艸砦庵だより

河村正之のページ 絵画・美術、本、山、旅、etc・・・

2017年初登山 「山椒は小粒でも・・・」 花咲山と岩殿山  (2017.1.6)

 月に2回×12ヶ月=24回の山登りと、「2時就寝~9時起床(本当は1時就寝~8時起床としたいところだが、まずは段階的にと)」という目標を、懲りもせず今年も年度目標として掲げた。

 さて、今年の初登山である。どこに行こうか。「2時~9時」あるいは「1時~8時」に改善されようと、日帰り登山では、朝4時台か遅くとも5時台には起きなければならない。特に日の短い冬場はそうだ。できれば6時間睡眠、せめて5時間睡眠でないと辛い。4時間以下となると、結局その日は中止せざるをえない。

 行くならばやはり充実した良い山行をしたいと思う。そのためには山の高さ、行動時間、ルートの難易度や、当然山そのものの良さ(ただし、これは行ってみなければわからないことが多い)といったことが要素としてでてくる。しかしそれらにこだわる限り、出発前の計画段階で起床時間、睡眠時間が高いハードルとなって立ちはだかるのである。

 そこで今回は発想を変えた。とりあえず年初めの今回は、そうしたことはそこそこにして、まあのんびり楽しく、まずは行くことだ、と。低くて、行動時間が短くて、アプローチの短いところ、上等。

 

 岩殿山大月駅の背景の岩山として昔から知っていた。むろん戦国時代の山城跡として有名なところであり、古くから登られている山。いつかは登ってみたいとは思っていた。花咲山はその名も、ルートについても、長い間知らなかった。中央線の車窓から見れば単なる裏山、藪山である。2014年版の山と高原地図『大菩薩』には山名もルートも破線ながら記されているが、1998年版には山名もルートも記されていない。つまり、ここ15年ほどで多少なりとも登られるようになったということなのだろう。

 いずれにしても、岩殿山にしても花咲山にしても、地図でも見るとあまりパッとしない、前山か裏山、あるいはせいぜい里山といった風情にしか見えない。登るのはもっと先、私が70歳くらいになってからのためにとっておこう、ぐらいに思っていた。だが単独では少々物足りないにしても、二つの山を連続して登れば、それなりに歩きでのあるルートになるのではないか。

 

 ↓ 大月駅前から見る岩殿山

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 ↓ 同じく花咲山から続く叉平山方面

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 武蔵五日市駅発8:05。大月駅9:52。初狩駅から歩いても登山口まで1時間足らずだが、今回は大月からバスを利用する。20分ほどで中真木バス亭(10:33)。少し戻って「花咲山」の指導標に導かれて小学校の裏手の道に入る。突き当たりの民家の左手から山道に入る。

 

  ↓ バス亭付近から見る富士山

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 しばらく鹿除けのフェンス沿いに登り、舗装された林道を横切る。思っていたより歩かれているようで、道はしっかりしていて、歩きやすい。ほどなく細い尾根上の露岩帯にトラロープが張られて「立入禁止」とある。「立入禁止」と言われても左は絶壁、右も踏み跡はなく、そこしか歩きようがない。やむをえず、ロープをかいくぐってそのまま進むが何の問題もない。なぜ「立入禁止」なのかわからない。向こう側には「女幕岩」の表示があった。

 

  ↓ 女幕岩 「立入禁止」のトラロープ

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 この近辺の山にはこうした礫岩の露頭や岩壁、岩峰が多く、単なるおだやかな里山にとどまらぬピリっとした変化を与えている。礫岩と言っても、中の礫は角ばったものではなく、水流で丸くなった玉石のようなものばかりであり、尾根上でありながら河原にあるような玉石ばかりがあるのはちょっと不思議な感じだ。太古の水流に洗われた玉石が富士山の噴出した火山灰が凝縮した凝灰岩に包み込まれ、長い年月の後に隆起し、浸食を免れたということなのだろうと、とりあえず推測しておく。

 その先で何匹かの猿の群れに遭遇。威嚇するような鳴き声をあげながら去っていったが、ちょっと怖い。

 

  ↓ こうした岩がところどころにある。中央を通る。

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   ↓ 木の間越しに花咲山を望む

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 尾根は思っていたよりも細く、落葉しているせいで見通しもきき、なかなか気持が良い。717mピークには何の表示もなく、いったん下って登り返した先が花咲山山頂(11:55)。梅久保山の別名もあるが、のどかな山名とちょっと違った、ピリッとした山である。三角点はなく、地形図に標高の記載もないが、750m圏の等高線。小さな祠が一つだけあるまことに気持の良い頂上である。木の間越しに360度の展望が楽しめる。山頂の祠の傍らには小さな金精様。

 

   ↓ 花咲山山頂

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   ↓ 山頂の祠 左下が金精様

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 山頂からは少し急な下りが続く。散りつもった落葉のせいで滑りやすい。下りきったところに花咲峠の表示。登り始めの女幕岩と対になるのだろう男幕岩の表示があったが、それがどれなのかはわからなかった。そこから二つ目のピークが叉平(さすでぇら)(山)、610.1m(12:30)。そのすぐ先で昼食とする。珍しく女房の作ってくれたお弁当を食べる。やはり美味い。

 

   ↓ 叉平(山)山頂

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 そこから尾根は二つに分かれ、登山道は右の尾根に向かって下っていく。まっすぐの尾根を行く道もある(あった)ようだが、そちら側には今は踏み跡はほとんどない。まあここは無難にと右を選び、のどかに快適に降りていく。小さな社の前を右に進めば、中央高速脇の道路に出た。まずは一山目、終了である。

   ↓ 叉平(山)から右尾根の下り

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 次は岩殿山。浅利集落を稚児落としへの登り口に向かう。ここから稚児落としまでの間は二十年以上前に宮地山からセイメイバン、兜山経由で歩いている。その時はできれば岩殿山までという予定だったのかもしれないが、時間切れで浅利集落に降りたのである。その時に浅利川の橋を渡ったのだが、橋は二か所あり、そのどちらを渡ったのだかはっきりしないが、どちらでも正規の登山道に至るはずである。ふと見ると目の前に不動橋と書かれた小さな橋がある。二つの橋のどちらでも良いのだからと、何のためらいもなくその橋を渡った(13:30)。

 対岸をほんの少し登ると小広く開けた場所。お墓が一つだけある。あれ?道がないな?と思いながらも、一つ先の橋からの道はすぐ先で合流するはずだと、そのまま藪に入り左にトラバースして行く。最初は薄かった藪も、次第に濃くなってくる。なかなか道が出てこないが、この時点ではまだ間違ったとは思っていない。やがて小さな沢にさしかかる。どうやらこれは何か間違えたことを自覚せざるをえなくなったが、とにかく進むしかない。沢を渡り、対岸に上がると、そこからは超濃密な笹藪が待ち構えていた。久しぶりの本格的な密藪。まっすぐ前に進めず、藪の下を這いずって行くしかないところも多い。下をかいくぐっていると、あちこちに猪のねぐらとおぼしきところがある。そう言えば猪は昼間はこうした藪の中で寝ているはずと思い出した。なんとか猪にでく合わさないことを祈るばかり。この密藪は正味は15分ほどだっただろうか。ようやく道に出た時はほっとした。やれやれ、である。あらためて地図をよく見ると、稚児落としへのルート上の橋は二つと思っていたのだが、実はその手前にもう一つ別の橋がごく小さく記されていた。思い込みである。またしても…深く反省。30分以上のロス。

 道の有難さをしみじみ感じつつ、細い尾根を辿る。稚児落としはやはり絶景というか、魅力的というか、なかなかの迫力である。ここを登攀した人はいるのだろうか。とはいえ、史実であるかどうか定かではないが(たぶんある程度は実際にあったことだろう)、「稚児落とし=幼児を谷底に投げ落し殺した」のだから、恐いというか、陰惨な話、むごい地名ではある。

   ↓ 稚児落としの左岸側 左奥が岩殿山f:id:sosaian:20170108222327j:plain

 

   ↓ 稚児落としの右岸側 

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 いったん登りつめた先が天神山。祠があり、中には天神とおぼしき彩色された木造の立像が一体。神道の神像の場合、胡坐を組んでいる坐像が多いと思うのだが、立像というのもあるのだろうか。またその傍らには那智青岸渡寺の木札が置いてあったが、この両者の関係はどうなのだろうかと、少々疲れた頭で考える。また、この祠の前にはいくつものやや丸い石が置いてあった。それを見ていて、ふと思いついたことがある。

 

   ↓ 天神山の祠の中の神像と木札 

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   ↓ 祠とその前に置かれた石 

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 甲斐は石仏も多いが、それとともに丸石神と言われるものも多い。文字通り真ん丸い石が祀られているのだが、この尾根上ですら玉石、丸い石が多く見受けられるのだから、里でも同様な丸石が地中から畑地から掘り出されることは多いだろう。中でも甌穴(ポットホール)の中にあったものは、見事な真球に近いものがある。暴れ川と言われる桂川の河原で見られるようなそうした丸石が、他と違ってこの地ではしばしば地中から掘り出されることの不思議さと、丸さそのものの形が持つ神秘性と相まって、素朴な信仰の対象となったのであろうと。

 

 天神山からはもうすぐだと思っていたら、もう一つ兜岩と呼ばれるピークが立ちはだかっていた。その直下で道は左にトラバース気味に下降する。巻道かと思うとすぐに二分し、左は林間コースとある。右をとれば結局はピークに登ることになった。そこから何ヶ所か下降、トラバースと鎖場が続く。鉄鎖、ロープとしっかりしているが、スリルはあり、楽しい。楽しいが疲れていることもあり、慎重に下る。

 

   ↓ 岩殿山と大月の町並みを挟んで桂川右岸の山々 

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   ↓ 鎖場 その1 

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   ↓ 鎖場 その2

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 築坂峠からが最後の登り。道もこれまで以上にしっかりしたものになるが、ほどなくコンクリート舗装された階段状のものになる。左に岩殿城址の表示を見てそちらに入る。城戸門跡の巨岩の間を入り上に上がれば、城址の小広い空間。戦国時代についてはあまり興味がなく、知ることは少ないのであるが、「つわものどもが夢の跡」の感はする。おりからの夕暮れが近い富士の大きさがその感をさらに際立たせる。

 東屋や乃木希典の碑のあるところには岩殿山山頂634mの標識があるが、これはおかしい。地形図を見てもわかるように、その先の烽火台や本丸跡の方が明らかに高い。そちらにも634mの標識はあるが、紛らわしい。

 

   ↓ 烽火台跡 最高地点(?)

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 一通り見て、暗くなる前に下らなければならない。下りは東に延びる尾根を下るつもりで地図を確認したつもりだったのだが、またしても読みそこなってしまった。城址の中ほどの馬場跡から東に向かう路を辿れば良かったのに、いったん城址の入口の表示のところまで下り、そこから東に向かうのだと思い込んだのである。下っても下っても東に向かう道は分岐せず、もはや登り返す気力はなし。そのまま下る。まあこの大岩壁(鏡岩)の直下を下る正面登山道とでも言うべきルート自体も気にはなっていたのだから、それでもよいのだが、やはり少し残念である。九十九折りの味気ない舗装された階段の正面に美しく暮れなずんでゆく大きな富士が在った。

 

   ↓ 正面登山道より鏡岩を仰ぎ見る

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 ↓ 暮れなずむ富士

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 顧みて、稚児落としの登り口手前のルートミスと藪こぎ、岩殿山頂からの下降ルートミスという失敗はあったが、結果として今回の花咲山+岩殿山は変化のある、予想以上に良い山、良いルートだった。登り口からの標高差はそれぞれ300mと280mだが、それなりに登りがいのあるルートとなった。「山高きがゆえに尊からず」である。「山椒は小粒でもピリリと辛い」である。前山、裏山、里山というべき山であっても、二つをつなげれば充分登りがいのある山行になる。これから日の短い冬場は、少しそんなルートを探して登ってみようかなと思う。    (記2017.1.6)

  

【コースタイム】2017.1.6 晴れ

大月駅9:52~中真木バス亭10:33~女幕岩11:23~花咲山750m11:55~花咲峠12:20~叉平山610.1m12:30~中央道脇13:20~不動橋13:30~墓地~藪こぎ~登山道14:00~稚児落とし14:40~築坂峠15:35~岩殿城址16:05~烽火台・本丸跡634m16:15~大月駅17:00

「日本のカッパドキア」深草観音から鹿穴~大蔵経寺山へ (2016.12.20)

 「明日山に行かないか?」と、Kからの電話。速攻で「行こう!」と答える。

 前回の山行から中一ヶ月。例によってこの間、何度も計画しては、そのたびに挫折した。日々、制作にまじめに取り組んでいる。作品は確実に進んでいる。その分、山に行く「気」が充ちてこないのだ。その間、私の内発性=「気」はすべて制作の方にふり向けられているようだ。その反作用からか、人(外発性)から声をかけられると、瞬時に応じてしまうのである。

 

 あだしごとはさておき。

 行き先はここ数年来の小さな懸案であった、甲斐の鹿穴から大蔵経寺山へと決めた。いつもの苦労、逡巡が嘘のように、スムーズに起床、出発となる。

 あずさ3号の車中でKと合流。甲府駅前からバスで武田神社まで。戦国時代にはあまり興味がなく、神社はチラ見で参拝し、要害温泉方面に向かって歩き始める。武田家のゆえか、扇状地という地形のゆえか、段々畑には立派すぎる石積みに目をひかれる。

 またここ甲州は、相模上州等とならんで石仏の多い地方であり、あちこちに石仏を見かける。地蔵、六地蔵不動明王馬頭観音と種類も多い。他ではあまり見かけること少ない双体道祖神もいくつかある。エロチシズムを感じさせない、素朴に二つ直立したお行儀の良いものである。

 

 ↓ 各種の石仏 かつてあちこちにあったものを道路整備や区画整理等でまとめたもの

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 ↓ 双体道祖神その-1 素朴である

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 歩くこと40分ほどで瑞岩寺。そこから右に東沢川の谷筋に入るとほどなく人家はとだえる。数日前の雪か、一部の路面は凍結している。

 

 ↓ 双体道祖神その-2 瑞岩寺にあったもの

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 ↓ 双体道祖神その-3 集落のはずれにあったもの 体部の彫は薄く面白い造形

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しばらく寒い沢筋の路を辿ると古い道しるべが二つ。「右 岩と山みち 左 山王(?)みち」、「右 岩と山みち 左 山みち」。「岩と」は深草観音の別名の「岩堂(観音)」だろう。この付近のものとは異なる硬い材質の岩に刀痕鋭く彫りこまれており、風化の跡も見えない。書体も優秀で、鄙びた感じがない。深草観音については特に興味もなく、また事前に知ることもほとんどなかったが、これはひょっとしたらそれなりのものかもしれないという予感が兆してきた。

 

 ↓ 二つ目の道しるべ 石の形といい書体といい、なかなかのもの

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 ↓ 寒く浅い沢沿いの登り 今日出会った唯一の登山者とすれ違う

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 ほどなく小さな祠のある大岩がある。磐座(いわくら)の名にふさわしい存在感である。近寄って見るとその下部の窪みには石造の仏像やら神像がいくつか置かれている。仏像と思われるもののいくつかは首が欠けており、神像と思われるものは欠けていない。明治初期の廃仏毀釈のおりのものかとも思われる。

 

 ↓ 磐座 右下に小さな祠 その左の窪みに石仏群がある

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 そのすぐ先が深草観音の入口。寄り道になるが、せっかくだからちょっと見に行ってみるかぐらいの気持だった。山門跡といわれる灯籠のあるあたりに近付くと、何やら苔むした岩峰ニョキニョキの異様な雰囲気。ラピュタか?アンコールワットか?といった感じである。

 

 ↓ 深草観音入口 左に石灯籠が見える

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 その正面の岩峰の上部に穴が穿たれているようで、そこに長い(15mぐらいか)大きな鉄梯子が立てかけてある。これは登らないわけにはいかないだろうと取り付いて見るが、半ばまで登ってみて、恐くなった。梯子の縦横の棒は丸いパイプで、幅が広く、段差も高い。傾斜もあり、露出感が強い。傾斜だけなら槍ヶ岳の頂上直下の梯子の方が強いが、恐さはこちらの方がはるかに恐い。まあ無理をしてもしょうがないと断念して降りる。下で見てみると昭和3年設置とあった。90年(!)近く前の鉄梯子。

 

 ↓ 良い写真が撮れず、この写真のみ http://kai-hou.blogspot.jp/2012/04/blog-post.html から引用

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 その右手の浅いルンゼ状には段が刻まれ、鉄鎖の手すりが付けられている。それを登るとすぐ上で水平になり左に向かう。その先にぽこんと空いた小さな穴。そこを降りるとそこが深草観音の本殿(奥の院と呼ばれる観音堂)だった。深草観音は別名岩洞観音とも言われたそうだが、この奥の院を見ると納得する。そしてその「岩洞」が「岩堂」に転化し、岩堂峠の名に残り、岩堂観音ともなったのではないだろうか。中は四畳ぐらいの広さで、正面には垂れ幕がかかっており、中をのぞくことは遠慮しておいたが、三体の観音像が置かれているはず。ともあれ、予想もしなかった面白さである。

 

 ↓ 奥の院右側のルンゼ 鉄鎖が設置されており、左上の岩窟入口に至る

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 ↓ 奥の院入口 中には畳?が敷かれ、正面の格子戸奥に三体の観音が置かれている

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 再び外に出てまわりをよく見ると、右隣の岩峰にも同じ高度で穿たれた穴がある。岩峰は垂直で、現状では上からも下からも辿りつけない。よくはわからないが、石の台座のようなものが残置され、仏像らしきものが斜めに立てかけられている。トルコのカッパドキアや9月に行ったアルメニアの石窟教会を連想させる。そう言えば地質的にはいずれもここと同じ凝灰岩質である。ともあれ人間というか、宗教というものは、いつでもどこでも似たようなことをするものだなという感慨。

 

 ↓ 右の岩峰 高さは15mぐらい 半ば崩壊している

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 ↓ 半ば崩壊した岩窟部をズーム 仏像が立てかけられているのが見える

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 下に降りてあらためて周囲を見てみると、いくつもの石仏が安置されている。一見あまり古いものとも見えなかったが、文政年間の年号が刻まれており、200年前江戸後期のものと知る。そのわりには彫りは鋭く、風化の跡も少ない。途中にあった道しるべと共通したものを感じる。

 

 ↓ 岩峰下部の石仏群 

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 ↓ 同上 ただしこれだけ浮彫りと筋彫りの組み合わせで他とタイプが異なる 頭部の十四面は不勉強で見知らぬ造形 

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 撮影はしなかったのだが、帰りぎわにちょっと離れたところから全体を見てみると、奥の院のある岩峰を中心に、その右に先ほど見た仏像が斜めに立てかけられている岩窟のある岩峰があり、左の岩峰にも同じ高度で同じような岩窟の跡らしきものがあった。どうやらこれは奥の院を中心として、三つの岩峰を三尊形式に見立てて同じ高さで岩窟を穿ったのではないかと思い至った。帰宅後の事後学習で少し調べてみたが、この深草観音が甲州三十三観音霊場の第六番札所ということなどは知ることができたが、この三岩峰=三尊形式岩窟という私の仮説についてはどこでも触れられていない。専門書、研究書を当たればあるいはという気もするが、さてどうしよう。

 ちなみに深草観音の岩窟を奥の院とするからには、前宮に当たるのが、来るときにちょっと立ち寄った瑞岩寺。746年僧行基の創建という伝承を持つ。行基は749年没であり、活動範囲は関西中心であったが、大仏建立に際して勧進を勤めたというから、この地に足跡を残していないとも限らない。なお奥の院の本尊の5.4㎝の十一面観音は、現在はこの瑞岩寺に置かれており、33年に一度御開帳される秘仏とされているとの由。

 

 おもいがけぬ拾い物をしたような気分で名残惜しく、周辺をもっと探ってみたい気もするが、先はまだこれから。先に進むことにする。すぐ上にしっかりした石積みの跡がある。かつて御堂か何かあった跡ではないかと思ったが、すぐ上の岩堂峠の看板で、かつての蚕種を貯蔵する石室の跡だったと知る。

 浅くいくつにも分岐する沢沿いの周囲は、小規模だが、岩壁岩峰が続く。大きなスズメバチの巣がいくつもかかっている。妙義山や西上州の岩峰と似たような景観である。そこかしこにせり上がる浅いルンゼに、懐かしい登攀気分が思い起こされる。

 

 すぐ上にある岩堂峠の名は2.5万図には記載されていないが、現地の表示板がある。そこからは松(赤松・黒松・落葉松)と落葉広葉樹の薄い混生林を進む。巻き道を行くのが一般的らしいが、あえて尾根通しに少し登ると、鬼山の表示のある1042mの山頂。ここに来るまでこの山名は知らなかった。今回の鹿穴も大蔵経寺山も1000mには満たないが、やはり1000mを越えるとそれだけで少しうれしい。尾根通しにこだわった所以である。そこに山名があるとさらにうれしい。さほどの風情もない山頂だが、平和な気分で昼食とする。

 

 ↓ 鬼山山頂 電池切れでここからスマホで撮影

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 山頂から鹿穴に向かって薄い踏み跡を辿ると、2.5万図に記載された岩堂峠。鞍掛峠と記載された資料もあり、いずれが正しいのかよくわからない。そこから一登りで鹿穴山頂。ここも松の木に囲まれた何の変哲もない地点で、展望もきかない。鹿穴という、ちょっと面白い山名から期待していたような面白みは何もない。Kは休みもせずとっとと先へ進む。

 

 ↓ 鹿穴山頂

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 以後幅広い尾根を、おおむねゆるやかな下りと時おりの登り返しを繰りかえす。歩きやすく気持の良い尾根だがすっかり落葉しているせいか、松との混生林のせいか、あまり美しさも面白みも足りない。位置的には甲府盆地を中心とする山岳展望を期待していたのだが、落葉しているにもかかわらず、展望はよくない。板垣山951m、深草山906mは山名表示板も見当たらぬまま通り過ぎた。

 途中、犬を連れた猟師二人と会った。多少の話をしたが、その中で一人は子供の頃、キャンプだとして深草観音の奥の院に泊まろうとしたことがあったとのこと。夏で、夜になると穴の奥からカマドウマやらなにやら虫がわらわら出てきて往生したとの由。この日出会ったのは、この猟師以外は単独行の男性一人のみ。静かな山ではある。

 

 ↓ 大蔵経寺山への稜線

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 大蔵経寺山も何の変哲もない一地点。しかもすぐそばにわずかだが明らかに高いところがあるにもかかわらず、下り気味の斜面に三角点が置かれている。大蔵経寺山という山名から、東北の一切経山や経塚山のように一切経大蔵経)を埋めた山かと思っていたが、帰宅後の事後学習では麓にある寺の名に由来するそうである。ただし途中の岩のゴロゴロしているあたりでは、何となく昔の宗教的施設の跡のような痕跡があった。

 

 ↓ 大蔵経寺山山頂 向こうの方が高い

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 ↓ 「界」と刻まれた謎の石 他にも文字の刻まれた石があった

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 休みもせず落葉のラッセルをしながら下り、「展望台」に着く。そこからは簡易舗装された幅広い林道となる。地図では林道に接することなく、そのまま尾根通しに下れるはずなのだが、その道が見出せない。やむをえず九十九折りの林道を歩く。ときおりショートカットして下っている内に、やがて猪除けの金網のゲートに出た。そこをくぐり抜ければもう町中。駅に行く道に少々迷いながら、山行を終えた。

 

 ↓ 富士山 手前左の三角の山は釈迦ヶ岳 快晴だが富士山だけは雲をまとっていた

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 その後は当然のごとく駅前の庄やで一杯。急ぎ帰らねばならない事情があるわけでもなく、山行後の美味い酒を味わったのである。

 山そのものよりも、日本のカッパドキアとも言うべき深草観音が強く印象に残った山行であった。またいつか深草観音周辺の岩峰やルンゼ群をめぐって見たいものである。

                      (記:2016.12.21)

 

【コースタイム】(2016.12.20 晴れ) 武田神社9:50~深草観音~岩堂峠12:40~鬼山13:05-13:30~鹿穴13:50~大蔵経寺山15:40~石和温泉駅16:50

敗退の笹子・中尾根から達沢山  (2016.10.21)

 (本稿は二つ前の山行記録です。いったん書き出したもの、敗退記ではあり、中断していたのですが、自戒のためにあえて書きあげてアップすることにしました。)

 

 前回の山行から二カ月以上空いてしまった。暑くて不快な夏。不順な気候。トランスコーカシア三国への旅。理由を言えばあるのだが、結局は怠惰であり、情熱の不足である。と、まあ言い訳にもならないことをつぶやいてみても仕方ないのだが。

 ともあれ、久しぶりに山に向かった。予定のルートは笹子から中尾根をへて、京戸山~達沢山~旭山~石和である。

 

 達沢山は有名な山とは言いがたいが、昔から一部の人にはそれなりに登られていたようだ。山岳雑誌等ではよく知らないが、私の持っているものでは、川崎精雄・望月達夫他の『静かなる山』(1978.7 茗渓堂)に収録されている記憶があった。帰宅後その章を読み返してみたら、文中に河田楨の『小さき峠』(1949.5.20 十字屋書店)によって筆者は達沢山を知ったとある。その本なら私も確か持っていたはず。確認してみると確かに書棚にあり、しかも読了している。しかし内容はさっぱりおぼえていない。河田楨のものは、読んでいるときには静かでレトロな空気感があり、ある種の心地よさにひたれるのだが、読後記憶に残る強さといったものはない。 

 ともあれ最近では、先に大沢山~大洞山~笹子峠と歩いた時に見た、カヤノキ平の頭から中尾根の頭の間の状態からも、思っていた以上に整備され、歩かれているように思われた。中尾根自体は2.5万図にも「山と高原地図2014年版」にも破線路の記載がなく、あまり歩かれていないようだが、しかし、どこかで記録を見たことがあり、地形図を見ても特に問題はないだろうと思った。いずれにしても全体として、まあ篤志家向きというべきルートではあろう。

 

 7:05五日市発。笹子駅9:01。新田集落の先まで歩き、舗装道路が右に大きくカーブするあたりにあるはずの登り口を探すが、見当たらない。左に分岐する林道はゲートが閉ざされており、通行禁止となっている。もとよりここまで中尾根を表示する道標はない。今でも一般的な登山コースとしては認定されていない、あるいは歓迎されていないということなのだろう。それはそれで、望むところであるが。

 とりあえず右に舗装道路なりに登り口を捜しながら進むが、見当たらず、左手の伐採がおこなわれているゆるやかな尾根末端の斜面から取り付くことにした。伐採とはいっても間伐で、さほど登りにくくはない。とはいっても、切り倒された木を時に跨ぎ踏み越えていくのは、登山道を登るのとはまた違った疲れがある。

 40分ほどで植林帯の間伐帯は終り、気持の良い広葉樹林帯になる。先が楽しみである。頭上を横切るはずの送電線を意識せず過ぎたあたりは、踏み跡のある明瞭な尾根となり、ほどなく1093mとおぼしきピーク。ここまで道標は一切無い。しかしここまで来ればあとは尾根なりに行けばよいと、そのまま進む。

 

 ↓ 植林帯が終わり尾根に乗る

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 ↓ 感じのよい広葉樹林帯 先が楽しみ

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 ↓ 同上 1093mピークの前後

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 間もなく再び踏み跡が薄くなり、さらに下る勾配が少しきつくなってきた。ちょっとおかしいかなと、地図を取り出す。コンパスも出そうとするが、無い。思い出した。先月アルメニアに行ったときに使ったショルダーポーチに移してそのままだったのだ。そのままさらに進む(下がる)と比較的しっかりした路が横切っている。視界は良くないが、木の間越しに谷(?)を隔てて大きな尾根が見える。その時点でまだ、自分はあくまでも本来の尾根上にいると思い込んでいたため、それが目指す笹子峠から大洞山への稜線だと思い込んでいた。

 「思い込み」、それが全ての敗因である。地図を見れば本来の中尾根の中ほどで左から上がってくる路が記載されている。今出くわした路がそれだと多少安心し、それを辿る。だがその路は作業路だったのである。作業が終われば歩かれないゆえに次第に衰え、廃道化が進み、怪しいものになってゆく。進むほどにその路は山腹を巻きながら次第に登ってゆく。おかしい。いったん戻って、今度は踏み跡を下に向かって辿って見る。ほどなくどこのものだかわからない舗装された林道近くまで降りてしまった。再び戻り直すと、途中から尾根上に登る踏み跡がある。今度はそれを登り、辿ると見覚えのあるところに戻った。なんだか、メビウスの輪を辿らされたような気がする。時間が気になり始める、結局1時間以上ウロウロと費やして、現在地不明、少なくとも目指す尾根上にはいないということだけはわかった。忠実に高みを目指して1093mピークまで戻って、仕切り直しをするには、時間を費やしすぎた。なによりメゲてしまった。「敗退」という言葉を受け入れざるをえなくなったということである。

 

 あきらめて下降を始める。先ほどいったんは近くまで行った林道に降り、それを辿ると地図の看板がある。そこは狩屋野川沿いの林道、つまり目指す方向とは90度違っていたのである。あらためて2.5万図をよく見ると、1093mピークの先は尾根なりに左、狩屋野川方向に曲がっており、中尾根を辿るには尾根なりにではなく、途中で右90度にほんの少し下降しなければならなかったのである。踏み跡に依存しすぎであった。地図をよく見ながら行けば何のことはない程度の読図力を要す所でしかなかった。すべての敗因は「思い込み」である。

 

 私のかつての沢登りや積雪期の山登りではいわゆる登山道の無いところを行くことが普通だったため、行動中の地図やコンパスの使用は必須のことだった。今回は篤志家向きコースとはいえ、尾根上に踏み跡があるということの安心感=踏み跡への依存と、コンパスの不所持が直接的な敗因である。何よりも最近は、程度の差はあれ、いわゆる登山道や道標のある山に慣れ過ぎているということなのだろう。文献や山と高原地図に出ているコースであっても、登り口・入山地点を見いだすのが結構難しい場合がある。だが、今回のように登高中にルートを間違えたというのは、ちょっと記憶がない。

 とは言ってもこれを機にGPSや高度計つきのプロトレックを持とうという気にもなれない(そもそもたぶん使いこなせないだろうし)。

 うらさびしく、何となくむなしい気持で、とぼとぼと笹子駅まで歩いた。これはこれで教訓とせずばなるまいが、中尾根から達沢山へは、いずれ近いうちに、あらためて行かねばならないだろう。

 

コースタイム】

笹子駅9:01~新田 尾根取付9:50~1093mピーク10:50~ルートミス迷走11:40~林道12:50~笹子駅13:50

晩秋の大羽根山からトヤド浅間へ (2016.11.18)

 それにしても、なぜ?と思う。わが悪癖、遅寝遅起きという生活習慣についてである。いや、それはその理由や問題点などすべてわかっているのだが、それがなぜ海外や旅先になると全く解消して問題なく早寝早起き体制に移行できるのかということである。

 海外でのそれは、時差の関係だと考えればわかる。つまり私の身体は海外時間で設定されているのだと。しかし、これが先日行った九州・山口の場合となると理解できない。5泊6日、毎晩9時前後には寝て、翌朝5時でも7時でも平気で起き出せるのだ。それが帰宅すると、あっという間に未明4時就寝11時起床に後戻り。と、まあ、結局は個人的意志的問題にすぎないということなのだが、いざ山に行こうという時には困る。寝酒の勢いを借りた4~5時間の浅い眠りで、重い頭を抱えて登る。途中の休憩で10~30分くらい寝入ることもある。それでも日の長い時期はまだ良い。寒く日の短い晩秋から冬にかけてはそうはいかない。行動時間やルート設定もおのずから限られてくる。ゆえに遠くの山には行き辛い。しかし山には行きたい。もうこうなれば近場でもどこでもいいのだという心境になる。

 その結果、思いついたのが、今回の大羽根山からトヤド浅間。登山口まで、わが家から駅まで歩き20分、そこから登山口までバスで約1時間、計1時間半。行き慣れた山域であり、近い。バスは7:19の次が8時台はなく、9:00発。これなら何とかなる。大羽根山もトヤド浅間も主稜線からはずれた支脈上に位置し、おそらくそれを目的に登る人はきわめて少ない。以前からその存在を知ってはいたが、私の「今年登る山」リストにも「いずれは登りたい山」リストにも記載しておらず、おそらく一生登らない可能性の方が高い山である。この二つを結ぶ笹尾根は奥多摩の中でもポピュラーなルートであり、私も二度に分けて全部歩いている。山域やルートに不足はあるが、まずは登ることを優先とする。標高差600m、歩程5~6時間、晩秋、快晴と、手頃なコースだろう。

 

 例によって5時間睡眠で満員のバスに乗る。座れない。乗客の9割が(中)高年の登山者。平均年齢60代後半か。

 バス亭浅間尾根登山口で下車。同時に降りた10余名はみな浅間嶺へ向かう。対岸の大羽根山へ向かうのは私一人。登山口には「中央区の森」の看板があり、見れば手すりと木の階段の幅広い道が尾根の上に続いている。そんなところを行くのはいやなので、すぐ左に分岐する道の方に入るが、すぐ先で合流し、結局は同じ道を行くこととなった。道は時々錯綜するところもあるが、特に問題はなく、歩きやすく、まあ快適である。

 ↓ こんな感じ

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 登り始めは植林帯だったが、すぐに広葉樹林帯も出てきて、以後広葉樹と植林帯の針葉樹がモザイク状に交錯する。晩秋特有の水色の空と中腹の黄(紅)葉した広葉樹の組み合わせは、見知ってはいても、やはり美しい。途中に炭焼き窯とヌタ場がある。また三頭山方面がよく見えるところがあった。

 ↓ 三頭山方面

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 一度休憩したそのすぐ先が大羽根山992m。ベンチがあり、先行のおばさま4名がいた。大羽根山自体は山頂らしからぬ尾根上の出っ張り。背後は植林帯が迫っているが、北側が伐採されて、浅間尾根とその先に御前山が大きく鎮座しているのに向かい合える。

 ↓ 大羽根山山頂

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 ↓ 大羽根山山頂から見る御前山 手前は浅間尾根

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 そこから30分ほどで笹尾根主脈と合流する。笹尾根は名前の通りかつては草原状の見晴らしの良い尾根で、富士を望む尾根であったようだが、現在では植林、広葉樹共に繁茂し、見晴らしはあまり良くない。

 ほどなく笛吹峠(大日峠)に着く。「大日」の文字を彫った道しるべがある。

 

 ↓ 大日峠(笛吹峠)の道しるべ 優美な書体 石全体の形も大日の見立てか

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 ここに限らず笹尾根上の峠は全て、かつての檜原村山梨県上野原方面との交易・生活の路である。谷沿いに本宿や五日市方面に出るよりも、山越え峠越えルートの方が安全で早かったのだ。したがって峠の名には檜原または上野原いずれかの、時には両方の地名が冠せられるので、笛吹(うずしき)峠はわかるが、大日峠となるとどうなのだろう。大日は大日如来のことであろう。仏教の中でも最上位に位置づけられる仏で、特に密教では最高仏とされている。また密教と関連付けられる山岳信仰の面では、富士山の本尊とされ、富士の神とされる浅間大神本地仏である浅間大菩薩ともされた。神仏習合の解釈では天照大神とも同一視されるとの由。それ以上詳しいことはわからないが、そうしたことから富士の良く見える笹尾根にあって、その大日と彫られた道しるべが置かれたということなのだろう。「みぎハかづま(数馬) ひたりさい○ら(西原 ○は異体字の〈は〉)」と散らし書き風に、なかなか優雅な味のある書体で彫りこまれている。

 

 丸山1098.3mの山頂は、三頭山側から来ると縦走路からちょっと外れた位置にあり、つい見落としがちである。前回踏んだかどうか記憶にないので、ちょっと寄り道してみる。三角点はあるが、特にどうということのない一地点。

 

 ↓ 丸山山頂

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  ↓ 落葉のパターン

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 ↓ 丸山~土俵岳の間

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 ゆるやかな起伏の植林帯、広葉樹林と歩けば小棡峠をへて、やがて土俵岳1005.2m。ここも山頂らしからぬところだが、やはり伐採された北面の展望は良い。三頭山、御前山、大岳山といわゆる奥多摩三山が一望できる。手前の落葉松の黄褐色が良い添景となっている。

 

 ↓ 土俵岳山頂

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 ↓ 土俵岳山頂からの左御前山、右大岳山

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 ↓ 土俵岳から浅間峠の間

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 さらに日原峠をへて浅間峠へは、広葉樹の割合も多く、気持が良い。今回いくつも通過した峠の中で、この浅間峠が最も大きく、東屋もある。

 

 ↓ 浅間峠の手前

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 ↓ 浅間峠

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 少憩ののち、峠から檜原上川乗方面への路に入る。すぐに右にトヤド浅間への尾根に乗る。踏み跡は思ったよりも薄いが、尾根上を辿ればよいので、慎重に行けば問題はない。

 

↓ トヤド浅間に向かう

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815mピークを越えた先の頂上831mは小広く、植林、広葉樹半々で展望はないが、それなりに頂上らしい雰囲気はある。古い手書きの山名表示板には「ズンガリ」とも書かれていた。その意味はわからない。トヤドは「鳥屋戸」で、かつてこのあたりで小鳥を捕まえるカスミ網などを仕掛けたところなのではないか。三角点のすぐそばには小さな祠がある。たぶんこれは浅間神社であろう。

 

 ↓ トヤド浅間山頂 この右前方に祠がある

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 さて下りである。その祠のところからごく自然に進みだす。ほんの10mも進んだところで何か引っかかるものがある。この方向で本当に良いのか?トヤド浅間のエリアに入ってからの踏み跡の薄さからすれば、この下りは要注意である。一ヶ月前の達沢山・中尾根での失敗が頭をよぎる。今回は慎重に2.5万図を片手にコンパスを振る。何と、目指す方向と45度ぐらいずれている。危ないところであった。いまさらながら、2.5万図とコンパスは必携であり、その使用は必須であると再認識。やれやれ。

 

 ↓ 下りの途中の伐採地から見る浅間尾根

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 古い赤テープが頼りの下りは、薄いながらも踏み跡はなんとか辿れる。やがて伐採地に出て一安心する。ところがその先でまた怪しくなる。山と高原地図では尾根の最下部で破線が二つに分かれるのだが、まだその手前と思われるあたりで左からのしっかりした作業道が合流してくる。これかなとも思って辿って見るが、それは登っていくようだ。やむをえず、そのまま尾根上を下降する薄い踏み跡を辿る。

 もう右手に民家の屋根が見え、岩まじりの痩せ尾根状になるあたりになると、タラの木やクマ苺などのトゲトゲの植物に行くてをはばまれる。左側に逃げようと試みるが、踏み跡は見いだせず、やむなく痩せ尾根に戻り、直進する。尾根上にはいくつかの人工物が設置されており、まあこれはこれで間違ってはいないはずなのだが、最後の小ピークから先がわからない。眼下には車の走る道路。踏み跡を左に辿ると、どうにもヤバそうな崖。二度三度と右往左往したあげく、最後の小ピークまでもどり、覚悟を決めて右前方に下る。最後に道路の法面の上に出るのを警戒したのだが、あっさりと法面からの通路に出ることができた。そこは京岳バス亭の少し先であった。15分ほどでやってきた満員のバスに乗る。結局トヤド浅間からの下りが今回の山行の核心部であった。

 

付記①

 全体を通じて意外と足が疲れた。前回の山行から9日たっているから疲れが残っているわけではなく、ちょっと不思議だった。途中で気づいたのだが、そういえば前回はサポートタイツをはいていたのだった。8月の燕~槍で初めてはいていたのだが、その締め付けられる感じというか、違和感があり、また実際どれほどの効果があるのか、今一つ実感できず、好感がもてず、今回は難度も低いことから着用しなかったのである。しかし今回の疲労感からすれば、やはり一定以上の効果はあるのだろうと認めざるをえない。一日たっても筋肉痛と言うほどではないが、疲れは残っている。複雑な心境である。それは一種の人工登攀ではないか。しかし、今後どうしよう。

 

付記②

 (中)高年登山者(私もその一人)が多いのは仕方ない、悪いことではないとして、マナーが悪いというか、例えば「すれ違う時は登り優先」という最低限のルールを知らない人と山中で行きかうと、やはり少し不愉快になる。

 また満員バスで、生活の足として使っているであろう地元のお年寄りが立っているのに、シルバーシートに座った中年の人(そのお年寄りよりは明らかに若い)が席を譲らないのは見ていて不愉快である。それを指摘できない私も情けないが。

(記:2016.11.18)

 

【コースタイム】2016.11.18(金) 快晴

浅間尾根登山口バス停10:05~大羽根山11:10~笹尾根11:40~笛吹峠(大日峠)12:00~丸山12:20~土俵岳1005.2m13:20~日原峠13:40~浅間峠14:20トヤド浅間15:10~京岳バス亭16:15

42(?)番目、20年ぶりの百名山 祖母山  2016.11.7

 前回8月の燕~槍縦走ですっかり味をしめたというか、意気投合したメンバーで、二回目の防高山岳部OB会(?)の秋山合宿をやろうということになった。基本は山口と東京の中間あたりの百名山ということと、私の個人的なつてもあって、いったんは大峰山ということに決まった。しかし、その後調べて見ると、今なお女人禁制が生きているとのこと。フェミニズムと宗教的意義のすり合わせという難問はともかく、無理押しすれば登れないことはなさそうだが、ここはメンバーの一人のF嬢の意を汲んで、急きょ九州の祖母・傾山群に変更した。

 当初、祖母山から傾山への縦走ということで計画を立ててはみたが、冷静に考えれば山中二泊の避難小屋泊まりといいうのは、現在のわれわれには少々荷が重いというのが正直なところ。結局、麓の民宿から祖母・傾、それぞれ日帰り山行を二つということにした。これはこれで悪くない計画である。

 

11月5日

 たまっていたマイルを使って山口宇部空港へ。出迎えてくれた同行のKは、つい先日故郷に退職帰郷を果たしたばかり。その実家にお世話になった。同夜、防高山岳部の4学年にわたるOB有志9名が集まってKの帰郷歓迎会。全員がほぼ、または完全に現役をリタイアしている。ああ、光陰矢の如し。

 

11月6日 晴れ

 最新データが入っていないカーナビのおかげで、大きく迷走迂回ルートを辿らされて、豊後大野市上畑の民宿を目指す。途中、行がけの駄賃に原尻の滝とやらに寄って見る。「日本のナイアガラ」はいささかオーバーだが、まあそれなりのもの。だがそれよりむしろ、周辺に散在する石仏群の案内表示に心惹かれる。

 

 ↓ 「日本のナイアガラ」

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 本来の登山口の尾平にある旅館は現在休業中とかで、少し手前にはなるが、上畑の民宿泊は選択の余地がないのである。そのすぐ近くまで来ているはずなのに、人家は見当たらない。電話して確認し、脇道を入ったところでようやく探り当てることができたが、本当にたった一軒だけ、山陰にひっそりとたたずんでいた。御主人は現在85歳。奥様は入院中とかで、年老いた犬と暮らされている。なんだかこれだけでも一篇の物語のようだが、なかなか味わい深い。

 

11月7日 快晴

 4:30起床。5:00心づくしの朝食後、車で登山口の尾平鉱山跡へ。駐車場に車をデポし、6:45に出発。その時点で水の入ったペットボトルを忘れたというか、宿においてきたことに気づいた人、約一名。水量豊かな奥岳川沿いに進み、吊橋を二つ渡り、さらに二回の渡渉がある。その内の一回は滑りやすい対岸へのジャンプである。

 現在、祖母山に登るのは比較的容易な神原コースや熊本県側からのコースからが多く、今回われわれが登る黒金山尾根は健脚向きとされているらしい。あえて難しいルートを選んだつもりはなく、二つの山を登る上での山群の構成上からと、渓谷美や岩峰、原生林、一部とはいえ縦走路を辿ることができることなどから選んだルートである。とはいえ、尾平からの標高差は1166mであるから、確かに日帰り登山としてはなかなかのアルバイトである。尾根の取付きはやや急傾斜で、中間にややゆるやか部分もあるが、その前後はまた傾斜がきついという構成である。

 明るい自然林の尾根上に続く山路は歩きやすいが、意外と歩く人は多くなさそうである。ところどころ美しく色づいた紅葉が目を楽しませてくれる。しばらく行くと前方に岩峰の連続する主稜線が見えた。なかなか素晴らしい山容である。

 

 ↓ こんな感じ

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 ↓ 中腹では紅葉していた

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 ↓ 天狗岩から主稜線上の岩峰群

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 だいぶ登り、スズタケのややうるさくなってきたあたり、左に天狗岩の岩峰が近づいてきた頃、水場が出てきた。そのすぐ上が天狗の岩屋。充分ビバーク可能である。さらにちょっとしたゴーロ帯、二三の梯子を慎重に登れば天狗岩の横の縦走路にポンと飛び出した。出発して休憩も含めて3時間45分だから、ほぼコースタイム通り。悪くないペースである。だいたい今日のペースがつかめたように思う。

 すぐ近くの展望台のピークに立てば、眼前に目指す祖母山、振返れば遠く美しい傾山と、そこに至る重厚な縦走路が見える。西には先頃噴火した阿蘇山が巨体を横たわらせている。予想以上に素晴らしい景色に歓声が上がる。

 

 ↓ 主稜線上の展望台から祖母山頂を見る

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 ↓ 傾山をのぞむ

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 ↓ 遠く阿蘇山塊をのぞむ 中央中岳 右のゴツゴツは根子岳 その主峰右側に先の地震で生じた崩壊が見える。

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 縦走路を辿ると頂上直下になにやら垂直の長い梯子が見える。あれを登るのかと思いながら頂上直下の急登に差しかかると、確かにいくつかの梯子は出てくるものの、先ほど見えていたものとは違う。

 

 ↓ 頂上直下ではいくつか梯子が出てくるがこれではない

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次か次かと思う内にポンと頂上の手前に飛び出した。あれはいったい何だったのだろうかと思うが、よくはわからずじまい。

 これまで人っ子一人出会わなかったが、さすが百名山の山頂ともなるとそうはいかない。とはいってもやってきたのは三組七人ほどである。静かな山頂で360度の大観を堪能する。

 

 ↓ 記念撮影です。左K、中一級後輩のF、私。

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 ↓ 古祖母山をへて傾山へと続く縦走路

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 私は百名山への執着は、昔はともかく、今はほとんど持っていない。むろん「深田久弥百名山」という、他者の価値観に無条件に追随する登山者の、自由と創造性の無さを批判することはあるが、百名山に選定された個々の山そのものの良さ、素晴らしさを否定するものではない。

 これまで登った百名山は41座。ただしそれは高校生ごろからごく素朴に自分なりにカウントした数字であって、厳密に最高地点ということになるといくつかは怪しいというか、不合格のものが出てくる。例えば富士山は富士吉田口頂上までは登ったにしても、最高地点の剣が峰に立っていない以上、やはり登ったとは言えないのである。その点からすると正確には38座だろう。しかし百名山制覇を目指していない以上、何よりも長く人の行かない山に親しみ、人の行かないルートに喜びを見出してきた私としては、それはまあどうでもよいことである。ともあれ今回の一応42座目の祖母山は、41座目を登って以来実に20年ぶりの百名山である。20年間、百名山には目もくれなかったということだ。

 明治23年に日本アルプスの開拓者ウォルター・ウェストンは日本アルプスにおもむく前の熊本滞在時に、富士山に次いで訪れた九州の山旅で阿蘇の次に、当時九州の最高峰と思われていた祖母山に登った。言うまでもなく九州の最高峰は屋久島の宮之浦岳1936mであるが、九州本土の最高峰は九重の中岳1791mである。帰宅後の事後学習で知ったのだが、ウェストンが祖母山に登ったのは何と11月6日。われわれの登った一日前である(だから何だと言われても困るが、奇縁と言えなくもない)。ちなみにルートは熊本側の五所コースからの往復だったとの由。

 故事来歴はともあれ、祖母・傾山群は広い範囲に障子岩、傾山などの顕著なピークと多くの登山ルートを包括し、またその山懐には数多くのすぐれた沢ルートも内包している。また山岳宗教や周辺に多くある鉱山関係のことなど、人々の生活とのかかわりの面でも興味深い。まさに名山の名に恥じないすばらしい山域である。

 

 快晴の静かな山頂を充分に味わったのち、下山に移る。九合目小屋へは登山者の多さを物語る深く掘りこまれた溝状となっており、滑りやすい。展望の良いやや痩せた尾根を過ぎ、しばらくゆくと宮原コースへの分岐。そこからはまた歩きやすい尾根をたんたんと下る。入山時に見た奥岳川の吊橋を渡ればほどなく車デポに到着。心楽しくも充実した一日の山行を終えた。

 

 ↓ 宮原コース分岐へ向かう 

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 ↓ 宮原コースの末端近く まだ紅葉していない

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 ↓ 奥岳川吊橋付近から見返る 天狗岩であろうか

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【コースタイム】

尾平駐車場6:35~最後の渡渉7:30~天狗の水場10:10~縦走路10:30~祖母山頂12:07-13:13~宮ノ原分岐14:20~駐車場16:40  同行:K重K夫 F.K子

 

11月8日 曇り一時雨

 本来はこの日、九折から三尾コースから傾山に登り、九折越経由上畑コース下山の予定であった。しかし天気予報では午後から雨、3時から雷雨。前日に堪能し(すぎ)たこともあって、前夜の話合いで登山は中止、石仏巡り観光へと転進することにあいなった。せっかく遠路はるばる来て日帰りの山一つとは内心忸怩たるものもあるが、まあ、それはそれ。融通無碍。以下、山ではないが、旅の記録としてごく簡単に記しておく。

 

 のんびりと朝食をとって出発。私以外の二人はなぜか筋肉痛との由。情けない。

 

 ↓ 民宿の近くでみかけた。「獣魂」の語は珍しく、重い。しかし獲った獲物のための石碑を建てる民族は世界中で日本ぐらいのものではないだろうか。

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 一昨日見た原尻の滝の近くから石仏(磨崖仏)巡りを始める。まず最初は辻河原石風呂。

 

 ↓ 辻河原の石風呂。岩壁に穿たれたサウナ。中央の黒くすすけたところが現在でも使われている。

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川岸の凝灰岩の岩肌をくりぬいたもの。風呂とはいってもつまりはサウナであり、したがって北方由来のものだろう。それ自体は石仏ではないが仏教との関連も深いそうだ。近くに他にもいくつかあるようだが、ここは現在も年に一度使われているというのは驚きである。そう言えばわが故郷防府の岸見や阿弥陀寺にも、タイプは違うが石風呂があり、隣の山口市にもある。

 次いで宮迫西石仏と宮迫東石仏を見る。古拙とも言えるがやはり、それなりのレベルのもの。

 

 ↓ 宮迫の西石仏(磨崖仏) 彩色は近世のもの

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 ↓ 宮迫の東石仏 石も仁王もいずれは植物にのみこまれてゆく

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近くには他にもいくつかあるようだが、このエリアは以上とし、臼杵石仏に向かう。

 石仏(磨崖仏)は西日本に多く分布しているが、その中でも大分県は特に多いところである。平安から鎌倉のものであるが、比較的早くに忘れられ、民間の信仰の対象となることも少なく、千年もの間放置されていたとのこと。それは仏教国日本では珍しい現象と言えよう。この日泊まった旅館のロビーにおいてあった『豊後の磨崖仏散歩―岩に刻むほとけとの対話』(渡辺克己 1975年 双林社)の最初の数頁をちょっと読んでみたが、来歴不明で関連資料がほとんど残されていないなど、いろいろ謎の多い存在だということであり、興味がそそられる。

 

 ↓ ウ~ム… ここにもゆるキャラ  

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 次にむかったのは大分の石仏群の中でも中心的な臼杵石仏群。比較的狭い範囲にいくつかの石仏群が存在している。国宝に指定されている古園石仏は長く頭部が落ちて下に置かれたままだったのが、20年ほど前に修復され、胴体の上に戻されたというのを今回初めて知った。やはりレベルは高い。

 

 ↓ いくつかの石仏群が散在している 

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 ↓ 同上 

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 ↓ 上の写真の右の仏像の頭部拡大 

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 ↓ 国宝指定の古園石仏 落ちた頭部は長く下に置かれていた 

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 石仏は当然ながら信仰の対象であるが、私にとっては美術というフレームの中で見ている。先日旅したアルメニアの教会の在り様などとどこかで重なって、美術とは何か、作る・表現するとは何か、という答えの出ない問がまた湧いてくるのを感じるのである。

 

 次いで隣接しているヤマコ臼杵美術博物館をざっと見て、ながゆ温泉の宿に向かう。投宿後、まだ時間もあることだし、ということで、車で30分ほどの岡城址に行ってみた。岡城址といえば「荒城の月」。それから想像していたのはこじんまりとした、うらぶれたものであったが、実際は堂々としたものである。しかし晩秋の曇天の夕暮れという条件もあって、なかなか風情のあるものであった。滅びゆくもの、みな美し。

 

 ↓ 岡城址 本丸入口付近

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 ↓ 追手門付近

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11月9日 曇り

 帰路、帰りがけの駄賃に耶馬渓に寄ってみる。耶馬渓といってもいくつものエリアに分かれているようだが、行ったのは深耶馬渓(一目八景)と本耶馬渓青の洞門)の二か所。深耶馬渓はまあ、特にどうということもなし。ただ、いくつか入ってくる小さな支流を遡ってみると楽しいかなという気もする。青の洞門の掘られた一帯もまあそれなりではあるが、やはり数多くの山、渓谷を見なれた目からするとスケールの小ささは否めない。というのも野暮ではあろうが。

 

 ↓ 下部の道路が本来の青の洞門のあったところ。現在は舗装道路となっている。当初の洞門は入口と出口にわずかに残っている

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 ↓ 禅海和尚の手掘りの鑿の跡が残っている部分。奥の窓は最初に作られた明り取り用の窓といわれている。f:id:sosaian:20161114222052j:plain

 

 ここに限らず、今回の観光はすべて事前にはなにも調べていない行き当たりばったりのものであったため、帰宅後に事後学習してみれば当然見落としも多かったことに気づくが、それはまたそれ。本来行く予定はなかったのであるから、行っただけ儲けものだと思うべきであろう。

 ともあれ山は予定の半分しかこなせず後は軟弱な観光旅行に終わってしまったわけだが、これはまたこれで良しと思う。いや、見方を変えれば、長く気にはなっていても結局一生見ずに終わる可能性の方が高かった、臼杵の石仏群や耶馬渓、岡城址を思いがけずに見ることができたわけだから、むしろ収穫の多かった旅であったといっても良いのである。

 なお、蛇足ではあるが、この日アメリカ大統領にトランプが当選したのを知り、脱力したというか、むなしさにおそわれたことも付記しておく。

 

 その夜は故郷防府でまた別のメンバーで飲み会。退職、帰郷、人生、が肴である。故郷とは言っても、私の生まれ育った実家はすでに人手に渡っている。

 さて次は来年の春合宿。どこに登ろうか。  

                          (2016.11.11)

燕岳から槍ヶ岳へ(30年振りの北アルプス・45年振りの防高山岳部夏山合宿) -2 

8月3日

 4:00起床。快適とは言い難いが、まあなんとか眠れた。夜半、雨が降ったが、明ければ上空は良く晴れている。下界は一面の雲海。日の出を見る。格別な太陽信仰は持たぬにしても、やはり荘厳としかいいようのない、光と彩の織り成す壮大なドラマである。遠く八ヶ岳南アルプスの間に、富士山がそのシルエットを小さく見せている。

 ↓ 富士山を望む

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 振返れば、目指す槍ヶ岳方面の眺望が素晴らしい。何というべきか。さすが北アルプスである。これだけの豪快さは、やはり他の山域では得られないものだ。

 

  ↓ 黎明の雲海

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 ↓ 槍ヶ岳を望む 手前、喜作新道から大天井岳

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 今日の行程は大天井岳を越えて、東鎌尾根とば口の西岳ヒュッテまで。コースタイム7時間20分、最大標高差670mだから全行程の中で最も楽な一日のはずである。

 

 燕山荘を6:00に出発。なだらかな尾根筋を快適に進む。快適な稜線漫歩である。白い風化花崗岩と這松の緑。合い間に点綴された高山植物。イワギキョウの青、イワツメグサの瀟洒、クルマユリの可憐・・・。

 ↓ 白砂青松の稜線漫歩

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 ↓ 岩桔梗(たぶん)

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 K氏、Fさん、共に快調そうである。私も調子は悪くはないが、何せ、二人の調子が良すぎる。もっとゆっくり歩いて、景色を、花を、山を、愛で、味わいながら行こうと言いたいところであるが、一人遅れ気味では説得力に欠ける。とはいえ、順調に歩けるのは気持の良いものだ。蛙(ゲエロ)岩、為右衛門吊岩とおぼしきところを過ぎ、切通岩と、この表銀座=東鎌尾根をほぼ独力で切り拓いた小林喜作のレリーフを見れば、大天荘への巻き気味の登りとなる。

 小屋に荷を置き、頂上2922.1mを往復する。大天井岳にはまわりのきらびやかな巨峰に比べて、これといった顕著な個性はないが、昨日の燕岳とともに一応、二百名山の中に入っている。頂上は折悪しくガスがかかって何も見えず。早々に下りる。

 ↓ 一応、記念写真 

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 小屋からは巻き気味の下りで大天井ヒュッテへ、さらに巻き道を辿り、ビックリ平で一休み。休んでいたら韓国の登山グループがやってきた。全員大荷物で強そうだ。半分近くは女性。どういうパーティー編成なのかよくわからないが、聞けば総勢12名で、9日間で立山までテント泊で縦走するとのこと。この後も上高地までの間に、結構多くの韓国人パーティーを見た。いわゆるツアー登山らしいが、最近はこうなのだろうか。彼らの目に映る日本の山、日本の登山者はどう見えるのだろうか。両国の歴史的関係はともかく、機会があればゆっくり話をしてみたいものだ。

 その後も赤岩岳を巻き、ヒュッテ西岳まで順調に進む。ほぼ予定通りの行程で終了。小屋に荷を置き、西岳頂上2758mを往復する。途中、比較的新しい熊の糞を見た。これ以外にも何ヶ所で見たが、これが最も新しい。参考のため(?)に写真をあげておく。右の長辺で約10cm弱。まあ、熊もいるだろう。雷鳥は今日も見えず。

 ↓ 参考のためとは言いながら、見苦しいものをお見せします。

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 小屋は小ぢんまりとした、感じの良いもの。ただし、寝場所が蚕棚の上段、トイレが外というのが少々辛い。

 途中前後していた韓国人パーティーのテント場の受付時に、何だか小屋の人がプリプリ怒っている。以前にルールを無視され、だいぶ嫌な思いをされたことがあるらしい。しかしそうは言ってもねえ。双方、それぞれの現地と国際的なルールを理解し、遵守することが肝要なのだ。国や民族の問題ではなく、あくまで個々人そのものの理解とモラル等の問題なのだが、つい「○○人は~!」と口にしてしまいがちである。困ったもんだ。自戒せねば。

 そう言えば、今日は女房の誕生日だった。誕生祝いという習慣はわが家にはないが、こうして一人山にいるというのも多少問題かなと、小さく反省する。

 

【コースタイム】8月3日

燕山荘発6:00~大天荘9:30頃~大天井岳~大天荘発10:30~大天井ヒュッテ11:03~ビックリ平11:40~ヒュッテ西岳14:10

 

8月4日

 山中三日目。快晴。槍ヶ岳に登り、槍沢を下る日、つまりメインの日である。登りの最大標高差は680m、下りの標高差は1380m、コースタイムは8時間半と最長の日。

 黎明の常念岳の左、東天井岳あたりから朝日が登る。槍穂連峰がモルゲンロートに染まる。細くせり上がる東鎌尾根が手強そうだ。

 

 ↓ 右、常念岳

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 ↓ 中央、槍ヶ岳 左に大喰岳、中岳

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 ↓ 右、北穂高 左に奥穂高から吊尾根をへて前穂

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 小屋を出て下りはじめればすぐに階段、梯子、鎖場と続く。以後も痩せ尾根は小さなアップダウンを繰り返し、それを縫うようにしていくつもの梯子、鎖場が連続し、気が抜けない。道そのものはしっかりしている。水俣乗越は計画上の最後のエスケープルートだったが、ここまできてエスケープする理由はない。ただし、Fさんのペースがやや遅いというか、私が遅れず付いていけている。何だか少しリズムが悪そうだ。あとで聞けば、やはりこの日が最もきつかったそうである。ヒュッテ大槍の手前の長い垂直の鉄梯子の下りなど、なかなかスリルがある。

 

 ↓ 手前、天丈沢 右の稜線が北鎌尾根 

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 ↓ 垂直の鉄梯子 鉄は意外と滑りやすい 

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 ようやくヒュッテ大槍に辿り着くと、Fさんはテーブルに突っ伏してしばらくグッタリ。だいぶきつかったとの由。ゆっくり休んだのち、ザックを小屋に預け、サブザックに必要最小限のものだけ入れて、槍の穂先へ向かう。ここまでよく晴れていたが、そろそろガスが去来し始めている。もう少し待ってくれないものか。

 肩の小屋の前から、いよいよ槍の穂へ。場所によって登り下り専用ルートのペンキの表示に導かれて、上に向かう。特に難しいということはないが、ところによっては2~3級の岩登りの領域である。われわれはともかく、こんなところをよく素人が登るなあと思う。団体の高校生グループの下りで、一部混雑している。ちなみにここを登るのにヘルメット着用が必須という話を聞いた。だが、穂高あたりではある程度有効だろうが、槍の穂に関しては、どだい役には立たないだろう。落石はほぼ落ち尽くしていて無いし、滑落ならともかく転落には無意味だと思われるからである。

 

 ↓ 頂上直下の鉄梯子

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 頂上直下の垂直の鉄梯子を二つ登り切れば、そこが頂上だった。

 標高3180m。日本第五位。言うまでもなく日本を代表する名山の一つである。前回来たのは1976年、芸大山岳部の夏合宿として、剣三田平での定着合宿終了後に縦走してきたのだ。入山後16日目だったと思う。雨にたたられた縦走だったが、槍の頂上だけは晴れていたように記憶している。翌年にはちょっとしたいきさつがあって山岳部を退部した。あれから40年…。

 宿累々たる岩の先に、小ぢんまりとした祠が一つ。手前にむき出しの三角点がなぜか二つ。あいにく、ガスがかかり、展望はかなわない。Fさんは数年前に亡くなられた御主人の遺影を取り出され、一緒に記念撮影。彼が見守っていてくれたから恐くはなかったとのこと。人それぞれ、いろんな人生をへて、この山頂に立っているのだ。かつての防高山岳部も、今や全員還暦を越えた。これはこれで感慨深いシーンだと言えよう。

 

 ↓ 頂上は白いガスの中

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 ↓ なぜ三角点が二つ?

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 ガスは晴れそうにもなく、下りにかかる。下りの方が登りよりも恐い。Kが鎖に体重をかけ過ぎてバランスを崩す。右腕に打撲と擦過傷。腫れあがる。Fさんは看護師で元養護教員。応急処置はお手の物。しかしそれ以外に特に問題もなく、下りきる。

 

 ヒュッテ大槍に戻り、ゆっくり休み、つけ麺なんぞを食す。13:10、槍沢ロッジに向けて下降を始める。歩程3時間20分と、先はまだだいぶ長い。振返って見ても、モレーンの堆積した長大な槍沢の上部はガスに覆われ、稜線や槍の穂先は見えない。残雪はコース上には全くない。Fさんのために、万が一に備えて持ってきた軽アイゼンがむなしい。

 水俣乗越からのルートを合わせる大曲をすぎ、横尾尾根の側壁、意外に立派な赤沢山の岩場などに気を紛らわしながら、坦々と下る。下からはまだ陸続と登山者が続く。この長い単調な槍沢を登りのルートに使うのは、気がめいりそうだ。やはり下りに採って正解だったと思う。

 パラパラと降りだした雨粒に濡れる間もなく、ようやく槍沢ロッジに着いたのは16:10。部屋を割り振られたあと、待望の風呂に入る。ただし、入ってから知ったのだが、環境保全のためだろうが、石鹸もシャンプーも置いてない。使用禁止とは書かれていないが、たぶんそういうことなのだろうと理解し、浴槽の外でお湯だけで洗髪する。それでもかなりスッキリした。ここに限らず、他の小屋の洗面所でも、歯磨き粉は使用禁止、場所によっては洗面も禁止となっている。それはそれで知っていれば納得できるし、賛成なのだが、知らずにいるとちょっとびっくりするだろう。

 ロッジの庭先から木の間越しに槍の穂先が見える。ここが槍が見える最後のところなのだ。よく歩いたものだと、一人ビールを味わう。

 ↓ 槍沢ロッジから見る槍の穂

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 部屋は三階で、蚕棚ではないのだが、屋根裏部屋状態で、なんせ暑い。一晩中暑かった。トイレは一階の奥。気を使うことおびただしい。やれやれ。まあ仕方ないですけどね。

 

【コースタイム】8月4日

ヒュッテ西岳発5:40~水俣乗越6:50~ヒュッテ大槍9:10/9:50~槍ヶ岳頂上11:05~ヒュッテ大槍12:30/13:10~槍沢ロッジ16:10

 

8月5日

 今日は逍遥しつつ上高地に下り、中の湯温泉に行くだけだ。私とKは今日中に帰宅可能なのだが、山口県在住のFさんは時間的にちょっと厳しいとのことで、ならばせっかくだからもう一泊温泉に泊まって、ゆっくり山旅の垢を落とそうというわけである。余裕である。

 槍沢ロッジの前から、最後の槍の穂先を一瞥して出発。梓川沿いの道はゆるやかに下ってゆく。朝の光が美しい。

 

 ↓ 世界は光でできている

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 ↓ 前穂東壁 左奥は明神岳

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 涸沢への道を分ける横尾からは前穂東壁がよく見える。徳沢からは奥又白、中又白方面を望みながら、皆にならってソフトクリームを食べる。このあたりまでくると梓川も開け、闊達な風景となる。規模はともかく、ヨセミテ渓谷と構成が似ているなと思う。違いはむしろ樹林相の豊かさだろう。

 急ぐ必要はない。明神橋を渡り、明神池を参拝する。明神岳を背景とするこの池は穂高神社の奥宮、神域とされるだけに、ある種の神々しさがある。そう言えば穂高神社の祭神である穂高見命は綿津見命の子で、つまり北九州経由でやってきた安曇氏とともに、要は海人系、東南アジア系なのである。池の入口には、御船祭のための龍神を象徴する船が置いてあった。内陸の山国、長野県=安曇野が、遡れば海人系だと言うことの、歴史的、民族的な不思議さ、面白さ。

 

  ↓ 神域明神池 後方は明神岳の諸峰

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 明神池からは右岸の自然探勝路を歩く。河童橋を渡れば、そこは観光客があふれる雑踏の地であった。山旅の終り、45年振りの防高山岳部夏山合宿の終了である。

 

 中の湯温泉へはバスで行くつもりで切符も買ったのだが、目の前で定員一杯となり、発車。次はウン10分後だと言う。暑い中で待つのが嫌さにタクシーに切り替え、行ってみたら驚いた。われわれが降車予定の中の湯バス亭から宿まで、歩けば登り一時間以上かかりそうなのだ。一言言ってくれれば最初からタクシーにしたものを。あやういところだった。

 中の湯温泉は立派なホテル。われわれの部屋はやはり登山者用と思われる質素な一室だったが、不満はない。あとはゆっくり一浴、一杯、夕食、そしてゆっくりと寝るだけだ。

 

【コースタイム】8月5日

槍沢ロッジ発6:30~徳沢園9:15/9:40~河童橋12:20

 

8月6日

 朝、目覚めて一浴。ここの宿は部屋からも、露天風呂からも、玄関ロビーからも、奥穂~前穂・明神の稜線、吊尾根がよく見える。右手にはたおやかでおほどかな霞沢岳の山体。

 

  ↓ 中の湯温泉から遠望する奥穂~前穂

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  ↓ たおやかな山容の霞沢岳

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 ザックは、K以外の二人は、宅急便で送ることにし、荷は軽くなった。バス亭まで旅館の車で送ってもらう。11日の山の日の式典のために今日からバス等の入山規制が始まったということだが、われわれには影響はなさそうだ。夏真っ盛りの道を、新島々までバス、新島々から二両の電車で松本駅まで行く。振返って見ても、前山が大きすぎて、槍や穂高といった奥山は見えない。

 松本で蕎麦とビールでささやかな打ち上げ。さて来年の夏山合宿はどこにしようかという話になる。百名山、山中小屋泊。う~ん、さて、どうしよう。白山?そう言われれば、考えざるをえない。

 

 かくて今回の山旅は終わった。30年振りの北アルプスはともかく、ハイシーズンの営業小屋泊は初めてのことであり、山中三泊の縦走もだいぶ久しぶりであった。そうした不安は、結果的には、何ということもなくクリアできたように思う。よくやったなというか、まだ俺もできるんだという実感と驚きもある。

 しかし逆に言えば、有名な山で、山中泊の縦走をするとなると、どうしてもかなりの確率で、シーズン中の営業小屋泊とならざるをえないという現実、テント泊はほぼ無理だという限界を認識したということでもある。小屋泊は最初からその気で我慢すれば、できないことはないということもわかった。何といっても荷が軽くなり、楽なのである。

 しかし、私は人の多い山と、営業小屋泊が苦手だということも、あらためて身にしみてわかった。今後、そのへんのバランスをどう取るかが課題である。まあ、それだけ名山と言われる山は魅力的だと、再認識したということでもある。

燕岳から槍ヶ岳へ(30年振りの北アルプス・45年振りの防高山岳部夏山合宿) -1

 高校(山口県立防府高等学校=防高)時代、山岳部に所属していた。45年前のことである。美大・芸大進学志望ではあったものの、思うところがあり、美術部には入らなかった。その、ほぼ灰色に近かった高校時代を振り返ってみるとき、山岳部の思い出だけが、わずかに淡い青や碧色をふくんだ光を発している。

 山岳部とはいうものの、たいしてトレーニングをするでもなく、非体育会的な、ごくゆるい部であった。県外に出るのは夏の合宿(伯耆大山か石鎚)と、秋の中国大会の二回。それでも春秋の県体を含め、月に一度は山に行った。今と違い、週休二日ではなく、ロクな情報源もなく、地元の社会人山岳会の人に多少の情報を教わったり、部室にあった古い地形図(陸地測量部地図)を眺めたりして、自分たちで計画をたてた。そもそも山口県には、一般的な基準からすれば、たいして山らしい山は無いのである。百名山はおろか三百名山もない。それでも私は、今でも山口県の山が好きだ。

 

 Fさんは私が2年生でリーダーになった年に入部してきた、一級下の女子部員だった。彼女たちの代は女子部員が五名ほどいたが、私と同期の女子部員は事実上いなかったこともあり、以後一貫してめんどうを見たというか、一緒に登ったのである。高校2年生の男子にとって高校1年生の女子というのは、まさしく謎の存在であった。以来3年生の5月に現役引退(そういう決まりだったのである)するまで、ほぼ月1回、計11回の山行を共にした。

 山岳部のある高校自体が比較的珍しい中(当時山口県では八校)で、女子部員がいるというのはさらに少なく、たしか二校しかなかったのではないか。それも翌年にはわが校一校しかなくなったように記憶している。それもあっただろうが、彼女たちはなかなか強く、翌年には山口県の女子としては、おそらく初めてインターハイ福島県・吾妻山系)に出場したりした。

 ちなみに防高山岳部はその後登山部と名前をかえ、男女ともインターハイ優勝を目標とする、インターハイや国体出場の常連校となっているらしい。2012年ワールドカップ・リード部門オーストリア大会と2013年同スロベニア大会で優勝した小田桃花も輩出している。こうなってくるともう完全に別世界の話だが、少しうれしい気がしないでもない。

 

 Kとは中学・高校と同窓で、山岳部でもずっと一緒だった。とはいえ、文理のコースも違い、部員同士、同級生同士であっても、特に親しい間柄というわけでもなかった。

 FさんともKとも、卒業後のそれぞれの進路とともに、縁は薄れていった。以来、幾星霜。

 数年前にKが長いアメリカ勤務から帰国し、何となくといった感じで、付き合いが復活した。お互いの旅好きがうまく共鳴し、何度か海外旅行を共にした。そうした中で、バリ島のバトゥール山1717mを一緒に登り、グランドキャニオンやヨセミテのトレイルを歩いた。現在、退職目前で、目下、有給休暇の消化にいそしんでいる身。

 

 Fさんとは、私が30歳頃から地元に近い徳山市で定期的に個展をするようになって以来、山口県の各地に在住している、他の当時の女子部員たち、Wさん、Sさん、Mさんとともに、ほぼ三年に一度ずつ会っていた。その彼女が今春定年退職となったのを機に、また山登りを、それも百名山を中心としたそれを、再開したいという思いにかられたらしい。

 槍ヶ岳が最終目標だと言う。はいはい、気をつけて、と答える。そのためにまず穂高に一人で登ると言う。おいおい、穂高の方が槍より難しいよ、大丈夫なの?ルートはどこから?せめて穂高の前に槍からにしなさいよ、といったやり取りをかわした。同行する気はまったくなかったのが、途中でKにその話をしたところ、K曰く「俺も行く」。「俺も」? 私は行く気はないよ、だったのが、なんだかいつの間にか結局同行することになってしまった次第である。

 北アを含めてアルプスと名のつくところに最後に登ったのは30年前。現在では魅力の点というよりも、実際的な体力の面から、行く気は全く無かった。それが、あれよあれよという内に、行くことになってしまった。本当に私は「行く」と言ったのだろうか。どうにも記憶が曖昧である。山中三泊の縦走などもう十数年以上やっていない。大丈夫なんだろうか?

 

 ルートはたいして迷うこともなく、燕岳から槍ヶ岳、槍沢下山、と決めた。いわゆる表銀座と言われるコースである。むろん小屋泊まり。槍沢からの往復をのぞけば最も容易なコースと思われ、また充分魅力的なコースだからである。ただし私はこのコースのうち、大天井~槍ヶ岳~横尾以外はすでに歩いている。主要なピークは皆踏破済み。またKも槍沢以外は踏破済。しかし、まあいいか。30年40年ももたてば既に記憶も薄れているし、何より、可愛い後輩の女子の望みをかなえるためなら。言ってみれば45年ぶりの防高山岳部夏山合宿みたいなもんだ。

 

8月1日

 スーパーあずさ11号で松本駅大糸線のホームで山口から来たFさんと合流。FさんとKは高校卒業以来の再会である。穂高駅からはタクシーで中房温泉へ。宿の部屋は値段の割にはいかにも登山者専用といった趣だが、シーズン中だからまあ仕方がないか。ともあれ、入下山にそれぞれ温泉で一泊というのは、時間と経済力に余裕の出てきた今なればこそのスキルである。

 夜、豪雨。宿に上がる道路は封鎖され、近辺では警報も出たらしい。

 

8月2日

 曇ってはいるが、雨は上がっている。朝食の弁当(二種類のおこわとカロリーメイト!)をむりやり詰めこんで出発する。

 樹林帯の中のよく整備された登山道を、ひたすら登る。前夜の雨にもかかわらず、この山の地質を成す風化花崗岩質のせいか、ぬかるむこともなく、歩きやすい。周囲の樹林はさすがに素晴らしい。植林は全くない。第一、第二、第三ベンチ、富士見ベンチと通過するにつれ、混みあうというほどでもないが、陸続と登山者、下山者が行き交う。さすがに人気の山だ。

 

 ↓ 登り始めはこんな感じ

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 この登りは「北アルプス三大急登」と称されており、燕山荘までの標高差は約1200m。ふだんの日帰り登山でも標高差1000m程度は時おりこなしているからさほどでもないはずだが、やはり久しぶりの背中の重荷(といってもせいぜい10㎏少々なのだが)のせいか、山のスケールの大きさのゆえか、トップを行く元気なKに次第に遅れるようになる。後続を置いて行くその登りは、相変わらずだなと思う。ただし、遅れるのは私一人で、Fさんはしっかりついて行っていた。しっかりしたものだ。

 合戦小屋で一休み。スイカを食べる。何という贅沢。その上あたりから森林限界を越える。お花畑が出てくる。ハクサンフウロトリカブト、まだ蕾のウスユキソウ、その他、名を知らぬ花々。先行の二人との距離はいよいよ大きくなり、燕山荘目前で多少雨が降り出したところで雨具を着れば、ほどなく二人の待つ小屋に着いた。やれやれである。

 

 ↓ 燕山荘と燕岳 (翌朝の撮影)

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 1時間ほど休んだ後、空身で燕岳の頂上に向かう。ガスっていて展望はあまりきかないが、奇岩がそびえ並ぶゆるやかな砂礫地を行くのは気持が良い。この奇岩群には過去多くの絵描きが魅了されてきた。そこをスケッチブックも持たずただ登高するのは、少々引け目を感じないでもないが、まあそれはそれ。

  ↓ 奇岩 その1

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  ↓ 奇岩 その2 イルカ岩

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  ↓ 奇岩 その3 メガネ岩

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  ↓ 奇岩 その4

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 コマクサがずいぶんたくさん咲いている。これだけ移植し増やすには相当の時間とエネルギーを要したことだろう。

 

  ↓ 風化花崗岩の砂礫とコマクサ

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  ↓ コマクサの群落とハイマツ

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 燕岳山頂(2763m)はわずらわしい山名表示板などもなく、シンプルで清潔で好ましい。30年前の記憶もほとんど無い。ともあれ、いよいよ槍ヶ岳へのスタートである。

 

  ↓ ガスに包まれた燕岳山頂 中央Kと右Fさん

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 燕山荘は北アで最も人気の高い山小屋だとか。なるほど、とは思う。食事も良かった。最盛期には食事も6交替だとか聞いたが、今回は2交替制で、それなりに余裕はあった。夕食後の小屋の主人の話も有意義だった。中でもストック、特にダブルストックを自粛すべき意義、その他。そして今日の私の不調は、どうやら軽い高山病のせいであったかもしれないと、思い至る。

 しかし、今回の山中3泊の計画で最も気がかりだったのが、この山小屋泊ということなのだ。私はずっとテント専門でやってきたので避難小屋はともかく、営業小屋、特にハイシーズンのそれは経験がない。特に歳のせいか、就寝中に二度三度と小用に起き出すことを考えると、実に憂鬱になるのである。結果的にはどの小屋でもまあ何とか事なきを得たのであるが、精神的にはやはり快適とは言えない。他にもいろいろ気を使うことは多い。といって、いまさらテント泊の縦走というのは、荷物の重さなどから現実的にはほぼ無理であり、悩ましいところである。

 

【コースタイム】8月2日

中房温泉発5:50~富士見ベンチ8:33~合戦小屋9:35~燕山荘11:30/12:45~燕岳13:15~燕山荘14:00頃