艸砦庵だより

河村正之のページ 絵画・美術、本、山、旅、etc・・・

伊勢・大峰・大和への旅(観音峰山・三輪山) その2

4月12日 雨後曇り 強風

 前夜半から嵐。台風並みの低気圧だとか。朝になって雨は多少小やみになったが、相変わらずの強風。もとより八経ヶ岳へのアプローチの林道も通行禁止で、登りようがない。登山は中止、強風の中、天川村観光の一日である。今日もA君に付き合ってもらうことになった。感謝。

 最初に予定していた面不動鍾乳洞は、風雨のせいか、閉鎖されている。幸先が悪いが仕方がない。円空仏があるという栃尾観音堂に向かう。

天川村は2015年12月で人口1558人(「天川村公式サイト役場ページ」による。)というから、やはり過疎の村と言うべきであろう。それでも大峰山洞川温泉があるために、観光客は県内では奈良市についで二番目に多いそうだ。また、日本史で重要な意味を持つ南北朝について私の知るところは少ないのだが、調べれば面白そうである。その南北朝の歴史があらゆるところにまとわりついているのが天川村であるようだ。とはいえ、やはり人家は少ない。また、数年前の台風で大きな被害をもたらした土砂崩れの修復工事が今も続けられているのが、あちこちで見うけられた。

 

 ふと見ると道路の脇に立派な滝が落ち込んでいるのが見えた。みたらい渓谷だと言う。かたわらに遊歩道があるようで、これを見逃す手はない。行がけの駄賃とばかり、車を降り、遊歩道に入ってみる。沢の上にかけられた吊橋から滝を見下ろすことができる。強風のせいもあり、連瀑とゴルジュの、なかなかの迫力である。そもそも大峰・台高をはじめ、紀伊半島は沢登りの王国でもあった。私自身は結局、果無山脈の中級の沢、八木尾谷を一本登っただけで終わってしまったが、数々の豪快な沢に憧れたこともあった。その王国の片鱗に予期せず遭遇したということだ。連瀑の先にはナメとさらに滝が続いているようだが、遊歩道をこれ以上辿ってみても仕方がない。思いがけぬ出会いを写真に撮って車に戻る。

 

 ↓ みたらい渓谷を見下ろす 

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 ↓ ナメの奥にも滝がある  

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 円空仏の安置されている観音堂は、そこから少し行った天ノ川左岸の栃尾集落にあった。A君の顔見知りの方が堂守をされているとの由。そもそも「堂守」と言う言葉が今も生きているという事自体が驚きである。折よくそこに居合わせたその方に許可を得て小さな御堂の中に入り、三尊の立像と一回り小さな護法神を見る。格子戸越しでやや見づらいが、それはしかたがない。撮影は遠慮したが、中でも護法神の造形が味わいがあり、良いものと見えた。円空はいくつもの護法神を彫っているが、聞けばここのものはその最初のものだとのこと。そうした初めての作ということのみずみずしさも現れているように思われた。護法神ヒンドゥーに由来するものが多いが、円空のそれは、彼自身の個性をへて、見事に日本化された造形であった。基本的には宗教心を持たぬ私であるが、円空の意図するものの、少なくとも一部は、感知できるように思われた。

 

 ↓ 栃尾観音堂の外観  

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 一通り見終わって、外にあった案内板を読む。最後の方に書かれていた「昭和四十八年七月二十日より八月十四日まで、朝日新聞社主催の『円空・木喰展』に出展される」という一文が気になった。昭和四十八年、私は18歳。その年、私は浪人して東京に出てきており、「円空・木喰展」を見た記憶がある。確か、東京に出て初めて見た展覧会ではなかったか。

 

 ↓ 案内板  

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 私は東京に出てきて以来、見た展覧会のチケットはほぼすべてとってあり、今はそれらをファイルに整理して保存している。それ以前、東京に出て来るまで見た展覧会は、小学生の時に学校から引率されて見に行った「山下清」と、高校生の時に悪友と一緒にヒッチハイクで福岡まで見に行った「ミレ―展」の二つだけ。東京に出てきて初めて見たのがこの「円空・木喰展」だったように記憶している。

 帰宅後、確認してみたら写真のように、間違いなくその「円空・木喰展」のチケットが一番最初のページに貼ってあった。また、正確な年度はわからないが、同じページには「古代シリア展」、「大ポンペイ展」、「横山操展」などのチケットが貼ってある。つまり油絵科の受験生でありながら、油絵以外のものを多く見ていたことに、今振り返ってみても、何か自分らしいなという感慨を禁じえないのである。

 

 ↓ これが証拠の昭和48年のチケット。この護法神栃尾観音堂のそれではない。 

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 ともあれ、44年前に見ていたのである。偶然と言えば偶然でしかない。だが、もともとここ大峰に来る気になったのも、Fを通じてA君と知り合ったという偶然の所産である。それも山に登りに来たのであって、円空仏があるのを知っていたわけではない。そもそも予定通りに天気に恵まれ、山に登れていれば、ここを見に来ることはありえない。また堂の外の案内板に上記の説明文が記されていなければ、それが44年前に見たものであるということを気づきようがないのである。かなり精緻に織りなされた偶然である。世界はそのようにできている、ということか。後になってじわじわと感動が滲みだしてきた。

 なお帰宅後の事後学習で知ったのだが、この一帯は、栃尾観音堂や洞川温泉街、みたらい渓谷などを含めた55の項目をまとめて「森に育まれ、森を育んだ人々の暮らしとこころ~美林連なる造林発祥の地“吉野”」として文化庁から「日本遺産」に認定されているとのことである。何とか百名山、何とか100選といった行政のお墨付きリストアップが大流行りだが、へそ曲がりな私としてはそうした他者の決めた価値観にはウンザリなのだが、まあ色々な考え方もあるということで、ここではあまり毒づくのはやめておこう。

 

 その後近くの「天川薬湯センターみずはの湯」で、昼風呂を味わう。

 いったん洞川まで戻ってみると、朝は閉まっていた面不動鍾乳洞が開いている。話のタネにと、材木の形をしたおもちゃのようなモノレールに乗って入口へ。内部は小規模なもので、色調が変化するライトアップはきれいと言えばきれいであるが、特段言うべきものでもない。近くには他にいくつもの鍾乳洞があり、中でも昨日の母公堂登山口近くにある、やはりA君のお祖父さんが拓かれたという五代松鍾乳洞はより見応えがあるらしいが、まだ閉鎖中とのこと。

 

 ↓ 面不動鍾乳洞 一巡20分ぐらい  

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 一通り見終わってこれも帰りがけの駄賃とばかり、動鍾乳洞の入り口から続く遊歩道に足を踏み入れてみる。20分ほどでかりがね橋なる吊橋にさしかかる。「かりがね」とはふつう「雁」のことだが、このあたりでは「岩燕」のことを言うとのこと。所変われば名前も変わる。落下防止のためだろうが、左右上下、金網で囲まれた吊橋というのも初めて見た。一応渡ってみたものの、そこからはまた登りになるし、雨がまたぱらつき始めるしで、降りて宿に戻ることにした。

 かくて曇天時々雨、強風下の観光の一日は終わった。

 

 ↓ かりがね橋  Kは高所恐怖症

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4月13日 曇りのち晴れ

 下山、春合宿解散の日。解散後、Kは東京へ各種健診に、F嬢は京都へ一人旅の途へ、私は葛城市在の友人宅訪問へと、三人それぞれの予定がある。せっかく名だたる桜の名所吉野の近くに来たのだからと、帰りがけの駄賃に、とりあえず人出の多い吉野を避けて、地元の人だけが知るという桜の古木が一本だけあるという穴場に向かった。吉野の近くの、限界集落の一画の高みにその古木はあった。あったが、残念なことにまだ蕾は固いまま。一期一会である。すぐそばの廃校となった分校跡地の満開の二三本の桜にわずかに気を紛らわせるものの、かえってKとF嬢は刺激されたようで、人出の多さをかえりみず、吉野に寄って行くという。その二人を裏道から送り届けて、A君と葛城市へ向かった。

 

 ↓ 隠れ吉野の古木 蕾は固し  

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 ↓ 廃校となった分校跡のこちらはきれいだった  

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 この辺らしい昼食をということで、吉野そうめん(にゅうめん)を食べに、たまたま入った店が、大神(おおみわ)神社のすぐそば。大神神社とは三輪神社のことなのか、とすれば当然裏にあるのは三輪山か?などと話しているうちに、登れるのか?ということになった。私は、三輪山は三輪神社=大神神社の御神体なのだから、登れないのだろうと勝手に思い込んでいたのだが、あにはからんや、登れるという。修験道の本場大峰天川村に住んでいるA君にしてもぜひ登ってみたいと言う。(かつては実際に「禁足の山として入山が厳しく制限されてきました。近代になり、熱心な信者の方々の要望もあり、特別に入山を許可することとなり現在に至っています:大神神社HPより」とのこと。)

 行き当たりばったりではあるが、登山(登拝)口の狭井神社に行く。登拝料300円なりを払い、「三輪山登拝証」のたすきをかけさせられ、あれこれと禁止事項の多い注意をかなり高飛車に授けられる。「一般の登山・ハイキングとは異なる」そうだからやむをえないが、まあここはルールに従うしかない。ちなみに飲食は禁止だが、水分補給は可とのこと。撮影禁止もかまわない。トイレ禁止も納得はできるが、山に入るとトイレが近くなる私としては少々困る。だが仕方ない。しかし「九、宗教活動及び勧誘行為などは謹んで下さい。」というのは、揚げ足取りと承知で言えば、読みようによっては??である。登拝=宗教活動ではないのか。

 竹杖を手に登り始めると、実によく整備された歩きやすい道。狭井神社で渡された案内図によれば、神社の標高が80m、山頂=興津磐座?が467.1mだから標高差は約370m。ちなみに帰宅後確認した地理院地図では神社120m、三輪山山頂三角点466.9mだから標高差は約350mとなっている。どちらが正しいのか。

 

 ↓ 地理院地図による三輪山 またしても横にならない 

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 山全体が神域ということで、自然のままに保たれているはずで、照葉樹の多い南西日本の森林相であるが、特に面白いものでもない。出合う人もやはりハイキングではなく登拝ということなのか、粛々といった雰囲気である。御神体ということで裸足で登っている人も二三人いた。山としては、基本的には単なる里山で、祭祀遺跡であるという中津磐座なども特に注意をひくものではない。

 頂上と思われるところは興津磐座として一帯に立ち入り禁止のロープが張り巡らされており、その周りを一周することもできない。三角点の存在も確認できない。離れた処にあるのか。

 ともあれ、予定外ではあったが一山登った、それもずいぶんと由緒のある山に登ったということに満足して、下山にうつる。

 登拝口も近くなったあたりで傍らの小沢に向かって何人かが騒いでいる。「沢の中に何か動く動物がいる」。撮影禁止ゆえ使い道のなかったカメラのズームでのぞいて見ると、どうやらフクロウの子が巣から落ちて沢の中で鳴いているようだ。ヒナとはいっても大型。助けるべきだとか、神域だからそのままにしておくべきだとか、議論は続いているが、われわれはそのまま元の登拝口に戻った。近くの小公園の満開の枝垂れ桜越しに見た三輪山はやさしくおだやかな風情であった。

 

 ↓ 三輪山 

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 ↓ 記念写真 

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【コースタイム】4月12日 曇りのち晴れ

狭井神社12:55~三輪山頂上13:45~狭井神社14:25

 

 その後、ちょっとした必要もあり、桜井市にある喜多美術館に立ち寄る。個人コレクター(旧山林地主)による近現代美術の小さな美術館。小さいがなかなか良いコレクションである。ゴッホピカソからボイスやデュシャンの「グリーンボックス」「スーツケース」まである。言うならば吉野の山林が作ったコレクションである。ただし、私立ゆえの維持保存の苦労はそれなりにしのばれる。

 

 その夜は葛城市のF宅にA君とともにお世話になった。一晩心おきなく飲む。

 翌日は近くの當麻寺を見る。初めてだと思っていたが、途中で40年前の大学の授業、古美術研究旅行かあるいはその後に、一度は訪れたことがあることに気づいた。憶えていないものだ。

 その後、和歌山にあるFの別荘に行こうという誘いを振り切って、帰途についた。家を出てちょうど一週間。そろそろアトリエに戻りたくなったのである。

 

 蛇足ではあるが、今回、大峰、三輪山當麻寺と宗教関連の地を訪れる中でふと思い至ったことがある。それは仏教であれ、キリスト教であれ、イスラム教であれ、およそ「宗教とは善意から発して悪と成るもの」ということである。誤解を招きやすい表現だと承知しているが、世界のあちこちで見てきたそれぞれの場、建築等の施設の豪華さ、今現在の維持の熱意や行政との関係、等々を見てそう思うのである。多くの人は、多かれ少なかれ、宗教を必要とする。その必然性もわかるが、また「宗教はアヘン」と言われるゆえんにも思い至らざるをえないのである。

 

 もう一つ、疑問というか、謎が残っている。標高の違いについてはすでに述べたが、地理院地図の写真を見てもらえばわかるように、三輪山山頂に至るには三四本の道記号が記されている。頂上には三角点もあるはずだし、そこから東に延びる尾根上にも道記号が記されている。しかし実際三角点があるとおぼしきあたりは立ち入り禁止のロープ。尾根伝いに進むことはできそうにない。三輪山が信仰の対象だということはわかる。しかしそこは神社の私有地(?)なのか、厳しい規制をする権利がそもそも神社サイドにあるのか、地図には記載されている山道を自由には歩けないのか、という疑問である。

 まあ、宗教のからむこの手の疑問に深くかかわる気もないのだが、素朴な疑問としては、今もあるのである。

 

 ↓ 帰途の新幹線から見た絶品の富士 

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                       (記:2017.4.20)

 

伊勢・大峰・大和への旅(観音峰山・三輪山) その1

 伊勢から大峰、大和へ、一週間の旅をした。三つのテーマ、三つの目的地、三つのパーティーの小旅行を一つに合体させたものである。

 

 一番目の旅は、高校同期の飲み会仲間との年に一度の小旅行。毎年桜を見ることが口実の一つである。4月8日、8:10東京駅集合に合わせて、前夜上野駅前のカプセルホテルに泊まった。これが大失敗。これまでも早朝の集合となると、私の普段の生活ペースでは前夜ほとんど寝ることができず、結局旅先で辛い思いをすることになる。そのため今回は余裕をもって一工夫したつもりだったのだが、うるさいやら、暑いやら、不快やらで、結局ほとんど眠れなかった。結論:私にはカプセルホテルは合わない。

 

 ともあれ、時おり小雨のぱらつく9日、伊勢に着いた。ここで東京組と山口組計10名が合流。この日最大唯一の目的地、伊勢神宮を訪れる。その歴史や意味に大いに興味はあるものの、これまで正面から相対したことはなく、当然訪れたことはなかった。こんな機会でも無ければ、おそらく一生訪れることはないだろう。正しい作法(?)にのっとって、外宮に参ってから、有志数名で歩いて内宮に参拝した。伊勢神宮そのものについては、本稿は一応山行記がメインなので、ここではふれない。というか、あまり書くことがない。個人的な感想としても、現地に身をおいたという体験で特に得られたというものは何もない。やはりその歴史と意味に正面から相対しない限り何もえられないというか、私とは縁が薄いということなのだろう。

 

 ↓ 伊勢の印象 その1 「中心は空白」

   西南日本で私の最も好きな樹は楠。(ちなみに東北日本では橅[ブナ:山毛欅、椈とも書く]である。)

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 ↓ 伊勢の印象 その2 幽玄の彩

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 その後、志摩の賢島の宝生苑ホテル、例の何年か前にサミットの記者会見が開かれたということでにわかに有名になったホテルに投宿。ここも何も言うことはない。松阪牛も伊勢海老も出なかった。

 

 ↓ 志麻の印象 花くだし―滅びの絢爛

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 翌10日、鳥羽での観光を楽しんでから帰宅する8名と分かれて、山仲間のKと下市口に向かった。これまで全く縁の無かった土地。途中の車窓の景色を楽しみにしていたのであるが、おりからの曇天と、引き続きの寝不足でほとんど眠っていた。下市口で単身山口より参加の、後輩のF嬢と合流。午後一本きりの、一時間半のバスの旅。ときおり見える、驚くほど急傾斜の山腹に巧妙にへばりついている集落に目を瞠らされるものの、やはりほとんど寝てしまっていた。終点、天川村洞川(どろかわ)温泉着。旧知のA君に迎えに来てもらい、彼の経営する民宿翠嶺館に到着。ここから二つ目の旅の目的、防高山岳部OB会春合宿、大峰登山が始まる。

 

 洞川温泉で民宿翠嶺館を経営する若いA君と知り合ったのは昨年、だったか。画家でもある彼の大学時代の先生F(奈良県在住)が私の古くからの友人であり、その友人と私の共通の恩師の作品にA君が惚れ込んだということからきた付き合いでる。もちろんそこには、A君の画家としての可能性を認めたということが、前提としてある。その縁で昨年秋にF嬢をまじえて洞川から山上ヶ岳等を計画したのだが、今も残る女人禁制のためにいったん挫折して、その時は九州の祖母山に転進した。

 本来であったら、私はこの時期は個展の予定が入っていたのだが、先方の事情により延期となった。その結果、不参加のはずであった上記の伊勢志摩旅行に参加することとなり、ついでにといったつもりで大峰行きを組み合わせたところに、高校山岳部の後輩F嬢も参加することになり、山岳部OB会春合宿とあいなった次第である。Kはもともと同期会も山岳部OB会もメンバーの一員であり、今年帰郷した山口からの参加である。

 天気が良くないのは事前にわかっていた。そのために天気予報を見ながら直前まで何度も計画を練り直した。当初の予定は初日が、洞川~レンゲ辻~稲村ヶ岳~法力峠~洞川、二日目が行者還トンネルまで車で送ってもらい、弥仙~八経ヶ岳~明星ヶ岳~栃尾辻~天川川合、というもの。だが今年は、雪はさほど多くなかったものの、春になっても気温の低い日が続き、そのため雪が融けていないとのこと。出発前に一週間ほど前のものという弥仙の記録をネット上で見ても、残雪豊かで、冬山そのものであった。K、F嬢共に雪山経験はない。とても予定通りの山行はおぼつかない。

 

4月11日 曇り一時小雨

 宿から最短コースで、ともかく法力峠まで行き、そこで判断することにする。朝食後、すぐ先の母公堂まで車で送ってもらう。登山口(7:40)からは杉の植林帯を行く。傾斜は緩やかで適当な道幅もあり、実に歩きやすい。かつての仕事道を利用した登山道だろうと思っていたが、後で聞くとA君の先々代が稲村ヶ岳に登山道を拓いたさいに、意識してなるべくゆるやかな傾斜で階段等の必要ないルートを心がけて作られたとの由。おかげで終始歩きやすい、疲れにくい道だった。植林帯もさすが林業の本場というべきか、枝打ちや間伐等よく手入れされており、明るい印象である。小さな沢にかかる橋を越え、一回の休憩をはさんで。ほどなく法力峠に着いた(8:50)。

 

 ↓ 母公堂からの登り始め

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 ↓ 法力峠

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 峠からは自然林となり、尾根上を辿らない、トラバース状の道である。上の方になると、橅も生えている。ここまで雪はほとんどなかったが、登るにつれて少しずつ現れてくる。多くはないが、部分的に凍っていて滑りやすい。タイミングを見計らって、このために持ってきた軽アイゼンを着けようと提案したが、まだ要らないという答えが返って来た。使ったことのない二人のために、練習を兼ねて早めに着けようという心づもりだったのだが・・・。

 

 ↓ 自然林の中のトラバース道 芽吹き未だし

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 ↓ 小沢やルンゼには橋がかけられている

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 道は稜線の脇を終始トラバース気味にゆるやかに登っていく。雪さえな

ければ特に問題のないルートであるが、昨年事故があったというあたりを見ると、多少の崩壊があったり、雪があったり、雪崩で倒木があったり、橋が壊れていたりと、なるほどという気はする。

 

 ↓ 雪が出始めた

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 ↓ 雪崩で壊れた橋

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 稜線に出るといきなり風が強まり、雪が多くなる。すぐ先が稲村小屋。入口のあたりはまだ雪で埋もれている。

 

 ↓ 稲村小屋

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 ↓ 稲村小屋 左に掘り下げられた入口がある

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 中には今日小屋の様子を見に来ていた経営者であるA君のお父さんがおられた。「アイゼンは持っているか。ピッケルは」と尋ねられる。軽アイゼンにピッケル無し。そしてすぐに、「ここから急に雪が多くなっており、この先のキレットの通過が危険だ。ここから引き返しなさい。」とのお言葉。納得である。雪の量も多いが、湿った重い雪で、雨交じりの風が強い。小屋の入口の温度計は1℃だから、外の風の中での体感温度は氷点下である。春山ではあるが完全な雪山だ。雪山経験皆無の者の行くべきところではない。中退である。二人は多少の未練があるようでもあったが、ここは当初の代案どおり、転進の一手。少し休憩して軽アイゼンを着け、引き返した(11:05)。

 

 ↓ 引き返し地点 本来ならここから50分で稲村ヶ岳頂上なのだが…

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 軽アイゼンがあると、確かに安全度は増す。本式のアイゼンのようにスパッツに爪を引っ掛ける心配もなさそうだ。前後して小屋を出て、登山道を整備しながら先に着いていたA君のお父さんと法力峠で再会。それとなくわれわれを心配し、見守っていただいていたようだ。感謝。ここから転進する観音峰山のことなど、少し話をして、別れた。

 

 ↓ 小屋から少し離れればこんな感じ。ガスが出始めた。

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 ↓ 途中の小沢を見上げる

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 観音峰山へは稜線上をほぼ忠実に辿る。右側が植林帯、左が自然林で、いくつかのアップダウンがある。ときおり未練がましく稲村ヶ岳の方を見るが、稜線上は雲がかかり、頂上は見えない。途中でガスストーブを出し、暖かい飲み物を作り昼食をとるが、寒い。

 

 ↓ 法力峠から三ツ塚の間

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 ↓ 三ツ塚 植林の中の一地点

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 ちょっと迷いやすいと言われた三ツ塚もなんなく通過し、ほどなくガスがかかり始めただだっ広い観音峰山1347.6mに着いた(14:20)。

 

 ↓ 観音峰山頂上 1347.6m 地理院地図では「観音峰山」、山と高原地図では「観音峰」と記載されている

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 北側は植林帯で、南側もガスがかかり、何も見えない。最近は晴れの日にしか山に行かないため、こうした天気の悪い山は久しぶりだ。それもまた山の諸相の一つであるのは間違いないが、やはり山は晴れていてほしいもの。早々に下りにかかる。

 

 ↓ 観音峰山からの下り

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 しばらく気持の良い樹林帯を行くと、眼前に開けたススキの原が出てきた。立ち入り禁止のロープが張られているが、盗掘等により激減した山芍薬の保護のためとのこと。

 

 ↓ ススキの原 ピーク上に石碑が立つ

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  ↓ 憂い顔で物思いにふけっているかと思いきや、強風に飛ばされて転倒し、膝をぶつけ、痛がっていたとのこと。

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 ピークに建てられた石碑の前に立って見るが(14:50)、やはり大日岳の岩峰も稲村ヶ岳も見えない。そこからはよく整備され(すぎ)たハイキングコース。やや意味不明な観音平の立派な休息所をへて観音峰登山口の休憩所に降り立ち(15:55)、A君に迎えにきてもらった。

 

 ↓ 見やれども大日岳の岩峰も稲村ヶ岳頂上も見えず

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 当初の予定とは大幅な変更(代案通り)で、稲村ヶ岳も翌日の八経ヶ岳も登れなかったが、今回の天気、特に例年にない残雪量では仕方がない。せめて観音峰山という大峰山脈の一峰でありながら、今回のようなことがなければおそらく登ることのなかったであろう山に、ともかく一座だけでも登ったというだけで良しとすべきなのだろう。私個人としてはなるべく近いうちに再訪し、長大な大峰山脈の中の稲村ヶ岳、山上ヶ岳、八経ヶ岳だけは登ってみたいと思っている。

 

 ↓ なぜか横画面が縦になっている。直せない・・・

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【コースタイム】4月11日 曇り

母公堂7:40~法力峠8:50~稲村小屋10:35/11:05~法力峠12:15~三ツ塚12:55~観音峰山14:20~ススキの原・石碑14:50~観音平・休憩所15:10~観音峰登山口休憩所15:55

マイナー・バリエーションルート:小路沢ノ頭北尾根から笹子雁ヶ腹摺山~送電線尾根下降

 二週間前に水野田山から古武山、徳並山と登った。その徳並山南尾根下降の際から見た(発見した)印象が忘れられず、小路沢ノ頭北尾根を登りに行った。

 

 ↓ 徳並山南尾根から見るお坊山(左)から小路沢ノ頭(右)の稜線。右端が小路沢ノ頭北尾根(3月9日)

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 小路沢ノ頭と言ってもどこかわからない人が多いだろう。地理院地図にも山と高原地図にも山名は記載されていない(小路沢の名は記載されている)。まあ、わかる人にだけわかれば良いのであるが、数少ないこの山ブログの愛読者2名が山口県在住で、関東近辺の地理にうといので、少し説明する。

 東西に延びる奥秩父山地の中ほどから南に下がったあたり、黒川鶏冠山に端を発した大菩薩連嶺というべき長大な尾根は、最高峰大菩薩嶺の先で日川を挟んで東西に分かれる。東側(日川左岸)が主稜で、小金沢連嶺とも呼ばれる。ややスケールの落ちる西側(日川右岸)は途中、源次郎岳~恩若峰の尾根や、宮宕山~甲州高尾山の尾根を派生させながら、その主脈は古武山から徳並山に至って日川、中央線に突き当たり、消滅する。

 主稜の小金沢連嶺は途中で牛の寝通りや、雁ヶ腹摺山からの楢ノ木尾根、また大垈山から岩殿山への支脈などを派生させながら南下し、大谷ヶ丸で滝子山を分岐して西に向きを変え、笹子雁ヶ腹摺山をへて笹子峠で大菩薩連嶺の範疇を一応収束させる。

 その大谷ヶ丸から笹子峠までの間にはいくつものピークがあるが、2.5万図に山名の記載があるのは笹子雁ヶ腹摺山のみ。5万図には一つもない。登山用の山と高原地図にはコンドウ丸、大鹿山、お坊山、米沢山、笹子雁ヶ腹摺山と五つの山名の記載がある。小路沢ノ頭は笹子雁ヶ腹摺山のすぐ西の1290mの突起である。この名はその北面に突き上げる日川の支流小路沢から便宜的に付けられたもののようで、もとより確固とした一個の山というほどの存在感はない。

 その米沢山から笹子峠の間に北に延びる尾根が四本ある。一番西の尾根には送電用の鉄塔が並び立ち、2.5万図には道記号が記載され、昔からよく歩かれているようだ(5万図には道記号の記載がない)。この送電線尾根はともかく、残りの三本の尾根が気になったのである。いや、それらの尾根の存在を意識したのは、実はもっと前だ。

 

 ↓ 「地理院地図」のサイトを印刷し赤線を引いて撮影した

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 20年ほど前に笹子から笹子雁ケ腹摺山~お坊山~棚洞山と歩いたとき、笹子雁ヶ腹摺山や米沢山(矢平峰)の山頂から北に延びる尾根にしっかりした踏み跡が続いていたのを確認している。地図で見るとスケールはそれなりでしかないが、すっきりとした感じで、歩いてみたいという気になったのである。山域的にも仕事道程度のものは必ずあるだろうと思った。しかし、当時持っていたいくつかの資料には、その記録なりガイドは載っていなかった。降り口はわかっても、取付きがわからない。尾根はそれが魅力的なものであれば、やはり上から下るのではなく、できれば下から登りたいものであるが、取付きを探すためにわざわざ現地に行く気にはなれないまま20年たった。

 

 前回の徳並山南尾根からの印象に魅了されるままに、帰宅後、珍しくインターネットで調べてみた。するといくつも記録が出てくる。私は山行に関して、あまりインターネットでは調べない。昔から文献で調べることが好きで、慣れているからでもあるが、写真付のネット情報だとあまりにわかり過ぎて、イメージが固定されるのが嫌なのである。文献としては当然出ているだろうと思ってみた松浦隆康の『バリエーション』シリーズ三冊にもなぜか出ていない。出発間際に知ったのだが、それらの前、2005年に出た『静かなる尾根歩き―奥多摩から八ケ岳まで100コース』 (新ハイキング選書)にすでに出ていたのである。同書はすでに絶版で、定価1680円がアマゾンの中古で、なんと4679円。キンドル版で2052円となっている。私はキンドルなんか使いません。「日本の古本屋」ではヒット0。

 ということで、今回は事前にある程度ネット情報をみておいた。とにかく、取り付き点と下山地点の把握がいかに大事かということが、身にしみてわかっているこの頃であるから。

 

 武蔵五日市発7:18、甲斐大和駅9:27着。9:35に歩きだす。セブンイレブンの前の小道を川に向かって下るとすぐに川久保橋。果樹園のような農地のようなところを道なりに進むと、道の尽きかけたあたりで右から小さな沢が入ってくる。その対岸が尾根の取り付きだった。道標やテープ類もなく、初見では確かにわかりにくいだろう。

 登り始めれば細い尾根上に、踏み跡はしっかりある。最初から鹿や猪の気配、痕跡が濃厚で、むしろ彼らがこの尾根の路を整備してくれているようだ。ところどころ落葉や湿った泥で滑りやすいところがある。今回好天が三日ほど続くことで、二回出発を延期したのだが、それはその前に雨が降ったことを考慮したからでもある。前日が雨天の場合、このように泥で滑りやすくなることを避けたのだ。

 

 ↓ 登りはじめ こんな感じ

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 明るく細い尾根を順調に登り、右側が植林帯となったところで、突然二頭の鹿が現れ、15mほど横を走り去った。一頭は少し小さく、親子(母子)連れだろうと思ったが、大きい方には角があったから牡か。うん?母子連れではなく、父子連れ?そんなことはあるのだろうか。よくわからないが、久しぶりに出会ったことは嬉しかった。お尻の白い毛はやはり可愛い。

 そこからほどなく主尾根に合流した。ここまでテープ類はほとんどなかったが、ここからは水色のスズランテープが出てくる。この主尾根との合流点では登って来た尾根は尾根状を呈しておらず、下降の場合はわかりにくいだろう。見れば、スズランテープは主尾根をそのまま下るように付けられているようだ。

 

 ↓ 主稜線と合流したあたり

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 尾根は幅広くゆるやかなものとなり、特に踏み跡は明快ではないが、どこでものんびりと歩ける。落葉のラッセル。振返れば、二週間前に歩いた古武山徳並山方面が、木の間越しに見える。富士山や南アルプス方面には雲があり、見えない。

 1044mのピークを越え小路沢ノ頭が近くなってくると、尾根は痩せて細くなり、ちょっとした岩場が出てくる。一か所古いトラロープが張ってある。その痩せ尾根自体はさほどでもないのだが、ほんの少しだけ残っている雪の部分が凍っていて、滑りやすく、緊張させられる。登りはともかく、下りでこの状態は恐いなと思う。

 

 ↓ やせた岩稜っぽいところにトラロープが張ってある。

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 ↓ わずかに残る雪のところが凍っていたり、融けかけて滑りやすかったり。左右は切れ落ちている。写真で見るよりけっこう恐い。

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 小路沢ノ頭1290m着、12:20。山名表示板等、何もなく、山頂という感じは皆無。縦走路上の単なる一地点である。左右ともいかにもこのあたりらしい、明るい樹林の尾根が続いている。

 

 ↓ 小路沢ノ頭。何の変哲もない一地点

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 さて、ここで今後のルートについて考えた。今登って来た尾根からも見えたが、主稜線から見ても北側は多少雪が残っている。予定では笹子雁ヶ腹摺山を越え米沢山から北尾根を下降することにしていたのだが、米沢山北尾根はやはり下り始めが痩せ尾根となっており、それなりに恐いという情報を持っていた。常の状態であればまあそれほど問題ともいえないだろうが、今日の状態ではわずかに残った雪の、正確にはその下の土の部分が凍っていて、それがもう少し時間がたつと融けて、より滑りやすくなるのは目に見えている。嫌な予感がする。そういう時は要注意なのだ。体験からくる予感は大事にしなければいけない。もともと米沢山北尾根は、下るよりも、本当は登りたい尾根である。次の機会でもよいのだ。

 ではどこを降りるかと考えて思いついたのが、送電線尾根である。そこは古くから歩かれているところでもあり、まず問題はない。だがここ小路沢ノ頭から単純に送電線尾根を下るだけでは少々物足りない。しかし、笹子雁ヶ腹摺山を往復し、ついでに送電線尾根ノ頭から笹子峠への往復も加えれば、大菩薩嶺からの主脈の赤線が全部繋がることにもなる。気になる赤線の未接続部分も解消できる。物好きではあるが、私なりの美学である。良い解決策を見出したような気がする。

 笹子雁ヶ腹摺山1357.7mへは30分ほど。20年ぶり二度目の頂上だが、狭い頂上に五本もの山名表示が乱立している。かつてはどうであったか、記憶にないが、「山梨百名山」「大和十二景」「秀麗富嶽十二景」・・・。多すぎる。美しくない。おまけに字体がいちいちコンピューターフォントで、センスが無い。山頂自体のたたずまいは素朴で良いのに、残念至極である。

 

 ↓ 笹子雁ヶ腹摺山山頂

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 ↓ 途中の鉄塔から見る三ツ峠、本社ヶ丸方面

 

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 軽く昼食をとって引き返す。途中の鉄塔の先に「笹子峠 尾根道」と「笹子峠 新道」の表示がある。新道の存在は知らなかったが、水平な巻道であろう。何となく少し楽をしたくなって、そちらに入って見る。予想どおり穏やかなトラバース道で、緊張感はなく、気分は悪くない。まもなく送電線尾根ノ頭で主稜線の尾根道と合流する。新道の存在理由がわからなかったが、要するに送電線の巡視路だったのである。

 

 ↓ おだやかに水平に伸びる新道

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 送電線尾根ノ頭から笹子峠を往復してくる。二度目の笹子峠だが、特に感慨もなし。徒労と言えば言えなくもないが、最後の赤線がつながったことに、ささやかな満足をおぼえる。

 

 ↓ 二度目の笹子峠を眼下に見る

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 これから下る尾根は、ここまで送電線尾根、送電線尾根ノ頭と記してきたが、仮称であって、実際の名前があるかどうかはわからない。下り始めに小さな岩場が出てきたが、岩場はそこだけ。尾根筋の路はしっかりしているが、わずかに残った雪の部分やそれが消えた後は、融け始めた泥がグチョグチョになって実に滑りやすい。こんなところで尻もちをつきたくないと、慎重に下る。それもしばらくの間だけで、あとは問題なく幅広い尾根筋をのんびりと下る。ときおり、左に右に小路を分岐するが、尾根上を忠実に辿る。ずっと送電線の下を行くのはあまりいい気分ではないと思っていたが、実際にはほとんど視野にも入らず、気にならない。

 

 ↓ 送電線尾根の下り始め。岩場はここだけ。

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 途中、落葉松の木に大きなスズメバチの巣があるのを見つけた。ふつう雨の当たらない岩壁などではよく見かけるが、まっすぐな立木にあるのはあまり見たことがないが。

 

  ↓ 落葉松にかけられたスズメバチの巣

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 次いでまたちょっと不思議なものを見つけた。「熊棚」のように見えるが、まさかと思う。しかし見るほどにそうとしか思えない。

 

  ↓ 熊棚?

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 熊棚は以前に残雪期の奥利根などでよく見た。初めて見た時には巨大な鷹の巣だと思ったが、先輩にあれは熊棚というものだと教わった。熊がその実を食べるために橅の木に登り、手近な枝を引き寄せ、へし折っては、食べ終わった枝を尻の下に敷き重ね、座布団のような、鳥の巣のようなかたまりを作るのである。しかしこんな所でと思うが、熊が棲息していることは事実だ。熊棚といえばイコール橅(ブナ)という頭がある。少し距離が離れているためその木が橅かどうかははっきりしないが、その特徴である白っぽい地衣類が付いているようにも見える(帰宅後調べたら熊棚を作るのは橅とは限らず、栗や小楢などにも作るとのことである―考えて見れば、それはそうだろう)。高さは10mほどで、その上の方の枝も引き寄せ、へし折っている様が見てとれる。

 

  ↓ ちょっとだけズーム。上の枝がへし折られている。

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 尾根もほぼ終わるころ、山茱萸サンシュユ)の花が咲いているのを見た。その向こうに、今日登った小路沢ノ頭北尾根が見える。前回今回と沢をめぐる周回尾根コースだったために、下るときに登ってきた尾根が見えるというのは、余韻があって、なかなか良いものである。ともあれ、鹿といい、熊棚といい、山茱萸といい、なかなか楽しいものを見た。

 

  ↓ 山茱萸とその向こうが小路沢ノ頭北尾根の下部

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  ↓ 日川をへだてて見る水野田山から古武山、徳並山

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 最後は例によって鹿除けフェンスをくぐり抜け、赤い屋根のお寺の脇に出て終了。諏訪神社に寄り道してから甲斐大和駅に到着した。

 

 米沢山北尾根は課題として残ったが、それはまた別の機会にもっと良い形で登ろうと思う。それにしてもこの大菩薩連嶺の南、甲斐大和周辺、笹子周辺には私好みのマイナー・バリエーションルートがまだまだ残っているのがうれしい。                (記:2017.3.26)

 

【コースタイム】2017年3月24日(金)

甲斐大和駅9:27/9:35~小路沢ノ頭北尾根取付き9:45~主尾根と合流10:40~P1044m11:02~小路沢ノ頭12:20~笹子雁ヶ腹摺山13:00~新道分岐13:32~送電線尾根ノ頭13:55~笹子峠14;05~送電線尾根ノ頭14:25鹿除けフェンス15:55~甲斐大和駅16:30

 

 

ちょっと遅くなりましたが、「美術館探訪録・2015年-2 (海外篇)」

 少し前に「美術館探訪録・2016年(国内篇)」をアップした。「国内篇」を書いたからには「海外篇」も書かねばならない、昨年も書いていることだし。と、思って確認したら、ない。「美術館探訪録・2015年(海外篇)」はアップしていなかったのである。おかしい?確か書いた記憶はあるのだが。よく見て見たら、途中までは書いていたが、未定稿のまま埋もれていた。読み返してみて、思い出した。後半のアメリカの美術館の部分が書けなかったのである。

 もともとこの「美術館探訪録」を書くにあたっては、それほど分析的批評的観点で書く気はなかった。一種のコレクション自慢のような、軽い気持ちで書くつもりだったのだ。今でもそうである。自分の趣味を基軸としながらも、それでも結果として、多少はそれなりの観点が出てくれば幸い、というぐらいの気持ち。しかしふとした拍子に、歯止めがきかなくなるというか、その国の美術の基層に在る、特殊でもあり、普遍的でもある、意味合いのようなものに触れざるをえなくなる時がある。たまたまアメリカという国、アメリカ美術がそうであった。

 

 ○○美術ということで言えば、振り返ってみると、すべてとは言わないまでも、かなりのものを、多くはその地で、見たという気がある。イタリアルネサンスフィレンツェ派、ヴェネツィア派、シエナ派、フェラーラ派・・・)、北方ルネサンスビザンチン美術、印象派、北欧工芸、中国美術、東南アジア各地の美術、イスラム美術、アフリカ美術、アンデス美術、オセアニア美術・・・。

 ただ、アメリカ美術をアメリカに行ってトータルで見たことはなかった。アメリカに行かずともこれまでのさまざまな国内外の美術館や展覧会で見ている気はあるが、あれだけの大きさとなると、一度はアメリカに行かないとすまないような気はしていた。長くその思いはあったのだが、むしろそれゆえに、行くことを避けていたところがある。(アメリカという国があまり好きではない、ということもある)

 しかし、縁あって行ってみると、その体験をベースとして、やはりその特殊性と普遍性について考えざるをえなくなる。それほど難しい話ではない。事前事後共に、直観的には把握したつもりでいる。ただ、それこそがアメリカの特殊性であるところの、移民国家であるゆえの伝統を持たぬことからくるヨーロッパに対するコンプレックスと、その反動としてのアイデンティティーの確立過程、及びそれを可能にしたところの経済の問題、等を考え、いざ書くとなると、いくらサラッと書くにしても、やはりある程度の実証作業は必要になってくる。そして、そこでめげてしまったのである。

 

 途中放棄した本稿は、「アメリカ 財閥 第一次と第二次の両大戦を通じて 子供じみた所有慾」という、いくつかのキーワードをメモし始めたところで終わっている。いまさらながら、アメリカという国はでかい。ハドソンリヴァー派から始まって、アメリカンフォークアート、現代美術、そして異常ともいえる美術品蒐集慾等々、それらのアメリカの美術全体を、軽く、サラッと語ることに、あっという間に挫折してしまったのである。

 

 挫折は挫折でしかたがない。しかし、ここでこの稿をお蔵入りのままにしておくことは「美術館探訪録」のみならず、山の紀行・記録や読書のそれやも含めて、このブログの存在理由が危うくなるということにもつながりかねない(ちょっと大げさだが…)。

 ということで、思い出したのを幸いとして、この未定稿をそのままアップすることにする。しかし、よく見たら他にもいろいろと書きかけのまま放置しているものが、結構あるのである。なんか、書くということ、それは考えるということと同義でもあるのだが、そしてそれを(ブログで)発表するということは、なかなか大変な作業というか、エネルギーを要することなのだなあと、いまさらながら思うのである。

 

   以下未定稿「美術館探訪録・2015年 (海外篇)」

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 美術館探訪録を国内篇と海外篇とに分けて出すのは、何か少し嫌味な感じがしないでもない(わが内なるブルジョア趣味?)。しかし実際問題として、海外の旅では一日中朝から晩まで何ヶ所も歩くことが多い。その結果、数的にも増え、また中には名所旧跡的な所も含まれてきがちなので、分類上分けて考えたいのである。

 昨2015年に行ったのはモロッコ+チュニジアとアメリカ。延べ33日(←!)。それぞれのいきさつについては別に書いたからここでは略すが、いずれにしてもそこにある美術を見ることが最大の目的であったことは言うまでもない。

 

 以下、「*ここに記すのは基本的に入場料を払って行った美術館・博物館の展覧会である(中には無料のものもある)。寺院・教会・遺跡等も含む。一般画廊の個展等は含まない。」については同様。なお国内のそれと違って、海外ではいわゆる特別展は少なく、常設が中心となるので、記載形式が若干異なる。内容・規模的に一つとしてカウントするに足りないと思われるものは適当に+を付して他と合わせてカウントした。以上、私の分類趣味についての補注。

 

◆モロッコ+チュニジア

 モロッコ+チュニジア篇の写真については、完結していないが、すでに「モロッコ・チュニジアの旅 1~10」をアップしているので、省略

  1. マラケシュ博物館(+現代モロッコ絵画の展示)

  モロッコ/マラケシュ 2月3日 [建築・絵画]

  1. ベン・ユーセフ・マドラサ (+皮なめし職人地区/2月4日)

  モロッコ・マラケシュ 2月3日 [建築・工芸]

  1. ハビア宮殿

  モロッコ/マラケシュ 2月4日 [建築・工芸]

  1. ダール・シ・サイド(工芸博物館)

  モロッコ/マラケシュ 2月4日 [工芸]

  1. ディスキウィン博物館

  モロッコ/マラケシュ 2月4日 [工芸]

  1. マジョレル庭園+ベルベル博物館

 モロッコ/マラケシュ 2月5日 [工芸・デザイン]

  1. イブ・サン・ローラン・ギャラリー (+アグノウ門)

 モロッコ/マラケシュ 2月5日 [工芸・デザイン]

  1. ザアード朝墳墓群

  モロッコ/マラケシュ 2月5日 [歴史]

  1. エルバディ宮殿+ギャラリー

 モロッコ/マラケシュ 2月5日 [遺跡・写真]

  1. アイト・ベン・ハッドゥ

  モロッコ/アイト・ベン・ハッドゥ 2月6日 [遺跡]

 +ブー・ジュルード門

  モロッコ/フェズ 2月10日 [建築]

  1. ブー・イナニア・マドラサ+皮なめし職人地区

  モロッコ/フェズ 2月10日 [建築]

  1. ダール・バトハ博物館

  モロッコ/フェズ 2月11日 [工芸]

  1. 武器博物館

  モロッコ/フェズ 2月11日 [軍事]

 +マンスール

  モロッコ/メクネス 2月12日 [建築]

  1. ムーレイ・イスマール廟

  モロッコ/メクネス 2月12日 [建築・歴史]

  1. クベット・エル・キャティン+キリスト教徒の地下牢

  モロッコ/メクネス 2月12日 [歴史]

  1. ジャメイ博物館

  モロッコ/メクネス 2月12日 [工芸]

  1. メクネス博物館

  モロッコ/メクネス 2月12日 [工芸]

  1. ル・バルドー博物館

  チュニジアチュニス 2月15日 [歴史・モザイク]

  1. グランド・モスク

  チュニジアチュニス 2月15日 [建築]

  1. ポエニ時代の住居+ピュルサの丘

  チュニジアカルタゴ 2月16日 [遺跡]

  1. カルタゴ博物館

  チュニジアカルタゴ 2月16日 [考古・歴史]

  1. パレオ・クレチアン博物館

  チュニジアカルタゴ 2月16日 [モザイク・遺跡]

23.ローマ人住居跡+円形劇場

  チュニジアカルタゴ 2月16日 [考古・歴史]

 

◆アメリカ篇

  1. グッゲンハイム美術館 Doris Saicedo展+一部常設(展示替え中)

  ニューヨーク 9月16日 [近・現代西洋美術]

 

 ↓ ご存知、グッゲンハイム美術館の外観

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 ↓ Doris Saicedo は日本でも展覧会の開かれたことがある、コロンビア出身の女性作家で、社会性を持った優れた作品が多いが、コロンビアという国の歴史と文脈を知らないとわかりづらい。社会性を重視する作家のそこが辛いところでもある。

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 ↓ 同じく Doris Saicedoのインスタレーション

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  1. メトロポリタン美術館+エンパイアーステートビル

  ニューヨーク 9月16日 [総合+建築]

 

 ↓ メトロポリタン美術館の外観(だと思う) 実質世界最大の美術館。何でもあります。

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 ↓ こういうものに出くわすと、ドキドキする 正体は不明

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 ↓ オセアニアのコーナー  巨大な空間に膨大なコレクション

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 ↓ トーマス ・ハート・ ベントンの巨大な壁画の一部 この作品は知らなかった。

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 ↓ 私個人として、最も「アメリカ現代絵画」という気がしたのは、この作品だったかもしれない。

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  3.自由の女神+グランド・0

  ニューヨーク 9月17日 [歴史]

 

 4.ホイットニー美術館

  ニューヨーク 9月17日 [近・現代アメリカ美術]

 

 ↓ ビル・トレイラー こういうのを見るとほっとする。それにしてもアメリカではフォークアートやアウトサイダーアートが大事にされている、というか、いわゆるファインアートとあまり区別されていない。

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 5.ニューヨーク近代美術館MOMA)

  ニューヨーク 9月17日 [近・現代西洋美術]

 

 ↓ ホイットニー美術館だったかもしれない。反戦を扱った作品、つまり反体制アートのコーナー。こういうコーナーがあることに、アメリカのある種の健全さを感じる。それに比べて・・・

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 ↓ せっかくピカソの大規模な彫刻展をやっていたのに気付かず、閉館間際にやっと一部だけチラッと見ただけ。残念。

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 6. Agua Fria (PUEBLO LA PLAT Nationl Memorial)

  アリゾナ 9月18日 [遺跡]

  1. グランド・キャニオン (サウス・リム)

  グランド・キャニオン 9月19日 [自然・世界遺産

 +ヤバパイ博物館

  グランド・キャニオン 9月19日 [歴史・民俗]

 +グランド・キャニオン (ブライド・エンジェル・トレイル~プラ

  トー・ポイント)

  グランド・キャニオン 9月19日 [自然]

 

 ↓ グランドキャニオンのど真ん中。大いなる自然のアート。

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 8.  TUSAYAN博物館

  グランド・キャニオン 9月20日 [歴史・民俗]

 +ボックス・キャニオン・Lomaki Pueblo+Wupatki Pueblo

  Wupatki 9月20日 [遺跡]

 

 ↓ 旅の途中の車窓から。これもまた自然のアート。

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  1. セドナ国立公園

  セドナ 9月21日 [自然] 

 +モンテズマ・ウェル (Montezuma)

  モンテズマ 9月21日 [自然・遺跡] 

  1. グレイシャー・ポイント+センティネル・トレイル~センティネル・ドーム

  ヨセミテ 9月22日 [自然・世界遺産

 

 ↓ 大いなる自然のアート二題。

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  1. パノラマ・トレイル

  ヨセミテ 9月23日 [自然]

 +ミラー湖トレイル

  ヨセミテ 9月24日 [自然]

  1. アンセル・アダムス・ギャラリー

  ヨセミテ 9月24日 [写真]

  1. ゲッティ・センター

  ロサンゼルス 9月25日 [西洋美術]

  1. ロサンゼルスカウンティ美術館

  ロサンゼルス 9月26日 [総合]

  1. ロサンゼルス現代美術館

  ロサンゼルス 9月26日 [近・現代西洋美術]

 

 ↓ 美術館がでかすぎる!

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 ↓ アメリカ 作者未詳

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 ↓ わりと好きだった作品。この手の感じは60~70年代ぐらいに日本で誰かがやっていたのではなかったかな?

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  1. ノートン・サイモン美術館

  ロサンゼルス 9月26日 [西洋美術]

 

 

 といった按配である。当然ながらその国、民族性、風土性といった特徴を反映したものとなる。すなわちモロッコ+チュニジアでは(ローマおよびイスラム)モザイク、イスラム工芸・建築であり、アメリカではアメリカ近・現代美術と、近代以降の資本家の圧倒的な経済力によって蒐集されたヨーロッパを中心とした全方位の美術である。残念ながらアメリカでは街のギャラリーを中心とした最もコンテンポラリーなアートをあまり見ることができなかったのは、日程上やむをえなかったとはいえ、少々心残りではあった。

 

 さてモロッコである。文化的にはローマ文明からその後のイスラム文化の流れが基本であるが、私的には、初めてのアフリカということで、楽しみであった。

 モロッコには見どころが多い。1.「マラケシュ博物館」や5.「ディスキウィン博物館」4.「ダール・シ・サイド(工芸博物館)」など、日本ではあまり見る機会のない素晴らしいイスラム工芸を中心とした美術館は、いずれも充実した内容で楽しめた。マラケシュ博物館ではそうした伝統的なものと現代モロッコ絵画などが並べて展示されており、このやり方は最近海外で時々見るものだが、なかなか良いものだと思う。

 そうした伝統的工芸美術の中でも、この6.「ベルベル博物館」が白眉である。決して大きな美術館ではないが、この博物館があるマジョレル庭園を創設した画家ジャック・マジョレルから引き継いだ、イヴ・サンローランが蒐集した北アフリカ美術のコレクションは超一級品ばかり。さらに展示の仕方自体が現代的で、彼の作品と言いたくなるほど洗練されたものである。世界的デザイナーのエキゾチックなプリミティブ・アートの蒐集。思わずそれだけで反発したいところだが、脱帽するしかない。また、彼自身の作品(イラストレーションが中心)を展示した7. 「イヴ・サン・ローラン・ギャラリー」も意外なことに、たいへん面白かった。さらにマジョレル庭園自体が自然そのものを素材とした美しい美術作品というべきであり、ヨーロッパ人が抱くエキゾチシズムの具現化として見るのも興味深いものである。 

 その他、2. 「ベン・ユーセフ・マドラサ」や8.「 ザアード朝墳墓群」なども良かった。建築とはいっても、見どころはその壁面等の装飾であるが。また「皮なめし職人地区」は、工芸の生まれる以前の現場そのものといった観点から、興味深いものである。もっとも大多数の観光客のまなざしは、恐いもの見たさといったところだろうが。確かにインドあたりならスラムの一画にある光景である。

 

 私は旅において美術や風景、風土性といった興味の対象以外にも、いくつかのコンテンツを持っている。例えば物乞いのありようや、墓地、職業にかかわる差別、等々。モロッコでは職業・職人ごとにまとまったスークと呼ばれる地区が形成され、それらが隣接しあいながら旧市街(メディナ)の中に厳然と存在している。こうしたありようはモロッコに限らず多くの都市に見受けられる。かつての日本の一部においても同様であったのだが、そうした場合、古くからの市街の様態を保っているということがある程度前提のようだ。言うまでもなくマラケシュやフェズのメディナはおそらく中世以来のそのありようを保持していることによって、匂いや衛生面での問題にもかかわらず、その独特なありようを保持し続け、今日では観光の対象とさえなっているのである。そこに職業にかかわる差別が存在しているのかどうか、結局のところ、わからないのであるが、少なくともこうした過程をへて、あの美しいモロッコ革が造られるのだと知っておくことは、意義のあることだろう思う。そして結局のところ、あの迷宮としか言いようのない市街=メディナそれ自体、その全体が、アートだと思い至らざるをえないのである。

 

 チュニジアでは「ル・バルドー博物館」、その一ヶ月後の3月18日にあのいまわしいテロの舞台となったミュージアムである。古代ローマ時代のモザイクが中心。これまでトルコ、ギリシャとモザイクはそれなりに見てきたつもりだったが、新しい博物館だけあってそれらに比しても、質量、展示空間すべてにおいて素晴らしい。その素晴らしさゆえにISのテロの場に選ばれたということなのだろう。言うまでもなく、美術・文化といえどもそれが美術館・博物館という行政の場となったとき、畢竟政治や宗教といった思想と中立無縁ではないということである。しかし、それにしても・・・。

 カルタゴではやはりカルタゴ博物館が充実していた。当然モザイクもあるが、多様な考古的蒐集が楽しい。カルタゴと言えばハンニバルだが、この頃はまだ塩野七生の『ローマ人の物語』を読む前だったこともあり、遺跡等に関しては、興味が薄かった。

 

   ―以後未完

 

アメリカ 財閥 第一次と第二次の両大戦を通じて 子供じみた所有慾 

 

 

甲斐のマイナールート、水野田山・古武山・徳並山

[コースタイム]2017年3月9日

甲斐大和駅9:45~松智院10:07~マイクロウェーブ反射板11:10~水野田山11:18~林道:大志戸木の実の里森林公園11:35~大天狗12:25~古武山13:12~西大志戸山14:45~徳並山15:00~果樹園舗装道路16:43~甲斐大和駅16:50

 

 水野田山、古武山、徳並山と書き連ねてみても、その名を知っている人は少ないだろう。大菩薩連嶺の西に並行する長大な尾根筋が、最末端で中央本線と日川に突き当たって尽きるところに位置する山々。2.5万図、5万図のいずれにも山名は記載されていない。「山と高原」地図には徳並山の山名のみ記載されているが、登山道は破線ですら記載されていない。まわりの大菩薩、三つ峠滝子山などの有名な山々の陰に隠れた、知名度の低い山、つまり、私好みの山である。『新ハイキング』などにはたまに出るようだが、いわゆるガイドブックにはあまり紹介されていないようだ。と、思っていたら、図書館で借りた『ブルーガイドハイカー 中央沿線の山』(桑子登 引間恭夫 2002年 実業之日本社)には徳並山から勝沼尾根へのルートが出ていた。ちなみに松浦隆康の『新バリエーションハイキング』(新ハイキング社)などのバリエーションシリーズには、当然こまごまと出ている(このシリーズは凄い!)。しかし物好きな人はいるもので、ネットで検索してみるとチラホラとある。

 

 ↓ 今回踏破したルート 地図アプリ等が使えないのでこんなアナログ方式でやってみたが、かえってわかりやすいかも

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 昔、中央線に乗っていて、初鹿野駅(今は甲斐大和駅というあまりセンスを感じられない駅名に変更されている―なぜハジカノという美しい響きの名前を捨てたのか、もったいない)を出るとすぐに右手から流れ込んでくる小さな沢が二三本あった。ごく小さな沢だったが、当時は一応沢屋であった私の目から見て、魅力的な渓相に見えた。地図で確認して白蛇沢の名を知り(もう一つは無名)、その流域というか山域に淡い興味を覚えた記憶がある。しかし、その頃はまだ行くべき沢はそれこそ山ほどあり、実際に足を向けることはなかった。ともあれ、近年山歩きを再開して以来、気になっていた山であった。

 

 3月9日。拝島に向かう電車が途中で止まった。「前の電車が非常停止、云々~」。ほどなく動き出したが、予定の電車には間に合わなかった。幸い一本後の電車でも20分ほどの遅れですんで、甲斐大和駅着9:45。

 今回に限ったことではないが、あまり一般的でない山に登るとき、正しい(?)取り付きを見つけるのは、なかなか難しい。水野田山への取り付きにはいくつかのルートが考えられたが、遠回りだったり、長い階段があるとか、フェンスを乗り越えての藪こぎがあったりなど、いずれもすっきりしない。手持ちの地形図には松智院という寺からの尾根に、手書きで破線が記してある。以前に何かの資料で見て転写したものだろうが、そこを登った記録は見たことがなかった。山際の寺社の裏手からは、そのまま山に上がる道がついていることが多い。今回はそれをあてにすることにした。

 松智院に着いて周囲を観察するが、当然標識等はない。左手の墓地を回りこんで見ると、猪除けのフェンスが張り巡らされている。それを辿ってみると、その先に施錠されていないドアがあった。そっと開けてみると、うっすらとだが踏み跡がある。成功である。踏み跡はすぐにしっかりしたものとなるが、薄暗い植林帯の沢沿いに進むようになる。早めに右の尾根を上がる。

 尾根上に藪はなく、獣道らしき踏み跡が多いが、歩きやすい。道標がわりの黄色のペンキが立ち木に塗られている。快適に登っていると右手に導水管が見える。その上の施設を過ぎると、マイクロウェーブの反射板がある。振り返ると、遠く南アルプスが見える。甲斐駒が神々しい。周囲に木立は多いが、落葉しているため、結構見通しはきく。周囲はほぼ初めて見る山々だが、さてどれがどの山なんだと、楽しみながら登る。

 

 ↓ 南アルプス遠望 右端が甲斐駒ケ岳 左奥に北岳がちょっぴり頭をのぞかせている

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 尾根上に比較的新しい石灯籠と大岩の上にお宮がある。麓の神社の奥宮なのだろうが、何神社かはわからない。それにしても山頂にあるのならともかく、こんな尾根の半端なところにあるのはちょっと不思議だ。

 

 ↓ なぜここに?

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 そこから10分たらずで水野田山1030.8mの山頂。どうということもないが、感じは悪くない。音沢の頭の異名もあるようだ。

 

 ↓ 水野田山(音沢の頭)山頂

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 ここまでがわりと良い感じだったので、先が楽しみである。ところが、山頂から下りはじめると、立派な木の階段があらわれた。全く不要で興がそがれるが、さらに先には展望台のような木の構築物と舗装道路が現れた。「大志戸木の実の里森林公園」とある。この存在は事前に知ってはいたが、フィールドアスレチックのような感じで、廃墟というわけでもなさそうだが、実際どの程度利用者はいるのだろうか。ここの舗装道路=林道大志戸線も地図で見るかぎり、単に一つの尾根を乗越しているだけで何の必要性も見出せない。これらさえ無ければもっと良い山だと言えるのに、残念である。

 

 ↓ 大志戸木の実の里森林公園

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 ↓ 大志戸木の実の里森林公園の看板 

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 そこからもしばらくの間、階段は続くが、落葉した広葉樹の幅広い尾根は気持が良い。ところどころに白樺の白い木肌が鮮やかである。そう言えばここは現在は甲州市になっているが、合併以前は大和村で、その村の木というのが白樺であると、下の「大志戸木の実の里森林公園」の看板に書いてあった。途中の東屋から、これから辿る古武山から徳並山への稜線の全貌が見えた。渋い。渋いが、好ましい山稜である。

 

 ↓ 木立をすかして望む古武山 

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 ↓ 大天狗山頂 左奥が古武山 

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 大天狗(山)1231.3mも感じは悪くない。この山も木賊山の異名があるらしい。大天狗を過ぎると階段がなくなる。道形は定かではないが、歩きやすくきれいな稜線が続く。ところどころほんの少し雪が残っていた。竜門山1273mとおぼしきあたりは山名表示板もなく、そのまま通過。

 

  ↓ 古武山の手前 

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 気持の良いゆるやかな登りしばしで古武山山頂1312mに着いた(偶然だが到着時間は同じ数字の13:12 )。

 

  ↓ 古武山山頂 

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  ↓ 山頂のヤドリギ

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 頂上で一服する。見上げれば頭上のミズナラにいくつものヤドリギが生えている。私はなぜかヤドリギが好きで、見るとホッとする。北にはそのまま直進する尾根道が続くが、目指す徳並山は西である。西に向かう。

 

 落葉の堆積したところは滑りやすい。幅広だった尾根もすぐに狭まり、岩場も出てきてなかなか楽しい。北側の谷間には雪が残っている。尾根越しの北風が冷たい。「春は名のみの風の寒さよ(早春賦)」。古武山以降、道標はおろか、ペンキやテープ類も少ない。踏み跡は途絶えがちで、読図には気を使う。一か所尾根が微妙に分岐するところで、右の尾根に移るべきところを直進しそうになったが、慎重に見定めて事なきをえた。

 東大志戸山をへたコルから登り返した西大志戸山の頂稜は幅広く、長く、気持の良いところ。ここに限らないが、新緑や紅葉のころはさぞきれいだろう。

 

  ↓ 西大志戸山の頂稜

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  ↓ 徳並山の手前にあったドルメン(北欧の巨石墓)風の岩

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 ちょっとした岩場のある尾根を登り返した先が徳並山山頂1116.7m。15:00。北側に栂の大木がある。ふと見ると、ここにも三角点が二つある(ブログ「宮沢賢治ゆかりの山―1 『銀河鉄道の夜』の舞台、南昌山」参照)。前回は確認できなかったが、今回は「御料局三角点」の文字がはっきり確認できる。御料局? はて? 

 

 ↓ 徳並山山頂 二つの三角点

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↓ 御料局三角点

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 帰宅後調べて見たら、明治18年以降皇室の所有地とされた山林を、明治41年に帝室林野管理局と改称されるまでの間に測量した際のものであるらしいとわかった。ちなみに上條武著『孤高の道しるべ』(銀河書房 1983年)に「初代御料局測量課長の神足勝記(こうたり・かつき 1854~1937)の業績とともに御料地、御料林の成立について記述されています」とのことで、私は同書を面白く興味深く読んだ記憶はあるのだが、中身はさっぱりおぼえていない。困ったもんである。だがまあ、長年の疑問が一つ解決したわけだ。

 

 例によって(慾をかいた)当初の計画ではここから西に勝沼尾根を歩き、勝沼ぶどう郷駅まで行く予定だったが、時間的にもここから南の尾根を甲斐大和駅に下ることにする。降り口はちょっとわかりにくいが、すぐ踏み跡が出てくる。尾根は細いが、快適である。テープ類は数少なく、ほどなく岩場や崩壊地が出てきて慎重に対処する。細い尾根というものは、登る分にはそうでもないが、下るとなると目の高さから見下ろす分、一層細く急に感じられ、恐さを感じるものだ。この下りでも一か所、左に古いロープが張ってあるところで、地図を読み違えて尾根筋を外してしまったが、早めに気づき登り返して事なきをえた。全く、踏み跡の少ない尾根の下降は難しい。この尾根は、登りはともかく、下りルートとしてはバリエーションルートと言えよう。その分、スリルがあって、楽しいのであるが。

 

↓ 徳並山南尾根 ところどころ岩場と痩せ尾根がある

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 忠実に尾根を辿っていくと、左に果樹園のフェンスが見え始めてきた。もういつでも左に降りれば林道に出られるのだが、少しでも長く尾根筋を歩きたい。そう思いながら歩いていると薄い踏み跡は錯綜し、妙に複雑な地形になってきた。歩く分には問題ないし、面白くはあるが、もうそろそろと思っているうちに予定外の三角点や送電線の鉄塔まで出てきた。どうやら長く歩きすぎ、尾根の末端近くまで来てしまったようである。鉄塔の先で眼下に見えている学校に向かっている荒れた道を下ったら、フェンスにぶつかった。ドアを開けようとするが、施錠はされていないのに歪んでいて、開かない。困った。登って乗り越えようにも「上には電流が流れています」とある。やむなく少しフェンス沿いに歩くともう一つのドアがあった。こちらは下に侵入除けの鉄棒も加えられていたが、何とか開けることができた。今回の山行はフェンスに始まり、フェンスで終わった。やれやれである。そこから駅までは10分足らずだった。

 

 今回の水野田山~古武山~徳並山は、予想以上に楽しめた良い山、良いルートだった。帰宅後、地図に赤線を引きながら事後学習をしていると、どうやら付近に楽しめそうなルートがいくつも見えてきた。人が少なく、道標も少なく、広葉樹林の、ところどころに岩場や痩せ尾根がある山。晩秋から初夏にかけて楽しめそうである。

                        (記:2017.3.11)

↓ 笹子雁ヶ腹摺山やお坊山の北面 次はあそこだ

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美術館探訪録・2016年(国内篇)

 

 昨年2016年に国内で見た美術館・博物館等での展覧会の一覧である。寺社、遺跡、庭園等も含む場合もあるが、一般的な画廊等は含まない。ここに植物園や庭園や城址を含めるのはどうかということもあろうが、私は、ここではMUSEUMの範疇をなるべく広くとって考えたい。

 昨年の記事(「美術館探訪録-2015年」)で、海外やかつての古美研(授業名)をのぞけば過去最多と記したが、何と2016年はそれよりも多い。それだけ良い展覧会が多かったことも確かだが、理由はもう一つある。

 ここ二三年、高校同期の何人かで月に一回程度集まって、飲み会をやっている。そんなにしょっちゅう会いたいということでもないのだが、誘われればだいたい応じている。平日の、場所は銀座や新宿といった都心。わが家から東京駅まで交通費が往復で1800円強。所要時間は、歩きも入れれば往復4時間、飲み会自体が3時間前後。私以外は全員カタギなので、それなりの店を予約するから、会費はだいたい7000円前後ぐらいか。ただそれだけのためにだけ出ていくのは、時間的にも経済的にもちょっと負担感がある。そこで、それに合わせて美術館に行くようにしたのである。したがって、どうしても行きたいという展覧会だけともいかない。見に行こうか行くまいか迷っていたり、普通だったらスルーするようなものでも結局行くこともある。まあ、それはそれで良いことだと思っている。

 

 私の展覧会に関する情報は、朝日新聞に週一回載る展覧会情報がほぼすべてで、あとは行った先の美術館に置いてあるチラシぐらいのである。それで充分。それにしても美術館博物館の数も多ければ、展覧会の数も、そのジャンルも多い。東京はおそらく間違いなく世界で一番展覧会の多い都市だ。

 とは言え、そのラインナップを見ても、必ずしも行きたい展覧会ばかりではない。これだけ長年展覧会を見ていると、全く未見の作家とか、初めてのジャンルというものはもうめったにない。たいていは、多少はどこかで見ていることが多い。したがって、ぜひとも見たいと思う展覧会は、そうはないのである。

 実際、画家が美術館での展覧会をどの程度見に行くのかというのは、案外面白いテーマなのではないだろうか。試みに私自身の過去のデータを見てみると、学生(博士課程)の最後から予備校講師時代の30歳代の10年間で56回、大学に勤務してからの40歳代の10年間で137回。ついでに50歳代の10年間はと言えば、55歳で早期退職するまでの6年間が64回、退職後の4年間が86回で計150回。いずれも海外や学生を引率しての授業としての古美術研究旅行をのぞいた数字である。う~ん、歳とともに増えている。余裕のなせるわざである。ちなみにもっとも少なかったのが、一番悩みかつ制作にエネルギーを注いでいたはずの30台後半。年に3回とか4回しか見に行っていなかった年があったのは自分でも少し意外であるが、それはまた最も生活が苦しく、時間的にも精神的にも余裕のなかった頃である。

 

 ともあれ、仮に10年前20年前に見たことがあるとはいっても、再度、再々度見ることは悪いことではない。ということで2016年にいった展覧会を以下にあげてみる。

 なお私は団体展やコンクール展、卒業制作展は見に行かないことにしている。10.「上野の森絵画大賞展」は昔の教え子からのたっての頼みで見に行ったので、例外である。

  

  *上段「 」内は展覧会の正式名称。その右の( )内はサブタイトル。

   下段は美術館名と見た日。[ ]はざっくりとしたジャンル。

1.「串田孫一」(生誕100周年)

 はけの森美術館 1月16日 [絵画・デザイン]

 

2.「恩地孝四郎展」(形はひびき、色はうたう)

 東京国立近代美術館 1月20日 [版画]

 

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3.「村上隆の五百羅漢図展」

 森美術館 1月22日 [絵画]

 

4.「天野喜孝展」(進化するファンタジー)

 有楽町朝日ギャラリー 2月16日 [イラスト]

 

5.「ジョルジュ・モランディ」(終りなき変奏)

 東京ステーションギャラリー 3月17日 [洋画]

 

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6.「清親 光線画の向こうに」

 町田市立国際版画美術館 3月25日 [版画]

 

7.金沢城兼六園

 4月9日 [城郭・庭園]

 

8.金沢市老舗記念館

 4月10日 [民俗・工芸]

 

9.「黒田清輝」(日本近代絵画の巨匠)

 東京国立博物館平成館 4月21日 [洋画]

 

10.「上野の森絵画大賞展」(第34回 明日をひらく絵画)

 上野の森美術館 5月2日 [洋画]

 

11.「カラヴァッジョ展」(ルネサンスを超えた男)

 国立西洋美術館 5月10日 [洋画]

 

12.「素心 バーミヤン大仏天井壁画 ~流出文化財と共に~」

 (東京藝術大学アフガニスタン特別企画)

 東京藝術大学大学美術館 陳列館 5月10日 [壁画・彫刻・保存]

 

13.「吉田博展」(生誕140周年)

 千葉市美術館 5月17日 [版画・洋画]

 

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14.「横井弘三の世界展」(没後50年“日本のルソー”)

 練馬区立美術館 6月1日 [洋画]

 

15.「高島野十郎展」(没後40年 光と闇、魂の軌跡)

 目黒区美術館 6月3日 [洋画]

 

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16.「若林奮展」(飛葉と振動)

 うらわ美術館 6月8日 [彫刻]

 

17.「田口安男展」(描線と色彩の間)

 いわき市立美術館 6月9日 [洋画]

 

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 ↑ これはチラシ。ポスターを揚げたかったのだが、画像が見つからなかった。 

 

17-2.「田口安男展+常設展」 [洋画]

 いわき市立美術館 6月10日

 

18.「立石鐡臣展」(麗しき故郷「台湾」に捧ぐ)

 府中市美術館 6月23日 [洋画]

 

18-2 常設展「所蔵品に見る描かれた水辺の景」+牛島憲之記念館

 府中市美術館 6月23日 [洋画]

 

19.「12Rooms 12Artists」(UBSアート・コレクションより)

 東京ステーションギャラリー 7月5日 [洋画・現代美術]

 

  1. 常設展 第2期 (萬鉄五郎・松本竣介・船越保武/渡辺豊重・松田松雄・内村晧一他)

 岩手県立美術館 7月14日 [洋画・彫刻]

 

20-2. 常設展

  もりおか啄木・賢治青春館 7月14日 [文学]

 

  1. 伊藤家住宅

 伊藤家住宅/花巻市東和町田瀬 7月15日 [建築・民俗]

 

22.上高地・明神池

 上高地 8月5日 [自然・宗教]

 

23.神代植物公園+「特別企画展『古文書でふりかえる江戸の園芸文化』」

 調布市 8月13日 [自然]

 

24.「小林かいち展」+浜口陽三+萩原英雄 常設

 武蔵野市立吉祥寺美術館 8月25日 [イラスト]

 

25.「沓間宏展」(1981-2016 変遷の軌跡)

 横浜美術大学ギャラリー 9月7日 [洋画]

 

26.「鈴木基一展」(江戸琳派の旗手)

 サントリー美術館 10月14日 [日本画

 

  1. 辻河原石風呂+宮迫東西石仏+臼杵の石仏

 大分・豊後大野市 11月8日 [仏教美術・歴史]

 

27-2常設展 

 ヤマコ臼杵美術博物館 11月8日 [仏教美術・歴史]

 

  1. 城址

 大分・竹田市 11月9日 [史跡・城郭]

 

29.「ダリ展」

 国立新美術館 12月10日 [洋画]

 

30.「ゴッホゴーギャン展」

 東京都美術館 12月13日 [洋画]

 

31.「小田野直武と秋田蘭画」(世界に挑んだ7年)

 サントリー美術館 12月28日 [日本画

 

 以上の中で良かったのは、2.「恩地孝四郎展」、5.「ジョルジュ・モランディ」、13.「吉田博展」、15.「高島野十郎展」、17.「田口安男展」といったところ。

 恩地孝四郎はまとめて見るのは初めてだった。以前から『月映』-田中恭吉との関連では多少は知っていたものの、全貌としては解釈しにくいというか、受け取りにくいというか、すでに過去の話として敬して遠ざけていた作家。まだ必ずしも飲み下せてはいないのだが、絵画(版画)の意外な可能性を見せてくれたような気がする。余談だが、この展覧会を見たことがきっかけとなって、その年、彼の作品(蔵書票)を7点も買ってしまった。

 

 他の四つはすでに以前に見たことのある作家だが、それぞれ充実した内容で、新たな視点と面白さを見出すことがせきた。モランディの静謐。吉田博の山の清浄。高島野十郎の自閉の光。それぞれの固有の世界。

 田口安男は私の大学時代の恩師であり、最も敬愛する画家である。御本人は現在も自宅療養中なのだが、その縁で初日前日の内覧会に招待され、その夜は友人、先輩方と楽しく飲んだ。せっかくいわき市まで行くのだからと、翌日は近くの山に登る予定だったのだが、飲み過ぎて翌朝寝過ごしてしまい、登山は中止。おかげで再訪した会場で、あらためてゆっくりと見直すことができた。

 

 次いで次点(?)としたいのが、1.「串田孫一」、6.「清親 光線画の向こうに」、14.「横井弘三の世界展」、16.「若林奮展」、19.「12Rooms 12Artists」、26.「鈴木基一展」等。

 串田孫一は画家とは言えないし、文筆家としても私はあまり評価しないのだが、昔からその絵やコラージュには何か引っかかるところがあって、その確認をしに行ったというところ。しかし案に相違して(?)、作品が意外と良かったのである。美術館の規模のゆえか、ちゃんとした図録がなかったのが残念。横井弘三、若林奮、鈴木基一はまとまって見るのは初めて。「12Rooms 12Artists」も初めての作家が多く、楽しく見る現代美術・現代絵画といった感じ。清親も光線画周辺のものはやはり良かった。

 

 他の展覧会もそれぞれ良い作品が含まれていたが、ただしその割合は多くない。

 石仏や城址、あるいは地方の美術館博物館を、旅行や山登りのついでに訪れるのも良いものだ。

 

 逆に最も期待外れというか、面白くなかったのは11.「カラヴァッジョ展」。

 

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 もともと行く予定はなかったのである。すでに海外等でだいぶ見ているし、本人の作品は11点ぐらいだということだし、そもそもバロック周辺というのが好きではないのだ。当日は東京都美術館の「若冲展(生誕300年記念)」を見にいったのである。平日にもかかわらず順番待ちの長蛇の列。2時間待ちとか。なぜそんなに人気があるのだろう。辻惟雄の『奇想の系譜』以来、蕭白単独の二回の展覧会のほか、いくつかの機会に芦雪や若冲を見る機会はあったのだが、なぜか若冲の単独展は見逃してきた。そうこうしている内に現今の異常人気である。並ぶとしても私は30分が限界だ。縁がなかったのだ。やむをえず、当日上野でやっている展覧会の中でカラヴァッジョを選んだのだが、やはりあまり楽しめなかった。高階秀爾は2016年末の「私の3点」(朝日新聞)でこの「カラヴァッジョ展」をあげているが、縁の無いものは縁が無いのである。

 

 ついでにその「私の3点」にあがったのを紹介しておくと、北澤憲昭がクラーナハ展」、「世界遺産 ラスコー展」、「川島清 彫刻の黙示」展高階秀爾「カラヴァッジョ展」、「ルノワール展」、「デトロイト美術館展」山下裕二「柳根澤 召喚される絵画の全量」展、「村上隆スーパーフラット・コレクション」展、「吉田博展」。

 選択の基準が良くわからない上に紹介文も極めて短く、はたして信用できるのかという気がしないでもない。新聞という公器に載せるのだから、まさか本人の趣味で、というわけでもあるまいが。むろん、私のこの記事は私だけの趣味であるけれども。

 その中で私が行ったのは「カラヴァッジョ展」と「吉田博展」。「世界遺産 ラスコー展」はその記事を読んで年が明けて見に行った。9分の3だから、この年はけっこう行った方だ。

 

 もう一つついでに、迷いながらも結局行かずじまいに終わって、今かえりみても残念だったのが以下の展覧会。

 

ボッティチェルリ展」東京都美術館

*海外でだいぶ見ており、ちょっと「今さら」感があって…。

「原田直次郎展(近代洋画・もうひとつの正統)」 神奈川県立近代美術館葉山

  *一昨年のがした巡回展で、二度目のたぶん最後のチャンスだったのだが、葉山の遠さと、今の自分にとってどう見ても「お勉強的」でしかなかったから。

ルノワール展」国立新美術館

ルノワールは私にとって長い間「謎」だった。今回ぜひとも行くつもりだったのだが、なぜかタイミングが合わず、残念。

 

 そのほか、「杉本博 ロスト・ヒューマン」展(東京都写真美術館)、「藤田嗣治」(府中市美術館)、「ピエール・アレシンスキー」(Bunkamuraザ・ミュージアム)なども見逃して残念な展覧会である。

 

 確かに展覧会というものは、若い時ならいざ知らず、数見れば良いというものではないかもしれない。絵を見るというのは体力を使うものである。また、会場を出て自宅に戻ってその内容を振り返り、咀嚼するのには、それなりの時間がかかる。続けざまに次から次へと見てゆくと、消化不良の感じがしてくる。

 とは言え、やはり展覧会を見るのは楽しみであり、快楽である。勉強としても続けたいと思う。さて2017年はどんな展覧会を見に行くことになるだろうか。              

                         (記:2017.2.28)

逍遥画廊[Gallery Wandering]-3  ヤフオクに出品された絵 その1

 逍遥画廊で紹介する作品の選定について、特に明確な基準があるわけではない。「気ままに」が基本であるが、それでも、できればあまり人の目にふれていない(一回目の発表で人の手に渡ったとか、これまでの作品集等に掲載されていないといった)ものを取り上げたいと、漠然と思っている。

 かならずしも自作についての解説やエッセイを志向しているわけではないのだが、作品画像だけをポンと投げ出すのも、面白くない。やはり、なにがしかの、語る上でのきっかけになるようなエピソードというか、要素があった方が、書くほうとしても面白みがあるというもの。

 

 今回の眼目は「ヤフオクに出品された私の作品」、である。

 

 私はヤフオク愛好者である。いや、あった言うべきか。

 私がヤフオクに入札するようになったのは、10余年前の40代後半、大学に勤めてだして10年近くたったころだったと思う。理由はいくつかあるが、今から顧みて一番大きかったのは、ストレス解消のためであった。ストレスの拠ってきたるところについては、ここであれこれ書いてみてもしかたあるまい。およそどんな仕事、職場であっても、それが生活のためとなれば、ましてや対人を大きな要素とする仕事であれば、ストレスが生じるのは自然の理であろう。そして、生じたストレスはうまくそれと付き合いつつ、適度な割合でそれを解消していかなくてはやっていけない。

 実際、40代半ばから、髪は次第に減りはじめ、白髪が目立ち始め、肩こり・腰痛、また、歯や目の老化に悩まされるようになった。それらはその年ごろになれば、程度の差はあっても、自然に訪れる当たり前の現象ではあろうが、当人はそうも言っていられない。健康診断や病院に行くたびに、言われるのは「(原因の一部以上は)ストレスです」。言われるまでもなく、自覚している。

 

 私はパソコンやネットであれやこれやするというのは、仕事上やその利便性からある程度はやらざるをえなかったにせよ、基本的に嫌いだった。だからネットオークションなど、とても自分がやるようになるとは思ってもいなかった。しかし、要は「慣れ」であった。いつのまにやらそれに慣れ、一時はというか、昨年の秋にほぼ憑き物すべてが落ちるまでのこの15年ぐらい、研究対象という小さな口実、言い訳はあったにせよ、軽症ではあるがずっとハマっていたと言える状態だった。

 その間、対象としては外国切手から始まり、内外のマッチラベル、外国紙幣、蔵書票等とジャンルは移動した。他に割合は少ないが、明治石版画やセノオ楽譜、ホテルラベル、缶詰ラベル、古い薬袋、若干の版画や絵画等にも手を出した。ほとんどがいわゆる「紙もの」である。むろん、オークション自体が好きなのではない。それらの小さな美術品であるところの造形物、その持っている歴史性や世界観等を含めた、いわばマイナーアートとしての小世界が私にとってのアジール(避難場所)だったのである。

 そのコンテンツが変わるごとに憑き物の種類も変化したようだ。そうして見ると、IT自体についてはいまさら言うまでもないが、その内のネットオークション一つの普及によっても世界が、と大きく言わないまでも、コレクションということの在りようが旧来とは確かに激変したことがよくわかる。そもそもネットオークションという場がなければ一体どこで買えばよいのか、見当のつかぬコンテンツが多い。

 ともあれ、私がネットオークションにかかわったのはすべて入札者としてであって、出品したことはない。気がつけば手元にたまった各種のコレクションや、オークションとは関係なくそれ以前から所有している膨大な蔵書など、出品すれば整理処分できることはわかっているが、そんなめんどうなことをする気は、今のところない。

 

 そんなわけでネットオークションとの付き合いはそれなりに深いのだが、まさか自分の作品が出品されることがあるとは思ったこともなかった。

 そう言えば以前ネット上の古本屋のサイトで私の著書(論文集)が出ていたことがあった。これまで4冊の著書を出している。といってもその内の3点は論文の印刷公表や展覧会図録、作品集といった自費出版、もしくはかぎりなく自費出版に近いもので、正規の出版社から出た商業出版物としては『山書散策』(東京新聞出版局 2001年)だけ。『山書散策』が古本屋のサイトやオークションに出るのは不思議ではないが、たかだか300部程度しか印刷していない、しかも市販していない論文集が古本屋のサイトに出るというのはちょっと驚きだった。その本に関してだけは論文集(+作品集)という性格もあって、半分近くを公的機関や関係者に寄贈した。まあ仕方がないというか、それなりの事情があったのだろうとは思うが、何となく妙な気分になったことは確かである。しかしそれはまあ、それだけのこと。

 

 数年前のある日、何気なく自分の名前で検索してみたところ、あるサイトで、自分の作品がヤフオクに出ていたことを知った。それがこの「水茎-4」(作品番号:D.60)である。

 

 「水茎-4」(D.60) 

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  制作年:1989年 サイズ:63×46.5㎝

  素材及び技法:手漉き水彩紙(3A)にアクリル、水彩

  発表:S.11個展 1990.10 ぎゃらりいセンターポイント/銀座(←?) 

      S.12個展 1991.1/パレット画廊/徳山

 

 

 2011年の4月15日開始、4月20日に終了していた。即決価格80.000円とされていたが、5件の入札があり、落札価は4.850円。まあ、そんなものだろう。ちなみに発表時の価格はたぶんその25倍以上。ただし企画展なので当方の取り分はその半分。

 ついでに記せば、この「水茎」というタイトルを持つ作品は1から5まで5点あるのだが、この機会に確認したところ、めったにないことだが、どういうわけかこのデータの記述の一部をD.59とD.61のいずれかのそれと間違えて記していたことが判明した。5点のうちこれを含めた4点は売れていて手元になく、また手元にあるはずの一点もどういうわけか、今見当たらない。ということでデータのうち、発表の項は少々不明確なのである。

 

 絵柄としてはケルト風の錯綜する線の要素が強いというか、その要素の面白さだけで描き上げたもの。なにかを、例えばある思想や考えを表現しようとしたものではなく、おそらくあらかじめのイメージすらもなかった。

 厚手の物質感の強い手漉き紙の上に、粘度の高い金彩(アクリル)を用い、自律的、自動的に生まれてくる瞬間ごとの表現効果に集中することによって成立した作品である。一種のオートマティズムとも言える。したがってそれ自体の完成度はありえても、そこからまた次の別の世界を紡ぎだすといったところまではいかなかった。5点で終了のゆえんである。

 もう30年近く前の作品であるが、久しぶりに見て見ると、これはこれでやはり面白い。この要素、方法を今ならばまたもっと異なった形で展開できそうな気もする。しかし、これはやはり極度の集中を必要とするので、今となってはちょっとしんどいかもしれない。といって、もう過去の方法として捨て去ってしまうのも惜しいような気がする。

 

 しかし、それにしても「水茎-4」は今現在どこのどなたが所有されているのだろう。絵は売れてゆく、人の手に渡っていくのが絵にとっても一番良いことなのだろう。落札した人は案外知り合いかもしれないとも思うが、とりあえず「買っていただいてありがとうございました」とこの場で感謝の意を表明させていただきたい。

 ついでといっては何だが、めったにないことだし、この機会に他の「水茎」も以下にまとめて紹介しよう。

 

 「水茎-1」(D.57) 

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 制作年:1989年 サイズ:63×46.5㎝

 素材及び技法:手漉き水彩紙(3A)にアクリル、水彩

 発表:S.12個展 1991.1/パレット画廊/徳山  ●個人蔵

 

 

 「水茎-2」(D.58)  

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 制作年:1989年 サイズ:63×46.5㎝

 素材及び技法:手漉き水彩紙(3A)にアクリル、水彩

 発表:S.12個展 1991.1/パレット画廊/徳山  ●個人蔵

 

 

 「水茎-3」(D.59) 

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 制作年:1989年 サイズ:63×46.5㎝

 素材及び技法:手漉き水彩紙(3A)にアクリル、水彩

 発表:S.12個展 1991.1/パレット画廊/徳山  ●個人蔵(?)

 

 

  「水茎-5」(D.61) 

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 制作年:1989年 サイズ:63×46.5㎝

 素材及び技法:手漉き水彩紙(3A)にアクリル、水彩

 発表:S.12個展 1991.1/パレット画廊/徳山  ●個人蔵(?)

 

 ちなみに水茎とは筆、筆跡とか、文字あるいは手紙といった意味。作品のタイトルとしては深い意味はない。

                        (記:2017.2.26)