艸砦庵だより

河村正之のページ 絵画・美術、本、山、旅、etc・・・

『メッセージのゆらぎ』と体験的「博士課程・博士論文」のこと ―その5 小笠原逃避行

 前稿では製本論文と印刷公表のことを軸に書いた。ここで話は多少前後する。

 

 32歳、1987年3月学位取得。5月製本論文『メッセージのゆらぎ』を提出。10月『論文+作品集 メッセージのゆらぎ』を自費出版。11月個展(紀伊國屋画廊)。

その間の3月の末で、それまで三年勤めた美術予備校を辞めた。

 

 論文執筆に専念(?)した一年間の疲労とストレスが限界に達したのである。そして、その時点ではまだめどの立っていなかった、製本論文と印刷公表の問題に直面していた。また、11月の個展のために、制作しなければならないという焦りもあった。

 私は本当に疲れきったのだ。このままでは危険だと思った。休息が、それも思いきった休息が必要だと感じた。4月以降もそれまでと同じように週四日の予備校勤務(油絵科主任)を続けたら身が持たない、それ以上に心がもたないという予感がした。甘えと言われるかもしれないが、少なくとも主観的には、間違いなく危機的精神状態だったのである。当時はウツという言葉はあまり日常的には使われていなかったが、まあ、今で言えばウツか、その一歩手前だったのだろう。

 

 女房に、今家にいくら貯金があるかと聞いた。

 あれやこれやかき集めれば、仕事を辞めても、女房の収入だけでも、倹約すれば一年間間ならギリギリ何とかなりそうだ。仕事を辞めて一年間無職になると宣言した。 

 この一年の情況を見ていた女房は、渋々ながら、結果として了承してくれた。納得も了解もしはしなかっただろうが、理解はしてくれたというか、ほかにどうしようもなかったのだろう。

 乳飲み子を持つ親のとるべき行動ではないが、最低限の計算はした上でのこと。そのタイミングでクールダウンしなければ、その先に行けそうになかったのである。前稿で「無理を承知でジャンプしなければならない時がある」と書いた。今回はポジティブな「チャレンジ」ではないが、ネガティブな逃避ではあっても、これも一つの「ジャンプ」だったのである。

 人間、「疲れたら休め」(安野光雅さんの言葉)、「しんどくなったら逃げればよい。逃げることも時には大切な技術だ。」(私の言葉)。

 その一年間にやらなければならないことのおおよそは見えていたが、その前にまずは休みたかった。仕事を辞めたからと言って暇になるわけではない。とりあえず、少しの間でいいから家庭や家や日常から離れ、旅にでも出たかった。しかし前述したような、まず倹約といった情況だから、そこまで勝手はできない。

 

 私の2学年下にI君という後輩がいた。壁画研修室だったからふつうならあまり縁は無いはずなのだが、幸か不幸か、学生時代最後の頃のニ三年、麻雀仲間だった。彼は大学院修了後、どういうわけか小笠原に渡って、漁師に弟子入りしていたのである。釣りが好きで、魚が好きで、魚の絵ばかり描いていたやつだったが、漁師に弟子入りするというのも芸大大学院修了者としては珍しい選択をするものだなと思っていた。

 小笠原に移住してしばらくたった頃、同地の村営住宅に住めるようになったとかで、どんな成り行きからだったのか覚えていないが、「小笠原に遊びに来てください」などと言っていたのを思い出した。

 

 二浪の時の大学入試最後の三次試験(学科試験)で、寝坊して遅刻したときのことを思い出した。

 遅刻といっても、試験会場に着いたら、三科目(英語・国語・世界史)のうちの午前中の二科目が終わる寸前という論外破格の大遅刻。仕方なく(?)学食で味のわからぬ飯を食べていたら、試験が終わった受験生がぞろぞろとやってくる。顔見知り、友人も多い。「何やってんだよ~、今ごろ来て」などと言われても答えようがない。言う方も言われる方も顔がひきつっている。午後の世界史だけ受けてみたところでどうしようもない。実技試験の成績は良く、倍率二倍の学科試験には絶対の自信があっただけに、99%手中にしていた合格をフイにしたのだ。

 さすがにいたたまれない。どう日を過ごしていいかわからない。アパートの自分の部屋にいたくない。東京にいたくない。友人に会いたくない。何も考えたくない。

 その時、思いついて発作的に、京都在住の高校時代の同級生Yの下宿に転がり込んだのである。一浪後、立命館大学の一回生であった彼とは、特別親しいというほどの間柄でもなかったのだが、私としては東京から、自分のアパートから逃げ出せればどこでもよかったのだ。

 何一つやるべきことのない、魂の抜けたような不景気な顔で、悶々と、ゴロゴロしているだけの私を、快く(?)受け入れて、気をつかってくれつつも持て余したであろうYには、今思ってもただ感謝するのみである。

 そこに転がり込んでいた一週間ほどで、何一つ解決したというわけではなかったが、まあ、落ち着いたのであろう。東京に戻って三浪目を迎える覚悟をするぐらいには恢復したというか、再生したのである。その一週間滞在したYの下宿は、私にとってのアジール(避難場所)だったのである。

 

 小笠原のI君の「遊びに来てください」は、再びのアジールへのいざないだった。

 とりあえず電話してみる。「遊び」ではなく逃避行なのだが、まあ同じようなものか。前述したように倹約体制なのだから宿に泊まるような金はない。I君のすむ村民住宅に転がり込むしかないわけである。I君は戸惑いつつも、「いいですよ」と言ってくれた。行き先ができた。

 5月11日、製本論文『メッセージのゆらぎ』を提出。それからしばらくして竹芝桟橋から週に一便の小笠原父島行の舟に乗った。

 父島までは約24時間。途中、ベヨネーズ列岩だか須美寿島だか孀婦岩だかわからないが、絶海の孤島としてそそり立つ岩峰を見る。一人旅の孤愁。

 父島から小さな船に乗り換えて、母島まではさらに4~5時間。現在の母島の人口は470人ほどとのことだが、当時はもっと少なかったようだ。

 

 I君の家に転がり込んだはいいが、彼は早朝というか未明から親方の舟に乗り込んで漁に出る。一人のんびり起きだした私に、特にやることはない。目的など持っていないのだから。

 とりあえず彼の竿を借りて、リールを買って(彼のリールは壊れていた)、適当な磯に立つ。釣りは海釣りでも川釣りでも、さほど本気ではないが、ガキのころからやっているので、勝手はわかる。

 余談だが、地元でとれたわずかな野菜や魚以外は、島の店で売っているほとんどの食料品は本土から父島経由で運んでくるので、高い。餌の冷凍の鯵も食用なので高く、釣餌にするのはもったいないような気もするが、それが当地の流儀だとか。

 投げればすぐに食いついてくる。さほど大きくもない濃色の魚が、入れ食いというほどでもないが、いくらでも釣れる。しかし、そもそも数を釣ってみても仕方がないのだ。運悪くI君宅の冷蔵庫は壊れていて、釣った魚はその日か翌朝には食わなければならないのだから。

 

 ↓ 基本、いくらでも釣れます。クーラーボックスもないのですでに干からびかけている。

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 山葵がないから刺身は醤油だけ。あとは一番簡単なムニエルばかり。そもそも南の海の魚なので大味で、臭みもあり、美味くはない。毎日自分で作ったそればかり食べているとさすがに飽きてくる。他の食材は高い上に、父島からの船はちょっと海が荒れれば欠航となるので、入荷するとあっという間に売り切れてしまうとのこと。魚に飽きて、そこいらじゅうを這い回っている、戦前に食用として養殖され、野生化したアフリカ原産の大きなカタツムリを食べてみようと思ったが、I君に断固として断られて断念。

 暇つぶしの楽しみだったはずの釣りではちっとも暇がつぶれない。

 

 東京から持参した鬱々とした気分も、美しい母島にいるだけで少しずつ癒されてゆく。

 島の南端に近い南浜にも行ってみた。倹約しなければならないはずなのにシュノーケルや水中眼鏡なんぞ買い込んで。当然人っ子ひとりいない。浅瀬で30分もバシャバシャやっていれば飽きる。すぐ沖合の、海の色が変わる潮目から先は黒潮。あそこまで泳げばあっという間にハワイまで行けるらしい。少しなら泳げるが、幸か不幸かそこまでは行けそうもない。

 

 ↓ 南浜 遠くの黒ずんだところが黒潮

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 母島最高峰の乳房山463mにも登った。それまで経験したことのない亜熱帯雨林。ところどころに洞窟陣地(?)や塹壕などの戦争遺跡が残っていた。尾根続きの剣先山(だったと思う)の頂上には対空機銃座の跡が残っていた。

 

  ↓ 左の一番高いところが乳房山 右手前が剣先山(だと思う)

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 そんな私を少々みかねたのか、休みの日に穴ダコ漁に誘ってくれた。潮が引いて露出した岩場に無数にある、珊瑚礁ゆえの天然の穴を一つ一つ、先を曲げて尖らせた太い針金(?)を差し込んで探ってみる。時々反応があり、引きずり出してみると、小さなタコが獲れる。そうした漁のできる貴重な場所は限られており、権利を持つ人が決まっていて、勝手に獲ることはできないとのことだ。

 

 ↓ ちょっと見づらいですがタコが。しかしそのVサインは何だ?

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 別の日には彼の師匠の船の漁に誘ってくれた。目的は金目鯛。魚の種類は多くても、本土への輸送料からすると、採算がとれるのは高級魚の金目鯛など、ごく限られるとのこと。その日はあまり成績が上がらなかったからなのか、次いでイセエビ漁に行った。と言っても沈めてある籠を上げるだけなのだが。

 

 ↓ イセエビ漁の現場 海はあくまで碧い。

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 ちょうど昼飯時とあって、船上で上げたばかりのイセエビを錆びた出刃包丁でぶつ切りにして刺身。後にも先にも、その時食べたイセエビほど美味いイセエビを食べたことはない。頭は海に捨てる。あ~、もったいない。

 それ以外にも、近くで獲って解体したばかりの鯨の「オノミ(尾の身?)」(最も美味い部位で地元消費のみだとか)や、海亀のモツの煮込み、パッションフルーツなどといった美味珍味の初体験尽くしもした。

 

 そのころはほとんどまったくと言っていいほど酒は飲まなかった。酒など飲まなくてもストレスは次第に解消されていった。亜熱帯の母島の大いなる自然の治癒力と言うべきであろう。

 

 船便は週に一回(あるいは10日に一回だったか?)。一便逃せば次は1週間後(あるいは10日後)。そろそろ帰るべき時だ。居候的にも限界だろう。帰って、無職ではあれど、やるべきことに復帰しなければならない。論文の印刷公表、個展に向けての制作、家庭生活。

 かくて小笠原母島というアジールへの逃避行は終わった。そのセンチメンタルジャーニーによって、かろうじて私は恢復できたのだった。

 帰宅後程なくして、その時のI君と船頭さんから大きなトロ箱が送られてきた。中には大量のイセエビ、その他。感謝感激、再度の美味三昧である。

 ちなみに世話になったI君はその後漁師になったかというと、現在は関西のK大学文芸学部芸術学科教授として、また画家として活躍されているのだから、人生いろいろである。

 

 帰宅してからは11月に個展(紀伊國屋画廊)をやったぐらいで、大きな出来事はない。

 

 ↓ 個展案内状 宛名面

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 ↓ 個展案内状 

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 翌春以降に向けて仕事先を見つけなければならなかったが、これもやはり同じ研究室の後輩のYHに頼んで、彼の勤めていたT美術学院に勤めさせてもらうことが決まった。

 700部も作ってしまった印刷公表『メッセージのゆらぎ』は、その半分ほどは各大学、美術館、画廊、美術評論家、雑誌社といった関係各方面に献呈したが、反響はほとんどなかった。残る半分のほとんどは友人知人教え子などに、タダであげてしまったように思う。

 今現在手元に残っているのは10冊もない。在庫を抱え込んでいても仕方がないが、そうしておそらくは献呈したものの一冊が今回ヤフオクに出品されたのだろう。そのことについては特に何の思いもない。たまたま目にし、今日現在もなお出品され続けていることによって、この長いブログ記事を書く気になったというか、この一稿が産み落とされたのだから、それはそれで成果を上げたというべきか。

 高い費用をかけて自費出版し、それ自体は当初もその後もほとんど具体的成果をもたらさなかったと言ってもよいのだが、後悔はない。その作品集を欲したのは私自身だったからであり、本という形になったものは、結局どこかで残っていくものだからである。『メッセージのゆらぎ』は私の作品であり、その制作過程にまつわる苦闘は私の表現行為だったのである。

 

 つい懐かしさにかられてダラダラと書き連ねてしまったが、読み返してみるとセンチメンタルジャーニー回想といった感もある。まあ、それはそれで、たまには寄り道もいいか。忘れていたこともずいぶん思い出したし。

 博士(号・論文・家庭)については、私自身の取得体験とは少し違った観点からもう少し書くべきことが残っているような気もする。ただ、今現在(5月5日)は個展直前なので、しばらく間をおくしかない。せめてもう一篇だけは書き継いでみたいと思っているが、さて?

                              (記:2019.5.5)

 

 以下、その6に続くかも?しれません。

『メッセージのゆらぎ』と体験的「博士課程・博士論文」のこと ―その4 印刷公表とルサンチマン

 

 学位授与式(1987年3月)は済んだものの、手続きはまだ途上である。

 

 審査会と前後して「製本論文(提出論文?論文提出?)」とか「印刷公表」ということが、次の課題として上がってきていた。

 「製本論文」と「提出論文」とか「論文提出」の正式な言い方は今でもよくわからずじまいだが、とにかく博士論文として認められた論文を製本し、文部省と大学図書館に納める義務のこと。一応、何となくは常識として知っていた。

 製本に際しては特に決まりはないようであるが、慣例に従うことにする。まわりからアドバイスを受けて、それなりの少し厚手の用紙を買ってくる。少し厚手の用紙は全体の束(つか=本の厚み)を出すためと、書籍としての実用性および格式(?)のために必要なのだ。

 作品篇28頁と論攷篇104頁、その他合わせて全139頁の全てを手差しコピー。これは大学のコピーを、ふつうは有料なのだが、無料で使わせてくれたのは助かった。

 コピーし終わった頁を製本業者のところに持っていき、製本してもらう。あまり選択肢も多くはなく、黒いクロス風の表紙のハードカバー、表紙と背表紙にはタイトルと河村正之の名を金箔押し、簡易箱付き。箱に貼る題箋は和紙にコピーしたものを自作。縦26.4㎝×横31㎝、厚さ3㎝、全139頁。

 

 ↓ 外観 右は簡易函

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 そうして製本し終わったものに、作品篇の頁に28点分の焼増した写真を一枚ずつ貼り込む。それらの写真は四の五のフィルムから六つ切りとかに焼増ししたもの。それだけでもけっこう費用がかかる。とにかくそれで「製本論文」が完成である。

 内容は以下の通り。

 

 

 学位論文『メッセージのゆらぎ』

 昭和62年3月 

 東京芸術大学大学院美術研究科博士後期課程油画研究領域 58-903 河村正之

 

 はじめに

  目次 

 第Ⅰ部 作品篇 

 (28点の作品タイトルを記載)

  作品リスト及びデータ

 

 第Ⅱ部 論攷篇 メッセージのゆらぎ

  序論 目的と方法 

  第1章 森をめぐる 

   §1 個性のゆらぎ 

   §2 方法のゆらぎ 

  第2章 《水の無い谷間》 

  第3章 技法をめぐって 

  結語 

  註 

  参考図版 

  あとがき 

  年譜 

  展覧会歴 

  参考文献

 

 ↓ 作品篇 右は写真貼り込みのため光っている

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 ↓ 論攷篇頁

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 納本用には二冊あれば十分なのだが、別に自分用に二冊と、まあ親孝行(?)のために実家用として一冊と、最低でも五冊は作った。別に油画研究室への寄贈用と、指導教官のT先生に献呈するためにもう二冊ぐらい作ったかもしれない。あるいはT先生はその後の「印刷公表」した分をもらえばいいと言ってくれて、献呈はしなかったかもしれない。計、六~七冊。

 以上、当然、すべて自腹である。正確には覚えていないが、一冊につき1万円前後かかったように思う。

 1987年5月、二冊を大学に提出する。以上でこの件は落着。

 ここまでは良い。というか、仕方がない。「次は印刷公表だ」。

 

 「『印刷公表』? それ、何ですか???

 

 「印刷公表」とは、博士号を取得した者はその後一年以内(?)にその博士論文を印刷して公表しなければならない、というものである。「しなければならない」というからには義務なのだろう。私はそのことを知らなかった。ひょっとしたらその前に聞いていたのかもしれないが、その意味するところを、正確には認識していなかった。あるいはその前段階の「製本論文(論文提出?)」と混同していたのかもしれない。例によって、知らないことばかりである。

 

 ここで少し言い訳をしておくが、これまで見てきたように、当時の東京芸大においては、博士論文にかかわる制度上の諸規定、運用上・実務上の諸規定は、あまり明確ではなかったというか、成文化されていないことが多かったようだ。最初期の第1号第2号のあたりでは、学生自らがあちこち(の大学)で「博士号の取得のしかた」と「博士号の取らせ方」を学んできて、それを指導教官や事務官に教授することから始まったと聞いたことがあるぐらいだ。原始時代と呼びたくなるゆえんである。

 博士課程の長い歴史のある旧帝大系等の大学はいざ知らず、実技系芸術系大学として初めての博士課程を設置した新興(?)の東京芸大では、マニュアルが整備されていなかったのである。のんびりしていたのである。参考にすべき前例はなく、その時々の学生たちの自由勝手な希望主張に対応協議しつつ、そのつど作り上げるしかなかったようだ。

 したがって、ここまで書いてきたように、私がその局面局面でいろいろなことを知らなかったのは事実だが、それはあながちすべて私のせいだとは言えないのである。しかもパソコンもネットも未だ存在していないのだから、知る・調べるのは、きわめて困難だったのだ。

 

 さて「印刷公表」である。この「印刷公表」は「出版」と言い換えても良いだろう。広く一般に向けてということなのだろうから、「公表」の趣旨はわかる。そのために「印刷」しなければならないのもわかる。ところで、その「印刷」は誰がするのだろう。「出版」は誰がしてくれるのだろう。

 

 第1号と第3号の人のそれは現物を見たことがないのでわからないが、第2号の油画のカジ・ギャスディンさんは1986年に『ベンガルの魂 カジ・ギャスディン画集』(日本放送出版協会)という立派な本を出版されていた。博士論文の印刷公表のはずではあるが、ちゃんと定価が付けられ書店で売られる本、あくまで一般的な画集の体裁、つまり商業出版としてのそれである。「カジ・ギャスディン画集」と副題されていることに、彼自身の意志もうかがえる。現物を持っていないので確認はできないが、画像で見る限り函には「博士学位論文」等の文言は記載されていない。

 

 ↓ カジ・ギャスディン著『ベンガルの魂 カジ・ギャスディン画集』函

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 当然、NHKをはじめとするどこからかの後援とか、そうしたものがあって実現した出版であることは間違いない。

 第4号の有吉徹さんの『身体なきイコン』は、論文執筆時からの一貫したコンセプト「タイトに」が、そのまま印刷公表にも持ち込まれている。コピーなのか、簡易印刷という方式なのかわからないが、当時の洗練されていないワープロ文字のままで、シンプルに製本されている。図版15点、全67頁。一見、研究紀要といった感じで、タイトである。潔く、奥付には「1000部自費出版」と記載されている。費用的な面でも、これなら自費出版でもそれほどの負担にはなるまいと推測される。

 

 

  ↓ 有吉徹 『身体なきイコン』

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  このカジ・ギャスディンさんと有吉さんのそれとを目の前において、見比べて、考え込んだ。

 二冊の本を並べ、見比べてみれば、その格差というか違いは一目瞭然である。「製本論文」の段階までは、「博士論文」の本質が作品であり、論攷であり、その内容・質であるということを共通理解として事態が進行してきた。だが印刷公表の段階で「本」の形を成してくると、制度・義務としての「論文」の意味よりも、「物質/書物/本」としての存在感、美しさの方が優位性を主張し始めるのは、否定しようがない。

 前提として、私の論文+作品集を出版してくれるところが、あるはずもない。知り合いの画廊等に名義を借りてというやりかたも、そこまでの付き合いのある画廊はない。できない可能性を探ってもしかたがない。何よりも有吉さんの「1000部自費出版」が潔い。というか、現実的には自費出版しかないのだ。

 

 「印刷公表しなければいけない」と言われ、その意味を理解した時、私は本当に激怒し、次いで途方に暮れた。今だからこうして冷静にそのことについて書けるのだが、段階ごとに課題を順次出され、その一つ一つをクリアするたびに、さらに次のより難しい課題を課され、しかも後になればなるほど費用がかかる。しかも、それらは当然の制度として持ち出される。

 どう考えても釈然としない。博士課程-博士号-学位取得の関係制度性はわかる。その延長上の印刷公表も趣旨理念としては納得できる。しかし、その現実的な制度的拘束性が納得できない。印刷公表に伴う費用負担等についての裏付けやアナウンスは、一切なかったのだ。これまでにさんざん経費はかかっている。やむをえないというか、そのつど渋々ながら納得はしている。

 しかし、もしも博士課程受験の前に、「博士号を取得するにはトータルこれだけの費用がかかります」といったアナウンスがあったなら、どれだけの学生が博士課程受験や学位取得を目指しただろうか。少なくとも私は博士論文を書きはしなかった。私は富裕階級ではない。稼ぐ時間を削ってでも絵を描きたいのだ。

 当時の他の大学、他の分野ではどうだったのだろう。大学研究紀要等への投稿では済まないかもしれないが、論文=論攷中心の分野であれば、経済的負担はさほど重くはなかったかと推測はされるが。

 

 その後、博士論文のWeb上での公開が認められたことによって、印刷公表という制度はなくなったらしく、それに伴う学生の経済的負担もなくなったようだ。吾々の苦労は過渡期のものでしかなかったのかもしれないが、まさにその過渡期であったがゆえに苦労し、過重な出費に苦しみ、激怒し、途方に暮れたのである。

 私の怒りの持っていき場所は、どこにもなかった。

 

 すべての絵描きは、自分の画集・作品集を出したいという夢を持っている。

 画廊での個展の薄い図録はともかく、できればもう少し立派なというか、なるべく多くの点数を載せた「画集」「作品集」といったおもむきのあるものを出したいのだ。

 ITの進化に連れて、出版は容易に、安価になってきた。しかし、その当時はまだ作品集を自費で出すには、かなりの費用を要した。博士号を取らなければ、作品集を出版するなどとハナから考えもしなかっただろうし、事前に費用の事を知っていれば論文=論攷を書きだしはしなかった。だが、その時私の置かれていたのは「一年以内に印刷公表しなければならない」、それも現実的には自費出版で、という追い詰められた情況だったのである。もとより「印刷公表」を拒否するという選択肢はなかった(もし、拒否したら、どうなったのだろう?想像するのもちょっと怖いが…)。

 

 カジ・ギャスディンさんと有吉さんのそれを見比べてみれば、おのずとその中間のものを目指したくなる。有吉さんのタイトな印刷公表でも実質としてはかまわないのだが、どうせ怒りを抱えつつやるからには、カジ・ギャスディンさんのものに及ばぬまでも、同様の画集的意味合い、つまり作品の方を主とするものとしてあらしめたいと思った。少しでも多くの作品を載せたい。私は、私の画家としての夢を実現したくなった、つまり「作品集」を出したくなったのである。怒り疲れるのはウンザリだ。それよりもその逆境を逆手にとって、夢を実現したくなってきたのである。

 求められているのは学位論文の公表であるが、ならばその中に「博士論文(=作品篇+論攷篇)」の全てが掲載されていれば、それに加えて多くの作品図版その他を載せた「論文+作品集」として作るのはさしつかえないはずだ。それは私の自由であり、権利でもあると思った。その後を含めて、他の学位取得者はどう考え、どう実行したのか、知らないが。

 

 怒りは長くは続かない。長くは続かないが、それはルサンチマン(怨念)として沈殿してゆく。それは今に至るも完全には消えていないのだが、それはそれとして、夢の実現を追求することにした。

 

 印刷や出版に関しては素人の私だったが、あちこちに相談しながら、まず印刷会社(廣橋精版)を紹介してもらった。その道のプロと相談すれば話は早い。幸いそれまでの作品のほとんどは、知り合いに依頼して(有償で)ポジフィルムで撮影してあった。そうでなければ、費用的には相当厳しいものになり、かなり質を下げざるをえなかっただろう。未撮影の何点かは、こちらの事情を理解してくれたその印刷会社のカメラマンに格安で撮影してもらうことができた。

 サイズは大きすぎず小さすぎずといったところで、A4。書棚に保存されるよりも手にとって見やすいものにしたいということで、また費用の点からも、ソフトカバー(並製本)にした。

 最も重要な図版頁のレイアウトを、デザイナーに依頼する余裕はなかった。それに面倒ではあっても、せっかくだから自分で手がけてみたいという思いも生じた。教えてもらって、レイアウト用紙なるものを買って、生まれて初めてレイアウトなるものに取り組んだ。

 「作品集」であるからには、図版頁をなるべく多くしたい。図版頁を増やせば、当然ながら費用は高くなる。なるべく多くのカラー図版を入れたいが、同様である。当時は展覧会図録でもカラー頁の割合は半分以下だった。

 価格一覧表を横目で見ながら、図版の頁と文章の頁の割合を勘案する。製版の都合上、頁の割り付けには8の倍数という決まりがある。その制約の範囲でしかできないというか、その制約を楽しむしかない。図版頁のカラーとモノクロの割合、組み合わせを考える。制作の時系列、作品サイズ、自分なりの評価、それらの要素を掛け合わせ、ああでもないこうでもないと、掲載する作品の取捨選択に頭を悩ます。パズルのようなものである。

 途中からは腹をすえて、費用のことはあまり考えないようにした。ある程度高くなっても、少しでも良いものを作りたいと思うようになった。

 結局は、カラー図版頁16頁(作品点数23点)、モノクロ図版頁32頁(作品点数53点)、論攷部分が50頁、全111頁という構成に落ち着いた。

 

 ふとしたきっかけで、詩人の宗左近さんから一文をいただいた。他の評者の数編も資料的な意味で掲載することにした。

 

  ↓ 左頁 「反抒情の抒情 河村正之小感」宗左近

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 表紙デザインも、結果的には自分らしい、案外気に入ったものができた。全体を通し て、それなりに苦労はしたが、意外と楽しい作業でもあった。

 ここまでできれば、以後は業者さんの範疇。校正、色校正も初めての体験だったが、特段の問題もなく進行し、完成の姿が見えてきた。

 

 

  ↓ 表紙

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 内容は以下の通り。

 

『メッセージのゆらぎ 河村正之 1979―1987』

(扉) 論文・作品集 1979―1987

 

 目次 

  「反抒情の抒情」宗左近 6(頁 以下同様)

  評より―抄― 7

  はじめに 8

  作品図版 9

  作品リスト及びデータ 57

  論攷―メッセージのゆらぎ― 61

   序論 63

   第1章 65

   第2章 85

   第3章 91

   結語 97

   註 100

   参考図版 106

   あとがき 108

  略歴 個展 グループ展・その他 参考文献 109

 

1987年9月31日発行 発行者:木村郷子 印刷:廣橋精版

 

 目次では上記のように「論攷―メッセージのゆらぎ―」として項目と頁が記されているだけだが、実際の本文中では論攷部分の序論から第3章は、製本論文と同様に、次のようにタイトルが記されている。

 

 序論 目的と方法 

  第1章 森をめぐる 

   §1 個性のゆらぎ 

   §2 方法のゆらぎ 

  第2章 《水の無い谷間》 

  第3章 技法をめぐって 

 

  ↓ 図版頁 カラー図版

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  ↓ 図版頁 モノクロ図版

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 「印刷公表」ということと、「論文・作品集」の関係を担保するために、「はじめに」において「学位論文の対象作品16点と、論攷篇を補足する12点」に「さらに50点の作品を加えて、作品集としての意味も持たせました」と記した。

 発行者の木村郷子は女房(旧姓)のことである。有吉さんのように「自費出版」と記するほど潔くなかったのである。あるいは、論文執筆の間、苦労をかけた(?)女房にわずかでも感謝したい気持ちもあったのか…。

 

 形は出来上がったが、問題は部数である。いくら刷るべきか、初めてのことでもあり、見当がつかない。製版さえできれば、部数が多いほど一冊当たりの単価は割安になる。先の有吉さんは1000部。1000部は多すぎるだろうが、さて。

 根拠はなかったが、何となくといった感じで700部とした。後に少々後悔したのだが、この数字は多すぎた。

 

 費用、ざっと200万円。これがすなわち三回目の(必死の)「一生のお願い」だった。父にもさすがに言いたいことはあったと思うが、「博士」号が効いたのだろう。やれやれといった感じではあったが、出してくれた。むろん「いずれ、必ず返すから」と言ったはずだ。

 200万円もかけずにできる範囲でやればよいという考えもあるだろう。それはそれで正しい意見だ。

 しかし、人には、というか絵描きには、どこかで無理を承知でジャンプしなければならない時があると思う。その時も、無理をして出して良かったと思った。今でも、そう思っている。私自身、その作品集をどれだけ見返し、論攷を読み返しただろう。欠点はいくらでもある。しかしそこにあるのは、まぎれもなく私の描いた作品であり論文なのだ。

 今見返しても、ささやかな懐かしさとともに、そのつど自分の作品に向かい直さざるをえない、真剣な今現在が立ち上がってくる。

 

 振り返って見れば、T先生から「書きたまえ」と言われてから、出版するまでの二年弱の間で最大のエネルギーを費やしたのは、結局のところ、自費出版しなければならないと認識した怒りから、そのための作業に取りかかり始めるまでの間の、精神のコントロールに対してだったかもしれない。

 

 博士論文初期の私たちの頃から、Web上での公開が認められ印刷公表という制度がなくなるまでの間に、何人の学位取得者が(その中でも特に実技系の学位取得者が)印刷公表したのだろうか。「印刷公表」といいながら、大学図書館にはあるにせよ、そのその後の学位取得者の印刷された論文を手にしたことは、不思議なことにほとんどない。

 同時期に取得した三人だが、印刷公表が完成した時期はバラバラだったために、他の二人のを見た記憶はない。大学に足を向けることもなくなった。

 第5号の三宅さんは、なんと3000万円(?)かけて総漆塗りの桐箱に納めたものを作ったという噂だった。話半分としても凄いが、実物を見ていないので、実際のところはなんとも言えない。だがそれだけの費用とそこから予想される発行部数からすれば、「広く一般に公表する」という趣旨とは正反対のものであると思わざるをえない。

 彼は特殊な例であろうが、それぞれに多大な費用をかけて印刷公表/出版するには、論文執筆もふくめた一連の流れが自分にとっても一つの作品であり、表現行為であるといった、意識の変容ないし変革が少なくとも途中からでも伴わなければ、完遂することは困難だ。費用をかけるのはそれぞれ勝手であるかもしれないが、単なる一連の事務手続きの一つではすまない、つまり作家・表現者特有のモチベーションと成ったのだと言うべきかもしれない。

 それはそれで良いとしても、やはり、ほとんどの場合自費出版の形を取らざるをえないというのは「作品篇=図版頁」が必須とされる実技系学生にとっては、大きな負担である。その負担は、学位取得の流れにおいて、不条理であったと思う。

 

 Web上での公開が認められ以来、その不条理は消滅した。しかし、過渡期にあった私(たち)のルサンチマンは解消しきってはいないのである。

 むろんそのルサンチマンは、直接的間接的に指導していただいた先生方や、関係した方々に向けられるものではない。当時の過渡期としての制度性と、その制度を統括していた文部省から東京藝術大学といった体制や、結局のところ、われわれの生きた時代性そのものに向けられたものである。

 個人としてはそのルサンチマン以上の、「作品集」を編めた喜びをもってしても、それは忘れ去られるべきではないと思う。           (記:2019.5.3)

 

以下、その5に続く

『メッセージのゆらぎ』と体験的「博士課程・博士論文」のこと ―その3 論文執筆専念の日々

 そういえばここまで書いて思い出したが、博士課程を出るその前の年に、出てからの事を考えて、西所沢の自宅の二階を改増築して20畳ほどのアトリエを作ることに決めたのだった。だがしかし、それに要する300万円という資金はなかった。よって、親に「いずれ稼いで返すから、とりあえず金を出してくれ」という二度目の「一生のお願い」をした。

 三月頃に完成。壁面の一番高いところで3m少々。作品収蔵用の小ロフト付き。そこに立て籠って背水の陣という構えである。

 

 ちなみに最初の「一生のお願い」は、学部2年の時に一か月半ほどのヨーロッパ旅行に行った時。自分でもある程度アルバイトして金をためて、足りない分を借りる、もしくは出してもらうというつもりでいたのだが、実際には全く貯めることができず、75万円のほぼ全額を出してもらった。大変な額ではある。しかし、飛行機代を除けば一日1万円以下でイタリアを中心に7ヵ国を回ったのだから、決して贅沢な旅をしたわけではない。もちろん現地で見た、ソ連崩壊のはるか以前の東欧諸国からやってきた若者たちのハングリーな旅には、およびもつかなかったが。

 1ドル=200円少々という時代であったからそんな金額になったのだ。今だったらその半分で済む。そしてその初めてのヨーロッパ美術めぐりの旅は、以後の私の制作の確実なベースになったのだから、充分元は取ったと言える。

 その二回の「一生のお願い」は、後述する三回目の「一生のお願い」と共に、結局全く返すことのないままに、両親ともに逝ってしまったのである。申し訳なくも、ありがたいことであった。

 以上、少々余談である。

 

 これもまた余談というべきであろうが、3月には三回目の推薦で「第29回安井賞展」に初入選。何となく皮肉なというか、あだ花的な時期ではあったが。(その後も安井賞に関しては、何回かの推薦を受けたがすべて落選。落選を繰り返すうちに、推薦の内実や応募規定などに関して思うところがあり、ある時からは推薦されても辞退するようになった。)

 

 ↓ 「砦」 (M200号 1985年 自製キャンバスに樹脂テンペラ、油彩) 

 二つの✖型は金属板に油彩で彩色し仮縁に釘打ちしたもの。安井賞展に出品した時には規定上この✖型はとり外した。

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 話を戻す。1986年4月、論文執筆専念の日々が始まったわけだ。いや、そのはずだった。しかし現実的には、それまでのわが家で最大の収入源であった奨学金がなくなり、子供も生まれ、仕事量を増やさざるをえなかった。

 それまで週二日程度非常勤講師として勤めていた予備校で、その年から専任講師、油絵科主任となり、出勤日数が週四日となった。給料も増えたが責任も増えた。女房の方もしばらくして、出産前後しばらくの間代理を頼んでいた幼稚園の絵画教室に復帰したので、週に一日は全面的に子供のめんどうを見なければならない。翌年には個展も予定していたから、制作もしなければならない。つまり、予備校での仕事と子供の世話以外の時間での論文執筆専念の日々である。制作に費やせる時間はほとんどなかった。

その論文執筆にどれほどエネルギーと頭を使ったことか。

 

 前稿で記したように、苦しまぎれに書き上げた肉声的「エピソード 第一稿 1986」を仮の指針として、急きょ入手した『論文の書き方(?)』等によって泥縄的に身に付けた必要最低限の知識でもって、その内容をもう一度ていねいになぞることから始めた。

 

 「博士」という語には「新発見」や「新発明」といったイメージが付きまとう。それは自然科学の分野ではいまなおある程度の妥当性はあるだろうが、人文科学や芸術の領域でではどうだろう。近年東京藝大にも保存修復や新しい専攻の博士課程が設置され、多少情況は変わったようだが、少なくとも実技系の美術分野に「新発見」や「新発明」といったイメージはそぐわない。一つの作品を百人の人が見れば百通りの解釈がありうるのだ。いや、一人の見方の中にさえ複数の感じ方・とらえ方がありうる。自然科学系でいうところの検証可能性などといった概念とはなじみにくい。

 しかし、そこを逆に言えば、百人の作家にそれぞれ固有の見方・表現がありうるということは、百人の作家に百通りの「新しい固有の表現≒新発明」がありうるということにもなる。「新しい表現」とは「新発明」と(ほぼ)同等ではないか。そう考えることは、コペルニクス的な発想の転換ではないかと思い当たった。

 

 特に近代以降の、それぞれの画家の、それぞれの個性的な作品・作風について、それらがなぜ、どのようにして、描かれたのかと問い、その意味を解釈するということが、美術批評の主要部分を占めている。そうした美術批評は哲学的な観点からであれ、美術史的観点からであれ、ほとんどが第三者、つまり、美術評論家や美術史家、哲学者から為され、当の画家自身から発語されることは稀である。画家は制作する者であり、自身の作品について解説することはあっても、解釈はしないものとされているようだった。

 しかし、近代から現代、そして現在に至る過程の中で、はたしてそうした「制作・作品」と「解釈・評論」の関係が従来のままで良いのだろうかという苛立ち・もどかしさといったような感覚は、すでにわれわれ自身の中で、常態といってよいものである。

 実作者が自身で自分の制作と作品について語ること、それも「自分自身」という単一の観点からだけではなく、なにがしかの複数の客観的座標軸に位置づけつつ、自身と世界との距離と関係を測り、その意味を問い、さらにそこから新しい表現の可能性を探り導き出すというその過程を、記述し文章化し論理化することは、実は大きな意義を持つものであると思い当たった。

 

 李禹煥や宇佐見圭司、あるいはパウル・クレーなどにその先駆例を見出すことができる。しかし彼らの場合は、博士課程という枠組みが存在していなかった時代に、作家として自身を確立し、表現者として公認されて以降の営為であり、自身の表現世界と密接に結びついた行為であった。そうした行為を、今、課程博士の論文という枠組みの中で試みることは、無理のあることだろうか。

 否。無理はない。むしろ、作家が作品制作と並行してやるべき表現軸の一つとして意義あることであり、ある程度の経験を積んだ博士課程の段階においてこそ試みられるべき、望ましくも新しいコンテンツなのだと思い至った。それは、いわば「第一テーゼ」の発見であった。私がやろうとしていることには、意義があるのだ!

 むろんそうした意識は、30年以上経った今だからこそ確信的に言えることではあるが、その時点で、おぼろげにではあっても、自分が自分と自分の制作・作品について語り記述することの正当性を確信できたことは大きかった。それまでのぼんやりとした手の届かぬ「博士」「論文」といった神秘的秘境を踏破する、自信と覚悟のようなものが持てたのである。

 

 とはいえ、実際の執筆作業は苦闘の連続であった。

 自分自身の具体的な体験と作品をふまえて、その意味するところを論理的思考上のイメージに変換し、さらにそれにふさわしい言葉を選びあてはめ、文章化する。主語の要不要を確認し、「てにおは」を確認し、句読点のバランスを確認する。複文・重文のバランスに目をこらし、長すぎる場合にはいくつかに分解する。つまり読みやすくする。音読の有効性も知った。

 そうして書いた一行から次の一行へと連ねていきながら、それらどうしの前後の、そして全体の整合性を確認する。それらどうしの語るとことに矛盾があってはならない。齟齬をきたしてはならない。

 また、それらが自分自身の考えではあっても、独りよがりなものであってはならない。自身の個人的な体験をベースとする個人的な言葉、個人的な思想のイメージが、ある種の普遍性、もしくは普遍性への可能性を含んでいなければ、他者には通じない。ある事実性に基づく記述であれば、その根拠を示さなければならない。他者の言葉を引用するのであれば、その典拠を明示しなければいけない。引用文献からであれば、まずその文献の妥当性を確認しなければいけない。自分自身の言葉、自分がオリジナルに考え出したはずの思考が、実はそれ以前に影響を受けた他者、他の作家のものであるということは、しばしば起りうるものである。

 

 以上のような執筆上の技術を、模索の過程を通じて認識し、多少なりとも身につけたと言えるようになったのは、だいぶたってからのことである。当初はせいぜい前後の文章で矛盾がないかどうかを確認するぐらいが精一杯だった。自分の考えていること、イメージしていることを正確に言葉に置き換えるということは、実は難しいことなのである。「わかっているのにうまく言葉にならない」というのは、実は「わかっていない」ということなのだ。読み直せば読み直すほど、解は遠のき、自分が何を言いたかったのかすら曖昧になってくるという体験を繰り返す。

 そうした苦しまぎれの結果、「〇〇的」とか「△△性」といった、あいまいな責任逃れの字句が大量に発生する。その点を最初に厳しく指摘されたときには、なんだか少し頭がクリーンになったような気がした。生まれて初めて、文章を書くという勉強をしている気がした。それは意外にも、私にとって小さな喜びであった。

 途中でだったか、T先生に言われた「論文というよりも、素敵なエッセイを書くつもりでやるんだよ」のアドバイスは、目から鱗が落ちる思いだった。そのエッセイとは、日本的伝統に根差した「随筆・随想」という意味ではなく、「ある特定の主題について一貫した論理によって貫かれた試論・小論」ということである。目指すべきスタイルが見えてきたと思った。

 

 一行ずつ書く作業と並行して、全体の構成も考えなければいけない。初期の段階で章立てをする、目次を書いてみるという方法を知ったのは、何年も後のこと。この時はとにかく一章ごとというか、あることについてひと塊ずつ書き切ってみて、そこでようやくそれに一章としてのタイトルを考え、つけるというやり方だった。

 

 ともあれ第一稿として、何とか全体の主要部分は一応書き切ったように思う。しかし本当に書き切ったのか、とりあえず書けるところまで書いたところで、第一回目の論文指導の日が来たのか、正確には覚えていない。その第一稿のコピーは現存しないからである。最終的な学位取得後、しばらくは保存していたような気もするのだが、いつか処分してしまったのだろう。

 いずれにしても第一稿は原稿用紙に手書きである。当時ワープロは持っていない。むろんパソコンは存在していなかった。手書きゆえに、推敲、清書の労力は膨大なものとなった。自分でも意外だったが、しつこく推敲を重ね続けずにはおれない、それまで自分の知らなかった(研究者的)性格資質を掘り当ててしまったようだ。

 

 そうして迎えた第一回目の論文指導の日。それがいつだったか不明。

 その前にT先生単独に原稿を見せて、とりあえずの指導を受けていたような気もするが、これもまた定かではない。

 私は40代半ばころからはだいたい日記をつけているが、それまでは何度か書きはじめたことはあっても長続きせず、せいぜいたまにあちこちに簡単なメモをしておくぐらいのものだった。今回、わずかなそれらを付け合わせながら確認してこの一文を書いているのだが、あちこちで思わぬ間違いや記憶違いを発見する。前述したように、あまりにしんどい情況が続くと、自己防衛本能が発動して、心身がそれを記憶することを拒んだのではないかと思う。しんどかったという全体の記憶はあるのだが、その一つ一つの具体性は飛んでしまったようだ。

 とにかく五月以降、夏前だった。T先生を中心として、油画の先生が二三名と西洋美術史のS先生、東洋美術史のY先生の計五名ほど。

 そういえばここで思い出したが、手元に保存してある博士後期の「成績(単位修得)証明書」には「創作総合研究」とか「造形計画特別演習」とか「研究領域特別研究指導」(この授業のみ単位数は/となっており、成績のみ記載されている)といった授業名が記載されている。いずれも特に「授業」という形で受講したものではない。ただ日々制作していただけで、それ以外は何一つしなかったのだから。そこに単位数としては必要ないのだが、「東洋美術史特別講義」のゴム印が押され、優の成績がついている。

 博士課程に進学した時に、T先生の指示で、東洋美術史のY先生に副指導教官をお願いしたのかもしれないが、よく覚えていない。というか、理解していなかったのだろう。この件に限らず、この頃は本当に制度的、事務的なことには無知無関心だったのだ。

 一応のあいさつに行ったら「気が向いたら、たまには授業(ゼミ?)でも一度のぞきに来てみてください」と言われた。失礼にも結局一度も行かなかったにもかかわらず、成績表には優を付けていただいていたのである。まあインチキと言えばインチキなのだが、ありがたいことであった。

 余談だが、このY先生はだいぶ前にアンデスで遭難死された有名な山岳画家の山川勇一郎画伯の弟である。たまたま私はそのことを知っており、その話をしたら驚かれ、喜ばれた。それも一つの奇縁である。

 いずれにしてもこのY先生と西洋美術史のS先生には、それまでほとんど一面識もなかったにもかかわらず、論文指導の実際面において、本当にお世話になった。

 ちなみにその「成績(単位修得)証明書」は、後にどこかの大学教官公募のために必要で取ったものの、結局そこに応募しないまま、手元に残ったものだと思う。まあ、時効だろうが。

 

 油画の先生はすべてではなかったかもしれないが、ある程度以上、その回ごとに替わったのは、今から思えば来るべき論文審査会へ向けての布石の意味合いもあったのかもしれない。

 事前に全員分、あちこち修正だらけの手書き原稿をコピーして配布してある。全体の指導、意見交換の具体的なことは、やはりほとんど覚えていない。実はあるが、かなり厳しい内容だったことだけは確かだ。その厳しさというのは、内容そのものにかかわる問題指摘と、それを受けての推敲作文の質的学術的厳しさもさることながら、実はそれまでの体験で知っていた、書き直す際の物理的労力のハードさをも意味していた。

 一通り終わって、さて次回はと、日程が決められる。私の都合は一切考慮されない。そういうものなのだろう。かくて、ここにきて覚悟を決めざるをえなかった。ワープロを買うしかない。書き直す際の物理的労力を思えば、本当にそれしか生き延びる道はない、定められた次回に間に合わすすべはない、という悲痛な決断だったのである。

 

 私は昔から図画は好きだったが、工作は好きではなかった。長じて機械、電気製品が苦手である。今なおそうだ。電子機器となればなおさらだ。したがってワープロなんぞ、手も触れたくないというのが本音。周辺では少しずつワープロを使う人も出てきてはいた。T先生は案外新し物好きで、さかんにワープロ礼賛をされる。うろ覚えだが、当時先生の持っていたものは大きな本体の小さなモニターに確か数行、10行弱ぐらいしか表示されないもの。それで70(?)万円もしたとか。さすがにそれは機種が古すぎるだろうと調べてみたら、シャープの書院というのが24(?)万円だかであった。当時の私の二カ月の収入に近い。だがこれからも続くであろう推敲書き直しを考えれば、なけなしの貯金を崩して買うしかない。デスクトップ式の大きなものだった。

 

 買えば買ったで、使い慣れるまでが大変である。今のパソコンに搭載されているマイクロソフトのワードなどを連想してはいけない。コピペであれ、更新保存であれ、現在のものに比較すれば超原始的としか言いようのないクオリティなのだが、あの時代にあっては仕方がなかったのだ。

 それでも次第に慣れてくれば、原稿用紙に手書きよりははるかに効率が良い。推敲も積極的に繰り返すようになる。印字したものを見れば、手書きのものよりも客観的に見れるようになる。その結果、連続執筆時間も長くなってくる。

 必要に迫られて朝方まで作業をすることもしばしば。何かの拍子に三時間おきの授乳で寝不足の起き抜けのボーっとした女房が、気づかぬまま足元のワープロに接続されたコードにつまずく。その瞬間、それまでの数時間の苦労が無に帰す。

 おそらく更新保存の手続きが今よりも面倒だったこともあって、こまめに更新する習慣がまだ身に付いていなかったのだ。こまめに更新しなかった私が悪い(?)のだが、目の前が真っ白になるとはこのことか。

 怒ったところで失われた文章が回復するわけでもなし。今のようなバックアップ機能は備わっていなかった。記憶だけを頼りに、可能な限り入力し直して復元再現するしかないのだ。時間が来て、一睡もせず出勤。そんなこともニ度や三度はあった。

 

 論文指導の会は何回ぐらいあったのだろうか。初めのニ三回は短い間隔で催され、その都度指摘された部分の書き直しに全力を注いだ。その後、しばらくの間、特に連絡もないまま、放置されていた期間があったように思う。放置されていたからといって、その間書き進めないわけにはいかない。

 T先生の戦略(?)であった「(気のすむまで)長く書かせる(それを後で切り詰める)」に必ずしも則ったわけではないが、放置されていた時間があったせいもあり、ていねいに考察を重ねるほどに論攷は長くなっていった。後にある程度は削ったものの、最終的には予想していたよりもはるかに長くなった。他の人の論文と比較したことはないが、少なくとも初期においてはかなり長文の方であろう。

 

 夏にはある企画グループ展があり、翌年には個展も予定していたから、その制作もしなければいけない。幼稚園の絵画教室に復帰していた女房に代わって、その日は息子の世話をしなければいけない。

 そうした多忙な中で、少々無理をしながらも何回かは山に行った。大げさにいえばそれが当時唯一の、精神状態を安定させる息抜きだったのである。

 

 ↓ 8月11~15日 南アルプス 信濃俣河内を遡行して光岳へ。同行の今は亡きMがゴルジュ入口の瀞で40㎝のサクラマスを釣り上げた。

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 ↓ その上のゴルジュ帯。ここは比較的容易に高巻いた。

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  ↓ 11月15日 奥武蔵伊豆ヶ岳。勤めていた予備校の入試前根性養成ハイキング。むろん、自分が行きたかったからである。中央下のサングラスの左の白い服の娘は、これがきっかけで山が好きになり、美大の山岳部から、大学院修了後、長谷川恒夫事務所をへてガイド資格を取得。『山と渓谷』に連載を持ち、著書もあるHU嬢。人生何が転機になるかわからないものだ。左下は現在某M美大教授のM氏。

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 ともあれ、あいかわらずの多忙でハードな日々が過ぎていった。その間の記憶は断片的である。

 そのようにして何回かの論文指導を重ね、その年の終わりごろには、論文のおおよそができ上がっていった。それなりの手応えというようなものもあった。

 

 1987年、年が明ければ論文要旨の作成。

 正確な日付は覚えていないが、二月頃に論文審査会。

 論文審査会には油画の全教官(だったと思う)が出席する。事前に「論攷篇」を全教官に配布。それは「論文要旨」ではなく、「論攷篇」全部だったとはずだ。でなければ、審査しようがないからである。

 論文審査会とは卒業試験のようなものだが、言い換えれば真剣勝負なのである。十余名の全教官が出席しての口頭試問。会場の正面にポツンと置かれた私のための椅子の背後の壁には、論文の「作品篇」の16点の作品と、それを「補足する」12点の作品が展示されている。

 実は「作品篇」の提出規定には号数(サイズ)の制限があったらしいのだが、それを知ったのは間際になってから。寝耳に水。「そんなことは聞いていない」。当時は200号300号といった大作に最大のエネルギーを注いでいたのだが、それらは規定サイズ外だと言われる。私としては自分が最大のエネルギーを注いでいた大作が、直前まで聞いてもいない「規定サイズ外」だと言われても、納得のできようはずがない。猛烈に反発した結果、「作品篇の16点を補足する12点」という解釈で、一応展示してみることが認められたのである。

 ただしそれはあくまで規定外のことだとして、口頭試問の場で最初に問題にされた。こうなれば腹をくくるしかない。自説を強硬に主張する。結局、あくまで「補足する12点」であり、審査結果には反映しないが、その場での展示は認めるという結論になった。まあ今思えば、杓子定規的には私の規定やぶりということになるのかもしれないが、さすがにそこは譲れなかった。展示さえすれば、こちらのものである。

 次いで頭に来たのが、「僕は読んでないんだけどね。~」とおっしゃりつつ、質問され始める某先生。論文=論攷を課しておいて、その審査の場に来ておいて、「読んでいないんだけど」はないでしょうが!答案を読まずに採点しようと言われるのですか。思わずブチ切れそうになる私をT先生ほかが、必死に目で制される。

 まあ、そんな感じで、審査会は進行し、終わったのである。終わった時には芯から脱力した。

 

 

 1987年3月、正確には学位授与式、一般的には卒業式である。学生生活の終わった昨年は「単位取得満期退学」だったので、関係なかった。

 私は昔から卒業式があまり好きではないというか(特に嫌いというわけでもないのだが)、縁が薄い。小中学校はともかく、高校の卒業式は大学受験のため上京していて、欠席。

 学部の時は普段着のGパン、Gジャン姿で行ったら、少々奇異の目で見られた。まあブレザーを着ていたやつはいたが、スーツ姿のやつはほとんどいなかったと思うが。むろん、Gジャン姿のやつは皆無だった。

 式後に謝恩会があると、確かその時に初めて聞いたのだが、思うところもあり、有志で謝恩会出席を拒否して、そのまま雀荘に向かい、急きょ卒業記念麻雀大会とあいなった。卓が三つか四つできたので、十数名が謝恩会拒否派だったというか、麻雀のできるやつはほとんど全員そちらを選んだのだろう。

 大学院修士課程の時はやはり普段通りの格好で行ったが、何の緊張感もなかったため、つい寝坊してしまい、着いた時にはすでに式は終わっていた。ちょうど同級生がみな正門からゾロゾロと出てきたところ。「何やってんだよ~。今ごろ来て。」で、おそらくそのまま雀荘に行ったのかもしれない。

 これまではそんな感じだったが、今回はなぜか事前に出席の確約を迫られた。拒否する理由もないので、出席しますとは言ったが、特段の意味は感じていなかった。一応比較的まともな恰好、ブレザーぐらい着ていったように思う(もし持っていたとしたらだが)。しかし、やはりさほどの緊張感はなく、何となくといった感じで、少し遅れた。まあ、遅くなったものはしかたがない、どうせセレモニーにすぎないのだし、博士課程だから最後だろうし、なんだったら後で卒業証書(学位記)をもらいに行けばいいだけだと、少しばかりの感慨に耽りながら通いなれた上野公園をのんびり歩む。正門に近づくと、助手やら事務方やらが三四人、前で待ちかまえている。焦り顔で「やっと来た。何やってたんですか、急いでください。」

 ??あれ、まずかったか?? 式場に入れば、全員粛然と整列している。私が遅刻したのだから、私以外は、それはまあそうだろう。最前列に一つ空けられていた席につくと、式が始まった。ようやく知ったのは、学位授与式のセレモニーは高位の博士課程から始まり、そのため出席すると伝えていた私がなかなか到着しないために、開始を遅らせて待っていたのだそうだ。10分だか20分だかはわからないが、何百人だかの博士、修士、学士、教官、職員の全員が待たされていたのだ。さすがに私も青ざめた。後ほどT先生から大目玉を食らうだろうと覚悟していたら、一応雷は落とされたが、他の先生方は笑っておられた。あきれ果てての苦笑いだろうが。

 結局この年の美術の博士号取得者は油画の三名。前年度からの三宅さん(第5号)と同期の陳さん(第7号)である。学術博士 東京藝術大学 博美第6号の私は32歳になっていた。

 

 思い起こせば二浪した年の入試も最終の三次試験(学科)で寝坊、遅刻してしまい、99%手中にしていた合格をフイにしたのだった。一年後に合格はしたもの、思えば遅刻で始まり遅刻で終わった14年間だった。

 

 付記しておけば、学術博士という名称は、「学際的分野の学問を専攻」した者に与えられるもの。芸大なのだから芸術博士とか美術博士の方がふさわしいというか分かりやすいのではないかと思うが、そうはいかないらしい。1975年の学位規則改正によって追加されるまではなかった名称である。東大や京大にない名称を芸大独自に新設するわけにもいかないから、それらしい名称を新設したのだという説もあったが、そうではないらしい。

 学術博士という名称は、その元になったDoctor of Philosophy(ドクター・オブ・フィロソフィー 略してPh.D.またはPhDとも表記される)を直訳すれば「哲学博士」となることから分かるように、基本的にはあくまで、「伝統4学部のうち職業境域系の神学・法学・医学を除いた『哲学部(ないし教養部)』 のリベラル・アーツ系の学位である。(Wikipedia)」。要するに、従来の学問体系に収まらぬ美術や音楽や体育や、その他もろもろの「学際的」領域のものを一切合切「学術」という範疇にまとめるということらしい。学際的な学問とは「複数の領域にまたがっている学問」という意味合いもあるから、まあ妥当な名称だと言えなくもない。いずれにしても「人類が保有する教育機関・体系の中で与えられる学位のうち最高位のものである」ともあったから、恐ろしい。

 しかし「学術博士」はその本来の意味を理解しない限り、なじみにくかったようで、その後「博士(学術)」とか、さらに「博士(美術)」「博士(音楽)」と括弧づけで表記されるようになったが、今現在はどうなっているのか知らない。 (2019.5.2改訂)

  

 以下、4に続く

『メッセージのゆらぎ』と体験的「博士課程・博士論文」のこと ―その2 博士課程大学院生生活から論文執筆へ(改訂版)

*4月28日にアップした以下の記事において、その後東京藝術大学附属図書館のHPから「東京芸術大学美術博士論文」(http://www.lib.geidai.ac.jp/APHD/ARTPHD.html)のサイトを確認したところ、いくつかの年度の間違い等を発見したので修正した。また前稿では人物名はすべて仮名としたが、上記サイト等においてすべて公開されていることもあり、一部をのぞいて実名表記に変えた。(2019.5.1)

 

 1983年、28歳でまたしても学生を継続することになったわけだが、一応女房持ちとなったからには、やはり生活とか収入を得るということが、それまで以上に重い現実となってくる。それまでのように、「生活なんぞ召使にやらせておけ」などと非現実的なことは言っておれない。

 女房も結婚と引き換えに(?)私から引き継いだ割の良いバイト(幼稚園での絵画教室)を週一日やるほかは、自分の制作(当時は七宝焼き、その後金属造形をへて今は陶芸)以外は、どんなに貧乏でも仕事を増やそうとはしない。したがって私としては、いくつかのアルバイトを掛け持ちして少しずつ稼ぐしかないのである。

 

 話は前後するが、27歳で結婚した時、埼玉県入間市の元米軍ハウスに引っ越した。すべて板の間で比較的広く、8畳ほどのアトリエスペースも確保できた。古いボロ屋ではあったが、だいぶ手を入れ、それなりに気に入っていたのだが、数カ月もしないうちに突然実家の父が家を買ってやると言い出した。実家の農地の一部がたまたま新しい水道局の建設用地として買い上げられたのである。将来を考えてみると、代替の農地を入手するよりも、学生結婚後も喜んでボロ屋に住んでいる息子夫婦の将来を危ぶんで、援助の手を差しのべてくれたということなのだろう。大正生まれの農家の長男だった父は、一切私には相談や説明などはしなかったが。

 西所沢の中古の小さな一戸建てを購入し、転居。以後、家賃不要となり、おおいに助かった。その後も比較的少ない収入、アルバイト量で生活できたのは、そのおかげである。

 

 授業料の免除申請をしたかどうか、その結果がどうだったか、覚えていない。ひょっとしたら半額ぐらい免除だったかもしれない。

 奨学金の方は、生まれて初めて申請をしてみたら、初年度前期は見事に落とされた。当然のようにもらえると思っていたのだが、結婚している=扶養家族(女房)がいるという事実だけではもらえないのだ。「博士課程の人は皆さん結婚してますよ」だと。

 これをきっかけに「書類(=申請理由)」における「作文技術」の重要性を知ったのであった。

 ともあれ、後期からようやくもらえるようになった、確か当時月額で8万円の奨学金、それがわが家の最大の収入源だった。というか、その額を基準にして、あとは足りない分だけをあちこちで少しずつ稼いでくるというやり方だった。(その大いにお世話になった奨学金2年と半年分、トータル240万円は、無利子ではあったが、その後18年だったかにわたって、かなり苦しい思いをしながら完済した。)

 

 大学生活も8年目ともなると、さすがに勉強(および制作)することの大切さ(?)とそれを日々継続することの重要性を知るようになり、かなりまじめに大学アトリエに行くようになった。

 博士課程の学生となってそれまでと変わったのは、より広いアトリエが使えるようになったことと、そのアトリエが夜8時まで使えるようになったことである。今はだいぶ様子が違うようで、また当時でも大学によって違ったようだが、私の頃の芸大油画は学部、修士、研究生のいずれもアトリエが使えるのは夕方5時まで。5時になると助手がアトリエの鍵を閉めに回ってきた。やはり博士課程は別格なのである。

 振り返ってみれば、学部の頃、私が大学に行くのはいつも昼過ぎだった。三年間のハードな浪人生活の後遺症があったのだろう。

 いわゆる学科の授業は午前中だけなので、当然ながら出席を取る授業は、単位が取れない。必修でなおかつ出席をとる語学(私は英語のみ)と保健体育(当時は必修だった)だけは2年がかりでようやく取ったが、あとは試験またはレポート提出だけで済む授業を、4年間かけて必要最小限しか取らなかった(取れなかった)。教職科目はすべて出席を取る。それが、教員免許を取れなかった最大の理由である。

 午後は実技だが、出席はとらない。学部3年からは、課題もないので、制作内容は自由。先生もこちらから言わない限り、まず教えには来ない。大学に行くも行かないも自由。行けば行ったで、手ぐすね引いて待ちかまえていた悪友たちに拉致されて雀荘へ。

 基本的にひたすら「自分で制作」なのである。修士課程、研究生でも、学科こそないが(申請はしたが事実上放棄していたので)、アルバイトの割合が増えた分、ほぼ同様のパターン。

 したがって博士課程になって、アルバイトのある日でもバイトを終えて夕方大学に行き、大急ぎで学食で飯をかきこんで、それから2時間程度でも制作ができるというのは、実にありがたかった。

 アルバイトのない日はゆっくり昼過ぎに行く。当時はまだ週休二日制は導入されておらず、月曜から土曜までこのパターン。一般学生の夏休み期間でも、藝術祭(大学祭)の日でも、アトリエで制作ができた。真夏でも天井でけだるく回転する扇風機以外に一切冷房のないアトリエは気が遠くなりそうに暑い。その中でショートパンツ一枚で(Cさんがいるときは仕方なくTシャツを着る)汗だくで大作を描き続ける。終われば汗を流すシャワーもなく、汗まみれで再びの空腹を抱えて女房の待つ自宅に帰る。充実といえば確かに充実した学生生活だったと言えるかもしれない。

 そんな日々を送りながら、制作するさいの画家としての身体性といったものを、ようやく感得し始めたような気がする。

 

  そんな生活ではあったが、やはりそれなりに余裕も出てきたのだろう。入間市のとある小さな山岳会に入会し、学部2年生の頃以来の本格的な沢登りや冬山を再開し、楽しむこともあった。

 

   ↓ 1984.9.4~5 奥秩父入川本流~真ノ沢下部。今は亡き旧友Mとの釣行。初めてのテンカラ釣りを楽しんだが、釣りには深入りはしなかった。

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  ↓ 1984.12.31~1985.1.3 豊山の会、冬山合宿 八ヶ岳縦走(天狗岳権現岳

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 博士課程在学中の三年間で、1983年博士1年の5月に銀座スルガ台画廊で初めての個展。同年10月に新宿の紀伊國屋画廊で二度目の個展。1985年には再び銀座スルガ台画廊で、翌1986年には初めて故郷の山口県のパレット画廊で個展。ほかに、比較的規模の大きいグループ展が4回。その他いくつかのコンクールにも応募したが、すべて落選。

 

  ↓ (画廊での)第二回個展 紀伊國屋画廊個展案内状 1983.11.17~22 二つ折りの表側 *一回目個展のスルガ台画廊の案内状には図版がないので、こちらを掲載 

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  ↓ 紀伊國屋画廊会場展示風景 後ろは2点ともF300号

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  ↓ 紀伊國屋画廊個展案内状 二つ折りの内側 左に坂崎乙郎の推薦文

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  ↓ 秋元雄二との二人展「黄金調和線上の蕩児たち-新たな象徴へ」 1984.6.18~24  田村画廊

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 そのように画家として何とか一歩を踏み出し始めていた1985年博士課程3年目の8月、女房の妊娠が判明した。結婚後女房は赤とグリーンの250ccのバイクを乗り回していた。何を思ったか、急に一週間だか十日だかの予定で、東北一周の単独ツーリングに出かけ、その途中での体調不良からもしや?と思いあたり、急きょ帰宅後訪れた産婦人科で「おめでとうございます」と言われたのだ。

 

  ↓ まあ一頃はこんなだったんです。

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 その少し前から話し合って避妊しなくなっていたので、予期しないではなかったが、予想以上に早かった。さすがにそれまでの人生では経験したことのない重みを感じた。(それはそれとして、私の息子は妊娠初期の大事な時期に、母胎の中で何日もバイクに揺られていたのだ…。すまんことである。)

 

 学生生活も残り少なくなり、来年の出産をひかえ、これからの人生にぼんやりと思いをめぐらせていた12月、例によって、T先生から呼び出し。心の準備は一切なし。

「君、博士論文を書きなさい」

 「はぁ~????」それまでで最大の「はぁ~????」である。残すところ約1カ月で、一月に「博士後期課程研究発表展」をやって、それで長かりし学生生活も終わるはず。

 ちなみに博士課程の場合、論文を書いて合格した学位取得者以外はすべて「中退」、最終学歴は「大学院修士課程修了」なのである。しかしまあそれでは履歴書を書く上でも、経歴としても、あんまりだということで「博士課程 単位取得満期退学」と記載してよいという慣例?不文律?となったようである。

 そもそも入学試験の際「博士論文を書こうなどと言い出さないでくれよ」とか言っていたではないか。むろん私にはその気はみじんもないし、書けるとも思えない。当然、準備もしていない。とにもかくにも、あと一か月で何ができるというのだろうか。

 「とりあえず論文要旨を提出しなさい」「論文ヨーシ?それ何ですか?」「要旨だよ。レジュメだよ」「レジュメ?それ何ですか?」「論文を要約した結論を書くんだよ!!

 書いてもいない論文を要約する、結論から書く、その結論からテーマを考えろ、ということらしい。ほぼ驚天動地である。T先生の眼光はいつにもまして厳しい。しかしこちらも負けていられない。私にも生活が、家庭があり、おまけに来年には子供が生まれるのである。個展もグループ展も予定している。論文もクソもないでしょうが。

 そんな私の気合を察したのか、先生の眼光はさらに険しさの度を加え、ほとんど不動明王のような殺気を感じた。

 かくて精一杯の抵抗にもかかわらず、結局、やはり今回も「流れ」(というか眼光に)に負けたのであった。

 とはいえ、最終的に書くと決めたのは私である。にもかかわらず、その時の自分自身の心理の推移は、今思ってもよく思い出せないのである。その後の経緯を含めたあまりのしんどさに、記憶することを身体が拒否したのであろうか—この現象はそれから1年間、何度も体験することになるのであるが…。

 

 この先生の突然の仰せは、単なる先生個人の思い付きではなく、その背後に油画教官(註)全体の方針変更、路線転換における合意があったと思われる。

 (註:国立大学は2010年から独立行政法人化し、以後国立大学の教官は「みなし公務員」とされ、「官」の言い方が廃されて以後「教員」と呼ばれるようになった。本稿で扱われる時代はそれ以前であるため、「教官」の言い方を使用する。)

 そして、私自身はあずかり知らない、油画教官全体の方針変更、路線転換の背景には、文部省からの相当な圧力が存在したと推測される。

 1977年に芸大に博士課程が設置されて、その年の1985年まで8年がたっている。設置後6年目の1983年に社会人経験、国際経験に富んだ年長の学生たちが自ら重い扉をこじ開け始めた。1984年に建築の奥山健二さんがようやく博美第1号(註)の学位取得者となった。

 (註:「博美第〇号」とは「美術研究科の博士の何人目」の省略形である。学位記にそのように記載されているが、わずらわしいので以後は略し、単に第〇号とのみ記す)

 翌1985年にバングラデシュからの国費留学生、油画のカジ・ギャスディンさんが「学位を取らないと国に帰れない」と驚異的な粘りを見せ、またT先生を含めた多方面からの支援を受けて、第2号を取得。翌1986年にはデザインの中嶋猛夫さんが第3号となった。

 ここまでが博士号取得の、言ってみれば前史というか、原始時代である。この1985年あたりで文部省の圧力が強まったと思われる。

 設置後8年目にして、学位取得者がようやく二人。9年目で三人目(音楽については知らないが)。いかにも効率が悪い。当然ながら博士課程設置には大きな国家予算が充てられている。研究費も多く出ているし、担当教官には手当も出ているはず。そうした莫大な経費に見合った成果=学位取得者数ではないということなのだ。怠慢と言われて当然である。当然ながら教官の努力も問われただろう。むろんほとんどの教官は努力などしていない。そもそも絵描きや芸術家に博士号など要らないという言説も、しばしば耳にした。それはそれで一理はある。ともあれ、経費、研究費、手当はもらっていても、芸術家の先生方は自由に発言するのである。

 

 1985年にカジ・ギャスディンさんが油画初の学位取得者となったことに刺激を受けたのか、油画の私の一学年上の有吉徹さんが手を挙げたことによって、次の時代が動き始めたらしい。油画の教官たちも、お上からの圧力もあり、どうやらこれはさすがに何とかしないマズいと思い始めたようだ。博士号取得における原始時代から弥生時代への移行といったところか。

 その有吉さんは、私と同じT先生の研究室。T先生はそうした動向にはまじめに取り組むタイプである。有吉さんは某有名小説家の甥であり、文章力もあり、実務的能力にも秀でた秀才。この二人が組んで(?)なるべく負担が少ないように、極力短く、タイトな論文を書くという実験を試み、それは日本人の油画専攻生としては初めての、第4号として結実した。

 それに気を良くしたのか、次の論文執筆者を出そうという機運が教官室内で生じたのであろう。それでなくとも文部省からの圧力は、もはや無視できないくらい強くなってきていることだし。

 その時点で、先の有吉さんと同時期に論文執筆に取り掛かったものの、完成できずさらに一年提出猶予願い(?)を出している三宅康朗さんと、私と同期の韓国の留学生陳順善さんの二人が論文執筆希望者としていたらしい。三宅さんは修士課程修了後、助手を3年やり、その後博士課程に入学した、ほとんど大学依存症ではないかと思わせられた(人のことは言えないが…)現代美術の人。陳さんは超まじめだが、外国人ゆえに日本文執筆能力にやや難がある。翻訳機能のあるパソコンや電子辞書のない時代だったのだ。無理もない。

 

 「そういえば先の有吉君を首尾よく指導しえたT先生のところには、幸いなことに来春修了予定の河村がいるではないか、いつも理屈っぽいことばかり言っているから、ひょっとしたら書けるのではないか。先の二人だけでは心もとない。絵も描いていることだし、一つあいつにもやらせてみよう」、てなことに話がなっていったのではないか。以上はすべて私の想像だが、当たらずとも遠からじといったところではないかと思う。

 先の有吉さんでコリゴリしたはずのT先生も、対文部省ほかの全体状況を鑑み、またカジ・ギャスディンさん、有吉さんと続いた論文指導を通じて知的教官魂(?)を刺激されたのか、論文指導の面白さに目覚めたのか、はたまた使命感に燃えたのか、再度続けてやる気になられたらしい。前回の「極力短く、タイトに」という戦略から一転して、今度は正反対の「(気のすむまで)長く書かせる(それを後で切り詰める)」「(なるべく哲学用語を使わないで)肉声で語らせる」という方針に転換されたようだ。博士号取得、弥生時代から古墳時代を志向、といったところ。

 しかしそれらの事情、諸情況はあくまで芸大教官サイドの事。私のあずかり知らぬところだ。ともあれ、私の意志とは関係なく、賽は投げられた。その賽はどこへ転がっていくのか、その時点では見当もつかなかった。

 

 年が明けた1月20日に実技審査があった。その記憶はほとんどない。しかし結果として、「博士論文提出猶予願い(?)」を提出し、博士論文を書くことが認められた。

 とにかく急いで「博士論文提出猶予願い(?)」といった感じの申請書を出さねばならなくなった。それに添付するというか、むしろこちらの方が重要な「要旨(?)」を書かなければならない。おそらくその「要旨(?)」の内容によって、実際に書かせるかどうか、教官全体として最終的に判断されるのだろう。

 弱り切っていた私にT先生がアドバイスしてくれたのが、要は、今自分が絵を描いているということに関する「エピソード」でも書いてみたら、ということだった。かなりお気楽なアドバイスのようにも思えるが、実は深いところで核心をついたアドバイスだったのだと、今ではわかる。ただし、その時の先生に本当にそのような深い意図があったのかどうか、いささか疑問ではあるが。

 1月20日の実技審査との前後関係は覚えていないのだが、提出まで一週間もあったのか、一か月あったのか。あれこれ考えている余裕はない。手持ちのカードはないのだ。開き直って、自分が絵を描きだしてからその時(30歳当時)までの事を思いつくままに書いてみた。その内容はほとんど覚えていない、と思って一応ファイルを探して見たら「エピソード 第一稿 1986」と手書きで題したB5、10ページのワープロ文書のコピーが出てきた。あちこち推敲訂正の書き込みだらけで、「第一稿」とあるから最終的に提出したものではないが、第一稿=原型なのだろう。いや~、書いた文章は何でもとっておくものだ!

 一つ不思議なのは、その当時私はまだワープロを持っておらず、にもかかわらずワープロ文書だということ。ひょっとしたら助手の誰かが、私の汚い手書き原稿をワープロで清書してくれたのかもしれない。いずれにしても、それは大した問題ではない。

 時間がなく、また元々書くべきテーマや、論文そのものに対する基本的な知識常識、そうした準備一切を持ち合わせていなかった大あわて状態だったからこそ、T先生の意図した「肉声」的なものがおのずと出たのだろう。人間追いつめられれば自然体になるものだ。結果的に博士論文の最終稿にも生かすことのできたいくつかの文言を含めて、ある程度読める内容になっていたのは意外だった。三年前の博士入試の時の小論文「絵画の正当性を巡って」とは大違いである。

 ともあれ、その「博士論文提出猶予願い(?)」は受理され、私は正式には来春博士課程を単位取得満期退学するが、一年後に博士論文を提出する権利を確保したということになった。それは言い換えれば、一年後(正確には十か月後ぐらい?)には何が何でも博士論文を提出しなければならなくなったということでもあった。

 

 さて、ここまで単に「論文(博士論文)」と書いてときたが、少し正確にいうと、実技系大学である東京藝術大学では「博士論文」は「作品篇」と「論攷篇」の二つがセットになったものである。確かに作品がダメなら博士もクソもない。といって、作品だけで博士というのも、世間的にはありえない。そのための折衷案が「論文=作品+論攷」となったのであろう(註)。したがって博士論文を書くことを認められた時点で、少なくとも作品については基本的に認められたものと考えても差し支えないだろう。

(註:上記「東京芸術大学美術博士論文」のサイトで確認してみたら、実技系の油画・日本画・彫刻・工芸等では論文+作品となっているが、デザインでは初期では論文のみだが途中から+(作品)となっている。理論系の芸術学・美術教育・美学・美術解剖学・保存科学等では論文のみである。)

 

 言うまでもないが、いわゆる理論系の芸術学を除いては、実技系の学部・修士課程では卒業・修了制作のみで、論文は課されない(建築あたりはどうか不明)。したがって実技系学生は、授業のレポート等を除けば、在学中には制度として論文を書く機会はない。

 大学教官は、自分の指導学生が博士論文を書くとなれば、当然その指導教官になる。指導教官だから論文指導をしなければならない。そしてその場合の論文とは、上記のとおり「作品+論攷」のことなのである。問題は果たしてどれだけの先生が「論攷=文章」を指導できるかということだ。もっと言えば、日本語の基本的な「てにをは」を正確に指導できるかどうかが、まず問われる。

 実際にはその先生が主指導教官として「論文指導」の全体の進行を主導する。同じ実技専攻の何人かの先生と、西洋美術史とか日本美術史とかの理論系の先生を交えた数名で指導を進行させるという形をとる。先生方の組み合わせは必ずしも固定的ではなく、ゲスト的メンバーの入れ替わりもあった。私の場合はそういう形をとった。

 本来、博士論文指導、博士論文審査においては、博士号をもった教官、もしくはそれと同等の力量を持っていると認定された教官(博士課程担当教官)が当たるという規定がある。博士課程でも修士課程でも、その課程を担当しうると認定されなければ指導・授業は担当できないのである。実際にはその認定の基準はゆるく、助教授、教授であればほぼ自動的に認定され、大学院も担当することが多いと思う。しかし、例えばかつて私の勤務していた東京学芸大学の一部の講座では以前はけっこう厳しい面があり、例えば採用後二年間は無条件で大学院の授業は担当できないという内規が存在し、私もその対象となった。(その後まもなく私のいた講座ではその内規はなくなったが。)

 芸大においても当初は指導メンバーの一人に必ず博士号を持つ先生がいなければならないというので、当時唯一の博士号を所持者であった保険管理センターの医学博士が必ず一員に加わっておられたようだ。医学博士?という気もするが、その先生は美術解剖学などの授業をもっておられたから、あながち美術と無縁ではない。ちなみに医学部の場合はほぼすべて医学博士号を持っているようなイメージがあるが、それは医者という職業上必要な「営業博士号だよ」と言われたことがある。実態はよく知らない。 

 私の時は、「博士号所持者もしくは博士と同等の力量」ということの解釈がゆるくなったのか、博士号を持っている先生は加わっておられなかったと思う。

 

 私は昔から本を読むのは好きで、人一倍、そして幅広く読んでいた自負はある。文章を書くのも、特に嫌いだと思ったことはない。しかし、文章の書き方などといったものを習ったことはない。美術に関する論文的な文章を書いたこともほとんどなかった。そんな機会も必要もなかった。仲間内や一人でほんの少し書いてみたことはあるが、それは自分自身ですら読むに耐えないといった態のものでしかなかった。美術に関する文章を書くのは難しいのだ。いや、それ以前に日本語の文章になっていないと思わざるをえなかったのである。それが当時の実力であった。

 

 いよいよ書くと決まって、まず最初にやったのは、『論文の書き方(?)』(すでに処分したので正確な書名は不明 講談社現代新書?)ほか何冊かの「論文の書き方」に関する本や、『術語集』(中村雄二郎 岩波新書)といったとりあえず役に立ちそうな本を買ったこと。それ自体かなり情けない話であるが、それで必要最低限の知識を身に付けた。

 合わせて『眼と精神』(メルロ・ポンティ みすず書房)や『物語の構造分析』(ロラン・バルト みすず書房)ほかの美術や哲学に関係のありそうな難しそうな本を何冊も買い込んだ。結局参考になり、影響も受けたのは『物語の構造分析』一冊だけ。あとはほとんど読まずじまいのまま、多くは処分してしまった。

 私は何かする際に、あるいは興味を持ったことに対しては、その参考文献や関連書を買い込む方ではあるが、それにしてもいかにも泥縄である。

 

 1986年3月、大学院博士後期課程を単位取得満期退学という形で終えた。中退だから卒業式(学位授与式)には出ない。31歳にして、予備校時代を入れれば13年間の学生生活をようやく終えたのである。

 とにかく第一回の論文指導ということで5月ごろだっただろうか、時期を指定された。とにもかくにも、それまでにまずは一回書ききってしまわなければいけない。論文執筆専念の日々がはじまった。以後のほぼ一年間、論文執筆に膨大なエネルギーを費やすことになった。

 

 そんな親の事情とは関係なく、4月25日、出産予定日の一週間前、入院予定日の早朝に女房は自宅で早期破水。その後、あれこれドタバタあって、結局日付の変わった深夜の緊急帝王切開とはなったが、何とか無事に息子が誕生した。

 

  ↓ 1986年4月26日 午前1時59分 体重3120g 抱いているのはヤクザではなく画家です。

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以下、その3に続く。

『メッセージのゆらぎ』と体験的「博士課程・博士論文」のこと ―その1 博士課程入学まで

 あまり認めたくはないのだが、私はヤフオクの、まあヘビーユーザーに近いだろう。波はあるが、ここ10数年、外国切手、マッチラベルから外国紙幣、蔵書票など、さまざまな紙物コンテンツの蒐集にハマり続けているのである。だが、今ここで言おうとしているのはそのことではない。

 そうしたオークションを重ねる過程で、何回か自分の作品や出版物が出品されるということを体験したのである。

 

 ヤフオクにはアラートという機能がある。自分の興味の対象である単語を登録しておくと、その単語を含んだコンテンツが出品されると、通知してくれるというものだ。範囲を絞り込んで使うと、探す手間が省けて、それなりに便利な機能である。

 ある日、ふと思いついて自分の名前「河村正之」と登録してみた。するとたまにではあるが、「河村正之」の語を含む商品が出品されると、通知が来るようになった。私の作品が出品されていたと知ったのは登録以前のこと。幸いなことにというべきか、登録以降は、作品の出品はされていないようだ。出品されるのはたいていは『山書散策』(2001年 東京新聞出版局)だが、ごくまれに、『メッセージのゆらぎ』が出る。二か月ほど前にもそれが出た。

 

 ↓ ある日のヤフオクの画面

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 ↓ 下段にはていねいに内容の画像まで出ています。

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 入札する人がいるかどうかはわからないが、ブログのネタになるかなと思って、今回は一応画面を撮影しておいた。日付の部分は写っていないが、二月の末頃だった。落札されないにしても、それならそれで、いずれすぐ出品されなくなってしまうだろう思っていたら、案に相違して、二か月たった今も三日ごとに、おそらく自動的に、再出品され続けている。途中で一度値下げされた。

 

↓ この時点では1180円 今日4月25日(まだ出てる!)では1000円

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 そうなると私としても、精神的に少々苦痛というか、苛立ちのような、モヤモヤとしたものを感じないでもない。その感じが発酵して、とでも言おうか、同書を発行するに至った経緯や、その母体となった博士課程、博士論文といったことについて、そしてそれを巡るこの30余年にわたっての、若干のモヤモヤしたもののあれこれについて、ちょっと記してみたくなったのである。

 余談だが、それについては、つい先日読んだ『最後の秘境 東京藝大 天才たちのカオスな日常』(二宮敦人 2019年 新潮文庫)の影響がなくもない。同書は東京芸大彫刻科在学中の女性と結婚したエンタメ系の小説家が、妻のユニークな言動に驚き、その土壌(?)である芸大に興味を持って取材した、エンタメ聞き書きノンフィクションとでもいうべきもの。私が在学していた頃とはだいぶ時代も違うが、そうした差異はともかく、エンタメノンフィクションとしては楽しめた。(まあ、正直に言えば、そこに微妙な苦みというか、嫌みもあるのだが)

 

 当事者にとっては特に面白くもない、ふつうで当たり前で、振り返って見てもしんどいだけだと思っていたことが、少し視点が変わるだけで、興味深い、不思議なものに見えてくるということは、よくあることだ。博士号とか、博士課程とか、博士論文とかいった「博士」の世界にも、そうした要素があると思われる。

 しかし当事者にとっては、そうしたことを語るのは、かなり鬱陶しいところがある。一種の懐古的自虐的自慢話になる可能性も高い。したがって、書かずに済ますことの方が多いのだが、その結果、後年の第三者の目からすると、「あれはいったい何だったのか」とか「いつから、なぜそうなったのだろう」といった歴史の小さなブラックボックスが発生する。

 歴史は正史のみが歴史なのではない。取るに足らないような、一見つまらないと思われる話題、現象にも、それらが正史と縒り合わさって俯瞰されるとき、初めて歴史的実相が現れてくるものなのだ。稗史や俚史の存在意義は言うまでもない。正史ですら改竄される昨今である(註:言うまでもないが、財務省モリカケ問題や統計不正のことである。例えばこの註がなければ、数年後にはこの一行もやや意味不明瞭なものになるだろう)。

 ともあれ、そうした「鬱陶しさ」もモチベーションの一つとして書くからには、これから書くことの半ばは、いわば「駄文」や「愚痴られた回顧」となるであろうことは、予想できる。しかし、まあそれでも「博士」という「秘境」に、少しだけでも光を当ててみようということなのだ。

 前提としての、博士課程に進学するまでの経緯についてもある程度書かないと、情況が見えてこない。なるべく懐古的自虐的自慢話にならないように努めたいが、さてどうなるか?

 

 

 私が東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻)に入学したのは、1976年、三浪したから21歳の時。

 学部4年間、1980年3月、25歳で卒業だが、当然のように就職は一切考えていない。ちなみに私の油画専攻同期55名のうち、学部卒業時点で就職したのはたった1名。西武美術館、おお、すごい!と思っていたら、どうも非常勤だったようだ(正確にはわからないが)。

 他の大学のことはよく知らないが、芸大は学部生に対して、大学院生(修士課程)の割合が高い。学部油画専攻は一学年55人で、留年した者もいるが、上から落ちてきた(留年してきた)者もほぼ同数。その学部卒業約55人に対して、大学院の定員は油画・技法材料・版画・壁画の計12研究室に平均して3人ほどで計30数名、つまり半数以上は大学院に進学可能なのである。

 学部4年間といっても、焦りつつも自堕落に日々を過ごしていればあっという間で、卒業制作あたりでようやく作家としての自分の方向性がおぼろげに見えかけてきたかなといった感じである。

 学部の2年生から小さな予備校で非常勤講師のアルバイトはしていたが、進学するとなれば、当然親からの仕送りも、引き続きある程度は期待せざるをえない。大学院進学といっても何のことやらよくわからなかっただろう親も、まあ「進学」だということで承諾してくれた。

 なお大学院には12の研究室に12人の指導教官がいるが、おのずと人気の高下というものがある。学生が勝手にやれば、志望する研究室によって疎密が生じる。そのため、学生間で秘かに人数調整も行われたようであるが、私の場合は志望するT先生以外のところに行く気はなく、第一志望から第三志望まで、T先生以外の名前は書かなかった。

 

 25~26歳の大学院修士課程では、学部の頃に比べれば多少はまじめに通い、制作し、それなりに充実した日々を過ごしたが、なんせ2年間。あっという間である。学部の終わりごろから先輩に誘われて小さなグループ展など経験したものの、個展はまだやったことがなかった。修士2年目の夏頃、修了制作に取り組みつつ、「来年はどうしよう」などと、ぼんやり考えている自分がいた。

 

 ↓ 修士課程2年め あまり広くないアトリエに4人がいた。右下の金箔地テンペラは結局未完のまま、後年廃棄。 「来年はどうしよう…」 

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 おまけにそのころ、五年間交際している彼女(現在の女房)がいた。五年間も付き合っていると、男女の仲としては、もはや結婚するか別れるかしかなくなるという、分岐点というか、煮詰まった段階となっていた。歳も頃合い。結婚を決意して、相手の親に申し込みに行った。「来年は何をしているのですか?」と聞かれ、絶句。答えられない、というか、何も考えていなかった自分がいた。

 

 大学院修士課程修了後の(輝かしい?)進路としては、当時二つの可能性があった。①研究室の助手になる、②留学する、である。

 ごく少数の就職する者③(3~4名が専任または非常勤の中学高校の美術教師になったような記憶がある)をのぞいては、予備校講師その他のアルバイトをしながら制作活動をする④ということになる。むろん作品の売り上げで食えるやつは一人もいない。制作からフェードアウトする者が出てくるのもこの頃から。

 ①の助手は任期3年なので、単純な可能性としては3年に一回。私の場合はその巡りあわせの年ではなかった。また助手というのは非常勤ではあるが、一応仕事なので、人物評価の割合も大きかっただろうと推測される。その点でも自信はなかった。

 ②の留学はと言えば、当時はほとんどが、授業料も生活費のかなりの部分もいずれかの国が支給してくれる国費留学、給費制留学のこと。私費留学というのはふつうではありえなかった。それを秘かに目指していた優秀(?)な者は、学部の頃から準備おさおさ抜かりなく、授業もちゃんと出て良い成績をとり、語学の勉強もしていた。

 その後もふくめて、同級生でフランス、ドイツ、イタリア等に行った者も数いたが、私自身としては、海外に行ってまた勉強するという必然性は見いだせなかった(博士課程進学後二度ほど、ちょっとだけ模索したことがあったが、これはほぼ現実逃避に近い、また別の話)。

 ③の就職をする気は、ハナから無い。教員になろうにも、親とのかたい約束であった「教員免許」を取得する努力もせず、6年かかっても取れずじまい。したがって④のアルバイトしつつ制作活動しかないのである。

  

 そこにきて彼女(現女房)の親から言われた「来年は何をしているのですか?」の一言。これは効いた。効きすぎて、しばらくぼんやりしていた。

 それからしばらくたった秋ごろだっただろうか、突然T先生から呼び出され、言われた。「河村君、研究生を受けなさい」。

 研究生?何ですか?それ?というのが、偽らざるところ。研究生という何かよくわからない存在?領域?があるらしいというのは、何となくは知っていたが、実体は知らなかった。

 T先生というのは基本的に怖い先生なのである。その目で見すくめられると、抵抗できないのである。

 しかし、その瞬間ひらめいた。「来年の身分がある!」。「来年は何をしているのですか?」という彼女(現女房)の親父に申し開きができる。「来年は研究生です」。

 以上が研究生になった理由である。つまり結婚するために研究生になったようなものだ。

 研究生になるにあたって試験のようなものがあったかどうか、記憶にない。記憶がないぐらいだから、おそらく書類提出だけだったのだろう。かくて研究生になった五月、「現在は東京藝術大学の研究生です」と紹介されつつ、めでたく女房と結婚式をあげることができたのである。

 余談だが、その年に結婚した男性の平均年齢が27歳だと後で知ったのだが、軽いショックを受けた。まるで「普通」ではないか。

 

 さて27歳で新婚生活に入ったのは良いが、あいかわらずのバイトと大学での制作の日々。加えて家庭生活もあるわけで、忙しくはあった。研究生というのは特に年限はないと思うが、芸大の場合、ふつうは1年間である。したがって、落ち着くとすぐに「来年はどうしよう」と不安が頭をもたげてくる。

 そもそも研究生というのは「~生」と付くくせに、また高くはなかったが、授業料(?)も払っていた(ような気がする)くせに、身分としては学生ではなく、簡単に言えば単なる「大学で研究しているおっさん」にしかすぎない。したがって学割もきかない。そのかわりに何の拘束もない。しかし、そんな何となく不安定な立場であったからこそかもしれないが、ようやく自分の目指す方向も見え始め、比較的まじめに制作に励んでいた(バイトの合間にではあるが)。

 

 そんな夏が過ぎ、秋も終わるころ、T先生から呼び出しを受けた。「君、来年博士課程を受けたまえ」。

 博士課程?そういえばそんなモノもあったっけ。確か吾々が入学後少ししてできたらしい(1977年設置)。

 油画専攻でも一学年上にニ三人博士課程在籍者がいたようだが、それ以外はバングラデシュからの国費留学生KGさんと長年のドイツ留学から帰ってきたS先輩というだいぶ年長の学生と、もう一人二人いただけのようだった。このS先輩は翌年だかには技法材料研究室の専任教官になったから、人事上の緊急避難措置(?)だったらしい。

 何にしても、イメージとしても、私の選択肢に博士課程というのはなかった。3年の予備校を入れれば、学部4年に修士の2年、計9年も学生をやれば十分であろうというのが、本音。

 したがってT先生の言葉は、ほぼ晴天の霹靂であった。

 「僕、結婚しているんです。働くこともしなければならないんです」。先生、「博士課程に行けば奨学金もあるよ」。

 かくて、言われるがままに、というか、自分でも少しは考えてもみたが、実生活上での具体的な将来展望があるわけでもなく、結局、受けてみることにした。

 この頃から「積極的に流される」という人生哲学を身に着けたようである。

 

 ところで、ここまで簡単に「博士課程」と書いてきたが、正確に言うと「東京藝術大学大学院美術研究科博士後期課程美術専攻油画研究領域」という実に長い名称なのだ。あまりに長すぎて、その何年後かに数多くの履歴書やら略歴やら書類やらを書く必要が出てくるまで、覚えきれなかった。

 成り行き上、ここで簡単に大学制度というものを説明する。

 大学には4年生大学(ユニヴァーシティ)と2年制の短期大学(カレッジ)がある。学部があるのは4年制大学(医学部の6年制は例外)。4年制大学は、いわゆる最高学府などと呼ばれていたが、大学院は学部の上に位置づけられた、一般的に修行年限2年の(修士)課程である。

 それが現代的な種々の要請により、さらに高度な研究、教育が必要とされるようになり、研究者養成、高等教育者養成(大学教員の養成も含む)等々の要請から、いくつかの大学で修士課程の上にさらに3年の博士課程が新たに設置されるようになってきた。

 博士という学位は、従来は長年にわたっての超高度な研究成果に対して授与される、最高度の(一種の)名誉称号的なものとして位置づけられてきた。したがってそのハードルはきわめて高く、めったに授与されるものではなかった。

 しかし、近年の欧米の基準からするとそうした考えは、時代遅れの、現実世界に対応できぬ古臭いものとなり、遅ればせながら日本政府も対抗上、博士号の学位取得者を増やす必要が出てきた。そのためにはまず博士課程を、それも旧来とは異なる新たなニーズを理解して、その対応として学位取得者を多く出す気のある新設の博士課程を増やさなければならなくなったのである。

 ふつう修行年限3年のその課程で一定の単位を取得したのち、博士論文を提出し、それが認められれば晴れて「博士」となる。そうして取得した場合「課程博士」という言い方をされ、従来のような長年の研究の成果の論文を大学に提出し認められた場合は「論文博士」という言い方をされる。制度上は、両者に優劣の差はつけられていないはずである。むろん前者の方が容易に取得できる。

 この博士課程が大学の教育組織の頂点となり、その下に修士課程、その下に学部が位置づけられる。それに関連してか、大学院大学というものも出てきた。また今日多くの大学の先生の肩書が「○○大学教授」ではなく「○○大学院教授」となったのはその関係もあるのだろうが、そのあたりについては、私は詳しくは知らない。

 以上からして、言い方としては、これまで言ってきた「博士課程」は「大学院博士後期課程」となる。とすると、従来の「修士課程」は「大学院博士前期課程」となるのだろうか。大学によっても言い方が異なるようだが、詳しいことはちょっとわからない。

 

 ともあれ一応入試なのだから、年が明ければ試験がある。準備もクソもないのであるが。

 まず作品提出は当然あっただろうが、覚えていない。しかしこれは毎日制作していたので、手持ちのものを出せばよい。あらためてそのために制作したことはない。

 語学、英語もある。高校卒業以来まともに英語の勉強などしたことがなかったので、100点満点中30何点かしか取れなかったが、なんとそれが油画の中では一番高得点だったと、後で聞いた。芸大生の(油画専攻の一般的)学力、おそるべし。

 そして小論文提出。事前にお題が出されていたように思うが、そのお題は覚えていない。だが提出したもののコピーが、奇蹟的に今、手元にある。「絵画の正当性を巡って」と題された、原稿用紙21枚。超観念的な論考だが、要はダダ以降という観点から絵画の可能性を考察したもの。思えば、それが人に読まれることを前提にして書いた、初めての小「論文」、実態はエッセイであった。恥ずかしながら、苦労して読み返して見ると、言葉は硬いが、内容は本質的には今とあまり変わっていない。人間成長しないものだなと思うべきか、20代後半ともなれば、基本的な芸術思想は確立されていたのだなとみるべきか、さて。

 一応、面接というか、口頭試問もあったような気もする。「博士論文を書くなどと言い出さないでくれよ」などと念を押されたような気もするが、定かではない。むろんそんな気は全く無かった。妙な言い方になるが、私は自分から受けたくて受けているのではない、「受けたまえ」と言われたから受けているのだという、実に生意気な自負を持っていたのである。

 受験した学生の学年も研究生経由か、修士課程からの受験かなどによって前後多少の違いはあったが、10数名ほどが受験したように思う。結果は4人が合格。韓国からの国費留学生のCさん(女性:具象絵画)と1学年下の現代美術の二人(男性)である。

 以後、また28歳から30歳にかけての、3年間の学生生活が始まったのである。

 

 以下、続く。(「2018年に見た展覧会・国内篇 その2」の続きもまだ書いていないのだが…)

 

 ↓ 博士論文+作品集『メッセージのゆらぎ』表紙 内容等については次回で

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(2019.5.6 一部改訂)

 

 

 

個展のお知らせ 「河村正之展 耀ふ静謐」 SALIOTギャラリー 5月13日~25日

個展のお知らせ 「河村正之展 耀ふ静謐」

 

 

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5月13日(月)から25日(土)まで港区三田 SALIOTギャラリーで個展を開催します。(日曜日休み)

 

SALIOTギャラリーはいわゆる画廊ではなく、ベアリングを主軸としながら、新たにスマートLED照明を製造、展開する企業、ミネベアアツミのショールームです。

 

ショールームだからこそ可能な、多様な照明の可能性を提案するための、全体としての巨大な空間と、金色に耀く迷宮のような複数の曲面構造を併せ持つユニークな場です。

 

そこには絵画を展示することを企図したGALLERYスペースもありますが、ほかにSTUDIO、RETAIL、DININGの三つのスペースがあり、今回は可能な限りそれらの全てを使って展示します。 

 

さらにミネベアアツミ=SALIOTギャラリーが提案する新しい照明器具の可能性、色調や明るさを自由かつ容易に変化させられるという機能とコラボレーションします。

そのことによって絵画を、スタティックに、常に同一の表情で展示するというだけではなく、多様に刻々と表情を変えるという、これまで試みられたことのない見せ方でお見せします。

 

それは私にとっても初めての体験です。

私の描いた作品が、私の目の前でどのように変貌し続けていくのか、楽しみにしています。

 

ぜひ、御高覧ください。

 

 

  ↓ SALIOT 外観

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〇初日13日(月)17時よりオープニングレセプションを行います。お気軽に御出席ください。

 

〇画廊ではないため、ギャラリーを通しての作品の販売はいたしません。作品ご希望の方は私と直接連絡をとっていただきますよう、お願いします。

 

〇上記と同様のやり方ですが、会場では最新の作品集『水晶録Ⅱ』と前著『水晶録』の販売もしております。

 

〇なお、会期が2週間にわたるため、私は毎日というわけにはいきませんが、夕方にはなるべく会場にいるようにします。

 

 

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  ↓ SALIOT 内観

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  ↓ SALIOT 内観 その2

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以上、よろしくお願いします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「小さな桃源郷」 多峯主山の秘密の尾根

 *タイトルにある「小さな桃源郷」は少し前に読んだ『小さな桃源郷 山の雑誌アルプ傑作選』(池内紀編 2018年 中公文庫)の書名を借用したものである。

 

 市役所から「肺炎球菌ワクチン定期予防接種の実地について(お知らせ)」というのがきた。封筒に「高齢者~云々」と記されている。65歳になる年度初めにきて、自分が高齢者=老人であると行政(および世間)から規定・認定されたと、あらためてショックをうけると恐れられているという、その通知である。

 私は早生まれ(三月)なので、該当するのは来年になってからのはずだが、いわゆる「年度」の関係で、いま来るのはいたしかたない。私自身は、中年=オジサンの時代なんぞ、とっくの昔に通りすぎたという自覚を持っているので、特に問題はない。オジサンの次が当然ジーサンなのは自然の摂理だ。ジーサンであろうとジジイであろうと、私はとうから高齢者の自覚充分なのである。

 

 前後して立川会のUさんから一通のメール、「お花見ハイキング」のおさそいがきた。「~ヤワな山歩きの後、場違いな上等空間での遅い昼食を楽しみたい~」とある。

 場所は奥武蔵、天覧山から多峯主山。古くから知られた初心者家族向けのハイキングコースだ。天覧山には小規模な岩場、ゲレンデがある。二十代後半、結婚して西所沢に住んでいたころ、一時期入間市の小さな山岳会に所属しており、何回か岩トレに訪れたことがある。山頂そのものも、26年前に小学校2年生の息子と女房と一緒に正月二日に登った。冬枯れの季節のせいか、あまり印象は残っていないが。

 

 ここのところ山へのモチベーションはけっこう高いのだが、用事雑事に追われ、なかなか行けない。自分から進んで天覧山多峯主山にいまさら行こうという気にはならないが、誘われれば話はちょっと別。ルートや内容にさほど魅力は感じないが、何はともあれ体を動かすこと、山の中に身を置くことが最優先である。それには外からのお誘いに便乗するのが一番手っ取り早い。ということで、参加することにした。

 クライマー率の高い立川会のメンバーが何人参加するのか、あやぶまれたが、中心のYSさん、YJさん夫妻、発起人のUさん夫妻に加え、Uさんの呼びかけで、山と渓谷社の社員Kさん(女性)、Nさん(女性)、I君(男性)の二十代の若者が三人参加した。七十代が五人(四人かもしれない)、六十代が一人(二人かもしれない)、二十代が三人、つまり高齢者が六人、若者が三人という、実にアンバランスな、珍しい年齢構成の即席パーティーである。

 

 歩程2時間ほどということで、のんびりJR東飯能駅に9:51。Uさん夫妻、YJさん夫妻と合流。西武線飯能駅で残りのメンバーと合流。飯能在住、つまり地元住民であるUさんおすすめの店で、昼食やおやつ類を購入しつつ、導かれるままに歩く。

 

 ↓ 途中の墓地の入り口の六地蔵と一緒にあったもの。梵字の刻まれた造形物。初めて見た。正体は今のところ不明。

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 市民会館から花見客でにぎわう公園をへて、山麓の能仁寺の脇からハイキングコースに入る。かつてはどう行ったものやら、さっぱり見覚えがない。と思っているうちに、すぐに見覚えのある岩場に出た。岩場沿いの歩道脇数㎝上のラインが「トラバースルート」。ちょっと懐かしくて取り付いてみるが、ほんの数ムーブではがされた。ほかの人はとっとと先に進んでいる。私以外は、当然、日和田通いの人たち。なんせここは規模が小さく、ハイキング客も多いところだから、本格的なトレーニングには向いていないのだ。しかし、私がかつて受けた県岳連指導員検定実技試験の会場はここだった。

 歩道の下にも岩場があるそうで、ということは、私がトレーニングしていた岩は下にあったのだろう。久しぶりに見てみたい気持ちもあったので、ちょっと残念。なお最近は、ここの岩場も登るのに、事前の申請が必要だとのことである。

 そうこうしているうちに、あっという間に頂上に着いた。

 

 ↓ いきなり天覧山山頂

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 登り口からは標高差70m、15分ほどか。多くの人が休んでいる。標高は197m。もとより取るに足らない高さだが、案外山の雰囲気はある。木の間超しに、めざす多峯主山が見える。

 

 ↓ 山頂より遠望する多峯主山(右)

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 小休止するほどもなく、歩き始める。

 

 ↓ 天覧山山頂からの下り

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 ↓ 降り立った草原状の沢。本来は右に行き尾根を登るのが順路だが、左に下る。モデルは山渓社員のうら若きKさん。

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 順路でいけばいったん北西に下った先の、沢というか草原状のところから前方の尾根を登るのであるが、Uさんはなぜか左に下り始める。何か秘策というか、考えがあるらしい。

 

 すぐに人家のある舗装道路に出たあたりで、なにやら足元がおかしい。見れば靴底のゴム底がべろりとはがれている!!

 

 ↓ あああああ!!!!

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 いかんともしがたく、いったんは剥がれた部分だけナイフで切り離そうかと思ったが、むしろ紐で縛った方が良いという意見が多い。幸い緊急用のテーピングテープはいつも持ち歩いている。応急処置としてテーピング(?)してみれば、何とかなりそうだ。もう一方も見れば剥がれそうだ。ついでにそちらにもテーピング。何となく痛々しくもマヌケな風情となり、あまり見かけの良いものではないが、仕方がない。

 このローカットのスニーカータイプの山靴は、最近はもっぱら裏山散歩専用で、山にはハイカットのもう少ししっかりしたものを使用している。買って何年目になるのだろうか。10年前後?充分、元は取っているから、まあ、しかたがないか。

 

 いったん一般車道の住宅地に出たのち、尾根の末端を一つ回り込んだ形で、右の道に入る。沢沿いの道は、かつての沢に開かれた水田の跡に沿ってゆるやかに登る。ネコノメソウの黄色い群落がある。スミレも多い。正面からの小さな尾根によって二俣になっている、少し開けた湿原状というか草原状のところあたりは、気持ちが良いところだ。

 

 ↓ 浅い沢の湿地状二俣。中間の尾根には山桜。

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 右に進み、多少の植林帯を行けば、ちょっとした窪地と石碑がある。不動の滝とのこと。滝と言っても高さ1mもない。水は流れていない。そのすぐ上に池がある。なぜか緋鯉や錦鯉やメダカ(?)が泳いでいる。雨乞い池とのこと。それで先ほどのが、不動の滝。

 

 ↓ 雨乞いの池 なぜここに緋鯉?

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 ↓ 池脇の階段に咲くスミレ(タチツボスミレ?)

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 それなりの云われもあるようだが、先に進む。一投足で多峯主山山頂270.7mに着いた。

 

 ↓ 頂上直下

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 ↓ 多峯主山山頂。記念集合写真はUさんが撮られたのだが、送られた画像はTIF形式だったので、このブログは読み込んでくれなかった…。

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 先ほどの天覧山より70mほど高いだけだが、さらに見晴らしは良く、奥武蔵一帯の山々を望むことができる。かつて道に迷いながら登った、今は大規模宅地造成で消滅した柏木山の手前にかろうじて残っている龍崖山を含む三つのコブも、飯能市街を見下ろす里山一帯にも、萌え始めた淡い銀緑色の中、そこかしこに桜、山桜、ムラサキツツジなどが咲いている。淡く繊細だが、いかにも日本的な色調の綾なす美しさである。

 

 ↓ 山頂より飯能市街を見る。日本的色調の綾なす繊細な美しさ。

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 多くのハイカーたちは山頂で弁当を広げているが、吾々はもう少し先に進む。頂上から少し降りてきたところで、物々しい制服の一隊と出会った。消防の救助隊。総員30名ほど。

 先ほどの頂上にいた人から「もう歩けないから助けに来てくれ」と要請があったそうだ。はぁ~?と言いたくなるほどの、こんな易しいところで救助隊要請?つまり山岳遭難?詳しいことはわからないが、???である。いろんな人が山にきているということだ。

 

 ↓ 山頂からの一般ルートの下り始め

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 ↓ ここら辺から秘密の桃源郷

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 少し進んだ先で、一般ルートはそのまままっすぐのようだが、左に入る。ここからがどうやらUさんの「とっておきコース」らしい。標識等はない。あえて設置していないようだ。踏跡微かということもなく、それなりにしっかりした路だが、確かにこちら側に来る人はいない。もとより標高200mほどの里山でしかないのだが、その割に何となく深山っぽい感じも出てくる、気持ちの良い尾根だ。

 

  ↓ かそけき新緑、いい感じです。

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 新緑の芽吹き始めた明るい広葉樹林。ところどころに、また左右の尾根に山桜が咲いている。「小さな桃源郷」という言葉がふと口の端をついてくる。なるほど、Uさんご自慢(?)の尾根だけのことはある。

 

 ↓ おだやかな尾根筋、いい感じです。

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 何か所か絶好の休憩ポイントがあったが、それをやり過ごして、止まったのは、ほどよく朽ちはじめかけた木のベンチとテーブルが置いてあるところ。ボランティアの人たちがよく整備されているとのことだ。さて昼食。和やかにあらためて自己紹介を交わし、雑談に花が咲く。高齢者も若者も、それぞれそれなりに楽しんでいるようだ。微かな風に、気が付けば山桜の花びらが舞い、われわれに降りかかってくる。惜しいことに、酒はない。

 

 ↓ 小さな桃源郷

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 ↓ こんな感じ。花びらが降ってきた。

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 それにしてもこの天覧山多峯主山一帯はハイカーや観光客が多い。またその周辺は、いくつもの大規模な造成地やゴルフ場で囲まれているはず。そうした中で、この小さく短い尾根だけが桃源郷と言ってよいような別天地として在るのは、奇蹟的である。もっとも、そう言えるのは山桜の咲く、このごく短い時期だけかもしれないが。

 埼玉ほか数多くのガイド記事を書かれているUさんだが、ここだけは非公開だとのこと。納得である。非公開ルートということで、全員一致。私もこの記事は書くが、歩程を記した地図は載せないことにする。まあ、わかる人にはわかるだろうが。

  楽しいひと時ののち、下り始めればすぐ、正面に大きな山桜。残念ながら、ほんの少し満開には早い。

 

 ↓ 尾根正面の大きな山桜はまだ咲き初めだったので、代わりに横の山桜。

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 その先が、登り途中で出会った二俣。来た道を辿り、町中を抜け、飯能河原に着いた。

 

 飯能河原を渡った先にあるブルワリーレストラン、カールヴァーンに案内される。アラビア料理とクラフトビールの店。隊商宿(キャラバンサライ)をイメージしたという、立派な造りだが、個人的にはそうかぁ?という感じがしないでもないが。

 

 ↓ カールヴァーン 当然禁煙なので一人テラスの喫煙コーナーに。むしろこちらの方が気持ちが良い。

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 ビールの起源はアラビアというか、古代メソポタミアだとのこと。そう言われりゃ、そうですか。海外体験豊富なメンバーばかりなので、別にビビりはしません。まあ、昼食も済ませたことだし、試飲的な四種類の小グラスとつまみ、デザートでさらっと終わる。

 

 ↓ ふと見るとテラスの先の高い木に山叺(ヤマカマス=ウスタビガの繭)があった。ふつう地上数十㎝ほどのところでしか見たことがなかったが、あんな高いところにも繭を付けるのだろうか。かなり距離があったので、背一杯ズームしたが、そうするとなかなかうまく撮れない。

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 あんまりさらっと終わるので、この後誰か駅前でもう一杯などと話していたら、Uさんがうちで一杯どうですかと言われた。結局、私一人厚かましくも御自宅におうかがいし、さらに杯を重ねる仕儀となってしまった。どうして私はこんなに酒にいやしいのだろう。反省せねばならぬ。しかしそのおかげで、奥様を交えて、山以外の、美術やらあれこれやらの清談の、思いがけぬ楽しいひと時を過ごせたのもまた事実である。この立川会という、一切規約の無い、ゆるい集まりのおかげである。

 

 山的には取るに足らない、半ば以上はすでに歩いたことのあるルートだったし、何も期待せず参加した山行(ハイキング)だったが、結果としては魅力のある小さな楽しい山行になった。久しぶりの新緑の、山桜の、もっとも繊細で美しい時期を味わうことができた。参加して良かった。

 それにしても、ごく短い、ある特定の時期だけ輝く、エアポケットのような場所というのがあるものだ。それとどう出会えるか。情報過多の中で、誰もが知っているところではなく、やはり偶然も含めた、自分なりの感性というものが必要なのだろう。

 

 ↓ 歩いたルートは記しませんが、まあ一応天覧山多峯主山の所在ぐらいは示しておきましょう。

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                             (記:2019.4.8)

 

【コースタイム】2019年4月6日 晴

東飯能駅9:51 以後のんびり歩いて3~4時間 普通に歩けば2時間ほど 記録は取らず。

 

 

【追記】

 本稿をアップした翌日の今朝、YSさんから連絡があった。

 立川会のメンバーの一人である指揮者の寺島康朗さん(これまではTさんと表記)が亡くなられたとのこと。急ぎネットで調べて見ると、いくつか出ていた。

 それらによると、寺島さんは7日の夕方から一人で日和田にクライミングの練習にでかけ、夜になっても帰ってこないと奥様から通報を受けて、8日早朝に駆けつけた警察が、岩場の下で、頭部から血を流して、仰向けになって亡くなられている寺島さんの遺体を発見したとのこと。転落は間違いないが、詳しいことはわからない。

 寺島さんは長くソロクライミングをされており、「僕は臆病だから」と安全対策の研究には人一倍つとめられていた。指揮者という仕事柄、日和田に行く時間も思い立ったらという感じで、夕方からというのもそのためだろう。

 昨年の暮、彼を含めて何人かの立川会のメンバーがわが家に来られた。その時のことに反応されてだろうが、その後しばらくたってから、彼の長文のエッセイが三部(「私の登山人生 ~一人神々の座に向き合って~」「私の音楽人生 ~神々の音に触れて~」「指揮者として ソロクライマーとして」 いずれも私家版コピー)送られて来た。一読、予期せぬ面白さに驚き、自費出版するなり、せめて私のブログにアップさせてもらいたいものだと思った。

 3月26日の立川会でそんなことを言ったら、「あの続きも書いたんですよ」と言われた。それらを入れたUSBはYSさんのところに届いているという。

 

 身近な、あるいは知りあいの人が山で死ぬのは久しぶりだ。いずれにしてもいたましいことである。享年五十八歳。御冥福を祈る。合掌。