあとからの「外覧会」があっても良いではないかと勝手に作った造語です。

 すでに終わった個展(「秌韻 河村正之展」 2019年 10月3日~11日 西荻窪 数寄和)。

 だが、先に『祝人(ほいと)』をアップ(これを外覧会-1とします)したこともあり、また会場に来れなかった人のためにと、「外覧会」と題してしばらく出品作をアップしてみようと思う。なるべく解説(コメント)は少なめに。さて、いつまで続くか?

 

『花昏』

M25(80.3×53.0㎝)  2016~2018年 自製キャンバス(麻布に弱エマルジョン地)、樹脂テンペラ・油彩

 

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 DM掲載図版。

 最近の個展等を見て「河村が人物、それも女を描いている」と驚かれることが多い。それについては、あまり言うべきことはない。いや、少しはあるのだが、まあ、ここでは省く。人物を描いた作品でも、ほとんどの場合、具体的なモデルはいない。

 「花昏(はなくら)」とは、花々がその華やかさゆえに、かえってかもし出す暗(昏)がりといったイメージの、私の造語。以前「夏昏(なつくら)」というタイトルを付けた作品もある。同じ趣旨の「光の闇」という作品も、いずれ描いてみたいと思っている。

 

 なおこの作品は、以前に中国人留学生から大量にもらった中国製麻布を使用しているが、日本製(フナオカキャンバス)とは異なって、大いに暴れる野性的なその表面の処理にてこずったというか、その苦労がちょっと独特の絵肌をもたらしてくれた。

 

 

 

『革命と慈愛』

 F15(65.2×53.0㎝) 2018~2019年 自製キャンバス(麻布にエマルジョン地)、樹脂テンペラ・油彩

 

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 「革命と慈愛」とは、苦しまぎれとは言え、われながらおおげさなタイトルを付けたものである。これも人物(女)を描いたもので、珍しく元になった画像がある。

 

 右の銃を持った女性のもとになった写真は、アルメニアのエレヴァンのアルメニア人虐殺博物館にあったもの。19世紀末と20世紀初頭の二度にわたってオスマン帝国領内で大規模な大虐殺が起きた。それは近代初のジェノサイドの一つであるとみなされ、今日に至るまでトルコとアルメニア間の最大のアポリア(解決困難な問題)となっている。以前から、トルコにもアルメニアにも行ったこともあって、この事件が妙に気になっている。

 20世紀初頭のそれについて少し知りたいと『神軍 緑軍 赤軍 イスラームナショナリズム・社旗主義』(山内昌之 1996年 ちくま文庫)を手にしてみるも、あまりの複雑さと基礎知識不足で途中で投げ出したまま。博物館の解説はアルメニア文字のみでちんぷんかんだったが、妙に印象に残った写真だった。

 左のそれはネット上で拾った、有体に言えばAVのそれ。

 右の女性のそれと共に顔やポーズ等、変えてある。別人として描いたのだが、見た人の一人から「なるほど、同じ女の二面性だ」といったようなことを言われた。そうか、そういう見え方もあるのかと妙に感心した。それは私の作品制作の基層にある「一致する不一致=聖と賤の一致」ではないか。あるいは女性性の二相系。

 ともあれ、女性の顔や表情の表現には苦労した。今見ても大いに不満であるが、これ以上やっても仕方がないということで完成としたが、こと顔と表情に関しては、欲求不満が残っている。思想的未消化ということだろう。     (記:2019.11.4)