艸砦庵だより

河村正之のページ 絵画・美術、本、山、旅、etc・・・

こんなものを買った

 今日、荷が届いた。昨年暮れに買った植木智佳子さんの「作品」である。

 暮れも押しつまった29日、所用があって都心に出た。そのついでに昔の教え子の植木智佳子さんの個展「物の伏線」の最終日に行った。教え子とはいっても、彼女は日本画研究室だったので、指導教員と指導学生という間柄ではない。たしか大学院修了後、東京都の先生になったように記憶しているが、はっきりとは知らない。まあ、その程度の間柄なのである。ともかく、(たぶん)教員業のかたわら、それなりにコンスタントに制作と発表を続けている。

 会場は茅場町にある「古道具と創作 MAREBITO」という名の、あまりスタンダードとは言えないが、まあ雑貨屋風骨董屋。最近は骨董と現代作家という組み合わせは流行っている。そういうことか。入って見ると、面白そうなモノ(骨董・古道具・ガラクタ)があれこれと置いてあるが、肝心の作品らしきものが見えない。

 ちょっと困っていると、作者の植木さんが、「ここに書(描)いてあるんです」と言って指さす。うん?目を近づけてみると、その器やら古道具やらのどこかしらに、何やら小さな文字で文章らしきものや小さな絵が書(描)かれている。これが今回の彼女の作品だとのこと。

 つまり、彼女の感性で選んだ古道具・モノに直接、おそらくそのモノと照応した彼女の詩的断章が、金泥でかそやかに書(描)きしるされているのだ。それが今回の彼女の表現であり、作品なのだ。なるほど。

 正直言って、その記された断章よりも、モノそのものの表情・魅力の方が見える。しかし、それは当たり前で、モノそのものに、かすかに彼女の想いを目立たないように添わせるというのが、眼目なのだろうから。そう思い至れば納得できる。それが成功しているかどうかは難しい。しかし、それも含めて彼女の表現なのだろうから、こちらはむしろモノそのものの表情・魅力を味わい楽しめば良いのだ。

 そうして見ているといくつも気になるものがある。

 そして買ってしまった。しかも二つ。

 彼女の作品を買ったのか、骨董=モノを買ったのか、自分でも判然としない。いや、正直に言えば、3:7で骨董=モノを買ったのである。

 作者曰く「どちらでも良いんですよ。書(描)いたものなんか消してもらって、モノだけ見てもらっても構わないし」。モノだけ見ても、それが彼女の感性を通して選んだものである以上、それは作家の感性≒表現を買ったのと同等であるということらしい。それは考えてみれば、相当な自信の現れであるとも言えるし、相当な能天気であるとも言えようが、ちょっと煙に巻かれたような、「一本取られちゃったな」みたいな、妙に爽快なやり取りであった。

 

 一つは、見た瞬間圧倒された(?)のであるが、水筒。素材は豚の膀胱。おそらく中国あたりの物ではないかと思う。ボロボロだが、コルクの栓も付いている。フォルムが素晴らしい。半透明の物質感もおもしろい。

 

 ↓ 豚の膀胱で作られた水筒。わずかな半透明感。

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 革製の水筒は世界中どこでもあるから、豚の膀胱のそれがあっても不思議ではないが、初めて見た。いや似たようなものはトルコの博物館あたりで見たことがあったか。そういえば19世紀半ばに金属製のチューブができるまで、油絵具等は豚の膀胱で作った小袋に入れて使用していたのだった。

 肩には「蜂蜜を舌で転がす含まれたそれは喉の奥へゆっくりと落ちてゆく」と金泥で記されている。

 

 ↓ 横には植木さんの詩文(?)

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 もう一つはちろり。「ちろり」と言っても知らない人も多いだろうが、要は酒を温めるための銅や真鍮製の筒型の容器である。これもやはりフォルムが美しいが、特に取っ手の繊細なデザインがおもしろい。

 脇に「こんばんはと天井の遥か上からのジェット音をきく」と、やはり金泥で記されている。

 

 ↓ ちろり。正面に金泥の詩文。

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 ↓ 反対側。取っ手と蓋のつまみの造形が美しい。

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 共にどことなくモランディの絵を思わせるところがある。自ずから在る静謐。

 

 二つの文章は非定型短歌のようにも思われるが、おそらく作者はそんな面倒くさいことはどうでも良いのだろう。こちらも短歌であれ、何であれ、感性の断章として読むことにしよう。

 

 値段は忘れた。むろん私が買えるのだから高くはない。骨董類の場合、買える値段であれば、それがいくらかはあまり問題ではなく、したがって値段もあまり覚えていないのである。二つで3万円台程度だったような気はするが、作品として考えれば安い。

 ともあれ、面白い買い物をしたものだ。

                             (記:2020.1.21)

熊刺しと蜂の子

 久しぶりに熊の刺身を食った。やはり、美味かった!!

 

 正月も終わった一月半ば、教え子のS+Y夫妻が遊びにやってきた。二人は予備校時代の教え子で、美術系大学の出身だが、現在は養蜂業をなりわいとして、富山県を拠点としている。縁あって、彼らの作るハチミツを仲立ちとして、近年付き合いが復活した。ハチミツの方は女房が中心だが、関連して私の方も蜂の子やら、絵画材料としての蜜蝋などを分けてもらうようになった。

 そうした彼らの今回のお土産は、熊の肉!!

 

 ↓ 新鮮な熊肉。赤身と脂身のバランスが美しい。

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 彼ら養蜂業としては、熊さんとはなかなか友好関係は取り結べないようだ。詳しい経緯は知らないが、とにかく富山でも今年は熊の出没が多く、その結果、有害獣駆除の対象とされた熊のおすそ分けが私のところにも回ってきたということなのである。

 

 環境省の令和2年1月7日付の「クマ類の捕獲数(許可捕獲数)について」によると、四国・九州・千葉県をのぞいた北海道・本州で毎年1600~3900頭、平均すると3500頭ぐらいが捕殺されている。昨年令和元年の分は11月暫定値として全国で5424頭とあるから、ここ12年間でずば抜けて多い。これらの数字等についても考察すべき点はあると思うが、本稿の主題からはずれるので、ここではふれない。

 例年捕殺数が多いのは当然ながら北海道(351~827頭)で、次いで東北5県、中でも秋田県が多い(46~793頭)。これはマタギの伝統ということもあるかもしれない。言うまでもないが、北海道はヒグマ、本州ではツキノワグマである。

 東京都でも毎年0~5頭が捕殺されている。ニ三年前におすそ分けしてもらって、初めて刺身で食ったのが、その内の一頭だったわけだ。

 

 私は魚介類は当然、肉類でも可能であれば、まず生=刺身で食ってみたい。料理以前の、味付け加工以前の、それ本来の味を体験してみたいからだ。とはいえ、さすがに熊を刺身で食べる機会はめったにない。私はニ三年前の初体験で、その驚愕すべき美味さを知ったのである。二度目の今回も、食わずにはすまされない。

 むろん、寄生虫等を警戒する女房を筆頭に、周囲からはひんしゅくの嵐である。その視線をはねのけ、かいくぐりして、鹿刺しの、猪刺しの美味さを知ったのだ。いや、猪刺しはそれほどでも美味くはなかったが…。熊も当然、生で食わなければならなかったのである。「フグは食いたし、命は惜しし」ではないが、ジビエなんぞという、こじゃれた都会的美食とは、私は本質的に無縁なのである。

 むろん刺身だったら何でも美味いかというと、そんなことはない。個体そのものの条件、部位、何よりもシメ方と血抜きの仕方、さばき方、そして保存条件によって全然味が変わる。今回の仕留めた猟師は若いが、腕が良く、自信があるとのこと。しかも獲りたての新鮮な肉だ。期待できる。

 

 で、周囲からのひんしゅくもものかは。ニンニク醤油で一口。

 

 ↓ 若干見苦しくてすみません。もともとは公開するつもりがなく撮ったもので…。下、熊刺し、ニンニク醤油。上、蜂の子、塩コショウ・ニンニク・バター・醤油炒め。

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 「!!美味い~~!!」

 ひそかに危惧していた臭みもない。ほんのり、まったりと甘い。赤身と脂肪を同時に嚙みしめるとさらに美味さが増す。他と比べるのも野暮だが、しいて言えば馬肉、それもタテガミと言われる脂肪と赤みを同時に食べるときの美味さに少し似ている。

 S+Y夫妻と女房にも一応すすめてみる。恐る恐る箸を出し、「美味しい!」。しかし、二度三度と箸は出ない。まあ、文化の壁はそれほど高いのである。かつて日本人以外の諸外国の人にとって刺身の味わいが理解できなかったのも、当然である。

 しゃぶしゃぶ(熊しゃぶ!)から、鍋でも食ってみた。もちろん美味いが、熊でなければという必然性は特にない。

 

 ↓ 熊鍋。

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 途中で思いついて一応写真に撮っておいた。SNSで上げる気はなかったが、後で見るとその内の一枚に偶然だが、蜂の子(の塩コショウ・バター・ニンニク・醤油炒め)も写っていた。それを見て、この一文を書いてみる気になった。

 蜂の子はこれまで何回か送ってもらったのだが、巣から蜂の子を取り出すのが実に面倒くさいのである。おそらくよく一般的に「蜂の子」として売られている「地蜂=黒スズメバチ」のそれより、かなり面倒なように思われる。

 養蜂業者としては、蜂の子を、年間のある時期に作業過程として、巣ごと大量に廃棄するらしいのだが、私のためにごく一部を送ってくれるのだ。最初の時に巣から蜂の子を取り出すのに苦労して(その時の事は以前ブログにアップ済)以来、巣から取り出したものを送ってくれていたのだが、考えてみれば申しわけなかったことである。私にとって面倒くさいことは、彼等にとっても面倒くさいということに、思いが至らなかった。

 ともあれ昨秋に蜂の子を送ってくれた時に、一部巣入りのものが混ざっていた。面倒くさいが、それを処理せねばならない。

 さんざん経験済みだが、ほかのやり方も思いつかず、前回のやり方を再度試みてみる。まず自然解凍させたものを一つ一つ箸またはピンセットで取り出す。ああ、らちが明かない。あっという間にテーブルは悲惨な状態になり、即そのやり方は放棄。しかたなく、これも前回経験済みの茹でる方式に切り替える。これがどういうわけか、前回と違ってスムーズにいった。

 小鍋にお湯を沸かして、その中に蜂の子入りの巣をぶち込む。

 

 ↓ 巣が溶けた状態。黄色いのは巣の主成分の蜜蝋(ビーズワックス)。ここから一つ一つ箸でつまみ上げる。

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 すぐに巣は溶け、幼虫が浮き上がってくる。それを箸でつまみ上げる。幼虫には薄い透明な膜に覆われているので、それをピンセットでそっと破り、中の幼虫だけをつまみ出す。以下、これを延々と繰り返すだけである。

 

 ↓ 幼虫はは薄い透明な膜で覆われている。

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 ↓ 指でつまんでそっとピンセットで膜を取り除く。

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 慣れてくれば作業はスムーズにはかどる。前回は溶けた巣の蜜蝋がまとわりついたりして苦労したが、今回はそんなこともない。どこでどのように苦労したのか不思議だ。あるいは今回は一回での量が少なかったからかもしれない。

 

 ↓ プリプリしてかわいい。

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 ↓ こちらは巣の残骸、黄色いのが蜜蝋。それ以外は植物の繊維。蜜蝋も再利用できそうだが、いくらでも入手できるので、まあいいか。

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 茹でる=煮るといことで多少風味が落ちるようにも思えるが、薄い透明な膜に覆われているため、そのエキスは煮だされないものと思う。いずれにしても、これが手間はかかるが、最も簡単なやり方である。

 取り出したものはタッパーや瓶に入れて冷凍。調理は私の場合、一番簡単な塩コショウ・バター・ニンニク・醤油炒め。未来食品としての昆虫食のことはさておき、完全栄養食品なのだ。わずかに臭みはあるが、命の美味しい味がする。パスタに入れたり、蜂の子ご飯にしても良いと聞くが、なんせ女房が食べないので、まだ一人分を実行する機会が持てなくている。

 

 補足しておけば、熊刺しについてはニンニク醤油、生姜醤油が臭み消しもあって有効だろうが、むろん、山葵醤油でもお好みしだい。

 寄生虫云々に関しては、確かに鹿や猪については警戒すべきだが、そうした意味では熊も同様であり、決して人に勧めるわけにはいかない。一般常識としては、火を通して食べるべきであろう。食べて不調をきたしても、責任の取りようがない。したがって本稿はあくまで私個人の美味探求報告と思っていただきたい。

 なお、熊肉、蜂の子以外にも、天然のヒラタケ、手作りのカブラ寿司・・・もいただいた。どれも美味しかった。ありがとう!! 

                           (記:2020.1.15)

養老渓谷 小逍遥

 先日20日、所用があって千葉県いすみ市に行った。御宿に一泊後の帰途、帰りがけの駄賃に養老渓谷を再訪。九月の台風の影響で一部通行止めの個所(梅ヶ瀬渓谷は全面通行禁止)があったが、弘文洞跡や粟又滝などを見た。

 

 房総半島の房総丘陵は最高峰が愛宕山408.2mで、300m前後の尾根すじと沢が、穏やかにではあるが複雑に錯綜し、軟弱な泥岩層の地質に由来する地形と、山上集落や人々の暮らしから生まれた「川廻し(蛇行した河川の流路をトンネルや切り通しを通るように変更・短絡化し、旧河道を水田化させた工事/ウィキペディア)地形」などの、独特の面白みのある山域を形作っている。

 私はこの山域のそうした表情が好きで、主に冬に沢登りで何度か訪れた。今回はほんの小さな逍遥ではあったが、久しぶりの房総の沢の景観を楽しむことができた。

                              (記:2019.12.24)

 

 ↓ 弘文洞に至る「二重トンネル」。最近新聞に掲載されてにわかにインスタ映えスポットとして有名になったらしい。

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  ↓ ここの開口部ぶよって「二重」が成立する。手前は手掘り(?)の跡をとどめているが、奥は人口の壁材が設置されている。

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   ↓ 弘文洞跡。かつての川廻し地形が崩落したもの。詳しくは次の解説板を参照。

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   ↓ 解説板。

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    ↓ 粟又の滝(別名養老の滝)。軟弱な泥岩質の地層がゆるやかに浸食されてナメ滝となった。

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  ↓ 滝壺というか、釜から見る。右から支流が入っているように見えるが、浸食され残された岩によって流れが二分されている。二分している岩は遠からず浸食されて消滅し、一つの流れになるだろう。

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秌韻・外覧会-3 久しぶりの金地テンペラ3点

 金地テンペラ(黄金背景テンペラ)は私の制作の出発点の一つであり、長くこだわってきた技法である。しかし、その制作上、技術上の様々な制約と、志向する表現方法のギャップが大きくなり、ここ20年ほどは描いていなかった。数年前にちょっとしたきっかけがあって、また描いてみる気になった。

 20年も間が空くと、さまざまな技術面を、腕は辛うじて憶えているものの、頭の方はだいぶ忘れていた。それもまあ、いいだろう。

 

 この3点は珍しく具体的な体験がモチーフとなっている。2016年の岩手県の南昌山(作品タイトルでは「南晶山」としてある)登山である。

 小学生の頃から愛読していた宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』に出てくる銀河ステーションの発想のもととなったのがこの南昌山の山頂だという説を、地元の研究者が出した『童話「銀河鉄道の夜」の舞台は矢巾・南昌山』(松本隆 ツーワンライフ 2010年)で読んで、登り、あえて頂上で一泊してみたのである(詳しくは、ブログ「艸砦庵だより」の「宮沢賢治ゆかりの山―1 『銀河鉄道の夜』の舞台、南昌山」 http://sosaian.hatenablog.com/entry/2016/07/21/012128 を参照してください。)

 黄金背景テンペラと言えば、本来の彩色は卵黄テンペラとほぼ決まっているが、日本の気候風土では保存上の難しさがあり、本作では最下層の彩色以外は、樹脂テンペラ(卵黄+卵白+ダンマル樹脂+ヴェネツィアテレピンバルサム+リンシードオイル)と、多く油彩を使用。その結果、テンペラらしさ、卵黄テンペラの最大の魅力であるわずかな半透明感は失われたが、絵柄的にはこれはこれでという仕上がりになったと思う。

 いずれにしても久しぶりに使っみたた金箔には、やはり強い魅力を感じた。手元にはまだ何点か分の材料は残っている。あいかわらず使いこなすには難しい素材、技法であるが、何とか手元に在る分だけは制作してみたいと思う。

 

 

『天気輪の柱』

(F10 2016-2019 パネルに麻布・石膏地、卵黄テンペラ、樹脂テンペラ、油彩、金箔、鉛薄板)

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 南昌山の山頂にあったのは石造のいくつかの苔むした獅子頭と、麓の幣の滝あたりから持ち上げられたと思われる何本かの柱状節理の石材。それらが置かれている詳しい経緯などは不明だが、賢治はそれらの存在をきっかけにして「天気輪の柱」を発想したのだろう。

 左右の人物には特定の意味はない。したがって、どのようにでも解釈可能。

 完成近くなってから気がついたのだが、遠景は、翌日登った準平原北上山地のように見える。

 

 

『(カムパネルラと)』

(2016-2019 パネルに麻布・石膏地、卵黄テンペラ、樹脂テンペラ、油彩、金箔、鉛薄板)

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 カムパネルラはジョバンニにともに銀河鉄道で旅する少年。とくに彼を描こうとしたわけではないのだが、構成上、人物を入れてみたら、ジョバンニではなく、カムパネルラであるように見えてきた。

 カムパネルラのモデルは、従来早世した妹のトシであると言われているが、前述の松本隆氏は、やはり早世した一年先輩の藤原健次郎であるという説を唱えられている。それなりに説得力のある説だ。しかし、そもそも創作物のモデルは、必ずしも一人、一つであるとは限らないから、カムパネルラには両者の要素が併存していても無理はない。少年でもあり、少女でもある存在。

 ちなみにカムパネルラ(≒カンパニュラ/Campanula)とは、ツリガネソウ(釣鐘草=ホタルブクロの仲間)のラテン語名である。藤原健次郎の自宅から遠望する南昌山がまさに釣鐘形に見える鐘状火山(トロイデ)であることからの連想というのは、少々こじつけのようにも思われるが、連想≒空想というのはそういうものかもしれない。

 

 

『南晶山にて』

(2016-2019 パネルに麻布・石膏地、卵黄テンペラ、樹脂テンペラ、油彩、金箔、鉛薄板)

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 南昌山に登ったのは7月13日。予定ではその頃の夜の山頂では無数のヒメボタルが乱舞しているはずだったが、当日の雨のせいか、一匹も見ることができなかったのは残念だった。

 南昌山の昌を晶と変えたのは、「南部繁昌」の意から名付けられたというのはあまりに現世御利益的で美しくないし、ここは私の好きな「結晶」の「晶」の字の方が「ナンショウザン」の語感にふさわしいと思ったから。私には「天気輪の柱」なるものは、きっと水晶か何か結晶質の鉱物でできているように思われるのである。

                             (記:2019.11.8)

秌韻・外覧会-2 『花昏』『革命と慈愛』

 外覧会:美術館等での展覧会には、一般入場者とは別に、「内覧会」という、関係者を対象としたオープニングセレモニーがある。「内覧会」があるなら、逆に終わったあとからの「外覧会」があっても良いではないかと勝手に作った造語です。

 すでに終わった個展(「秌韻 河村正之展」 2019年 10月3日~11日 西荻窪 数寄和)。

 だが、先に『祝人(ほいと)』をアップ(これを外覧会-1とします)したこともあり、また会場に来れなかった人のためにと、「外覧会」と題してしばらく出品作をアップしてみようと思う。なるべく解説(コメント)は少なめに。さて、いつまで続くか?

 

『花昏』

M25(80.3×53.0㎝)  2016~2018年 自製キャンバス(麻布に弱エマルジョン地)、樹脂テンペラ・油彩

 

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 DM掲載図版。

 最近の個展等を見て「河村が人物、それも女を描いている」と驚かれることが多い。それについては、あまり言うべきことはない。いや、少しはあるのだが、まあ、ここでは省く。人物を描いた作品でも、ほとんどの場合、具体的なモデルはいない。

 「花昏(はなくら)」とは、花々がその華やかさゆえに、かえってかもし出す暗(昏)がりといったイメージの、私の造語。以前「夏昏(なつくら)」というタイトルを付けた作品もある。同じ趣旨の「光の闇」という作品も、いずれ描いてみたいと思っている。

 

 なおこの作品は、以前に中国人留学生から大量にもらった中国製麻布を使用しているが、日本製(フナオカキャンバス)とは異なって、大いに暴れる野性的なその表面の処理にてこずったというか、その苦労がちょっと独特の絵肌をもたらしてくれた。

 

 

 

『革命と慈愛』

 F15(65.2×53.0㎝) 2018~2019年 自製キャンバス(麻布にエマルジョン地)、樹脂テンペラ・油彩

 

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 「革命と慈愛」とは、苦しまぎれとは言え、われながらおおげさなタイトルを付けたものである。これも人物(女)を描いたもので、珍しく元になった画像がある。

 

 右の銃を持った女性のもとになった写真は、アルメニアのエレヴァンのアルメニア人虐殺博物館にあったもの。19世紀末と20世紀初頭の二度にわたってオスマン帝国領内で大規模な大虐殺が起きた。それは近代初のジェノサイドの一つであるとみなされ、今日に至るまでトルコとアルメニア間の最大のアポリア(解決困難な問題)となっている。以前から、トルコにもアルメニアにも行ったこともあって、この事件が妙に気になっている。

 20世紀初頭のそれについて少し知りたいと『神軍 緑軍 赤軍 イスラームナショナリズム・社旗主義』(山内昌之 1996年 ちくま文庫)を手にしてみるも、あまりの複雑さと基礎知識不足で途中で投げ出したまま。博物館の解説はアルメニア文字のみでちんぷんかんだったが、妙に印象に残った写真だった。

 左のそれはネット上で拾った、有体に言えばAVのそれ。

 右の女性のそれと共に顔やポーズ等、変えてある。別人として描いたのだが、見た人の一人から「なるほど、同じ女の二面性だ」といったようなことを言われた。そうか、そういう見え方もあるのかと妙に感心した。それは私の作品制作の基層にある「一致する不一致=聖と賤の一致」ではないか。あるいは女性性の二相系。

 ともあれ、女性の顔や表情の表現には苦労した。今見ても大いに不満であるが、これ以上やっても仕方がないということで完成としたが、こと顔と表情に関しては、欲求不満が残っている。思想的未消化ということだろう。     (記:2019.11.4)

 

 

 

秌韻・外覧会-1 「祝人(ほいと)」

 何かと忙しい。いや、家事・雑事・細事・俗事はさておき、制作に忙しいのである。

 先日の西荻窪数寄和での個展の作品を順次「秌韻―外覧会」と称して順次上げていこうと思っているのだが、その余裕がない。

 それはそれとして、その時の個展で、ある作品を見た若いミュージシャンの近藤君が『放浪者』という歌を作ってくれた。10日ほど前に彼のFB にアップしていて、すぐにでもシェアしようと思ったのだが、その元になった作品『祝人(ほいと)』の画像の扱いというか、適切なコメントを書くのが面倒で、ついつい今日に至ってしまった。

 しかし歌も投稿も生もの。まずは投稿してみよう。

 それにしても、私の絵にインスパイアされて歌を創る人がいるなどとは、想像したこともなかった。考えてみれば、ほとんどありえないことだ。うれしい限り、ありがたい限りである。その絵の世界観(みたいなもの)にもちゃんと共感してもらえている。

 近ちゃん、ありがとう!!

 

 

「祝人(ほいと)」

(F6号 2015~2019年 自製キャンバスに樹脂テンペラ・油彩)

 

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 先に投稿した「放浪者」の元になった作品である。

 

 中世ヨーロッパ(おそらくドイツあたり?)の図像。癩病ハンセン氏病)患者のイメージである。別口でヘビメタあたりのシーンに時々出てくるペスト患者(を治療する医者=ゴーグル付きの鳥頭状のマスク)のイメージを調べているうちに引っかかった画像が元になっている。

 「祝い人(ほいと)」とは「乞食」の方言、というよりも、今に残る古語の一つ。「ほかいひと」「ほぎひと→ほぎと→ほいと」。

 この「ほぐ」は「新春を寿(ことほ)ぐ」の「ほぐ」である。神道には「祝事」(ほぎごと)、祝詞(ほぎこと)、祝酒(ほぎさけ?)などがある。祝詞を述べる人「祝人」(ほぎひと又はほぎと)から転訛して「ほいと」となったという。ちなみに「祝」を「ほ」「ほう」と読ませる地名も全国に何か所かある。

 そもそも私の故郷周辺(だけとは限らないようだが)で「ほいと」の意味する「乞食」の語自体が、本来は僧の「托鉢」のことなのである。

 つまりこのタイトルと作品は、私の世界観における基本コンセプトの一つである「一致する不一致」=」「聖と賤の一致」ということに基づいているのである。

 ちなみにこの作品は内容的のも上記のようなものであるし、売れるはずも受けるないしと思って、出品する気はなかったのだが、絵を見に来たKさんから勧められて、今回出品する気になった。むろん売れはしないが、案外評判が良い(面白がられた。興味を持たれた。)まあ、私の作品にしては、やや異風だということもあるだろうが、それはそれで悪い気はしない。

中止された「表現の不自由展・その後」と「表現の不自由展 消されたものたち」

 あいちトリエンナーレ2019が大変なことになっている。

「情の時代」と題された「あいトリ」、その主要部分である国際現代美術展の中の一展示「表現の不自由展・その後」が、テロ予告を含めた苦情や、政治家の圧力等によって中止に追い込まれたというものだ。それは憲法21条によって保障された表現の自由を踏みにじるものである。炎上は日々激しくなっている。

 そのことについてはだいぶ大きく報道されているから、情報量としてはそれなりに多いものの、全体の構造は必ずしもわかりやすくはない。「表現の自由」ということと、「美術・芸術の問題」と、「政治的アポリア(解決不可能な難題)」といった要素が、ぐちゃぐちゃになって現出しているからだ。

 「表現の自由」ということと「美術・芸術の問題」だけならば、実際の解決可能性はともかく、たいていの場合は、問題の本質はそれほど複雑ではない。しかし、それに昨今の政治的情勢(従軍慰安婦嫌韓問題、天皇制の問題、憲法の問題、この三者は同根)が絡むと、にわかに「アポリア」の様相を呈するのだ。

 

 それらの政治的情勢が、戦後処理の倫理性を欠いた不徹底さに起因するのは、公正な歴史的観点に立てば明らかなのだが、現状はすでにそのような認識を共有することすら難しい。日本と同じ敗戦国のドイツの戦後のありようと大きな違いである。

 ワイツゼッカー元ドイツ大統領は1985年5月の議会演説で「過去に目を閉ざす者は現在にも盲目になる」と訴え、ナチス・ドイツによる犯罪を「ドイツ人全員が負う責任」だと強調した。歴史を直視するよう国民に促した言葉は、90年の東西ドイツ統一後もドイツの戦争責任を語る際の規範となった。日本(政府および国民)はこうした規範を結局もちえないまま、今日に至っている。

 そのワイツゼッカーの演説にある公正感や歴史観が、今の日本でどれだけ受け入れられるだろうか。それを話題にするだけでも、ある程度の危険を覚悟せざるをえないのが現状であり、その具体的な例証が今回の炎上である。

 

 正直、私もこの件にはあまりコミットしたくないというのが、卑怯ながら、本音だ。

 だが、何人かの知り合いがこの件でFBに投稿している。それを見て気になったことの一つが、「見たかったのに、見れなくて残念だ」と書かれている事である。

 

 私は「表現の不自由展・その後」の前提となった、2015年1月にギャラリー古藤(東京都練馬区)で開催された「表現の不自由展 消されたものたち」(主催:表現の不自由展実行委員会)を見た。手元には、その時の薄い図録が在る。

 

 ↓ 図録 表紙

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 ↓ 図録 裏表紙

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 その時に出品されていた内容と今回の「その後」の内容が同一であるかは、今回のを見ていないし、ネットで調べてもよくわからないので、正確なことは言えないが、少なくともいくつかは今回も出品されている。キム・ソギョン+キム・ウンソンの「平和の少女像」や大浦信行の「遠近を抱えて」などである。

 

 ↓ 9頁 キム・ソギョン+キム・ウンソンの「平和の少女像」

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 ↓ 7頁 大浦信行 「遠近を抱えて」

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 美術館等の公共の場で展示拒否や中止といった事例は、過去数多くある。政治的な理由によるものが多いのだが、芸術の存在理由の一つとして社会批判・体制批判という機能・役割がある以上、当然のことながら、それは無理からぬことだ。公的な場においては、ある程度の軋轢が生じる確率は避けられないのである。美しく楽しい作品だけが芸術ではない。そして表現の自由ということは、理念としては確立していても、常に公益という文脈を挟んで、行政と「世間」によって、それはいともたやすく否定されてしまうのである。

 そうした事例に対して以前から興味を持っていた私は、それらの「展示を拒否された」、つまり普通では見ることのできない(例えば政治的な思想を内包した)作品を見る良い機会だと思って、ある意味で「勉強」のつもりで見に行ったのである。

 

 会場のギャラリーには私よりもやや年長の、関係者、おそらく実行委員会の何人かの方たちが、私を硬い表情で見ていたことを思い出す。私としてはこうした展覧会を企画した人たちに敬意を払っているつもりなのだが、それはうまく伝わらなかったらしい。

 それはそれとして、ある程度は予想していたことだが、それなりに良い作品もあったが、表現と表出が弁別されていない、生硬な思想だけがむき出しで投げ出されている作品もあった。そのため、全体としての質は決して高くない展覧会だと評価せざるをえなかった。

 作家がどんなテーマ・思想を持って作品を作っても、それはかまわない。それこそ表現の自由である。しかし美術・芸術作品として発表するからには、おのずからその質は問われるべきであろう。したがって印象としては、期待外れというか、あまり記憶に残る作品、展覧会とは言えなかった。

 今、一つ一つの作品について言及している余裕はないが、それらの中で、例えばキム・ソギョン+キム・ウンソンの「平和の少女像」はやはり、作品自体であるよりも、そのメッセージ性によって成立し、そのキャラクター性というかアイコン的意味によって成功している作品だと評価することはできる。この作品(とそれを母型とした複数の鋳造作品群)ほど現実社会に直接影響を及ぼした=機能した作品が近年あっただろうか。

 そのあまりの影響力からみれば、それはやはりプロバガンダの装置であると言うべきか、それともそのメッセージの発信源としての優秀さゆえにこそ優れた芸術であると言うべきか、あるいはそのいずれでもあると言うべきなのか、今の私には判断できない。

 

 私はもともとビエンナーレとかトリエンナーレといった、行政主導の文化的イベントは基本的に信用していないので、見に行かない。だが新聞等を通じて、ある程度の動向は目に入ってくる。今回の芸術監督が津田大介だと知った時には、ちょっと不思議な気がした。彼について知るところはきわめて少ないのだが、時おり朝日新聞に書いているのを読むくらいだが、あまり言っていることがよくわからないし、美術に関係する人とは思わなかった。まあ、メディアとかIT関係が専門のジャーナリストらしいから、現代美術を中心とする文化イベントには向いているのかなと思ったくらいである。最近は美術の専門からは少し外れる人がキュレーションすることも多いようだし。

 今回の炎上に関連して、珍しくネットで多少見てみたが、彼に対する攻撃をはじめとして、あまりにひどい情況なのには驚いた。まさにヘイトスピーチネトウヨ的言説の洪水だった。

 それにしてもと思う。私自身は美術・芸術作品としてさほど評価できなかった「表現の不自由展」を、なぜ「その後」として取り上げたのだろうか。美術・芸術作品としての質を度外視して、その「不自由」の構造を問いかけるためだったのだろうか。どのようにして。そして誰に向けて?

 だとすればその意図はあまりに不用心というか、炎上するに決まっている企画をあえて無防備に提出するのは、やすやすと行政および世間に「国益の下に表現の自由は制限されてしかるべきだ」という実行力を行使させる機会を与えるだけでしかない。「表現の自由」はかくもやすやすと現実に踏みしだかれるものでしかないということを、実証させる場を提供したということ、権力にまたもや味をしめさせただけだ。悪しき前例だけが着実に積み上げられてゆく。それは企画者としては、あまりに愚かな判断、戦略なのではないだろうか。

 これは余談と言うべきかもしれないが、中止決定後の実行委員会委員長の大村愛知県知事と会長代行の河村名古屋市長とのやりとりも、妙な具合だが、そのよじれ具合が、多少興味深い。河村名古屋市長は「旧日本軍によって~従軍慰安婦にされたことを示す文書は見つかっていない」とワシントン・ポストに意見広告を出したり、中国共産党南京市委員会の訪日代表団に「南京事件はなかった」と発言してきた人物。大村愛知県知事とは盟友というか、同じ穴のムジナと見ていたが、今回の中止の経緯をめぐっては激しく対立している。大村愛知県知事の「税金でやるからこそ表現の自由憲法21条は守られなければならない」とリベラル顔負けの主張には、ちょっと驚いた。

 

 皮肉な言い方をすれば、今回「表現の不自由展・その後」が中止されたことによって、やはり「表現の不自由」が存在するのだということが明示されたことこそが、「表現の不自由展・その後」の完成形であるということもできる。「中止されることによって完成する展覧会」。

 

 ともあれ、「見たかったのに、見れなくて残念だ」という人のために、判断材料の一つとして、「表現の不自由展 消されたものたち」の図録の図版を上げておく。

 

 ↓ 6頁 安世鴻 「中国に残された朝鮮人慰安婦』の女性たち」

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 ↓ 8頁 貝原浩 「鉛筆戯画」

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 ↓ 10頁 中原克久 「時代の肖像」

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 ↓ 11頁 永幡幸司 「福島サウンドスケープ

 

【以前に掲載していた図版は、作者から著作権に触れるとの指摘を受け、削除しました。図録に©の記載がなかったため、引用の許諾を怠っていました。(2019.8.16)】

 

 

 同図録には他にも「いまなにが問われるべきか 『隠蔽と禁止』がおびやかすもの」(論攷:アライ=ヒロユキ)、上映映像作品紹介、トークイベント紹介(ろくでなし子、鹿島拾市、イトー・ターリ、澤地久枝、開発好明)などが載っている。

 

 結局この稿では、私自身の意見というものは、ほとんど言わずじまいである。私にとっても未解決、判断困難なことが多いし、言いたいことを言うためには、力不足だと思わざるをえないからである。

 ただ、卑怯なようだが、あえて記せば、私は絵は思想であると思っているが、同時にイメージ(反思想)でもあると思っている。したがって、何よりも美術・芸術作品としての質、美しさを思想よりも上位に置く者であると。   (2019.8.5)