艸砦庵だより

河村正之のページ 絵画・美術、本、山、旅、etc・・・

法事と山と美術館

 七月に法事で帰郷することになった。10年近く前に実家を手放し、近年は法事以外で故郷に帰ることもない。せっかくだからと、いつものように高校山岳部同期でここ何年かの旅と山の友、Kに連絡する。さっそく、近場の山登り、美術館、飲み会などがセッティングされる。ありがたいことである。

 

 

 7月21日

 夕方、新幹線で下松市の長姉宅へ。ついで神奈川から次姉も到着。夜、あれこれの話を交わしながら義兄と飲む。義兄は緑内障が進み、だいぶ不便になってきたとの由、痛ましいことである。

 

 

 7月22日

 時おりの梅雨末期特有の激しい雨の中、山口市徳地野谷(旧徳地町)という山あいにある徳祥寺に向かい、祖母の三十三回忌。といっても参会者は、長姉夫妻と次姉と88歳の叔母(祖母の末子)と私の五人だけ。あっさりしたものである。

 終わってしばし住職と話す。前から気になっていた本堂の荘厳具の一つが幢幡(どうばん)という名だということを初めて知った。そのうち私の作品に出てくるかもしれない。そういえば、来年は母の十三回忌だ。

 

 ↓ 幢幡 「飾られた竿柱に長方形の帛(はく)をたれ下げた仏堂に飾る旗の総称」とのこと

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 法事の後、車で20分ほど離れた、佐波川の岸辺に建つ川魚料理の「月鳴亭 多かはし」で精進落とし。90年前からやっている店とのこと。以前は対岸にあったそうだ。前回もここだったが、今回は前回不漁だったとかで食べられなかった鮎尽くしのフルコース。鮎の背ごし(輪切りにした刺身)は初めて食べた。

 

 ↓ 鮎尽くしの一部 右の容器の中身はウルカ(鮎の内蔵の塩辛)

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 ↓ 鮎尽くしの一部 その2 鮎の瀬越 まあ、ブツ切りです。

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 部屋の窓から見る佐波川の流れは、増水が著しい。

 実家近くにある墓に参ったのち、長姉宅に戻った。

 

 

 7月23日(火)

 9:55防府駅でKと合流。右田ヶ岳近くのスーパーで高校山岳部の後輩F、S、Wの三人と合流。元気なFとはつい先日も北海道の山に一緒に行ったばかりだが、S、Wとは約2年ぶり。それぞれなにがしかの身体の不調をかかえているらしいが、今回程度の山であれば問題ないとのこと。当時もう一人いた女子部員のMさんは、現在は膝の調子が悪く、山登りはできないとのことで、山登りは不参加。まあ、人生いろいろということだ。

 

 右田ヶ岳は標高こそ高くない(426m)ものの、山口県で最も広い防府平野の北に、山口盆地に抜ける勝坂峠を挟んで、西隣の西目山と並んで、堂々とそして優美に根を張った美しい姿の山である。平野部からでは、どこからでも見える。

 花崗岩の岩場や、それに彫られた摩崖仏などの見どころも多いにしても、かつては、しょせんたかが田舎の低山だという認識でしかなかったが、最近はかなり全国的にも知られるようになり、県外から登りに来る人も結構多いらしい。最近では山口県で最も登られている山だとのことには、少々驚いた。山の人気の推移、流行というのは確かにあるにしても。

 むろん私も昔から何度も登ったことはある。と言っても、それは親と一緒に正月のしめ飾り用の羊歯や柏餅に使うサルトリイバラの葉を採りに行ったり(生活圏としての里山)、ボーイスカウトの清掃登山であったり、あるいは悪友と気まぐれに登りに行ったりと、つまり正式(?)な「登山」と思って登ったことはなかった。少なくとも記録としては残していない。にもかかわらず、私の好きな山であり続け、またいつか再登したいと思っているうちに、何十年か経ってしまったのだ。

 

 私の希望で勝坂コースから登ることになり、車一台を右田小学校脇の駐車場にデポ。もう一台で勝坂登山口まで行き、その近くに車を止める。

 かつて登ったのはすべて天徳寺から。というよりも、当時はそれしかルートがなかったように思う。いや、勝坂からのルートはあったような記憶もうっすらあるが、定かではない。いずれにしても情報が少なかったのである。帰宅後の事後学習で調べて見ると、あるは、あるは。天徳寺コース、勝坂コースのほかにも塚原コース、塔之岡コース、片山コース等々ある、ある。おそれいった。参考までにその課程でみつけた「かずの里山ハイク」(https://blog.goo.ne.jp/kazuyama_001/e/eec363fc5734b1951395df5a2354f1de)の画像を上げさせていただく。

 

 ↓ 参考図

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 しかし、人里近くのこの標高でこれだけのバリエーションがあるということは、つまりそれだけこの右田ヶ岳の魅力が評価され、愛されているということなのだろう。

 願わくば、人気のあまり、オーバーユースとならぬよう、そして風のうわさで聞いた「山頂カフェ」などといった、下界の感覚を持ち込んだ一部の人たちの占有的行為のなからんことを願うばかりである。山には山の作法があるのだ。

 

 話を戻す。

 国道わきの登山道に入る。すぐに江戸末期に築かれた勝坂砲台跡関連と思しき石組がいくつか出てくる。

 

 ↓ 勝坂砲台関連の石積み

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 そもそも右田ヶ岳山頂には、鎌倉末期以来の右田ヶ岳城の石組みが残っているのだから、古くから政治や軍事と縁の深い、言ってみれば人臭い山だったのだ。

 風化花崗岩質のよく整備された路はよく踏まれており登りやすい。前日までの雨の影響もほとんどない。しかし、梅雨明け以前の薄暗い樹林帯は、サウナのように暑い。まるで熱帯雨林の登山だ。

 しばらく登ると路は「尾根コース」と「本コース」に分かれる。どちらも未知なので、とりあえずといった感じで「本コース」に歩を進める。急に傾斜が増し、岩場となる。ロープは設置されているが、あえて使うほどのこともない。

 

 ↓ 岩場 その1 撮影:K

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 ↓ 岩場 その2

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 ↓ 岩場 その3

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 左前方にはクライミングの対象となっている「右田ヶ岳の岩場」の全景が見える。なかなかのものである。

 

 ↓ 右田ヶ岳の岩場全景

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 そこから一投足でちょっとしたコルに出て、一休み。何気なくすぐ傍らの岩場を回り込んでみると、そこは先ほど見えていた「右田ヶ岳の岩場」のてっぺんであり、素晴らしい絶景ポイントとなっていた。

 

 ↓ 防府ヨセミテ 二つのピナクルの間の奥の小さな三角形は楞厳寺山

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 ↓ 奥:西目山 左奥に瀬戸内海が見える 撮影:K

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 眼前には西目山がそれなりの存在感でそびえ、さらにその先に楞厳寺山ほかの佐波川右岸の山々が海まで続いている。素晴らしい景観をしばし楽しむ。怪しかった天気もすっかり回復し、気分が良い。

 そこから西の峰をへて、小さな峠で天徳寺コースを合わせれば、一登りで頂上だった。

 いつもは多くの人が来ていて、例の「山頂カフェ」をやっているそうだが、前日の雨のせいか、今日は一人先行者がいただけだったのは幸運だった。うまく岩の配置された気持ちの良い山頂で、360度の展望を堪能しつつ、楽しいひと時を過ごした。

 

 ↓ 至福の一服

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 ↓ あいかわらず豪華な昼食

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 さて、これは言わずもがなを承知で、あえて以下を書く。

 山頂の私設の国旗掲揚柱と、それに結びつけられた国旗の入っている袋の存在はいただけない。

 幸い当日は国旗を掲揚する人が登ってきていなかったから、それを見なくて済んだが、普段はほぼ毎日山頂に国旗を掲揚するとのこと。祝祭日ならばそこに公的意義を認めることも可能だが、なぜ祝祭日以外の日にも山頂に一個人が(もしくは一団体が)国旗を掲揚するための施設を、勝手に設置させておいて良いのか。国旗が掲揚されていれば、それを降ろせとは誰しも言いにくい。差しさわりが生じる。言うまでもなく国旗は政治的存在であり、登山者はプライベートな存在であり、山は基本的に公共の場(アジール)である。ゆえに祝祭日以外の日の山頂での国旗掲揚は、コモンセンスの欠如した行為であると言わざるをえない。私はこれまで、国旗が掲揚されている山頂を見たことはない。人々の生活圏内の里山ならいざ知らず、登山の対象とされている山で国旗掲揚のための柱が設置されているのも見たことがない。

 

 ↓ 左に見えるのが問題の国旗掲揚柱とそれに結びつけられた国旗の入った袋

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 「国旗及び国歌に関する法律」が1999年に制定されて以来、その法案作成者ですら想定しなかった、その後の教育現場での数多くの教員処分という悲惨な現実と通底する感覚なのである。「悪気はない」、むしろ「良いことをしているつもり」の無惨なのだ。祝祭日の掲揚はある程度やむをえないかもしれないし、プライベートな空間での掲揚であれば問題はない。私は私の好きな、天然自然の山に、日の丸がはためくのを見たくないのである。

 もう一つ付け加えておけば、頂上の傍らのちょっとしたスペースに、連絡帳やら掲示物やら、雑多で不要な私的設置物が多すぎる。サービスのつもりかもしれないが見苦しい限りだ。山頂には(あれば)三角点と大きすぎない山名標識と、あとは必要に応じた小さなルート標識だけがあればよい。古くからのものであれば、小さな祠があるのも良いだろう。それ以外の物は不要だ。

 以上、炎上覚悟の余談である。

 まあ、このような苦言を呈さざるをえないような現況なのも、裏返せば、つまりは登りやすく、魅力があって面白い、愛されている山なるがゆえではあろう。地元の(それは私の故郷の、ということなのだが)岳人の再考をうながしたい。

 

 下山は塚原コースをとる。しばらくは尾根伝い、あるいはそれと並行するように山腹を巻く路が続く。それらを適当に選び進むと、ほどなく塔之岡コースとの分岐。そこから右へ下る。時おり小さな岩場も出てくるが、問題はない。振り仰げば数多くの岩を点綴させた山頂付近がいい感じだ。

 

 ↓ 頂上を振り仰ぐ

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 直登コースの分岐を過ぎればほどなく祠(?)、そして墓地と出て、舗装道路に出た。

 今回の山も終わりだ。実質3時間足らずの小さな山だったが、あらためてこの右田ヶ岳の良さを知った。これからも帰郷する回数は少ないだろうが、ルートを変えながら、周辺の山もふくめて、何度も訪れてみたいと思った。

 

 ↓ 帰路より仰ぎ見る。左のピークは石船山。

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 その後、湯野温泉に行き、汗を流す。夜は再び防府に戻り、山に行った5人にK先輩、後輩のMさん、Tの3人が加わり、OB会の楽しい飲み会となった。Tは翌日の夜から北アルプス双六岳から立山剱までの縦走に出かけるとのこと。元気なものである…。

 

【コースタイム】

勝坂コース登山口11:05~右田ヶ岳の岩場上12:10-12:33~右田ヶ岳山頂12:40~13:40~塚原コース~右田小駐車場14:55

 

 

7月24日(水)

 今日でどうやら梅雨が明けたようだ。晴れたのは良いが、暑い。

 山口県立美術館での「香月泰男のシベリア・シリーズ」展を見に行く。膝の不調で山には一緒に行けなかったMさんも同行することになり、彼女をピックアップする途中で桑ノ山107.4mに寄り道してみた。

 桑ノ山は母校の防府高校のすぐ裏にあり、何かにつけ登った、ほんの小さな山。今回は高校とは反対側の頂上直下までの車道を使い、歩き5分で頂上。昨日登った右田ヶ岳を遠望する。やはり良い山だ。

 

 ↓ 桑ノ山より右田ヶ岳遠望

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 ふと見ると、「防府高校登山部」のロゴが入ったユニフォームを着た若者たちが休憩している。水分を補給しながら喘いでいる者もいる。ボッカ訓練の最中の後輩たちのようだ。今年もインターハイに出場することが決まっており、優勝を目指しているのだろう。う~ん、吾々の頃とは大違い。

 

 ↓ 香月泰男展 フライヤー

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 香月泰男三隅町にある香月泰男美術館に行ったこともあるし、「シベリア・シリーズ」に属する作品も何度か見たことがある。しかしシリーズ全点を一度にまとめて見るのは初めてである。

 印象としては、当然ながら、やはり重く、暗い。それは作品の思想自体に由来する当然の重さ、暗さ、なのだから、それもまた美しさの一面として味わうことができる。作品ごとに付されたキャプションの、作者自身の言葉が生きていた。

 また、やはりシベリア抑留体験を持つ宮崎進の作品との対照を思わずにはいられなかった。二人とも山口県出身。私は宮崎さんとは、山口県のある画廊の企画グループ展で何度も一緒に作品を並べたことがあるのだが、縁が薄く、とうとう一度も面識をえることがないまま、また、まとまった回顧展を見ることもないまま、昨年亡くなられた。

 

 作品の絵柄、内容とは別に、香月の絵肌の特徴を成す、地色の黄土色に混入されたと言われる萩焼の陶土、黒に混入された木炭の粉、それらのもたらす発色の経年変化にも興味を引かれた。特に黒の経年的に進行するのではないかと思われる艶引けの問題については、保護ワニスが塗布されていると思うのだが、絵によってバラつきがあるように思われた。

 また今回初めて見たのだが、パリやタヒチに取材した木版画や石版画もそれ自体興味深いというか、それなりに面白く観た。例えば木版画は、彫りはともかく、摺りは自身でやったのだろうか。石版画についても同様だが、彫師や摺師がいたのならそれは表記されるべきではないか。限定部数等についても同様。そうしたデータがないのが気になった(ひょっとしたら私が見落としたのかもしれないが…)。

 

 昼食後、近所の同級生のN弁護士の事務所をアポなしで表敬訪問。私の数少ないコレクターの一人で、事務所のあちこちに私の作品が展示されている。

 

 ついで中原中也記念館に行く。ここはかねてから一度は行ってみたいと思っていたところだが、今回ようやくその思いがかなった。

 

 ↓ 中原中也記念館 外観

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 ↓ 「中原中也誕生之地」の石碑 この木は中也誕生の以前から植えられていたとのこと 撮影:K

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 テーマ展示として「四季詩集―中也と巡る春夏秋冬」、企画展示室では「沸騰する精神 詩人・上田敏雄」をやっていた。中也関係の出品物の多くはレプリカであったのは保存上やむをえないことだが、かつてのようないかにも「コピー」といった感じではなく、鑑賞上はほとんど問題ない。

 さほど大きな施設ではないが、その企画や展示状況等、かなり優れたものであると見た。また記念館の建物や敷地全体の構成も、中也の世界とよくマッチしていると思った。やはり詩人中也が地元の方に愛され、大事にされているということなのだろう。うらやましく思った。

 

 夜の飲み会までの時間調整を兼ねて、長沢の池方面に足を伸ばしてみる。淡い興味を持っていた大村益次郎関係の施設ということで、まず訪れたのが彼の誕生の地だが、そこには石碑と、その傍らに関連すると思われる抽象彫刻群があった。作者の田辺武とは面識もなく作品もほとんど知らないのだが、高校の後輩の日本画家の御主人だそうだ。それはそれで淡い奇縁と言うべきであろう。

 

 ↓ 「故兵部大輔大村永敏卿誕生地」の碑のそばにあった、田辺武作の抽象彫刻群

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 ともあれ、どちらかといえば本命であった、大村益次郎記念館に行ってはみたが、入館時間を過ぎており、見ることはできなかった。まあ、長沢の池畔や、のどかな田園風景を見ながらのドライブを楽しめたのでそれなりに楽しかった。

 夜は高校の同期会。

 かくて今回のミッション「法事と山と美術館の旅」は完了したのである。

 

7月25日(木)

 余談といえば、以下はほぼ余談である。

 

 帰京の日。防府駅で切符を買って、電車の時間が来るまで周りを見る。

 駅南側の外壁には高校時代の恩師、藤川章造先生の原画および設計の壁画が設置されている。

 

 ↓ 藤川先生の手になる鋳造壁画、左部分。タイトルをメモするのを忘れ、ネットで調べたが、タイトルはおろか作者の藤川先生の名も見出すことができなかった…。

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 ↓ 同上、左部分。

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 壁画と言ってもそのほとんどは鉄の鋳造で、部分的に他の金属を象嵌したもの。何年も前から指摘していることなのだが、経年及び風雨等による酸化腐食が進行し、赤錆が浮き出し、実に痛々しい状態になっている。早急に修復ないし保全策を講じる必要があるが、相変わらず何も対応されてはいないようだ。

 

 ↓ 部分 赤錆は内部に進行してゆく

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 ↓ 同 部分 本来はどのような状態であったのか、もはや想像しにくい。

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 私は山陽本線の高架に伴う駅舎の改修時にはすでに防府を離れていたが、藤川先生が実に楽しそうにその壁画制作に打ち込んでおられた様子をよく覚えている。むろん、低予算下でのことであり、良いものを作ろうとされた結果、かなり予算をオーバーし、その分は自分で負担されたとも聞いた。いかにも先生らしいとは思ったが、それはそれで仕方がない。

 完成時点で防錆対策をしていたのかどうか、また先生の意図はどうであったのか不明だが、素材のほとんどが鉄である限り、錆が生じるのは避けられない。おそらくその後メンテナンスは一切されていないのではないだろうか。行政(JR?)が求めたのは低予算での単なる装飾であったかもしれないが、藤川先生が作られたのは美術作品であり、あえて言えば芸術作品を志向されたのである。

 作りっぱなし、作らせっぱなしで一切のメンテナンスを講じない行政という構図は、全国どこにでもある話だ。経済的には比較的安定した状態を維持してきたらしいわが故郷ではあるが、その反面「文化の谷間」とささやかれている地方都市であることも事実なのである。

 近くの高架下の壁面には、田中稔之さんのモザイク壁画がある。こちらは今回確認していないが、部分的に剥落や汚れもあるようだ。

 画家で言えば、先日亡くなられた吉村芳生さん、防府出身ではないが桂ゆき、小説家の高樹のぶ子伊集院静、そして山頭火。そうした防府市出身もしくはゆかりのある芸術家たちに対する対応を見れば、中原中也香月泰男に対するそれとは異なった、「文化の谷間」と言われてもしかたがない、わが故郷の風土性・精神性といったものが垣間見えるのである。

 

 ↓ 附録 その1 二晩泊めてもらったK宅の旧居の風呂場 右の棚が美しい「昭和の形」である。

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 ↓ 附録 その2 旧居の縁側=昭和の空間

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↓ 附録 その3 旧居の土壁 昭和のテクスチャー

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防高山岳部OB会夏山合宿 北海道の山旅・道東三山(雌阿寒岳・羅臼岳・斜里岳)

 We climbed Mt. Meakan Mt. Rausu and Mt.Syari in east Hokkaido. These mountains are volcano. Mt. Rausu is World Heritage Site.

They were very beautiful and fantastic experience. And I was very tired….

 三年ほど前から高校山岳部時代の数名でOB会合宿と銘打って、年に二三回、数日程度の山旅に行っている。昨年の夏は北海道の道東三山(雌阿寒岳羅臼岳斜里岳)+大雪山旭岳の予定だったが、直前にメンバーの一人Kが箱根の金時山で転倒して手首を骨折、計画は中止となった。今回はその仕切り直し(註)である。

 

(註)おそらく日本語化した「再挑戦」という意味でだろうが、リベンジと言う者もいる。しかし、revengeは本来「恨み」とか「復讐」の意味なので、私は好まない。単に「仕切り直し」か「やり直し」である。ついでに言えば、「制覇」とか「征服」といった言葉も好きではない。「登らせてもらった」あるいは単に「登った」で充分である。)

 

 予定は日帰り登山三回プラス予備日移動日二日、トータル一週間での道東三山。

 むろん発端は百名山好きのKとF嬢。北海道の山に一人で行く意欲などとうの昔になくした私だが、つまりそれは声をかけられたこの機会を逃せば一生行くことはないということなのだから、やはり欲は出てくるのである。旅程のしんどさ、煩雑さは、計画にも実務にも能力のあるリーダーKに任せればよいのだから安心だが、問題は私の体力と気力と意欲だ。

 五月の個展や十月の個展の予定、その他身体のあれこれの不調などから、三か月以上山らしい山には登っていない。完全にトレーニング不足であることは自覚している。しかし、参加すると言ってしまった。残り火に火がついたというか、欲に負けたのである。

 直前になってもう一人、一学年先輩のKMさん(以下K先輩)が参加することになった。K先輩は大学を卒業して帰郷後、地元の山の会に所属し、時おりの断続はあったようだが、長く山行を続けてこられた。延べ山行日数は四人の中で最も多い。百名山も残すところあと12座とか。そのK先輩も昨年同じ道東の山を計画し、Kと同じようにその直前に山で転倒し肋骨を骨折、計画を棒にふられた。山口県から北海道の同じ山に、再度同行してくれる人は、まあいないだろう。つまり同病相憐れむではないが、昨年行きそこなった二パーティーが合体したわけである。

 K先輩と山に行くのは私が15歳の頃以来、なんと50年ぶりとなるわけだが、気心は知れている。体力、経験共に申し分ない。心強い限りである。何にしても不安なのは私自身(の体力と気力)なのだ。

 

7月8日

 前夜羽田近くの大森町の安いホテルに泊。

 7月8日、11:00羽田発。新千歳空港12:40着。ほどなく広島空港からのKとF嬢、次いで福岡空港からのK先輩と合流。レンタカーで阿寒湖を目指す。

 飛行機とレンタカーで北海道登山!なんとゼイタクな!それだけでかつての私の常識を越えている。そうした面では、いかに私が古い人間であるか、あらためて思い知る。

 北海道は1978年大学3年の夏の利尻岳以来、40年ぶりだ。

 その夏は何の予定もなく、姉一家が義兄の実家、青森県深浦町に帰省するのに誘われるままに同行した。あわよくばその後北海道に渡り、利尻岳にでも登ろうかと思ったのである。もとより金はない。テントから何から何まで担いでのヒッチハイクである。

 利尻で、予定していた鬼脇コースに行ってみれば「登山禁止」の立て札。ここまで来て予定ルートを変更する気にならず、そのまま登る。途中の避難小屋かテントで一泊の予定だったが、結局一日で鴛泊まで抜けてしまった。思えば素晴らしい馬力であった。

 その後、礼文島にも渡ったが、標高の低い礼文岳に登る気にならず、メノウ海岸で旅愁にまみれつつ、日がな一日メノウのかけらを拾っていた。

 稚内で残金を計算してみると、どうやら鈍行電車でギリギリ帰れるだけの額。以後ヒッチハイクを続ければかえって途中で完全に金が尽きる。キャッシュカードの無かった時代、そもそも貯金なんぞありはしなかったのだが。

 もともと利尻岳以外に目標もなかったので、稚内からしばらくヒッチハイクを続け、適当なところから電車を乗り継いで帰京した。以上、単なる昔話。

 

7月9日 コンパクトな火山模型のような雌阿寒岳

 阿寒湖畔のホテルから車で雌阿寒温泉登山口まで行く。

身支度を整え、8:53に登り始める。トップはK先輩、以下F嬢、私、最後がリーダーのK。以後三日間、オーダーはこの順。

 

 ↓ 雌阿寒温泉駐車場付近から見る雌阿寒岳

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 ↓ 雌阿寒岳登山コース入り口

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 針葉樹の樹林帯の中、よく整備された歩きやすい道が続く。何合目という標識が設置されている。幸いトップのK先輩は30分程度でこまめにピッチを切ってくれるので、いつも自分のペースでどんどん登り続けるKのトップに比べると、大いに助かる。しかしそれも初めのニ三ピッチのこと。傾斜が次第に強まってくると、前の二人にからだんだん離されるようになった。まあ、予想した通りの展開で、つまりは私の現在の力量を露呈したということなのだが。

 

 ↓ 傾斜が強まり森林限界付近

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 ↓ 森、森、森…

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 あたりの樹々が次第に低くなり、ハイマツ帯になると周囲の展望も開けてくる。眼路を限りの森、森、森。この広がりは、やはり北海道でしか見れないものだ。足元のイワブクロ(この花は初めて見た)その他の高山植物に時おり気を休める。

 

 ↓ イワブクロ

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 二時間半ほどで火口壁の一画に出た。眼前には噴煙と、濁り淀んだ水をたたえた小さな火口湖の赤沼を内包する火口が凄惨な景観を見せている。

 

 ↓ 火口壁に上がる 撮影:K

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 ↓ 火口内部。左が赤沼

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 そこから一投足で雌阿寒岳1370mの頂上。快晴。けっこう人はいる。外国人も多い。

 

 ↓ 雌阿寒岳山頂

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 ↓ 三人は元気が良い… 撮影:K

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 やれやれ、疲れた。標高差794m。登り始めてから2時間42分かかったわけだが、コースタイムでは2時間35分。実際には休憩も入れてだから、むしろコースタイムより早いペースだったのだ。つまり私以外の三名の調子がいかに良いかということではあるが…。

 

 ↓ 元気が良すぎてグリコのお姉さん

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 頂上からは、先ほどの森の広がりとは対照的に、南側の阿寒富士や北東の剣ヶ峰など、地理学での火山地形のコンパクトな模型のような風景が展開している。阿寒湖と雄阿寒岳が見える。

 

 ↓ 火山地形の模型 遠くに阿寒湖と雄阿寒岳 撮影:K

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 そういえば深田久弥が登ったのは、その雄阿寒岳1370mの方。雌阿寒岳の方はその時、火山活動が活発で登山禁止だったそうだ。そのためか、深田は『日本百名山』では「阿寒岳」として表記しているが、『日本二百名山』『日本三百名山』では「雌阿寒岳」となっている。標高は雌阿寒岳の方が高いにしても、ちょっと微妙な感じがしないでもない。

 ↓ 火口壁

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 ↓ 阿寒富士 凄絶かつ陰惨な色彩

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 昼食後、激しく噴き上げる噴煙や、わずかに風情のある火口内の小さな青沼を見ながら、阿寒富士手前のコルを経てオンネトーへ下る。一瞬、木曽御嶽山の悲劇を思いだす。阿寒富士山頂付近の陰惨な山肌を見ると登りたい気にならない。途中、駒草の小さな群落があった。

 

 ↓ コマクサ

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 順調に下り、ほどなくオンネトー登山口に降り立つ。そこからしばらく湖畔沿いに歩き、途中から右手の樹林帯に入り、気持ちの良いゆるやかな登りしばしの後、車をデポしておいた雌阿寒温泉登山口に着いた。

 

 ↓ オンネトーからの樹林帯

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 雌阿寒岳は今回の三山の中では最も標高差が小さく、まずは小手調べという位置づけではあったが、三カ月ぶりの山登りとあっては、やはりそれなりに疲れた。明日以降のめどが立ったというほどではないが、まあ良しとしよう。

 その後、次の予定の羅臼岳の出発点岩尾別温泉に向かって、車を走らせた。折あしくわき出したこの地方特有のガス(濃霧)の中、暗くなった頃、ようやく今宵の宿「地の涯」に辿り着いた。しかしホテル「地の涯」とは、よくもまあ名付けたものだ。

 

【コースタイム】

雌阿寒温泉登山口8:53~火口壁上11:25~雌阿寒岳頂上1499m11:35-12:13~オンネトー登山口14:25-14:45~雌阿寒温泉登山口15:35 岩尾別温泉へ移動

 

 

7月10日 北の涯の山-長丁場の羅臼岳

 今回の山旅の最大の山場、長丁場の羅臼岳登山の日。未明3時半に起床。前夜作っておいてもらった大きな握り飯を食べるが、ほとんど喉を通らない。無理やり何とか一つだけ食べる。

 あいにく天候はガスとも霧雨ともつかぬ状態だが、天気予報を信じて、雨具上下を身に付け、予定より少し遅れて4:55に出発。

 

 ↓ 雨具をつけて美しい樹林帯を登る 撮影:K

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 よく踏まれた歩きやすい路は、美しい広葉樹の樹林帯をゆるやかに登ってゆく。今日の予定コースタイムは8時間20分。休憩も入れれば10時間以上はかかるだろう。

 

 ↓ 白樺の美しい樹林帯

f:id:sosaian:20190719191559j:plainじゅ

 

 等高線の密なところも、うまくジグザグに路が付けられているので、急登の感はない。とりあえず先行の二人から離されずに進む。

 高度を上げるにしたがって樹々の樹高も低くなる。路に張り出したカンバの木に何度も頭をぶつける。いつの間にかガスの上に出たようで、時おり展望が開ける。弥三吉峠は気づかぬまま、弥三吉水に至る。極楽平、仙人坂の標識を過ぎれば銀鈴水の水場。

 近くには携帯トイレ用のブースが設置されていた。それを見るのは、私は初めてだったが、今や日本の有名な山では携帯トイレ持参というのが普通になっているのだろうか。そのことについてはいろいろ複雑な思いがあり、私の山登りのイメージとは相容れぬものがあるが、百名山のようなオーバーユースの可能性の高いところではやむをえないのだろう。今回F嬢は持参されていたが、トイレの近い私のような者にとっては実際問題として、悩ましい限りである。

 やがて路は浅い涸沢状を行くようになる。一の岩場、二の岩場とあるが、岩交じり砂礫まじりで少々歩きにくい。このあたり、先行の二人にだいぶ遅れるようになってきた。まあ、仕方がない。焦らず自分のペースで登るだけだ。

 

 ↓ 大沢に入る

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 まわりは高山植物のお花畑となっており、それを保護するためにか、左右にロープが張られている。チシマノキンバイソウ、エゾツツジ、エゾノツガザクラ、エゾコザクラ、エゾフウロなどの、思いがけぬ強い鮮やかな色彩は本当に美しい。

 

 ↓ エゾツツジ 撮影:K

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 ↓ エゾコザクラ

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 沢はいつしかその形状を失い、そのまま少し進むと待望の峠、羅臼平。この頃になると天候は完全に回復して、山の上は快晴となった。下界はまだ雲海に閉ざされているが、その雲海から遠くに頭を出しているのは、国後島爺々岳(チャチャヌプリ)だろう。

 

 ↓ 羅臼平から山頂を見る

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 ↓ 雲海の上に顔を出しているのは国後島爺々岳

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 ここまでくれば先は見えた。一休みののち、頂上へ向かう。ゆるやかな登りから岩清水の先に、一か所だけ小さな雪渓があった。40年ぐらい前に登った(7月末か8月)という友人の話では、尾根上は雪だらけだったとのことだし、私の昔の知識と比べても、やはり近年の温暖化ということはあるのだろう。

 

 ↓ 唯一の雪渓

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 ↓ 頂上直下の岩場 撮影:K

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 頂上直下の岩場を慎重に登りきれば、そこが頂上だった。

 

 ↓ 羅臼岳山頂

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 固い溶岩がそのまま凝り固まった、岩だけの頂上。広すぎもせず、狭すぎもせず。360度の大展望。理想的な頂上だ。先行者は一人だけ。昨夜の宿の宿泊者などからして、今日は大勢が登っていると予想していたが、その後も数名が登ってきただけで、うれしい誤算の静かな山頂だった。

 

 ↓ 遠く硫黄岳を望む

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 ↓ 反対側 知西別岳・遠音別岳方面

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 硫黄岳への縦走は今の吾々の実際問題としては無理だったろうが、それでも三峰からサシルイ岳をへて硫黄岳へと続く稜線と、その先に隠れて見えないが、半島の突端まで続く山稜の存在を思うと、やはり何か高ぶるものを覚えるのである。私にとって北海道の山、わけても知床の山など、遠くから憧れるだけで、まさか実際に登ることがあろうとは思ってもいなかったというのが正直なところだ。その意味で同行の三人にはただただ感謝!である。

 1時間近く滞在し、雄大な展望を堪能した。

 下山は往路を戻るだけだから、基本的には問題ない。ただただ体力と微妙に具合の悪くなりそうな気配を示し始めた左股関節の状態しだいである。

 

 ↓ 帰路の風景二本の木の間に羅臼岳山頂が顔をのぞかせている

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 帰路もあらためてお花畑の高山植物を愛で、針葉樹と広葉樹の美しい林相を愛で、淡々と歩く。左股関節の微妙な不調から、普段にも似ず、下りのペースは上がらなかったが、仕方がない。登山口に降り立ったのは16:15。11時間20分かかったわけだ。登りはコースタイムで4時間55分のところを6時間、下りはコースタイムで3時間25分のところを4時間25分だから、休憩時間を考えれば上等のタイムだ。ちなみに岩尾別温泉の標高は230m。羅臼岳の頂上が1660mだから標高差は1430mだった。

 

【コースタイム】

岩尾別温泉4:55~極楽平6:53~羅臼平9:23~羅臼岳頂上10:55-11:50~羅臼平12:40~岩尾別温泉16:15

 

7月11日

 予備日兼移動日。午前中知床自然センターに寄り、次いでカムイワッカの滝に遊ぶ。途中で羅臼岳から硫黄岳の稜線が見え、ちょっと感動する。そのカムイワッカ川はかつての噴火で、溶岩流ではなく、硫黄流を海まで流し出した「世界で一番奇妙な火山」だとか。

 

 ↓ 右:羅臼岳 左:硫黄岳

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 ↓ 今回、鹿を三回、狐を三回見た。なかなか逃げない。

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 ↓ カムイワッカ川 当然裸足になって遡り始める 撮影:K先輩

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 ↓ 延々とナメが続く

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 その後、知床峠を越え羅臼に出て昼食。さらに野付崎に寄り道観光する。憧れの地の一つであった野付崎のトドワラは、もはや消滅寸前の態であった。

 

 ↓ 消滅寸前のトドワラ 撮影:K

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 鮮やかなハマナスの紅と、その妖艶な香が印象深かった。

 

 ↓ ハマナス 26歳の美しい女性の妖艶な香り 撮影:K

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 その後、斜里岳登山のベースとなる、摩周湖と屈斜路の間にある硫黄山近くの川湯温泉のホテルに向かう。そこまで行ってようやく思い出したのだが、そのあたりは河田楨の紀行文で何となく親しみを覚えていたところだったのだ。だが、飛行機と車で移動する今の私には、彼の時代の辺境の旅情といったものは、もはやどこにも見出せぬものとなったことを知るのみであった。

 

 

7月12日 快適瀟洒沢登りから斜里岳

 道東三山の山旅もいよいよ最後の一山である。天気予報では微妙なところもあったが、何とか昼過ぎぐらいまでは持ちそうだ。なぜか前夜寝付けず、実質2時間ほどの睡眠しかとれなかったのが、少々不安だ。

 ホテルから登山口の清岳荘まで車で約1時間。途中、斜里岳の全景が見え、車を止め、写真を撮る。思いがけず秀麗な山容だ。優美な長い裾を引きながら、上部にはそれなりの変化がある。これはきっと良い山だという予感がする。

 

 ↓ 斜里岳遠景

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 清岳荘には多くの車が停まっており、さらに陸続と登山者がやってくる。20人ほどのガイド登山グループもいる。あれに巻き込まれたら大変だなと思う。しかし、こんな辺鄙なところにある斜里岳も、百名山効果というべきなのだろうか、ずいぶんとメジャーな山になったのだなと驚いた。

 私自身は大雪山や知床の羅臼岳といった非の打ちどころのない名山よりも、斜里岳のようなどちらかと言えば1.5流どころというか、ちょっと地味な山の方が好きなのである。それは登る人が少ないからというのも理由の一つなのだが、こうしてみる斜里岳は、少なくとも今日の登山者数では、一流の山である。

 

 ともあれ、身支度を整え、6時過ぎに標高690mの清岳荘から登り始める。すぐに路はゆるやかに下り始め、旧林道に出る。林道はほどなく標高610mの一の沢川に行き当たり、そこから沢沿いの登路となる。頂上までの実質の標高差は937m。

 

 ↓ 沢沿いに進む。

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 ↓ ちょいとした巻き

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 踏み跡はしっかりしており、ピンクテープも要所要所にあるが、何度も渡渉個所がある。羽衣の滝とか方丈の滝などといった標識(なくもがな…)がつけられた滝らしい滝もいくつかあるが、そうしたところは高巻くようになっている。というか、事実上ほとんど沢登りである。実に気分が良い。

 

 ↓ その気になれば滑りやすい草付き、泥付き

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 ↓ 空に向かって伸びるナメの連続 あああ~気持ちいい!

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 上部になると傾斜もやや増し、ナメ滝の連続となる。沢足袋ではなく山靴で沢を登るのも相当久しぶりだが、わりとフリクションの効く岩質なので、不安はあまりない。しかしそうは言っても泥壁、草付きの高巻きもところどころにはあり、それなりに神経を使う。後続の団体ガイドパーティーも結局ザイルを出さずに登ったようだが、よくやるもんだと感心した(呆れた)。

 

 ↓ 振り返ればガイド先導で大パーティーが。 撮影:K

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 ともあれ、久しぶりの沢の「気」の中に在るせいだろうか、不思議なことにきわめて体調が良い。身体の動きにリズムがある。前夜の寝不足にもかかわらず、まったく遅れず、他のメンバーも驚いている。やはり私の山屋としての体質の主要部分は、沢の要素でできているのだろうかなどと、らちもないことを思ってみる。

 楽しい沢登りの2時間ほどで上の二俣。ここにも携帯トイレ用のブースが設置されている。二俣を過ぎると水流はなくなり、やがて稜線の鞍部(馬の背)に着いた。

 

 ↓ 馬の背

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 ↓ 斜里岳頂上への最後の登り

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 そこから頂上にかけてはミヤマオダマキ、エゾフウロ、ハクサンチドリ、ニッコウキスゲなどが鮮やかに咲き群れている。

 

 ↓ なんとも鮮やかなミヤマオダマキ

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 ↓ ハクサンチドリ

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 ほどなく待望の斜里岳1547mの頂上。

 

 ↓ 斜里岳頂上

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 どういうわけか1535.8mの三角点は頂上の少し手前の一段低いところにあった。ややガスっぽいきらいはあるものの、一応360度の大展望。遠く羅臼岳とおぼしき山影も見える。後方の南斜里岳への尾根筋に心惹かれる。

 

 ↓ 南斜里岳方面を見る。撮影:K

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 斜里岳は長く淡い憧憬の山であったが、まさか実際に登る日がこようとは思ってもいなかった。

 風が強く、体感温度が一気に下がる。風を避けて直下の藪の中で、昼食と大休止。

下りはいったん馬の背をへて上の二俣まで戻り、そこから熊見峠経由の新道を行く。樹林帯のトラバースから高原上の尾根筋。何度も斜里岳を振り返る。良い山だ。

 

 ↓ 熊見峠への途中から斜里岳を振り返る 撮影:K

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 途中で龍神ノ池への寄り道が分岐していたが、誰も興味を示さない。さほど時間を要するとも思えないが、みんな湖沼類には興味がないのだろう。山中の小さな湖沼をけっこう好きな私としては、少々後ろ髪を引かれるのだが、結局寄らずに通過。惜しいことをしたかな…。

 

 ↓ 熊見峠への途中から斜里岳を振り返る 

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 急下降の部分も問題なく下り、下の二俣に13:20着。4人の若い救助隊員とすれ違った。山頂付近で調子の悪くなった登山者から救助の要請があったらしい。後にはヘリコプターも出てきた。携帯電話を持って山に登ることの当り前さ・必要性と、不思議さ・違和感。

 清岳荘着14:25。久しぶりに味わった快適で楽しい登山だった。

 

【コースタイム】

清岳荘6:07~一の沢川6:30頃~下の二俣7:00~上の二俣~馬の背9:30~斜里岳頂上10:00-10:45~馬の背11:00~熊見峠12:30~下の二俣13:20~清岳荘14:25

 

 

7月13日 移動+観光日

 14日の帰京のための移動の日。三連休とやらで、新千歳付近の宿がとれず、帯広泊まりとなる。倉重リーダーの事前研究と指示のもと、神の子池、裏摩周展望台、屈斜路湖釧路湿原幸福駅、六花の森などを訪れる。天気はあまり良くなく、降ったりやんだり。せっかくの釧路湿原も何も見えず。まあ山を堪能したあとでは、どれもたいしてピンとこない。

 

 ↓ 神の子池 撮影:K

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 ↓ 幸福駅旧駅舎 内部もふくめて千社札を張られまくられた神社状態

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 ただし、何も期待していなかった六花の森だけは、拾い物といった感じで面白かった。よく整備された広大な敷地に坂本直行、百瀬智宏、小川游、池田均、安西水丸のそれぞれの作品館と花柄包装紙館、サイロ五十周年記念館などが点在していて、楽しめた。地元ゆかりの作家を大切にし、支援する北海道特有の郷土性が見え、感心させられた。

 ↓ 他は撮影禁止だったので、花柄包装紙館のみ。まあ、これはこれで…。

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 中でも坂本直行については、昔からその著作(『開墾の記』『原野から見た山』)をそれなりに面白く読み、また労山の機関誌『山と仲間』の表紙絵(一点だけ原画を持っている)で見知っていたわりには、その絵画作品そのものにはふれる機会がなかった。必ずしも悪意はないのだろうが、坂本本人とその作品をよく知っていた人から「しょせんアマチュアだよ」との評を聞いたこともあったが、どうして、そのようなレベルではない。確かに専門教育を受けたことはなく、その意味で「素朴派」と言ってもよいのだが、上質な愛されるべき絵である。幸いそこのショップにあった『日高の風 孤高の山岳画家・坂本直行の生涯』(滝本幸夫 2006年 中札内美術村)を買って、帰途の機内で読んだが、面白かった。ただし、山の人・坂本直行に焦点が当てられていて、絵についてふれているところが少ないのは、やむをえないとはいえ、少し残念である。

 何にしても旅先での偶然の出会いは面白いものだ。

 

 ↓ なんでもアート アートは遍在する

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 翌14日新千歳空港から帰京。

 かくて一週間にわたった防高山岳部OB会夏山合宿、北海道道東三山めぐりは終わった。三つの日本百名山に登った。百名山にこだわる気は、今後とも基本的にはあまりないが、要は素晴らしい山に登れたということだ。

 つつがなく登れたのは、私個人の事前の情況からすれば、ほとんどありえないことであった。トレーニングも事前研究もほとんどせず、計画立案も実務もほとんどしなかった。すべてKとF嬢におんぶに抱っこ状態で、まことに申し訳ない、ありがたいと思う。同行のK先輩、K、F嬢に深く感謝するしだいである。 (記:2019.7.19)

個展「耀ふ静謐」 レポート―7 「をみな」に関連して

 さて「レポート―7」。

 前回に引き続き「をみな」関連の作品。といっても、内容、制作時期等、相互の関連はあまりないのだが、あくまで「をみな」が描かれているということで2点紹介する。

 

 私は時々、過去の他者の作品(のイメージや構図等)を、自分の作品に使うことがある。それを引用といっても参照といっても良いのだが、一種の「本歌取り」といった意識である。日本の和歌などに見られる表現思考だが、マニエリスム等を引き合いに出さずとも、古来から現代にいたるまで、先例に習い取り込むそうしたやり方は、表現における普通の方法だと思っている。むろん、その周辺に在る、模倣や剽窃と言われる場合も、意識性をのぞけば同質である。また、「本歌取り」とは別に、私はコラージュもよく使う。

 いずれにしても、「ネタ」や「パクリ」といった言い方は下品で嫌いだが、以前にちょっと必要を感じて、著作権について少し調べてみた。結局、著作権やそれにかかわる法規は、現在なお発展途上の問題としてあり、明確な基準はわからずじまいだったが、現存作家にかかわることでは盗作等の問題が生じやすいことはわかった。

 例えばマッド・アマノ白川義員フォトモンタージュ「パロディ裁判」(最高裁までいったが第三次控訴中に和解決着)とは異なる次元の話だが、2006年に芸術選奨文部科学大臣賞に選ばれてのち、現存のイタリア人画家の作品との類似が指摘され、史上初めて授賞が取り消された、元名古屋芸術大学教授の和田義彦の場合など、論外というべきであろう。余談だが、たまたまこの事件が報道された時、学部時代に彼に教わったという大学院の指導学生がいて、当時の行状等を聞いたこともあって、印象が強かった。

 なおこれも余談というべきであろうが、その時の芸術選奨の選考審査員には酒井忠康世田谷美術館長)や瀧悌三が加わっていたとのことだが、彼等の責任というのは何か問われたのだろうか。 

 まあそうしたことと直接の関係はないのであるが、私が「本歌取り」をする場合、作者の名がはっきりしていて、引用するという造形的意思が明確な場合には、タイトルの一部として(H.D./ヘンリー・ダーガー)とか、(S.S/曾我蕭白)と言ったように、出典というか、元歌の頭文字を記載する(ことが多い)。本歌取りだから、そこに元歌へのある種の敬意があるわけで、その意味も含んでのことである。すでに自分の中に取り込んだ、自分自身の要素となったと思うものについては、それが似ていようと、記載しない。

 今回紹介する3点はその「本歌取り」の系統に属するものである。

 

 

564「胡姫」

(2010.10~2016.7.9 31.5×23.5㎝ 厚口和紙にアクリルクラッキング地、樹脂テンペラ・油彩・蜜蝋・アッサンブラージュ

 

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 この作品は二、三十年前の朝日新聞に載っていた図版(27.5×21.5㎝)をもとにしたもの。絵柄をほとんどそのまま使用している。図版だけしか切り取らなかったので、おそらくインドミニアチュールであるということ以外は、いつ頃の、誰の、どんなものとも知らないまま、長くスクラップブックに収められたままだった。

 

 

 ↓ 参考図版

 (朝日新聞掲載 掲載年月日不明 インド タージ博物館蔵)

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 それから二十年以上たって、ふとそれをもとに作品にし始めたのである。途中でモチベーションというか、イメージを見失ったような時期があって、完成まで足かけ7年もかかってしまったのだが、その途中2013年にインドに旅した。タージマハルを訪れた時、その附属美術館(タージ博物館)で、思いがけずその現物を発見した。新聞に載っていた図版と違って、実際のそれは思いがけず小さな、せいぜい10数㎝程度の象牙の薄片に描かれたものだった。象牙ゆえの半透明な、なんとも言えぬ上品な半光沢を活かした不思議な色調。(撮影禁止だったので写真はない。絵葉書や図録の類もなかった。)

 その幸運な鑑賞体験にうながされて何とか完成させたのだが、やはり時間がかかりすぎたせいか、作者としては、やや精気に乏しいように思う。しかしまあ、これはこれだ。

 ちなみにタイトルの「胡姫」は、シルクロード時代の中国における紅毛碧眼の胡=イラン系異民族の若くて美しい「をみな」。緑酒と舞踏のイメージとともに記憶されている。

 

 

565「胡姫」

(2010.10.24~2016.7.9 31.4×23.5㎝ 厚口和紙にアクリルクラッキング地、樹脂テンペラ・油彩・蜜蝋・コラージュ・糸)

 

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 参考までに上げておく。

 564と565は上記したように同じ図版をもとにして、サイズと向きを変えて2点制作した。こちらはすでに東京で発表済みなので、今回は不出品。

 

 

700「憧憬と記憶」

(2016.1.25~2017.1.27  34.5×47.9㎝ 水彩紙に和紙・膠地、鉛筆・彩墨・アクリル・セピア・コラージュ)

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 「女」ではあるが「をみな」とは多少位相が違う。元になったのは誰もが知っている有名な女優。だがその女優がヌード写真を撮ったという話は聞いたことがない。ネット上で拾ってきたそれは、おそらく別の女性のヌード写真(全身の三分の二ほどの構図)に、その女優の顔をすげ変えたフェイク写真(アイコラなどと言うそうだ)というべきものでないかと想像される。痛ましいといえばそうなのだが、そうした下劣な写真にも美しさ(と言ってはいけないのかもしれないが)はある。

 少々やましさを覚えながら描いたのだが、思い返してみれば、少年時代に大人たちの見ていたヌード写真をこっそりと垣間見る時には、いつもそんなやましさがあった。そのやましさを透かして見える美しさへのあこがれ。タイトルのゆえんである。

 会場で、ある人(女性)がこの絵を一番好きだと言ったのは、救いであったかどうか。

大祓形代と水無月祓いのこと

 6月14日、近所のTさんが「大祓神事執行」の「大祓形代」を持ってこられた。息子夫婦と孫と合わせて五人分。

 

 

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 これは私が20年以上前に、現在のあきる野市高尾に引っ越してきてほどなく、斜め向かいのというか、当時は住宅が少なく、隣家というべき存在だったNさん(故人)が持ってこられたのが始まりだった。数年前にNさんが亡くなられてからはTさんがその役を引き継がれたようで、年に二回、現在に至っている。

 その形代は写真のように白い紙をヒト型に切ってあり、それに氏名と年齢を書き入れ、神社におさめる。神社はこの近辺で最も大きな、古い歴史を持つ阿伎留神社なのだが、私は別にそこの氏子というわけではない。N家は古くからの地元の方だったようだが、阿伎留神社の氏子だったかどうかは知らないが、おそらく氏子関係とは別の、伝統行事維持的な関係性で私に声をかけてくれたのではないかと思う。Tさんも引き継いだだけで、詳しいことは知らないと言われた。私自身は基本的に無神論者、無宗教者だが、民俗学的観点からの伝統行事には関心があるし、尊重する。(そういえば民俗学的関心は最近、少し薄れつつあるが…。)

 

 このヒト型=人形は「大祓形代」と明記してあるだけで充分予想されるように、われわれの半年分の日常の罪や穢れを、それに乗り移らせて(肩代わりさせて)、水に流して(お祓いして)しまうという、由緒正しい(?)東アジア的習俗である。三月のひな祭りの原型の流し雛も同様の趣旨。想像をたくましくすれば、ガンジス河のヒンドゥーバラモン教のそれと起源を同じくするのではないかと思う。蛇足だが、このヒト型という形状は言うまでもなく、普遍的シンボルとして世界中あちこちに見出すことができる。

 少し調べて見たが、阿伎留神社では6月30日に大祓(水無月祓)として神事を行い、そののち焼くそうだ(?)。ちなみに同じあきる野市の養沢に移住した知人の杉さんも地元の神社の同様の行事を投稿していた(https://www.facebook.com/takuya.sugi.3)。そちらは古式を守って、今でも実際に川に流しているらしい。「穢れた人形たちは、みんなうちの下の淵に集まってくるんだよねー。鮎釣りの人とかギョッとするんじゃないかな^_^;」とのこと。

 

 その水無月祓は「夏越(なごし)の祓い」とも言い、残念ながら私はまだ見たことがないが、茅で作った輪をくぐり抜けて無病息災を祈る「茅の輪くぐり」を伴うとのことである。それは蘇民将来信仰と結びつくが、その起源に関しては、スサノオとの関連もふくめて、渡来系、国津神系とも判然としない、あるいはそれらの習合した、日本=東アジアの民間信仰の曖昧とした薄明の中にたたずんでいる。

 

 ↓ 蘇民将来の一例(Wikipediaより)

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 ↓ 蘇民将来の護符の一例 晴明紋が描かれている

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 ともあれ、蘇民将来であれ、夏越の祓い、茅輪くぐりであれ、それらはすべて私が18歳で東京に出る以前には、見聞きすることのなかったことである。あるいは私が知らなかっただけなのかも知らないが、どうもそうした古い行事や民間習俗は東日本により多く残っているように思われてならない。中でも山間部に近いとはいえ、東京都にこうした古式の習俗が残っているのは興味深いことだ。

 

 ちなみに、本来であれば、その形代に対する正しい作法は、その形代で身体のあちこちをなでて、身体に付着した穢れを移し、最後に息を吹きかけて心の穢れと合わせて自分の身代わりとさせるとあるが、そんな作法については知らなかった。おまけに、何となく以前から顔を描いていたのだが、別にそんなことをする必要はなかったようだ。まあ、描いてマズいということもあるまいが。なんだか勝手に伝統的作法を変容させていたことには、気づいた…。                 (記:2019.6.15)

個展「耀ふ静謐」 レポート―6 「をみな」について

 さて「レポート―6」である。

 何を書こうか。どれを紹介しようか。

 「ところで、私はいったい何をしたいのか」、という自問自答は胸にしまっておいて、今回は「瓔珞のをみなたち」を中心に紹介することにしよう。前回が「装飾」という具体性というか再現性・現実性のない絵柄のものだったので、今回はその逆の作風のものをといった感じでしょうか。

 

 「瓔珞のをみなたち」と題されたのは全部で7点あるが、今回展示したのはその内の3点だけ(他はすでに発表済みか、次回10月に発表予定)。関連するものと合わせて5点を、RETAILと称するコーナーに誘導する狭く湾曲した迷路のような通路の金色の片面に展示した。RETAILというのは、まあ小売店というか、具体的にはブティックのイメージだと解しておけばよいだろう。だから、辿り着いた先のスペースには、洋服や靴やマネキン人形が設置されたままになっている。それはそれで面白い。そのスペースの商品棚にも関連する2点と、他の傾向の作品をいくつか展示した。それもまたアンチホワイトキュウーブ。

 迷路のような通路の反対側の白い面には、対照的な「晶」などの流れの紙の作品をマット装にて展示。通路の側壁の後半の曲面はオーバーハングしており、作品の展示には少々苦労する。ともあれ、これだけ狭い幅の通路の両面に作品を展示した例は他にあるまいなどと、妙な自負を秘かに抱く。「してやったり」の感。

 

 さて「をみな」である。「をみな」とは「若くて美しい女」の意。奈良時代の古語(平安時代には撥音便化されて「をんな」となった)。「をとめ」に少し近いが、多少意味が違う。「女/おんな」でも良いのだが、私は古語というものが割と好きで、時おり作品タイトルや詩歌作品や文章中にも使うことがある。「女/おんな」のあたりまえの平板さでは味気なく、やはり「若くて美しい」というニュアンス、憧れめいた感情を忍ばせたいからである。

 「瓔珞」とは古代インドの貴族の宝石などを連ねた装身具から発して、仏像の首、胸あるいは天蓋などに用いられた飾りのことである。飾り=装飾ということで、前稿で取り上げた作品群とつながる。また私の基本的なコンセプトというか、イメージの一つである「荘厳(しょうごん)」ということとも通底する。

 したがって「瓔珞のをみなたち」というのは「宝石のような装飾によって荘厳された若くて美しい女たち(の絵)」ということになる。開き直って言えば、それは、描かれた画像は、すなわちベクトルの曖昧なシンボリズムとして発現する。もとより私は「をみな」そのものに対して強い憧憬を持っているから、その意味するところを一言で言うことはとてもできない。

 

 ここ数年、昔からの私を知る人からは「河村が女の絵を描いている!」などと言われ、驚かれることが多い。確かに私は永く、女と限らず、人物をほとんど描かなかった。まったく描かなかったわけではないが、その数は少なく、ほとんどが具体性に乏しい観念的なシンボルとしての図像であった。

 油絵の源郷であるヨーロッパにおいては、絵画の王道は宗教画―歴史画―肖像画―人物画の系譜である。しかしそのことは、アジア/日本=非ヨーロッパということを持ち出さずとも、私には無縁であっただけの話だ。人物を書かなかったのは必然性がなかったからであり、人物=人間にまつわる現実感を忌避していたからだと言ってもよい。もともと人物画に、というよりも人間に興味が薄いのである。人間嫌いと言ってもよいのだが、私は基本的に人間よりも自然を上位に置いているのである。

 と言って、人間を描かないと決めていたわけではない。描かないことに対しての若干の負い目も持っていた。いずれにしても、あくまで必然性が訪れなかっただけなのであるが、ここ数年、何となく人物、それも女を描きだしたことに、明確な内的理由を挙げることはできない。人物/女に限らず、モチーフやテーマといったものは、論理的帰結として導き出されるものではあるまい。それはあくまで基本的には私に「訪れる」ものなのだ。したがって心の準備や計画などない。気がつけば描き出していたのだ。

 今回は出品していないが、2013年には「をみな」というタイトルの作品を6点描いている。私は基本的に「シリーズ」とか「バリエーション」という考え方、発想法が好きではないのだが、その「をみな」というタイトルの作品群は、今見れば「シリーズ」としか言いようがないようにも見える。しかし、それはあくまで結果から見てそう見えるのであって、初めからそのように意図して複数化したのではないという点で、かろうじて「シリーズ化」は免れていると思う。まあ、些細な違いでしかないが。

 その少し前の2012年頃にいくつか女性をモチーフとした作品を描いており、2010年頃には「マタハリ」をテーマとした何点かの作品を、前後してや女性の印刷物によるにコラージュを制作しているから、そうしたあたりが準備段階となって今回の「瓔珞のをみなたち」がポロンと紡ぎ出されたのだろうと思う。

 

 絵には系統的進化といえるような展開は、ないのではないだろうかと思う。Aというステージをクリアすることによって次のBというステージに行き、次いでC、Dに順次至るといった段階的発展は、少なくとも私においてはありえない。行き当たりばったりというほど杜撰ではないにしても、制作とは地図を持たぬ直観の旅/彷徨だと思う。ある一点の、あるいは同時進行する複数の作品の制作、それらの交錯した連鎖を通してしか先の作品のイメージは生み出されない。少々ロマンチックで幻想的なイメージではあるが、私は制作の展開というものを、そのようにイメージしている。以上は余談である。

 

 もう一つ別の余談を記しておく。

 今回取り上げるものの中に基底材として「パーティクルボード」とあるものが3点ある。パーティクルボードとは木材チップと接着剤を圧縮して成型した建材の一種。それに何種類かの地塗塗料を塗布して描画面としたのだが、それは1982年だから30年以上前の学生時代にまとめて作ったものである。当時は各種の技法や材料を色々と試していた頃で、ゼミか何かで作ってはみたものの、会わないというか、使いこなせなかったという感じで、以後未使用のままずっと持ち続けていたのだ。私は断捨離どころか、どちらかといえば物持ちの良い方だとは自覚しているが、それにしてもよく持ち続けていたものだと思う。それ以上に、よくそんなものにあらためて描こうという気になったのが、われながらちょっと不思議である。つまり最近は、イメージであれ、材料であれ、何でも自在に使いこなせるような気になっているということなのだろうか。だとすれば、それはそれで喜ばしいこと言うべきか。

 いずれにしても、それらの作品はそのパーティクルボードの存在なしには描かれなかった作品なのである。手持ちの素材が作品世界を決定することもあるのだということ。

 

 

 ↓ 750「巫女」

(2017.5.8~2018.1.19 25×18㎝ パーティクルボードに石膏地、樹脂テンペラ・油彩)

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 「巫女」という言葉とそのイメージは、私の中ではけっこう大きい。人に神の言葉を伝える者。人と神の媒介者(メディウム)。その手段としての芸能、などといったこと。なぜユダヤキリスト教イスラムでは預言者が男で、より古い宗教である神道その他では巫女=女なのか。

 ただしこの作品もタイトルをつけたのは、完成後か、完成近くなってから。つまり「巫女」という絵を描こうとしたのではなく、「をみな」のイメージで描いていく中で自然に「巫女」という言葉が降りてきたのである。タイトルは、目指す地点ではなく、後追いで建てられた道標なのだということだ。

 塗りっぱなしの地塗り層の石膏地のマチエールが、結果としてちょっと面白い効果を上げている。

 

 

  ↓ 755「瓔珞のをみなたち-1(霧の滴)」

(2017.6~8.  25×18㎝ パーティクルボードに麻布・エマルジョン地/1982.8製作、樹脂テンペラ・油彩)

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 「瓔珞のをみなたち」と題した最初の作品。見てわかるように、作品の主役というか動機は、ほぼ左右対称の装飾的構成である。私の場合、こうした構成をとる際には、最初のほろ酔いかげんでのイメージスケッチの次に、必ず定規やコンパスなどを使った下図を作るというやり方をしていたのだが、この作品からはそのやり方をやめたというか、必要としなくなった。描きとめておいたイメージスケッチをチラ見しながら、パネルに直接フリーハンドで描く。線が少々曲がっていようと、不正確であろうと意に介さない。多少曲がっている方が、直線性が出る。味が出る。それは私にとって小さな革命であった。ようやく私も、ほんの少しではあるが、線や形を意のままに使えるようになった気がして、少しうれしかった。

 「霧の滴」というサブタイトルは、日本のロックバンド、ソウル・フラワー・ユニオンの曲から。やはり作品完成前後の絵柄と、女性ボーカルの意志的な歌声が結びついて思いついたタイトルである。

 ソウルフラワーユニオンは現場主義を標榜し、民謡や大衆歌謡、労働歌、革命歌などを取り入れたユニークな、私の好きなバンドで、「霧の滴」は1910年前後のアイルランド独立運動に取材した曲。第二次大戦後に完全独立するまでのアイルランドとイギリスの関係は、戦前の朝鮮と日本の関係と似たようなものであった。アイルランド独立運動自体は日本ではあまり紹介されていないようで、私も詳しくは知らないのだが、もともと私は独立運動や革命運動、抵抗運動といった反体制運動全般に基本的に共感を感ずる者である。詳しく知らないからといって共感していけないということにはならないだろう。体験していないことにも共感できるのは、想像力によってであるのだから。

 いずれにしても形や構成、絵具使いなどといった造形的要素には、それまでの私の中にはあまりなかった要素が自然に出てきて、多少戸惑いつつも、比較的楽しく描けたような気がする。幸いにというべきか、今回売れなかったが、しばらく手元にとどめておきたい作品である。 

 

 

 ↓ 757「瓔珞のをみなたち-3(赤色旗)」

(2017.7.20~2018.5.7 F3 パーティクルボードにミックステンペラ地/1982.8製作、樹脂テンペラ・油彩)

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 全体の構成は他と同様に左右対称の装飾的構成。中のをみなの扱いに苦労した。他と違って全身をいれのはたこの作品だけ。彼女の持つ赤色旗は当然共産主義のそれと見られても構わないのだが、なぜこのようにセミヌードのをみなが、稲妻の光る荒野に立っているのかは、作者としても説明のしようがない。絵解き的には割と簡単に読み解けそうであるが、簡単に読み解かれてしまっても、それもまた仕方がない。作者はどんなに扱いに困っても、自分に訪れたイメージに忠実に従うしかないのである。

 ちなみに、会田誠の作品に、日韓の女子高生がそれぞれの国旗を持って立つという絵(『美しい旗 戦争画RETURNS』があるが、それとの類似に気がついて、少し動揺したが、結果として似たところが出てきてしまったのはまあ仕方がないと思うしかない。いや、そもそも似ていると思う人は、ほとんどいないかもしれないし。

 ここであえて赤旗共産主義に言及しておけば、私は共産主義とは、人間の考えだした最も優れた理想主義の一つだと高く評価している。そしてその理想主義は、キリスト教であれイスラム教であれ、宗教のそれと同様の、人間には達成しえないがゆえに永遠に「理想」の域にとどまらざるをえないものなのだということだ。理想に対する人間の現実存在。宗教はいまだにその達成不可能性を自らは認めていないが、共産主義ソ連崩壊を具体的事例として、その達成不可能性を証明されたと見なされている。

 少し余談を加えておく。

 共産主義原理主義が達成不可能な理想主義なのであれば、次善の策として修正社会主義としての社会民主主義ということになるだろうし、実際に戦後から今日にいたるまでヨーロッパ社会を主導してきたのは社会民主主義であるということを、日本人も再確認しておくべきだと思う。

  

 ↓ 759「瓔珞のをみなたち-5」

(2017.7.22~2018.3 自製キャンバス/麻布に弱エマルジョン地、樹脂テンペラ・油彩)

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 「瓔珞のをみなたち」も5作目となると、少し手慣れてきた=退廃し始めてきた感があった。しかし手慣れてきているので、作業効率は良い。しかし芸術においては「慣れ」ということは、基本的に危険だ。だから何か新しい未知の要素を入れなければいけない。この作品では、過剰ともいえる色点(ドット)を描き加えることにした。造形的思いつきである。

 「過剰」は「装飾」の一要素、あるいは可能性の一つである。そして「過剰」ということは私にとって、大事な要素の一つである。「やりすぎるぐらいがちょうどよい」。「過剰」の果ての静寂・静謐に至ること。

 制作途中ではその過剰さのゆえに、一時かなり下品(?)な趣きを呈したらしく、女房のひんしゅくを買っていたが、そんなことを気にしてはいられない。ある種の静けさには辿り着けたと思うが、さて。

 ちなみにこの絵に限らず、最近の作品に描かれている女性・人物は一切現実のモデルはいない。写真や図版も使わない。ただ想像力や曖昧な記憶だけで描いている。モデルや図版を見るということは、その再現性=記録性にとらわれて、絵画的リアリティが損なわれるからである。私の場合は、というべきかもしれないが。

 サブタイトルはなんとでも付けられるとも思ったが、あえて付けなかった。曖昧なものは曖昧なままに。

 

(記:2019.6.4)

個展「耀ふ静謐」 レポート―5(フェイスブックおよび「装飾」について、など)

 個展(5.13~25 SALIOT)は終わった。

 始まって見れば、予想していた以上の規模となった。例えば100号以上6点を含む全50点という点数であり、会期は二週間、会場構成は複雑で広い。また、一般的な画廊ではなく、ビジネス街での企業(製造業)のショールームという勝手の違った世界ゆえの、事前から会期中にいたる対応や準備、また事後処理等々で、相当疲れたというのが本音である。

 さらに会場までの往復の電車の冷房や、会場内での冷房と乾燥が原因で、会期半ばで風邪をひき、それに夜ごとの飲み疲れが追い打ちをかけて、個展が終わってから4、5日寝込んでしまった。

 それはまあ、しかたがない。いろいろとしんどいことはあったが、成果もあった。それで良しとしよう。

 

 個展とはまた別の話であるが、会期の少し前からフェイスブックを始めた。それについては、簡単に言えば、「現代に生きるアーティスト(画家)として、必要最低限のインフラ」という息子の言葉に背中を押されて始めたのである。実を言えば、息子の真意と私の受け止め方には若干の食い違いがあったのだが、それはまあ、たいしたことではない。

 ともあれそうして始めたフェイスブックは、実際問題として今回の個展の宣伝媒体として確かに機能した。それが観客動員数に寄与したかとなると、数字だけ見ればそうとも言えないにしても。

 しかし、一回限りの事前の情報提供としての案内状(フライヤー)に比べて、事前から会期中を通して何回も情報を発信することのできる複数回性と拡散性は、ある程度予想はしていたが、今さらながら確かにたいしたものだという気はした。

 だが、言うまでもなく、フェイスブックにはフェイスブックのルールというかリテラシーといったものがある。ブログにはそれなりに慣れて、自分の流儀といったものを多少は身に付けているように思ってはいても、フェイスブックのそれには不慣れなわが身としては、その差異がなんとももどかしい。要は両者の差異をふまえて使い分ければ良い話なのだが、並行して両方やるとなると、時間的にも思考的にも結構な負担である。まあフェイスブックへの投稿は、本来それほど考えてやるものではないのだろう。

 それやこれや考え惑っていると、そもそも自分には発信すべきものを持っているのか、発信したいという気があるのかといった、根源的な懐疑に突き当たってしまいそうになる。それもまた別の話だ。「隠山造宝」もスローガンとしては良いが、スローガンだけでは身を処していけない。

 

 私にとって、ブログを簡単に言えば、それは言葉によるデッサン(≒写生≒記録)の公開だと思っている。フェイスブックは言葉によるクロッキーにさえもならない。画像(写真)の要素が大きすぎるし、控えめであることを要求される言葉(文字)の量では、それが観念から思考に至る過程を満たすことはできないし、そもそもフェイスブックにおいては観念や思考は歓迎されないのだ。むろんそれは私にとっての話であって、仕事・営業・宣伝のツールとして使う人にとっては自明のことであろう。私の場合は、アナウンスという点では、個展やグループ展といったイベントがそうそうあるわけでもない。

 もともとブログであれフェイスブックであれ、多少なりともSNSに関与しておきたいと思ったのは、息子が言った「情報弱者にだけはならないで」という一言にショック(?)を受けたためでもあるが、もう一つは自分の作品を載せたいという、これはこれで単純ながら切実な気持ちがあったことも事実だ。それは、いまさら有名になりたいとか、作品を売りたいとか、そういうことではない。そんな甘い幻想とはもう無縁の年齢だ。

 だが制作した作品を、一週間程度の画廊での発表で、せいぜい200人程度の人の目にふれさせて、後はお蔵入りという現状を思うと、そこにやはりなにがしかの虚しさというか、無意味さを感じざるをえないのもまた事実である。

 そうした虚しさに対抗する工夫の一つとして、最近までの30年ほどは東京と山口県(故郷)の画廊で一度ずつ計二度発表することを基本形、原則としてきたが、山口県の画廊のオーナーが数年前に亡くなられて以後、この形は自然消滅した。

 もう一つの工夫として、作品集の発行(自費出版)もしてきたが、それを買おうという人は画廊に来る人よりもさらに少ない。

 こうした「芸術的衝動の発動→制作→発表→在庫の山」という事態をへて「保管場所の苦労→保管することへの根源的懐疑」という袋小路的現状に至っているのは私に限ったことではあるまい。多くの画家制作者が同様であろう。世に蔓延している「断捨離」という思考は芸術的には不毛きわまりないものであるが、そこに一理を認めざるをえないのもまた事実である。

 現在私は自宅とは別に、車で一時間ほどのところの元織物工場の一画を倉庫として借りているのだが、五年先十年先を思うと、日々頭が痛いのである。

 そうした現実のしんどさからの一時的な逃避として、SNS/フェイスブックへの作品画像の投稿ということがあるのではないか。少なくとも私の場合はそのようなものとしてフェイスブックが考えられる。逃避ということも、生き延びるためには、時には大切かつ有意義なことだ。

 

 当たり前だが日々の生活の中心は制作である。制作に倦んだとき、気晴らしに本を読み、資料整理や骨董いじりをし、裏山歩きをし、ブログの文章を書く。そこに新たにフェイスブックが加わるとすれば、やはりブログの文章への誘導装置としてということになるのだろうか、

 まあしばらくの間はそういった感じで、自分の中で折り合いを探っていくしかないだろう。

 とりあえず今回始めた「レポート」を引き継いで、しばらくやってみようと思う。「レポート—4」までに取り上げたのが10点ほど。とにかく残り全部の画像を投稿してみようと思う。そこまでやってみたら、次の展開というか、可能性も見えてくるのではないかと期待して。

 

 一つ困っているのは、見せ方として、ある作品を、例えば692「やわらかな装飾」を取り上げる時に、必ずしもそれは「シリーズ」ということではないのだが、おのずと似たような「装飾」をテーマとした絵柄のものを関連して取り上げたくなるだろうということ。しかしそれをやってしまうと、それこそキリがなくなりそうだ。やはり、まずは今回の個展の全出品作の紹介ということで、いったんやってみよう。

  

 ↓ 692「やわらかな装飾」

(2015.12.1~2016.1.19  53.5×40.1㎝ ワトソン紙に東南アジア紙・膠地、鉛筆・アクリル・砂)

この手のものとしては3点目。紙は東南アジアのどこかのもの。こうしてみるとアルメニアグルジア的、あるいはケルト的要素が目に付く。

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 前稿の最後に紹介したのが696「装飾(ひびきと光)」。よって今回はその流れで「装飾」をテーマ(?)にしたものを紹介する。

 「装飾をテーマ」ということについては、前稿で簡単に触れている。装飾といっても多様であり、それが抽象的であろうと具象的であろうと、およそ古今東西、装飾を持たぬ民族・歴史はなかったと言える。今回とりあげるのは、それらの中でも中近東、イスラム圏のそれに根差すというか、影響を受けたものである。むろん影響といってもそれほど直接的なものではない。

 私がそれらに引かれるのは、そうした地域が宗教的理由によって、人物はおろか、鳥獣以上の生き物の具象的再現的表現を基本的に禁じられている所のものだからである。

 言うまでもないが、装飾の多様性を見てゆくと、それは民族的地域的な固有性と共に、いくつかの面においては汎世界的な共通性も持っていることに気づく。それは普遍性と言い換えてもよい。

 およそ人間には表現の本能が備わっている。それが絵画的表現をとるにせよ、あるいは音楽的表現、舞踏的表現であるにせよ、それが表現であるかぎり、装飾性ということと無縁ではいられない。ゆえに装飾もまた人間における本能的営為であると言える。

 仏教であれキリスト教であれ、その初期には偶像崇拝禁止という観点から、神仏の像を作り描くことは禁じられていた。しかし人々はその初源の原理に納得しえなかった。古代においては、イコン無くして現実的には宗教は広がりようがなかったからである。一人イスラム教のみその原則を今なお基本的に守っていられるのは、それが母体であるところのキリスト教が完成して以降の7世紀に成立したものだからである。すなわちその教義の前提としてのユダヤ教キリスト教における聖書の図像的イメージを、現代にいたるまでのムスリムは内蔵しているからではないかと、私は推測している。

 いずれにせよ、そのように鳥獣以上の生き物の具象的再現的表現を基本的に禁じられている世界における、唯一可能な絵画的表現としての装飾とは一体何なのだろうかというのが、私の根本的な興味なのである。

 

 私の海外への旅は、油絵を学ぶ者としての順路であるヨーロッパから始まった。その後、カウンターポジションとしての日本を含むアジア各地へと、またヨーロッパへと、何度か交互に旅を重ねてみると、それは要するにキリスト教圏と、仏教・ヒンドゥー教道教圏を比較対照して見ることであったと気づく。その結果というか、副産物(?)として、もう一つの未知の文化圏・宗教圏としてのイスラム圏が気になってきた。

 そしてトルコから始まり、インドのいくつかの地域、モロッコチュニジアアゼルバイジャンウズベキスタンと旅した。上記したように、ある時期のミニアチュールや、世俗主義的社会体制もしくは旧ソ連邦における宗教を否定する社会体制に基づいた近現代を除いては、基本的に再現的描写的絵画の歴史的文脈は存在しなかった。あるのはひたすらなる装飾の森であった。ムスリムの世界においては、絵を描く表現の本能は、装飾の中に溶け込んでいったのだろうか。ともあれ、私はそうした装飾の森の、特異な美しさと豊かさに心ひかれた。

 

 以下の作品を発想し描くにあたって、他と同様に、論理的な要素はほとんど介在していない。ほぼ情動的衝動を造形化したとしか言いようのない制作プロセスであった。装飾ということ自体がテーマというかモチーフなので、きっかけとしてはともかく、個々の要素としては必ずしも中近東イスラム的なものとは限らない。前後して訪れたアルメニアグルジア的な要素や、それ以前に訪れたケルト・北欧的な要素も混在しているだろう。

 いずれにしても再現的あるいは説明的意図はない。その意味では抽象画だと言えるかもしれないが、私としてはあくまで「装飾をテーマとした絵画」「装飾それ自体の意味を探る絵画」なのである。

 

 

 

 ↓ 697「異国風の形而上学的装飾」

(2016.1.6~2.17  59.3×41.3㎝ 水彩紙に和紙・膠地、鉛筆・セピア・アクリル)

この手のものとしては6点目で一応最後と言えるもの。それまで可能だった「まとまり」が何だか制御不能というか、解体し始めた感じになった。以後この延長上のものを二三点は描いたが、「まとまり」は二度と訪れなかった。一種の慣れが生じたのだろうか。

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 ↓ 698「光と観念の装飾」

(2016.1.24~2.17 40.8×26.7㎝ 台紙/シリウスD.P.に和紙・膠地、鉛筆・アクリル)

 「まとまり」が訪れなくなったことによって、「装飾」にはいまだ関心があるもののモチベーションがないといった状態で制作したもの。したがってシンプルではあるが奥行きといったものはない。シンボリズムの方に逃げているか?

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 ↓ 705「モロッコの窗から」

(2016.2.27~6.14  39.9×28.0㎝ 台紙/シリウスD.P.に和紙・膠地、鉛筆・水彩・顔彩・アラビアゴム・アクリル)

 これは上記の3点とは異なるシリーズ(?)のものだが、装飾という観点からここに挙げる。この関連のものは何点かあるが、はっきりモロッコチュニジアでの体験をもとにしたものは数点程度。モロッコチュニジアマドラサ(神学校)の装飾にインスピレーションを得たというか、それにクレーのチュニジア体験を重ね合わせたところもある。技法的には和紙に透明水彩や、同じことなのだが、顔料をアラビアゴムで練ったものを使うことの楽しさで描き連ねたようなところもある。こうした説明的意味から離れた色とリズムだけの織りなす世界に遊ぶのは楽しいものだ。

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 ↓ 749「モロッコのバラ」

(2017.3.20~2018.1.2  22.4×27.2㎝ 市販パネル/シナベニヤ)に台紙+和紙・ドーサ引き、彩墨・アクリル・鉛・革・真鍮釘)

 モロッコのある霊廟の庭に咲いていたバラを、珍しく実際に見て写真に撮って描いたもの。なぜと言われても困るが、美しかったことは確かだ。妙な話だが、いかにも「モロッコ的」だと感じ入った覚えがある。いずれにしても「霊廟に咲く薔薇」だから、おのずと対立相反循環する世界観なのである。中央の黒い形はそのころ使っていた革財布を切り取って使った。物質感のある黒が欲しくなったのである。

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 ↓ 735「月の窓 (晶夜)」

(2016.11.10~2017.2.27  29.7×21㎝ パネル/シナベニヤに和紙二枚重ね、アクリル)

これはイスラムではなくアルメニアグルジア体験。このシリーズは10点ほどあるが、今回出品したのはこの1点だけ。前稿の736「アララット―いにしえの光」にやや近いか。風土も宗教も異なる世界の、装飾の差異性と共通性。

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個展「耀ふ静謐」 レポート―4

個展「耀ふ静謐」 レポート―4

 

これまでどちらかと言えば、デーハな(?)作品の紹介が多かったので、今回は少し地味めなものを紹介します。

 

 ↓ 736「アララット―いにしえの光」
(41.8×59.2㎝ 2016~2018年 版画用和紙/アクリル・彩墨)
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 アララット山は、現在はアルメニアとの国境に近いトルコ領内にある山。古来ノアの箱舟の辿り着いた山として有名
 キリスト教アルメニア人の心の山であるが、その山麓第一次世界大戦前後にトルコ=イスラム教徒による100万人単位のアルメニア人虐殺があり、今に至るも両国間の民族的アポリア(解決困難な難題)となっている。
 数年前にアルメニアを旅した時、その優美な姿を見て強く心惹かれた。その歴史性を含めて。
 もとよりかりそめの旅人である私に明快に言えることなどないのであるが、手前に描いたアルメニアの印象と合わせて、そうしたことに対する私の心情を綴った作品である。
 ちなみに版画用和紙とあるのは、生前東京学芸大学で版画を教えられていた宮下登喜雄さんが東秩父村で指導(?)されて作られたもの。現在も作っておられるかどうかは知らないが、それも淡い縁であった。
 
 
 ↓ 635「何処へ」
(41.5×28.4㎝ 2012~2013年 台紙に和紙/アクリル・コラージュ・彩墨)
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 これは私の中でも位置づけ、意味付けの難しい、類例のない作品。(会場では額装してあるので、少し印象が違うかもしれません。)
一見してわかるように横断歩道の信号機をモチーフとしている。
 何年か前から信号機が電球式からLED式にかわり、歩く男の図像が「青(緑)地に白」から「黒地に緑(のドット)」と変わった。
 変わり始めの頃で、場所によって従来のものと新型のものと混在していた時期であり、その変化に気づかず、妙な違和感をしばらく感じていた。調べて見たらちょうど切り替えの最中だと知って、安堵したのであるが、『1Q84』村上春樹)の中の「二つの月」のような不思議さであった。
 そうしたことから連想したもろもろの「我々はどこからきたのか。(中略)我々はどこへ行くのか。」(P.ゴーギャン)、「われわれは遠くから来た。そして遠くまで行くのだ。」(白戸三平/忍者武芸帖)に通底する感覚をごくあっさり描いたもの。

*上の一文を書いた後で知ったのですが、忍者武芸帖のそれは、イタリア共産党のパルミロ・トリアッティ(1893-1964)の言葉だそうです。知らなかった。様々な立場から似たような考えに到達するもんだ…。
 
 
 ↓ 603「夜のうつわ」
(80.3×55.9㎝ 2011~2012年 台紙に和紙、アクリル・膠彩・地の粉)
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 次に紹介する604「月の器」と並行して制作。共に既発表のものだが、後者はすでに売れてしまっている。今回この作品を買っていただいた方は、作品集を見て、両方欲しいと言われたが、残念ながらそれはできません。
 この作品はギリシャサントリーニ島の考古学博物館あたりで見た、おそらくミケーネ文明あたりの壺の印象が直接の契機となっている。もちろん忠実な再現ではないが。
造形的要素はかなりシンプル。水性絵具(膠彩・アクリル)のたらし込み的描法のコントロールの難 しさはあったが、私にしては珍しく楽しく描けた作品。
 
 参考までに。
 ↓ 604「月の器」
(80.3×55.9㎝ 2011~2012年 台紙に和紙、アクリル・膠彩・地の粉)
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 内容的には「夜のうつわ」とほぼ同じ。中学高校の同級生のMM君が5年ほど前に買ってくれた。
 古いものを見て我々が美しいと感じる、そうしたフォルムや造形性などといったものは、それを使用していた当時の人たちにとって、どれほどの意味があったのだろうかと、思いはめぐる。
 

 ↓ 696「装飾(ひびきと光)」
(71.3×52㎝ 2016年 台紙に和紙/揉み紙、鉛筆・セピア・アクリル)

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 一連の「装飾」自体をテーマ(?)にしたものの一つ。
 装飾は常に二次的なものとして在った。何物かのための存在。存在理由を自身は持たないものとして。
 だが私は装飾それ自体を描いてみたかった。ゆえにそこに描かれたものは、この作品にはおそらく、「意味」はない。「意味」がないところに顕ち現れるものがあるとすれば、それを見たい。それは何か。仏教で言うところの「荘厳(しょうごん)」と通底するものがあるか、どうか。
 この作品も、自分としては比較的珍しく、割と楽しく描けたものの一つである。