艸砦庵だより

河村正之のページ 絵画・美術、本、山、旅、etc・・・

石仏探訪-25 「修那羅峠-2 諸神篇」(記・FB投稿 2021.9.13)

 ↓ 1. 「さあ、これが修那羅の石仏群です。ごゆっくりご覧ください。道中、お気をつけて」と見送られる。

 すぐ奥には不動明王如意輪観音、千手観音などの石仏群。右奥には人頭杖ほかの石仏群が見えている。それにしても良い猫たちだった。

f:id:sosaian:20220212135559j:plain

 

 

 修那羅の石造物には、その起源が修験道であったことから、神仏習合の色合いが強いのは当然である。だが一見して、そこには修験道神仏習合というにとどまらぬ、もっと異質な要素が含まれている。それを仮に民間信仰といっておいても良い。

 民間信仰の核にあるのは自然神・民俗神である。民俗神/民間信仰というのは、特定の局地的なコミュニティ内で共有されていた、仏教・神道の規範から外れた、あるいはそれ以前からの信仰であり、体系化されぬ習俗である。

 しかし修那羅の石仏群を見ていると、そうした伝統の根を持つ民間信仰の範疇にもおさまりきらぬものが多いことに気づく。つまり、それらはあまりにも個人的・個別的・特殊すぎ、コミュニティ内外での継承性・関連性が無さすぎるように思われるのだ。単に私が知らない、調べてみても出てこない、というだけではなさそうだ。

 

 結論として考えられるのは、庶民の願いに気安く対応してくれる修験者が、そのつど個々に必要な神仏を発明し与えたのではないかということである。

 『修那羅の石神仏』の大日如来の項(pp.255~256)で、明治から昭和初期にかけて修那羅に住み、行者として活動した宮下泰重なる人物が、「大日如来」、「大日神」、「腹神/開臓界大日神/明臓界大日神/法臓界大日神/香臓界大日神/胎臓界大日神」、「五臓界大日」、「五臓大日如来」などといった他では見ることのできない神仏を、連想や語呂合わせ、類推の連鎖によって作り出したものではないかという仮説を提示している。

 

 ↓ 2. 修那羅大天武

 修那羅の開祖、修那羅大天武(本名望月留次郎‐後、幸次郎と改名)は明治5年/1872年に没後、神として祀られた。人が神となって祀られるのは、大和朝廷と共に大陸よりもたらされた祖霊崇拝が神道の形をとるようになって以降のこと。

 本来偶像を持たなかった神道だが、外来宗教としての仏教への対抗上生み出された神像の多くは、男神聖徳太子風の衣装で手に笏を持つという姿か、公卿姿、女神であれば十二単姿で現されることが多い。武神系であれば中国風の武人姿。中国=道教由来の神像はこのような道服姿で表される。

 むろん肖像彫刻ではないが、何となく人となりが出ているような気がする。建立年は不明だが、まだ生前の修那羅大天武の風貌を覚えている時代の石工が作ったような気がする。

f:id:sosaian:20220212135813j:plain

 

 

 密教の中心教理の「金剛界」と対の「胎蔵界」から、「胎臓界」つまり「蔵→臓」への文字変換。そして「胎(はら-む)‐臓(はらわた)」から「腹(はら)」神への意味の飛躍。それが、必要に応じた、新しい神の「発明」ということである。

 それは修験者の「感得」と言えば、言えなくもない。役行者が吉野金峯山において、インドには存在しない蔵王権現を感得(創出)し、修験道の基礎を築いて以来の伝統なのか。その伝統を受け継いで、修那羅で生み出され続けた謎の石神仏群。

 その結果、修那羅の石仏群は、意味、出自としては以下のグループに分類できる。取り上げたものは、前回と今回画像を掲載したもので、全体のほんの一部である。

 

①仏教由来のもの

 地蔵、勝軍地蔵?/馬鳴観音?、大日如来聖観音、千手観音、子育観音、馬頭観音、十王?、人頭杖(すべて前回掲載)。

神道由来のもの

 12‐八幡神。9‐猿田彦道祖神?が庚申塔でないとすればこの範疇に入る。

神仏習合のもの

 13‐蔵王権現、14‐摩利支天、天狗類(画像は掲載せず)。

民間信仰系のもの

 11‐神農、15‐猫神+鬼神。16‐人面獣身像(コンコウ様/稲荷神?)。9‐猿田彦庚申塔?が道祖神でないとすればこの範疇に入る。

⑤修那羅だけで 修那羅大天武や後継(の)宮下泰重によって創出されたもの

 3‐大切神 4‐大銑皇神・大切皇神 7‐錢謹金神 17‐一粒万倍神

⑥信者や近年のファン(?)によって独自に創案されたもの

⑦上記の分類の内、④⑤のいずれかと思われるが、判断のつかないもの

 8‐宇古津神

 

 私は、こうした新たな神仏の発明が必ずしも悪いとか、間違っているとは、思わない。宗教や祈りというものは、本質的にはそういうものなのではないかと思うからだ。

 

 ともあれ、思いがけず、修那羅安宮神社の石仏群を見ることができた。おおいに堪能した。見損なったものは、いくつもある。桑の葉を持った蚕神。「木妻様」なる男性には非公開の木祠の中、等々。だが初見としては充分だ。

 

 ↓ 3. 大切神  

 「大切神」とされているが、中の字は「功」とは読めないか。まあ、「大功神」としても、正体は不明のままだが。

 第一印象としては、鍬をかついだ、ちょっと口の端をゆがめた、偏屈な地元のおっさんに見え、被り物から、神=農業神かと思った。だが、槍(銛か鍬のようにも見えるが)を持つことから、次の「大銑皇神・大切皇神」碑と合わせて、武神とされているようだ。いずれにしても正体は不明。

 妙に繊細で小さな手足が面白い。なんだか妙に好きな像。

f:id:sosaian:20220212140048j:plain

 

 

 ↓ 4. 大銑皇神・大切皇神

 前の「大切神」はこの左の「大切皇神」と同一なのだろう。「大銑皇神」も不明。「痛みや恨みを切ってくれる神」という記述もあったが、さて。いずれにしても、同じ石工の作と思われる。

 鎧兜姿の、兄弟のようによく似た顔の二人の武人。刀と薙刀を持ち、心細げで、真剣な面持ちの二人は、拝まれる対象であるよりも、むしろ神の加護を願っている当事者たちのように見える。

f:id:sosaian:20220212140131j:plain

 

 

 ↓ 5. 甲冑の武人

 鎧兜の武人つながり。同じ武人でも、こちらはよりワイルドで、ゴツい作風で、強そうだ。今にも刀を抜き放ちそう。

f:id:sosaian:20220212140323j:plain

 

 

 ↓ 6. 裸神(「酒泉童子」)

 餅つき、水汲みなど、いくつか解釈できる図柄だが、「酒泉童子」という名でパンフレットなどに掲載されている。私はそういう名の民俗神がいるのかと思ってしまった。だが「酒泉童子」というのは、関係者?の勝手なネーミング。気持ちはわからないでもないが、誤解を招きかねない、印象に基づくネーミングは控えるべきだろう。

f:id:sosaian:20220212140401j:plain

 

 

 

 

 

 

 ↓ 7 錢謹金神 (NET画像)

 これも有名な像の一つ。自分でも撮影はしたのだが、不鮮明で、やむなく本画像だけはNETから鮮明なものを借用した。

 穴の開いた四角と円形の銭を持つ。「金神」と記されているが、本来の金神とは道教系(?)の方位神の一つで、凶神・祟り神とされたり、福神であったり、なんだかややこしく、あまり興味を持てない神。「艮(うしとら)の金神」が有名。

 ここで挙げられている「金神」はずばり「お金の神様」である。修那羅にはこの「お金の神様=金神」タイプの塔が多い。「催促金神」と記されたものが3体、「通用金神」が2体あるということだから、いかに庶民にとってお金との関係が切実かがうかがわれる。「錢謹金神」は「銭を謹む=倹約する」と読むべきだろう。

 図像としては大日如来あたりに範をとっているようだが、庶民にとっては大日の深遠な哲理よりも、日々のお金をめぐる苦労の方が切実だということだろう。

f:id:sosaian:20220212140644j:plain

 

 ↓ 8. 宇古津神

 文久3年/1863年の年記がある。まったく聞いたことがない神だが、「宮司の伝承では宇古津神とは死者の霊と関係ある神であろう」との事。髪型が修那羅スタイル。

 何となくチャラい微笑みだが、悪くない。こんな若者、どこにでもいそうだ。

f:id:sosaian:20220212140712j:plain

 

 

 ↓ 9. 猿田彦道祖神庚申塔

 たすき掛けで、尻っ端折りの二本差し。血走ったドングリ眼の髭面男、怒髪天を突き、喧嘩(でいり)の場に馳せ参じる侠客、国定忠治としか見えない。左右の手に持っているものは何だろうか。十手とお縄?ともあれ、なかなか気合の入った像である。

 猿田彦道祖神道祖神信仰自体は多種多様な出自の混在する複雑な神(群)であるが、その正体を猿田彦だと言い出したのは、江戸後期の吉田神道(あたり)から。天孫降臨の際に、ニニギノミコトを道案内したという古事記の記述が根拠らしい。だいぶ無理があるとは思うが、道祖神猿田彦の塔が作られたのはほとんど廃仏毀釈の明治以降。

 また、猿田彦であると言われてみれば、下にあるのは三猿に見えてくる。三猿となれば、今度は庚申塔の可能性がある。ふつう庚申塔青面金剛立像が多いが、猿田彦のそれもあるようだ。いずれにしても、刻字がなく、講によらぬ個人造立のものなので、主旨はわからない。

f:id:sosaian:20220212140738j:plain

 

 

 ↓ 10. 風神? 鬼?

 「髪が後ろになびいている」から風神というのは、ちょっと説得力に欠ける。風袋らしきものも見えないようだ。正体は不明だが、顔は力のこもった良い表情。こんな顔のやつ、確かにいる。ヒザが妙に強調されているところがまたおかしいが、けっこう好きな像である。

 後記:『日本石仏図典』には、「足体大神」として、神経痛かリューマチのために膝に瘤のできた痛みに顔をゆがめる像としている。「足痛い」が「足体」、髪の長いのが「大神」との解釈。安政4/1857年。

f:id:sosaian:20220212140810j:plain

 

 

 ↓ 11. 神農

 中国古代神話の神(三皇五帝の一人)、時に炎帝神農。医療と農業の神とされる。また、香具師・テキ(的)屋 業界、そこから派生した博徒(≒ヤクザ)の世界では守護神・守り本尊とされ、任侠道≒神農道とされている。

 石像を見るのは初めてだが、道教修験道の流れでは、造られてはいるのだろう。造形的にもしっかりした優れた像である。

f:id:sosaian:20220212141436j:plain

 

 ↓ 12. 八幡神

 石仏群の一画の水蝕崖に置かれている。シチュエーションが良い。

 左下に置かれている八幡神は九州宇佐発祥の日本オリジナルの神。皇祖神ともされるが、武神の要素が一般的。八幡神社八幡宮宇佐神宮を起源とするが、たいへんポピュラーな神社で、全国に44.000社あるとのこと。 近くで見ると帯刀した公家(?)姿で、何やらニンマリ微笑んでいた。

f:id:sosaian:20220212141508j:plain



 ↓ 13. 蔵王権現

 神仏習合とはいえ、「権現」だから「神」ではなく前回投稿の「諸仏篇」の方に入れるべきかもしれないが、バランスの事もあり「諸神篇」に入れた。

 役行者が吉野金峯山で感得創出した修験道の本尊。したがってインドに起源を持たない日本オリジナルの仏。この像はちょいと太り気味だが、丁寧に造られている。あの修那羅的ツンツンした形が火炎光背のようにある。

f:id:sosaian:20220212141538j:plain

 

 

 ↓ 14. 摩利支天

 摩利支天という名を知ったのは、南アルプス甲斐駒ヶ岳山頂隣の一支峰の名として。その頃はなんとなく不思議な山名だなと思った。支峰とはいえ、素晴らしい山容である。まだ登ったことがなく、一度は登ってみたいが、さて…。

 私はこの神というか仏も、何となく日本オリジナルのように思っていたが、ちゃんとインド起源だった。しかも「陽炎(かげろう)を神格化した」のは良いとしても、「女神!」だというのには驚いた。そんなことはどこかで忘れ去られたのだろう。とても女神には見えない。武士の間で信仰されたというが、彼らはそのことを知っていたのだろうか。

f:id:sosaian:20220212141600j:plain



 ↓ 15. 猫神+鬼神

 左右二体の猫神と鬼神。もとから三体セットで置かれたのか、後に集められたのか不明だが、これはこれで良いと思う。養蚕をしていた地方では、大敵のネズミを退治してくれるということから猫が神として祀られたところもある。この二体の猫の表情も、猫好きとしては納得できるものである。フィギュアのような裸の鬼神の意味等はわからない。

f:id:sosaian:20220212141628j:plain

 

 

 ↓ 16. 人面獣身像(コンコウ様/稲荷神?)

 上部に三文字が刻まれているが、最初と最後が異体字で「(木に覚)‐楿‐(木に凡

/あるいは神または様)」とあり、読み方がわからない。「人面獣身像」と表記されることが多いが、一説には「コンコウ様」と呼ばれ、いわゆる狐憑きに効果があるとのことだ。「コンコウ様」を調べると、稲荷神信仰の一部にそういうものがあるらしい。他では全く見たことも聞いたこともない神‐像。絵馬型の形からしても、一種の精神病である「狐憑き」になった親族の平癒を祈願して奉納したものか。

f:id:sosaian:20220212141709j:plain



 ↓ 17. 一粒万倍神

 文字塔にも見ようによってはいろいろ面白いものがあるが、一つだけ紹介する。「一粒万倍神」。祈願の具体的な内容はわからないが、グリコの「一粒300メートル」でもあるまいし、堂々とした、ずいぶん虫の良い願とも思うが、これが庶民の願望ということか。いったいどんな姿の神を想像したのだろう。

f:id:sosaian:20220212141736j:plain



 ↓ 18. 姉妹像・母子像とされる。

 姉(母)が杖(錫杖ではない)を持ち、妹(娘)がおにぎりのような宝珠を持っていることから、子育地蔵との見方もあるが、根は同じであってもさすがに地蔵とするには無理がある。

 他にも母子像、父子像とされる二体像がいくつかあるが、中でもこの手をつないだ像は、少しほほえんだ表情がなんともやさしいく、ほのぼのとした気持ちになる。祈願の内容はわからないが、穏やかな余裕を感じる。

f:id:sosaian:20220212141800j:plain



 ↓ 19. 社殿内奉納物

 社殿の一画には木像や石造、陶器製、金属製の奉納された神仏類が雑然と集められているのが、ガラス戸超しに見えた。面白い物、由緒のありそうなものが多く、その一部を紹介する。

 かつてはどういう状態であったのか不明だが、盗まれて、また返されたりしたものもあり、木造品としての保存対策からも、もう少し良い保存環境が望ましいのだが。

 左の馬頭観音は石造。手前の尻っ端折りの奴のような木像は、先に紹介した国定忠治風の猿田彦に少し似ている。右の太った女神像(山姥?)も気になる。

f:id:sosaian:20220212141825j:plain



 ↓ 20. これもちょっと面白かったので、紹介しておく。お百度参りの際に、一回(?)ごとに、棒に挿してある鉄片をスライドして、回数を数えるためのものではないかと思う。そのために小石を備えてあるのはよく見かけるが、こうした形式のものは初めて見た。いい味だ。

f:id:sosaian:20220212141845j:plain

 

 

 次の本来の目的地、豊科近代美術館に向かって山の中の143号線を快適に走る。里に降りて、途中の二ヶ所の石仏群を見た。そこにあったのは、修那羅の異次元神仏とは違った、儀軌にのっとった、ほっとするような像。スタンダードであるということの安心感が心地よい。

 

 ↓ 21. 修那羅を後にして、豊科近代美術館に向かう途中の会吉集落の路傍で見たもの。

 左、男女(神)双体道祖神。右、馬頭観音。スタンダードなもので、修那羅でトンデモな神仏をさんざん見てきた目には、実に安心して見られる。風化具合も、ちょうど目にやさしい。

f:id:sosaian:20220212142021j:plain

 

 

 その内の一つは、道路工事のため、予定外の道を走ったおかげで、出会った中川地区の「興亜記念十王堂」。中をのぞくと完揃いの十王一族が整然と並んでいる。同時に入口上の「興亜記念」というのが気になる。興亜と言えば、満州(侵略)が連想される。満州事変以降、満州内蒙古等に「満蒙開拓団」として移住したのは長野県出身者が最も多く、敗戦によって悲惨な目を見た。その背景には信州の自由画教育の弾圧などとの関連もあるのだが、ここではおく。「興亜記念」というのは、どうもそうしたことと関連があるようなのだが、今のところそれ以上はわからない。

 

 ↓ 22. 中川 興亜記念十王堂

 入口上の「興亜記念」というのが気になる。

 外にもいくつかの石仏があったが、中をのぞくと、上段に閻魔の本地仏の地蔵を中心とした十王、下段に左から奪衣婆、二体不明(おそらく後から加えた別系統のもの)、司命(首欠)・司禄、人頭杖、業の秤(上に浄玻璃の鏡が乗っており、天秤棒の右には首が一つぶら下がっている)と、一揃いそろっている。鍵のかかった薄暗い堂内なので、良く見えなかったのは残念だが、この状態のものを見たのは初めてで、うれしかった。

f:id:sosaian:20220212142116j:plain

 

 今回学んだこと。それは儀軌=規範に則らぬこと。それを「自由」としてであれ、「反発」や「発明」としてであれ、要するにそうしたことが表現の根底にあるべきだということをあらためて思ったということだ。そしてまた、「表現」に似て異なる「表出」ということに過度に寄りかからぬこと、である。自戒をこめて、そう思う。

 今回のきっかけとなった豊科近代美術館の「シンビズム 4」については、思うこともいろいろあったが、それはまた別の場で述べることがあるかもしれない。

(記・FB投稿 2021.9.13)