艸砦庵だより

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石仏探訪-57 「陽石・金精について」

 先の5月6月の山形への旅では山登りとは別に、興味深い石仏をいくつも見ることができた。並行して「陽石」もいくつか見た。陽石は「石仏」とは呼べないが、石仏‐石造物という存在の根幹に深く通底するものである。

 「陽石」とは「陽根石」つまり「勃起した男根の形状」と見なされる、自然または加工された石。男性のそれを陽石と言い、女性のそれを陰石と言う。すなわち陰陽であり凹凸。

 男女共に下腹部一帯を陰部とも言う。男性器の外側の一部を状態にかかわらず器官として陰茎(ペニス:penis)と言い、その勃起した状態のものをファルス (phallus)と言う。これに「陽根」の語を当てる。ここにも陰陽の観念が現れている。勃起したペニスは洋の東西を問わず、古くから健康や生殖、豊穣等のシンボルとされた。

 日本でも神道成立以前の縄文時代に石棒と呼ばれる造形物がある。女性のそれは、縄文式土器土偶において象徴化・記号化された形で見ることが多いが、石造物としては造られること少なく、陰石そのものも見る機会は比較的少ない。男性のそれ≒石棒は豊穣・生産力のシンボルから権力のシンボルへと変質していったと想像されるが、後年見出されたそれらがそのまま道祖神として、あるいは神社・祠の御神体として祀られている例は多い。

 道祖神≒塞ノ神≒山の神-地蔵-庚申塔といった系譜が担っていた、外部からの疫病や敵の防ぎ・遮(塞)りの観念連合の展開と並行して、生殖‐子授かり‐安産‐多産‐子育てといった性信仰の要素も体系化・造形化されつつ習合されるに至った例は多い。それら「防ぎ=安全」と「子孫繁栄=幸福」が庶民の最大の願いであるがゆえに、一部の諸神仏像においても、隠され重ねられた祈願内容になっていることもある。そして、安産・多産から豊穣・作神へと、意味は容易に重層化する。

 いずれにしても、それらの庶民の願望祈願の現れは、多種多様な造像への置き換えや意味付けにも展開したが、その原型にあったのが自然石の陽(根)石なのである。そもそも石を立(建)てること自体が、陽根性の顕在化であると言えはしないか。

 各種の像塔に置き換わったものもあれば、手を加えない自然そのままの状態で祀られているものもある。道標や庚申塔など全く別の意味合いのものであっても、立地条件と「防ぎ」の意味をその自然な形状に重ね合わせて見れば、基層にある性信仰を見て取るのはたやすい。その意味でも縄文の石棒も含めて陽石は、宗教成立以前からの、健康と生産・多産と防御性の普遍的なイメージであると言えよう。

 

 全国を見て歩いたわけではないから、山形県に特別陽石が多いということはないと思うが、山の神信仰などとの関係から言えば、都市部よりも地方山村に多く残っているということは言えるかもしれない。ともあれ、それらが素朴率直な形のまま、今でも路傍や寺社の一隅に置かれているのを見る時、何となくニンマリとさせられ、またほのぼのと安心するのである。

 

 

 ↓ 山形県西川町吉川稲沢 草餅地蔵尊 全景遠望

 6月20日、山形市から大井沢に向かう途中で見つけた草餅地蔵尊。集落のはずれ、稲田に囲まれたロケーションという、石仏探訪としては理想的な雰囲気。

 御堂の中には宝珠錫杖姿の草餅地蔵。左側の石仏群はすべて文字塔の湯殿山湯殿山供養塔、大神宮(伊勢信仰)、象頭山金毘羅神社)、巳待塔(弁才天)、二十三夜塔、馬頭観音と並ぶ。

 

 

 ↓ 石仏群を一通り見終わったとき、同行のTさん(女性)がこの自然石を発見した。

 

 「これって、あれですか?」他の石仏群と同列には祀られてはいないが、一応その一画に置かれている。

 角度を変えて見る。白い嵌入(岩脈)が見事に亀頭のカリ首を表して(?)いる。立派なものである。

 

 

 ↓ こちらは山形市小姓町の新山寺大日堂で見た自然陽石。

 これもなかなか写実的(?)で立派なものである。ここは民間信仰系のものにも寛容な密教系の真言宗の寺のせいか、数は多くないが、面白いものが他にもいくつかあった。

 

 

 ↓ 石棒 東京都あきる野市二宮考古館

 奥にある一本が元は戸倉の三島神社に古くから保存されていた石棒。長さ123.2㎝。神社付近の縄文中~後期遺跡から出土したものと思われる。4000~5000年前のもの。保存状態はきわめてよい。手前は近くの第六天遺跡から出土したもの。頭部は二段笠型、117.5㎝。

 

 

 ↓ 石棒・石造の男根

 東京都東村山市諏訪町の徳蔵寺にある板碑保存館にあるもの。ここには貴重な中世の青石板碑が大量に蒐集保存されており、見ごたえがある。板碑以外にも若干の石造物があり、これもその一つ。正確な年代は不明だが、明らかに意図して写実的に造った男根。

 

 

 ↓ 東京都檜原村の本宿、橘橋のところにまとめられた石仏群の中の一つ。

 これだけが小さな木祠に納められていて、特別扱い。解説はなく、資料等にも記載されておらず、正体不明だが、いわゆる金精様として扱われているのではないかと思う。

 下から二段目は明らかに蓮弁であり、本来は宝篋印塔の相輪部分だったのを、いつの時にか金精に見立て、転用したのでないかと思われるが、さて?

 

 

 ↓ ローマ神話の神プリアーポスを描いたポンペイの壁画(BC1C)。

 プリアーポスとは、「ギリシャ神話における羊飼い、庭園および果樹園の守護神で生殖と豊穣を司る、男性の生殖力の神である(Wikipedia)」。

 造形化されたファルス=生殖=豊穣の例としては、もっと良いものがあるのだが、見つけられず、とりあえず参考例として。

 

 

 ↓ 山形県村山市楯岡の稲荷神社にあった自然陽石?

 刻字も解説も資料もなく、趣旨は不明だが、要するに金精様的存在なのだろう。ちょっと皮かむり気味だが、まあ、そのように見える。稲荷は作神でもあるから陽根=豊穣・豊作と結びつく。

 

 

 ↓ 道祖神ではあるが、そのまま陽石=性信仰の外形をあらわにしている例。

 東京都あきる野市菅生の福泉寺近くの路傍。文化12/1815年。資料には「陽根型自然石で性神の性格も」とある。

 

 

 ↓ これは見ようによっては陰嚢まで含めたリアルな陽根の姿。

 「庚申」塔なので、直接性信仰とは結びつかないように思われるが、基層にあるそうしたものを「講中」の合意としてストレートに出しているようだ。東京都檜原村千足、御霊檜原神社。文化12/1815年。

 

 

 ↓ 東京都あきる野市戸倉の沢戸橋下にある道標。

 あきる野市檜原村の境、秋川にかかる沢戸橋の下、支流の刈寄沢(逆沢)の合流点の手前の細い道の傍らにある。「右 今熊山八王子道」「左 五日市みち」と記されており、逆沢(坂沢)から金剛ノ滝を経て今熊山に至る道筋を示す、今熊山信仰の一つ。安政4/1857年。

 この角度からは陽石と見える。それについて触れた資料は見たことがないので、私の想像だが、立地的には村(集落)境であり、道標ではあるが、性信仰と親和性の高い道祖神の意味合いも重ねられているように思われる。また今熊山は修験の山であり、修験道と性信仰は親和性が高い。

 

 

 ↓ 猿田彦大神道祖神 山口県防府市多々良

 これは「猿田彦大神」と記されているが、道祖神である。江戸後期からの復古神道が唱えた道祖神猿田彦説にのっとったもので、全国にあるが、私の故郷山口県防府市にも多く残っている。明治維新廃仏毀釈で、道祖神民間信仰的性格のつよい「淫祠邪教」の最たるものとして、特に山口県では徹底的に破却されたそうが、猿田彦となっていれば神道系ということで破却を免れたということだ。

 だが、その自然石に多少の手を加えた全体の形状には、道祖神以前の金精(陽根)の姿が明らかに投影されている。天保12/1841年。

 

 

 ↓ これまで紹介したのは一見して男根型とわかるものだが、中にはこれはちょっとどうなのだろうという形状のものも多い。

 これは山形県西川町吉川の藍婆大権現の横にあった個人墓地(?)の一画にあったもの。明らかに意図して三つをワンセットで祀っている。左の大神宮はともかく、右の白い二筋の岩脈(?)の入ったものが陽根であり、中の横に窪んだ石が陰石ということなのだろうか。あるいは大神宮=伊勢信仰=アマテラス信仰=古事記から、猿田彦とアメノウズメノミコトに見立てたというのは考え過ぎだろうか。いずれにしても、メッセージとしては子孫繁栄ということか。

 

 

 ↓ 同じく藍婆大権現にあったもの。

 陽石といっても、どこにでも転がっていそうな、単純な棒状の自然石を供物(奉塞物)として置いたものは多く見られる。これは長短の自然石を二つ、台石の上に一応固定させてある。西川町資料館の「西川町石碑石仏資料」のサイトを見ると、「不明」として台石の上に4つの石が置かれ、注連縄を回されている画像が同じものだろうと思われるが、はっきりとはわからない。刻字はなく、単なる陽石に見立てた奉塞物というべきか。

 しかしこのように二つ並べられてみると、男女‐夫婦という関係性にも見えるし、またそれとは別にブランクーシなどの現代美術のようにも見えて、とても好きな造形となっている。

 

 

 ↓ ここまで自然石、石造の陽根を紹介してきたが、奉塞物まで含めれば木製のものの方が数は多い。木製の小型のそれは素人でも作れる。

 これは山形県鶴岡市東岩本付近の名前のわからない神社にあった塞ノ神。昭和34/1959年の建立だから新しいもの。昭和30年代になっても新たに塞ノ神が建てられるというのも驚きだ。手前に大小6本の木製の男根が供えられているのだから、現在でもまだ信仰が生きているということなのだろうか。

 石の形もいわくありげで、何となく気になる。地元の人に話を聞きたいところだ。

 

 

 ↓ 木製陽根のその2。

  以前に紹介済みだが、山形県東根市の荷渡地蔵・山神社の奉塞物。大小、木製石造とある。右上の石造物が山の神であり、山の神≒金精=性信仰の関係性が明確に出ている例。

 

 

 ↓ 木製陽根のその3。

 これも山の神と奉塞物の木製陽根の例。山形県村山市新山の山神社。地域性、場所的にも山の神信仰は濃い。むろんその多くの山の神、山神社は神道以前にさかのぼる土着的な信仰である。

 

 

 ↓ これまで陽石として一括して話を進めてきたが、神格化が進むと名前(神名)が付与される。

 金精、金精神、金精大明神、金神、等々。とはいえ、本来神道とは別系統の民間信仰の神なので、その定義といってもはなはだ曖昧である。

 これは山梨県七保町葛野で見たもの。「金神」とある。金神には別系統の陰陽道方位神としての金神もあり、紛らわしいが、こちらは金精神を略した金神なのではないかと思う。左の方は、読めない。

 

 

 ↓ 「金精大明神」というのはあるが、「根性大明神」とは? 

 金→根、精→性とあてれば、「金精」は「根性」となる。たしかに根性がいる領域ではある。素晴らしい庶民感覚!栃木県日光市唐風呂の餅ヶ瀬川石仏群で見たもの。

 

 

 ↓ こちらは群馬県桐生市の観音院にあった金精大明神の三尊?

 中央に金精大明神の尊像。右に石造陽根。左が素朴な古い(?)金精大明神像、といったところか。「開運・子授り」と堂々としたものだ。

 

 

 ↓ 拡大して、金精大明神。

 どう見ても、如意を持った達磨か羅漢像を手本にした趣き。造立年不明だが、明治以降のものか。

 

 

 ↓ 左に置かれていた、合掌あるいは智拳印(?)の座像。

 全体の形状は陽根型と見えなくもない。正体不明だが中央の金精大明神が造られる前の古い素朴な金精神の造形か。

 

 

 ↓  群馬県片品村東小川の金精神社にあったもの。

 あるいは金精神、金精大明神かもしれない。宝剣と宝珠のようなものを持っており、けっこう愛らしい像だが、今のところ正体不明。

 いずれにしても金精と言い、金精大明神と言っても、その姿形を定めた儀軌はないので、民間に流布する御札や石工の想像力によって造形されるしかなく、定型と言ったものはなかったようだ。

 

(記・FB投稿:2023.8.25)