艸砦庵だより

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3 石仏探訪-45 「信州探訪その3 少し渋めの双体道祖神とその発生」

 信州の石仏と言えば、道祖神、中でも宮廷衣装や神官装束姿の男女の神像が仲睦まじく寄り添ったタイプの双体道祖神が有名だ。だが、有名なものは見たがらないという私の趣味(悪癖)もあり、今回まわった諏訪市茅野市ではほとんど見かけなかった。同行のCちゃんが配慮してくれたようだ。その結果、今回は渋いものが多い。学術的内容(?)は濃いが、一般受けはしなさそう。

 道祖神という古くからの、複雑な内容を含む石塔類の難しさについては、これまでも記してきた。だがある見方からすると、信州の双体道祖神は、多様な民間信仰とその現れとしての石仏類の中でも、ユニークな、独自の進化を遂げた形態だと言えるのではないかとも思う。

 今回見た道祖神の数はそう多くはない。有名なのは1点だけ(「接吻道祖神」)で、他はやや古い時代(?)の素朴な形態の、状態のあまり良くないものが多かった。

 状態が良くないというのは、全国的にみられる風習としての、塞ノ神祭・どんど焼きといった祭の際に、子どもたちによって縄をかけて部落中を引きずり回されたり、火中に投げ込まれたりして、欠けたり破損したりすることが多かったということが理由なのかもしれない。また、他の部落のものを盗んできたり、盗まれたりといった風習もあり、相当荒っぽく扱われるのが普通というか、そうした愛され方をしていたようである。

 そうした中で今回の収穫は、以前からの課題である、双体道祖神の発生における双体像の意味について2件ほどのヒントを得たことと、全く知らなかった2体の小型の双体像を見たことである。

 まあ、アマチュアの一好事家にすぎない私の直観と考察だから、たいして信用もできないが、そうしたことに思いを巡らすのは楽しい。

 

 

 ↓ 双体道祖神 茅野市米沢北大塩 接吻道祖神石仏群

 

 通称「接吻道祖神」と呼ばれるものはいくつかあるが、これもその一つ。他と比べて卑猥さという点ではまあセーフかもしれない。

ブランクーシの「接吻」を思わせなくもない素朴古拙な表現のように見えるが、男のむき出しになった脛や乱れた着物の裾を見ると、もう少し庶民的な卑猥さも見てとれる。言い換えれば性神信仰を内包しているということだ。

 なお、これを含めて以下に取り上げた道祖神は、すべて造立年等、詳細不明。

 

 

 ↓ 双体道祖神 茅野市 米沢北大塩 接吻道祖神石仏群

 

 接吻道祖神の右にあったもの。下部は一部埋没しており、風化剥落激しく、直立した(?)二体ということ以外、ほとんど像容がわからない。二つに折れており、相当手荒く扱われていたのだろうか。

 

 

 ↓ (参考)ネット上でひろった安曇野市穂高の彩色双体道祖神

 

 この左にやはり彩色された恵比須と大黒の像がある。右の年紀は安政(?)五年午年/1858年だから幕末のもの。当時から彩色されていたのだろうか。彩色されているということは今なお、「上手」部落(「村」)の信仰対象として生きているということだろう。

 私の趣味としては、こうしたタイプのものは、尊重はするが、あまり好まないので、結局見ずに済んだのは幸いだったかもしれない。むろん個人的な好みの問題である。

 

 

 ↓ 双体道祖神 茅野市豊平南大塩 心光寺

 

 だいぶ状態は悪いが、手前の二つは装束の雰囲気や手を取り合っている(?)らしい様子や、盃に酒を注ぐ様子(?)などが見て取れる。

 状態の悪さは前述の手荒い扱いによるものか、自然な風化剥落によるものかは不明。たぶん両方。基礎に「氏子中」とあるが、ある時期にこれら3体を一つの礎石にまとめたのだろうか。

 

 

 ↓ 双体道祖神 茅野市米沢北大 路傍石仏群

 

 路傍のいくつかの石仏類がまとめられた中にあった一つ。これも風化が激しいが、盃に酒を注いでいるポーズではないかと思われ、少しほほえましい。上部の窪みは、子供たちが叩いて遊んで窪ませた跡?

 

 

 ↓ 双体座像道祖神 諏訪市岡村町 阿夫利神社

 

 阿夫利神社の狭い境内には、大きな秋葉大権現庚申塔と共に、この双体道祖神があった。大岩を浅く小さく穿った中に、二体の座像(?)を掘り出している。座像の双体像は極めて少ないとのこと。

 周りの岩肌の状態からすると、座像の部分だけを削った(?)かのような、不自然な摩滅具合だ。廃仏毀釈時に破壊されたのか。これはこれで悪くはないにしても。

 

 

 ↓ 阿夫利神社の拝殿の内部

 

 相模の大山の阿夫利神社を勧請した神社だから、祭神は大山祇命。よく手入れされた、きれいな堂内。

 中には三つの本殿がある。中央は大山阿夫利神社、右は諏訪大社、左は不明。右二つには本社の御札が置かれているが、「道祖大神御守」はどこのものなのか。「道祖大神」とは大山祇命のことを表しているのか。大山阿夫利神社には行ったことがないからわからない。「道祖神大山祇命=山の神」なのか。聞いたことがあるような、ないような。気になる。

 さらに右の本殿内とその手前左の小さな双体像が気になる。また中央の本殿内に布で覆われているが、やはり双体像があるようにも思われる。いろいろと気になることが多い阿夫利神社の内部である。

 

 

 ↓ 右、諏訪大社本殿内の双体像。

 

 諏訪大社本殿内にある黒く煤けた木製(?)の双体像と、左に置かれた小型の握手する双体像。右の木製双体像は神棚に祀られる恵比寿大黒像などとの関連がうかがえるが、左の石造についてはとりあえず不明。

 だが、後掲の籃塔内双体像などと合わせて、田中英雄が「祠内仏は道祖神の原型か」(『東国里山の石神・石仏系譜』(2014年 青蛾書房 pp.203-225)に詳述し、また『諏訪の石仏』(1985年 諏訪教育会)で今井廣亀が「籃塔内におさめられる像が、すこし大形につくられ、外の塔が略されると双体地蔵ということになり、蓮弁光背(舟形光背)を背負って立つ像になる。」「寺や墓地や個人の蒐集品の中に、20㎝程度の地蔵像や道祖神かと思われるような単位または双立の像のあるのを不思議に思っていたが、それは籃塔から迷い出たものと気付く~」(pp.123-124)といった記述と関連するものだと思われる。

 すなわち双体道祖神の原型としての、籃塔(石祠型の墓標‐後述)祠内仏だったのではないか。

 

 

 ↓ 籃塔 茅野市米沢塩沢 塩沢寺墓地 

 

 籃塔というのは、石祠型(家型)の墓標の、この地方特有の言い方。一般には家形塔・屋形塔と言う。

 戦国末期、諏訪頼重の先室お大方様と侍女の墓という解説板が立っていた。天正10/1582年以後、ほどない時期のもの。1988年放映のNHK大河ドラマ武田信玄』がきっかけで正体がわかり、法要が営まれたとのこと。

 中をのぞくと双体像がある。籃塔自体は数多く残っているが、中に単体であれ双体であれ、像が残っているものは少ない。つまりそうしたものが、前述の「寺や墓地や個人の蒐集品の中に、20㎝程度の地蔵像や道祖神かと思われるような単位または双立の像のあるのを不思議に思っていたが、それは籃塔から迷い出たものと気付く~」に該当するのではないか。

 

 

 ↓ 石祠内双体像

 

 ややわかりにくいが、右が僧形の、左が髪を結い上げた、一続きに掘り出された像。女性なのに僧形なのは、一部にあった納棺前の湯灌の時に剃髪するという風習によるものか、または成仏を示すものであり、左の少し背の低い俗形の結い上げた髪は、侍女を示すのではないか。

 

 

 ↓ 双体像 茅野市豊平南大塩 心光寺

 

 境内の一画にあった墓標石仏。一つの基礎に2基、単体と双体の像塔がある。一般に双体像は両親の供養塔であることが多い。これは同一の基礎だから、家族の、例えば一人の子と両親を供養する墓塔ではないかと思われる。

 ただし、全国的に見れば、双体像=両親の供養塔とは限らない。例えば山形県では「地蔵尊を造立の当初から、二体一対にして祀る場合があり、向かい地蔵、迎え地蔵と呼ばれている」。また越後や佐渡では、ふたり地蔵とか同朋地蔵という。「~一人幼児をあの世に送るにしのびず、地蔵尊がつねに幼児の傍にあることを願った造形と思われ、通常は右側が背が高く、左側を小柄に造形している。」とか、「子供の供養塔には通称『いもこ地蔵』『双子地蔵』が造立された。(『越後・佐渡 石仏の里を歩く』)」等の記述もある。

 いずれにしても、写真のものは共に舟形光背なので、構造上、石祠に納められたものではない。

 以上、双体道祖神の原型として、墓標石祠内の双体像と、より(費用的にも)簡略化された形としての、もともと石祠内には納められなかった双体像の二系統がある。また、双体の意味は、両親を表す場合と、同伴者(?)としての地蔵との二体という場合がある。特に小型の石祠内双体像においては刻字スペースがなく、由来不明となるケースが多いということである。この両者が地域的時代的差異はともかく、双体道祖神の源流の一つだと考えられ、それに道祖神自体が古くから持っている性神信仰が、ある時期に習合したものであると考えられる。

 

 

 ↓ 上田市別所温泉 将軍塚 文字塔道祖神

 

 以上、今回は双体道祖神を中心にアップしたが、むろんシンプルな文字塔もある。これは堂々と屹立する自然石に「道祖神」とのみ彫られている。深かった彫りもいつしか風化が進み、判読しづらくなっている。私はこういうのを見ると、ホッとする。

 

 

 ↓ 東京都西多摩 某寺(特に名を秘す)

 

 余談になるが、信州の双体道祖神が有名になったことから、現代でも例えばこうした盃と徳利を持った祝言タイプの道祖神が作られ、各地の寺社に置かれることがある。

 そもそも道祖神に彫られているものは仏ではなく、神。また本来は、その意味から言っても、路傍や辻にあるべきもので、寺院の境内に置かれるべきものではない。現在古い道祖神が寺社に置かれているのは、過去の道路拡張等のやむをえない事情のために、一種のパブリックスペースとしての寺社が避難場所、移転設置場所を提供したに過ぎないのだ。

 その「夫婦和合」「子宝授かり」「縁結び」といった、歴史的経緯と切断された現生御利益的側面ばかりが目的化(?)され、あるいは単なるエクステリアとして、客寄せ(?)のために、何の歴史性も信仰母体も持たぬ現代の商品「かわいい道祖神」が寺社に置かれるというのは、やはり宗教的退廃だと思うのは、言い過ぎだろうか。

 ちなみにこの某寺は地域の文化への貢献など、良くやっている立派な寺院なのだが、同じ境内にどこだったか有名な阿弥陀三尊浮彫の石仏のレプリカ(?)も置かれている。これなどは説明でもないと、誤解を招く。なくもがなである。

 以上、素朴な信仰心とは別の次元の話である。

(FB投稿:2022.10.7)