1月10日。自宅近くの高尾神社前での「どんど焼き」に参加した。昨年はコロナ禍で中止。今年は規模を縮小しての実施だそうだ。私の住むあきる野市の多くの自治会(旧村単位)では、現在でもどんど焼きを行っているところが多い。
↓ 今年のどんど焼き。
例年より小さい。人も少ない。神社の前でやるが、神社の行事ではない。あくまで民間信仰である。
↓ 一昨年のどんど焼き。
達磨の串刺し十字架。その他、注連縄や松飾、以前は大きな門松などもこの時燃やしていたという。
↓ う~ん、火あぶり。
邪気を燃やすということなのだろう。
↓ 達磨磔刑図。
裏側から見るとより迫力がある。
どんど焼きは、ある時期から子供が中心になって行うようになった行事。わが地区でも少し前までは中学生が主体となって準備実行していたが、時代の変化で、鎌や鉈や火を使うのが危ないということになり、大人が主体でやるようになったとのこと。残り火で焼いた餅や豚汁などを子供たちに振舞う楽しい行事だったそうだが、今年集まったのは、私のような爺さん中心の10名ほど。そのおかげ(?)で、地元の古い話をいろいろ聞けたのは収穫だったが、やはり少しさびしい。
↓ 子供たちが後ろで待っている。大きな焚火を見るのは子供にとって新鮮な体験だろう。
わが地区の小学生も少子化で減り、今年は10人以下になるそうだ。ただし、自治会に入っていない家庭も多いので、正確な数字はわからないが。
↓ お待ちかねのお餅、その他あれこれのお振舞。
やはり子供の多い風景はなごむ。
その規模縮小したこともあり、またあまり良い写真が撮れなかったので、画像のほとんどは一昨年のまだもう少しにぎやかだった時のものである。
「どんど焼き」とは言うものの、地元の人に聞くと、以前は「せぇのかみ」と言っていたそうだ。「せぇのかみ=さえのかみ=さいのかみ」つまり「塞の神」。別に「サギチョウ(左義長)」とか「サイトウ(柴灯)」という言い方をする地方もある。要するに小正月(1月15日)に行う火祭である。
どんど焼きという言い方は、現在全国を通じて最も一般的な言い方であろうが、『民俗学辞典』(柳田国男監修 1951年初版/1979年53版 東京堂出版)と『日本民俗事典』(大塚民俗学会 1994年 弘文堂)のいずれにも「どんど焼き」の項はなく、左義長や塞の神の項で副次的に言及されているだけである。つまり本来の意義からは離れた形容的名詞であり、それゆえに全国的な共通語になったのだろう。私の山口県での子供時代でも「どんど焼き」と言っていた。しかし「さいのかみ」とは言わなかったようである。
では「塞の神」とか「左義長」とは何かというと、これがまた実に複雑怪奇でややこしい。「左義長」はおいて、「塞の神」についてのみ簡単に記すと、記紀にある「フナド(岐)神」から「石神」「八衢神」「庚申」などと習合し合っているが、大もとは村境などで外部からの邪気・疫病などを防ぎ、サエぎる神である。「道陸神(どうろくじん)」と言う地方もある。その形態は二又の木の枝や自然石・丸石などをはじめ、多種多様であり、中には信州などのように男女の双体道祖神として独自の発展を見せたところもある。
それらの道祖神=塞の神と直接結びついてどんど焼きを行っている地区があるのかどうかは、まだ確認していない。
どんど焼き=火祭りの本質を私はまだよく理解できていない。だがせっかくだから、より古い言い方、より古い本質であると思われる塞の神=道祖神をいくつか紹介してみよう。現在あきる野市全体で、道祖神は全部で7基ある。多くはない。すべて文字塔。
寛政10/1798年。「石橋造立二ヶ所」とあり、石橋の供養塔を兼ねている。地元伊奈石製のため、風化が進んでいる。
安政4/1857年。固い川原石製なので、風化剥落が少なく、繊細な筆跡をよくとどめた端正な文字塔である。
一見してわかるように堂々たる金精=陽根の形の自然石であり、道祖神(=塞の神)のもう一つの側面である、子孫繁栄を意味する性器崇拝がうかがわれる。文化12/ 1815年。
そのうちの1基は猿田彦。もう1基は「道祖神大■衢命(ヤチマタノミコト ■は彳+八)」。
↓ あきる野市小津の熊野神社にある明治7/1874年の「猿田彦」の碑。
猿田彦を道祖神だと言い出したのは幕末の国学者であり、明治維新の廃仏毀釈等を通じていわば「神の書き換え」が行われたのだとも言えよう。
あきる野市留原の個人宅石垣に組み込まれている。
「道祖神大■衢命」と書かれており、■は彳+八。千葉県に八街市があるが、これである。「八衢神/やちまたのかみ」は記紀に記載があるが、複雑なので略。
大正9/1920年の造立で、「南 八王子」「北 秋川橋」と記され、道標を兼ねている。この前の道筋が当時檜原村、五日市で産出された繭玉を八王子へ運ぶ、いわば「シルクロード」だった頃の名残である。
「道六神」の名が当てられ、そこの地名になっている。嘉永元/1848年。
このように道祖神があった場所が「道祖土(さいど)」などといった地名になっている例は、さいたま市浦和区のそれのように、全国に多く見られる。
(記・FB投稿:2022.1.10)