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艸砦庵だより

河村正之のページ 絵画・美術、本、山、旅、etc・・・

サイ・トゥオンブリー展を見た

 

 A(君)、S(君)へ。

 

 お奨めの「サイ・トゥオンブリー 紙の作品、50年の軌跡」展(原美術館)を見てきた。君たちが強く勧めなければ、たぶん結局は見に行かなかっただろう。最終日前日の土曜日のせいなのか、この手の展覧会としてはずいぶん混んでいた。

           ↓  展示風景

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  これまでにもいくつかの美術館で何点かは見ているはずだし、もちろん図版では知っている。その印象は、アメリカ抽象表現主義の端っこに位置し、東洋の書(カリグラフィー)の要素を取り入れた、ポップアートに出遅れた作家というものだった。

       ↓ 《Untitled(無題)》 1961-63年 50×71cm

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 ついでにその名前からして東洋系の画家(ザオ・ウー・キーのような)なのだろうと、勝手に誤解し、ついでにそのカリグラフィー的と言われるその表現もそうした出自に由来しているのだろうと勝手に想像していた。実際にはアメリカ生まれだし、写真で見ると明らかにアジア系ではない。先入観とは恐いものだ。反省する。しかし、ではそのアメリカ人らしからぬ名前は何に由来するのだろう。

 

 結論から言えば、良い展覧会だった。そこには良い作品、美しい作品があった。しかし、それらはすでに見慣れた美だった。ああ、絵はこれで良いのだという感覚。つまり、私にとっては、何も新しいものは無かった。

 

 抽象表現主義アンフォルメル、カリグラフィーといった系譜から、自ずとアンリ・ミショーやヴォルスが思い出される。ミショーがメスカリンの助けを借りてまで脱しようとした(西欧的・伝統的)絵画の文法を越えた地点。サイ・トゥオンブリーはそこから始めたように思われる。すなわちあらかじめ表現が「自由」であった地点。表現において「制約」が存しない地点。それはその当時のアメリカという、美術的には一種の無歴史的世界に固有の、稀有な地点であった。それはそれで苦しい地点である。そのゆえにポップアートはみずから絵の「形・主題を発明すること」を放棄し、レディメイドの図柄に拠って表現を成り立たせること、すなわち「ポップ」であることを引き受けることから始めなければならなかったのである。

 ポロックはその半ばで中断してしまったが、抽象表現主義にやや遅れ、ポップの体質が薄かったサイ・トゥオンブリーの場合は、カリグラフィー(的なもの)に自身の表現の文法をゆだねることから始めたのではないだろうか。

 畢竟は「筆触の美」(石川九楊)であるか。筆触の美をこととする書家井上有一が文字を書く(描く)のは当たり前であるが、サイ・トゥオンブリーの画中の文字はなぜ必要なのか。「カリグラフィー(的なもの)≒グラフィティー」なのか。その文字=言葉は「(抽象)表現」としての「筆触」と「カリグラフィー(的なもの)≒グラフィティー」が重なり合うところにやむをえず要請されるのか、あるいは知らぬうちに画中に侵入してくるのか。その記された言葉は、シェリーやキーツあるいはギリシア・ローマ神話の断片であるらしい。だとすれば、自由で無制約な筆触のみで絵を成立させることの困難に耐えかねて、結局は「詩情」によりそう、あるいは依拠することによって、かろうじて美しさを伴った完成に至るということなのだろうか。

 いずれにしても彼の作品は、コンセプトと(自由という名の)絵画の文法の間を行ったり来たりすることで成り立っている。つまり一般に絵が成立すると考えられている以外の地点で絵にしようとした、描いた、と言えよう。

 それは多くの画家が知っていて、そしてあえて描かない地点である。ただし、あえてそこで描くことは別に悪いことではない。それはポップアーティストが例えばレディメイドの図柄を採用することで描くことと同じ位相にある。

 そして、そのように「多くの画家が知っていて、そしてあえて描かない地点」で表現するということは、今日ではもはや普通のこととなっている。それゆえにそこにはより多くの自由が保障され、その見返りとしての「対世界直接性」ともいうべき芸術における非特権性を担わされることになった。それこそが今現在のわれわれ芸術家の意立つ位置なのである。それはそれで相当にしんどい情況だと言える。

 

 以上が今回の「紙の作品」を見た感想である。図録は全部売り切れていて買うことができなかったので、バイオグラフィー的なところなどからも不正確な認識があるかもしれない。また当然ながら、もっと数多くの、何よりもタブローを見てみたいと思った(紙の仕事はわかりやすすぎるような気がする)。来月の15日からアメリカに行ってくるので、ニューヨークで何点かは見ることができるだろうと期待している。なるべくたくさん見たいものだ。

 いずれにしても今回の彼の絵は、私に、いつにもまして、絵を描きたいという欲求をもたらしてくれた。

 

 以下、余談だが、この展覧会でも展示会場でのキャプションの記載にいくつか不適切な例が見られたので報告(?)しておく。

一例として、ある作品には「紙 鉛筆 云々」とあるのに、隣の作品(当然紙に描かれている)には「鉛筆 云々」とだけ記され「紙」が記されていない。つまり表記に統一性がない。次に紙の多くは水彩紙、画用紙系のつまり洋紙だからかりに「紙」で良しとしても、中には明らかに和紙を使用したものがあり、それはその和紙の性質を充分に生かしたものであったからこの場合は「和紙 鉛筆 云々」とすべきではないか。

 また「ペンキ」は本来油性のものであるが、現在は水性(アクリル系)のものもあるので、素材の表記としてはもう少し正確でなければならない。

 「ワックスクレヨン」は、もともと「クレヨン」自体が顔料を固形ワックス(蝋)で練り固めたものを言うことからすれば、妙な表記である。他と違う独特の画材ということであればどこかにその説明が必要だろう。

 以上、展覧会全体の質を高めるために、展示担当の学芸員さんにはもう少し勉強して下欲しいものである。

 

付記:宇都宮でのクレー展についても書きたい気もあるが、サイ・トゥオンブリーのようには気楽に書けそうもない。いずれ書くとしても、もっと短いものしか書けないだろう。 

                                  (2015.8.29)