艸砦庵だより

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石仏探訪-24 「修那羅峠-1 諸仏篇」(記・FB投稿 2021.9.13)

 信州石仏探訪二日目。小諸、上田をぬけて、143号線の途中で修那羅峠へ寄り道。南参道を歩いて20分ほどで、安宮神社、つまり修那羅の石仏群である。

 なぜか「オートバイ神社」という看板のある神社は、風雅に寂びた、なんとも言えぬ良い感じ。二匹の猫が出迎えてくれて、以後、しばらく道案内してくれた。

 

 ↓ 1. 安宮神社の拝殿前で。

 いきなり2匹の猫があらわれ、以後道案内をしてくれる(途中まで)。見終わって戻ってくると、また迎えてくれる。

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 ↓ 2. 同行のS夫妻。社殿右の低い鳥居の下をくぐり抜ける。

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 安宮神社は寛政7年/1795年に、今の新潟県妙高市に生まれた修那羅大天武(本名望月留次郎‐後、幸次郎と改名、明治5年/1872年没)という修験者が、万延元年頃に創設し、明治36年に今の修那羅山安宮神社の名になった。だからそれほど古いものではない。

 明治元年修験道廃止令にもかかわらず、神仏習合民間信仰の濃い色合いを今なお残している特異な場(トポス)である。

 その特異さは、単に神仏習合ということだけに拠るものではない。また「民間信仰の縮図」という言葉だけでもとらえきれない、不思議な、祈りと願望と欲望のカオス、他に例を見ない「とんでもワールド」なのである。仏像とも神像とも判別できぬ像が立ち並び、聞いたことのない、読めない神仏の名前が記されている。同行のSなどは「カワイイ~!!」を連発していたが、確かにその魅力には独特の、強烈なものがある。

 石仏の総数700から800体と言われるが、像塔、文字塔は共に230体前後。石祠が100基余りで、後は奉納された自然石など。別に木製や陶製のものが神社内に保管されている。

 

 ↓ 3 「ここがスタートだよ」。

 猫に道を教えられる。神社裏手にぐるりと安置されている石仏群を、順路に従って見て回る。

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 ↓ 4. こうした感じで安置されていたりする。

 左は如来、中二つは地蔵。右はあるいは地湧の地蔵かとも思うが、よくわからない。いずれにしても、これらは比較的新しいものではないかと思う。信仰のことはさておいて、造形的印象としては、私はちょっと評価できない。以下、紹介するのは私が評価でき、面白いと思えるもの。

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 限られた時間ですべてを見たわけではないが、おおよそのものは見、気になるもの、面白いものは撮影した。

 必ずしもすべてが良いと言えるものではない。講によらぬ個人の造立が多く、また専門の石工以外の者(≒素人)の手になるものが多いことからか、儀軌を無視した造形の素朴さ稚拙さ、独自すぎる解釈・発明が、結局は下卑た造形となってしまったものもある。だがそれでも全体としては、「自由奔放な」と形容したい、のびのびとした(?)独自性として結実していると言わざるをえない。「農民芸術」「プリミティブアート」「ナイーブアート≒素朴派」「下手の美」、それらの全てと通底し、なお固有の独自性をあっけらかんと輝かせている。このような不思議な石神仏がまとまって存在する場所は、全国ほかにはない。

 

 今回はその中で仏教系の像塔を、次回は神道民間信仰系のものを紹介する。神仏習合のものや儀軌を無視した独自の造形が多いが、一応の区別である。記述や名称については『修那羅の石神仏 庶民信仰の奇蹟』(金子万平 1980年 銀河書房)を参考にした。

 

 

 

 ↓ 5. 大日如来?(金神?風神?とした例もある) 

 正確な神仏種は不明。造立年も不明。全体に造立年が記されたものは少ない。なお、ここでの「金神」とは従来の方位に関わる神とは別の意味合いのようだが、それについては次の投稿でふれる。

 典型的な修那羅タイプの像。同じ作者(石工?)のものと思われるよく似た像が他にいくつかある。つい「モヒカン軍手大日」などと茶化したくなるが、以後なるべく自重する。修那羅の石仏にはそうした、悪意はないのだろうが、個人センスでユーモラスに命名した安易な名前(「ピカソ地蔵」とか「酒泉童子」など)が一部で定着流通している現実もあり、ついそうした呼び名が引き起こす先入観が誤解を生みだしてしまう可能性があるからだ。

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 ↓ 6. 地蔵?

 自重すると言いながら、これもつい「スーパーサイヤ地蔵」などと言いたくなる。頭部のツンツン逆立った髪(?)は「修那羅髪」とでも言うべき、ここ特有の髪型。他にいくつも例がある。頭部の生え際の線は良いとして、そもそも地蔵でありながら逆立つ「髪」があるという不可解さ。正確な正体は不明だが、要するに修那羅ワールドなのである。彫りの鋭いシャープな造形ではある。

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 ↓ 7. 地蔵/子育地蔵? 

 最初に見た時、生首をぶら下げた薄ら笑いの山姥かと思った。資料で子育地蔵?とある。下部が欠損しているために、手前の子供の首から下が失われ、そう見えたのだ。たしかに宝珠と錫杖も持っている。なお、「オニノカクラン」と刻まれているようだが(私自身は未確認)、どういうことなのだろうか。

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 ↓ 8. 地蔵/子安地蔵

 子安地蔵と子育地蔵はほぼ同じ。はっきり言ってかなり稚拙な造形であり、私は「キモイ」の一歩手前であるように感じるが、ギリギリのところで「面白い」とも言える。

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 ↓ 9. 勝軍地蔵?/馬鳴観音?

 比較的儀軌に忠実(武人姿の騎馬像)な勝軍地蔵である、と思っていたら馬鳴観音との説もあった。馬鳴観音は養蚕の守り神とされ、時に馬頭観音と混同されることもあるそうだが、ここにあっても不思議ではない。専門石工の丁寧な仕事だが、勝軍地蔵も馬鳴観音も、私は見るのは初めてで、どちらとも判断がつかない。共に石仏としては珍しい部類。

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 ↓ 10. 子育観音 

 子安観音、慈母観音、持児観音とも呼ばれる民間信仰=子安信仰系のもの。子安信仰から生まれたものには、他に子育地蔵や鬼子母神、一部の如意輪観音などがあるが、いずれも正式な経典には出ていないらしい。こうした新しいネーミングによる観音や地蔵は現在でも増え続けている。

 資料には「裸像」とあったが、特にそうも見えないが。世界中にある地母神と共通する造形性を感じる。素朴でおおらかで、好ましい。子は宝珠を抱いているようにも見える。

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 ↓ 11. 聖観音

 未敷蓮華を持ち、なにやら微笑を浮かべている。それほど妙な感じはしないが、個人的には西アジアイスラム圏の堂々たるお母さんといった感じがする。まあかつてはその辺りまで仏教は広まっていたし、観音の服装は当時のインドの一般人の服装が元なのだから、それはそれで無理のない連想かもしれない。

 後ろには聞いたこともない「拝土津光神」の文字塔や、剣と鍵を持った女神像?が見えている。

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 ↓ 12. 聖観音

 これも聖観音とのことだが、ちょっと異国的な面白い図像で「エッヘン!観音」とか「ピエロ観音」とでも言いたくなる、好きな像の一つ。右手に未敷蓮華の痕跡がかすかに残っているようにも見えるが違うかもしれない。体にまとわりつく帯状のものは天衣と呼ばれるものの一部。

 ほぼ同じ図像で、もう少し状態の良いものが資料には出ていたが、現地では見つけられなかった。見落としたのか、失われたのか。

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 ↓ 13. 千手観音 

 これは極めつけの「修那羅的石仏」。見ての通りで、もはや何も言うことはない。解釈は自由なのだ!脱帽。

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 ↓ 14. 千手観音

 橅(山毛欅/ブナ)の巨木の幹の洞(うろ)に封じこめられた千手観音。「ブナ観音」とか「樹胎仏」とか言われる。

 こうした木の洞に仏像を納め、木の成長と共に次第に巻き込まれ、封じ込まれるという趣向(?)は時おり見る。どういう意味があるのかは不明。現場ではちょっと見辛い位置にあるが、がんばって覗き込むと、千手など素朴だが、丁寧な仕事ぶり。

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 ↓ 15. 十王?

十王あるいは鬼、「ヤットコを持つ鬼神?」とされている。地獄で嘘つきの舌を引っこ抜く獄卒といったところ。服装は十王っぽいが、十王自身がそういうことをするのだろうか。角があるように見える。

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 ↓ 16. 人頭杖

資料には「獄門の首」とすごい名前で出ていた。その時点で著者は人頭杖という十王信仰の一アイテムをご存じなかったようだ。閻魔王を象徴し、人の罪業の軽重を判定するというもの。よく見ると薄笑いを浮かべた、案外リアルな表情をしている。

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 ↓ 17. これまで紹介した修那羅の石仏群を見て、2014年にラオスビエンチャンで見たワット・シェンクアン(通称ブッダ・パーク)を思い出した。信仰心の低下を嘆いたあるまじめな金持ち(宗教家?芸術家?)が、人々の信仰心を高揚させるために1958年に造ったというブッダ・パークだが、世界中から訪れる観光客には一種の「とんでもワールド」として認識されている。私も大いに楽しんだ一人。

 共通するのは、信仰に対するある種のまじめさと、造形等における素朴さと稚拙さ、その落差がもたらした、説明抜きでは(説明されても?)理解の難しい、その図像性、そして結果としての脱力的不思議感(?)。にもかかわらず輝いている、その存在感、といったところか。

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 ↓ 18. 同上。ラオスの「ブッダ」・パークだからすべて上座部仏教南伝仏教小乗仏教)のそれらであるはずだと思っていたが、どうやら創設者が仏教やヒンドゥー教などを独自に融合させたものらしい。ここにも「神仏習合」があった。いや、ヒンドゥーと仏教だから「ヒン仏習合」か。「ヒン仏習合」は密教成立の段階ですでに起きているし、まあ、ヒンドゥーのそれと仏教のこれとの違いの私の認識も、正直言ってあやしいものではあるが。

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 ↓ 19. 大日如来

 石仏群の一画が軟質砂岩のちょっとした崖になっており、そこに安置されている大日如来(らしい)。まわりの崖と同時進行で風化というか、水による溶解(水蝕)が進み、いまや消失寸前(ちょっとキクラデスの面影もある)。溶解成就仏と言いたい。

 石に刻むということには、石というものの永続性のイメージが前提としてあるはずだが、実際には石質によっては風化、剥落等によって、その寿命は案外短い。だが、「諸行無常」と言うごとく、仏教とは滅びの教えでもある。このような消滅しつつある像を見ると、そのことを体現しているようにも思われる。石仏は(祈りも造形も)、風化し、破損し、消滅するからこそ良いのだ(滅びの美)、というのは私のオリジナルな考えではないが、一面の真理ではあろうと思う。それがいかにも日本人的情緒にすぎないにしても。

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 ↓ 20. 『修那羅の石神仏 庶民信仰の奇蹟』(金子万平 1980年 銀河書房)

 帰宅後に参考資料として急きょ購入した一冊。修那羅の全石造物を調査してある。著者は地元(上田市)出身だけあって、郷土史的な観点もおさえている。それをふまえた解説考察には、一部首肯しかねる点も見受けられるが、全体としては一応充実している。私はこの書によって、ようやく修那羅の石仏の全貌を、ある程度把握・理解することができた。

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(記・FB投稿 2021.9.13)