艸砦庵だより

河村正之のページ 絵画・美術、本、山、旅、etc・・・

美術館探訪録・2016年(国内篇)

 

 昨年2016年に国内で見た美術館・博物館等での展覧会の一覧である。寺社、遺跡、庭園等も含む場合もあるが、一般的な画廊等は含まない。ここに植物園や庭園や城址を含めるのはどうかということもあろうが、私は、ここではMUSEUMの範疇をなるべく広くとって考えたい。

 昨年の記事(「美術館探訪録-2015年」)で、海外やかつての古美研(授業名)をのぞけば過去最多と記したが、何と2016年はそれよりも多い。それだけ良い展覧会が多かったことも確かだが、理由はもう一つある。

 ここ二三年、高校同期の何人かで月に一回程度集まって、飲み会をやっている。そんなにしょっちゅう会いたいということでもないのだが、誘われればだいたい応じている。平日の、場所は銀座や新宿といった都心。わが家から東京駅まで交通費が往復で1800円強。所要時間は、歩きも入れれば往復4時間、飲み会自体が3時間前後。私以外は全員カタギなので、それなりの店を予約するから、会費はだいたい7000円前後ぐらいか。ただそれだけのためにだけ出ていくのは、時間的にも経済的にもちょっと負担感がある。そこで、それに合わせて美術館に行くようにしたのである。したがって、どうしても行きたいという展覧会だけともいかない。見に行こうか行くまいか迷っていたり、普通だったらスルーするようなものでも結局行くこともある。まあ、それはそれで良いことだと思っている。

 

 私の展覧会に関する情報は、朝日新聞に週一回載る展覧会情報がほぼすべてで、あとは行った先の美術館に置いてあるチラシぐらいのである。それで充分。それにしても美術館博物館の数も多ければ、展覧会の数も、そのジャンルも多い。東京はおそらく間違いなく世界で一番展覧会の多い都市だ。

 とは言え、そのラインナップを見ても、必ずしも行きたい展覧会ばかりではない。これだけ長年展覧会を見ていると、全く未見の作家とか、初めてのジャンルというものはもうめったにない。たいていは、多少はどこかで見ていることが多い。したがって、ぜひとも見たいと思う展覧会は、そうはないのである。

 実際、画家が美術館での展覧会をどの程度見に行くのかというのは、案外面白いテーマなのではないだろうか。試みに私自身の過去のデータを見てみると、学生(博士課程)の最後から予備校講師時代の30歳代の10年間で56回、大学に勤務してからの40歳代の10年間で137回。ついでに50歳代の10年間はと言えば、55歳で早期退職するまでの6年間が64回、退職後の4年間が86回で計150回。いずれも海外や学生を引率しての授業としての古美術研究旅行をのぞいた数字である。う~ん、歳とともに増えている。余裕のなせるわざである。ちなみにもっとも少なかったのが、一番悩みかつ制作にエネルギーを注いでいたはずの30台後半。年に3回とか4回しか見に行っていなかった年があったのは自分でも少し意外であるが、それはまた最も生活が苦しく、時間的にも精神的にも余裕のなかった頃である。

 

 ともあれ、仮に10年前20年前に見たことがあるとはいっても、再度、再々度見ることは悪いことではない。ということで2016年にいった展覧会を以下にあげてみる。

 なお私は団体展やコンクール展、卒業制作展は見に行かないことにしている。10.「上野の森絵画大賞展」は昔の教え子からのたっての頼みで見に行ったので、例外である。

  

  *上段「 」内は展覧会の正式名称。その右の( )内はサブタイトル。

   下段は美術館名と見た日。[ ]はざっくりとしたジャンル。

1.「串田孫一」(生誕100周年)

 はけの森美術館 1月16日 [絵画・デザイン]

 

2.「恩地孝四郎展」(形はひびき、色はうたう)

 東京国立近代美術館 1月20日 [版画]

 

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3.「村上隆の五百羅漢図展」

 森美術館 1月22日 [絵画]

 

4.「天野喜孝展」(進化するファンタジー)

 有楽町朝日ギャラリー 2月16日 [イラスト]

 

5.「ジョルジュ・モランディ」(終りなき変奏)

 東京ステーションギャラリー 3月17日 [洋画]

 

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6.「清親 光線画の向こうに」

 町田市立国際版画美術館 3月25日 [版画]

 

7.金沢城兼六園

 4月9日 [城郭・庭園]

 

8.金沢市老舗記念館

 4月10日 [民俗・工芸]

 

9.「黒田清輝」(日本近代絵画の巨匠)

 東京国立博物館平成館 4月21日 [洋画]

 

10.「上野の森絵画大賞展」(第34回 明日をひらく絵画)

 上野の森美術館 5月2日 [洋画]

 

11.「カラヴァッジョ展」(ルネサンスを超えた男)

 国立西洋美術館 5月10日 [洋画]

 

12.「素心 バーミヤン大仏天井壁画 ~流出文化財と共に~」

 (東京藝術大学アフガニスタン特別企画)

 東京藝術大学大学美術館 陳列館 5月10日 [壁画・彫刻・保存]

 

13.「吉田博展」(生誕140周年)

 千葉市美術館 5月17日 [版画・洋画]

 

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14.「横井弘三の世界展」(没後50年“日本のルソー”)

 練馬区立美術館 6月1日 [洋画]

 

15.「高島野十郎展」(没後40年 光と闇、魂の軌跡)

 目黒区美術館 6月3日 [洋画]

 

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16.「若林奮展」(飛葉と振動)

 うらわ美術館 6月8日 [彫刻]

 

17.「田口安男展」(描線と色彩の間)

 いわき市立美術館 6月9日 [洋画]

 

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 ↑ これはチラシ。ポスターを揚げたかったのだが、画像が見つからなかった。 

 

17-2.「田口安男展+常設展」 [洋画]

 いわき市立美術館 6月10日

 

18.「立石鐡臣展」(麗しき故郷「台湾」に捧ぐ)

 府中市美術館 6月23日 [洋画]

 

18-2 常設展「所蔵品に見る描かれた水辺の景」+牛島憲之記念館

 府中市美術館 6月23日 [洋画]

 

19.「12Rooms 12Artists」(UBSアート・コレクションより)

 東京ステーションギャラリー 7月5日 [洋画・現代美術]

 

  1. 常設展 第2期 (萬鉄五郎・松本竣介・船越保武/渡辺豊重・松田松雄・内村晧一他)

 岩手県立美術館 7月14日 [洋画・彫刻]

 

20-2. 常設展

  もりおか啄木・賢治青春館 7月14日 [文学]

 

  1. 伊藤家住宅

 伊藤家住宅/花巻市東和町田瀬 7月15日 [建築・民俗]

 

22.上高地・明神池

 上高地 8月5日 [自然・宗教]

 

23.神代植物公園+「特別企画展『古文書でふりかえる江戸の園芸文化』」

 調布市 8月13日 [自然]

 

24.「小林かいち展」+浜口陽三+萩原英雄 常設

 武蔵野市立吉祥寺美術館 8月25日 [イラスト]

 

25.「沓間宏展」(1981-2016 変遷の軌跡)

 横浜美術大学ギャラリー 9月7日 [洋画]

 

26.「鈴木基一展」(江戸琳派の旗手)

 サントリー美術館 10月14日 [日本画

 

  1. 辻河原石風呂+宮迫東西石仏+臼杵の石仏

 大分・豊後大野市 11月8日 [仏教美術・歴史]

 

27-2常設展 

 ヤマコ臼杵美術博物館 11月8日 [仏教美術・歴史]

 

  1. 城址

 大分・竹田市 11月9日 [史跡・城郭]

 

29.「ダリ展」

 国立新美術館 12月10日 [洋画]

 

30.「ゴッホゴーギャン展」

 東京都美術館 12月13日 [洋画]

 

31.「小田野直武と秋田蘭画」(世界に挑んだ7年)

 サントリー美術館 12月28日 [日本画

 

 以上の中で良かったのは、2.「恩地孝四郎展」、5.「ジョルジュ・モランディ」、13.「吉田博展」、15.「高島野十郎展」、17.「田口安男展」といったところ。

 恩地孝四郎はまとめて見るのは初めてだった。以前から『月映』-田中恭吉との関連では多少は知っていたものの、全貌としては解釈しにくいというか、受け取りにくいというか、すでに過去の話として敬して遠ざけていた作家。まだ必ずしも飲み下せてはいないのだが、絵画(版画)の意外な可能性を見せてくれたような気がする。余談だが、この展覧会を見たことがきっかけとなって、その年、彼の作品(蔵書票)を7点も買ってしまった。

 

 他の四つはすでに以前に見たことのある作家だが、それぞれ充実した内容で、新たな視点と面白さを見出すことがせきた。モランディの静謐。吉田博の山の清浄。高島野十郎の自閉の光。それぞれの固有の世界。

 田口安男は私の大学時代の恩師であり、最も敬愛する画家である。御本人は現在も自宅療養中なのだが、その縁で初日前日の内覧会に招待され、その夜は友人、先輩方と楽しく飲んだ。せっかくいわき市まで行くのだからと、翌日は近くの山に登る予定だったのだが、飲み過ぎて翌朝寝過ごしてしまい、登山は中止。おかげで再訪した会場で、あらためてゆっくりと見直すことができた。

 

 次いで次点(?)としたいのが、1.「串田孫一」、6.「清親 光線画の向こうに」、14.「横井弘三の世界展」、16.「若林奮展」、19.「12Rooms 12Artists」、26.「鈴木基一展」等。

 串田孫一は画家とは言えないし、文筆家としても私はあまり評価しないのだが、昔からその絵やコラージュには何か引っかかるところがあって、その確認をしに行ったというところ。しかし案に相違して(?)、作品が意外と良かったのである。美術館の規模のゆえか、ちゃんとした図録がなかったのが残念。横井弘三、若林奮、鈴木基一はまとまって見るのは初めて。「12Rooms 12Artists」も初めての作家が多く、楽しく見る現代美術・現代絵画といった感じ。清親も光線画周辺のものはやはり良かった。

 

 他の展覧会もそれぞれ良い作品が含まれていたが、ただしその割合は多くない。

 石仏や城址、あるいは地方の美術館博物館を、旅行や山登りのついでに訪れるのも良いものだ。

 

 逆に最も期待外れというか、面白くなかったのは11.「カラヴァッジョ展」。

 

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 もともと行く予定はなかったのである。すでに海外等でだいぶ見ているし、本人の作品は11点ぐらいだということだし、そもそもバロック周辺というのが好きではないのだ。当日は東京都美術館の「若冲展(生誕300年記念)」を見にいったのである。平日にもかかわらず順番待ちの長蛇の列。2時間待ちとか。なぜそんなに人気があるのだろう。辻惟雄の『奇想の系譜』以来、蕭白単独の二回の展覧会のほか、いくつかの機会に芦雪や若冲を見る機会はあったのだが、なぜか若冲の単独展は見逃してきた。そうこうしている内に現今の異常人気である。並ぶとしても私は30分が限界だ。縁がなかったのだ。やむをえず、当日上野でやっている展覧会の中でカラヴァッジョを選んだのだが、やはりあまり楽しめなかった。高階秀爾は2016年末の「私の3点」(朝日新聞)でこの「カラヴァッジョ展」をあげているが、縁の無いものは縁が無いのである。

 

 ついでにその「私の3点」にあがったのを紹介しておくと、北澤憲昭がクラーナハ展」、「世界遺産 ラスコー展」、「川島清 彫刻の黙示」展高階秀爾「カラヴァッジョ展」、「ルノワール展」、「デトロイト美術館展」山下裕二「柳根澤 召喚される絵画の全量」展、「村上隆スーパーフラット・コレクション」展、「吉田博展」。

 選択の基準が良くわからない上に紹介文も極めて短く、はたして信用できるのかという気がしないでもない。新聞という公器に載せるのだから、まさか本人の趣味で、というわけでもあるまいが。むろん、私のこの記事は私だけの趣味であるけれども。

 その中で私が行ったのは「カラヴァッジョ展」と「吉田博展」。「世界遺産 ラスコー展」はその記事を読んで年が明けて見に行った。9分の3だから、この年はけっこう行った方だ。

 

 もう一つついでに、迷いながらも結局行かずじまいに終わって、今かえりみても残念だったのが以下の展覧会。

 

ボッティチェルリ展」東京都美術館

*海外でだいぶ見ており、ちょっと「今さら」感があって…。

「原田直次郎展(近代洋画・もうひとつの正統)」 神奈川県立近代美術館葉山

  *一昨年のがした巡回展で、二度目のたぶん最後のチャンスだったのだが、葉山の遠さと、今の自分にとってどう見ても「お勉強的」でしかなかったから。

ルノワール展」国立新美術館

ルノワールは私にとって長い間「謎」だった。今回ぜひとも行くつもりだったのだが、なぜかタイミングが合わず、残念。

 

 そのほか、「杉本博 ロスト・ヒューマン」展(東京都写真美術館)、「藤田嗣治」(府中市美術館)、「ピエール・アレシンスキー」(Bunkamuraザ・ミュージアム)なども見逃して残念な展覧会である。

 

 確かに展覧会というものは、若い時ならいざ知らず、数見れば良いというものではないかもしれない。絵を見るというのは体力を使うものである。また、会場を出て自宅に戻ってその内容を振り返り、咀嚼するのには、それなりの時間がかかる。続けざまに次から次へと見てゆくと、消化不良の感じがしてくる。

 とは言え、やはり展覧会を見るのは楽しみであり、快楽である。勉強としても続けたいと思う。さて2017年はどんな展覧会を見に行くことになるだろうか。              

                         (記:2017.2.28)

逍遥画廊[Gallery Wandering]-3  ヤフオクに出品された絵 その1

 逍遥画廊で紹介する作品の選定について、特に明確な基準があるわけではない。「気ままに」が基本であるが、それでも、できればあまり人の目にふれていない(一回目の発表で人の手に渡ったとか、これまでの作品集等に掲載されていないといった)ものを取り上げたいと、漠然と思っている。

 かならずしも自作についての解説やエッセイを志向しているわけではないのだが、作品画像だけをポンと投げ出すのも、面白くない。やはり、なにがしかの、語る上でのきっかけになるようなエピソードというか、要素があった方が、書くほうとしても面白みがあるというもの。

 

 今回の眼目は「ヤフオクに出品された私の作品」、である。

 

 私はヤフオク愛好者である。いや、あった言うべきか。

 私がヤフオクに入札するようになったのは、10余年前の40代後半、大学に勤めてだして10年近くたったころだったと思う。理由はいくつかあるが、今から顧みて一番大きかったのは、ストレス解消のためであった。ストレスの拠ってきたるところについては、ここであれこれ書いてみてもしかたあるまい。およそどんな仕事、職場であっても、それが生活のためとなれば、ましてや対人を大きな要素とする仕事であれば、ストレスが生じるのは自然の理であろう。そして、生じたストレスはうまくそれと付き合いつつ、適度な割合でそれを解消していかなくてはやっていけない。

 実際、40代半ばから、髪は次第に減りはじめ、白髪が目立ち始め、肩こり・腰痛、また、歯や目の老化に悩まされるようになった。それらはその年ごろになれば、程度の差はあっても、自然に訪れる当たり前の現象ではあろうが、当人はそうも言っていられない。健康診断や病院に行くたびに、言われるのは「(原因の一部以上は)ストレスです」。言われるまでもなく、自覚している。

 

 私はパソコンやネットであれやこれやするというのは、仕事上やその利便性からある程度はやらざるをえなかったにせよ、基本的に嫌いだった。だからネットオークションなど、とても自分がやるようになるとは思ってもいなかった。しかし、要は「慣れ」であった。いつのまにやらそれに慣れ、一時はというか、昨年の秋にほぼ憑き物すべてが落ちるまでのこの15年ぐらい、研究対象という小さな口実、言い訳はあったにせよ、軽症ではあるがずっとハマっていたと言える状態だった。

 その間、対象としては外国切手から始まり、内外のマッチラベル、外国紙幣、蔵書票等とジャンルは移動した。他に割合は少ないが、明治石版画やセノオ楽譜、ホテルラベル、缶詰ラベル、古い薬袋、若干の版画や絵画等にも手を出した。ほとんどがいわゆる「紙もの」である。むろん、オークション自体が好きなのではない。それらの小さな美術品であるところの造形物、その持っている歴史性や世界観等を含めた、いわばマイナーアートとしての小世界が私にとってのアジール(避難場所)だったのである。

 そのコンテンツが変わるごとに憑き物の種類も変化したようだ。そうして見ると、IT自体についてはいまさら言うまでもないが、その内のネットオークション一つの普及によっても世界が、と大きく言わないまでも、コレクションということの在りようが旧来とは確かに激変したことがよくわかる。そもそもネットオークションという場がなければ一体どこで買えばよいのか、見当のつかぬコンテンツが多い。

 ともあれ、私がネットオークションにかかわったのはすべて入札者としてであって、出品したことはない。気がつけば手元にたまった各種のコレクションや、オークションとは関係なくそれ以前から所有している膨大な蔵書など、出品すれば整理処分できることはわかっているが、そんなめんどうなことをする気は、今のところない。

 

 そんなわけでネットオークションとの付き合いはそれなりに深いのだが、まさか自分の作品が出品されることがあるとは思ったこともなかった。

 そう言えば以前ネット上の古本屋のサイトで私の著書(論文集)が出ていたことがあった。これまで4冊の著書を出している。といってもその内の3点は論文の印刷公表や展覧会図録、作品集といった自費出版、もしくはかぎりなく自費出版に近いもので、正規の出版社から出た商業出版物としては『山書散策』(東京新聞出版局 2001年)だけ。『山書散策』が古本屋のサイトやオークションに出るのは不思議ではないが、たかだか300部程度しか印刷していない、しかも市販していない論文集が古本屋のサイトに出るというのはちょっと驚きだった。その本に関してだけは論文集(+作品集)という性格もあって、半分近くを公的機関や関係者に寄贈した。まあ仕方がないというか、それなりの事情があったのだろうとは思うが、何となく妙な気分になったことは確かである。しかしそれはまあ、それだけのこと。

 

 数年前のある日、何気なく自分の名前で検索してみたところ、あるサイトで、自分の作品がヤフオクに出ていたことを知った。それがこの「水茎-4」(作品番号:D.60)である。

 

 「水茎-4」(D.60) 

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  制作年:1989年 サイズ:63×46.5㎝

  素材及び技法:手漉き水彩紙(3A)にアクリル、水彩

  発表:S.11個展 1990.10 ぎゃらりいセンターポイント/銀座(←?) 

      S.12個展 1991.1/パレット画廊/徳山

 

 

 2011年の4月15日開始、4月20日に終了していた。即決価格80.000円とされていたが、5件の入札があり、落札価は4.850円。まあ、そんなものだろう。ちなみに発表時の価格はたぶんその25倍以上。ただし企画展なので当方の取り分はその半分。

 ついでに記せば、この「水茎」というタイトルを持つ作品は1から5まで5点あるのだが、この機会に確認したところ、めったにないことだが、どういうわけかこのデータの記述の一部をD.59とD.61のいずれかのそれと間違えて記していたことが判明した。5点のうちこれを含めた4点は売れていて手元になく、また手元にあるはずの一点もどういうわけか、今見当たらない。ということでデータのうち、発表の項は少々不明確なのである。

 

 絵柄としてはケルト風の錯綜する線の要素が強いというか、その要素の面白さだけで描き上げたもの。なにかを、例えばある思想や考えを表現しようとしたものではなく、おそらくあらかじめのイメージすらもなかった。

 厚手の物質感の強い手漉き紙の上に、粘度の高い金彩(アクリル)を用い、自律的、自動的に生まれてくる瞬間ごとの表現効果に集中することによって成立した作品である。一種のオートマティズムとも言える。したがってそれ自体の完成度はありえても、そこからまた次の別の世界を紡ぎだすといったところまではいかなかった。5点で終了のゆえんである。

 もう30年近く前の作品であるが、久しぶりに見て見ると、これはこれでやはり面白い。この要素、方法を今ならばまたもっと異なった形で展開できそうな気もする。しかし、これはやはり極度の集中を必要とするので、今となってはちょっとしんどいかもしれない。といって、もう過去の方法として捨て去ってしまうのも惜しいような気がする。

 

 しかし、それにしても「水茎-4」は今現在どこのどなたが所有されているのだろう。絵は売れてゆく、人の手に渡っていくのが絵にとっても一番良いことなのだろう。落札した人は案外知り合いかもしれないとも思うが、とりあえず「買っていただいてありがとうございました」とこの場で感謝の意を表明させていただきたい。

 ついでといっては何だが、めったにないことだし、この機会に他の「水茎」も以下にまとめて紹介しよう。

 

 「水茎-1」(D.57) 

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 制作年:1989年 サイズ:63×46.5㎝

 素材及び技法:手漉き水彩紙(3A)にアクリル、水彩

 発表:S.12個展 1991.1/パレット画廊/徳山  ●個人蔵

 

 

 「水茎-2」(D.58)  

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 制作年:1989年 サイズ:63×46.5㎝

 素材及び技法:手漉き水彩紙(3A)にアクリル、水彩

 発表:S.12個展 1991.1/パレット画廊/徳山  ●個人蔵

 

 

 「水茎-3」(D.59) 

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 制作年:1989年 サイズ:63×46.5㎝

 素材及び技法:手漉き水彩紙(3A)にアクリル、水彩

 発表:S.12個展 1991.1/パレット画廊/徳山  ●個人蔵(?)

 

 

  「水茎-5」(D.61) 

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 制作年:1989年 サイズ:63×46.5㎝

 素材及び技法:手漉き水彩紙(3A)にアクリル、水彩

 発表:S.12個展 1991.1/パレット画廊/徳山  ●個人蔵(?)

 

 ちなみに水茎とは筆、筆跡とか、文字あるいは手紙といった意味。作品のタイトルとしては深い意味はない。

                        (記:2017.2.26)

 

「赤線」を引きに九鬼山から鈴ヶ尾山へ

コースタイム】2017.2.22(水)

田野倉駅~9:50~登山口10:08~池ノ山10:42~九鬼山11:45~高指13:45~桐木差山14:00~林道鈴ヶ音峠14:20~鈴ヶ尾山14:48~朝日小沢16:00~猿橋駅16:20

 

 今回の計画は、九鬼山から東に延びる尾根を辿って鈴ヶ尾山に登り、さらに大桑山を経て高畑山まで、というものである。猿橋駅から神楽山経由九鬼山までと、鳥沢駅から高畑山、倉岳山、高柄山、栃穴御前山経由四方津駅まではすでに二度に分けて踏破済み。地図には赤線が引いてある。つまり、今回はその間の赤線を引いていない部分をつなげようというものである。

 私は昔から山行が終わると、地図上に自分が歩いたルートを赤線で入れる。自分が歩いたラインが一目でわかるし、沢や道のない尾根筋など、そうしておかないとすぐにわからなくなるのだ。それでなくとも登ってから何年、何十年とたつと、記憶は曖昧模糊としてくる。むろん赤線を引くために山に行くのではなく、行った結果が赤線の連なりなのであることは、言うまでもないことだが。それはまあ一種の蒐集癖、整理癖と言えなくもないが、それよりも地域に対する鳥瞰的視点が欲しいと思うのである。

 

 以前在籍していた山岳会で、そうした赤線を引いた地図を見た先輩会員たちから、一頃「赤線マニア」と呼ばれていた。それを聞いてギョッとしたり、ニヤニヤするのは私より少し上の世代の人。「赤線」のもう一つのというか、より俗な意味を知っている世代である。「赤線」とは1958年3月の売春防止法の完全施行以前に存在した、公認で売春が行われていた地域の俗称である。東京の吉原や、永井荷風の愛した玉の井や鳩の街、川崎長太郎の小説に登場する小田原の抹香町などが有名だが、おそらく全国あちこちに存在しただろう。行政的地名ではなかろうが、通称としてなら、例えば福生市駅前の飲み屋街は今でもそう呼ばれている。そうは言っても、なんせ私が3歳の頃までの話だから、実感も懐かしさも持ちようがない。

 ちなみに非公認で売春が行われていた地域は青線と呼ばれていた。同じ山岳会のある若い会員は、歩いたところは私と同じく赤色で、自転車で踏破したところは青色で線を引いていたので、青線マニアと呼ばれたかというと、人柄のゆえか、そんなことはなかった。

 今回の山そのもの、ルートそのものには、さほどの興味も期待もなかった。だがいくつかの山頂を有するある尾根や連山のA山とB山を縦走し、次にC山とD山を縦走したあとで、今度はその間のB山とC山を結んで歩きたいと思うのは、自然な人情というか、美学と言えはしないだろうか。少なくとも私はその種の美学を持っている。今回の山行の半ば以上は、その赤線引きの美学だったのである。ただし予定ルートをすべてこなすとなると8時間以上かかる。日の長い時期に朝一で出かければ可能だろうが、現実的には難しいと思った。その場合、小沢川と幡野沢にはさまれた鈴ヶ尾山から北西に延びる尾根を下ることになるだろうが、それはまあ、現地で判断すればよい。

 

 5時間睡眠で6:00起床。例によって早くはない。五日市駅7:41発。田野倉駅9:40着。二人連れの登山者を先に送り、9:50発。いつものことだが、有名ではない山やルートに行こうとすると、まず取り付きに至るのがけっこう難しい場合が多い。今回は2.5万図と山と高原地図(5万図)を確認しながら行ったので、比較的スムーズに登山口に辿り着くことができた。途中、気がつくと先行した二人連れが、少し迷ったのだろう、遅れてやってくる。結局今日会った登山者はこの二人連れのみ。

 

 ↓ 登り口から見る朝一の富士山

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 小さな道標に導かれて沢を渡り、登山道に入る。それなりに歩かれているようで、道はしっかりしている。

 

 ↓ 登りはじめはこんな感じ

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すぐに尾根に上がり、一登りで池ノ山637.7mの表示のある三角点に到着。この尾根は大根畝と呼ばれているらしい。ときおり展望も開ける。文台山、尾崎山から御正体山への尾根と、倉見山から杓子山の尾根が重なった、奥行きのある構図のその向こうに富士が鎮座している。下の桂川流域の景観もなかなか良いが、手前にはリニア実験線が横切って目障りだ。今さらリニア線を走らせることにどれほどの意義があるのか。少なくともトンネルを掘られ、その膨大な土砂を捨てられることになる南アルプスの渓谷にとって、相当なダメージを受けることは間違いない。美しい景観と自律的経済至上主義が同居する現実。どこにでもある日本の風景。

 

 ↓ 画面下がリニア線

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 そこからほどなく右からの登山道を合わせる。しばらく行けば「右急坂登山道 左新登山道」の標識があった。しかしその分岐も見えず、道なりに進む。さらに「右天狗岩3分 展望良い」の表示があった。一応、行ってみると、確かに展望の良い、ちょっとした岩場がある。

 

 ↓ 右下が天狗岩

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 ↓ 天狗岩から 富士山の手前右が倉見山 その手前は尾崎山

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 そこからほどなく九鬼山970mの山頂(11:45)。ここは18年前に神楽山から登った。途中の感じは悪くなかったが、九鬼山山頂の印象は薄い。北に桂川を挟んで大菩薩連嶺を中心とした展望が広がるが、背後に植林帯が迫っていて、損をしている感じだ。

 

 ↓ 九鬼山頂上

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 少し戻って鈴ヶ尾山へと続く尾根を進む。歩く人は多少少なくなるようだが、しっかりした道である。落葉広葉樹の部分、植林の部分、それらの入り混じった部分と交錯し、悪くもないが、あまり面白くもない道を淡々と歩く。

 

 ↓ 途中のちょっと感じの良い部分

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 途中鹿除けのネットが張られている。今回のルート全般に猪の糞場がずいぶんとあったが、確かにこの辺りには鹿の糞も多い。鹿除けネット自体はやむをえないが、それが守っているのは、いくつかの檜の大木群の下に過密に植林された稚木である。何というか、植林の、林業の将来的方針が見えない構図である。

 

 ↓ 鹿除けネット 上下で色が違う

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 ↓ 中央奥が大桑山とその右が高畑山 鈴ヶ尾山は大桑山の左下だがわかりにくい

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 高指とおぼしきピーク(山名表示なし)のすぐ先に桐木差山の山名表示板があった(14:00)。

 

 ↓ 桐木差山 渋い~

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 そこからほどなく舗装された林道の鈴ヶ音峠に着いた(14:20)。この鈴ヶ音峠は、途中の道標には鈴ヶ尾峠、鈴懸峠とも記されており、どれが正しいのかわからない。右に林道を行くように大桑山・高畑山方面への表示があるが、ここはとりあえず直に鈴ヶ尾山を目指したい。注意してよく見ると道路の法面の際が登られているようだ。取り付いてみればそのまま踏み跡は上に向かっている。

 

 ↓ 鈴ヶ音峠 法面の際を登る

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 少しの登りで広い尾根に乗る。そのまま左に進めばまもなく、広葉樹の点在するだだっ広い鈴ヶ尾山山頂833.9mに着いた(14:48)。頂上には別に大秋日山の山名表示板があった。帰宅後確認したら別に鈴ヶ音山や、大秋田山の名もあった(『新ハイキング』470号 1994年12月)。日と田の写し間違いなのだろうが、どちらにしてもちょっといわくを知りたい山名である。

 

 ↓ だだっ広い鈴ヶ尾山山頂 感じは悪くない

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 私がこの鈴ヶ尾山を初めて知ったのはこの『新ハイキング』の記事によってだったと思うが、今回の山行に際して読み返しはせず、内容については全く記憶していない。そのせいか、鈴ヶ尾山とその北西尾根は植林に覆われた、あまり面白みのない尾根だと思い込んでいた。たぶん他の記事と混同したのだろう。

 

 時間的にもこれから大桑山、高畑山へ向かうのは少々無理がある。すなおに北西尾根を下り、小沢川二俣に出て猿橋駅を目指すことにした。多少薄くはなったものの、踏み跡もしっかりしている。尾根はイメージとちがって、意外にも落葉広葉樹の明るく気持の良い尾根である。降りるほどに尾根はやや細くなり、二三か所岩場や崩壊地の際のザレ場を行くところもあるが特に問題はなく、楽しく下っていく。今日のルートの中で一番気持の良いところだった。

 

 ↓ ちょっとした岩場 中ほどを下る

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 ↓ 気持のよい尾根すじを下る

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 ↓ 奥は権現岳(中央)と麻生山、ミツモリ 手前は左が百蔵山、右、扇山

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 この尾根は、末端近くに597mの幡野山を小さくせり上げたその先で、小沢川本流と支流の幡野沢の二俣で終わる。その幡野山もそろそろかなと思われるあたりでアンテナのたっている小ピークがあった。その先あたりだったか、「幡野入口バス停 右」という小さな道標があった。地図と磁石を出して確認する。下降する方向の右側に幡野という集落がある。私は二俣の尾根末端までまっすぐ進むつもりである。したがって右に行くのはまだ早いと判断し、左の正面方向と思われる方に進んだ。

 ここで見た2.5万図は新しいもので、道記号は全く記されていない。山と高原地図(5万分の1)には二俣へと北上するルートのみが破線で記載されている。帰宅後確認した古い2.5万図には、左手の朝日小沢集落からの道だけが記載されていた。しかし正面(北)に向かっているはずの踏み跡はいつのまにか左方向(西)に向きをかえ、同時に薄く怪しくなってきた。前回に引き続きまたしてもルートミスである。末端に近づいて掌状に分岐する尾根を地形的に読んで正確に下降するのは難しいものであるが、前回と全く同じ間違いをするというのはいささか情けない。直接の原因は「幡野入口バス停」=幡野集落と誤解したことにある。後ほどバスの窓から見た「幡野入口」と表示されたバス停は、何と正面の二俣にあったのである。

 ともあれ間違いを確信したのはもう朝日小沢集落の間近。苦労することもなく民家の脇に降り立った。その目の前をバスが上流に向かって通過する。終点はすぐ先だからまもなく戻って来るはず。少し歩いているうちにやって来たバスに手をあげ、乗りこむ。小沢川沿いの道を駅まで歩くのも悪くはないが、1時間半歩くよりはバスで15分の方が良い。そして途中の二俣で「幡野入口」の表示を発見し、ミスの原因を確認したのである。予定通り幡野山を越えて尾根末端まで歩けなかったのは画竜点睛を欠いたことになるが、帰路を楽できたのはラッキーだったとも言える。

 

 今回のルートは「赤線引き」が理由の大部分であったが、結果としてはなかなか味のあるルートで楽しめた。ただし結局、鈴ヶ尾山と高畑山の間は赤線の空白が残ったわけだが、それにこだわるかと言えば、案外そうでもない。こだわりはあるが、執着は少ないのである。行くべき山はたくさんあるし、ルート設定があまり面白くなさそうなのだ。しかし、またいつかその空白が気になり、赤線引きを目的として行くことがないとも限らない。それもまた私の山の楽しみ方の一つだからである。

                        (記:2017.2.23)

逍遥画廊[Gallery Wandering] -2

 

 

「光の柱」(498)

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              制作年:2006.3~2011.12  サイズ:34.4×24.4㎝

 素材及び技法:厚口和紙にアクリルクラッキング地+台紙(キャンソンラビーテクニック)

        に和紙、アクリル・墨・膠彩・アクリル・油彩転写・アッサンブラージュ

                    発表:S.29 個展 2012.10/あかね画廊/銀座

 

 私の絵の中でこの絵は、絵柄的には他にあまり類例がない。ポンと、突然現出したようなものである。きっかけはある。

 30年以上前の学生時代に、アルバイトでM市の市民絵画講座から、そしてその発展した絵画サークルで教えていた頃からの長い付き合いのNさん。10年以上前のある日、そのNさんと話していて、ミヒャエル・エンデの『モモ』の話になった。以前からその名は知っていたが、読んだことはなかった。日本では1976年に岩波少年文庫として発行とあるから、年齢的にも情報的にもタイミングが合わなかったのだろう。当時はいわゆる児童文学やファンタジー系統のものはあまり縁がないというか、むしろ苦手だった。それらを多少なりとも積極的に手に取り出したのは、40歳をすぎてから。

 彼女との長い付き合いの中で『モモ』の名が出たのは何度目かだったと思うが、そのころには『指輪物語』や『ゲド戦記』『守人シリーズ』なども一通り読んでいて、ファンタジーに対する抵抗感はほとんどなくなっていた。自分でも絵を描き、詩を書くNさんの『モモ』を愛する熱意にうたれた形で、初めて手に取り、読んでみた。感想としては、出会いのタイミングを逸したという感じ。読み終わった直後は非常に良い本だと思ったものの、よく評されるように、寓意性や思想性が勝ち過ぎているように感じられたのである。その結果、評価とは別に、感動の記憶として残っていないのである。10代で出会えばまた違ったかもしれないが。

 それでも読み終えた直後には印象が強く、この絵のイメージも『モモ』の中のどこかのシーンを、そのままイメージにしたもののようである。それが物語のどこで、どういう意味があったのかは、もう憶えていない。そのように、詩や小説や様々な本を読む過程で、あるイメージが突然一瞬に切り取られて、絵のイメージとして定着するということは、私の場合、しばしばある。イメージが私を訪れるのである

 

 画像を見ている内に思い出したのだが、もともと中央の楕円形の部分は、四角い台紙(洋紙:キャンソンラビーテクニック/現在は製造中止)に和紙を貼ったものに描いていたものである。それが全体としてはどうにも上手くいかず、ボツにするつもりだったのだが、廃棄するには惜しい感じが絵の一部にはあった。捨てかねてしばらくとっていた。ある日ふと、別の厚口和紙にアクリルクラッキングで地塗りした状態のものと並べてみると、ボツにする予定の絵の気に入っている部分を楕円に切り抜いて貼りつけるというアイデアが浮かんだのである。小さな絵だが5年もかかった所以である。

 わりと最近知ったことであるが、P.クレーもまた描きあげた自作をいくつかに切り分け、左右を入れ替えたり、別々の作品に仕上げたりということをしている。完成作とはしかねるが捨てるには惜しい自分の作品もまた、素材でありうるということだ。

 

 水面に落ちる滝のような、また噴出する光の柱でもあるような、そんなシーンがおそらく『モモ』の中にあったのだろう。挿絵でもあったのだろうか。記憶はない。本も手元にないので確認できない。まあ、できてしまったものはもう私のもの、私の世界なので、出典というか、きっかけを確認しても、あまり意味はない。

 ただし、特に背景の扱いについては、ヘンリー・ダーガーの作品の方法を使っていることは確かである。この時期は彼の作品にかなりの影響を受けている。絵具として膠彩(顔料を膠水で練ったもの)を多く使用しているのもその一例。ヘンリー・ダーガーの場合はグァッシュ(不透明水彩)であろうが、その絵具の中性的な不透明感に惹かれながら、もう少し不透明性を厚くしたかったのである。

 楕円はアクリルクラッキング地塗りの台紙に、細い真鍮の針金で縫いつけられている。その周りを同心円状にペリドット橄欖石)が糸で縫いつけられている。画面の四隅には螺鈿用の貝。下方には、トルコで買ったコーランの断葉の一部が転写されている。深い意味はないが、前提としての東と西ということ、つまり異文化・異世界衝突ないし交流ということ。

 滝、または光柱とそれを映す水面の波紋。洞窟または地下世界。それらの全体の、また画面の一つ一つの要素の意味合い、象徴性というものは、必要であれば、見る人が感じ考えればよいことだ。

 

 Nさんの記憶と結びついた、ちょっと懐かしい、少しばかり愛着のある絵である。

 そう言えばこの絵は東京で一度発表したが、山口県では発表していない。

 

 余談だが、『モモ』から名前をとったらしい、あの小さかったNさんの娘も、現在は画家として立派に活躍されている。

                          (2017.2.12)

 

逍遥画廊[Gallery Wandering] - 1

 グループ展が近づいてきた。出品作の選定をしなければならない。DM用の画像も送らなければならない。

 手書きの作品リストノート(手描き文字のデータと手描きの略図入り)と、PC画面の作品リスト(エクセル 文字データのみ)と、作品画像のフォルダの三つを付け合わせながらの作業。もちろん合い間には実物も引っ張り出してきて確認する。寄り道にはなるが、ついでに目についた未撮影の作品にはトレーシングペーパーをかけ、整理する。差し替え可能な額のチェックもある程度やっておかねばならない。それやこれやでなかなか煩雑である。

 

 私は発表、特に個展の場合は、基本的に時系列で出してゆく。会場全体の構成について考えないわけではないが、つまりは作品番号が古い未発表のものから順に出してゆくのである(最近はこの発表の順番待ちの列が長くなっている…)。特に大きな会場の場合や、事情がある場合は別にして、普通は東京と山口で一回ずつ発表したらそれで終わり。そこで売れなかったものは、以後、お蔵入りということだ。ふつう、一週間程度の間にせいぜい二、三百人の人の目にふれるだけである。我ながら、効率の悪いことだ。

 

 最近に限ったことでもないが、このお蔵入りの割合が増えて、収蔵スペースに困っている。自宅の収蔵室とは別に、少し離れたところに倉庫の一画を借りているが、これも種々の事情から、そう永続的なものとは考えられない。

 要するに、絵が売れないのと、発表機会が徐々に減っているにもかかわらず、制作量は減っていない、むしろ増えているということなのである。それはそれで根源的な問題であるが、今ここでそれについて論じようというのではない。

 

 そうして、作品画像のフォルダや収蔵室を行き来しているうちに、ほぼ死蔵状態のそれらのうちの幾つかを、あらためてどこかで公開してみたいという気になったのである。売れた売れないには関係なく、自分でも気になる作品というものがある。そういえば、こんな絵もあったなと思い出す画像がある。気がつくと、それらの作品や画像と小さく対話していたりする。

 

 これまで作品集という形で、なるべく多くの作品の画像を出そうとつとめてきた。ただそれも、種々の事情からとどこおりがち。そもそもほとんど宣伝していない。

 HPで、と思う。だがその肝心のHPのギャラリーのコーナーを、自分では更新できない(費用もかかるらしい)。ある友人はフェイスブックで毎日のように自作を公開している。しかし私はフェイスブックをやっていないし、好きではない。まあ今どき情報発信は、HPよりも圧倒的にフェイスブックなのだろう。SNSの圧倒性をいまさら否定してもしかたがないが、自分の好み、ペースとしてはせいぜいブログまでである。ブログなら日々自分で更新できる。

 そのブログに、新たに作品紹介のカテゴリーを作ってみようかと思うのである。題して「逍遥画廊[Gallery Wandering]」。ちなみに逍遥の英訳としてはstrollとなるのだろうが、この単語には私としてはなじみがない。意味としては逍遥でもあり彷徨でもあるので、Wanderingで妥当だろう。まあ、前後左右に関係なく、ふわふわと自作の森の中を彷徨い、行き暮れつつ、時おり一人つぶやく、といったイメージのカテゴリーである。

 最近は、文章を書く、ブログを更新するという事自体にいささか倦んでいるところがある。まあやってみて面白くなくなったら、それはその時で中断なりサボるなりすればよいと思う。

 とりあえず、始めてみよう。目的は作品(再)紹介。ときには作者と作品の対話が、低く洩れ聞こえてくるかもしれないということ。いざ。

 

 

 「旅人とその景」(566)

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                            2010.10~2011.8  28×24.8㎝

           厚口和紙にアクリルクラッキング地 アクリル・油彩・樹脂テンペラ

                 G.73 「第18回小品展」 2012.1/パレット画廊/周南

              G.75 「タテモノフウケイ展」 2012.6/あらかわ画廊/京橋

 

 グループ展の話があって、急きょ会場スペース等を意識して制作したもので、そうした作り方は、私としては比較的珍しい。

 基底材・支持体としての手漉き厚口和紙にアクリルクラッキング地というのは、それまで何度も使ったことのある組み合わせである。作業工程上、何枚かまとめて作ってストックしておく。地塗層は「クラッキング」というそのままの製品名のアクリル系塗料(主に建物の内装用)だが、それ自体の独特で魅力的な物質感が好きで、時おり地塗層=下色として使う。その独特のテクスチャアのゆえに、特にアクリル以外の絵具を乗せるのには多少の神経を使うが、そう難しいものではない。彩色の前に多少紙やすりをかける。

 クラッキングということのテクスチャア=肌合いの魅力にかなりの部分を負っていることは言えようが、それを活かさなければこの素材を使う意味がないだろう。

 

 絵柄としては結晶化した塔(ジグラット)。たしかバクダットにある塔で、イラクの昔の紙幣の図から持ってきた。塔の持つ垂直性と、螺旋という無限へと至る幾何学性に惹かれるというのは、時代や民族を問わず、人間の本能(的な美への希求)であるらしい。四つ四色の円形はまあ、月か、月のようなもの、か。色はアラブ的ということを意識したのかどうか、記憶にない。たぶんしていないだろう。村上春樹の『1Q84』にも二つの月が出てくるが、それを読んだのはこの絵を描いた後の話。そのずっと以前から同様なモチーフは使っている。

 左下の白い三角形は私の作品にしばしば出てくる形であるが、多様な意味合いを持つ象徴的な記号である。主に墓ないし「死」のイメージ。造形的には右の塔と対応することによって、画面の基本構造を成している。最後にその下にごく小さく人物を入れることによって、この絵は統一的な空間を獲得し、タイトル「旅人とその景」が成立したのであるが、今見れば確かに司修的である。それはまたルドンの「あいまいなもののかたわらに明快な形を置くこと」でもある。

                            2017.2.10

雪の奥武蔵・丸山から高山不動へ (2017.1.25)

【コースタイム】2017.1.25 快晴

芦ヶ久保駅10:25~分岐道標11:00~丸山(960.3m)12:30-12:55~カバ岳13:44~ツツジ山879.1m14:45~関八州見晴台16:20~高山不動~大久保入17:30頃~吾野駅18:40

 

 今年二度目の山は奥武蔵、丸山から高山不動へ。特に理由があったわけではない。そう言えばここしばらく奥武蔵には行っていないなと、ふと思いついたからである。

 奥武蔵は奥多摩の北東、東京埼玉の県境と、八高線秩父鉄道に囲まれた三角形の範囲だが、主脈の中心イメージは西武池袋線西武秩父線沿線である。私は西武池袋線とはけっこう縁が深い。18歳で東京に出てきて以降の24年間、目白、保谷、浦和、松戸、入間、西所沢、利根町、東久留米、福生市熊川と住み移り、その後、今の五日市に住んで早や20年になる。このうち目白(最寄駅は椎名町)、保谷、入間、西所沢という西武池袋線沿線で17、8年暮らしてきた。西武池袋線というのは、その何となくノンビリしたところが今でも好きである。当時は若い時のことゆえ、それらの土地にさほど愛着を感じたこともないが、近いということもあって、沿線の奥武蔵の山には足を向ける機会も多かったのである。

 しかし、いくつかの沢をのぞいては、あまり魅力を感じる山域であるとは思えなかった。北アルプスや越後、奥利根、南会津方面に行きたくはあっても、生活に追われ、時間も金も精神的余裕もなかった頃に、どちらかと言えば仕方なくといった感じで足を向けたことが多かったように思う。そのためもあってか、なんとなくうらぶれたような、さびしいような印象の山行の記憶が多い。そのせいか、最近はとんと足を向けなくなっていた。しかし嫌いな山域ではなかった。

 寒く日の短いこの季節、通い慣れ(すぎ)た中央線沿線ではなく、ふと思いついた奥武蔵は、ささやかだが滋味あふれる陽だまりハイキングを味わえそうに思えた。

 

 五日市をのんびりと8:25の電車で発つ(例によってこの「のんびり」を後で悔やむことになるのだが)。芦ヶ久保駅手前のトンネルを抜けると雪が残っている。この時期だから不思議ではないが、想定外である。数日前に都心でもちらついた時の名残りだろうか。ただし雪は北面だけのようであり、これから登るのは主に南面だから稜線も含めてまあ大丈夫だろうとたかをくくり、10:25に登りだす。しばらくは上の集落への舗装道路を辿る。振返れば痛々しくも頂上を削り取られた武甲山がそれでも大きな根張りを見せて鎮座している。下部の石灰岩地形には「谷川岳の岩壁にも匹敵する」と言われた、ありし日の面影がわずかながらうかがえるような気がする。

 

 ↓ 武甲山

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 ↓ *参考:ありし日の武甲山 昭和35年

 http://blogs.yahoo.co.jp/enduro_fuji/33172773.html より

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 舗装道路から分岐する道標に11:00。ここから山道となる。ほどなく雪の上を歩くようになる。南面ではあっても樹林帯の中は雪が残っていた。

 

 ↓ 雪が出てきた

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 推定75歳ぐらいの単独行のお爺さんを追い抜く。標高550mぐらいで尾根に乗ったあたりから以後高山不動までの稜線上は、8割方雪の上を歩くことになった。気温が低く、よく踏み固められている。軽アイゼンが欲しいところだが、持ってきていない。この時期は常時ザックにしのばせておくべきだろうか。そして、寒い。耳はちぎれそうで、鼻の穴の奥まで冷たい。ニットの帽子も必携であったか。手袋は軍手だし。反省点多し。

 

 ↓ 910m圏ピーク付近から西を望む

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 植林帯と落葉した広葉樹林帯を交互にすすむ。今回のルート全体を通してその割合はほぼ半々といったところ。踏み固められた雪面はむしろ歩きやすい。県民の森に至る林道(奥武蔵グリーンライン)を横切った先が910m圏のピーク(12:08)。いったん下って再度林道を横切り、登りつめた先が丸山山頂960.3m(12:30)。

 

 ↓ 丸山山頂手前

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 その直前で、素手で二本の枯木をダブルストックにして猛烈な勢いで登って来るおばさん(推定55歳)に追い抜かれた。山姥のごとしである。追い抜きざま、「頂上から雪のない下り道はどこか」と聞かれる。意味不明だが、後ほど頂上で再会した時に話してみると、芦ヶ久保駅近くの氷柱(人工の観光スポット)を見に来て、丸山が初心者コースだというチラシを見て登ってきたとの由。足回りも装備も山登りといった感じではないが、何にしても元気なものである。何か別の運動でもやってらっしゃる方なのであろう。

 丸山山頂には異様な雰囲気の大きな展望台がある。何でこんな無粋かつ不要なものをと思いつつ、とりあえず登ってみる。登ってみれば確かに展望台の名に恥じぬ大展望である。赤城から浅間、両神、八ツ、大岳から丹沢方面まで、ふだんあまり目にすることのなかった角度からの山岳展望を存分に楽しんだ。

 

 ↓ 丸山山頂の展望台

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 芦ヶ久保駅からここまでの標高差が約650m。あとは小さな登り返しはあるものの、おおむねゆるゆると下りかげんの行程である。大野峠で林道に出る(13:20)。凍結した舗装道路を歩くのを嫌って右側の植林帯に入れば、踏み跡がある。以後もしばらくの間は林道と並行した尾根上の登山道を歩くことができる。カバ岳の表示のある山頂らしからぬピークに13:44。その先からしばらく林道に並行する尾根は細くなり、岩場が出てくる。ちょっと山っぽく.、楽しい。ここで、今日出会った三人目の、なぜか半ズボンのトレラン姿の若者とすれ違う。

 

 ↓ カバ岳のカバは刈場坂峠のカバか 風情は無し

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 ↓ ツツジ山手前 風情あり

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 牛立久保、ツツジ山(別名:横見山)を過ぎると、舗装林道を歩く割合が増えてくる。ときどき林道脇の左右の小ピークへと導く道標があり、丸山(833m)、飯盛山(別名:センズイ816.4m)ほかの小ピークをいちいち御丁寧に踏むことになる。今回のルートは尾根上を林道(奥武蔵グリーンライン)が走っているということは、事前に知っていた。そのため昔からポピュラーなコースでありながら長く足を踏み入れる気にならなかったのである。それでも前半はあまり気にならなかったが、後半になり林道歩きの割合が増えると、いささかかったるい。飯盛峠あたりからは別荘まで出てきはじめた。

 

 ↓ 奥武蔵グリーンライン 味気なし

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 関八州見晴台も別荘のすぐ先というか裏というか。少々やり過ぎだろうと思う。関八州見晴台(別名:堂平山)は名前はちょっと大げさかなという気もするが、気持の良いところ。今日初めて富士山が見えた(16:20)。既に暮色が強い。

 

 ↓ 関八州見晴台 春の光…

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 ↓ 関八州見晴台より富士を望む 暮色が濃くなってきた

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 ここまで時間のことは気になっていた。例によって出発時間が遅いのは承知していたのだが、場合によっては途中の適当な所から降りれば良いと思っていた。結局慾にかられここまで来てしまったが、まあなんとか暗くなる前には西吾野駅に着けるはずだった。

 高山不動もゆっくり見ればそれなりに興味深そうなところではあるが、時間に追われ一瞥しただけで通過。最短距離の予定通りの南西の尾根からパノラマコースに向かう。植林帯の中、だんだん薄暗くなってきたが、道は幅広くしっかりしている。こういう時はギリギリまでヘッドランプは点けないものという、昔のセオリーに従って下っていった。それが間違いだったのである。(今のヘッドランプは性能が良く、むしろある程度早めに点けるべきだろう)

 南西の尾根の道は途中で二つに分岐し、その左に入る「パノラマコース入口」の表示は確認した。そこで山と高原地図も見た。山と高原地図にはパノラマコースしか記されていない。したがってそのまま進めば予定通りのルートを下れるものだと思い込んだ。一方、後になって見た2.5万図には、分岐の少し先で左の大久保入に下るおそらくはより古い道だけが記載されており、右に行くパノラマコースは記載されていない。ギリギリまでヘッドランプを点けなかったため、大久保入とパノラマコースを分ける第二の分岐を見落としたということなのだ。その場合、路そのものは古くからあるものの方が深く掘りこまれているために、足は自然にそちらに導かれたということなのだろう。ヘッドランプを点けた時にはすでにその第二の分岐を過ぎており、パノラマコースを下っていると信じ込んでいたのである。

 わずか二軒の家がある人里に降りたったのが17:30頃。すでに暗くなってはいるが、まあもう10分もかからずに駅だと思ったが、歩いても歩いても暗い林道が続く。ようやくおかしいと気づいたが、現在地点がわからない。しばらく歩いて人家が出てきたあたりで、予定とは違うところに降りてしまったと気づいた次第である。駅まで直線距離でいえば近いのだが、あいにくそこからは長く低い尾根を大きくまわりこんでいかなければならない。結局1時間ほどの残業の果てに吾野駅に辿り着いた(18:40)。

 

 またしても反省点の多い山行となってしまった。ルート自体に難しさはないが、そこを少々甘く見ていたということだ。といって特に焦るということもなく、勉強になりました、という感じであるが。

 ひそかに期待していた陽だまりなどなかった。天気は良かったが、寒すぎたのである。奥武蔵の魅力を再発見できたかどうかも、怪しい。まあまた機を見ていくつかのルートを歩いてみようとは思っている。

                         (記:2017.1.31)

 

2017年初登山 「山椒は小粒でも・・・」 花咲山と岩殿山  (2017.1.6)

 月に2回×12ヶ月=24回の山登りと、「2時就寝~9時起床(本当は1時就寝~8時起床としたいところだが、まずは段階的にと)」という目標を、懲りもせず今年も年度目標として掲げた。

 さて、今年の初登山である。どこに行こうか。「2時~9時」あるいは「1時~8時」に改善されようと、日帰り登山では、朝4時台か遅くとも5時台には起きなければならない。特に日の短い冬場はそうだ。できれば6時間睡眠、せめて5時間睡眠でないと辛い。4時間以下となると、結局その日は中止せざるをえない。

 行くならばやはり充実した良い山行をしたいと思う。そのためには山の高さ、行動時間、ルートの難易度や、当然山そのものの良さ(ただし、これは行ってみなければわからないことが多い)といったことが要素としてでてくる。しかしそれらにこだわる限り、出発前の計画段階で起床時間、睡眠時間が高いハードルとなって立ちはだかるのである。

 そこで今回は発想を変えた。とりあえず年初めの今回は、そうしたことはそこそこにして、まあのんびり楽しく、まずは行くことだ、と。低くて、行動時間が短くて、アプローチの短いところ、上等。

 

 岩殿山大月駅の背景の岩山として昔から知っていた。むろん戦国時代の山城跡として有名なところであり、古くから登られている山。いつかは登ってみたいとは思っていた。花咲山はその名も、ルートについても、長い間知らなかった。中央線の車窓から見れば単なる裏山、藪山である。2014年版の山と高原地図『大菩薩』には山名もルートも破線ながら記されているが、1998年版には山名もルートも記されていない。つまり、ここ15年ほどで多少なりとも登られるようになったということなのだろう。

 いずれにしても、岩殿山にしても花咲山にしても、地図でも見るとあまりパッとしない、前山か裏山、あるいはせいぜい里山といった風情にしか見えない。登るのはもっと先、私が70歳くらいになってからのためにとっておこう、ぐらいに思っていた。だが単独では少々物足りないにしても、二つの山を連続して登れば、それなりに歩きでのあるルートになるのではないか。

 

 ↓ 大月駅前から見る岩殿山

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 ↓ 同じく花咲山から続く叉平山方面

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 武蔵五日市駅発8:05。大月駅9:52。初狩駅から歩いても登山口まで1時間足らずだが、今回は大月からバスを利用する。20分ほどで中真木バス亭(10:33)。少し戻って「花咲山」の指導標に導かれて小学校の裏手の道に入る。突き当たりの民家の左手から山道に入る。

 

  ↓ バス亭付近から見る富士山

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 しばらく鹿除けのフェンス沿いに登り、舗装された林道を横切る。思っていたより歩かれているようで、道はしっかりしていて、歩きやすい。ほどなく細い尾根上の露岩帯にトラロープが張られて「立入禁止」とある。「立入禁止」と言われても左は絶壁、右も踏み跡はなく、そこしか歩きようがない。やむをえず、ロープをかいくぐってそのまま進むが何の問題もない。なぜ「立入禁止」なのかわからない。向こう側には「女幕岩」の表示があった。

 

  ↓ 女幕岩 「立入禁止」のトラロープ

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 この近辺の山にはこうした礫岩の露頭や岩壁、岩峰が多く、単なるおだやかな里山にとどまらぬピリっとした変化を与えている。礫岩と言っても、中の礫は角ばったものではなく、水流で丸くなった玉石のようなものばかりであり、尾根上でありながら河原にあるような玉石ばかりがあるのはちょっと不思議な感じだ。太古の水流に洗われた玉石が富士山の噴出した火山灰が凝縮した凝灰岩に包み込まれ、長い年月の後に隆起し、浸食を免れたということなのだろうと、とりあえず推測しておく。

 その先で何匹かの猿の群れに遭遇。威嚇するような鳴き声をあげながら去っていったが、ちょっと怖い。

 

  ↓ こうした岩がところどころにある。中央を通る。

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   ↓ 木の間越しに花咲山を望む

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 尾根は思っていたよりも細く、落葉しているせいで見通しもきき、なかなか気持が良い。717mピークには何の表示もなく、いったん下って登り返した先が花咲山山頂(11:55)。梅久保山の別名もあるが、のどかな山名とちょっと違った、ピリッとした山である。三角点はなく、地形図に標高の記載もないが、750m圏の等高線。小さな祠が一つだけあるまことに気持の良い頂上である。木の間越しに360度の展望が楽しめる。山頂の祠の傍らには小さな金精様。

 

   ↓ 花咲山山頂

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   ↓ 山頂の祠 左下が金精様

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 山頂からは少し急な下りが続く。散りつもった落葉のせいで滑りやすい。下りきったところに花咲峠の表示。登り始めの女幕岩と対になるのだろう男幕岩の表示があったが、それがどれなのかはわからなかった。そこから二つ目のピークが叉平(さすでぇら)(山)、610.1m(12:30)。そのすぐ先で昼食とする。珍しく女房の作ってくれたお弁当を食べる。やはり美味い。

 

   ↓ 叉平(山)山頂

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 そこから尾根は二つに分かれ、登山道は右の尾根に向かって下っていく。まっすぐの尾根を行く道もある(あった)ようだが、そちら側には今は踏み跡はほとんどない。まあここは無難にと右を選び、のどかに快適に降りていく。小さな社の前を右に進めば、中央高速脇の道路に出た。まずは一山目、終了である。

   ↓ 叉平(山)から右尾根の下り

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 次は岩殿山。浅利集落を稚児落としへの登り口に向かう。ここから稚児落としまでの間は二十年以上前に宮地山からセイメイバン、兜山経由で歩いている。その時はできれば岩殿山までという予定だったのかもしれないが、時間切れで浅利集落に降りたのである。その時に浅利川の橋を渡ったのだが、橋は二か所あり、そのどちらを渡ったのだかはっきりしないが、どちらでも正規の登山道に至るはずである。ふと見ると目の前に不動橋と書かれた小さな橋がある。二つの橋のどちらでも良いのだからと、何のためらいもなくその橋を渡った(13:30)。

 対岸をほんの少し登ると小広く開けた場所。お墓が一つだけある。あれ?道がないな?と思いながらも、一つ先の橋からの道はすぐ先で合流するはずだと、そのまま藪に入り左にトラバースして行く。最初は薄かった藪も、次第に濃くなってくる。なかなか道が出てこないが、この時点ではまだ間違ったとは思っていない。やがて小さな沢にさしかかる。どうやらこれは何か間違えたことを自覚せざるをえなくなったが、とにかく進むしかない。沢を渡り、対岸に上がると、そこからは超濃密な笹藪が待ち構えていた。久しぶりの本格的な密藪。まっすぐ前に進めず、藪の下を這いずって行くしかないところも多い。下をかいくぐっていると、あちこちに猪のねぐらとおぼしきところがある。そう言えば猪は昼間はこうした藪の中で寝ているはずと思い出した。なんとか猪にでく合わさないことを祈るばかり。この密藪は正味は15分ほどだっただろうか。ようやく道に出た時はほっとした。やれやれ、である。あらためて地図をよく見ると、稚児落としへのルート上の橋は二つと思っていたのだが、実はその手前にもう一つ別の橋がごく小さく記されていた。思い込みである。またしても…深く反省。30分以上のロス。

 道の有難さをしみじみ感じつつ、細い尾根を辿る。稚児落としはやはり絶景というか、魅力的というか、なかなかの迫力である。ここを登攀した人はいるのだろうか。とはいえ、史実であるかどうか定かではないが(たぶんある程度は実際にあったことだろう)、「稚児落とし=幼児を谷底に投げ落し殺した」のだから、恐いというか、陰惨な話、むごい地名ではある。

   ↓ 稚児落としの左岸側 左奥が岩殿山f:id:sosaian:20170108222327j:plain

 

   ↓ 稚児落としの右岸側 

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 いったん登りつめた先が天神山。祠があり、中には天神とおぼしき彩色された木造の立像が一体。神道の神像の場合、胡坐を組んでいる坐像が多いと思うのだが、立像というのもあるのだろうか。またその傍らには那智青岸渡寺の木札が置いてあったが、この両者の関係はどうなのだろうかと、少々疲れた頭で考える。また、この祠の前にはいくつものやや丸い石が置いてあった。それを見ていて、ふと思いついたことがある。

 

   ↓ 天神山の祠の中の神像と木札 

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   ↓ 祠とその前に置かれた石 

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 甲斐は石仏も多いが、それとともに丸石神と言われるものも多い。文字通り真ん丸い石が祀られているのだが、この尾根上ですら玉石、丸い石が多く見受けられるのだから、里でも同様な丸石が地中から畑地から掘り出されることは多いだろう。中でも甌穴(ポットホール)の中にあったものは、見事な真球に近いものがある。暴れ川と言われる桂川の河原で見られるようなそうした丸石が、他と違ってこの地ではしばしば地中から掘り出されることの不思議さと、丸さそのものの形が持つ神秘性と相まって、素朴な信仰の対象となったのであろうと。

 

 天神山からはもうすぐだと思っていたら、もう一つ兜岩と呼ばれるピークが立ちはだかっていた。その直下で道は左にトラバース気味に下降する。巻道かと思うとすぐに二分し、左は林間コースとある。右をとれば結局はピークに登ることになった。そこから何ヶ所か下降、トラバースと鎖場が続く。鉄鎖、ロープとしっかりしているが、スリルはあり、楽しい。楽しいが疲れていることもあり、慎重に下る。

 

   ↓ 岩殿山と大月の町並みを挟んで桂川右岸の山々 

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   ↓ 鎖場 その1 

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   ↓ 鎖場 その2

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 築坂峠からが最後の登り。道もこれまで以上にしっかりしたものになるが、ほどなくコンクリート舗装された階段状のものになる。左に岩殿城址の表示を見てそちらに入る。城戸門跡の巨岩の間を入り上に上がれば、城址の小広い空間。戦国時代についてはあまり興味がなく、知ることは少ないのであるが、「つわものどもが夢の跡」の感はする。おりからの夕暮れが近い富士の大きさがその感をさらに際立たせる。

 東屋や乃木希典の碑のあるところには岩殿山山頂634mの標識があるが、これはおかしい。地形図を見てもわかるように、その先の烽火台や本丸跡の方が明らかに高い。そちらにも634mの標識はあるが、紛らわしい。

 

   ↓ 烽火台跡 最高地点(?)

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 一通り見て、暗くなる前に下らなければならない。下りは東に延びる尾根を下るつもりで地図を確認したつもりだったのだが、またしても読みそこなってしまった。城址の中ほどの馬場跡から東に向かう路を辿れば良かったのに、いったん城址の入口の表示のところまで下り、そこから東に向かうのだと思い込んだのである。下っても下っても東に向かう道は分岐せず、もはや登り返す気力はなし。そのまま下る。まあこの大岩壁(鏡岩)の直下を下る正面登山道とでも言うべきルート自体も気にはなっていたのだから、それでもよいのだが、やはり少し残念である。九十九折りの味気ない舗装された階段の正面に美しく暮れなずんでゆく大きな富士が在った。

 

   ↓ 正面登山道より鏡岩を仰ぎ見る

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 ↓ 暮れなずむ富士

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 顧みて、稚児落としの登り口手前のルートミスと藪こぎ、岩殿山頂からの下降ルートミスという失敗はあったが、結果として今回の花咲山+岩殿山は変化のある、予想以上に良い山、良いルートだった。登り口からの標高差はそれぞれ300mと280mだが、それなりに登りがいのあるルートとなった。「山高きがゆえに尊からず」である。「山椒は小粒でもピリリと辛い」である。前山、裏山、里山というべき山であっても、二つをつなげれば充分登りがいのある山行になる。これから日の短い冬場は、少しそんなルートを探して登ってみようかなと思う。    (記2017.1.6)

  

【コースタイム】2017.1.6 晴れ

大月駅9:52~中真木バス亭10:33~女幕岩11:23~花咲山750m11:55~花咲峠12:20~叉平山610.1m12:30~中央道脇13:20~不動橋13:30~墓地~藪こぎ~登山道14:00~稚児落とし14:40~築坂峠15:35~岩殿城址16:05~烽火台・本丸跡634m16:15~大月駅17:00