艸砦庵だより

河村正之のページ 絵画・美術、本、山、旅、etc・・・

再戦の中尾根から京戸山・ナットウ箱山・達沢山(2019.3.22)

【コースタイム】2019年3月22日 標高差885m

笹子駅9:35~中尾根取付10:40~鉄塔11:05~P1093m11:27~中尾根への分岐11:31~主稜線合流(カヤノキ平の頭と誤認)12:50~中尾根の頭標識/引き返し~カヤノキ平の頭14:12~ヤナギ平15:00~ナットウ箱山15:33~達沢山16:10~峠16:30~堰堤16:50~立沢バス停18:00

 

 年明け以来の右腕の不調と高血圧も、どうやら治まったようだ。試しに行ってみた先月の入山尾根でも、まあなんとかなりそうだという感触。では、すぐ山に行くかというと、それがなかなかそうはいかない。  

 絵描きの私の日々の生活は、制作活動が中心である。美術館に行くとか、所用で外出する以外は、毎日アトリエに入り、一日の大半をそこで過ごす。真面目にやればやるほど、身体には必ずしも良くない。完全夜型生活、芸術上の苦悩、腰痛肩こり、その他云々。それはまあ、しかたがない。

 だから心身のリフレッシュのためにも、定期的に山に行った方が良いのだが、タイミングというものは、なかなか意のままにならない。その意味では、私は意志的人間というよりも、ずるずると流されやすい感性的人間なのだ。そんな私だが、今回はどういうわけか、珍しくフッとスムーズに出発することができた。

 目的地は、これもふと思いついて、駅から直接歩き始められる(バス時刻に煩わされない)ということもあって、三年前に一度目指して中退した達沢山。取り付きの中尾根で、コンパスを忘れたことから、読図ミスをおかして中退した、いわば再挑戦のルートである(この時の中退記は「敗退の笹子・中尾根から達沢山」としてUP済み)。

 当初は、上述のようにしばらく体調に不安があったため、もう一度お試し的な、楽な山を考えていた。たとえば標高差300m以下、歩程3時間程度といった里山歩き。

 そうこうしているうちに、日ましに春めいてくる。日も永くなってくる。あんまり楽な里山歩きではなんだかもったいない気がしてきた。それはもう少し先に、もっと齢をとった日のために、とっておこう。

 

 朝5:50起床。7:28の電車に乗る。笹子駅着9:35。通いなれた道を登山口の新田集落に向かう。新笹子トンネルに向かう国道は対向二車線で狭い。歩道も狭い。そこを車はガンガン飛ばす。歩道を歩いていると、トラックの風圧で危険を感じる。

 

 ↓ 甲州街道沿いにあった石仏(?)。正体は不明。頭には古い宝篋印塔の一部らしいものが載っているが、本体は見たことがない。作は立派で、現代の彫刻家の作品かと思われる。お賽銭があげられているから今では立派に石仏として機能しているということなのだろう。何度も前を通っているはずだが、なぜか今回まで気づかなかった。

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 一時間ほどで前回と同じ、植林の尾根末端の取り付き地点。林業用か登山用かわからないが、古いピンクテープがある。この後も断続的にピンクテープはあったから登山用だろう。

 

 ↓ 中尾根末端の取り付き

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 登山道はないから、以前の間伐作業時の仕事道と思われるかすかな踏み跡を辿る。すぐにその踏み跡は不明瞭になったが、足裏の感覚で登りやすいところを選ぶ。前回はやや左方面から尾根に上がり、伐採後の倒木でそれなりに苦労した覚えがあるが、今回は二度目の余裕で、より慎重にルートを選び、右から回り込むように支稜を登れば楽に登れる。植林帯が終わればほどなく鉄塔に着いた(11:05)。ここからは気持ちの良い広葉樹林の尾根である。新緑には早く、色彩は乏しいが、渋い諧調の美しさがある。

 

 ↓ 植林帯をぬけて広葉樹林帯となる

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 ↓ 中尾根の広葉樹林帯。木の間越しに大洞山を見る。

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 山繭を拾った。天蚕とも呼ばれる野生の蚕である。

 

 ↓ 山繭 美しい彩 美しいフォルム

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 この巣立ったあとの穴の開いた自然の繭だけを拾い集めて絹糸を紡ぎ、それを染めて布を織るという染織家の話を読んだことがある。その話にちょっと感動して、自分でもいつか布を織ってみたいと思い、山歩きで見かけるたびに拾い集めていた。しかしそれを実現する機会はどうやら訪れそうもなく、今でも数十個の繭がむなしくアトリエの一隅に眠ったままだ。ちなみに繭一粒から得られる糸は長さ約600~700mとのことである。

 写真には撮れなかったが、きれいなヒオドシチョウが何頭も舞っていた。

 

 ↓ お坊山から笹子雁ガ腹摺山の稜線。すべてかつて歩いた山並み。

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 ↓ 1093m

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 1093m地点に着いたのは11:27。「恩賜林」の標石がある。問題はこの先である。前回のルートミスはこの先から始まったはずだ。気をつけながら数分歩けば、尾根はそのまままっすぐ下り始める。

 

 ↓ 尾根はまっすぐ下っていくが、踏み跡は右に曲がる。

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 そして薄い踏み跡はその右側に、ヘアピン状に曲がって続いている。かたわらの立木には色あせた赤テープ。これが正規ルートである。

 

 ↓ ヘアピン状に右に曲がる踏み跡の傍らに色あせた赤テープ

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 確かに尾根そのものはそのまままっすぐに続いているが、藪っぽい。進入禁止のように多少の枯れ枝も置かれている。地図とコンパスを見てよく注意しさえすれば間違えなくて済む所であるが、そのコンパスを前回は忘れたばかりに、間違えてしまったのである。また前回は10月で、見通しも効かず、現在地の確認が難しいということはあったが、あっけない間違いだったのだ。ともあれ、こうして道迷い遭難は起きるのだろうと、納得した。

 主稜線に続くこの中尾根は吊尾根状で、細い踏跡は間もなく一区間だけしっかりした路となる。2.5万図では左から破線路が入り、この中尾根を辿って途中から右に分かれるように記載してあったが、その部分だろう。その合流と分岐は確認できなかった。赤松の多い気持ちの良い尾根だ。

 左側が檜の植林帯となってほどなく「新田・至」と記された小さな標識があった(12:35)。

 

 ↓ これが躓きの石。本当はまだ中尾根の途中のジャンクション。

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 今思えば、そこは中尾根の上部で右に分岐する支尾根(この支尾根上には路がある)とのジャンクションだったのだ。だがそれまで全く標識の類がなかったことから、私はてっきりそこが笹子峠~カヤノキ平ノ頭間の主稜線との合流点だと思い込んでしまった(またしても思い込み…)。したがって次に辿り着いた、よりはっきりした路と合流するピーク(標識等無し)を、カヤノキ平ノ頭と思いこんでしまったのである(12:50)。すでに一回歩いてはいるのだが、かくも細部は覚えていないものだ。

 

↓ 主稜線と中尾根の合流点なのだが、なぜかここをカヤノキ平ノ頭と思いこんでしまった。前方は笹子峠に向かう尾根。

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 地図を見てコンパスで確認して、達沢山に向かうべく右に進む。うん?妙な感覚。5分も立たないうちに「中尾根の頭」の指導票。これは覚えている!前回見た。ということは、逆方向ではないか!

 一瞬狐につままれた思いだが、ちょっと冷静になって考え直せば、先の現在地認識が一つずつずれていたことに気づかざるをえないのである。う~ん、しかしそれにしてもやってくれるなあ、中尾根君は。またしてもルートミスを犯すところだった、いや、少し犯したのだが。

 気を取り直して、引き返す。

 

↓ 大洞山の稜線。春未だ浅し。

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 カヤノキ平ノ頭までは案外長い。逆コースの前回は、核心部を終えてあとは下るだけと気楽だったからだろうが、何も覚えていない。

 

↓ 北面のルンゼの源頭。足元まで浸食が進んでいる。

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 気持ちの良い尾根筋なのだが、何となく気が焦り、長く感じる。カヤノキ平の頭着14:12。

 

↓ ここが本当のカヤノキ平ノ頭。やれやれ。

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 立派な指導票やらベンチがある。なぜさっきのところをカヤノキ平の頭と誤認したのか。やれやれといった感じだ。ここまではいわば前段で、ここからが未知の本番なのだ。

 一服して先を検討する。「あわよくば」といった感じで思っていた、達沢山から西に延びる尾根を旭山経由で下山というプランは、この時点で時間的に断念せざるをえない。今回に限らないのだが最近、あわよくば、できればと思って計画の最後の下山用にと考えていたルートは、たいていの場合、時間切れ等で踏破することができないことが多くなってきた。それは体力的、コースタイム的な面もあるのだが、なによりも一般の登山者に比べて約2時間ほどの時差登山をしていることが大きい。かくて美しいラインは達成されずに終わってしまうのである。

 

 カヤノキ平ノ頭からのルートは山毛欅や楢を主とした自然林で、実に気持ちが良い。新緑のころはさぞきれいだろう。最初に少し浸食の進んだ痩せた部分もあるが慎重に歩けば問題ない。北面の斜面にはわずかの雪が残っている。このあたりからは富士山が見えるはずだが、あいにく雲がかかっていて見えない。

 

↓ いよいよ達沢山に向かう。気持ちの良い尾根。

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↓ 左の沢の源頭の浸食。ここだけちょっとコワい。

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 南に下る尾根を派生させるヤナギ平の手前にこの一帯の最高地点1487mがあるのだが、何の標識もなく、それと気づかないうちに通過。普通最高地点にはなにがしかの地名とか標識とかあるものだが、不思議だ。

 

↓ こんな感じ。ヤナギ平の前後。

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 その先の1439mにも何の表示もないが、河田楨の『小さき峠』(1949年 十字屋書店)では(1440mと記してあるが)これが京戸山とされていた。その後最近まで1412.4mの三角点のあるピークが京戸山とされていたと思っていたら、今回初めて知ったのだが、現在はそれがナットウ箱山という名に代わっている。そして現行の「山と高原地図」では1439mと1412.4mの間の1430m圏に京戸山の名が冠されている。つまり私が知っているだけでも三回山名が引っ越ししているのだ。歴史的には山名の変更はたまにあるが、山名の引っ越しはあまりない。いずれにしても国土地理院の地形図には京戸山の名は記載されていないのであるが。

 ともあれ、1439mにも1430m圏にも何の標識もなく(あったのかもしれないが、だいぶ疲れていたせいで見落としたのかもしれない)、北側へのルートもはっきりとは確認しないまま、気がつけば1412.4mのナットウ箱山山頂に立っていた(15:33)。さほどの特徴があるわけではないが、気分は悪くない山頂だ。

 

↓ ナットウ箱山山頂。

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 ナットウ箱山の由来はちょっと調べてみたが、笛吹市と合併する以前の『一宮町誌』に書かれているらしいが、どうもはっきりしない。ある日、旧一宮町が強引(?)に山名表示板を建てたということらしい。山名表示というか、山名変更というか、そういう場合のルールというのはあるのだろうか。従来からあり、それなりに定着していたと思われる京戸山という山名を移動してまで主張するには、地元なりの理由はあるのだろうが、どうもその根拠がわかりにくい気がする。

 それにしても、その山名変更、移動の経緯も珍しいが、ナットウ箱山という山名自体がきわめて珍しいというか、ユニークである。そもそもナットウとはあの美味しい納豆のことなのか。気にはなる。私個人としては、山名としてはユニーク過ぎて、なにかなじみにくい気はするのだが…。いずれにしても、大いに珍しい山名であるだけに、もう少しどこかで親切に説明してほしいと思う。そして京戸山というそれなりに悪くない山名がどこかないがしろにされている気がして、何となく気の毒に思うのである。

 時間的にあまりゆっくりもできず、次の達沢山に向かう。ところどころ雪が消えた名残りで、そうとも見えないのだが、実に滑りやすくなっている。あっという間に尻もちを二度三度。100mほど下った峠からまた少し登り返す。

 辿り着いた達沢山1358mの山頂も似たような趣だが、甲府盆地方面が少し展望がきく。例によって(?)山梨百名山だとか。

 

↓ 達沢山山頂

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↓ 塩山方面。遠くは奥秩父金峰山か?

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 何となく達沢山という山は昔から気にかかっていた山だが、考えてみれば標高はナットウ箱山に比べれば一段低い。位置的にもどちらかといえば、ナットウ箱山の添え物のような、せいぜい太刀持ちか露払いといった感じがしないでもない。実力(?)はナットウ箱山の勝ちという感じか。しかし山梨百名山とあるからには、老舗の知名度の勝ちということなのだろうか。それはそれとして、一つの懸案の山と一つの懸案のルートを登ることができて満足である。

 

↓ 下りは薄暗い植林帯

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 下りはいったん先ほどの峠に戻り、薄暗くなり始めかけた植林帯を下る。路は歩きやすい。

 

↓ 薄暗いけれども歩きやすい

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 ところどころに炭焼き窯の跡を見る。比較的規模が大きいようだ。かつてのこのあたりの林相や生業の様を偲ばせる。

 

↓ 炭焼き窯の跡 けっこう大きい

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 20分ほど下ると堰堤に出る。沢の水に舌鼓を打ち、顔を洗い、汗を流す。

 その先から簡易舗装(コンクリート)された林道を歩く。立沢バス停までの、この1時間ほどの林道歩きはだいぶ長く感じられた。

 

↓ 歩きにくくはないが、長く感じた林道歩き。

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 大きな砕石工場の前を経て、国道に出た。反対側にある立沢バス停でバスの時間を見ようと、横断歩道を渡ろうとするが、信号はない。横断歩道の標識もあるが、車はまったく止まらない。甲州のドライバーの運転モラルはきわめて悪い。ガンガン飛ばす。スピードを緩めさえしない。大幅に制限速度をオーバーしている。ふだん通りの東京でのように、車の流れの切れ目を狙って、少しスピードを緩めてくれさえしたら渡れるつもりで渡り始めたら、スピードを緩めない。マジで轢かれそうになった。いったいどうなっているのだ、甲州は。

 そういえば沢登りをやっていた頃、渓流釣りの世界で、甲州の釣屋の評判はきわめて悪かった。私がよく行っていた北関東や会津越後方面では。沢屋ではあっても釣屋ではなかった私には実情はよくわからなかったが、マナーが悪いというのか、場を荒らすというのか、放流サイズでもみな持ち帰るとか、云々等々、言われていた。嘘か本当か、林道の入渓地点で先行の甲州ナンバーの車が止めてあると、千枚通しでタイヤを刺してパンクさせるなどといった話も聞いたことがある。火のない所に煙は立たぬと言うが、今回の横断歩道で、人が渡ろうとして立っていても決して止まらない、スピードをゆるめさえしないという体験をした私としては、なにか共通する風土性県民性でもあるのかしらと、つい思いたくもなるのだが、そんなろくでもない話を考究しても面白くはないのである。

 とにかくバス停で時間を見るとあと30分もある。石和温泉駅にも止まるはずと思っていたら何度路線図を見ても石和温泉駅は出ておらず、甲府駅しか出ていない(これはさすがに見間違いかもしれないが)。やれやれと煙草に火をつけたらバスが来た???なんだかどうなっているのかわからないが、結果はオーライ。しかも石和温泉駅にも止まった。オーライである。(釈然としないまま、バス時刻については帰宅後バス時刻について調べてみたら、どうやら一本前のバスが10分ほど遅れてきたらしい。中高生がたくさん乗っていたので、そういうこともあるのかなということだ…。)

 バスに乗っている間に暗くなってきた。ともあれ懸案の山とルートを、さほど美しい形ではなかったが登ることができた。久しぶりということもあって、けっこう疲れたが、それはまあ仕方がない。そして、このあたりにはまだ面白そうなルートがいくつも見出せそうである。                     (記:2019.3.25)

 

↓ 今回のルート。できうれば達沢山山頂からまっすぐ西へ赤線を引きたかった。右下の青線は前回の中退ルート。

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2018年に見た展覧会・国内篇 その2(の前半)

 

 やれやれ。「2018年に見た展覧会・国内篇」の導入としての「8人のマイベスト」があまりに長くなり過ぎたせいで、前後編に分けざるを得なくなったが、ようやく私の「2018年に見た展覧会・国内篇」に入ることができる。

 ともあれ以下に私が2018年に見た展覧会(等)の一覧をあげる。

 例によって、美術館だけではなく、寺社、遺跡、庭園等も含む場合もあるが、MUSEUMの範疇をなるべく広くとって考える。また、一般的な街の画廊等は含まない。

 

 しかし一覧してみると、昨年は数が少なかった。海外(ウズベキスタン)の二週間の大小あれこれ58ヶ所(別記)はあれど、国内で18回というのはここ数年ではかなり少ない方だ。まあ、もともと見たい展覧会が少なかったとか、体調気分等いろいろあるわけだから、少なくてもかまわないが。

 内容的にも面白かった、感動した展覧会は少なかった。もちろん見に行くからには、見たいと思って行くのだが、結果としてはそういうことだ。まあこういう年もある。

 

 凡例:上段「 」内は展覧会の正式名称。その右の( )内は展覧会のサブタイトル。[ ]はざっくりとしたジャンル。下段は美術館名と見た日。○以下はごく簡単なコメント-印象記。

 

 

1.「高柳裕展」(祝喜寿) [版画]

 青梅市立美術館 1月13日

 

 ↓ 展覧会チラシ

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 青梅市立美術館は、東京都ではあるが、言ってみれば地方公立美術館の一つである。東京都や京都府横浜市広島市といった財政に恵まれたところとは違い、他の多くの地方公立美術館と同様に、企画や運営面で苦労している様子がうかがわれる。今に始まったことではないが、それらの美術館の多くは、新収蔵予算はゼロか限りない縮小、学芸員は削減というのが現状のようだ(そもそも全国の地方公立美術館の数が本来多すぎるのではないか、さらにその収蔵傾向が似通りすぎるのではないか、という根本的な問題は今はさて置く。ついでに言えば、そうした地方行政でも議員報酬は増額のところが多いというニュースが朝日新聞に出ていた、というのもまた別の話。)

 ともあれ、そうした苦しい文化財政の下で、その分知恵をしぼって低予算での自主企画、または似たような状況にある他の地方公立美術館との収蔵品の融通のし合いといった工夫をしているのが、その気になってみれば、最近見てとれる。

 そうした工夫の一つとして、さほどビッグネームでない、地元出身もしくはそこになにがしかのゆかりのある作家、そして大型の立体作品ではなく、版画などの紙の仕事といった軽いコンテンツが選ばれる。皮肉なことに、その結果として、ある時期ある程度の注目評価はされたが、まとまってみる機会の少なかった(セミ・マイナー)作家の展覧会というのを眼にする機会が近年増えているのは、悪いことではない。

 

 今回の高柳裕もそうだ。ある時期美術雑誌等でよく目にし、名前も覚えてはいるのだが、作品となるとあまり記憶がない。少なくとも全貌は知らない作家だ。

 前年の晩秋にこの青梅市立美術館の市民ギャラリーでグループ展をやったのだが、その時にこの高柳裕展の予告のチラシを見て知ったのだったと思う。

 新聞社後援の、入場者数とSNS等での露出度を競い合い、その結果、暇と金のあるシニア層を中心に押し寄せる観客の混雑にウンザリする人気展覧会では決して見ることができない(やや)マイナーな、(まとまって)見たことのない作家の展覧会をゆっくりと見るというのは、勉強(?)にもなるし、ある種の楽しみでもある。

 見に行こうと思った理由はもう一つ。私は彼の作品(版画)を1点持っているのだ。それが画像の作品で、数年前にヤフオクで入手したもの。それなりに良い作品だが(そうでなければどんなに安くても買わない)、値段を公表するのも気の毒なくらい安かった。

 

 ↓ タイトル不詳 2015年に購入した作品

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 ともあれ、自分が作品を持っている作家の展覧会であれば、見に行きたくなるのは当然。その作品がひょっとしたら出品されているかもしれないという秘かな期待もある。

ということで、行った。残念ながら私の持っている作品は出品されていなかった。

 

 感想としては、「テーマはないが、モチーフはある」という感じ。言い換えれば「どう表現するか」という工夫はあるが、「何を表現するのか」が希薄だということだ。

 ある程度リアルタイムで知っている私としては、当時の時代相を「現代美術・現代版画」の文脈ではよくとらええている、反映しているとは思うものの、その時代との距離が近すぎて、今見ると、妙に古く見えるのである。古臭い新しさ。それは多くの「現代的な」作家が陥りやすい、しかし避けては通れぬ陥穽であろう。

 しかし、全体として悪い作家ではない。感性自体はすぐれたものを持っていると思った。

 

 

2.「中澤弘光 明治末~大正〈出版の美術〉とスケッチ」展(みだれ髪から温泉周遊まで) [洋画・イラスト] 

 武蔵野市立吉祥寺美術館 1月26日

 

 中澤弘光は1874年(明治7年)生まれの洋画家。黒田清輝や浅井忠、藤島武二といった人たちより少し若いがほぼ同時代の人。「絵葉書芸術」や装丁といった、アールヌーボーの影響が顕著なグラフィックの仕事は時々目にするが、まとまって見るのは、特に本道のタブロー(本画)をある程度まとめて見るのは初めて、と期待していたら「明治末~大正〈出版の美術〉とスケッチ」展だった。油彩が少ないのも道理である。残念。

 

 ↓ 展会チラシ

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 帝国美術院(のち芸術院)会員にもなった彼のタブロー(油彩)は、今日では歴史的遺物以上の評価はされにくいようだが、食うための仕事であったグラフィックは、経年変化を越えて今なお魅力がある。しかし、正直に言えば、やや物足りない展覧会だった。ウ~ン…。

 この人は確か公立の美術学校では教授になれなかったはず。その時代ではタブローでは食えなかったから、結果として副業(?)としてのグラフィックで美術史に残った。本人は不本意かもしれないが、それはそれでまあ仕方がないではないか。

 

 

3. 「ルドン-秘密の花園」展 (夢の中へ 花の中へ) [洋画]

 三菱一号館美術館 3月9日

 

 ルドンは私にとって最も重要な画家の一人である。私のアトリエの神棚には、ゴッホと、ルドンと、クレーと、恩師のT 先生の四神が祀られている(神棚は嘘だが、気持ちはまあそういうことです)。東京に出てきた1973年以降の、ルドンとクレーの、東京及び近県での展覧会は、これまですべて見ている(と思う)。

 

 ↓ 展会チラシ

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 今回も、やはり、さすがと思った。絵画の豊饒性を堪能できた。

 今回の目玉は、ドムシー城食堂の壁画というか装飾パネルが、設置当初の配置を再構成した形で展示されていた(ような気がするのだが、すでに記憶はやや曖昧)。それは1980年の伊勢丹美術館(そんなものあったのか?デパート内の特設会場?)での「ルドン展」にも出品されていたから、38年ぶりの再見であった(ただし、その一部、現在三菱一号館美術館が所蔵している「グランブーケ」は、その時には出品されていない)。

当時の図録で「黄色の大パネル」(パネル/板ではなくキャンバス/麻布だろう。今回の図録ではカンヴァスと表記)いう題名を付されたその作品群に、私は大きな影響を受けた。

 まだ大学院の学生であった当時の芸大の油画においては、油彩のほかに田口研究室の黄金背景テンペラ(卵黄テンペラ:パネル向き)や練り込みテンペラ(卵+リンシードオイル+小麦粉糊:パネルや半吸収性地塗りキャンバスの大作向き)と、技法材料研究室での混合技法という言い方をしていたフランドル、あるいはもっとストレートに言えばウィーン幻想派由来の、油彩と併用する描法の、三つの技法があった。それらはいずれも美しい肌合いや表現効果をもたらす魅力的な技法ではあったが、同時に技法ということに付きまとう、ある種の仰々しさというか、煩わしさもあった。

 それにあきたらなかった私は、そのルドンの「黄色の大パネル」を見て、細密描法に適した混合技法のテンペラメディウム(全卵+リンシードオイル+ダンマル樹脂溶液+ベネチアテレピンバルサム)を、大画面のキャンバス(エマルジョン地塗り)の上に太い筆でストローク性を活かして描くという方法を思いついたのである。そしてその描法は今日に至るまで、私の制作の中核をなしている。

 ちなみにその時の図録には「黄色の大パネル」の技法は明確には記されておらず、彼の手紙の一部を引用して「デトランプ、油彩など」と、傍証として曖昧に記されていただけだったが、今回の図録では明確に「油彩、デトランプ」となっている。なお、デトランプの定義はかなり幅があり、難しいが、ここでは膠を用いたもの(別の文献でディステンパー/distemperと表記されるものがこれに当たるようだ)や卵、デンプン系の糊を含んだものなどの、エマルジョン的な要素を含むものとしておく。

 

 少々、専門的になりすぎた。だが作品の鑑賞にあっては、絵柄や造形性だけではなく、技法素材面からの見方もあるのだということで、たまにはこういう記述も良いだろう。

 ともあれ、本展は必ずしもルドンの代表作とか傑作ばかりではなく、どちらかと言えばこじんまりとした展覧会であった。また、すでに見たことのあるものも多かったが、まあ良いものは何度見ても楽しめるのである。

 

 それにしても見てみたいのは、こうした技法で描かれたルドンの最大の大作であり、最高傑作である「昼」と「夜」である。それはフランス南部、スペインとの国境に近いフォンフロワド修道院の図書館の壁に設置されているが、現在も一般には非公開とのこと。十数年前に、フランスからスペインを回るという教え子にけしかけて当地に行かせてみたのだが、やはりどうしても見せてもらえなかったとのこと。う~ん…。

 

 ↓ 参考:フォンフロワド修道院所蔵「夜」

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 ↓ 参考:フォンフロワド修道院所蔵「昼」

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 ともあれ2018年に見た私のマイベストが、本展である。

 

 

4. 「3331 ART FAIR [現代美術]

 千代田アーツ3331 3月9日

 

 私は千代田アーツ3331という存在に対して、ある種の批判を持っており、そのことは別の場所でも書いたことがある。しかし、それはまあ私個人の、時代に掉さす感性と思想であるからここではそれ以上は言わない。

 

 ↓ アートフェア チラシ

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 何にしても自分から積極的に行くことはない場所なのだが、今回はそこで開催されるアートフェアに出品している、奈良の若い友人A君から案内状をもらったので行ってみた。

 アートフェアであるから多くの、主に若い作家が出品している。絵、美術に若いも年寄りもないもんだが、やはり若いということは、その時代の空気をより多く吸っているということなのだろう。今風のありがちな作品群。ほとんどの作品に既視感を感じてしまう。

 やせて貧しい表現。やせて貧しい若者たち。もったいないことである。技術的成熟や完成度などを期待しはしない。そんなものは必要ならいずれ勝手に身に付く。若いということはもっと切実な、熱い、やむにやまれなさ、といったものがあって然るべきだと思うのだが、どうなのだろう。

 そしてそんな彼らを、未来をになう商品として推す画廊。それが日本の美術界の(少なくともある一面の)現状だとすれば、もはや私には言うことはないのである。

 (ちなみにA君の作品は一人それなりに良かった。時流に振り回されず、腰をすえて制作し続けてほしいものである)

 

 

5.「99歳の彫刻家 関頑亭」(声字実相義 耳で見つめ、目で聴く) [彫刻・絵画]

 たましん歴史・美術館 4月12日

 

 ↓ 展覧会チラシ

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 関頑亭という人については、骨董の世界でしか知らなかった。『古美寳鑰 頑亭古美術対談』(関保寿名義 蒼樹社美術出版 1983年)という本を読んだことがあるが、対談形式だったせいか、印象は薄い。まだ生きていたのか(失礼!)と思ったが、作品もまったく知らなかったので、かえって淡い興味をもち、また場所が国立と近かったので行ってみた。

 

↓ 展覧会チラシの中面 上の図のパステル画が良かった。

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 仏像をはじめとする彫刻、日本画、水墨、スケッチ、ドローイング類。意外と面白かった。20代のころ描いたパステルの風景など、不思議な味わいがあり、良かった。

 しかし、今この文を書くにあたって、作品をほとんど思い出せなかった。私の制作とはほぼ関係ないということであろう。ただ、長生きをするというのはどういうことなんだろうと、ちょっと感慨にふけってしまった。

 

 

6.「真下慶治 最上川 Ⅰ」(常設展) [洋画]

 最上川美術館・真下慶治記念館  5月13日

 

 浪人中以来の友人であるA、S、K、Fと、最近帰郷して山形に在住しているIのところに遊びにというか、彼の作品を見に行った。それぞれに濃淡はあるにせよ、45年の付き合いである。六人のうち、今も制作しているのはそのI 、K、F、と私の四人。AとSは制作はしていないが、美術関連の仕事をバリバリやっている。制作組の四人は完全リタイアか、準リタイアで制作専念である。あ!Iは最初からリタイア人生だった。

 寝る間も惜しんでの、絵の話だけの三日間(Aのみ二日)。合間に観光地でも何でもない近辺を訪れ散策する。豊かな自然、少ない人口。どんな所でも楽しめる。しかしまあ、せっかくだからということで、その近所で一番近い美術館に行こうということで、最上川美術館・真下慶治記念館というのを訪れてみた。最上川を間近に見下ろす、素晴らしい立地条件である。

 

↓ 真下慶治記念館のベランダというか、外が見えるところ

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↓ そこから眼下に最上川を見る。あいにくの曇天だが景観はすばらしい。

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 真下慶治という画家は知らない。説明書きを見れば、山形県に生まれ、日展特選、日展審査員、日展評議員とキャリアを重ね、山形大学教授となって村山市にアトリエを建てる。没後10年ほどして真下慶治記念美術館(現最上川美術館)設立とのこと。おそらく遺族からの作品寄贈の話を受け入れた市が、美術館を建てたということだろう。よくある話だ。

 

↓ 展覧会チラシ

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 スペースの大部分は真下慶治常設展示室。別棟の企画展示室はごく小さい。なるほど、そういう条件での作品寄贈なのか。あるいは受け入れ側の忖度なのか。

 

 例えば、青梅市立美術館は青梅市立小島善太郎美術館であり、小金井市立はけの森美術館は元は中村研一記念美術館。府中市美術館には牛島憲之記念館があり、吉祥寺美術館には浜口陽三記念室と萩原英雄記念室がある。いずれも出身地だとか、なにがしかの所縁があっての寄贈作品が母体だろう。

 いずれにしても、企画展示室がメインで、寄贈を受けた作家の常設展示室はごく控えめなスペース配分である。それは美術館としては、ましてや公立であれば、当然そうあるべきだろう。それからすればこの最上川美術館・真下慶治記念館は少々おかしい。その点でいろいろと批判もあるようで、旅人である私の耳にも小さな声は聞こえてきた。実際問題として、年に何回かの展示替えはあるにしても、毎回同じ画家の絵がくり返し展示されているだけなら、人は何度も足を運びはしない。実際吾々が行った時にも閑古鳥が鳴いていた。

 東北の風土性ということばかりではないだろうが、地方在住で日展作家、おまけに地元大学の教授なり教育関係で指導的立場にいて、つまりは地方ボスと呼ばれる存在となる。よく聞く話だ。さすがに今現在はこうした存在形態は薄らいできているとは思うが、実際のところはよくわからない。

 こうした話は多かれ少なかれ日本全国、いや世界中にある話だろう。これは決して揶揄ではない。地元びいきというか、郷土出身作家を大事にするのは、基本的に大切なことだ。フィレンツェ派(フラ・アンジェリコボッティチェリなど)あってのフィレンツェだし、シエナ派(ロレンツェッティやサセッタなど)あっての古都シエナなのである。世界中どこの美術館でも、特に首都以外の都市にある近代美術館であれば、自国、地元出身作家を最優遇している。

 要は大切にするその仕方だ。芸術、美術館運営に地方政治力学を持ち込むべきではない。見識が問われ、良識が問われ、教養が問われる。そうした悪しき例は枚挙にいとまがない。それはその名を冠せられた作家にとっても不幸である。

 ちなみにこの真下慶治という画家は悪い作家ではない。展示されていた作品を見る限り、地元の最上川にこだわり、愛情込めて懐かしさに満ちた風景を描いている。その限りにおいては愛されてしかるべき作家であろう。

 

 それにしても素晴らしいロケーションにある美術館である。建物の規模としてもちょうど良い。できるものならこんな美術館で回顧展をやってみたいものだ。故郷との縁が極めて薄くなった現在の私としては、それなりに痛切に思ったのであった。

 

 

6-2. 「工藤幸治 洋画展」 (郷土賛歌) [洋画]

 最上川美術館・真下慶治記念館  5月13日

 

↓ 展覧会チラシ

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 同じ美術館の別棟の小さな企画展示室でやっていた展覧会。同じく山形県出身、山形大学卒業、山形の公立学校に勤務し、公募団体旺玄会と山形県美術展を発表の場とする。定年退職後は各種協会等の会長や理事、評議員に就任、とあった。

 作風も同じく地元、東北の民俗性、土俗性に根差した表現。悪いとは思わないが、そうした風土性以外に何があるのかと思うと、無さそうである。

 

 最上川美術館・真下慶治記念館を見て思ったのは、地元、郷土性、風土性といったものに立脚するのは良いとしても、そのことによって美術という、美術館という、開かれた可能性の場を、かたくなな狭い世界にしてほしくないということである。

 

 

 以上、思いがけず妙に筆が(キーボードが)走りすぎ、分量が多くなり過ぎてしまった。それぞれこんなに長く書くつもりはなかったのだが…。

 いったんここで筆(キーボード)を置き、以降はまた次稿とする。とりあえず、項目だけはあげておく。以下次稿。

 

 

7.「光る絵本展(えんとつ町のプペル)」 [絵本]

 OWNP  5月17日

 

8.「戦後美術の現在形 池田龍雄展」  [洋画]

 練馬区立美術館 5月18日

 

9. 「夢二繚乱」 [洋画・イラスト」

 東京ステーションギャラリー 6月25日

 

10. 「長谷川利行展」(七色の東京) [洋画]

 府中市美術館 7月8日

 

11. 「縄文」展(1万年の美の鼓動) [原始美術]

 東京国立博物館・平成館 

 

12.「木田金次郎展」(青春の苦悩と孤独を歓喜にかえた画家たち) [洋画]

 府中市美術館 8月30日

 

13.「八幡平市松尾鉱山資料館」(常設) [歴史・民俗]

 八幡平市 10月16日

 

 14.小岩井農場小岩井農場資料館」(常設) [歴史・民俗]

 雫石町 10月17日

 

15.「ヨルク・シュマイサー 終わりなき旅」展 [版画]

 町田国際版画美術館 10月25日

 

15-2「まちだゆかりの作家 赤瀬川原平岡崎和郎・中里斉」(常設) [版画]

 町田国際版画美術館 10月25日

 

 16.「アメリー 2018アッサンブラージュ 秋の色」展(甦れ!古い着物に新しい息吹を与える喜び) [染織]

 O美術館 11月2日

 

17. 「ピエール・ボナール展」(いざ、「視神経の冒険」へ) [洋画]

 国立新美術館 11月26日

 

18.「城所祥 展」(没後30年) [洋画]

 青梅市立美術館 11月28日

 

以下次稿

                              (記:2018.2.28)

 

 

作品集『水晶録Ⅱ』発行のお知らせ

作品集『水晶録Ⅱ』発行のお知らせ

 

 

 

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『水晶録Ⅱ』が完成しました。

 

ここニ三年毎年言いつづけていた作品集、3月末完成の予定が、少し遅れましたが4月24日に完成しました。画像はその宣伝チラシです。

 

前著『水晶録』(2011年2月発行)以来の、2010年から2018年までに制作した作品202点が収録されています。

 

B5変形 全100頁 カラー図版80頁。

表紙および背表紙の文字は箔押し。カバーは4色のバリエーションがあります。

 

限定200部(+著者分20部)。全冊限定番号入り。(献呈は未定ですが、最小限とする予定です)

発行所は艸砦庵(私のアトリエ名、つまり自費出版です)。

定価2800円(+送料)。

 

 

ご希望の方は、上の画像を拡大すると右下に連絡先が記載してありますので、ご覧になって下さい。

 

 ↓ チラシ裏面

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【予告】

さて、この作品集が手元に届いたら、次は『詩歌集 月虹と游色』(仮題)を刊行する予定です(時期未定)。

 

皆様、よろしくお願いします。

 

 河村正之 拝

陽春のリハビリ山行―入山尾根の思いがけぬ結末

 2019年の山始め。と、書いてみたが、有体に言って、リハビリ山行である。

 先のブログ記事「『週刊女性』に(ちょっとだけ)名前が出た~古い一枚の写真から」にも少し書いたが、年明けから体調が芳しくなかった。右腕の不具合と高血圧(?)である。

 その後、二つの病院に行き、ビタミン12と一番軽い降圧剤を処方してもらった。その効果があったのか、症状も少し緩和されてきたようだ。自重してきた山歩きに出かけたくなった。あまり標高差がなく、短めのルート。明日は晴だがその後数日は傘マークが続いて出ている。明日は月曜日、女房は10時から英会話教室。というわけで、それに合わせて「登るぞ!リスト」の中から、最もわが家から近い入山尾根に行くことにした。

 

 この入山尾根は戸倉三山の刈寄山の東、今熊山から市道山へ向かう途中の、棚沢入りの峰とか豆佐嵐(ずさらし)山とか呼ばれる648mの小ピークから南東へ延びる尾根である。日々私のアトリエの窓から見える秋川丘陵の奥に、その一部をのぞかせている。雪が降って数日たって、秋川丘陵の雪が消えた後でも、その後ろの尾根にはまだ白く消え残っていて、何となく気になっていた尾根だった。

 何年か前に、運転免許を持たない自分の行動半径を少しでも広げようと思って、自転車(クロスバイク)を買った。自転車プラス山歩きというコンセプトの可能性を試しに、入山尾根の取り付きにあたる琴平神社まで行ってみた。神社まで登ってみて、案外良い尾根だと確認したが、下山後の自転車の回収に難があり、以後これまで行かずじまい。

 もとより大した尾根ではない。ほぼ全く無名の尾根である。古い『新ハイキング』には出ていたような記憶もあるが、ガイドブック等には載っていない。ひと気のない篤志家向きルートであることはむしろ望むところだが、気になるのはその尾根の北面に醜く刻まれ、地肌をむき出しにした砕石場である。雪が降ってもなかなか消えないのはそのせいである。

 昨年か一昨年に、ネットでその記録を見てみた。問題の採石場の部分では「親切な作業員が迂回路に誘導してくれた」とかいったような記述があったように記憶している。これで安心した。まあ、ナメはしないが、甘く見たのである。

 

 当日朝、女房の都合により、結局車で送ってもらい、登り口の琴平神社の入り口近くで降りたのは、予定より少し遅れて11:30。道を確認かたがた、あいさつした傍らの肥料製造所(?)の人の話では、ここを登る登山者はほとんどいないとのこと。 

 

 ↓ 琴平神社の手前 真ん中の道を進む

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 ↓ 琴平神社の最初の鳥居

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 石の大きな鳥居をくぐり、昔はよく歩かれたであろう石段を登ると、ほどなく琴平神社

 

 ↓ 琴平神社 社殿は新しい

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 ここまで前回来た。ここまでもその先も、指導票は一切ないが、以後赤テープはところどころにある。道形というほどのものはないが、踏跡はほぼ尾根上に続いている。不明瞭なところでも尾根を忠実に辿れば良いので、登る分には問題ない。自然林と植林と混ざり合った林相だが、思ったより明るく、快適に歩ける。

 右下に運動場のような採石場の平地が見えてきた。入山尾根の北面、山入川の右岸には四五本の支流が認められるが、登り口の集落のある最初の支流以外はすべて採石場となっている。その最初のものだ。

 

 ↓ 山入川右岸の最初の採石場

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 ふと足元を見ると水準点だか標高点だかがある。両者の違いは今でも正確にはよくわからないのだが、その上には「水準点(だか標高点だか)を大事にしましょう」などと記されたビラがぶら下がっている。地形図で見ると、向山(山名の記載はない)に・386として「標石のない標高点」記号が記されているが、目の前には標石がある。??という感じだが、向山より手前には何も記載されていないのだから、ここが向山なのだろうと思い込んでしまった。

 

 ↓ 問題の水準点だか標高点

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 ↓ 謎の木札 3Dプリンターとかレーザーカッター的なもので同一規格で作られている。なにやら背後に大きな組織がありそうな??

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 さらにすぐそばには「370m 東京350」と掘りこまれた板(標識)がぶら下がっている。その先にもいくつかあって、いずれも同一規格の、手の込んだものである。「東京350」は意味不明だが、水準点か標高点の存在ですっかりそこが標高386mの向山だと思い込んでしまった私は、その木札を、いいかげんな標高で付けているなと思っただけだった。

 実際には、後ほど判明したのだが、その木札の位置は正しかった。つまり向山はまだだいぶ先だったのである。今、地図を見れば簡単にわかるのだが、中三か月のブランクのせいか、すっかり勘が狂ったようだ。そのせいで、しばらくの間、自分が思い込んでいる地図上の現在地と実際の地形や周囲の見え方にズレが生じて、困った。

 

 ↓ 快適な尾根筋

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 ともあれ、多少の藪や小さなアップダウンはあるものの、快適な尾根を進む。

 

 ↓ 見苦しくてすみません。謎の獣糞。猪?熊?鹿?狸?

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 足元に奇妙な獣糞を見つけた。猪ではない。けっこう大きいので熊かと思ったが、どうも違う。鹿は豆のようなのをパラパラとまき散らすはず。その先にも数多くの獣糞があったが、その中に豆のようにばらけたのと、それらを圧縮したようになっているのが同時にあるのをみつけた。それを見て私の考えた仮説は「鹿は歩きながら排泄する時はパラパラと小粒の豆状の糞をする。警戒する必要のない安全な状態でゆっくり踏ん張って排泄するときは、粒々を葡萄の房を固めたように、まとめて大きな糞をする」というものだった。

 

 ↓ 見苦しくてすみません-その2。豆粒状とブドウの房状の合体。

   これ以外にも各種撮りましたが、もう載せません。

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 帰宅後その説を裏付けるためにネットで調べてみたら、それはおそらく猪のものだった。「塊状のつながりが特徴」とあったのである。そして私が今まで猪のそれだと思っていたものは、どうやら狸のそれ(溜めグソ)だったようだ。体の割合からすれば大きすぎるように思えるが、猪は溜めグソはしないそうだ。鹿はいつだって豆粒状。う~ん、素人の思い込みは危険である。

 ともあれこんな人里に近い、しかも始終砕石場の騒音が聞こえてくるこの尾根一帯に、猪やら鹿やら狸やらの糞は多い。私は確認していないが、熊の爪とぎ跡もあったそうだ。野生の気配濃厚である。

 

 閑話休題

 

 ある小さなピークの北側、砕石場の上部に当たる側が幅十数メートルに渡って、二三mほど地滑りを起こしているというかずり落ちているように見えるところがあった。

 

 ↓ 写真ではわかりにくいが、左の採石場方面にずり落ちているように思われる。

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 ↓ 同上

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 集中豪雨、土砂崩れなどと連想すると、ちょっと怖い。

 

 ↓ ところどころにある快適な尾根筋

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 ↓ ところどころにある気持ちの良い尾根筋

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 そうこうしているうちに「向山」と記された黄テープが現れた。傍らには「向山 386m」と記された木札。

 

 ↓ ガーン!

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 ↓ またしてもこの木札 わかったよ、あんたが正しい

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 ↓ 向山はなんの変哲もない一地点

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 ここに至ってようやく、これまでの現在地の誤認に気がついた。妙にいいペースだと思っていたが、むしろ遅いではないか。それもこれもあの地図に出ていない水準点だか標高点だかが悪いのだ(帰宅後、確認のため「地理院地図」を見てみたが、やはり出ていなかった。むろん、悪いのは思いこんだ私である)。

 気を取り直して先を急ぐ。踏み跡ははっきりしたり、薄くなったり、藪は多少濃くなったり薄くなったりするが、問題はない。それなりに快適に進む。ところどころ気持ちの良い部分もある。向山から1ピッチで一ツ石山と記された例の木札。納得するしかない。特に何の変哲もないピークだが、山頂は山頂だ。

 

 ↓ 了解です。納得しました。

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 ↓ 一ツ石山山頂

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 その先、尾根筋はやや荒れてきた。砕石場関係か、ススキやイバラの中の作業道跡のようなところを歩くところも出てくる。右手に大規模な砕石場の全景が見えてくる。場違いな例えだが、古代の神殿の建設現場のようだ。

 

 ↓ 古代神殿の建設現場

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 615mあたりかと思われるところで、とうとう現れた、「危険 立ち入らないで下さい」の看板。予定通りである。少し下った鞍部状のところで鉄鎖と同じ新しい看板。その先で砕石場の現場と直接出会う。

 

 ↓ やはり出てきやがった。この先には新しいものがあった。

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 ↓ 右上から重機のある所に降り、そこから手前斜面をトラバース

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 私の見込みではここから迂回路があることになっていたのだが、そんなものはない。親切な作業員もいない。工事現場は尾根の頂稜きっちりまで来ているので、そのわずかに下の斜面を、あるはずの迂回路を探しながらトラバースしてゆく。

 

 ↓ トラバース その2 この先傾斜がきつくなり、廃棄された岩や伐木が多くなる。

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 現場からの岩や土砂、伐採された木材が形成する斜面は歩きにくいが、仕方がない。こうしたところを歩くのはそう嫌いでもない。迂回路なんぞはとっくの昔になくなったというか、そのあったところを越えて砕石場が拡大されたということなのだろう。

 次第に斜面の傾斜は強まり、捨てられた岩や材木が増え、危険に感じはじめる。やむなく上に上がってみて、驚いた。それまで尾根の頂稜部までしか来ていなかったはずの現場は、尾根そのものを切り崩して平らにしていたのだ。

 

 ↓ トラバースを断念し上がった地点から。尾根は無くなっていた。

  前方のピークの少し先が一般縦走路なのだが、その手前に重機が稼働中。手前ではボーリングの最中。

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 さて困った。その先の斜面トラバースは急で危険、時間もかかりそうだ。ずっと下の植林帯まで入って大きく迂回するのも、大変だ。時間が読めない。そもそもそんなことをする意味がわからない。

 現場を突っ切って300mほど先の樹林に入れれば良いのだが、その先には重機が働いている。すぐ目の前ではボーリング作業をしている。その作業員の目には、今は姿を現している私が見えているだろうか。

 この期に及んで、ようやく腹が立ってきた。砕石場はギリギリでも尾根頂稜までで、よもや尾根そのものを切り崩すとは思っていなかったのである。それもまあ、私の勝手な思い込みではあるが。そもそもここで掘り出した土砂岩石をいったい何に使うのか。ビルやマンションの建設にか。東京オリンピック関連か。先ほどの看板には「菱光石灰工業」とあったから、セメント関係か。このあたりの岩石を見ても私の知っている石灰岩とは違うように思われるが、奥多摩一帯、私の家のすぐ近くにも石灰岩帯は多いから、やはりここも石灰岩なのか。

 いずれにしても、資本主義ベースの自然破壊であり、環境破壊ではあるが、今それをとってつけたようにここで憤っても始まらない。問題はこれからどうするかだ。

 のこのこ歩いて行っても、どやされるのは目に見えている。予定ルートの完登は目の前だが、トラブルは避けたい。しかし、思えばこちらに理も分も、あまりない。熟慮数分、いや15分、引き返すことにした。久しぶりの「中退」ではなく、「敗退」である。

 

 ↓ 敗退途中。現場内を行く。白けた広がりと赤いコーンの組み合わせがシュールな美しさを出していた。

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 本来なら、予定通り登って今熊山経由で下りる方が家までの距離は短く、時間も早い。登ってきた尾根を下るとなると、小さな上り下りが結構あり、疲れるだろうが、仕方がない。

 登るときには踏み跡も当てにしたが、基本的には単純に尾根を忠実に辿るだけでよかった。しかし、下りとなると特徴のない微妙な屈曲が多く、ちょっとした枝尾根に入り込みやすく、案外難しい。そういうところに限って赤テープがない。五六回は迷った。ちょっとした登り返しがこたえる。下りにこそ読図力が必要だ。琴平神社に着く直前までそんな小さな罠(枝尾根)に神経を使わせられた。途中、ショートカットするために、一ツ石山から北に分岐する枝尾根を下って山入川方面に降りれないかと、いったんは試みてみたが、そのまま砕石場に降りてしまいそうで断念。

 

 ↓ 西日をあびた感じの良い尾根を敗退行

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 琴平神社が近づいた頃、私の歩くのと並行して、すぐ近くの山腹を数頭の鹿がゆっくりと移動していった。足を止め、目を凝らしても樹林の中で移動する姿は見えない。ざわざわと足音だけが聞こえる。暗くなりかけたこれからが彼らの活動時間なのだろうか。

 

 ↓ 途中でみつけた不思議な木の造形

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 琴平神社着17:20。時間のめども立ったので、女房に電話して迎えを頼む。歩いて帰るつもりだったが、やむをえない。そこからさらに10分少々で平川病院近くの駐車場。ほどなくやってきた女房にピックアップされて帰途についた。

 

 今年の山始め、実はリハビリ山行は、かくて思いもかけない展開のうちに終わった。ここ数年の宿題だったルートが敗退に終わったのは残念だが、必ずしもそう悪い印象は残っていない。尾根自体は案外良かったし、思っていた以上には歩けたということもあるからだ。しかしそれ以上に思いを深くしてしまうのは、この尾根の将来についてである。

 帰宅してネットで調べてみたら、前回見た時と違って、最近の記録が出ていた。その内の一ツは休日の誰もいない砕石場をスタスタと通過したというものであり、もう一つは私と同じ場所で作業員に通過を断固拒まれ、そこから車でバス停まで送られたというものである。休日!その手があったか。盲点だった。しかしそこまでして登るのもどうかと思うし…。

 地図を見ていて思い出したが、この入山尾根と並行する山入川左岸の尾根もだいぶ前に登ってやはり主稜線に合流する手前で踏み跡もなくなり、時間切れで、短い距離だったが猛烈な藪の中を薄暗くなった林道に下ったことがあった。ついでに言えば、同じ山域の刈寄山に突き上げる古くからの登路として知られる篠八尾根を、高をくくって行ったら、大採石場の崖に出くわして、ほうほうのていで退散、石仁田山から日陰本田山へと転進したこともあった。この時も最後は藪コギだった。近場で人の行かないルートに行くと、こうした確率は高い。

 いずれにしても私がこの入山尾根を再訪することはないだろう。登山ブーム、一部ではバリエーションルートブームの昨今ではあるが、戸倉三山に繋げられなくなってしまえば、その魅力はかなり減じる。今後この尾根に入る人はますますいなくなるだろう。一ツ石山までの往復だけでも、私はそれなりの魅力を感じるが、あまり効率の良いルートとは言えない。ましてや下りのルートファインディング等を考えると人には勧められない。

 百年歩かれた道は百年持つというが、登山ルートとしては、このまま静かに消滅してゆくというのも、それはそれで味わい深いかなと思うのである。

                             (記:2018.2.19)

 

  ↓ 今回歩いたルート 左の✖まで

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【コースタイム】2018.2.18(月)

琴平神社入口手前11:30~琴平神社11:55~向山386m13:10~一ツ石山536m13:55~615mピーク先引き返し地点14:40~一ツ石山15:35~向山16:20~琴平神社17:20~平川病院入口駐車場17:35  標高差410m

2018年に見た展覧会・国内篇 その1 ある8人の「マイベスト」

 年末になると、自分の各種の記録の集計や整理をして、その一年間を概観し直すのが近年の習慣となっている。「美術館探訪録」というのもそのコンテンツの一つ。まあこの1年間に見た美術館等での展覧会をあげてゆくというか、個人的なコメントと共に羅列してゆくわけだが、その際、参考としてというか、私という個人性と世間一般とのちょっとした対照性を確認するために、朝日新聞の「回顧201× 美術」での北澤憲昭、高階秀爾山下裕二の「私の3点」をあげるのが恒例となっている。

 さて今年もと思って待っていたが、なぜかそれが出てこないうちに年が明けた。あるいは見落としたのかなと思って、年が明けてからネットで調べてみたが、「文芸回顧2018」や「論壇回顧2018」の「私の3点」は出てくるのに、美術の記載はない。音楽や演劇も無いようだ。本当に無くなったのか、私の見落としなのか今でもわからないままだが、まあそれはそれでしょうがないか。

 かわりと言っては何だが、WEB RONZAで[2018年 展覧会ベスト5 新たな時代の流れ]https://webronza.asahi.com/culture/articles/2018122500013.html というのを見つけた。『論座』というのは確か以前に朝日新聞社から出していた雑誌。その後身ということか。

 とにかくそこでは[2018年 展覧会ベスト5 新たな時代の流れ]として以下が挙げられている。選定者は、古賀太日本大学芸術学部映画学科教授 映画史、映像/アートマネージメント)という人。知らない。しかしなぜ映画専攻の教授なのか。

 

1 内藤礼明るい地上には あなたの姿が見える」展(水戸芸術館)
2 1968年 激動の時代の芸術」展(千葉市美術館)
3 「縄文 1万年の美の鼓動」展(東京国立博物館)
4 「アジアにめざめたら アートが変わる、世界が変わる 1960―1990年代」展(東京国立近代美術館)
5 ルーベンス――バロックの誕生」(国立西洋美術館)

 

 ↓ 「1968年 激動の時代の芸術」展 これについては小熊英二の『1968 若者たちの叛乱とその背景』等を読み込んでいるので、見に行く必要を感じなかった。

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 次点として、ピエール・ボナール展」(国立新美術館)、「ルドン 秘密の花園展(三菱一号館美術館)、「没後50年 藤田嗣治展」(東京都美術館)、ムンク共鳴する魂の叫び」(東京都美術館)、「生誕150年 横山大観展(東京国立近代美術館)、および別枠としてフェルメール展」(上野の森美術館ほか巡回)の六つをあげている。

 

 う~ん。この中で私が見たのは次点もふくめて「縄文 1万年の美の鼓動」展ピエール・ボナール展」「ルドン 秘密の花園展の三つだけである。それでも例年に比べると確率は良いか。

 

 ついでに『美術手帖』のサイトも見つけた。ここでは2018年展覧会ベスト3 として6名の有識者(?)+1名の選が出ていた。「数多く開催された2018年の展覧会のなかから、6名の有識者にそれぞれもっとも印象に残った、あるいは重要だと思う展覧会を3つ選んでもらった。」という趣旨だそうだ。これも読みようによってはちょっと面白いので、参考までにあげておく。

 ちなみにそれらの中で私が見たものは一つもない。地方での展覧会が多く取り上げられているにしても、ちょっと困ったものである(のか?)。

 

①清水穣(美術評論家) https://bijutsutecho.com/magazine/insight/19050

ゴードン・マッタ=クラーク展
東京国立近代美術館、2018年6月19日〜9月17日)

秋山陽はじめに土ありき
京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA、2018年11月10日〜25日)

松江泰治 地名事典|gazetteer
広島市現代美術館、2018年12月8日~2019年2月24日)

 

 ↓ ゴードン・マッタ=クラーク展 複数の人が選んでいるので。見に行っても良かったのだが、その気にならなかった。

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②中村史子(愛知県美術館学芸員) https://bijutsutecho.com/magazine/insight/19061

闇に刻む光 アジアの木版画運動 1930s2010s福岡アジア美術館、2018年11月23日〜2019年01月20日

麥生田兵吾「Artificial S 5 / 心臓よりゆく矢は月のほうへ (Gallery PARC、2018年9月7日〜2018年9月23日)

カオス*ラウンジ新芸術祭2017 市街劇「百五〇年の孤独」福島県泉駅周辺の複数会場、2017年12月28日~2018年1月28日)

  

③服部浩之(キュレーター) https://bijutsutecho.com/magazine/insight/19060

1964 証言現代国際陶芸展の衝撃
岐阜県現代陶芸美術館、2017年11月3日〜2018年1月28日)

ゴードン・マッタ=クラーク展
東京国立近代美術館、2018年6月19日〜9月17日)

メディアアートの輪廻転生
山口情報芸術センターYCAM]、2018年7月21日〜10月28日)

 

蔵屋美香東京国立近代美術館企画課長) https://bijutsutecho.com/magazine/insight/19095

会田誠展「GROUND NO PLAN(青山クリスタルビル、2018年2月10日〜29日)

ゴードン・マッタ=クラーク展東京国立近代美術館、2018年6月19日〜9月17日)

12 光州ビエンナーレImagined Bordersビエンナーレ展示ホールほか、2018年9月7日〜11月11日)

  

 さて、ここで私見をはさむ。

 本稿では参考のために展覧会の項目だけ引用して、コメントについては引用しないつもりであった。その選定や内容は評者の判断だから、異をとなえることはできないし、そもそも一つも見ていないのだから。したがって一切批評するつもりはなかったのだが、会田誠展「GROUND NO PLANのコメントの一部についてだけは一言記しておく。そのコメントの中で、「圧倒的な画力」「ほかの作家が泣いてうらやむ高い画力」という文言を用いていることが気になったのである。

 筆者の言う「画力」というのが、正確には何を示しているのかよくわからないが、もしそれがいわゆる「描写力」や「再現的、写実的に描く力量」、あるいは「高い表現性をもたらす作画時における画家の優れた身体・技術性」といったことを意味するのだとすれば、それは誤解というか認識不足というものである。

 会田誠の、抑揚のない均質な描線に囲まれたどちらかと言えば平面的な塗りによって作られた画面世界を、造形的角度から見れば、それが大友克洋以降的描線であったり、アニメーションのセル画的特性に影響を受けたものであろうが、それはそれで構わない。そのことは実際に筆をもって描く実作者であれば、比較的容易に見て取れることである。一面で言えば、天賦の「画力」が足りないから、そうした外在的手法を採用したのであろう。それをいまさら方法としてアンフェアだという気はない。

 ともあれ、それはそれとして、そうした要素は彼独自の発明ではないにしても、彼自身の画風としてすでに成立している。しかしそれは「画力」という言葉からイメージされる、身体性に裏打ちされた、つまり作家の個性に由来するものとは言えない。そこにはある種の「うまさ」はあっても「豊かさ」を感じとることはできない。これは決して批判、非難ではない。しかし、まともな画家であれば、会田誠程度の画力を誰もうらやみはしない。ある作家が自身の個性や力量や思想から、どのような方法・画風を選び決定するかは、その作家自身が決めることでしかないからである。

 だがそれゆえに、評者はここで「画力」という普遍性・根源性に根差す批評性を持った言葉を使うべきではない。会田誠の作品は「画力」によって成立しているのではない。にもかかわらず彼の作品に「画力」を幻視し、それを彼の作品世界の大きな要素として称揚しているということは、評者の鑑賞能力の低さ、分析力の曖昧さを露呈させるものだ。ゆえに美術館のキュレーター等に対して実作者である画家が基本的に持ちやすい、「この人(キュレーター)は本当に絵がわかる、見えるのだろうか?いわゆる文脈だけで絵を理解しているのではないだろうか?」という不信感がここで立ち上がってくるコメントであることは確かなのだ。眼の効かないキュレーターなのではないか?この人の目は暗闇か(クラヤミカ)

 そしてそのことは、すなわちそうした程度の鑑賞力によって選んだ「展覧会ベスト3 」自体が信用できないものとなるということだ。

 

黒瀬陽平(美術家、美術批評家) https://bijutsutecho.com/magazine/insight/19081

「山のような 100ものがたり」
東北芸術工科大学キャンパス、2018年9月1日~24日)

スペース・プラン記録展鳥取の前衛芸術家集団1968-1977−
(ギャラリー鳥たちのいえ、2018年12月7日〜19日)

鴻池朋子 ハンターギャザラー
秋田県立近代美術館、2018年9月15日~11月25日)

 

 ここでも展覧会の項目だけ引用して、コメントについては引用しないつもりであったが、「ベスト」だけではなく「ワースト」をもあげていることが面白く、またその「ワースト」たるコメントの方が力を感じるというか、面白かったので、少々長すぎるが、あえて引用しておく。

 美術についての批評は一般にほめる・評価するというのが普通で、はなはだしくは提灯持ち的なものも多いが、批評というからには当然批判する・否定するということもあって然るべきである。むろん、その内実が重要なことは言うまでもないが、そもそも否定的な場合は黙殺するのが普通であって、「ワースト」的言説を、少なくとも私は、見る機会が少ないので、その勇気に敬意を表して(?)あえて引用する次第である。

 趣旨の性格上、挑発的なのはかまわない(そのせいでちょっと小気味よい)が、量的制約のせいか、残念なことに若干文章に品がないことが惜しまれる(微妙ではあるが)。日本人(とは限らないかもしれないが)はどうも批判となると、感情的前傾姿勢となって、品に欠ける場合が多いようである。

 内容については見ていない、見に行く必要はないと事前に判断したのだから、コメントのしようもない。

 なお、アンダーラインは私河村が共感というか、引っかかったところである。

 

 以下引用

例年のように、ワーストも挙げておく。 残念ながら今年は、ワースト候補が非常に多かった。「ハロー・ワールド ポスト・ヒューマン時代に向けて」水戸芸術館)や「五木田智央 PEEKABOO東京オペラシティ アートギャラリー)、「建築の日本展:その遺伝子のもたらすもの」森美術館)、「カタストロフと美術のちから展」森美術館)などはワースト上位に食い込むラインアップだが、すでに著者はレビューなどで触れており、ある程度議論もしているので、そちらを参照していただきたい。

 ワースト3位は「民藝 MINGEI -Another Kind of Art(21_21 DESIGN SIGHT)。「クールジャパン」でオタク文化が喰い荒らされた後、次なるオリエンタリズムの生贄として「民藝」が担ぎ出されるのは時間の問題だと思ってはいたが、今年に入ってすでにその兆候が見え始めている。 民藝とは、良くも悪くもイデオロギーとして人工的につくられた概念であり、そのことに対する再検討抜きで称揚すべきものでは決してない。しかし本展は、日本民藝館の館長である深澤直人無内容な「ポエム」とともに、ひたすら民藝をフェティッシュとして愛でるという、目を疑うような内容だった。

 ワースト2位は、「起点としての80年代」金沢21世紀美術館)。1980年代の日本現代美術に対して、サブカルチャーの影響をいっさい認めないという強い意思を持った展覧会。明確な仮想敵として、椹木野衣によって提唱された90年代の「ネオ・ポップ」が名指しされている。80年代の現代美術が、オタク文化を中心とするサブカルチャーとの影響関係で語られる「ネオポップ」の前史として扱われるがよっぽど嫌なのだろう。 しかし、本展で取り上げられている作家の半数以上が、サブカルチャーから明らかな影響を受けていたり、あまつさえサブカルチャー出身だったりすることについて、どう説明するのだろうか。

 そもそも、椹木史観が支配的になったのも、70年代以降の日本現代美術史をまともに編纂してこなかった美術館側の責任でもあるはずだ。自分たちの怠惰を棚に上げて、明らかに事実に反する歴史観を恣意的に語るのはいかがなものか。 独自の歴史観を語るのは結構だが、キュレーターのテキストを読んでみると、結局は「関係性の美学」や「オルターモダン」といった「グローバル」に流通する業界用語に沿って説明できるよう、サブカルチャーをノイズとして排除しただけのようだ。業績を積んで国際的な舞台で活躍したいという学芸員の野心のために、歴史が歪められ、作品の文脈が忘れ去られる。彼らはそのうち、90年代にも手を伸ばすことだろう。

 ワースト1位は、新しくできたギャラリー「ANOMALY」でのオープニング展のChimPom「グランドオープン」。本展によって、1990年代から続いた現代美術のひとつの流れが、完全に終わってしまった。もはや国内のコマーシャル・ギャラリーにはなんのアイデアもなく、Chim↑Pomもその閉塞状況を打ち破るどころか、コマーシャリズムにだらしなく身を委ねていた。 本展については、年明けに公開されるレビューで詳しく論じたので、そちらを参照してもらいたいが、間違いなく2018年のワースト1位であり、ひとつの時代の終わりを告げる記念碑的事件であったと言えるだろう。

 

 ↓ ワースト3位の「民藝 MINGEI -Another Kind of Art」

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 ↓ ワースト1位の Chim↑Pom「グランドオープン」

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 ⑥長谷川新(インディペンデント・キュレーター)

 https://bijutsutecho.com/magazine/insight/19071

「全部見せます!シュールな作品 シュルレアリスムの美術と写真」

 (横浜美術館、2017年12月9日~2018年3月4日)

江上茂雄:風景日記

 (武蔵野市立吉祥寺美術館、2018年5月26日〜7月8日)

修理完成記念特別展「糸のみほとけ-国宝 綴織當麻曼荼羅と繍仏-」

 (奈良国立博物館、2018年7月14日~8月26日)

  

⑦番外編 岩渕貞哉(『美術手帖』編集長) https://bijutsutecho.com/magazine/insight/19097

村上友晴ひかり、降りそそぐ
目黒区美術館、2018年10月13日~12月6日)

ヒスロム仮設するヒト
せんだいメディアテーク、2018年11月3日~12月28日)

変容する周辺 近郊、団地
(東京都品川区八潮5-6 37号棟集会所、2018年10月21日~11月4日)

  

 他人の「ベスト」やら「ワースト」やら引用やらで、そろそろ力尽きてきた。

 

 しかし、「ベスト」というからには、地域的な制約はある程度やむをえないにしても、2018年の日本全体の美術展を幅広く鳥瞰したうえでの「ベスト」であってほしい。とこう書いて、あらためて見直してみたら、「数多く開催された2018年の展覧会のなかから、6名の有識者にそれぞれもっとも印象に残った、あるいは重要だと思う展覧会を3つ選んでもらった。」とあった。つまり日本限定とは書いていなく、あくまでその6名の個々人の印象ということだったのだ。

 つまりはそれぞれの「マイベスト」なのだ。それはそれで悪くはないが、『美術手帖』の「2018年展覧会ベスト3」と書かれると、公的メディアなのだから、やはりある種の客観的視点を期待してしまうのだ。ましてや光州ビエンナーレといった海外の展覧会まで含むとなると、これは全く個人的なものでしかないではないか。というのは、ないものねだりというか、場違いな誤解であろうか。むろん美術の鑑賞というのは、基本的に極めて個人的な営為である。だからこそメディアにおいては「マイベスト」ではない「ベスト」も見てみたかったと思うのである。

 またそれぞれのコメントがその展覧会の「文脈」ということに寄りかかりすぎているように思われることも気になった。言うまでもなく、文脈・パラダイムというものは重要なものであるが、文脈でしか語れない批評というものは困ったものである。評者と作品そのものとの力強い体験が文章から感じられなければ、文脈やパラダイムといった狭い入り口を通してしか美術を見ていない、感じていないのではないかと思われるのである。それもまた、ないものねだりであろうか。

 

 ともあれ「2018年に見た展覧会・国内篇」は、今回思いがけず「その1 ある8人の『マイベスト』」として、長い前書きに終わってしまった。引き続き続編というか、本編を書くつもりではいるが、さて…。 

                              (記:2018.2.9)

『週刊女性』に(ちょっとだけ)名前が出た~古い一枚の写真から

 昨年末というか年明けごろから体調が芳しくない。

 一つは、あるいは高血圧?。長く血圧優等生だったのに、ここにきて110前後~140前後といった数値が出る。毎日ダルさと(実際には熱はないのに)微熱状態といった態。

 もう一つは六十肩(のバリエーション?)というか、右腕に力が入らず(平時の六割ぐらいか)、ある範囲以外うまく動かない。顔を洗うのにも、風呂で体を洗うのにも少し不自由だが、何より絵を描くのに不自由する。特に今は今年2回予定している個展のために150号の大作に取りかかっているのだが、腕を上にあげて筆を使うということがうまくできないのである。大作が描き進められない。やむなく小さな作品を抱え込むようにして描いているが、精神的にまことによろしくない。

 そんなわけで、当然山歩きなど行きようもない。いや、無理をしてでも一発行けばスッキリするような気がしないでもないが、いやな予感がして、自重している。せいぜい1時間半ほどの裏山歩きをたまにするぐらいのものである。

 気晴らしにブログ書きでもすればよいのかもしれないが、キーボードを打つのも少し辛い。書くべきコンテンツはあり、ある程度の下書きはしてあるのだが、集中するのがちょっと辛く、アップするには至っていない。

 しかしまあ、そんな愚痴ばっかり垂れていても仕方ないし、たまたま古い友人からの一通のメールからちょっとした珍しい(?)体験をしたので、素材の賞味期限が切れないうちに、ちょっと書いてみようと思った。これならば労力もさほど必要としないだろうし、考察も分析も必要ない、近況報告として。

 

 以上、前書き、以下本論。

 

 

 年が明けて10日ほどしたころ、Aからメールがきた。

 ええい、めんどくさい。Aとは秋元、現東京藝術大学大学美術館館長兼練馬区立美術館館長の秋元雄史である。ついでに言えば金沢21世紀美術館の元館長であり、直島の地中美術館の元館長でもある。

 本ブログでは個人的な交友関係の範疇の話題の場合は、一般常識にしたがって、原則個人名は出さず、AとかB氏とか仮名にしている。しかし、本人の実名をもって公表されたものや、ある程度公的な話題については実名をあげる。そうしないと話が見えないからである。そもそも、今回は画像を見ればわかるように実名、写真入りの記事なので、秋元雄史の名で話を進めるしかないのである。

 

 秋元からのメールは、今度『週刊女性』に取り上げられるので、「昔を知る友人」として、つまり裏付けインタビューに協力してほしいとのことであった。はあ?『週刊女性』?か。まったく縁のない世界であるが、まあ頼まれたからには協力してあげましょうか、といったところ。

 前後して奈良在住のFから画像が届いた。同様に秋元に頼まれて誌上に掲載する、学生時代の写真を提供したのだが、そこに写っている人物の真ん中の一人がどうしてもわからないという。

 

 ↓ 後ろのザック姿が私 一番右秋元 真ん中の男は誰だ?

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 1977年、大学2年の五月、私がまだ山岳部に在籍していた頃、唐松岳~不帰の新人歓迎合宿終了後、鹿島槍の麓の山岳部の山小屋に移動して定例の小屋整備を終え、さらに居残って先輩と二人で鹿島槍のバリエーションルート、荒沢尾根を登りに行ったものの、初日の渡渉に失敗し流されずぶ濡れになるやら、出直した翌日は取り付いてほどなく大滑落し、九死に一生を得てほうほうの態で敗退した日に、事前に約束していた通り、友人やら何やらが十名ほどやってきたのである。その写真は山小屋でさらに数日過ごした帰途の大糸線の駅で撮ったものだ。この写真には写っていないが、もうニ三人いた。

 

 メンバーは学年も大学も違ったり、友人やら知り合いやら雑多な集団なので、全員を見知っている者はいなかった。おおらかなものである。そういえばこの年の新人歓迎合宿自体は、例年の鹿島槍大冷沢定着が、雪庇の状態が悪く、場所を八方尾根に変更したこともあって、合宿自体は短かったにもかかわらず、家を出てから帰るまで二週間以上。当然授業はあったのだろうが、まったく気にしていない。思えばのんびりしたものであった。

 その写真は秋元自身がフェイスブックにあげ、それに反応した何人もの人から「真ん中の人物は誰?」という話題でひとしきり盛り上がっていた(私自身はフェイスブックをやっていないので、女房経由)。まあ、40年前の写真だからねえ。どうやらその人物を知っているのは私だけらしい。

 

 ↓ もう一枚 やはりボツ写真 真ん中の男は誰だ?

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  問題の彼とは、私と同郷の、高校山岳部の後輩の、当時立教大生のTのことであった。高校では2学年下だが、私は3浪し、彼は現役合格だったせいで、この時は1学年上の3年生だったはずだ。芸大は浪人生の方が圧倒的に多かったので、そういうことはしばしばあり、年下の先輩なども普通に存在していた。

 ちなみに秋元と私は一歳違い(とは言っても数か月違いでしかないのだが)、大学入学は同期だが、彼は二年留年したせいで、学部卒業は私の修士課程修了と同じ年。写真を提供したFは私と同年齢だが、大学は私たちより二年早く入った。一緒に写っている現某芸大教授のS君はFより1学年下、私より1学年上だが、確か5浪か6浪しているからこの中では最長老か。結局大学には入らなかったIも、この写真には写っていないKも同じ3浪だが、確か高校入学前後に1年余分にかかっていたはず。ああ、ややこしい。

 なぜ彼が参加しているのかわからないが、私が声をかけたのだろうか。あるいは、やはりその写真に写っている、予備校で1年間一緒だった2学年下の、やはり立教大学生の(別の)K(大学生のくせに昼間の予備校に通っていた)と同じ大学サークルだったという縁で来たのか。まあ、いつでもどこでも顔を出すやつではあったが。しかもなぜかいつも真ん中に写っている。

 ともあれ、真ん中の人物の正体は判明したが、秋元のフェイスブックを共有するメンバーとは縁のない世界の人なので、フェイスブックの話題としてはそこでお終いである。

 

 そのTは大学卒業後しばらく旅人をやったのち、郷里に帰り、家業の運送会社を継ぎ、今はコンサルタントなんぞをたまにやりつつ、チャリダー兼旅人として復活しつつあるようだ。私とは長く縁が切れていたが、ここニ三年また淡い関係が復活しているようでもある。

 

 さて、『週刊女性』である。

  

 ↓ 『週刊女性』2月12日号(1月29日発売) 表紙に「人間ドキュメント」や秋元雄史の文字はない

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 ライターから電話がかかってきた。電話インタビューかよ、と一瞬思ったが、さすがに手際は良い。美術関係者ではないから若干ポイントを外すところはあるが、全体としてはツボを押さえた取材であり、必要とするところをうまく引き出していく。プロである。数日後、私の「談」の部分の文案が送られてきた。あらためて二三の修正点を指示する。

 

 ↓ 私の関与した部分 その1

 

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 ↓ 私の関与した部分 その2

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 私はこれまで何回かのテレビやラジオの取材を受けてきたが、普通その録画等は送ってくれない。社内規定があるようでもあるが、取材された方としては釈然としない。今回は掲載誌を送ってくれと言ってみたら、発行日にちゃんと送ってくれた。えらい。それが画像の『週刊女性』2月12日号(1月29日発売)である。

 残念ながら表紙に「人間ドキュメント」や秋元雄史の名前は出ていない。

 

 しかし、内容はしっかりしたもので、わかりやすい読みやすいにもかかわらず、それなりに読みごたえもある。他の記事に関してはノーコメントというしかない。あまりにも私の関心外の世界なので。

 それにしても秋元が、女性週刊誌といった、およそ芸術とは縁のなさそうな雑誌にでも出るというのはちょっと驚きというか、意外でもあった。もちろんそこにはそれなりの理由があるのだろうし、内容からすれば、決して悪いことではない。

 私としては、おかげで(?)まったく縁のない世界に一瞬ふれることができたということである。

 

 ↓ 記事の全体 その1 これでは内容は読めないので無断転載にはならないはず。

   関係ないけど相変わらずスーツの似合わないやつだ。

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 ↓ 記事の全体 その2

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 ↓ 記事の全体 その3

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 残念ながらTの写っている写真は画質が悪すぎて誌面には載せられないとのことで、ボツとなった。少し残念である。ほんの少し、ごく一部のフェイスブックににぎわしただけで日の目を見ることなく終わってしまうことの個人的な残念さゆえに、この写真を再録するために、この一文を書いたようなものである。ちょっとした話題提供、近況報告でもあるが。

 それにしても、多少ピンボケでも写真を直接高画質でスキャンして送れば、それなりに載せることは可能だったのではないか。ピンボケではあるが、雰囲気のある良い写真だと思うのだけれども…。

                            (記:2019.2.3)

再録:塚田尊明「NHK・BSグレートトラバース撮影隊に呼ばれるまで・そしてそれから」

 本は増える一方である。いや、一方であった。最近は購読量も減り、読書量も減ってきてはいるというものの、蔵書の総量は減っていない。微増を続けている。2万冊はないにしても、毎年の記録からして1万冊はある。機を見て人にあげたり、「これは君が読むべき本だ」などと、酔った勢いで押し付けたりするように心がけてはいるものの、しょせんは焼け石に水である。どこにどの本があるか覚えていられるのは1万冊までだという説を読んで、まったく同感である。

 断捨離という言葉も考え方も好きではないが、一理はあると思う(ただし一理にしかすぎない)。何にしても、多少は考えざるをえない。

 ともあれ少し蔵書を減らそう=処分しようと決めて、いよいよ年内にある古本屋に持っていくことにして、段ボール箱に詰め始めた。詰め始めて気が付いたというか、思い出したのだが、数年前に一度処分を決意してまとめはじめ、中断した段ボール箱が、数箱そのままになっていたのだ。書棚に入りきらなくなった山岳書、山岳雑誌。

 かつて記録の無い、あるいは記録の少ないルートを登ることを目標として山に登り続けていた頃、当時所属していた山岳会とは別に、日本山書の会というマイナーな趣味の研究団体に所属したこともあり、資料収集・研究の一環として、古い山岳書や雑誌・会報などを営々として集めていた。とても読み切れない。本は必ずしも読まなくともかまわない、しかしそれを持っているということが大事なのだ、という面もある。しかしそれも自分が現役の山登りをしていればこそである。今のように記録性云々とは無縁の尾根歩きを細々とするだけになってみれば、そうした資料類の多くはもはや自分には必要のないものだと気づかざるをえない。そうした情熱はなくなったのである。

 

 私の蔵書は専門の美術関係を第一として、山岳、文学、民俗学、ノンフィクション等々と、比較的多岐にわたる。私は本は読むべきものと思っているから、初版本や豪華本、限定版といったことには基本的には執着しない。文庫本で読めれば十分である。しかし文庫本はごく一部のもの以外は金にならない。いや、私の持っている本全般がそうだ。ある程度高く売れそうな山の本は、とっくに売り払っている。

 自分でヤフオクにでもコツコツと出品すれば、うまくすればそこそこの金にはなるだろう。しかしその手間暇を考えれば、そんなことにエネルギーを使いたくない。集めるのに費やした金額を考えれば多少の冷や汗も出るが、処分と考えれば二束三文で充分である。それらを所有していた年月だけで、充分楽しんだ、元はとったのだから。

 

 そんなことを考えていたある日、例の立川会の忘年会で現役のクライマー塚田さん(本ブログの「レジェンドたちと登った西上州・鍬柄山 2018.11.3」ではTさんとしている)と話していたら、山の本が好きだ、欲しいと言われる。山屋でも山の本を読まない人は多いが、塚田さんは別格で、異常に反応が良い。私が死蔵するより、この人のもとにあった方が本が生きる。これが縁だと、さっそく貰ってもらうことにした。

 忘年会からしばらくたって、その時の話の流れから元岳人編集部の山本さん、俳句をよくされる元山岳救助隊の金さん、指揮者のT島さん、山渓編集部を退職されたばかりの山書収集家でもあるKさんらが拙宅に来られ、本の話を中心とした清談のひと時をすごした。

 当日出席予定だった肝心の塚田さんは前日から都岳連の山岳救助隊のお勤めが入っており、来られなかったのだが、二日後にアルバイトでガイドをされている山岳ツアー会社のAさんと一緒にやって来られた。その夜はツアーの下見に両神山に行かなければならないとかで、運転役の塚田さんは飲めなかったが、Aさんと私は楽しく飲みつつ、山の話、本の話その他で楽しい時を過ごした。

 とりあえず段ボール箱9箱分の山書を引き取っていただいて、何やら肩の荷が少し軽くなったような気がしたものである。

 

 年が明けて、一通の封書が届いた。御礼の一筆と共に数枚のコピーが入っていた。それが以下に紹介する彼のエッセイである。一読、面白いと思った。決してプロの物書きの書く文章ではない。天然自然の純朴素朴な、例えれば泥のついたままの自然薯の味わいである。最近しばしばライター志望の若者と知り合うことがあるのだが、そうした職業としての、商品としての文章とは違った滋味に久しぶりに接したような気がした。

 内容的にも面白い。例えば(私自身は興味がないが)、大変人気のある「NHK・BS グレートトラバース」という番組の知られざる側面に期せずして光を当てている。何であれ、裏方話は面白いのだ。

 彼がクライマーとして山屋としてこれからどこへ向かうのか、私にはまだよくわからないのだが、これを私一人で読むのはもったいないと思った。

 その一文を発表したグループ山想というのは、たまにネット上で見かけたことはあるが、「山岳愛好者を横につないだグループ」で、『G山想』という機関紙・文集を出しているらしいが、それ以外のことはよく知らない。いずれにしてもこの一文を紙媒体=機関紙で読んだ人は少ないだろう。せめて私のブログに取り上げて、あらためて少しでも世間に知らしめたいと思いついたのである。

 本人に了解を求めて電話してみると、意外な展開に少しとまどわれたようであるが、すでに発表済みのものである。問題はないはずだ。そのまま再録させてもらえることになった。縦書きが横書きになるのが少し残念であるが、まあ仕方がない。

  

   ↓ 塚田さんから送られてきたコピー

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   ↓ 『G山想』の表紙のコピー

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 それにしても、絵描きのブログにしては絵の記事が少ないと言われる。確かにその通りである。絵は本職本業であるがゆえに難しいのだ。

 それはそれとして、たまにはこうして私以外の人の文章を載せるのも面白いではないかと思うのだが、いかがだろう。少なくとも、私は面白いのである。

 以上、前書きであり、以下本文。

 

 

塚田尊明

NHK BSグレートトラバース撮影隊に呼ばれるまで そしてそれから」

(初出『G山想』2018年通巻第11号 2018年6月10日 グループ山想)

 

 山が好きになったのは中学生のときでした。科学クラブという自然科学を学ぶクラブに入ったことがきっかけです。恥ずかしい話ですが、勘違いでこのクラブに入部したのです。薬品などを扱う実験に興味があったわけですが、化学と科学の文字の意味がわかっていませんでした。入部してすぐ活動内容が違うことに気がつきましたが、自然も好きだったのでそのまま所属することにしました。

 この科学クラブで月に一回、野山に出かけました。運動の苦手な自分でしたが、山は歩いた分だけ、登った分だけ、高いところへ行くことができると感じました。登山は自分に向いていて、そして楽しいと思いました。

 

 高校では迷わず登山部に入りました。個性的な顧問の先生のおかげでますます登山が好きになりました。先生の指示で500円くらいの幕営代をケチり、指定キャンプ地以外でテントを張っているところをレンジャーに見つかってしまいました。先生はレンジジャーに謝り、反省している振りがとてもうまかったのを覚えています。先生は団体装備を何一つ持ちませんでした。それなのに合宿当日は誰よりも大きなザックで現れました。ザックの中身三分の二がお酒でした。「お前ら誰にも言うなよ」と言い、高校生の自分達にもお酒をわけてくれました。このときの秘密の共有はものすごい絆となり、高校在学中は誰にも言いませんでした。その先生もずっと前に定年退職をされました。今となれば時効の話です。

 

 柄にもなく大学へ進みました。登山部か山岳部へ入りたかったのですが、その二つのクラブが無く、山関係としてはワンダーフォーゲル部だけがありました。ワンダーフォーゲル部、ワンゲル、初めて聞く言葉でした。選択肢もないので、この謎のワンゲル部に入部することにしました。しかし今となれば青春の思い出がいっぱい詰まったクラブ活動になりました。ワンゲル部で教えてもらったことは登山ではなく、お酒を飲んで人に迷惑をかけることでした。親の苦労も知らず入れてもらった大学で勉強はしませんでした。大学は自然豊かな田んぼの真ん中にありました。おきまりのあぜ道を毎日走り、タイムを縮めることが楽しみでした。また6階建の校舎の屋上からロープを垂らし、プルージックで登り、懸垂下降をしていました。当然教授に怒られました。

 ボッカ駅伝や登山レースにも出場しました。大会で上位の成績を収めることができました。勉強では結果を出せませんでしたが、好きなことでは結果を出すことができました。そして国体の補欠選手に選ばれました。国体で知り合った方にクライミングを教えてもらいました。その方に「塚田君はどんな登山をしたいのか」と聞かれました。

 自分は長谷川恒夫さんに憧れていたので、冬壁を単独で登りたいと答えました。そしたら「日本登攀クラブに山野井泰史さんという人がいるから、集会を見学させてもらったら」と言われました。日本登攀クラブがどんなクラブなのか、山野井泰史さんがどんな人なのかも知らずに集会へ行くことになりました。

 

 当時の日本登攀クラブの集会は、御茶ノ水駅近くにあった談話室滝沢で行っていました。コーヒー1杯が1000円ぐらいしたと思います。そこに来ている客はみなスーツ姿で、なにか重要な商談でも行っているかのように見えました。そんな中に、普段着やジャージ姿でいる集団がありました。それが日本登攀クラブの人たちでした。

 山野井さんも来ていました。富士山の強力の仕事から帰ってきたばかりと言っていました。ある先輩から、「お前は長男か」と聞かれました。自分は、はいそうですと答えました。その先輩は「じゃあ殺せねぇなあ」と笑いながら言っていました。なんだかとんでもない山岳会に来てしまったような気がしました。しかし他の山岳会を見学したところで、山岳会というものがよくわからないような気がしたので、日本登攀クラブに入会することにしました。

 日本登攀クラブの先輩たちは強かったですが、自分は素質も無く、大した登山もできないまま、卒業後の進路を決めなければならない時期が来ました。普通の学生は就職をしますが、日本登攀クラブの先輩は、「就職と結婚は人生の墓場だ、親の脛をかじってでも山をやり続けろ。」、「30歳までは遊べ」とも言っていました。とてもまともな考え方では無いとそのときは思ってしまい、自分も普通の学生と同様に就職を選んでしまいました。就職と言っても高校の教師になりました。自分は中学、高校時代の素敵な先生たちに憧れ、自分も教員になりたいとずっと思っていました。

 

 なんとかその願いが実現し、私立の工業高校の教員になることができました。しかし理想と現実と学校方針の大きな変革などと、さまざまなことがあり、11年間勤めた学校を辞めることにしました。このとき自分は結婚もして子どももいました。また、ずっと感じていたことは、やっぱり山をやりたいという思いでした。教員時代の休みは週に1日。長い休みなんかはとれませんでした。一緒に着任した同期も時期はバラバラでしたが、辞めて行きました。

 しかし彼らは次の仕事や学校を決めてから辞めて行きました。自分はというと何も決めずに辞めてしまいました。独立して個人事業主として何かやりたいと漠然とですが思っていたからです。学校を辞める直前に車いす整備士の資格を取りました。学校活動の取り組みで、車いす修理のボランティアを着任以来ずっとやってきました。我流で車いすの分解組み立てをしていたので、記念と腕試しにと思い車いす整備士の資格を受けに行ったところ、受かってしまいました。

 この車いすで食べて行けたらと思いましたが、現実はそんなに甘いものではありません。失業保険をもらいながら、ハローワークにたまに行きますが、本気で仕事を探すわけでもありませんでした。失業中、天気の良い日に釣りに行き、数匹のハゼを釣っては家に持ち帰り、大漁だぞと子どもにくだらない冗談を言っていました。何の進展も無い無駄な日々を過ごしていました。

 

 失業保険も切れること、以前から親交のあった山の先輩、堤信夫さんからしばらく仕事を手伝って欲しいと言われました。それから1年ぐらい堤さんに世話になることになりました。仕事内容は住宅の塗装や外壁工事などをしました。堤さんはテレビの裏方の仕事も紹介してくれました。撮影機材を山中で運ぶ歩荷という仕事でした。

 初めてテレビの仕事をしました。NHKのBSで放送されている日本百名山という番組でした。そのとき知り合ったテレビのディレクターの方が後の「日本百名山一筆書きグレートトラバース」を手がけるディレクターでした。そのディレクターと堤さんは知り合いで、以前から山番組を一緒に作ってきたそうです。

 堤さんとの仕事が一段落した自分は派遣会社のアルバイトをするようになりました。そんな中、あのディレクターから電話がかかってきました。明後日から2週間ぐらい歩荷の仕事をして欲しいとのことでした。急なことでしたが仕事をいただけるので、手伝えますと即答しました。

 その仕事こそ、日本百名山を連続踏破する挑戦を追ったドキュメンタリー番組のグレートトラバースでした。グレートトラバースは長期に渡っての挑戦です。自分が関わったのはわずかな期間となります。現場のスタッフ構成はディレクター、アシスタントディレクター、カメラマン3人、車両ドライバー、あと歩荷がそのときの撮影内容によって数人でした。この番組はドキュメンタリー番組なので、その百名山の挑戦者と打ち合わせをしたり、協力をしたりということはしていません。

 挑戦者から行動などの最低限の情報だけを聞き、仲間にならないよう距離を置いて撮影をしました。挑戦者の出発時間や行動予定が急に変わることもよくあります。撮影スタッフはそれに合わせて行動します。また撮影スタッフも強力なメンバーをそろえていました。

 まずディレクター自身が日本、世界で登山経験のあるクライマー、挑戦者に勝るとも劣らないアドベンチャーレーサーのカメラマン、日本トップクラスのクライマーでもあるカメラマン、山岳ドローンカメラマン、歩荷も日本を代表するアドベンチャーレーサー、世界で活躍するクライマー、その土地を熟知した地元の歩荷、エネルギーあふれる大学山岳部の学生歩荷などでした。

 スタッフ一人ひとりに求められている能力は、山中でたとえ一人になっても必ず無事に目的地に到着することでした。自分は南アルプスの南部、光岳の撮影から参加しました。当日呼ばれていた歩荷は3人でしたが、集合時間になっても自分ひとりしか集まっていませんでした。ディレクターとカメラマンの先発隊は挑戦者を追って先に出発しています。歩荷はテントや食糧、予備の撮影機材など、すぐに使わない物を運ぶので挑戦者やカメラマンと一緒に行く必要はありません。しかし、毎日が12時間行程近くあるので、早朝から出発しないと目的地に到着できません。

 ここで起きて欲しくないことが現実となってしまいました。一人の歩荷から来られないと連絡がきたのです。もう一人の歩荷のことも待ちきれません。自分は三人で運ぶ予定だった荷物を二つに分けて、それを背負い出発することにしました。36~37キロと言ったところでしょうか。もう一人の歩荷は2時間遅れぐらいで出発し、無事合流することができました。

 この光岳から出発した撮影は、北岳を越えて広河原までが一つの区切りでした。この間、様々なことがありました。時期は残雪の南アルプス。夏道が出ているところもあれば、雪でまったく道がないところもありました。挑戦者は、アドベンチャーレースで培った経験と勘、そしてGPSを使い縦横無尽に山を駆け回ります。それを追って行く撮影スタッフは大変でした。歩荷以外のスタッフはわりと軽装ですが、歩荷は大荷物を背負っているので道も選ばなくてはなりません。挑戦者やカメラマンは夏道でもない岩稜を駆け抜けていきます。しかし歩荷はそのようにはいかず、雪で隠された夏道と思うところや、とにかく進めそうなところを行きました。ときには滑落したら200~300メートル落ちてしまうようところもありました。

 薮を漕ぎ、スタッフみんながバラバラになるなど、とても過酷でした。配給された行動食も歩荷には少なすぎてシャリバテになりました。飯は朝夕ともにアルファ米とラーメンでした。まだ山小屋は営業していないところがほとんどで、避難小屋を繋げて行く毎日でした。広河原から一度町に降りたスタッフたちはビジネスホテルで1泊し、数日間のたまった垢を落としました。

 そして翌日、食糧の買出をして、すぐまた広河原に戻りました。挑戦者はというと広河原にある避難小屋で休養をとっており、翌日は鳳凰三山に登ります。自分だけが広河原でテントキーパーとなり待機となりました。自分のことを、通行許可を得たディレクターが車でピックアップの予定になっていましたが、大雨が降り夜叉人峠から広河原へむかう林道が通行止めになってしまいました。自分はもう1日広河原に1人でいることになりました。翌日も林道は開通しなく、北沢峠側から山小屋の人に迎えにきてもらいました。その後は中央アルプスへ移動、そこでもさまざまなできごとがありました。そして上高地へとたどり着き、自分の歩荷の仕事が終わりました。

 このグレートトラバースはとても人気の番組となりました。そしてグレートトラバース2の続編も始まり、また歩荷として呼ばれました。このときの撮影も前回同様厳しいものでした。季節は晩秋で、一晩で山が真白くなり3日ほど停滞したときもありました。また、連日のハードな行程に集中力も無くなり、道を間違えてしまいました。気が付いた時にはもう戻っても合流できない状態で、自分の安全を考え下山したことがありました。

 他のスタッフに装備などを届けられず不便な思いをさせてしまいました。あるスタッフからは、「塚田が無事じゃなければ番組が終わってしまう判断は正しかった。」と言われました。反省をしなくてはなりません。しかし、とてもよい経験になりました。

 その後、山関係のテレビの仕事を毎年いただくようになりました。映画の仕事などもありました。角川映画のエヴェレスト神々の頂にも参加をさせていただきました。

 

 日常の仕事は日本登攀クラブの先輩の紹介で清掃業のアルバイトを始めました。フジテレビのガラス清掃などもしました。そんなある日、堤さんから木を伐採する仕事の誘いがきました。その現場には林業や造園業の職人たちも集まりました。

 その中に今現在自分が世話になっている池田功さんがいました。あの衝立岩の雲稜ルートをフリーで登った人です。池田さんは雑誌PEAKSを持ってきていました。南博人さんと対談をしたとのことでした。そのPEAKSに、南さんと池田さんが一ノ倉沢の岩壁群をバックに撮った写真が載っていました。その撮影のときに南さんは、「最近衝立登る人いないのだね」と言っていたそうです。撮影日に誰も衝立岩に取りついていなかったのでそう言われたのかもしれません。確かに衝立岩を登る人は少なくなっていると思います。実は、自分は南さんと池田さんが一ノ倉沢に来る1週間前に衝立岩を登っていました。しかも雲稜ルートでした。登っているところを南さんにも見ていただきたかったです。

 堤さんに呼ばれた伐採の仕事のあとに、自分は池田さんと連絡を取り、造園業の手伝いをさせていただくことになります。その造園の仕事で、長谷川恒夫さんの奥さんの昌美さんが現在所有している八ヶ岳の太陽館へ、庭の手入れにも行きました。

 その他自分の仕事としては、フィールド&マウンテンというツアー会社のガイドとして仕事もするようになり、先に出ていた車いす話ですが、日本福祉用具評価センターから、車いす整備士の講師として呼ばれるようになりました。

 

 振り返ると要所、要所で起きた出来事が繋がって行き、今の現在があります。

 20年前に日本登攀クラブの先輩が言っていた「30歳まで遊べ」もまんざら間違えではないように今は思えます。逆に今は30歳過ぎても遊べと言いたいです。そのとき、そのとき一生懸命やれば何とかなるようですし、よい方向へ行くと言うことがわかりました。

 大学で勉強したことはあまり役に立ってはいませんが、いや正確に言うと大学で学んだことをうまく活かせませんでしたが、大学に行ったからこそ、運命的な山の先輩たちに出会えました。

 自分が好きになった山を通じて、さまざまな形でこれからも社会貢献ができたらよいと思います。

そういえば先日、あのディレクターからグレートトラバース3の誘いが来ました。

今年も挑戦の年が始まります。

 

 

追記

 塚田さん、整理すれば貰っていただきたい本はまだ残っています。またよろしくお願いします。そして今度は山と本の話をしながら、じっくり飲みましょう。