艸砦庵だより

河村正之のページ 絵画・美術、本、山、旅、etc・・・

『国会議事堂・四季山水画壁画』の謎 

 某月某日、安保法制施行の日、国会議事堂を見学に行った。私と国会議事堂-われながら似合わない組み合わせだとは思うが。

 外側の正門前では多くの人が抗議行動を行っている。私の居るべき場所はあちら側ではないのか。

 

 ここ数年、高校時代の同期で月に一度飲食を楽しむ集まりに、義理堅く出席している。そのメンバーの一人の勤務先が、国会議事堂だか衆議院だかなのだ。彼女Sさんもこの三月いっぱいで一応定年退職との由(ただし再任用とかで、勤務日数を減らしてもう少し現在の仕事を続けられるらしい)。お疲れ様でした。まずはめでたいことである。そしてそのあと、誰しもが20年前後の残された、人としての年月を生きることになるのだ。しかしそれはまあ、また別の話。

 その話題になった時、ふと、彼女がまだ勤めている間に一度見学に行こうではないかという話になった。平日にもかかわらず、賛同者が数名いた。物好きというか、好奇心旺盛なことである。

 国会議事堂には行ったことがない。東京タワーもスカイツリーもディズニーランドも行ったことはない。それらに行くことはおそらく一生ないと思うが、別に差し支えはない。国会議事堂も皇居も同様である、と思っていたが、昨年、国会前のデモに初めて参加して国会議事堂に対峙した時、その国会議事堂という建造物が妙に抽象的な迫力をもって見えたのである。国会議事堂とは一個の具体的建築であるにとどまらぬ、国家や歴史や民族などといった様々な意味においての、制度性そのものの実体化であることは言うまでもない。デモの側に立ち、シュプレヒコールをあげながら眼差すその先に、それは強固な幻影のように「きたなくしろく澱」んで建っていた。

   ↓ 昨2015年9月14日 戦争法反対のデモに参加している武蔵美有志の会の幟。芸大有志の会もこの日、幟を立てて参加していたようだが、場所が違ったせいか確認できず。

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  ↓ 眼差す先に「きたなくしろく澱むもの」。建築史的にはドイツのノイエザッハリッヒカイト(新即物主義)やナチス建築との関連が気になる。

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 当日11時に衆議院会館前で待ち合わせ。警官が異様に多く、煙草もすえない。案内は、これも奇遇だが高校同期のN君。議員秘書という立場である。県民性といったことは、私はあまり信用していないのだが、思いおこせば、私の高校の同期同窓には自衛隊防衛庁関係やら自民党関係やらの人間がけっこう多い。

 合流後、なぜかとりあえず敷地内の吉野家で全員、店舗限定とやらの牛重のランチ(味は可もなく不可もなし)をとってから見学に出発。

 内部のことについては、個々の感想はあるが、まあ、おおむね省略。一言だけ言えば、思っていたより質素というか、簡素な印象だった。1918年大正7年)にデザインが公募され、翌に選ばれた宮内省技手の案を参考にしつつデザインを大幅に変更して、大蔵省臨時議院建築局が実際の設計を行ったとのこと。途中いろいろあったようだが、着工から17年後の1936年(昭和11年)完成したとのことである(内容はウィキペディア等に拠る)。ほぼ100年前のデザイン・設計思想だから、現代の目からすれば質素簡素に見えるのも当然と言えば当然かもしれない。

 

 私が取り上げたいのは、議事堂内の絵、中でも中央広間の上部壁面にある4点の壁画についてである。

 ちなみに「壁画」というと「=フレスコ」と思う人がいるが、「フレスコ」とは、生乾き(=フレッシュ=フレスコ)の漆喰壁に水溶きした顔料で直接描いたものを言う。一般の絵画と異なり、「絵具」に固着剤は含まれず、顔料が漆喰壁に直接沁み込み、壁と一体化することで発色する。ヨーロッパの古い教会等の壁画は=フレスコでほぼ間違いないとしても、現代では、まして気候風土の異なる日本ではほとんど建築の壁面に施されることはない。あくまで「壁画=(フレスコ以外の技法で)壁に描かれた絵」か、「壁画=壁面いっぱいに設置されたキャンバス絵画」、ということである。議事堂のそれは遠望ながら、一見して油絵である。つまりおそらくは変形のキャンバスに描いたものを完成後、壁に設置したのだろう。

 写真を撮ることはできなかったので、帰宅後ネットで検索したらすぐに見つかった。さっそくこの欄に載せようとしてよく見たら下段に「著作権について」とあり、「ホームページに掲載している写真等の画像については、無断で転載・複製することはできません。写真等の画像を使用したい場合は、webmaster@sangiin.go.jpへお問い合わせください。」とある。なんだかなあ~、である。法的なことはわからない。かつて必要あって著作権に関する本を一冊読んだことがあり、今回もざっと調べては見たが、要するにわからない。だが、何となく得心がいかない。勝手に載せようかとも思ったが、しかしまあ、お上を相手に何かあっても分が悪いのは明らか。画像自体は「国会議事堂案内 写真集」

 http://www.sangiin.go.jp/japanese/taiken/gijidou/ph/ph23.html で簡単に見れるからまずはぜひそちらで見ていただきたい。しかし、何だかなあ゛あ゛あ゛~~。

 

 それはさておき、絵柄としては「壁面四隅に日本の春夏秋冬を描いた4枚の油絵の絵画がある。それぞれ、春の吉野山、夏の十和田湖、秋の奥日光、冬の日本アルプスをイメージして描いたもの(ウィキペディア)」である。そして「いずれも高名な画家によるものではなく、画学生の作品である」と続く。

 まずネットの画像を見ていただきたい。なんせここに画像は載せられないのである(現地でもらった『国会 衆議院へようこそ』というパンフレットの5ページ目にちらっとその一部が出ているが、小さすぎて参考にならない)。はたして日本の風景に見えるだろうか。私にはどう見ても堂々としたヨーロッパの、フランス、イタリアあたりのそれにしか見えない。アリバイとして日本の各地に取材しながら、それを透して描いているのはヨーロッパの風景、といった趣。画風としてはヨーロッパ世紀末絵画あるいは象徴派風といった感じである。だがそれはそれとして、何よりも意外だったのは、それらがけっこうしっかりした良い絵だったことである。

 

 日本における世紀末絵画あるいは象徴派絵画、そしてそれらと同時期のアールヌーボー等の受容移入については、ヨーロッパのそれとほぼ並行して行われるも、作品として一定の成果を見たのは主としてグラフィックの分野であった。

 絵画においては藤島武二(1867-1943)、青木繁(1982-1911)、小杉未醒(放庵 1881-1964)等に見られるような影響はあったものの、主流とはならなかった。したがってこの壁画に見られるような、堂々とした象徴派風絵画作品を、あまり目にすることはないのである。恥ずかしながら、私は今回実見するまでこの絵の存在を知らなかった。また不勉強のため、これに触れた文献も知らない。

   ↓ 藤島武二 左:「天平の面影」 右:「蝶」

  *掲載図版は本稿の内容と必ずしも合致するものとは限りません

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   ↓ 青木繁武二 左:「天平時代」 右:「わだつみのいろこの宮」

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   ↓ 小杉未醒 左:「一本杉」 右:「水郷」

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 ともあれ問題は、「いずれも高名な画家によるものではなく、画学生の作品である」の一文である。国会議事堂という、まさに国を代表する建築物に描かれた壁画の作者について、単にこれだけの記述しかなされていないというのは、異様である。「画学生の作品である」というが、画風、画格からすれば明らかに力量ある「高名な画家」の構想・指導によるものであり、それは一種の工房制作だと言うこともできる。そうした場合、その工房の主宰者の名を出すのは当然のことである。ルーベンスであれ、ボッティチェルリであれ、そう扱われている。したがって、ここでその画家の名を出さないこと自体が異例なのである。そして「画学生の作品」という言葉から推測すれば、おそらく「高名な画家」の指導・監督のもとに、その指導下にあった複数の「画学生」に実際の制作を担わせたという構図がすぐに思い浮かぶ。

 

 ではその「高名な画家」は誰かと言えば、これは簡単で、1918年のデザイン公募から1936年の完成までの間、ずっと東京美術学校で指導に当たっていた黒田清輝-藤島武二のライン以外には考えられない。藤島は黒田清輝(1866-1924)とともに1896年(明治29年)の西洋画科創設以来、昭和18年の死に至るまで指導に当たっていた。黒田は1924年(大正13年)に死去している。壁画がどの段階で依頼されたのかわからないが、東京美術学校(現東京藝術大学)は西洋画を教える当時の日本で唯一の官学であった。

 ちなみに、西洋画を教える私学として最初の女子美術学校が創立されたのが明治33年、武蔵野美術大学の前身、帝国美術学校が創立されたのが昭和4年であるが、前者は女子のみであり、また後者の昭和4年創立というのは時代的にも、また共に私学であるという性格からも、本作とのかかわりは考えにくい。何よりも官立の美術家養成機関としての東京美術学校と国家や宮中との結びつきの強さに代表される、その存在理由からして、それ以外は考えられないのである。

   ↓ 黒田清輝 「智・感・情」

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 ちなみにこの小論を書くに際して、美術とは関係のない二三の友人に話をしたところ、当然のように「東京美術学校東京藝術大学は国民の税金で運営されているのだから、国の仕事をする、国に奉仕する芸術家を養成するのが当然ではないか」といった反応が返ってきて、驚いた。戦前ならばともかくの、あるいは大学や学問の自主性・独立性といった観点をすっ飛ばして今に生きる「芸大=国立お抱え芸術家養成機関」という認識が一般社会の中で今なお健在であることを知り、めまいを覚えたのである。他の分野であれば、いかに国立大学とは言え、そうした反応はありえないだろう。しかし昨今の東京オリンピック新エンブレム選定に際し、東京藝術大学学長から文化庁長官に転じた宮田元学長の言説等を聞くと、そうした体質がいっこうに変わることなく、脈々と、むしろ誇り高く受け継がれていることを知り、暗澹たる気持ちになるのである。

 

 関連して、東京美術学校は官学だから当然アカデミックであろうと思われがちだが、その場合のアカデミズムはあくまで日本的アカデミズムと言うべきものである。

 黒田・藤島=東京美術学校系譜の前に1876年(明治9年)創立の工部美術学校が存在し、イタリアのフォンタネージ(画家としては黒田の師事したラファエル・コラン同様、純粋なアカデミストとは言えないが)によるヨーロッパアカデミズムの移入の試みがあったが、わずか15年後の1883年に廃校となるにおよび、日本における西洋アカデミズムの移入は中断された。その後、工部美術学校出身者を中心に組織された明治美術会が「旧派・脂(やに)派≒ヨーロッパアカデミズム」と呼ばれ、後の黒田らの白馬会の「新派・外光派・紫派≒日本的アカデミズム」に取って代わられたのは必然である。そもそも、日本におけるアカデミズムは時間差を伴う二重構造を成して出発したということなのだ。

 黒田がフランスで師事したラファエル・コランの画風は、印象派象徴主義の影響を受けた外光派とよばれるフランスアカデミズムとの折衷主義とされる。本国では半ば忘れられた画家であり、作品に確かに甘いところはあるが、私は嫌いではない。黒田とは一歳違いであっても留学は18年後の藤島武二の師フェルナン・コルモンやカロリス・デュランについて、私の知るところは極めて少ないが、フェルナン・コルモンはアカデミストではあっても新しい動向に対して寛容であったとのことである。何よりも20世紀を迎え「反官展を旗じるしにして創設されたサロン・ドートンヌに拠るフォーヴィストたち、マティスブラマンクらの活発な動きにも無関心ではなかった(『日本の美術10 明治の洋画』至文堂p.74)」のである。

 つまり日本的アカデミズムとは、その出発点において、黒田・藤島の留学体験に裏打ちされることによって、ヨーロッパ古典主義(フランスアカデミズム)と象徴主義印象派およびそれ以降の新しい動向との折衷として始まったのである。したがって、黒田と藤島の帰国後にもそうした折々の新しい動向との親和性は担保されており、その延長上に藤島や青木繁の浪漫主義も存在する。そして黒田や藤島が長くリードした日本の美術界においては、以後の様々な海外の新しい動向も意外なほどにスムーズに受容され続ける体質が形成されたのである。 

 ただし、当時の日本社会においては、そうした世紀末絵画や象徴主義の本格的な作品が生み出される土壌も必然性も余裕もなく、それ自体としては、いくつかの個人的な佳作をのぞいて短命に終わらざるをえなかった。ただし、そこで播かれた種子は、ほぼ同時に移入されたアールヌーボーを橋口五葉(1881-1921)などがグラフィックの分野において消化することを経て、竹久夢二(1884-1934)等による矮小ではあるが、日本的な開花を見せ、以後第二次大戦に至るまでの短い期間、独自の展開と結実を見せるのである。

  ↓ 橋口五葉

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  ↓ 竹久夢二

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 話を戻す。

 壁画制作の依頼が国からいつ来たのかわからないが、デザインが完成した1919年(大正8年)の時点で組み込まれていたとすれば、黒田はまだ存命中である。むしろ黒田が最初の依頼を受け、その死後、藤島がそれを引き継いだという可能性は高い。黒田と藤島は同郷、一歳違いのほぼ親分子分あるいは同志といってよい間柄である。フランス留学という経歴も共通している。画家としての同時代的困難も共通のものであったろう。それゆえに帰国後の風土歴史の異なる日本においては充分には開花しきれなかった彼らの若き日の象徴派的世界の実現を、壁画制作の依頼によって共有して夢見たのではなかろうか。

 藤島は晩年に宮内庁から昭和天皇即位を祝い学問所を飾る油彩画制作と、宮中花蔭亭を飾る壁面添付作品の制作の2つを依嘱されていた。それをきっかけに日本各地に取材し、風景画への関心が深まったとされることも傍証となるだろうが、何よりも本作に見られるある種のロマンチシズムは、藤島のそれとかなり共通したものを持っているのである。そこにはまた、黒田がかの地で体験したであろう象徴派との類似も、見てとることができる。

 これらの点から本作を構想し、主導したのは黒田清輝―藤島武二のラインであり、わけても黒田の死の時期を考えれば、実質的には藤島武二であったと結論付けることができよう。

 

 次の問題、「画学生」とは誰か。

 画学生とあるからには、本作の制作当時美術学校に在籍していた、つまり昭和11年以前の卒業生であると仮定してみる。「画学生」としか記されていないから、一人と読むこともできるが、この場合やはり複数いたと考えるのが自然だろう。

 試みに手元にある『杜 杜の会 会員名簿 平成16年版』(東京藝術大学美術学部同窓会 発行)を見てみる。いわゆる同窓会名簿、卒業生名簿である。

 さて、私はその名簿から何を読み取れば良いのか。毎年40名前後記された当時の卒業生たちの氏名を漠然と眺めてみる。意外にというべきか、当然というべきか、知っている名前、つまり、後年画家として名を残こした人の、数の少なさに愕然とするのである。

 とりあえず、該当すると思われる年次の、私が画家として多少なりとも知っている人の名を以下に書き出してみる。

 昭和7年卒 石川滋彦

 昭和8年卒 角浩

 昭和9年卒 西村計雄 川端実 山川勇一郎 佐々木孔

 昭和10年卒 井出宣通 

 昭和11年卒 香月泰男 寺田春弌 

 昭和12年卒 松田正平    

 他は、さっぱり知らない人ばかり。全て故人である。死屍累々の点鬼簿といおうか。まあ、美校卒、芸大卒だからといって後世に名を残す画家になれるのはほんの一握りなどということは、とっくに承知のことだから、どうと言うことはないが。

 

 いずれにしても本作にたずさわった「画学生」の探索は、卒業生名簿をひもといてみても何もわからないということだ。仮に上に挙げた人の誰かが本作にかかわったとしても、後にそれぞれ画家として確立した画風は、そのおりおりでの現代風のもので、世紀末風、象徴派風とは無縁である。むろん、上記以外の学生がかかわった可能性はある。むしろ高い。

 東京藝大はその性格からして、従来から迎賓館をはじめ、あちこちの修復事業にかかわっており、私の知っているだけでも、何人かの知り合いが学生時代に体験したことがあると言う。学生にとってはアルバイトの要素もあろうが、何よりもその技術がなければ声もかからぬのであるから、やりがいもあるかもしれない。しかしそうした経歴と、画家として大成する、あるいは画業を継続するということは、直接は関係のない話である。またそうした修復事業の場合は、一職人一技術者としての学生の名はどこにも記されないのが普通かもしれない。だが、本作は性格が大きく違う。当然その名が残されてしかるべき創作的事業である。『芸大100年史』とでもいったものがあって(おそらくあるとは思うが)、それでも見れば記載されているかもしれないが、遺憾ながら私は見たことがない。

 

 それにしても、やはり不思議である。一国の象徴たる国会議事堂の正面広場(それは最も晴れがましい場所である)の壁画の、作者名も正式な題名もわからないということが。そんな国がほかにあるだろうか。それともどこかには記録が残されているにもかかわらず、単に求められないから公表されていないという程度の話なのだろうか。

 本作は、質の高さからいっても、かなりの重要性と面白さを持つ作品である。また美術史的観点からも、稀有とは言わぬまでも、かなり珍しい部類の作品であることは間違いない。にもかかわらず、私はこんな良い絵、美術史的にも価値のある作品が、こんなところにあることを、今回まで知らなかった。不勉強と言われればそれまでだが、今まで見た、読んだ本、資料で見たことがないのである。美術史的にはほぼ黙殺されている。それがこの『国会議事堂・四季山水図壁画』なのである。

 

 おそらく主宰者であったと思われる藤島武二の名前が、表に出ない理由とでもいうものが、あるのだろうか。それともそれは、単なる無関心の結果にすぎないのだろうか。だとすればそれは、議事堂を拠点とする日本の政治家たちの文化に対する無関心の現れであり、美術関係者、わけても美術史家の無関心の現れでもあると言えよう。民衆はその力量に見合った政府しか持つ事ができないという論があるが、それに則って言えば、吾々は自国の国会議事堂の壁画にも関心を持たない程度の文化しか持ち合わせていない国民なのであろうか。

 

 ともあれ、壁画の完成を1936年(昭和11年)として、既に80年たっている。制作した当時の画学生も1910年前後の生まれだから、共同制作にしてもほとんどの方が亡くなられているはず。画家の手から離れ美術館に入っている作品でも、著作権は確か制作者にあるはず。国会議事堂が堂々と主張している以上、まさか法的な手落ちがあろうとも思えないが、現物でもHP上でも一般に公開しているものを「画像については、無断で転載・複製することはできません。写真等の画像を使用したい場合は、webmaster@sangiin.go.jpへお問い合わせください。」としているのは文化的な手落ちであると言いたい。今日世界中の美術館の多くですら、写真撮影はOKとなっている。したがって、少なくとも、もっと親切であってよい。なぜならば、国会議事堂にある絵は全ての国民のものだからである。

 本作はもっと広く世に知らしめてよいというか、知らしめるべき作品である。それが図版一つ自由に引用転載できないという現実。こうしたエアポケットのような体験を、誰に八つ当たりすればよいのか。むろん私はイチャモンと承知しつつ書いているのである。

 

 付け加えれば、本作は発色の面から見て、保存状態は良い。比較的最近修復されたのではなかろうかと思われるが、にもかかわらず、「秋の図」には何ヶ所か剥落跡ではないかと思われる複数の白い点が見える。そうだとすれば、緊急の対応が必要と思われる。この点でも問題を提起しておきたい。

  

 蛇足と承知しつつもう一点。『国会議事堂・四季山水図』以外にも議事堂内にはあちこちに現代の作家の作品がかけられている。日本画では大山忠作(日展)、上村淳之(創画会)等、洋画では中山忠彦(←やや記憶が曖昧 日展)、奥谷博(独立)等である。他にもいくつかあったが、その時はさほどの興味も持たずにその前を通過した。通過したのは私が知らない作家、魅力を感じない作品が多かったせいもあるが、それらの多くは節電のためか照明も当てられておらず、照明が当てられているものも、なんとも的をえない当てられ方であったせいでもある。

 絵はかけられているが、しかるべき照明もちゃんと当てられていないということ。この点でも国会議事堂という日本を代表する場において、文化(絵画作品)に対する関心見識のなさを、おのずからさらけ出していると言えるのである。

 

追記

 この一文は実見後、比較的短時間で書いた。論文のつもりではないから、検証性において不十分な点が多いことは自覚している。そのため、内容について、実際には私の無知からくる過ちや誤解が含まれているかもしれないことは予想できる。もし、作者やその経緯等について御存知の方がおられたらぜひ御教示願いたい。

                         (記:2016.4.17)

カモシカとご対面 笹子から大沢山・大洞山・笹子峠へ (2016年4月6日)

 

 またしても中一ヶ月空いてしまった。ブログのことではない。いやブログもそうだが、山のことである。ここまで確実に月一のペース。しかし、もう何も言うまい。ともあれ一ヶ月ぶりに登ってきたのだ。

 

 ルートは、ここのところポピュラーなところが続いたが、日もだいぶ長くなってきたことだし、前から気になっていた、ちょっとマイナーな健脚コースにした。駅から歩き始めるのでバスの時間を気にする必要はないが、少しだけ気合いを入れて5:30に目覚まし時計をセットした。ところが何としたことか、鳴ったのは6:30。一時間間違えてセットしてしまったのである。その瞬間、もう今日は中止しようかという思いが頭をよぎった。起床時点で早くも前途多難である。しかしおかげで、いつもよりは少し多めの睡眠をとることができ、行動していてもだいぶ楽だった。やはり前夜の睡眠は重要だ。

 

 笹子駅着9:40。登り口となる追分の神社めざして歩き始める。飲み水は500ccほど持参してきたが、もう一本自販機で買おうと探しながら歩くが、結局買い損ねた。これが第二の蹉跌。今日一日500ccですごさなければならない。まあ~、何とかなるか。

 登り口にあたる追分の神社めざして歩きながら、その最初の分岐を見落としたようだ。それに気づかず進むと、指導標がある。それに導かれるまま歩くと、予期せぬ「追分トンネル」の入り口に着いた。そんなもの、手持ちの2.5万図には出ていない(ザックに入れてある「山と高原」地図には出ていたが、この時点では気づかず)。ままよとトンネルを抜ければそのまま沢沿いに清八峠に向かう道。右から左に大きく迂回して元に戻るのを嫌って、トンネルの出口から左へ、道はないがかすかな踏み跡らしきものを辿って何とか、神社からの正規の尾根道に乗ることができた。30分ぐらいはロスしたか。第三の蹉跌。いよいよ前途多難かと思われたが、以後は、いたって順調と言えば順調。特に問題もなく歩けた。

  ↓ 北東尾根上からの大沢山

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 大沢山の北東尾根の半ばは植林帯だが、明るく、また適度な傾斜が続き、歩きやすい。この尾根を含めて、今回のルートは全体が従来いわゆる篤志家向きとされ、『新ハイキング』や一部の単行本に載ることはあっても、ガイドブック類にはほとんど載っていないと思う。国土地理院の地形図にも破線は記載されていない。まあそうはいっても、最近の「山と高原」地図には破線ではあっても記載されているし、実際現地には新しい指導標が設置されているのだから、だいぶ一般的にはなっているようだ。かつての「秘境ルート」や「篤志家ルート」が事実上「一般ルート」化するなど、登山コースの変遷、流行りすたりと言うものは確かにある。だが近辺の三つ峠山や大菩薩嶺に比べればまだまだ静かなものである。

 

  ↓ こんな感じ。新緑は未だし。頂上間近

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  ↓ 気持の良い大沢山山頂

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 大沢山1460mはこじんまりとした、気持の良い山頂。富士山も見えるが左半分は雲の中。曇天のせいで妙に平板に見える。

 惜しいことに先行者が一人休んでいた。笹子駅着6時台の電車で、中尾根をへて来てこれから下山だという。早いですねと言ったら、遅いですね、と言われた。ふだんより5時間早く起きても、登山開始が3時間以上遅いというこの現実。早立ち早着は登山の原則ではあるが、このいかんともしがたい私の現実。まあ、良い。天気予報を見て日を選び、明るいうちに人里に下りられれば良しというのが、最近の私の計画の基本である。ヘッデンも非常食もレスキューシートもお守り代わりに常にザックに入れてある。若干後ろめたい感もあるが、充分安全には気を使っている。夕闇とともに山里の集落を歩くというのも、捨てがたい味がある。それが私の流儀なのだ。しかしそうはいっても、充分睡眠をとった上で早く登り始めるのが一番良いことにかわりはない。私にとって永遠の課題である。

 

 大沢山山頂から主稜線を辿る。スッキリとした尾根はときおり細くなり、多少のアップダウンを繰りかえす。何ヶ所かの小さな崩壊地も問題はない。ヤブが深いと言われているあたりも数年前の笹枯れのせいか、問題なし。ほとんどが広葉樹の自然林で気持がよい。惜しむらくは新緑にはまだ早すぎたということ。そして晴れのはずだった天気がやや曇りがちで、その分風景に立体感がなく、冴えがないということである。まったく美とは光であると、あらためて思う。

 

  ↓ 細い尾根のアップダウン

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  ↓ 大洞山への稜線とその奥、達沢山方面を望むf:id:sosaian:20160407211524j:plain

  ↓ イワカガミ(たぶん)の群落 花の時期はきれいだろう

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  ↓ 少し陽がさしてきた。

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 ともあれ、思っていた以上に気持の良い尾根をマイペースで快適に進む。ボッコの頭をすぎれば摺針峠。一部不鮮明と言われているが、右に笹子方面への新しい指導標もある。なんといっても一カ月ぶりの山行。太ももはすでに疲れきっている。修行から苦行の域に達している。ショートカットするならここが最適なのだが、気合いを入れ直して進む。大洞山は広くやはり気持の良い山頂。カヤノ木平まで来れば先が見えてきた。

  ↓ 大洞山山頂

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 中尾根の頭1290m圏とおぼしきところで中尾根へ下る路を確認し、少し進むと「中尾根の頭1278m」の標識がある。「中尾根の」というからには、支稜である中尾根が主稜線に突きあげた地点でなければならないはずが、そこから離れた、とあるピークに設置されているのである。地形図に独立標高点が記されているからであろうが、これは設置者の読み違い。こうしたことはときおり見かけることだが、おそらく今後も訂正されることはないだろう。

  ↓ 右下は崩壊地。根の大半は空中にありながらも踏ん張っている。

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  ↓ こちらは必死にしがみついている

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  ↓ 宿り木。常緑ゆえに北欧などでは生命の象徴とされる。落っこちていた薄黄緑色の実を口にしてみたら、かすかに甘かった。種子を包む果肉は異様に粘り気が強く、吐き出そうとしてしても口内にくっついて、なかなか離れない。なるほど。この実を食べた鳥が木の枝にとまって糞をし、その粘り気によって木にくっついて繁殖していくという仕組みに、納得がいった。

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 そこから先も細い尾根は気持よく続き、笹子峠に17:20に降り立った。この古い歴史を秘めた峠もほぼその役割を終え、今は静かにたたずんでいるだけである。この頃になって私は、若干計画に抜かりがあったことに気がついた。つまり峠でほぼ山行は終了、後はゆっくり駅まで1時間程度歩けばよいと、漠然と思っていたのである。しかしよくよくコースタイムを見れば駅まで2時間以上となっているではないか。暗くなるのは避けられない。

  ↓ 笹子峠 在りし日の面影やいまいずこ

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   ↓ 見返ればなんとささやかな笹子峠 

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 まあ仕方がない。ゆっくり行くさと車道に出て、ふと進行方向を見たら、20mほど先に何かいる。熊?犬?大型猟犬?猪ではない、鹿でもないが、何か大きなものがいる。

   ↓  20mほどさきに獣!

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  じっと動かない。まさかいたずらで犬のオブジェを置いた?しかし私はそっちへ進まなければならない。足元に落ちていた枯れ枝をそっと拾い上げる。しかし何の役にも立たないほど枯れ切っている。とりあえず、生き物かどうか確かめるためにその枯れ枝で傍らのガードレールをゴンゴン叩いてみる。動かない。少し落ち着いてきた。今度は威嚇のために大声を張り上げながら少しずつ近づいてみる。「うりゃ~!わあぉう~!ぎゃ~!」。こちらをゆっくりと見た。やはり生き物だ。獣だ。逃げ出してくれ~。その時、一瞬閃いた。これはどこかで体験したことがある。まさか、カモシカ

 以前、積雪期に越後や奥利根などの山によく行っていた頃、特別天然記念物ニホンカモシカにはよく出会った。カモシカを猟銃なしで仕留める法というのを、聞いたのだったか、読んだのだったか。カモシカはたいへん好奇心の強い生き物で、人と出くわすと、立ち止まってじっとこちらを見ている。そこで白い手ぬぐいでも何でも頭上でひらひらさせながら踊りながら近づいていっても、まだ見ている。間際まで近づいて、そっと引き抜いた腰の鉈を振り上げて眉間に一撃、というものである。ほんまかいなと思いつつも、実際彼らはずいぶん近づいてもなかなか逃げようとはしない。しかし私の見たカモシカは積雪期だったせいか、白っぽい、灰色っぽいやつらだったが、今目の前にいるのはかなり黒い。あるはずの角も見えない。しかしやはりどうやら猟犬ではなく、熊でなく猪でもないのだから、カモシカなのだろう。カメラを取り出してズームで見ると、私の知っているカモシカとは若干印象が異なるが、確かにカモシカだ。角もある。手にしていた枯れ枝を捨て、汗止めに巻いていた手拭を頭の上でヒラヒラさせながらゆっくりと近づいてみる。5mぐらい近づいたところで、迷惑そうに、ゆっくりと動き出した。「あ~っ、もうちょっと待って、カモシカさん!」と実際に口に出しながら再びカメラを構えると、撮影の間、めんどくさそうに待っていてくれた。そしてゆっくりと、名残惜しそうに去って行ったのである。

   ↓  撮影のあいだ待っていてくれた。よく見れば角もある。距離5mほど。

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   ↓  声をかけたら最後にもう一度振り向いてくれた。よく見れば爺さん顔。しかしお尻を見ればやはり熊のようだ。

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 上信越、南会津以外の、奥秩父奥多摩カモシカを見たのは一二度あるかないか。それもチラッとぐらいのもので、写真を撮ったのは初めてである。あらためて写真を見てみると、どこか人間臭い表情だ。例えれば、「昔、山の上の方に一人で住んでいたけどいつの間にかいなくなっちゃたお爺さんがカモシカに転生して現れた」みたいな感じだった。

 一瞬の恐怖からほのぼのとした喜びへ。そんな感情に浸りながら、薄暗くなった旧甲州街道を辿る。名所「矢立の杉」もすぐ傍を通りながら、あまりの疲れで割愛し、すっかり暗くなったころ、ようやく駅に辿り着いた。

 度重なる蹉跌にも関わらず、振返って見れば、しみじみとした良い山、良いコース、良い山行であった。

   ↓ 赤線が歩いたルート

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                         (記 2016.4.7)

コースタイム

笹子駅9:40~大沢山北東尾根10:25~大沢山(女坂山)1460m 13:15~ボッコノ頭1445.9m14:20~摺針峠15:05~大洞山1402.6m15:40~カヤノ木平15:55~中尾根の頭16:40~笹子峠17:20~笹子駅19:05

百蔵山から扇山へ(2016年3月1日)

 「月に二回の山行」という年度目標は、一月二月を通じて、早くも崩壊しつつある。

 しかし、「12ヵ月×2回=年間24回」と読み替えれば、何の、まだ充分可能性はある、ということで気を取り直して、百蔵山から扇山へと歩いてきた。

 百蔵山と扇山はその位置が良い。中央線下り列車が四方津、梁川を過ぎ、鳥沢、猿橋に至ると右手北側に連なって、なかなか立派な姿を見せる。二つの山は連なってはいるが、それぞれそれなりに独立した山容で、一瞬こんな良い山があったっけ?と思わせる。

 ただしそれゆえに昔からポピュラーな山であり、ハイキングコースとして今なお人気がある。駅から歩いて登れるのも魅力である。たしか愚息も高校山岳部で登ったことがあるはず。しかしその人気ゆえに、私自身は長い間あまり食指をそそられなかった。だが最近、上野原、大月、笹子周辺の山を歩いていると、次第にその近辺では登っていない山がなくなってくる。その赤線の空白部にこの百蔵山と扇山があるのだから、そろそろ登らないわけにはいかない。

 

 弥生三月一日、例によって4時間睡眠で7時半に自宅を出る。猿橋駅9:45着。バス便もあるが、のんびり歩く。

  ↓ 鳥沢駅のホームから見る左、百蔵山、右、扇山。

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 桂川を渡って奈良子川の手前の高速道路の下に道祖神、馬頭観音等の石仏がまとめて置かれている。以前あちこちに在ったものを、区画整理(?)でここに集められたもの。こうしたものは持ち去られて骨董屋に並ぶこともけっこう多かったのである。甲斐、相模は石仏の多いところだが、中でもここ桂川一帯は丸石神信仰も含めて、特に多いところだ。なかなか良い味わいだ。別の場所では金神様(=金精≒石マラ)もあった。これはちょっと珍しい。

 

  ↓ 石仏群像。

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 ↓ 日輪月輪のある山王権現が好きです。下は三猿。

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 戸並入口のバス停から山へ向かうが、欲しい所に指導標がなく、福泉寺の墓地に迷い込み、若干のタイムロス。正規ルートに戻り、しばらく舗装された林道を歩く。それを嫌って左から合流する細いがよく踏まれている路に入ってみるが、これは間もなく猪よけの柵で囲まれた林間の畑に辿り着いてしまった。またしても若干のロス。今日は勘が悪いか?元の舗装林道に戻り、少し行けば、何のことはない。指導標がある。笹藪の中を過ぎれば、あとはよく踏まれた歩きやすい路。坦々と歩く。その坦々がハーハーとなり、ゼーゼーとなり、ヒーヒーとなる頃に一本というペース。やはり中三週間近く空くと、きつい。この尾根、なぜか倒木が多い。

 11:45金毘羅宮着。見れば中には真っ赤なペンキ塗り(?)の不動明王。手前に白面の小仏像が何体か鎮座しておわす。あれ?金毘羅って海の神で本来はガンジス河の鰐(日本では蛇体)ではなかったっけ?帰宅後確認してみると、「神仏習合の神であり、本地仏不動明王毘沙門天十一面観音など諸説ある(Wiki)」との由。ああ、そうですか。作は正式の仏師のものとも思えないが、素人にしてはなかなか上手に作られている。白面の小仏像もちょっといい味を出している。

 

 ↓ 金毘羅宮。手前の小仏像五体は地蔵か?

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 金毘羅宮から少しばかりの急登を終えれば、なだらかな尾根筋となり、歩きやすい道が続く。この山稜は広葉樹と植林の針葉樹と合いまった林相だが、比較的広葉樹が多いのがうれしい。針葉樹も珍しく松の木が多いためか、わりと明るい印象である。少しぐらいはあって欲しいと思っていた雪は全く無い。

 ↓ こんな感じ

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大同山907mをすぎれば(12:35)ほどなく百蔵山山頂1003.4mに着いた。おお、ここは一応1000mを越えていたのか。やはり1000mを越えていると、ちょっとうれしい。

 

 ↓ 百蔵山山頂

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 ここも例の「秀麗富嶽十二景」の一つ。確かに美しい。でもこの時期としてはちょっと雪が少ないような気もする。

 

 ↓ 今月の富士山。正面が吉田大沢。その昔40年前の11月の末にあそこを登ったのだ。

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 百蔵山からは、直下の急下降以外は、おおむねなだらかな登降が続く。

 ↓ こんな感じ

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 ↓ 途中で見かけたオブジェ。タイトル「よじれともたれ」

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北側には茫洋と大きな、巨大な鯨のような権現山から麻生山への山稜が横たわっている。これも今年登りたい山のひとつである。久保山をすぎればほどなく広い扇山山頂1137.5mに着いた(15:30)。

 ↓ 扇山山頂

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 ↓ 扇山山頂より北面の権現山方面

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 百蔵山もここ扇山も、有名な割には山頂は思っていたほどは荒廃していない。ぎりぎりオーバーユース手前といった感じで、少し救われる思いがする。

 ただし一つだけ不快なことがあった。それはここにもあった「秀麗富嶽十二景」の解説パネルに記された(刻みこまれた)落書きである。一つの山頂に従来からの山名表示板と「山梨百名山」の山名表示板が既にあるところに、さらに「秀麗富嶽十二景」の山名表示板とその解説パネル(写真・解説付)が設置されているというのは、やはり美しくない。多すぎる。確かに私も「秀麗富嶽十二景」については、一部その意義を認めつつも、ある意味では批判的である。これについては、以前に本ブログで書いた(「地下足袋をはいて登った奈良倉山+おまけの大白沢」)。しかしだからといってこの写真に見られる行為はいただけない。記された個人名はどういう関係なのか、どういういきさつがあったのかわからないが、明らかに卑劣な個人攻撃である。記された個人への怨恨というよりも、おそらく行政当局による「秀麗富嶽十二景」に対しての不満なのではないかと想像されるが、なんとも嫌な感じである。

 

 ↓ 問題の解説パネル

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 たしかに山中にこうした写真入りやイラスト入りの解説パネルが設置されていることはままある。そしてそれらの多くが数年と経たないうちに劣化して、例えば判読不能な、景観を汚すだけの不快なゴミとなっているケースは多い。耐用年数のすぎたこうした設置物は当初の設置者が撤去してほしいと思うのは私だけではあるまい。写真下部には判読しづらいが「ごみ自分でもちかえれ」と記されている。

 

 そんな人間世界の汚濁をよそに、富士はすでにその姿の大半を翳りの裡に沈めようとしている。

 

 ↓ 今月の富士山 その2 「人間世界の汚濁をよそに、富士はすでにその姿の大半を翳りの裡に沈めようとしている」

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 15分ほどして下山にうつる。犬目丸から萩ノ丸をへて大野貯水池まで足を延ばしたいところではあるが、時間の事もあり、ここは予定どおり素直に山谷への路を選ぶ。午後遅い陽を受けた、桂川対岸の高畑山から高柄山への山並がじつに美しかった。日本ならではの穏やかな美しさである。

 

 ↓ 美しい日本 右、高畑山

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途中で「女六夜」と読める石碑を見かけた。「女六夜」とは聞いたことがない。女ではなく廿の異体字で「廿(二十)六夜」と読むのか?それなら月待ち講=二十六夜待ち講でわかるが。この近くには二十六夜山という名の山が二つあるが、さて実際はどうなのだろうか。気になる。

 ↓ 「女六夜」?「廿(二十)六夜」?

 

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 下山は特に問題もなく、山谷集落に16:37に着いた。通りがかりのおじさんにあいさつがてら駅への道を尋ねると、「ずいぶん遅い時間だねえ」と言われた。そうか、俺はやはり普通の登山者と比べても行動時刻が遅いのかと、今さらながら思うが、仕方がない。「朝が苦手なので時差登山してます。おかげで人とあまり会わなくて静かに歩けます。」と答えたら、笑っていた。笑いながら、丁寧に近道と絶好の富士のビューポイント(時刻が遅すぎるらしい)と御自慢らしい寒桜(季節が少し早すぎるらしい)並木の所在を教えてくれた。それぞれ良かったです。ありがとう。あとは小一時間鳥沢駅まで歩くだけだ。

 

 ↓ 今月の富士山 その3 おじさんおすすめのビューポイントより

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 という感じで、今回の山行は終了した。出会ったのは単独行三名と二人パーティ一組、計五人。

 百蔵山、扇山は悪い山ではない。むしろ良い山だといっても良いのだが、なんとなくとらえどころのない、茫洋とした、個性の薄い山、といった印象が残る。まあ、それがこの山の個性だと言うこともできるだろうが。

 【追記】

 帰宅後、何となく調べていたら以下のような記述があった。

「山の名と近隣の地名から、桃太郎伝説がある。隣の山の扇山のふもとに犬目集落(上野原市)があり、桂川沿いに鳥沢集落、猿橋集落がある。仲間をそろえた桃太郎は、九鬼山に鬼退治に出かけた、というもの。」(ウィキペディア「百蔵山 桃太郎伝説」)

 ちなみにこの鬼は近くの岩殿山に住んでいたという話もある。

 例によって典拠が示されていないから伝説の存在自体を信じようもない。ホンマカイナというのが実感ではあるが、まあまあよくできた話だなとは思う。             

                          (記2016.3.2)

 コースタイム

猿橋駅9:45~戸並入口バス停10:25~(一部ルートミス)~金毘羅宮11:45~大同山(907m)12:35~百蔵山(1003.4m)12:55~扇山(1137.5m)15:30-45~山谷集落16:37~鳥沢駅17:25

葛藤と挫折の果ての馬頭刈山 (2016.2.11)

 例によって例のごとし。

 山に行きたいのに、行けない。山に行くべきなのに、行かない。

 この葛藤というか、二律背反、あるいはダブルバインディングについては、自分でもよくわからない。説明できない。遠足に行きたくない子が、遠足の前夜あるいは当日の朝にお腹が痛くなるというのは、わかる。だが私の場合は行きたいのにお腹が痛くなるのである。

 しかし、その葛藤の構造についてはわかる。意識と身体、もっといえば感性としての身体がかみ合わないというか、分裂しているということなのだ。意識とは吾であり、身体も吾であり、感性もまた吾である。だがこの三者は必ずしも一体のものではない。したがって、ある局面において、対立し反発するということも起きる。その結果、上記のような、行きたいのに行けないといいう事態が発生する。

 以上が今回の山行の、まことに個人的な背景である。

 

 この葛藤分裂のゆえに、これに先立って二つのプランをのがしたというか、止めた。前日10日の計画が、前回の高川山の時の第一候補だった百蔵山~扇山。すっかり準備をしていたにもかかわらず、前夜酒を飲みつつ、中止にした。翌日になって苦し紛れに思いついた、そんなに朝早く起きなくてすむ、近場の入山尾根~今熊山(これも一応懸案のルートではあるが)に決めた。このルートは自宅から自転車でのアプローチとなるのだが、下山後自転車を回収に行く必要がある。その説明を女房にしていると、彼女の予定は昼過ぎから檜原村泉沢のHさん宅で歌の練習だという。女房はここ一二年、女3人でモモンガーズというコーラスグループを結成して、あちこち小さなライブ等に出演しているのだ。なかなか楽しそうである。まあ、それはいい。

 その内の一人Hさんが檜原村泉沢の最奥に住んでおり、そこは馬頭刈尾根の馬頭刈山の直下といっていい位置なのである。馬頭刈山にはこれまで二度登った。大岳山から行った最初の時に、地形図やガイドブックには出ていない、泉沢に降りるルート標識が二つあることを知った(このうちの泉沢の東側の尾根は泉沢尾根という名前で2014年版の「山と高原地図」には記載されている)。またそれとは別にもう一つ、泉沢の西側の尾根にも破線路が古い資料に記載されているのを知った。二度目に行ったのは8月の暑い盛りに茅倉から千足尾根を登り、泉沢尾根を下った。下って最初に出会うのが、前記のHさんの家なのである。あと二つ泉沢からのルートが残っていることになるが、特に面白いとも思えず、食指は動かない。

 だが不毛な葛藤をくりかえし疲れるよりも、アプローチの不便な入山尾根よりも、入下山共に送り迎え付きの泉沢周辺の方が今回は良いだろう、ということで急遽そちらに変更することにした。前から約束していた、Hさんの引越の準備の手伝いという名目もあることだし。

 

 いつもと同じく朝11時に起床し、近所にすむもう一人のメンバーMさんをピックアップして泉沢に向かう。途中の神社の前で降ろしてもらう。貴布祢伊龍神社(きふねいりゅうじんじゃ)という由緒ありそうな名前だが、貴布祢=貴船であり、それに明治四十四年に払沢の滝入り口にあった伊龍神社を合祀したとの由。社殿の右手が小さな滝になっており、すぐ奥には大きな磐座(磐倉・岩倉・いわくら)があり、それなりに風情はある。あとでよく読もうと、由緒書き等を撮影していたら急にカメラが動かなくなった。壊れた?困ったもんだがどうにもならない。以後スマホで撮影。

 神社の裏手の道を辿り、沢沿いの最後の人家の脇から山道に入る。雪はない。道形はしっかりしているが、やや荒れている。ほどなく一軒の廃屋があらわれる。道形がしっかりしっかりしていたのはこのせいかと思い至る。さらにそこから少し登るとさらにもう一軒の廃屋(?)。こちらは玄関が開いており、遠目ではそんなに廃屋といった感じはしない。手持ちの2万5千図(平成7年9月現地調査)を見たら、その二軒の建物記号がしっかり記載されていた。廃屋というものに特有の風情とともに、ちょっと感動する。

 ↓ 廃屋その1

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 ↓ 廃屋その2 まさか住んでいないよね。

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 その先あたりから道は不明瞭となるが、藪こぎというほどもなく、方向を見定めて歩きやすいところを選んで登ってゆくとほどなく茅倉尾根の支稜に上がった。植林帯の何の変哲もないところである。以後、馬頭刈尾根主稜線に出るまで徹頭徹尾、植林帯。風情も面白みもほぼゼロ。確かにガイドブックには載せようもないわなと思う。しかしまあ全くつまらないかと言えば、そうでもない。天気が良いせいもあって、植林帯特有の垂直のパラレリズムを味わいながら坦々と登る。茅倉尾根の主稜線に出るあたりから雪が出始め、以後上部ではほとんど雪の上を歩く。

 ↓ 茅倉尾根の支陵に上がったところ。下にもうっすらと踏み跡が続いている。

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 ↓ 茅倉尾根 垂直のパラレリズム

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 ようやく植林帯から抜けて、馬頭刈尾根に15:05に出た。ここは文献によっては鶴脚山916mとなっているが、何の標識もない。「山と高原地図」では北西に少し行った先の、ややこしいことにこれも916mのピークが鶴脚山となっている。まあどちらでもよい。ともあれ、多少なりとも展望がきくというのは気分が良い。馬頭刈尾根は人気ルートだけに入山者はけっこういるようで、雪道はしっかり踏み固められている。さっそく先日購入した軽アイゼンを装着してみる。なるほど、なかなか良い感じだ。この季節、やはり持っていると安心だろう。

 ↓ 馬頭刈尾根 

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 ↓ 馬頭刈山山頂 左大岳山 

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 馬頭刈山山頂着15:40。884m。北西には馬頭刈尾根にとどまらぬ奥多摩の盟主、大岳山が堂々と佇んでいる。 

 ↓ 馬頭刈山山頂から盟主大岳山遠望

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 馬頭刈山山頂着15:40。884m。北西には馬頭刈尾根にとどまらぬ奥多摩の盟だが山頂も三度目ともなると特段の感慨もない。写真だけ撮ってさっさと下山にかかる。いったん手前の鞍部まで引きかえし、指導標に従って泉沢に向けて下りはじめる。道は沢沿いに下るものと思っていたら、山腹のトラバースが続く。このままでは登りに使った茅倉尾根に合流してしまうのではと不安になるころ、ようやく支稜を下るようになり、ほどなく泉沢沿いの道となった。この間やはり全て植林帯。二三の造林小屋を見るのみ。面白みゼロ。堰堤を二つ越えれば人家が見える。その二軒目が目指すHさん宅。飼っている羊の啼き声とモモンガーズの歌声が聞こえてきた。

 予定通り登り2時間下り1時間、休憩を合わせて3時間半のささやかな山登りは終了。意識と身体と感性が合致しない時の、こんな山登りもある。

 ↓ 泉沢集落

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 その後は引越の手伝いとやらも免除されて、女房たちの練習を見物しながら、やがてビールから焼酎へ、さらに場所を変えて夕食をとりながらの酒パート2へと移って行ったのである。

 

コースタイム

貴布祢伊龍神社13:10~茅倉尾根支稜上13:45~茅倉尾根主稜14:00~馬頭刈尾根15:05~馬頭刈山884m15:40~泉沢H宅16:30            (記2016.2.12)

久しぶりの雪の山 高川山

 何となく復活の兆しを見た昨年をうけて、今年の目標もまた「月に二回の山行」と、ひそかに自信を隠して打ち上げたのだった。だが、先にブログに書いたように(「老醜酔惨~思いっきりコケた」)、正月早々に転んでひざを強打し、しばらく山どころでなかった。「月に二回の山行」は、はなから挫折の呈である。これまでなら、そのままずるずるといってしまい、結果、わびしさと敗北感に苛まれるところであるが、今年は少し違う。ささやかではあるが昨年の実績に裏付けられた小さな自信があるのだ。このままでは引きさがらない、何とか一月中にせめて一度は行くのだと、ひざの回復を日々待っていた。幸い回復は順調だが、試しの裏山散歩を二三度してみても、何だかはっきりとはしない。少し前に降った雪のことも気にはなる。しかし、えい、ままよ、無理をしなければ何事もできないのだとの、最近身につけた信念に基づいて行くことにした。

 予報では一月中で晴れるのは28日木曜日が最後。多少気を使って、あまり高くなく、時間もそれほどかからない、あまり厳しくない所、ということで高川山にする。

 高川山は昔からよく歩かれている人気の高い山である。8年前の春に一度、女房を含めたおばさんグループと一緒に、富士急禾生駅から登ったことがある。そのグループとはそのころ何度か一緒に行を共にさせてもらい、微妙に山歩きの質というか、幅を広げることができ、感謝している。その時も計画から何から全てお任せで、それなりに楽しい山行だったが、その後、大月駅へと北東に伸びる尾根と、南西にある大岩・屏風岩というのが気になりだした。

  ↓ 取り付きの手前、桂川にかかる橋の上から。正面、高川山。右鶴ヶ鳥屋山

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 北東の尾根は富士急線沿線の山に行くたびに最初に右手に見える低い尾根だが、遠目にも何となく風情が感じられるのだ。しかしわざわざそれを目的に行くというほどのところとも思えず、そもそも国土地理院の5万図、2万5千図には破線が記されていない、つまり道がないということになっている。部分的に踏み跡程度はあるだろうが、ある程度以上は藪コギになるだろうなと思っていた。ところが最新の「山と高原地図」をよく見ればしっかりと実線が入っているではないか。大岩・屏風岩方面は破線(難路)だがコースタイムも記されている。問題ない。あとは雪のことが気になるが、これはまあ行ってみなければわからない。なにはともあれ、行くのである。 五日市駅発8:04、大月駅下車9:47。近くのコンビニで食料を仕入れて10:00出発。登山口の尾根の取り付きから雪。スパッツを付け、歩きだす。人はけっこう入っているようでしっかりトレースがついている。むしろ雪の無い時より歩きやすい。

  ↓ 取り付から雪

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 すぐにむすび山と記された尾根上のピークに着いた。「大月防空監視所跡」と書かれた標識と石組みされた穴がある。旧陸軍のいわゆる戦争遺跡である。周防大島の嘉納山や小笠原母島の乳房山だったかにもこうした戦争遺跡、銃座や砲台跡があった。ラオスルアンパバーンでも見た。

  ↓ むすび山=大月防空監視所跡

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 桂川と笹子川にはさまれた尾根は、細くゆるやかに伸びており、意外なほど気持が良い。なだらかな登降を繰り返し、少しずつ高度を上げてゆく。最初のうちはときおり地肌が出ているところもあるが、北面とあって、ある程度以上からはずっと雪。左前方には富士山が優美な大きさを示している。

  ↓ こんな感じ

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  ↓ 優美なる山=Mt.FUJI

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 512.9mピークを11:15に通過し、天神峠に11:45着。こぢんまりとした峠。二体の馬頭観音がある。観音の頭上の馬頭の形が愛らしい。

  ↓ 陽だまりの馬頭観音

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 尾根は徐々に太くなり、傾斜も増してくるが、慎重に行けば特に問題になるところはない。ただ、氷化というほどでもないが、よく踏み固められたトレースのせいでときどきスリップしやすい。先行者は軽アイゼンを付けていたが、ちょっとその必要を今回は感じてしまった。今後の課題だ。ところどころに猪が掘り返した跡がある。猪も生きていくのはたいへんだ。途中二人の単独行者と行き違う。共に私より若干年上かと思われる男女。この日出会ったのはこの二人だけだった。

  ↓ 結構傾斜のきついところもある

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  ↓ イノシシが掘り返したところ。あちこちにあった。

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 高川山山頂975.7m、13:55着。無風快晴。360度の大展望。どの山も北面にはうっすらと雪をまとっており、その分いつもより少し美しい。ひたすら気持がいい。なぜか前回の山頂の記憶はまったくない。ふと気づけば三角点が抜けて横たえられていた。

  ↓ 高川山山頂の石まら(?)。右下に横たわっているのが三角点の票石。

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  ↓ 山頂から見る大菩薩連嶺

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 小休止ののち出発。ここから先、大岩・屏風岩方面へのルートが問題だった。この山に登る登山者の大多数は、富士急禾生駅からか初狩駅からの女坂ルート・沢ルートをとる。大岩・屏風岩方面に足を延ばす者はあまり多くない。ましてこの雪のある時に、先行者のトレースを期待できるかどうかなのだ。雪が無ければかすかな踏み跡を辿ることもできるが、雪が付くとそれが難しくなる。さらにこの山域はちょっとした岩場や痩せ尾根がところどころにあり、その魅力と共に危険性も増している。

 体調、時間も勘案しながら、場合によっては沢ルートから初狩駅へ下山もありえるなと思いつつ、初狩駅へのルートを下り始める。ほどなく左への分岐があった。細々ながらもしっかりとした踏み跡がトラバースぎみに続いている。それがどこまで続くかはともかく、とりあえず一安心。

  ↓ 羽根子山付近のやせ尾根。左右は切れ落ちている。

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 羽根子山896m、カンバ沢の頭(神馬沢山)あたりは部分的に左右が切れ落ちた痩せ尾根になっており、スリルがある。こういったところは大好きで、非常に楽しい。木が多いのであまり不安感はないが、慎重に進む。鍵掛峠、15:35。大岩へも踏み跡は続いている。名の由来と思われる大きな岩を左に見たすぐ先が頂上(15:55)。休みもせず右に進み、登り返せば分岐があり、その左先が屏風岩(山)。確かに南西側がちょっとした絶壁になっている。頂上には一本の松の木。どことなくヨセミテのセンティネルドーム(とその頂上にかつて生えていた松の木―アンセル・アダムスの写真で有名)を思い出させる。気持の良い頂上で眺望絶佳だが、そろそろ日も山の端に落ちようとしている。

  ↓ 大岩山の大岩。  

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  ↓ 写真に写っていない左側に屏風岩の絶壁がある。  

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  ↓ 参考:“Jeffry Pine - Centiner Dome”  by Ansel Adams  ま、違いますけどね。f:id:sosaian:20160131133503j:plain

 

 小休止の後、下り始めればすぐに三角点のある正式(?)な屏風岩山頂上に至る。あそこが屏風岩でここが屏風岩山。足を止めることもなく、下りを急ぐ。うす暗くなり始めた中、それなりにふんいきのある尾根を一気に下り、最後までトレースに導かれて登山道入り口の標識のある車道に辿り着いた。16:50。駅まで10分。その最後に凍結した舗装道路ですっ転んだのは、まあ愛嬌というものであろう。

  ↓ 山の端に陽が沈む  

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  ↓ 薄暗くなりはじめてきた  

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 あまり期待もしていなかったルートだったが、適度な積雪とトレースのおかげで、変化のあるルートを大いに堪能した。充実した一日となった。これをきっかけにきっと年度目標の「月に二回の山行」を順調に軌道に乗せることができるだろう。              (記2016.1.31)

 

コースタイム】1月28日

大月駅10:00~むすび山10:37~512.9mピーク11:15~天神峠11:45~高川山山頂13:55-14:15~羽根子山896m14:40~鍵掛峠15:35~大岩(山)15:55~屏風岩16:15~車道・登山口16:50~初狩駅17:00

 

美術館探訪録―2015年 1.国内篇

 以下に記すのは昨年2015年に日本国内で見た展覧会である。基本的に入場料を払って見た美術館・博物館での展覧会だが、一部には無料のものもある。寺院・教会・遺跡等も含む。一般画廊の個展等は含まない。回数で言えば29回。

 私はごく簡単なものではあるが、1973年以来見た全ての美術館での展覧会の記録をつけている。29回という数字は、学生としてあるいは引率教員として古美研*「古美術研究旅行」という名の授業)のように集中的(半)強制的に見た機会をのぞけば、2002年と同数で、最多である。よっぽど暇だったのかと言われそうだが、暇もたしかにあったが、気になる展覧会が多かったのだ。ちなみに43年間の総計は、海外も合わせて2015年末で1022回。数え方や記録不備もあるから厳密には正確ではないが、おおよそのところ。

 29回というのは平均すればたかだか月に二、三回にすぎないから、それほど大した数字でもないが、義理情実ぬきで、作家としてのおのれの肥やしとして見に行くとなると、なかなかけっこうな数字だと思う。わざわざ高い入場料交通費を払って、ほぼ一日を費やして見るのは、当然、味わい、学び、参考にするためである。したがって見た後に、それらを咀嚼消化する時間が必要となる。むろん選んで見に行ったものばかりではあるが、必ずしもすべてが良かった、参考になったということにはならないものだ。仮に月に二三度のペースで素晴らしい展覧会ばかりが続いたら、消化不良になる。月に良い展覧会を一回程度が適量なのではないかと思うが、幸か不幸か世界的にも珍しいほど美術館博物館が多い(その内実はここでは問わない)東京に住み、また近年は経済的にさほど好調とも思われぬにもかかわらず、質量ともに二、三十年前に比べても膨大としかいいようのないほど数多くの展覧会が開かれている。月に一回程度が適量などと言ってはおられぬというか、もったいないというか、ついつい真面目に出かけてしまうのだ。

 ということで、以下一覧。

 

*「  」内は展覧会の正式名称。その右の文言はサブタイトル。【 】はざっくりとしたジャンル

1.「ウィレム・デ・クーニング展」 【洋画】

  ブリジストン美術館/1月7日

2.「小畠辰之助」吉祥寺のモダニスト 【洋画】

  武蔵野市立吉祥寺美術館/1月12日

3.「表現の不自由展」 消されたものたち 【多・現代美術】

  ギャラリー古藤/1月27日

4.「小山田二郎」 生誕100年 【洋画】

  府中市美術館/1月29日

5.善光寺 (前立本尊御開帳) 【寺院】

  4月11日

6.7.松本城+開智学校 【城郭・建築・教育】

  4月12日

8.「マグリット展」 20世紀美術の巨匠 13年ぶりの大回顧展 【洋画】

  国立新美術館/5月13日

9.「マスク展」 【OA/プリミティブ】

  東京都庭園美術館/5月27日

10.「華麗なる江戸の女性画家たち」山種美術館実践女子学園香雪記念資料館連携

  企画 実践女子学園創立120周年記念特別展 【日本画

  実践女子学園香雪記念資料館/6月5日

11.「日本・ベルギー国際版画交流展(前期)」 【版画】

  宇フォーラム美術館/6月20日

12.「鴨居玲」 踊り候え 【洋画】

  東京ステーションギャラリー/7月2日

13.「ヘレン・シャルフベック」 魂のまなざし 【洋画】

  東京藝術大学大学美術館/7月15日

14.「丸亀ひろや/宮嶋葉一」 -Painting- 【洋画】

  カスヤの森現代美術館/7月25日

15.「遠くて近い井上有一展」 【書】

  菊池寛実記念 智美術館/7月25日

16.「田能村竹田」 没後180年 【日本画

  出光美術館/7月31日

17.「斎藤与里のまなざし」 生誕130年記念 中村屋サロンの画家【洋画】

  中村屋サロン美術館/8月3日

18.「パウル・クレー」 だれにもないしょ 【洋画】

  宇都宮美術館/8月25日

19.「ダリの遊び」 【洋画・彫刻】

  諸橋近代美術館/8月26日

20.「サイ・トォンブリー」 紙の作品、50年の軌跡 【洋画】

  原美術館/8月29日

21.「常設展」 【民芸】

  大津絵美術館/10月3日

22.「きものモダニズム」 大胆!モダン!とっておきの銘仙100選

                        【染織・デザイン】

  泉屋古博館分/10月3日

24.「ペインティングの現在」 4人の平面作品から +常設展 【絵画・他】

  川越市立美術館/10月31日

25. 常設展 【歴史】

  西の正倉院百済の館/11月23日

26.常設展 【文学】

  若山牧水記念文学館/11月23日

27.「藤田嗣治資料 公開展示」 【洋画】

   東京藝術大学大学美術館/12月3日

28.「村上華岳 ―京都画壇の画家たち」〈裸婦図〉重要文化財指定記念

                          【日本画

  山種美術館/12月17日

29.「水 ―神秘のかたち」 【日本美術】

  サントリー美術館/12月28日

 

 けっこう見ている割には堪能したという印象は薄い。年末の朝日新聞では毎年恒例の「回顧2015 美術」で高階秀爾、北澤憲昭、山下裕二がそれぞれの「私の3点」をあげているが、私は今年もまた、それらを一つも見ていない。ほぼ毎年そうである。迷って行かずじまいで若干後悔したものもないではないが、しょせん一期一会。美術展なぞ各自が自分の趣味なり感性なり思想なりで選べばよいのだ。といってこうしたベスト○○を識者に挙げてもらうのも、自分の位置を確認するという意味ではあながち無駄でもない。ただし前提として、私はそうした識者専門家なる者の目というものをあまり信用していないということもある。ちなみに高階秀爾が同日発売の朝日新聞の「私の3点」と毎日新聞の「この1年 美術」で挙げている3点が全く違うというのはどういうことなのか。同じ趣旨の企画記事であるにもかかわらず。

 

 ともあれ上記の中で見て良かったというか、印象に残っているのは18.「パウル・クレー」がベスト。20.「サイ・トォンブリー」が2位。次いで 8.「マグリット展」、23.「きものモダニズム」、28.「村上華岳 ―京都画壇の画家たち」といったところ。むろん客観性云々ではない「マイベスト」である。

 「パウル・クレー」については、この40年の東京および周辺での展覧会はほとんど見ている(はず)。今回もずいぶん前に見た作品も来ていたが、何せ好きな画家だから何度見ても良いのである。ここのところ、彼の制作をめぐって新たな解釈も色々と出てきており、その点に関する展示としても面白かった。「サイ・トォンブリー」については以前このブログに書いている。それについての友人とのやり取りの後日談もなかなか楽しかった。「マグリット展」についてはもう見なくてもいいかなと思っていたところ、ある友人に奨められて及び腰で見に行ったのだが、なかなか良かった印象がある。にもかかわらず、今イメージが浮かんでこないのはなぜだ?

 「きものモダニズム」は、ここ数年あわい興味を持っている大正前後のモダニズム、竹久夢二やそれにかかわる風俗意匠としての和服=銘仙の実物を初めてみる機会となった。素晴らしいということでもないのだが、実物を見る、確認するということの楽しさを味わえた。「村上華岳 ―京都画壇の画家たち」については、華岳をまとめて見るのは初めてだと思っていたが、帰宅後確認したらなんと31年前に国立近代美術館で見ていた。どおりで既視感があったわけだ。華岳も良かったがその周辺の京都画壇の画家たちが面白かった。一応ある程度は知っているつもりだったが、入江波光を始めとしてまだまだ魅力的な画家がいることを再認識。関連して加藤一雄の著作(『雪月花の近代』『京都画壇周辺』等)をひもとき始めている。こちらもかなり魅力的だ。

 

 期待はずれというか私としては面白くなかったのが1.「ウィレム・デ・クーニング展」、2.「小畠辰之助」、17.「斎藤与里のまなざし」。

 「ウィレム・デ・クーニング展」は悪くはなかったのだが(実際すごく良かったと、私が信用しているある作家が言っていた)、私の期待が大きすぎたのだろう。規模も小さかったし。9月にアメリカで何点か見たが、そちらはやはり良かった。

 「小畠辰之助」、と「斎藤与里のまなざし」については面白くなかったというのは少々酷かもしれない。いずれも見るのは初めて。小畠辰之助は名前すら知らなかった。やはり結果として美術史上で影の薄い作家というのは、それなりの作品しか残せなかったということでしかないのだろう。日本の洋画家の標準的な辛さが見えてしまう。中村屋サロン美術館という美術館があるのもこの機会に初めて知った。なお中村屋相馬黒光は大正期の美術・文化を考える上で抜きにすることのできぬ存在。その意味でもまあ行った意義はあったというべきであろう。

 

 ついでに記しておくと、見そこなって残念に思っているのが、今記憶しているのでは「没後100年 五姓田吉松 ―最後の天才―」展(神奈川県立歴史博物館)。知ってはいたのだが今現在の自分の興味・志向からは外れており、そこでなおかつ見に行くというのがなにか一種の教養主義というか、お勉強的な感じがして、結局行かなかったのである。そのあたりをどう考えるか、難しいところではあるが、まあ、しかたないか。

 さて2016年はどんな展覧会を見にいくことになるのだろうか。

                          (記2016.1.7)

 

老醜酔惨~思いっきりコケた!

 某月某日夕方、そろそろ制作に取り掛かろうかとしていた矢先、電話が鳴った。福生在の画家M君からである。共通の教え子だったHが鹿沼から泊まりがけで遊びに来ているから、一緒に飲まないかとの由。異存はない。退職以来、社会的生活に縁が薄くなったおかげで、暮れ正月の忘年会新年会のお座敷も暫時減少し、今年はついに一つだけ。楽でもあり、寂しくなくもないが、自ら招いた事態であるから、文句もない。

 すでに暗くなった中、武蔵五日市~拝島~福生と電車を乗り継ぐ。ついでにいつものように駅を降りてから一瞬道に迷うも、何とかM君宅に到着。制作中の絵がないとかでアトリエではないのが少々不満だが、暖かい居間で、相変わらずノーテンキに美しい奥様をまじえ、楽しいひと時をすごす。ビールにはじまり、私はよく知らないが、NHKの朝ドラ「マッサン」で有名になったとかいう「竹鶴」というウィスキーを飲む。日本酒、ウィスキー、ブランデーは翌日に残るところが多く、ふだんはあまり飲まないのだが、「竹鶴」は口当たりもよく、飲みやすい。自ずと舌は滑らかになる。

 まあ、それは良い。やがて終電の時間も近くなり、おいとまする。煙草を買いがてらのM君の見送りを受け、ついでに教えられた、いつもとは違う牛浜駅へと向かう道を歩く。少々千鳥足であることは多少自覚しているが、良い気分だ。さて、このコンビニの右の駐車場を突っ切って、と、そこに大型トラックがやってきた。駐車場に入ろうとしている。こんな狭い駐車場に入るのか、あぶないね、気をつけなくちゃ、と思いつつトラックに注意しながら歩いていたら、地面から10㎝ほど飛び出している車止めにつまずいて、思いっきりこけた。

 真正面から地面に倒れる。一瞬、右手は柔道の「前受け身」のような体勢をとった。この体勢を取れないばかりに顔面からぶっ倒れた酔っ払いを、今までに二三回目撃したことがある。受け身が取れなければ、顔面強打、鼻血、鼻骨骨折とあいなる。左手は、バッグを左側にたすき掛けにしていたせいか、瞬間前に出なかったようだ。その分(?)左足が前に出たせいか、ひざを強打。右手と左ひざ、う~ん、なるほど、ギリシャ美学のS字曲線だ、などと考えている場合ではない。痛い。痛いのだ。右手、血はほとんど出ていないが痺れ、うずいている。まあ当然だろう。左ひざ、痛い。相当痛い。だが、歩ける。大丈夫だ。本当か? 半月板損傷? 骨折? ひび? まあ、大丈夫だろう。しかしこれで少なくとも明後日予定していた山歩きはまずダメだ、あ~あ。などと、らちもないことが頭を駆けめぐる。

 駅に辿りついたら階段が登れない。降りれない。手すりの有難味がつくづくわかった。ありがとう!手すり。

 そう言えば何年か前に、やはり飲み会の後に道路ですっ転んで、足を骨折したやつ(高校同期の旅仲間K氏)がいたなと思いだした。また私の義母も亡くなる二三年前(当時78歳ぐらい)に自宅の玄関先で転んで頭蓋骨骨折と股関節骨折という事態になったことがあった。前者は「(酔っぱらって)馬鹿じゃないの」、後者は年をとるとそんなことで大怪我をするもんなのかなあ?と、いずれも他人事でしかなかった。さして同情も覚えなかった。ああ、あれは他人事ではなく、自分のことだったのだ。時として私も酔っ払いである。気持は別として、60歳というのは必ずしも若くはない。深く反省。自分がそうなってみて初めてわかる辛さ。これを機に障害をもった人やお年寄りにはもっとやさしくしよう、などと思う。

 五日市駅の階段を歯を食いしばって下り、家までふだんの1.5倍の時間をかけて歩いて帰る。痛みは増してきているが、まあ大丈夫(かな)。帰宅後ズボンをぬいで見たら、なんとひざは直径5㎝ぐらいでズルむけて、出血。ズボンの裏をめくってみたら、ごっそりひざの皮膚がそのまま付着していた。よっぽど強打したのかな。右手は160㎝程度、左ひざはせいぜい4、50㎝ぐらいの高距離を円弧を描いて打ちつけただけなのに、これほどのダメージがあるのだ。自宅のアトリエで制作用の脚立から落ちて骨折入院休職したやつもいる(友人の奈良のF教授)。知り合いの大工さんからは大工の事故で一番多いのが、やはり脚立からの転落だということを聞いたこともある。

 ↓ 見苦しくて済みません。出血はたいしたことはないが、膝全体が腫れている。

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 とりあえず大型バンドエイドを貼って、肩こり用の湿布を貼って、絆創膏で止めた。

 関係ないけど数日前にサウジアラビアがイランと断交したというニュースを聞いた。今日のニュースでは北朝鮮が地下核実験をおこなった(らしい)といっていた。いずれも痛いニュースである。政治的に痛いニュースは必ず一般市民の身体的痛みをもたらす。まあどう見ても、今回の私の身体的痛みと世界の政治状況の痛みとは直接の関係はないのだが、そこを想像力でもってつなげていくのが、普遍性へと至る道であろうなどと、思ってしまうのである。

 

 教訓:いずれにしても強くて美味い酒は飲みすぎないこと! 行住坐臥、常におのれのありようを自覚すること、である。なんにしても早く治ってほしいものだ。今年の目標「月に2回の山行」が早くも崩れようとしている。                                    (2016.1.6記)