艸砦庵だより

河村正之のページ 絵画・美術、本、山、旅、etc・・・

「日本のカッパドキア」深草観音から鹿穴~大蔵経寺山へ (2016.12.20)

 「明日山に行かないか?」と、Kからの電話。速攻で「行こう!」と答える。

 前回の山行から中一ヶ月。例によってこの間、何度も計画しては、そのたびに挫折した。日々、制作にまじめに取り組んでいる。作品は確実に進んでいる。その分、山に行く「気」が充ちてこないのだ。その間、私の内発性=「気」はすべて制作の方にふり向けられているようだ。その反作用からか、人(外発性)から声をかけられると、瞬時に応じてしまうのである。

 

 あだしごとはさておき。

 行き先はここ数年来の小さな懸案であった、甲斐の鹿穴から大蔵経寺山へと決めた。いつもの苦労、逡巡が嘘のように、スムーズに起床、出発となる。

 あずさ3号の車中でKと合流。甲府駅前からバスで武田神社まで。戦国時代にはあまり興味がなく、神社はチラ見で参拝し、要害温泉方面に向かって歩き始める。武田家のゆえか、扇状地という地形のゆえか、段々畑には立派すぎる石積みに目をひかれる。

 またここ甲州は、相模上州等とならんで石仏の多い地方であり、あちこちに石仏を見かける。地蔵、六地蔵不動明王馬頭観音と種類も多い。他ではあまり見かけること少ない双体道祖神もいくつかある。エロチシズムを感じさせない、素朴に二つ直立したお行儀の良いものである。

 

 ↓ 各種の石仏 かつてあちこちにあったものを道路整備や区画整理等でまとめたもの

f:id:sosaian:20161222175125j:plain

 

 ↓ 双体道祖神その-1 素朴である

f:id:sosaian:20161222175004j:plain

 

 歩くこと40分ほどで瑞岩寺。そこから右に東沢川の谷筋に入るとほどなく人家はとだえる。数日前の雪か、一部の路面は凍結している。

 

 ↓ 双体道祖神その-2 瑞岩寺にあったもの

f:id:sosaian:20161222175323j:plain

 

 ↓ 双体道祖神その-3 集落のはずれにあったもの 体部の彫は薄く面白い造形

f:id:sosaian:20161222175520j:plain

 

しばらく寒い沢筋の路を辿ると古い道しるべが二つ。「右 岩と山みち 左 山王(?)みち」、「右 岩と山みち 左 山みち」。「岩と」は深草観音の別名の「岩堂(観音)」だろう。この付近のものとは異なる硬い材質の岩に刀痕鋭く彫りこまれており、風化の跡も見えない。書体も優秀で、鄙びた感じがない。深草観音については特に興味もなく、また事前に知ることもほとんどなかったが、これはひょっとしたらそれなりのものかもしれないという予感が兆してきた。

 

 ↓ 二つ目の道しるべ 石の形といい書体といい、なかなかのもの

f:id:sosaian:20161222175728j:plain

 

 ↓ 寒く浅い沢沿いの登り 今日出会った唯一の登山者とすれ違う

f:id:sosaian:20161222184027j:plain

 

 ほどなく小さな祠のある大岩がある。磐座(いわくら)の名にふさわしい存在感である。近寄って見るとその下部の窪みには石造の仏像やら神像がいくつか置かれている。仏像と思われるもののいくつかは首が欠けており、神像と思われるものは欠けていない。明治初期の廃仏毀釈のおりのものかとも思われる。

 

 ↓ 磐座 右下に小さな祠 その左の窪みに石仏群がある

f:id:sosaian:20161222175929j:plain

 

 そのすぐ先が深草観音の入口。寄り道になるが、せっかくだからちょっと見に行ってみるかぐらいの気持だった。山門跡といわれる灯籠のあるあたりに近付くと、何やら苔むした岩峰ニョキニョキの異様な雰囲気。ラピュタか?アンコールワットか?といった感じである。

 

 ↓ 深草観音入口 左に石灯籠が見える

f:id:sosaian:20161222180057j:plain

 

 その正面の岩峰の上部に穴が穿たれているようで、そこに長い(15mぐらいか)大きな鉄梯子が立てかけてある。これは登らないわけにはいかないだろうと取り付いて見るが、半ばまで登ってみて、恐くなった。梯子の縦横の棒は丸いパイプで、幅が広く、段差も高い。傾斜もあり、露出感が強い。傾斜だけなら槍ヶ岳の頂上直下の梯子の方が強いが、恐さはこちらの方がはるかに恐い。まあ無理をしてもしょうがないと断念して降りる。下で見てみると昭和3年設置とあった。90年(!)近く前の鉄梯子。

 

 ↓ 良い写真が撮れず、この写真のみ http://kai-hou.blogspot.jp/2012/04/blog-post.html から引用

f:id:sosaian:20161222180310j:plain

 その右手の浅いルンゼ状には段が刻まれ、鉄鎖の手すりが付けられている。それを登るとすぐ上で水平になり左に向かう。その先にぽこんと空いた小さな穴。そこを降りるとそこが深草観音の本殿(奥の院と呼ばれる観音堂)だった。深草観音は別名岩洞観音とも言われたそうだが、この奥の院を見ると納得する。そしてその「岩洞」が「岩堂」に転化し、岩堂峠の名に残り、岩堂観音ともなったのではないだろうか。中は四畳ぐらいの広さで、正面には垂れ幕がかかっており、中をのぞくことは遠慮しておいたが、三体の観音像が置かれているはず。ともあれ、予想もしなかった面白さである。

 

 ↓ 奥の院右側のルンゼ 鉄鎖が設置されており、左上の岩窟入口に至る

f:id:sosaian:20161222180536j:plain

 

 ↓ 奥の院入口 中には畳?が敷かれ、正面の格子戸奥に三体の観音が置かれている

f:id:sosaian:20161222180746j:plain

 

 再び外に出てまわりをよく見ると、右隣の岩峰にも同じ高度で穿たれた穴がある。岩峰は垂直で、現状では上からも下からも辿りつけない。よくはわからないが、石の台座のようなものが残置され、仏像らしきものが斜めに立てかけられている。トルコのカッパドキアや9月に行ったアルメニアの石窟教会を連想させる。そう言えば地質的にはいずれもここと同じ凝灰岩質である。ともあれ人間というか、宗教というものは、いつでもどこでも似たようなことをするものだなという感慨。

 

 ↓ 右の岩峰 高さは15mぐらい 半ば崩壊している

f:id:sosaian:20161222180854j:plain

 

 ↓ 半ば崩壊した岩窟部をズーム 仏像が立てかけられているのが見える

f:id:sosaian:20161222181017j:plain

 

 下に降りてあらためて周囲を見てみると、いくつもの石仏が安置されている。一見あまり古いものとも見えなかったが、文政年間の年号が刻まれており、200年前江戸後期のものと知る。そのわりには彫りは鋭く、風化の跡も少ない。途中にあった道しるべと共通したものを感じる。

 

 ↓ 岩峰下部の石仏群 

f:id:sosaian:20161222181206j:plain

 

 ↓ 同上 ただしこれだけ浮彫りと筋彫りの組み合わせで他とタイプが異なる 頭部の十四面は不勉強で見知らぬ造形 

f:id:sosaian:20161222181458j:plain

 

 撮影はしなかったのだが、帰りぎわにちょっと離れたところから全体を見てみると、奥の院のある岩峰を中心に、その右に先ほど見た仏像が斜めに立てかけられている岩窟のある岩峰があり、左の岩峰にも同じ高度で同じような岩窟の跡らしきものがあった。どうやらこれは奥の院を中心として、三つの岩峰を三尊形式に見立てて同じ高さで岩窟を穿ったのではないかと思い至った。帰宅後の事後学習で少し調べてみたが、この深草観音が甲州三十三観音霊場の第六番札所ということなどは知ることができたが、この三岩峰=三尊形式岩窟という私の仮説についてはどこでも触れられていない。専門書、研究書を当たればあるいはという気もするが、さてどうしよう。

 ちなみに深草観音の岩窟を奥の院とするからには、前宮に当たるのが、来るときにちょっと立ち寄った瑞岩寺。746年僧行基の創建という伝承を持つ。行基は749年没であり、活動範囲は関西中心であったが、大仏建立に際して勧進を勤めたというから、この地に足跡を残していないとも限らない。なお奥の院の本尊の5.4㎝の十一面観音は、現在はこの瑞岩寺に置かれており、33年に一度御開帳される秘仏とされているとの由。

 

 おもいがけぬ拾い物をしたような気分で名残惜しく、周辺をもっと探ってみたい気もするが、先はまだこれから。先に進むことにする。すぐ上にしっかりした石積みの跡がある。かつて御堂か何かあった跡ではないかと思ったが、すぐ上の岩堂峠の看板で、かつての蚕種を貯蔵する石室の跡だったと知る。

 浅くいくつにも分岐する沢沿いの周囲は、小規模だが、岩壁岩峰が続く。大きなスズメバチの巣がいくつもかかっている。妙義山や西上州の岩峰と似たような景観である。そこかしこにせり上がる浅いルンゼに、懐かしい登攀気分が思い起こされる。

 

 すぐ上にある岩堂峠の名は2.5万図には記載されていないが、現地の表示板がある。そこからは松(赤松・黒松・落葉松)と落葉広葉樹の薄い混生林を進む。巻き道を行くのが一般的らしいが、あえて尾根通しに少し登ると、鬼山の表示のある1042mの山頂。ここに来るまでこの山名は知らなかった。今回の鹿穴も大蔵経寺山も1000mには満たないが、やはり1000mを越えるとそれだけで少しうれしい。尾根通しにこだわった所以である。そこに山名があるとさらにうれしい。さほどの風情もない山頂だが、平和な気分で昼食とする。

 

 ↓ 鬼山山頂 電池切れでここからスマホで撮影

f:id:sosaian:20161222182139j:plain

 

 山頂から鹿穴に向かって薄い踏み跡を辿ると、2.5万図に記載された岩堂峠。鞍掛峠と記載された資料もあり、いずれが正しいのかよくわからない。そこから一登りで鹿穴山頂。ここも松の木に囲まれた何の変哲もない地点で、展望もきかない。鹿穴という、ちょっと面白い山名から期待していたような面白みは何もない。Kは休みもせずとっとと先へ進む。

 

 ↓ 鹿穴山頂

f:id:sosaian:20161222182234j:plain

 

 以後幅広い尾根を、おおむねゆるやかな下りと時おりの登り返しを繰りかえす。歩きやすく気持の良い尾根だがすっかり落葉しているせいか、松との混生林のせいか、あまり美しさも面白みも足りない。位置的には甲府盆地を中心とする山岳展望を期待していたのだが、落葉しているにもかかわらず、展望はよくない。板垣山951m、深草山906mは山名表示板も見当たらぬまま通り過ぎた。

 途中、犬を連れた猟師二人と会った。多少の話をしたが、その中で一人は子供の頃、キャンプだとして深草観音の奥の院に泊まろうとしたことがあったとのこと。夏で、夜になると穴の奥からカマドウマやらなにやら虫がわらわら出てきて往生したとの由。この日出会ったのは、この猟師以外は単独行の男性一人のみ。静かな山ではある。

 

 ↓ 大蔵経寺山への稜線

f:id:sosaian:20161222182348j:plain

 

 大蔵経寺山も何の変哲もない一地点。しかもすぐそばにわずかだが明らかに高いところがあるにもかかわらず、下り気味の斜面に三角点が置かれている。大蔵経寺山という山名から、東北の一切経山や経塚山のように一切経大蔵経)を埋めた山かと思っていたが、帰宅後の事後学習では麓にある寺の名に由来するそうである。ただし途中の岩のゴロゴロしているあたりでは、何となく昔の宗教的施設の跡のような痕跡があった。

 

 ↓ 大蔵経寺山山頂 向こうの方が高い

f:id:sosaian:20161222182500j:plain

 

 ↓ 「界」と刻まれた謎の石 他にも文字の刻まれた石があった

f:id:sosaian:20161222182551j:plain

 

 休みもせず落葉のラッセルをしながら下り、「展望台」に着く。そこからは簡易舗装された幅広い林道となる。地図では林道に接することなく、そのまま尾根通しに下れるはずなのだが、その道が見出せない。やむをえず九十九折りの林道を歩く。ときおりショートカットして下っている内に、やがて猪除けの金網のゲートに出た。そこをくぐり抜ければもう町中。駅に行く道に少々迷いながら、山行を終えた。

 

 ↓ 富士山 手前左の三角の山は釈迦ヶ岳 快晴だが富士山だけは雲をまとっていた

f:id:sosaian:20161222182744j:plain

 

 その後は当然のごとく駅前の庄やで一杯。急ぎ帰らねばならない事情があるわけでもなく、山行後の美味い酒を味わったのである。

 山そのものよりも、日本のカッパドキアとも言うべき深草観音が強く印象に残った山行であった。またいつか深草観音周辺の岩峰やルンゼ群をめぐって見たいものである。

                      (記:2016.12.21)

 

【コースタイム】(2016.12.20 晴れ) 武田神社9:50~深草観音~岩堂峠12:40~鬼山13:05-13:30~鹿穴13:50~大蔵経寺山15:40~石和温泉駅16:50