艸砦庵だより

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「あるがままのアート ―人知れず表現し続ける者たち-」展と谷中石仏探訪

 7月30日、東京芸大美術館の「あるがままのアート ―人知れず表現し続ける者たち―」展を見に行った。完全予約制というハードルを何回か飛び越えそこねて、結局息子の手を借りるという、お粗末なIT弱者ぶりはさておく。

    

  ↓ 展覧会チラシ

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  二人をのぞいて、他の作家の作品は撮影OKということであったが、それらの画像をFBにあげて良いものかどうかわからないので、これは差し支えないだろうというのを一点だけあげておく。

 

   ↓ 会場入口

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 展覧会としては、コンパクトにまとまっていて見やすく、良い作品も多かった。多くの作品の質も高かったと言ってよい。

 しかし1993年の世田谷美術館での「20世紀美術とアウトサイダー・アート パラレル・ビジョン」展以来、東京及び近県の美術館でのアウトサイダー・アートエイブル・アートの文脈で開催されたほぼ全ての展覧会を見てきたと自負する私にとっては、やはり不満の残るものでもあった。それは、これまでの展覧会以上に、美術と医学と福祉の三つの要素が交錯する関係性が見えくいということである。それを見せないことによって「広く社会に受け入れられて」いるというあらかじめ用意された結論に誘導する、NHK的、また行政的枠組みというか、回路のようなものが透けて見え、そこに「大学」「美術館」が加担しているように見えるということだ。

 結論として「広く社会に受け入れられて」ということでも良いのだが、私が最も知りたいのは、20世紀初頭のドイツで「発見された」そうした「精神病患者」の絵にある、それ以前からのオリエンタリズムやプリミティブアートなどといった異文化の発見とも通底する、何か別の美の原則といったものを、せめてそこに至る学術的なベクトルの可能性を提示して欲しいということなのだ。

 それを今の日本の大学や美術館に求めるのは、無理なのだろうか。しかし、そのベクトルを持たぬ限り、「アウトサイダー・アート」であろうと「エイブル・アート」であろうと、「アール・ブリュット」であろうと、つまりは「広く社会に受け入れら」る=消費される対象にしかならない。それらの持つ豊かな可能性の水脈は、単なる画風や作法の差異として、(「なぜそうなのか」は決して問われない)あたりまえの消費コンテンツとして存在することになる。芸術は消費コンテンツではないし、心地よい娯楽でもない。その点においてこそ、アウトサイダー・アートであれ、ハイ・アートであれ、同列なのだ。

 いささか難しすぎる地点に入りすぎたようだ。だが、大学や美術館が大型スーパーマーケットと違うのは、そうした容易には消費できない、飲み下せないけれども確実に在る美の意味を、社会に向けて提起できる場であるということなのではないか。

 そのことを含めて、今回は図録が発行されないのが残念である。展覧会の性質や予算の事とかあるのだろうとは思うが、やはり研究報告として、記録・資料としての図録は「大学」「美術館」としては必須だと思う。

 

 結果としては案外楽しめた展覧会だったが、予定外に速く見終わってしまった。

 外はどうせまた雨、と思っていたら意外にも降っていない。銀座で見たい展覧会もないし、コロナウィルスの蔓延する都心もできれば歩きたくない。そこで、出がけに、ひょっとしたらと思っていた谷中界隈の石仏探訪を、帰りがてらすることにした。

 スマホの地図を拡大してみると、今さらながらこのあたりは寺が多い。そのくせ学生時代から付近の寺など、行ったことがない。谷中の墓地を抜けて日暮里駅まで歩いたことも十回あるかないか。むろんただ通過するだけ。奈良京都の古美術研究の対象となる歴史的寺院は別として、そこいらに存在している普通の寺社には全く興味がなかったのだ。つい先日までは。

 

 とりあえず日暮里駅方向を目指す。計画も資料も何もない。犬棒方式である。芸大から数分で大雄寺、ついで感應寺。共に日蓮宗のお寺で、この宗派の寺には題目塔があるぐらいで、石仏は少ないようだ。

 次の自性院(真言宗 別名?愛染寺)には入口のところに石仏群がある。多くは菩薩を刻んだ墓石だが、味わい深いものがある。そういえば、アルメニアのちょっと田舎の教会の片隅にも同様にハチュカル(墓標等に使われた装飾的な十字架を刻んだ石板)の残欠がいくつも集められていることがあった。似たような発想なのだろう。

 

   ↓ 自性院石仏群

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    ↓ アルメニアのとある教会の片隅にあったハチュカル群。使用済み(?)無縁仏(?)の墓石、墓標の扱いに苦慮するのは洋の東西を問わず、同様であるらしい。

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 少し奥に入ってみると、見慣れないものがある。上は如意輪観音半跏思惟像でよいと思うのだが、その乗っている無縁塔と刻まれたものが何なのかがわからない。

 

    ↓ 全体としては「無縁塔」という名の供養塔で良いと思うのだが、下部の輪転部について知りたい。どなたかご存知の方はご一報を。

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 似たようなものは昔どこかで見た記憶があり、一度調べたこともあるはずなのだが、忘れた。中に挟み込まれた六角形の地獄・畜生・修羅といった六道名が刻まれた回転する輪。これは初めてだ。マニ車、輪転蔵とは趣旨が違うようだし、さて?

 

    ↓ 輪転部をズーム。左、地獄・餓鬼。右、修羅・人道。

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 次いで訪れたのは大行寺。ここも小さなお寺。すぐに上部をマメヅタでおおわれた庚申塔がある。

 

    ↓ 青面金剛一面六手。刻字等はツタで見えず。

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 笠付角柱に彫られた青面金剛一面六手。足元には邪鬼、その下に三猿ではなく、一猿というのが珍しい。なお見ると左手に見慣れぬものを持っている。両手を合掌する子供?と見える「ショケラ」である。

 

    ↓ 拡大図。帷子を着て合掌する女性の髪の毛をつかんでぶら下げている。青面金剛の胸元には髑髏の首飾り。どう見ても女性を迫害しているようにしか見えないが、その本当の意味は…。

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 実は最近このショケラなるものに興味を抱き、いろいろ調べ、ついにはたまたまヤフオクで出ていた護符というのか、それが描かれている古い刷り物を入手したばかりなのだ。

 

  ↓ ヤフオクで落札した刷り物。惜しいことに寺社名が記されていない。左図は中:青面金剛、右:不動明王だが、左の座像が今ちょっとわからない。

右図はその拡大図。腰巻だけの女性が髪をつかんでぶら下げられている。

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 ショケラについてはその正体が判明したのは比較的最近のようで、私の持っているやや古い資料には以下のように記載されている。

 

 「青面金剛の手に蛇や女を提げさせるのは、本格的でこそないが、種々の付会の説に適合せしめるために、このような形に作ったものと見える。(中略)蛇が女に化けて庚申の夜に諸方の家をうかがい、また立聞きなどをしたのを、~」(武田久吉 『路傍の石仏』 昭和46年初版 昭和50年3版 第一法規

 「ところで、最後までわからないのは、裸の赤ン坊をつりさげていることと~」「赤ン坊をつりさげていること、これもわたしには学問的にもわからないし、はっきり自信をもって言えないですが、ともあれこの庚申の晩には女人を避くべし、つまり女と交わってはいけない。」若杉慧 (『石佛巡礼』 昭和35年初版 昭和36年四刷 現代教養文庫

 「~それにショウケラ(半裸の夫人像)の髪をつかんでぶら下げている。」(檀上重光 『野ざらしの芸術 ―文化財への手引き』 昭和41年 角川新書)

 

 裸の赤ん坊や半裸の夫人像と見られていたショケラの正体については、今現在も私自身が楽しみながら研究していることでもあり、(ネットで検索すれば一応はすぐわかることではあるし)ここでは明かさない。何にしても一度は見てみたいと思っていたそれに出会うことができて、ラッキーだった。

 

 ついで金嶺寺、宝蔵院を見るが、興味を引くものはない。

 大泉寺では三猿のみの庚申塔。「二世安泰?」と記されている。現世と来世の二世ともに安泰を願うという現実的な庶民の願い。

 

 ↓ 三猿のみの庚申塔。「二世安泰(?)」

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 長久院では司命と司録を従えた丸彫の閻魔像。造形的にはさほど興味も惹かれないが、「笑いえんま」と呼ばれているようで、そう見れば多少可愛くなくもない。いつの頃からか、閻魔は地蔵の化身という解釈がされるようになったことだし。ただし、その辺の日本仏教における教義の変遷というものには、ついていけないものを感じるのではあるが。

 享保11年というから1726年。300年前に諸国放浪の六十六部聖の光誉円心という人物が造立したとの由。それも少し味わい深い。 

 

   ↓ 長久院の閻魔。台東区有形文化財

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  長久院の閻魔。少し、可愛い、か?

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 瑞輪寺では庖丁塚なるものを見た。「鳥供養 庖丁塚」「日本全鳥調理師司処 日本全鳥割烹調理師連盟」とある。筆塚、箸塚、櫛塚など、モノの墓まで作る日本文化、日本人の心性。

 

 ↓ 庖丁塚

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 次の安産飯匙(しゃもじ)の祖師では玉垣に刻まれた「東京柳橋組合」「浅草三業会」などの文字に目を引かれた。場所柄もあるのだろう。三業とは「 料理屋・待合・芸者屋の三種の営業」のことで、今風に言えば接待を伴う夜の街のこと。日蓮上人が難産に苦しむ女性に飯匙に御本尊を描いて与え、安産に至らしめたということで、しゃもじから飲食業、三業関係の信仰を集めたということか。

 

 ↓ 他にも寿司屋だとか、飲食関係の寄進者がいっぱい。

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 ようやく谷中墓地に入る。ここを通ったことは過去何度もあるが、単なる通行路に過ぎなかった。墓地自体に興味を持ったことはない。かたわらに毒婦悪女として知られている高橋お伝の墓があった。毒婦悪女というのは魅力的な女と決まっている。ファムファタルである。

 

 ↓ 明治12年、「斬首となった最後の日本女性」高橋お伝の墓。ただし骨は遺骨は小塚原回向院にあるが、墓参すると三味線が上達すると言われ、今でも墓参する人がいるそうだ。

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 誘われたわけではないが、そこを機に、初めて少し墓域に入ってみる。露伴の小説で有名な天王寺五重塔の跡があった。広い霊園は予想と違って何だか雑然としている。きれいに規格が統一されたお行儀のよい最近の霊園とは違って、荒廃した公園のようだ。アジア的ゴシックロマン?墓石もいろいろな種類、規模があり、何か目から鱗が少し落ちたような気がする。掃苔趣味ということは知ってはいたが、谷中墓地ぐらいの規模だったら晴れた日の墓地散策も案外悪くないかなと思った。

 

 ↓ 谷中墓地の景。アジア的ゴシックロマン。

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 ↓ 参考:ウズベキスタンにあったユダヤ人墓地。乾燥地帯の個人墓(土葬)だから、雰囲気は違う。

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 日暮里駅近くには天王寺がある。一応というぐらいの心づもりで入ってみると、いきなり大きく立っていたのが學童守護地蔵。石ではなく、銅像のようだ。基礎の部分を見てギョッとした。制帽制服姿の子供たちの群像が浮彫されているのだが、表面の酸化被膜(錆)や汚れのせい、そして表現そのものによって、なんとも表現主義的というか、恐ろし気に見えたのである。私はてっきり、これは東京大空襲で犠牲になった子供たちへの慰霊碑に違いないと思った。帰宅後調べたところでは、昭和10年に「不慮の事故で亡くなった二人の息子を悼んで」建てられたそうで、時代状況とは関係ないことがわかった。

 

 ↓ 天王寺 學童守護地蔵

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 ↓ 同下部のレリーフ

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 もう一つ大きな釈迦如来銅像にはあまり興味を持てなかったが、別に一基の少々不思議な図容の小さな石仏を見出した。何となく見覚えがある。『野ざらしの歴史』(若杉慧 昭和41年 佼成出版社)に54.「龍佛塔」として紹介されているもの。著者は右の刻字を「薬師瑠璃光佛」と読んだが、今はとても読めない。とにかく類例がなく、詳しいことはわからないとのこと。むろん、私も見たことがない。帰宅後、同書図版と比較して見たが、当時(50年以上前)に比べても風化の度合いが進んでいる。参考のため、同図を揚げておく。

 

 ↓ 類例少なく、正体不明。刻字は読みがたい。

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 ↓ 参考:『野ざらしの歴史』より。下は般若心経らしいとのこと。上図と比較すると風化の度合いがわかる。

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 さてようやくこれで終わりかと出ようとした門の近くに、8基の庚申塔群があった。いささか疲れてはいたが、今日最後の見ものが好きな庚申塔だというのはうれしい。青面金剛が2基と三猿のみが5基、そして基礎に蓮華を浮き彫りにした、塔身は文字のみのものが1基。いずれもなかなか良い。中でも何だかふくれっ面をしているような顔のものが、印象的だった。その右下に持っているのは蛇だろう。

 

 ↓ 庚申塔群。

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 ↓ 青面金剛一面六手、三猿。なぜ、ふくれっ面?

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 かくて谷中石仏探訪は終了した。都心の寺社廻りをしたのは初めてである。だが石仏探訪のフィールドとしては、東京都心はその数、種類、質のどれをとっても宝庫なのだと、つい最近知った。さすが当時世界最大の都市、江戸。これからもまたあちこちに、ごく軽い気持ちで訪れて見てもいいなと思う。

 だがそれにしても、おそるべし谷中、台東区の寺社の数。この調子でいったらいったいどれぐらいの寺や神社が東京中にはあるのだろうと、気が遠くなりそうだ。そしてそれらを支え、必要とした人々とは、何なのだろうと思う。