艸砦庵だより

河村正之のページ 絵画・美術、本、山、旅、etc・・・

2018年の山始め―玄房尾根から雨降山越え不老山へ

 また、中一ヶ月空いた。理由というほどのものはなく、要はモチベーションの低さということだろう。ともあれ、2018年の山始めである。

 今年の冬は寒い。北陸や東北日本は大雪で大変そうだ。わが家の方でも二度ばかり降雪があり、多少の雪かきもした。しかし、それ以外は、例年のことながら、雪害で悩む地方に比べれば申し訳ないほど晴天続きである。とはいえ、その一週間ほど前の雪はまだ山間に残っており、ちょっとルートの選択に迷う。それでなくとも、手近で面白そうなところは、ほぼ行き尽くしたとは言わないが、それに近い感がある。

 

 決めかねて、何となく『山梨県東部の山(東編) 登山詳細図 権現山・扇山・倉岳山・高柄山 全130コース』(作成・解説・踏査 守屋二郎 2017年 吉備人出版)を眺める。

 この『登山詳細図』シリーズは、何年か前になんとなくといった感じで『奥多摩東部』『奥多摩(西編)』を買い、その後、『丹沢(東・西)』、『奥武蔵』と買った。当初はその物好きなというか、ユニークさは認めたものの、国土地理院の地形図に長年慣れてきた身としては、正直言って見づらく感じ、あまり利用することもなく、見ることも少なかった。しかし最近は先に述べたように、一般的なところをだいぶ登り尽くした結果、必然的にマイナーなバリエーション的なルートを探し出さざるをえなくなってくると、俄然その有効性に気づいたのである。当初感じた見づらさも、自宅での事前研究用と割り切ってしまえば、あまり気にならなくなる。やはり、縮尺で言えば『山と高原地図』が5万分の1であるのに比べて16.500分の1という大きな縮尺であることと、国土地理院の路記号の不正確さに比べて脱帽せざるをえないその正確さは、貴重である。

 調べてみると、関東以外でも『六甲山系(東・西)』や『吉備路の山』はともかく、『和気アルプス』『沙美アルプス』とか、正直言ってどこにあるのかも知らないような山域の詳細図が出されている。岡山県の出版社であるという地方性を強みにしているのだろうが、たいしたものだと感嘆する。

 次いでその流れで、ネットで調べてみると「登山詳細図世話人の日記http://mordred1114.blog.fc2.com/ 」というブログを見つけた。その副題に「全国に登山詳細図を広める活動をスタートさせた世話人の日記」とあり、そういう発想なのかと知った。伊能忠敬ばりの手押しの測量車(というのだろうか?)を押しながらの実地踏査というのには驚いた。正確なはずである。一般的なガイドブックにあきたりなくなった人や、国土地理院地図に記載された路の不正確さに不満を持つ人には、この「登山詳細図」は確かに有効だろう。

 

 ↓ 実測用の手押し車(?)正式な名称はわかりません。上記ブログより転載

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 ↓ 同上 平成の伊能忠敬たち

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 しかし、本当に良いことばかりだろうかと考えてみると、やはりマイナス面もなくはないと思われる。それはまず第一に、経験が浅く、読図力がない人がそこに記されている一般的でないルートに安易に行く際の危険性である(むろん難易度別の表記分けがされてはいるが)。

 東京の山でも、平成28年で、長野、北海道に次いで全国第三位の151件(全国では2495件)の遭難事故があり、死者・行方不明者10名(全国では319名)、その理由の1位が「道迷い」である(38.1%)。ちなみに年齢別では60~69歳が25.5%と最も多い(以上「平成28年における山岳遭難の概況」警察庁生活安全局地域課 による)。

 長く東京都の警察の山岳救助隊をやっておられた方の話では、いわゆるバリエーションルート的なところでの事故が多いとのことである。その元救助隊副隊長Kさんいわく「一般ルート以外、行かなければよいのだ」とのこと。それは一理ではあるが、山屋としてはそうはいかない。

 最近は(紙の)地図やコンパスを持たず、スマホGPS搭載のなにやらだけで山に登る人も多いと聞く。実際、国土地理院の地形図は売れなくなっているらしい。ある登山のブログで、「IT機器、デジタル機器を使いこなせる人向きルート」などというグレード分けがされているのも見かけた。地図やコンパスを持っていても、それが使いこなせなければ同じことであるが。

 IT機器、デジタル機器との併用は良いとしても、地図を読み、地形を読むという登山の基本的な作法は今後とも必須であろう。その上で、この「登山詳細図」が広まり、一定以上の経験のある人に有意義に使われるのであれば、それはそれでかまわない。登山人口の多い東京や大阪、名古屋といった大都市近辺ではこの「登山詳細図」は一定の需要があるだろうが、それ以外の全国となるとどうであろうか。

 第二として、パイオニアワークとまで大げさには言わぬまでも、登山の楽しみ・醍醐味の一つとして、地図を見てルートを探す、自分でルートを創るということがある。「登山詳細図」は結局のところ「新たな既成ルート」を提示することになるわけで、そこからただ選ぶというだけでは、従来のガイドブックや登山地図となんらかわりはない。それは、登山者自身がルートをみつけ、ルートを創るという楽しみを放棄するということでもあるのだ。結局のところ、それらをどう両立させるかは、ひとえに登山者自身のセンスや思想にかかっているのである。

 

 例によって、だいぶ話がずれた。山行に話を戻す。

 五日市駅6:52発。上野原駅8:06。上野原駅のバス発着場は狭い北口にしかない(四月から南口の方に移動するとのこと)。8:30発のバスを待っていると、妙に愛想の良い山梨交通のおっさんが話しかけてくる。見ればそこの切符売り場の壁には、手作りのハイキングマップがいくつも置かれて、ずいぶんと熱心かつ丁寧に情報提供してくれている。むろん私が目指す玄房尾根に関するものはない。玄房尾根は、地理院地図には破線が、山と高原地図には実赤線が記されているにもかかわらず、ガイドブック等ではあまり紹介されておらず、人気はなさそうな尾根である。つまりバリエーションというほどではないが、マイナーなルートだということは確かだということだ。しかしまあ、行ってみなければわからない。

 

 初戸バス停着9:05。導標にしたがって、鶴川の橋を渡り、左に進み尾根に上がる。最初から雪はあるが、せいぜいくるぶし程度。だいぶ前の踏み跡がかすかに残っている。その上に獣の足跡が点けられている。

 

 ↓ 登り始め

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 ↓ 玄房尾根の下部 尾根沿いにケーブルが少し先のアンテナまで登っている。

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 橋から雨降山まで標高差は800m弱。前半はそれなりの傾斜があるが、路が九十九折りのおかげで、キツさはない。周囲は植林と広葉樹林が半々といったところだが、登るにしたがって植林の割合が増え、単調な登りが続く。振返ると笹尾根の丸山あたりが意外に高く見える。

 

 ↓ 振り返り見る奥多摩の笹尾根 中央は丸山だろうか

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 ↓ 植林帯の登り 風で雪のシャワー 寒い

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 多少雪が深くなっても、くるぶしぐらいなので、ラッセルというほどではない。それほど登りにくくはないはずなのだが、踏み跡や道形が不明瞭になり、本来の路からはずれると急に消耗度が増す。道形を外さないためには、足裏の感覚だけが頼り。

 それより何より、寒い。風が冷たい。天気予報では今日の上野原の最高気温が6℃とのこと。おそらく観測地点であると思われる役場の標高が258mで、今回の最高地点の雨降山が1177mだから、標高差は919m。標高差100mで0.6℃下がる計算だから、雨降山頂上では0℃近いということになる。風があれば体感温度はもっと低くなるから、つまり氷点下ということになるわけだ。指先も足裏も鼻先も痛いほど冷たい。

 

 ↓ 主稜線近く 少し雪が深くなってきた 妙に疲れる

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 傾斜が弱まったあたりから少し雪が深くなるが、それでもせいぜいスネ程度。そのあたりから少しペースが落ちてきたのか、だいぶ登ってきたように思うのだが、なかなか主稜線が近づいてこない。妙に疲れる。雪は時おりひざ近いところも出てくる。やはり深くないとはいっても雪の影響が大きいのか、予定では休憩を入れてせいぜい3時間程度とみていたこの尾根の登りに、何と4時間近くもかかってしまった。

 

 ↓ 主稜線に出たところ 前方権現山へ

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 この東西に延びる主稜線は、昨年6月に用竹から権現山をへて三ツ森北峰までを縦走した。今回のラインはそれを南北に横断することになる。主稜線と合流したところは、ほぼ雨降山山頂と言えるところ。ただし、そこに三角点はなく、いくつかの無機質な測候所の施設があるだけ。山名表示板もない(たしか権現山方向に少し進んだ、ピークでも何でもない路のかたわらに立てられていたような記憶があるが・・・)。雨降山という山名からすれば、雨乞い信仰と関係するのではと想像されるが、それらしき祠なども見当たらない。足を止めることもなく、そのまま南に下る。

 

 ↓ 雨降山頂上の測候所

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 ↓ 雨降山山頂からの下り 前方に富士山が見える

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 南面に入れば雪も少なくなるかと思っていたが、そうでもない。急な樹林帯の下降は、ほぼ立ちセード(ピッケルなしで立ったままグリセードの要領で滑り下りる)で快適に下る。先ほどまでのスローペースが嘘のように早い。右からの巻き道を合わせると新しい踏み跡が続いている。和見峠を過ぎると尾根はゆるやかになり、ほどなく林道に出た。

 

 ↓ 立ちセードで下ってきた植林の尾根を振り返る 

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 ↓ 林道 右から降りてきて左へ進む

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 林道を越えたすぐ先の889mがゴド山ということなので、ちょっと立ち寄ってみた。何の変哲もないところに古い手書きの山名表示板があり、わずかに「ゴウド山」と読みとれる。ゴド山というちょっと珍しい山名に、淡い興味があったのだが、ゴウド山ならわかる。方角は違うが、来る途中のバス停の一つにも神戸(ごうど)とあり、「かのと」などと読まれることもあるが、多くは大きな岩場などに由来する地名であり、それは山地ではわりとよくある地名なのである。おそらく近くにその元になった岩場があるのではなかろうかと想像される。

 

 ↓ 「ゴウド山」の山名板

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 なだらかな尾根を進むと、高指山911mの山頂。笹尾根方面が木の間越しに見える。高指山からの下りになると自然林が増え、尾根は細くなり、少し良い感じになる。

 

 ↓ 高指山山頂 奥は東西に延びる権現山稜

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 ↓ 少し尾根が細くなってくる

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 ↓ 不老山頂上の手前 左右は切れている

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 不老山839.4m着15:30。不老山とは、なにかいわれや伝説でもありそうな山名だが、私は知らない。こちらは日々、老いを感ずる今日この頃である。

 山頂からは南側が開け、展望が良い。桂川を挟んで、倉岳山から高柄山の山稜、その奥に道志の赤鞍ヶ岳山稜、さらに一番奥に北丹沢の加入道山、大室山が大きい。重層的な大景観である。気がつけば西奥に富士山が大きく座している。

 

 ↓ 不老山頂上

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 ↓ 山頂より南を見る 手前桂川 一番奥が丹沢の加入道山と大室山

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 ↓ 富士

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 ふと気づけば、もう15:40。帰りのバスは16:20。あと40分しかない。その次となると17:41。間に合うかどうかわからないが、とりあえず下りを急ぐ。まだ残る雪を利して九十九折りの路をショートカットして急いだおかげで、下山口の墓地の所に30分少々で着いた。間に合ったと思ったが、バス停がなかなか現れない。下り始めて以来微妙に痛み始めた左の股関節をだましだまし、ようやくバス停に着いたのは、ちょうど出発する寸前の16:20だった。

 

 今回はわざわざ雨降山という大きな峠越えをして、小さな839mの不老山の頂上に立ったようなものだ。特に登りたかったというルートでもなく、「登山詳細図」を見てふと思いついたルート。あまり取り上げられないルートはやはりそれだけのものでしかないというのが、今回の結論のようだ。むろん、実際に行ってみなければわからないのであるが、今回は正直言って、あまり面白みのない、印象の薄いルートであった。

 

 なお、今回は前半の登りで、ふだんとは違った妙な疲れを覚えたのだが、それは中一ヶ月空いたのと、多少の積雪のせいだと思っていた。それにしても、下山後もなかなか疲労がとれない。珍しく筋肉痛がある。その時になってようやく思い当たったのだが、実は出発する数日前に、女房が隣家の人からB型インフルエンザを移されていたのだ。そして、出発時点で私もそれを移されていたようなのである。登りの際の妙な疲れも、帰宅後の疲労感も筋肉痛も、そのB型インフルエンザのせいだったようだ。この稿を記している今日現在、明らかに私はインフルエンザ患者である。

 

 ↓ ルートの前半

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 ↓ 同後半

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【コースタイム】2018.2.7(水)晴れ 単独

上野原駅8:06/バス発8:30~初戸バス停9:05~玄房尾根~雨降山13:00~林道13:40~ゴド山13:53~高指山4:47~不老山15:30~墓地16:05~不老下バス停16:20~上野原駅                      (記:2018.2.10)

雪の裏山散歩 桜尾根から金剛の滝へ(なぜ金剛の滝は凍らないのか?)

 11:30起床。朝昼兼用の食事を終え、食器洗いや洗濯物干しなどの家事や雑事を済ませ、アトリエに入る。とりあえずPCを立ち上げる。しばし、ぼんやり。なかなか制作に向かう気にならない。いつものことだ。

 外は何年ぶりかの寒波襲来とかで、寒い。ここのところ引き籠って、ほんの少しばかりの制作と、あとはひたすらブログ書きの日々だった。

 二日前の雪がまだ残っている。運動不足であるのは自覚しているが、外に出る気にもならない。そのせいか、ここ数日、左股関節の調子が微妙におかしい。ここは一つ、重い腰を上げてでも、少しウォーキングか裏山歩きでもしなければいけないだろうと思う。

 何年か前の大雪の翌日、ラッセルで裏山歩きを楽しんだことがあったのを思い出した。今日の裏山にはまだ少し雪が残っているだろう。久しぶりに雪の上を歩く感覚を楽しみたくなってきた。そう言えば、檜原の佛沢の滝の下段が氷結したというニュースを聞いた。金剛の滝は凍らないのだろうか。これまで聞いたことはないが、規模も小さいことだし、この寒波ではひょっとしたら凍っているかもしれない。ちょっと見にいきたくなった。

 

 14:45、家を出る。10分ほど歩いて都立小峰公園。八坂神社から登り始める。当然雪はある。すぐに、念のため持ってきたスパッツをつける。このスパッツも30年近く前に買ったもの。とっくに耐用年数は過ぎている。最近はジッパーの具合が悪く、毎回履くのに苦労する。いいかげん、買い換えるべきだろう。

 

  ↓ 小峰公園 桜尾根

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 八坂神社からの桜尾根は、秋川丘陵経由の、八王子の川口川や恩方方面への古くからの生活道。馬頭観音もある。ここは五日市に来て以来、何十回となく歩いた裏山散歩のフィールドの一つ。

 

 ↓ 336mピーク直下の階段

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  雪はあったりなかったりで、深いところでもせいぜいくるぶしの上、吹き溜まりでスネ程度。物好きな人もいるらしく、踏み跡はそれなりにある。ほどなく336mの三角点のあるピークに立つ。わが家の標高が200m弱だから、標高差は130mといったところ。名前は特にないようだ。「かたらいの路 秋川丘陵コース」の看板がある。

 

 ↓ 336mピーク頂上 左下が三角点の保護石

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 ↓ こんな感じ

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 その先もなだらかな登り降りを繰りかえす。石灰岩の露頭の先、左には大きな変電所がある。そこをすぎれば分岐点に金剛の滝への標識。

 滝への路は木の階段、鉄鎖の手すりなど、最近整備され直されたようだ。いつもは人工的整備のしすぎ、などと毒づくところであるが、雪が付いていると少しありがたい。勝手なものだ。

 降り立ったところは、盆堀川の支流の逆川が90度向きを変える、堰堤の上の川原。ここは吹き溜まりというか、少し雪が多く、ひざ近くまである。しかし、物好きな先行者のトレースを辿れば、問題はない。すぐに両岸は狭まり、ゴルジュ状となる。その奥に小さな下段の滝が見える。凍っていない。残念。

 

 ↓ ゴルジュ状に狭まった先に下段の滝が見える

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 ↓ 金剛の滝 下段 見えにくいが、右の岩に黒くあるのが上段へと続く穴

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 伏流から水流が現れ、狭ばまった沢の右岸沿いから左岸に渡渉すれば小さな釜。夏には数匹だけ棲息している岩魚の姿も見えない。右に穿たれた小さな階段のトンネルをくぐりぬければ、上段の8mほどの滝の釜の縁に立つ。やはり凍結していない。多少水流は細くなっているようだが、とうとうと流れおちている。

 

 ↓ 金剛の滝 上段約8m

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 佛沢の滝は氷結しているのに、なぜここは凍らないのだろうか。佛沢の滝は標高340m、金剛の滝は地形図には出ていないが標高250mあたり。両方とも北東向き。佛沢の滝の方がより奥まった山あいにあるにしても、この100mあまりの標高差が気温の違いとしてでてくるのだろうか。しばし考えてみる。

 佛沢の滝の名は「払子」から来ている。払子とは仏教で使う毛足の長い筆のような、ハタキのようなもの(白い毛だと思っていたら、必ずしも白とは限らないようだ。また真宗では使わないとのこと)。元々はインドでは蝿や蚊などを追い払うためのもの。

 

 ↓ 払子(ネット上で拾ってきたものです。済みません)

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 この払子を縦にして見たときの、毛を束ねているところを滝の狭い落ち口に見立て、末広がりの毛を、下にいくほど飛沫(しぶき)をあげ、広がって流れ落ちる水流に見立てたものである。夏であればこの飛沫は水煙となって、涼気の源となる。周辺の岩に付着した飛沫は凍りやすい。小さなそれらが重なり合って、次第に氷瀑へと成長するのである。

 

 ↓ 夏の佛沢の滝(ネット上で拾ってきたものです。済みません)

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 ↓ 氷結した佛沢の滝(ネット上で拾ってきたものです。済みません)

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 それに対して金剛の滝は、落ち口から下までほぼ同じ幅で、しいて言えば棒状に落下している。傾斜角度と合わせて、飛沫はあまり発生しない。したがって氷瀑へと成長できないのである。川岸でも池でも凍るのはその縁からである。つまり、岸に付着する水は凍るが、流れる水は凍らないということだ。水量の点から見ても、滝上流の集水面積からして、金剛の滝の方が少ない。にもかかわらず、金剛の滝が凍らないのは、結論として、標高や方向のせいではなく、滝そのものの形状に由来する水流の形状が理由だということだ。

 ちなみに氷瀑で有名な茨城県袋田の滝は標高150mでしかないが、写真を見てわかるように、緩傾斜で凹凸の少ないスラブ状の岩盤の表面を、幅広くサラサラと流れている。気温次第でたやすく氷結しやすい条件を備えているのである。

 

 ↓ 紅葉時期の袋田の滝(ネット上で拾ってきたものです。済みません)

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 ↓ 氷結した袋田の滝(ネット上で拾ってきたものです。済みません)

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 以上が「なぜ佛沢の滝は氷結するのに、金剛の滝は凍らないのか」についての考察である。読み返すと多少ずさんな点もなくはないだろうが、いい線いっているのではないだろうか。どうでもいいことかもしれないが、そんなことを考えるのも、また山歩きの楽しみの一つではある。

 

 そんな事を考えながら下山の途についた。広徳寺近くでは伐採の最中。事情は知らぬが、嫌な感じだ。

 

 ↓ 伐採中

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 2時間と20分ほどの裏山散歩終了。ふだんよりちょっと時間がかかったが、まあ一日分の運動としては充分だろう。内容的にも、今回は「登山リスト」には入れられない。それにしてもそろそろちゃんと、今年の山始めをしなければならないのであるが...。

 

 ↓ 赤線が歩いたルート 左下の線が途切れたところが金剛の滝 右上の赤線の末端がわが家

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                         (2018.1.24)

週刊エコノミストに名前が載った??

 とある珍しく雪の降っている日、高校同期の友人Sさんからラインがきた。

 「凄いよ。」「ゴルフメンバーのY君からの情報です。」として、写真が一緒である。週刊エコノミスト1月23日号。 ??? 週刊エコノミスト?? 知らない。猪熊建夫・ジャーナリスト? 知らない。

 

 「名門高校の校風と人脈 273」防府高校山口県立・防府市)とあるから、経済誌の連載記事であることは間違いない。防府高校は私の母校である(名門高校ねぇ~・・・)。この手の記事というのは、無難ではあるが、経済人にとって意外と仕事上で役に立つかもしれない雑知識の提供ということだろうが、それが私と何の関係があるのか。

 

 ↓ これが問題の誌面です

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 送られたスマホの画面を拡大して見ると、学校の歴史、現状、進学率などから始まって、最初に種田山頭火ときた(3年制の周陽学舎を卒業後山口中学の4年に編入)。ふ~ん。清少納言が幼少期を防府ですごしたというのは初めて知った。さすがに高校とは関係ないだろうとは思うが、雑学的に案外面白いではないかと思った。しかし、次いで芥川賞受賞の高樹のぶ子直木賞伊集院静の紹介とからめて「防府には昔から文芸の血が脈々と流れていたのではないか」というのには賛成しかねる。

 企業関係、これは掲載誌の性格上、大事なのだろうが、ヤフーの社長がOBだというのは、そうなのか、知らなかった!と思うぐらいで、他は当然全く知らない。関心がない。

 他に、程度はともかく、私が知っているのは、アナウンサーの山根基世自由学園を創立した羽仁もと子の旦那、作曲家・鈴木淳伊東ゆかり/小指の思い出、八代亜紀/なみだ恋 確か天満宮宮司の息子だったと記憶している)、俳優・歌手の藤田三保子(NHK朝ドラ「鳩子の海」)、俳優の前田吟(中退だけど)ぐらいである。落語家二人は知らない。市長が三代続けてOBというのは地域的に当然と言えば当然だろう。

 

 最後の方に「登山部(われわれの頃は山岳部)の活動がめざましく、インターハイ(全国高校総合体育大会)で男子が7回、女子が6回全国制覇を成し遂げている」とあったのは、やはり(微妙なところもあるが)うれしい。

 

 そうした中に、「美術では、洋画家の田中稔之、河村正之、絵本作家の降矢加代子がOB、OGだ。」とあった。

 

 ↓ 上から4段目、中央左よりに

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 ↓ ちょい切り取り、拡大

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 降矢加代子の名は分野が違い、名前のみかすかに知っているが、作品については不勉強でほとんど知らない。

 しかし、田中稔之さん(故人 行動美術協会会員 元多摩美術大学教授 お世話になりました)はともかく、なんで次が私なのか、他にはいないのか、誰かいるだろう、というのが最初に思ったこと。

 明治10年(1877年)創立の私立周陽学舎から数えれば、140年。その中で美術関係ではたったこれだけなのか!?ということだ。私ごときの名があがるというのはおかしいのではないのか、と思うのである。言うまでもないが、私は有名ではない。少なくともいわゆる画壇では無名である、いや無名に近い(何でここでこんなことを言わなきゃならないのか)。

 といっても、あの人がとか、その人をとか、すぐには思い浮かばない。しばらく考えても思い浮かばない。確かに美術関係の人材が絶対的に少ないのは事実だろう。そう言ってしまえば、この話はそれで終わる。

 山頭火はともかく、高樹のぶ子伊集院静をもって文芸の血云々とはさすがに言い辛いが、文芸的風土とぐらいは無理に言えば言えなくもないかもしれない。だが地元における両者への遇し方などを見ていると、やはりとてもとてもというのが本音。とはいえ、美術よりははるかにましだ。

 しかしまあ、そのへんをこれ以上ぐだぐだ言ってみても、発展性はないし、私の絵描きとしてのひがみ根性のようなものが浮かび上ってくるだけかもしれないから、これ以上言わないことにしよう。微妙に複雑な気分だけが残っているが...。

 

 視点をかえれば、Sさんが言うように「凄~い」のだろう。むろん私が「凄い」のではなく、「凄くない」私の名前があがったことが「凄い」。本人の全くあずかり知らぬところで、正当な評価とも思えぬ扱い(?)をされたということだ。

 執筆者については全く知らぬ人であるが、記事全体をみれば、同窓会名簿の略史などを基本資料として、ネットで検索して、といった調べ方をして書いたような文章である。もちろんこの連載は学術的な、あるいは歴史的な、文学的な、深い考察を求められているような記事ではない。間違っていさえしなければ差し支えないのだ。

 したがって、この話には落ちも教訓もないのである。珍しい体験であることは間違いないから、一応書いてみて、アップすることにした。歴史の闇に埋没させるだけなのも、ちょっともったいないような気がするし。

 Sさん、一応、ありがとう。長く生きているといろんなことがありますね。

 

 ところでこの週刊誌エコノミストはどこに行けば買えるのだろうか。コンビニにおいてあるのだろうか。なさそうだ。近々大きな書店のある立川や都心に出る予定はない。わざわざアマゾンで買うというのもなあ~。せっかくだから一冊手元に置いておきたいような気もするのだが・・・。

                      (記:2018.1.22 雪降る日)

2017年の読書

 年末に各種の記録・データの集計をする。美術館関係、山関係、そして読書関係。

 絵(美術)、読書、登山、それらは言ってみれば、私の人生の4本柱の一つ一つだからである。では4本目は何かと言えば、とりあえず骨董蒐集と言ってもよいのかもしれないが、かつては麻雀だったり、恋愛だったり、海外旅行かと思ってみたりしたこともあったが、移り変わってきた。

 現在は骨董蒐集が変位した(主に)蔵書票蒐集ということになるのだろうが、それは言ってみれば美術の一部だから、独立した一柱とは言いにくい。日々の暮らしの中で酒の占める割合も小さくはないが、趣旨としては柱にはならない。4本目は、そのようにその時々に推移する要素のためにキープしてある空白の場所なのだ、としておこう。まあ、よい。ともあれ、年末に各種の記録の集計をするのである。

 

 本ブログでは山行については逐一、美術館関係は「201○年に見た展覧会」という形でまとめたものをブログアップしている。当然、読書関係もある程度はしていたつもりだった。しかし、ふと見てみると、2015年に「先月読んだ本」として、4回アップしただけだった。あれっ?という感じで、フォルダの中を確認して見ると、「2015年に読んだ本」「2016年に読んだ本」として、マイベスト的リストを書き出しただけで、途中放棄、未定稿のままで眠っていた。

 ここ30年以上、平均して年に100冊以上は読んでいる。そこから、単にその年のマイベスト10を選ぶだけなら簡単だ。しかしそこになにがしかの、できれば意義のあるコメントを書こうとすると厄介である。印象は当初は明瞭に残っていても、次第に薄れ、ついには忘れる。正確を期すためには、何ヶ月も前に読んだ本を再び手にしなければならなくなる。その労は大きい。それが大変だから、「先月読んだ本」という形で時間をおかず毎月書こうと一時は思ってみたものの、やはり続かなかったということだ。

 読書専門のブログならともかく、私の場合、他の分野とのバランスからしても、基本年に一度ぐらいが良いのかなと思う。なんせ、対象が本であると、山や展覧会と違って、より実証性というか、正確さが必要なような気がするのである。その辺は、われながら、律儀というか、難儀な性格である。

 ということで、気を取り直して、「2017年の読書」について書く。

 

 近年、読書量も、蒐書量(購読量)も減ってきた。昨年2017年に入手した本は、全部で170冊。これは購入した主に古書と少数の新刊本、図書館等で借りたものや贈呈されたものなど、すべての合計である。

 一頃に比べると少ないとはいえ、170冊といえば一般的にはそう少ないとはいえないかもしれない。しかし、この数字には若干のトリック(?)がある。170冊の内、図書館で借りたものが22冊(そのほとんどが塩野七海のもの)、贈呈されたものなどものなどが5冊、つまり自分で自腹を切って購入したものは143冊。そしてその143冊の内に「豆本」関係のものが75冊あるのである。

 豆本武井武雄の『豆本ひとりごと』(のち『刊本作品ひとりごと』)と『刊本作品親類通信』が28冊、と『古通豆本』が45冊。大きさは『豆本ひとりごと』と『刊本作品親類通信』が縦15㎝×10.5㎝前後、『古通豆本』が縦10㎝弱×横7㎝。別に『九州・まめほん』が1冊。頁数は共に数十頁程度のものなので、内容量としては豆本75冊で普通の本10冊分もあるかどうか。つまり、豆本の分を普通の本で換算してみると、計80冊程度となる。これは過去30年で最も少ない蒐書数である。

 

 読書量で言えば、昨年読了したのは144冊だが、同様にその中の豆本41冊分を普通の本で換算して見ると、100冊少々といったところ。数だけでいえば、ここ10年ほどはだいたいこの程度で推移しているが、実感としてはやはり減っている気がする。読書量の減少と書いたが、それは読書欲の減退であるかもしれない。

 ところで、後述の年間「マイベスト」を書き出そうとしてみると、10に満たない。私は読み終わった後に、単なる心覚えではあるが、◎ ○ △ 無印 ▲ × という、6段階の評価点をつけている。昨年の読了録を見てみると、なんと!◎が一つしかなかった。こんな年も珍しい。つまり、読書欲の減退と書いたが、実はその印象は、読み終わってみて内容的に満足した本が少なかったということに因るのではないかと、思い当たったのである。

 ともあれ、比較的貧しかった昨年の読書の中から、印象に残ったものをいくつか取り上げてみる。

 *比較的ポピュラーなものや、文庫本などは特に書影は載せません。

 

 

ローマ人の物語 34~43 迷走する帝国(下)~ローマ世界の終焉(下)』

塩野七生 2008.9.1~2009.9.1 新潮文庫

『ローマ亡き後の地中海世界 海賊、そして海軍 1~3

塩野七生 2014.8.1~2014.9.1 新潮文庫

『海の都の物語 ヴェネツィア共和国の一千年 1~5

塩野七生 2009.6.1~2009.7.1 新潮文庫

 まず、昨年後半から引き続きハマり続けた、塩野七海ワールド、『ローマ人の物語』。これについては前年度分として書くべきであろうが、一言で言えば、ヨーロッパ文明の基本構造を知る知的喜びと、長大な通史・ストーリーを読み通す楽しみを充分味わったということ。これについては後述の「2016年の読書」であらためてふれたい。

 ようやく43冊を読破したその余勢を借りて『ローマ亡き後の地中海世界 海賊』と『海の都の物語 ヴェネツィア共和国の一千年』も一気に読んだ。両者共にそれなりに面白かった。ついでに読んだ『わが友マキャヴェッリ フィレンツェ存亡』は今一つ。『ルネサンスとは何であったのか』はまあまあ。他にも二三冊読んだが、特にコメントなし。

 

 美術関係では、市井の一趣味人、研究家である市道和豊の一連の蔵書票関連の研究個人誌。いずれも室町書房とあるが、実質は私家版であろう。ネット経由でなければ入手しにくい。

『奇跡の成立 榛の会昭和21年 <芸術集団の戦中・戦後>』 2008.4.1 

『孤高の版画家 祐正・人と芸術』 2009.9.24

板祐生の画業』 2013.6.4 

『渋谷修 アバンギャルドから消された男』 2011.8.3

『乙三洞の芸術』 2015.9.10

『藤牧を待て <新版画集団と版交の会>』 2013.9.14

『与太雑誌『グロテスク』』 2016.7.8 

 

 ↓ 市道和豊の個人誌3点

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 いずれも興味深かったが、中でも『渋谷修 アバンギャルドから消された男』、『乙三洞の芸術』、『孤高の版画家 祐正・人と芸術』は対象の作家およびその作品の質の高さへの興味からも、私には面白かった。とりわけ渋谷修については、今日彼がわずかに名を残している蔵書票という主に趣味的な世界のそれとは別に、日本の前衛芸術運動の中で最も重要なものの一つである「マヴォ」(それは世界の前衛美術運動史から言っても重要である)との関連においても重要な研究である。

 惜しいことに、全体の構成があまり良いとはいえず、また文章や検証の部分もやや粗雑な面があり、必ずしも読みやすくはない。しかし、扱っているテーマ、対象自体の面白さには惹かれた。また第一次資料を渉猟して得た、挿入された図版も貴重で興味深いものが多い。上記以外にもまだ何冊か、同様な分野のものを出されているようで、いずれそれらも読んでみたいと思っている。

 偶然だが、これらの一連の本が後押ししたかのように、この年、めったに出ない『第四回 蔵票作品集』(大正14年 日本蔵票會)と『昭和蔵票聚集』(未貼りこみ 昭和18年 日本蔵票愛好会)の二つの蔵書票集を入に入れることができた。私にとって幻の蔵書票作家であった渋谷修や森田乙三洞の作品を、手にすることができたのである。それらについては、いずれ稿をあらためて書いてみたい。

 

 ↓ 参考:『日本蔵票會 第四回作品集』 右上:森田乙三洞 左:渋谷修 右下:川崎巨泉

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 ↓ 参考:『日本蔵票會 第四回作品集』 右上:森田乙三洞 右下:川崎巨泉 左上:川崎巨泉?  左下:渋谷修 

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 ↓ 参考:板祐正の日本書票協会1953年書票暦5月 左下の鉛筆書きは旧所蔵者の武藤完一の筆

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 ↓ 参考:板祐正の蔵書票2点 技法はS2(孔版:独自の謄写版技法)

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豆本ひとりごと』第2集~5集(1954.11.10~1960.4.15 限定版手帖発行所~吾八)および『刊本作品ひとりごと』第6集~24集(1961.10.25~1983.1.20 吾八~刊本作品友の会)の内16冊

『刊本作品親類通信』14~53

(1964.4.15~1983.11.25 刊本作品友の会)の内12冊

  

 ↓ 題簽は武井の木版

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 ↓ 同じく題簽は武井の木版

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 前記市道和豊のものと分野的に若干かぶるところもあるが、思いがけず武井武雄の刊本関連のものをいくつか入手した。

 武井武雄は画家、版画家、童画家、童話作家装丁家、として今なお一部で根強い人気を保っている。中でも彼の幅広い仕事の集大成(?)であり、出版美術界の一偉観とも言うべき「刊本作品」と呼ばれる一連の限定豆本シリーズは、出版印刷史上類を見ないユニークなものであり、評価が高い。市場価格も高いためになかなか手が出せなく、私は一冊も持っていない。個人的には彼の作風があまり好きではないので、無理をしてまで欲しいとも思わないが、その書物、印刷に関する彼の哲学というか、美学、こだわりや工夫のあれこれは、やはり面白い。たまたま今回それにかかわるものが期せずして、ある程度まとまって安く入手できたので、読んでみたが、やはり面白かった。

 

 ↓ 『九州・まめほん』1957.6 九州豆本の会 150部発行 表紙は川上澄夫の蔵書票貼付 目次の前頁に畦地梅太郎の蔵書票貼付 本文は手書き謄写版刷り 

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 同じく豆本である。

『藩校の蔵書』他古通豆本25~49、82~88、97~100、104~106、114~118 日本古書通信社 1976.4.10~1995.11.20)

 

 ↓ カットは若山八十氏

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 私は豆本という分野に特に興味があるわけではない。形態的にも、また内容的にも、あまりにも趣味性に偏しているという印象を持っており、蒐書の対象としては敬遠しているというか、どちらかと言えば好きではない。しかしそうした中で、この古通豆本は、執筆者に古書関係の人や、専門家が多いのは当然だが、その中でまた多様な専門的観点から書かれているものが多く、本好きにとっては面白いコンテンツだと思っていた。たまたま安く(一冊あたり100円少々)40冊ほどまとまって出ていたので入手した。縦10㎝弱×横7㎝、数十頁ほどだから、その気になればすぐに読み終えるのだが、仕事を終えた深更、ちびちびと酒を飲みながら、一冊二冊と味読するのを楽しんでいる。中では『造本覚え書』(内藤政勝 30)、『蔵書票』(坂本一敏 38)、『山の限定本 ☆および☆☆』(上田茂春 42、43)、『限定本と書票』(今村秀太郎 99)などが面白かった。けっこう貴重な内容のものもあるが、ごく一部を除いては一般書に再録されないものが多く、その点でも貴重である。

 なおこのシリーズは普通本と別に、装丁に凝った特装本も小部数出されているが、値段も高い。それはそれで魅力的だが、私は、中身さえ読めればよいというスタンスなので、今のところ手を出す気はない。今のところは。

 

『鬼が来た 棟方志功伝 上・下』

長部日出雄 1999.12.20 人物文庫/学陽書房

 蔵書票、版画とつながって、10年以上前に買ったまま未読だった本書をようやく読んでみた。小説的評伝である。案外というか、予想以上に面白かった。この年、唯一◎をつけたもの。棟方志功の作品はある程度は見ているし、人となりについてもある程度知っているつもりではあったが、著者が同郷のゆえか、よく調べ、公平な目線でよく書かれている。民芸運動とのかかわりや、日本浪漫派とのかかわりなど、教えられることが多かった。前より棟方志功が好きになった。

 

『特異児童画の世界 山下清とその仲間たち 石川謙二 沼祐一 野田重博』

(2004年 「八幡学園」山下清展事業委員会)

 

 ↓ 本のサイズが大きすぎてスキャナーにおさまりきらず、下5%ほどカット

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 美術関連でもう一点。川崎市民ミュージアムで開催された「山下清 とその仲間たち(踏むな 育てよ 水そそげ 石川謙二 沼祐一 野田重博)」展の会場で販売されていて内容も関連したものであるが、2004年発行で、正確には同展の図録ではない。内容も単なる展覧会図録ではなく、「踏むな 育てよ 水そそげ」のモットーを掲げる八幡学園の思想や歴史、また特異児童画=アウトサイダー・アートの評価史の一端をも紹介している。資料的にも価値の高いものである。

 

J・A・シーザー黙示録』

J・A・シーザー 2015.7.31 東京キララ社

 

 ↓ 表紙カバー おどろおどろしいですね。デザインでちょっと損しているような…。

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 アングラ劇団「天井桟敷」から寺山の死後、それを引き継いだ「演劇実験室◎万有引力」を主宰し、ミュージシャンとしても評価が高い、J・A・シーザーの回想録。

 二十歳前後の一時期、友人の関係からアングラ演劇をよく観ていた時期があった。そのころ贔屓にしていたのは「曲場館」と「摩訶摩訶(後、ブリキの自発団)」。最も過激で政治的だったと言われる「曲場館」は、ドキュメンタリー映画『風ッ喰らい節 時逆しま』(布川徹郎監督)にその残像を留められているが、その後「風の旅団」や「水族館劇場」に分かれた。「水族館劇場」は今も健在であり、最近、二度ほど観に行った。「摩訶摩訶」と「ブリキの自発団」には現在テレビ・映画俳優として活躍している銀粉蝶や、片桐はいりが所属していた。「天井桟敷」と「状況劇場」は当時すでにメジャーで、私は一本ずつしか観ていない。その頃からすでにマイナー好みだったようだ。

 

 ↓ ついでと言っては何ですが、表紙に惹かれて、曲馬館から水族館劇場の桃山邑の『水族館劇場の方へ』(2013.6.13 羽鳥書店)も紹介。表紙はこちらの勝ち。ただしこちらは未だ読んでいない。モデルは曲馬館以来の看板女優、千代次。惹句は「「此の世の外へこぼれてゆけ!!」

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 J・A・シーザーは「天井桟敷」時代から、演出とともに音楽も担当していた。1997年にアニメ「少女革命ウテナ」(私は見たことありませんが)の音楽を担当し、一般的にも人気を獲得した。2012年からコンサートもおこなっており、私もこれまで4回ほど聴きに行った(芝居にも2回行った)、かなり好きなミュージシャンである。

 内容は多様で、何となく昔のサイケデリックなヒッピー風なイメージもあるが、胡散臭くも、面白く読めた。ただ、その芝居を見たことのない人に話がわかるだろうか?という懸念はある。

 

『七帝柔道記』増田俊也 2017.2.25 角川文庫)

 格闘技にはあまり興味はないのだが、柔道だけは好きである。何年か前にたまたま読んだ『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(2014年 新潮文庫)が面白く、そこで昔の高専柔道という世界を知った。高専柔道とは戦前の旧制高等学校・大学予科旧制専門学校で行われていた、講道館柔道とは趣の異なる柔道であり、現在も東大や京大といった旧七帝大によるいわゆる七帝柔道に引き継がれているとのこと。

 著者の半ば自伝といってもよい本書は、北大入学後、中退するまでひたすら七帝柔道に明け暮れる、苦行僧めいた青春記である。面白いことは面白く、一気に読んだが、全体としてはやや冗長の感があり、作品としては完成度に不満が残る。ついでに関連して、同様に旧制四高で柔道に明け暮れた井上靖の『北の海』も読んだ。こちらの方も面白かったが、やはり完成度が今一つ。どうも柔道をやっていた人が自伝的柔道小説を書くと、描写に力が入り過ぎて、構成や完成度がおろそかになるようだ。

 

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年(2015.12.10初刷 2015.12.15二刷 文春文庫)

神の子どもたちはみな踊る(2002.3.1初刷 2007.5.5九刷)

 私は村上春樹のあまり良い読者ではないが、6~7割程度は読んでいるだろうか。彼の作品をちゃんと論ずるとすれば、いくら紙数があっても足りないだろう。むろん、そんな気はない。この二冊共に村上ワールドの魅力を味わいつつ、それなりに面白く読んだ。途中までは。

 彼の作風の翻訳小説的都会感は私の好みではないのだが、それは作者の個性だからがまんする。ただ一点、起承転結的でないストーリー進行、というか、多彩な伏線を張りめぐらしておきながら、往々にしてなぜそうなるのかが不明なまま話が終わってしまう感じに、いまだに不満感が残るのである。結論は読者の解釈に任せるというか、投げ出されたまま多様な解釈にゆだねられるというあたりが、今一つ納得できないのである。必ずしも理路整然と終わらせる必要はないにしても、その不明感が私に心地よく感じられれば良いのだが、そうではないのである。

 そして、こうした物語の終わらせ方というのが、今の小説界で増えているというか、安易な方向で流行っているような気がする。恩田陸原田マハとか、小川洋子とか(女性ばかりだ)、今ちょっと思い出せないが、他にもいたような気がする。でもまあ、村上の作品は、これからもぼちぼちと読んでいくだろう。

 

『被差別のグルメ』上原善広 2015.10.20 新潮新書

 食に関する本はわりと好きで、比較的よく読む。もちろん私のことだから、正統からやや外れたあたりのものが好みなのは言うまでもない。同じ著者のものではだいぶ前に『被差別の食卓』(2005.6.20 新潮新書)というのも読んだことがある(内容はほぼ忘れた)。著者は大坂の被差別部落で生まれ、そこでしか食べられない、臓物料理である「あぶらかす」や「さいぼし」を食べて育った。私は「あぶらかす」だけは一度食べたことがあるような気がする(美味かった!ような気がする)が、他のものもぜひ食べてみたいものだ。

 長じて、世界各地の同様な食文化を求め、体験したのが本書である。フライドチキンや針ねずみ料理については、別のところでも読んだことがある。食は文化であり、差別もまた裏返された一種の文化である。その両者を結びつけた観点が面白い。いや、面白がってはいけないのかもしれないが、読みつつ、食欲を刺激されたことは事実である。

 

『バッタを倒しにアフリカへ』(前野ウルド浩太郎 2017.5.17 6刷 光文社新書

 友人の奥さんから「これ面白かったわよ!」と言われ、借りて読んだ。食べる対象として以外の昆虫関係にはあまり興味はないのだが、舞台のサハラ砂漠イスラム教国であるモーリタリアあたりには、異文化趣味上、淡い興味がある。

 こういうのをエンタメ・ノンフィクションと言うのだろうか。一読、何とも面白かったが、その面白さの側面に、博士号取得後の不安定な研究者生活、いわゆるポスドク問題がリアルに透けて見え、その部分も少し興味深かった。学術博士号を取得して以降の10年間、学位と無縁な生活を続けざるをえなかった私にとって、他人事とも思えなかったのである。もっとも私の場合は、分野的なこともあるが、そもそも生きる力が弱かったということなのだろうが。 

 

 以上が2017年の読書「マイベスト」である。資料的なことは別にして、読書の喜びといった点では、例年に比べると見劣りがする。2016年、2015年のものをみてみると、その年は当たり年だったような気がする。このまま当たり年の2年分の「マイベスト」を死蔵しておくのも、なんかもったいないような気がするので、次稿ではその2年分の「マイベスト」を、項目だけでも揚げてみようと思う。          (記:2018.1.22)

別稿 2017年に見た展覧会 ―その2 +見損なった展覧会

 以下は前稿「2017年に見た展覧会 ―その1」で別稿としておいたものである。

 

6. ミュシャ展 

国立新美術館 3月31日  [洋画]

 

  ↓ 展覧会チラシ

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 ミュシャは日本では人気が高く、ずいぶん何度も展覧会が開かれている。しかし私が行ったのは、1983年伊勢丹美術館での「アルフォンス・ミュシャ展」だけ。もう少し見ているような気がするのだが、ある時期、一度見た作家のものは(例外はあるにしても)二度は行かないと決めていたようである。ともあれ、それは良い展覧会であり、深く記憶に残っている。

 ミュシャはもちろんアールヌーヴォーを代表するデザイナー、イラストレーターとして有名であり、展覧会もその分野の紹介がほとんどだったが、タブロー作家としても大きな存在であることは知っていた。今回、そのタブローの代表作「スラブ叙事詩」が一挙に公開されるということで、期待して行った。所蔵先のプラハ国立美術館の改修のためとはいえ、20点そろって国外に出るのは初めてで、おそらく二度とはないだろう。

 

 巨大な画面が次々と繰り広げる世界と、そのメッセージ性は、圧倒的であり、間違いなく美しかった。

 しかし同時に私は、そこにはっきりと、ある違和感と、もどかしさを感じたのである。それはつまり、結局のところ、タブローに不可欠な「肌合い」の魅力に欠けるということである。「肌合い」、「絵肌」、「テクスチャー」の魅力の欠如。言い換えれば、画面を、形と色相と明暗の、正確で合理的・効率的な完璧な布置によって、すなわち絵を、グラフィカルな要素でのみ成立させるデザイナー/イラストレーターの美の作法によって、成立させているということだ。

 良い絵を(絵とは限らないが)見たときに必ず感じる「さわってみたい」という触覚的欲望が惹き起こされないのである。われわれは絵を見る時、実際には手でさわることができなくても、目でさわる。ミュシャの絵を目でさわってみても、ほとんどの箇所で冷やかで、薄い、中性的で無性格な手触りがあるだけなのだ。眺められるためだけの絵。

 すなわちそこに現出されているのは、いわば、完璧なる下絵なのである。印刷工程を経ることなく完成を余儀なくされた巨大な下絵、油絵具とテンペラで描かれた壮大なイラストレーションである。それらは最終的に印刷されるべき存在である。おそらく印刷されたものの方が原画より美しく、なまめかしい。天才イラストレーター、ミュシャの、意図せぬ逆説である。

 

 それは、世紀末のアールヌーヴォーを代表するイラストレーターとして、その方面の注文仕事に追われた彼の、時代とのかかわり方の、宿命的で決定的な「ずれ」なのである。

 念願の絵画(タブロー)制作に専念し始めたのは1910年、50歳になってから。もはや若くはない年齢である。その「スラブ叙事詩」全20点は20年の歳月をかけて1930年ごろに完成したのであるが、その主題をなす民族自決の目標、具体的にはチェコスロバキアの独立は、制作途中の1918年に達成された。つまり、その作品の主題すなわち民族の独立は作品の完成より早く現実に達成されたことにより、言ってみれば作品のテーマは行き場所をうしない、宙吊りにされてしまったのである。出番を逸したということだ。そのことにより、当時ですら微苦笑をもって「国粋的、時代遅れのものと(註)」評価されるしかなかった。

 彼がもっと早い時期にデザイン・イラストレーションの仕事を減らし、絵画に取り組んでいたなら、同様な絵柄であったとしても、そのタブローに必要な「肌合い」を獲得していたに違いない。おそらく絵画の「肌合い」の感覚は、というよりも「肌合い」という身体的な造形要素は、ある程度若い時でなければ身に着かないものなのである。

 「肌合い」は絵画制作の身体作業の終点、すなわち描画作業の完成をもって成立する。デザイナー・イラストレーターの作業が下絵の完成をもって終了し、その先、印刷という機械的行程をへてデザイン・イラストレーション作品が完成するということとの違いは大きい。彼の身体性は、画家としてではなく、デザイナー・イラストレーターとして成熟・完結してしまっていたのだ。

 ましてや1910年代といえば、すでにアカデミックな写実主義にとってかわる、表現主義キュビズムから抽象主義が台頭しつつあった時代である。流行は変化し、進化するもの。いくら時代の流れとはいっても、彼がキュビズム風の絵画を、あるいは抽象画を描くことを想像することは難しい。言ってみれば、前時代的作家の誠実な隘路である。その誠実さは否定されるべきものではない。しかし、彼がそのクラシックで事大主義的な構成や絵柄と描画要素を捨てず、その上でもし彼独自の「肌合い」を獲得していたならば、どうなっていただろうか。古臭くはあっても「油絵具で描かれたイラストレーション」ではなく、「絵画(タブロー)」としての独自の強い魅力を持ち得ていたのではないかと、夢想せずにはいられない。

 

 結局のところ、ミュシャとは、以上述べてきたように、二つのずれを制作者として、時代性として、生きた存在なのである。制作者としてのデザイナー・イラストレーターと、絵画(タブロー)制作者としての年齢上のずれがもたらした「肌合い」の獲得の失敗があり、次いで絵画(タブロー)制作者として、主題である民族主義の理念と現実社会の時系列のずれがあった。それらのすべてが、あの壮大にして空虚な美しさを「スラブ叙事詩」にもたらしたのである。

 完成後も、時代的な美術思潮上のずれによって、おそらくは長く、正当でもあり、不当でもあった評価を甘受せざるをえなかったであろうと想像される。だが、それからさらに100年近くがたった今の地点から見れば、そうした評価は、もはやかなりの部分で風化・解消されたと言えるのではないかと思う。

 

 私は、結局のところ、彼の本筋はデザイナー・イラストレーターであったと思う。

 にもかかわらず、今なお私は、絵画としての「肌合い」の不在が「スラブ叙事詩」にもたらした、壮大にして空虚な美しさが、気にかかってしかたないがないのである。 

 

「《スラブ叙事詩》のメッセージ」(ヴラスタ・チハーコーヴァー『ミュシャ展(図録)』 p30 2017年 求龍堂) 

また「ずれ」についてはp29も参照のこと。「もしムハが第一次大戦の開戦前に、連作全体のなかで最も優れた作品とされる、最初に仕上げた3点を展示することができたたなら、見る人を感嘆させずにはおかなかっただろう。」

 

【付記】

 上記の一文は、本展を見て感動した友人のM氏との会話がきっかけであった。私は「スラブ叙事詩」の良さを認めたからこそ、そのとき体感した「肌合いの魅力」の欠如にこだわり、また他のデザイン・イラストレーションとの比較や時代性などの観点から、一部否定的にならざるをえなかった。しかし、その時には自分のそうした体感をすぐには言語化・論理化しきれず、言い足りない思いをしたこともあり、この一文を書いた。

 

 ↓ 付録 ミュシャがデザインした独立当初の紙幣2点。私の手持ちのものなので、保存状態は悪い。10K紙幣のモデルとなったのは10歳の娘ヤロスラヴァ

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 ↓ 娘ヤロスラヴァ 10歳

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13.佐藤直樹個展 「秘境の東京、そこで生えている」

 アーツ千代田3331  6月7日  [洋画]

 

  ↓ 展覧会チラシ

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 長大な作品自体は、アウトサイダーアートの文脈で見られるべき、見られるようにしつらえてある絵である。その方法と理念を、自覚的に採用しているということだ。作品にはそれなりに、圧倒的な迫力がある。ではそれは本物か?そこで前面に出されているアウトサイダーアート性は本物なのか。

 

 ↓ 会場風景と作品の一部

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 もちろん作者はアウトサイダーではない。その経歴や現多摩美術大学グラフィックデザイン学科教授というスタンスからしても、筋金入りのインサイダーである。方法、理念の上だけならば、こうした確信犯的ミスマッチなやり方は、今日広く行われている。歴史的に見ても、シュールレアリスム以来そうなのだから、それをズルイ、ヒキョウなやり方だとは言わない。ゆえに、はからずもフライヤーの裏に記された「デザイナーが描くアウトサイダーアート?」(ナカムラクニオ)という文言がそのことを一言で語っている。むろん私はこの文言を提灯持ちではなく、揶揄として読む。

 しかし、そこまでは良い。というか、仕方がない。

 

 問題は、この作品(制作行為)を、なぜ一過性の「そこで生えているプロジェクト実行委員会」を立ち上げ、様々な後援・助成・協賛を取り付け、公的な場でにぎにぎしく、入場料(一般800円)まで取って、権威主義的な展覧会として催さなければならないのか、ということである。なぜ芸大教授が、美術館キュレーターが、そこに提灯を持って並ぶのか。

 

  ↓ 展覧会チラシ裏面

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 この作品(とその行為)は、誰知られず為され続ければ良い作品なのである。ゆえにそこに見えてくるのは、その場かぎりのプロジェクト実行委員会側の、矛盾をそれと認めることなく、むしろそれを無視ないし充分承知した上での開き直った社会性として利用しようとする計算であり、アウトサイダーアートの根底に本来的に在るはずの無償性すら、社会的有効性・文化資源としておいしく消費しようとする、危険で退廃した美術消費主義の匂いなのである。

 かくてアウトサイダーアートもエイブルアートも、そうした構造を範として、例えば楽しく可愛いアートという消費コンテンツの一つに組み込まれていき、社会の中に居場所を与えられてゆく。誰もアウトサイダーアートの本質に言及することなく。もっとも効率的で安全な方法だけを与えられて。今やこの手のプロジェクトはあちこちで花盛りである。

 

 せめて作者はこの作品を発表するにあたって、どこかしかるべき展示会場かギャラリーなどで、自腹を切って、もしくはギャラリー企画展で、単純に個展として発表すればよかったのである。

 

 ちなみに公平を期すために一言つけ加えれば、一見無償的と見えるその描画の行為性も、よく見れば、さすが一流のデザイナーならではの効率の良い、上手に換骨奪胎された、口当たりの良い完成度を持っている、つまり充分美しい作品であるということだけは指摘しておこう。

 

 

18. 山下清 とその仲間たちの作品展 踏むな 育てよ 水そそげ 石川謙二 沼祐一 野田重博

 川崎市民ミュージアム 9月13日  [アウトサイダーアート]

 

  ↓ 展覧会チラシ

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 山下清は以前から何度も見てきた。その山下清が在籍していた八幡学園に同時期にいた石川謙二、沼祐一、野田重博という三人の「特異児童」の作品を見に行った。

 『宿命の画天使たち 山下清・沼祐一・他』(2008年 三頭谷鷹史 美学出版)や『山下清と昭和の美術 ―「裸の大将」の神話を超えて―』(2014年 服部正 名古屋大学出版会)などを読めばもっと早く知るところがあったのだろうが、未だ読んでいない。買っていない。だが、読まずに行って良かった。久しぶりに何の予備知識も持たずに、初めての作品・作者に出会えた。

 むろん、良い作品であった。山下清以上に知的障害の度合いが高く、「会話能力」も「身体能力」も劣るがゆえに、より他者の理解・共感を求めない、より自己完結せざるをえない「表現」。ゆえにそこに顔をのぞかせる「表現」なるものの深淵。

 

  ↓ 沼祐一の作品2点 ほとんど褪色していない

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 作品に即して言えば、褪色がやるせない。わけても山下清の作品においてはそれが著しい。山下は彼らの中で最も健康に恵まれ、一番長生きをした。彼らの中で、辛うじて社会となんとか折り合えるだけの知性を、山下だけが持っていた。彼はこれまで日本で最も多くの観客を展覧会に集めた画家である。それは日本で、一人の作家としては、最も数多くの展覧会が開催されたということでもある。作品が激しく色褪せてゆくほどの回数を。

 材料への認識における時代的限界といったことは、当然あるだろう。特に緑、青あたりの褪色が甚だしい。高村智恵子の切り絵の作品もそうであった。

 褪色という悲惨な現実を見据えていると、かえって、消えることのいさぎよさといった考えも浮かんでくる。アートとはしょせん消え去るものか。

 ヘンリー・ダーガーもそうであったように、専門の美術教育を受けていない/アカデミックに描けない者は、自分にみあったというか、自分が必要とする技法を発明するということだ。耐久性などといったことは、やはり二次的なことにすぎないのかもしれない。学んでできることと、学んではできないことがある。

 

 

19.  ハイチアート展

 川崎市民ミュージアム 9/13日 [エスニック・アート]

 

  ↓ 展覧会チラシ

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 耀く「おみやげアート」!

 これは否定的な語ではない。世界のあちこちの観光地の「アート・マーケット」で、そこの風土と直結した「スーベニール・アート」を見てきた。むろん圧倒的に石の多い玉石混合である。それらに比べて、本展はかなり上質な「スーベニール・アート」である。異文化の輝き、異風土の光。独特のオリジナリティと魅力があり、大いに楽しめた。楽しい展覧会だったが、意外と深い問題を提示している。

 残念ながら図録がない。そのため、なぜこうなのか?これは何なのかと事後に考える楽しみが提供されていない。せっかくの良い展覧会なのに、不親切である。あげた画像も図録がないため、やむなくネット上で拾ってきたもの。私が最も良いと思った作品の画像はなく、私が本展を評価するゆえんが今一つ伝わらないというか、誤解されそうなのを危惧する。

 

 ↓ フォーレスト・アブリール[幻想の森」

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 ↓ ギー・ジョセフ「ラブトゥリー」

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 なお、似てはいるが、別の文脈で「コロニアル・アート」がある。例えば、中南米で17世紀頃から19世紀にかけて、旧スペイン美術から発し、以後独自の展開を遂げた<植民地の美術>である。そうした仕組みは、古くからの<中国―日本>美術についても、<欧米の油絵―日本西洋画>についても、異なる風土の中に持ち込まれた異文化を核として独自の発展をした美術という観点から、もっと研究され、語られるべき問題があると思う。なぜならばわれわれ日本人自体が当事者だからである。

 

 ちなみに本展とは関係ない話であるが、その後、トランプ大統領がハイチやその他の国々を「屋外便所*のような国」と言ったのは記憶に新しいところ。なぜこんな発言をする人間が一国の大統領をしていられるのだろう。まあ、日本でも同様な発言(認識)は、首相以下、しょっちゅうなされているのではあるが。

 

*発言は「shit-hole」。直訳すれば「糞穴」、わかりやすく言えば「糞壺」であり、ちょっと意訳して「肥溜」であろうから、新聞等で「屋外便所」と訳したのは若干歪曲してでも下品さを回避したということだが、そもそもの発言が下品なのである。むろん「肥溜」と「屋外便所」は違う。屋外の肥溜は人糞を肥料として活用していたついこの前まで、日本中どこの農山村でもわれわれの目に親しく見うけられた、必要欠くべからざる農業施設なのである。ハイチは知らないが、確かにアジアの田舎などでは、今でもかなりおぞましい形でそうした類の施設が在るのを見たことがある。

 

 

以上で「2017年に見た展覧会」は終りだが、ついでに(と言ってはなんであるが)見そこなった展覧会もあげておく。

 

2017年に見そこなった展覧会

 

1.クラーナハ」(500年後の誘惑)

西洋美術館 [洋画]

クラーナハは海外でも日本でもずいぶん見ている。「今さら」感。

 

2.「endless 山田正亮の絵画」

 東京国立近代美術館  [洋画・現代美術]

 

  ↓ 展覧会チラシ

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●見よう、行こうと思いつつ、ついつい行かずじまい。なぜ行かなかったのか、説明が難しいが、どちらかと言えば、私自身がアンチの位置にいるからなのだろうかとも思うし、それをおして「御勉強」のために見に行くのが潔くないと思ったのか。しかし今にしてみれば、やはり見るべきであったと後悔。

 

3.「瑛九」(1935-1937

 東京国立近代美術館  [写真]

瑛九は、まとまって見たことがないので、行くつもりではあったが、どうやら写真のみ(?)の展示と知って、急に行く気が失せた。写真にはあまり興味がないのです。

 

4.「草間彌生」(わが永遠の魂)

 国立新美術館  [洋画・現代美術]

●いろいろ思いは大きく、重くあったのだが、結局行かずじまい。否定的にであれ、何であれ、見に行くべきであった。痛恨。

 

5.「これぞ暁斎」(世界が認めたその画力)

 Bunkamuraザ・ミュージアム

●30年前に見たことがあり、世評はともかく、私にはあまり関係ないという判断。

 

6.「ブリューゲルバベルの塔」展」(16世紀ネーデルランドの至宝-ボスを超えて-

 東京都美術館 [洋画]

ブリューゲルも海外でずいぶん見た。今回の目玉の「バベルの塔」も昔現地で見たし。

 

7.「椿貞雄」(没後60年 師・劉生、そして家族とともに)

 千葉市美術館 [洋画]

 

 ↓ 展覧会チラシ

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●草土社あたりは気になるが、なんせ毎日暑いし、千葉は遠いし、今さら感もあるし。時期が悪かった。行かない理由はこのようにいくらでもひねり出すことができる。まあ、今回は縁がなかったのだ。次は行こう。

 

8.「怖い絵」展

 上野の森美術館

 ●中野京子の『怖い絵』その他は、案外面白く読んだ。何よりもほとんど知らない絵をわかりやすく解釈しているのが面白く、こういう見かた、紹介の仕方もあるのかと、感心した。しかし、行かずじまい。何となく。少し後悔している。ふだん美術館に行くことのない友人Tが二度も行ったというのに。最後の方は2時間待ちだったとか。

 

 ●他にもいくつかあったような気もするが、特に記録もしておかないぐたいだから、たいしたものではないだろう。

                                        (記:2018.1.19)

2017年に見た展覧会 ―その1

 昨年末、朝日新聞では恒例の「回顧2017 美術」で、北澤憲昭、高階秀爾山下裕二の「私の3点」をあげている。内容は以下の通り。

 

 北澤憲昭

  「パロディ 二重の声」(東京ステーションギャラリー

  「日本の家」(東京国立近代美術館

  「最古の石器とハンドアックス」(東京大学総合研究博物館

 高階秀爾

  「絵巻マニア列伝」(サントリー美術館

  「北斎ジャポニズム」(国立西洋美術館

  「皇室の彩」(東京芸術大学大学美術館)

 山下裕二

  「不染鉄」(東京ステーションギャラリー

  「海北友松」(京都国立博物館

  「運慶」(東京国立博物館

 

 以下にあげる、私が2017年に見た展覧会の中で、上記の9点と重なるのは、「不染鉄」のみ。もう一つ、これはその前年に北澤憲昭があげた「ラスコー展」が年度を越えて入っているが、それでも2/9。割合としては例年こんなものである。

 そもそも恒例行事である朝日新聞の「回顧 201X 美術」には、特に選定の基準や主旨といったものは記されていない。また3名の選者も近年は固定されているようだ。その結果、当然のことながら、選者の専門なり好みがそのまま反映されてはいるが、それを通してある種の客観的評価といったものがうかがわれるといったほどの、重みのようなものは感じられない。例えば入場者総数といったような客観的数字にさほど意味があるとも思えないが(それでは漫画・アニメ関係の展示が圧倒的上位を占めるのは目に見えている)、それでも一応の目安として併記するぐらいの度量というか、新聞文化欄としての客観性というか権威のようなものが示されてもよいと思うのだが、どうであろう。

 上記三者が現在の日本の美術(評論)界に占める位置、存在感、役割の大きさからすれば、三者の私的好みの提示とのみ思われかねない「私の3点」に終わっているのは、もったいないというか、無責任な気がするのであるが…。

 

 ともあれ以下に私が2017年に見た展覧会(等)の一覧をあげる。例によって、美術館だけではなく、寺社、遺跡、庭園等も含む場合もあるが、MUSEUMの範疇をなるべく広くとって考える。また、一般的な街の画廊等は含まない。

 

 凡例:上段「 」内は展覧会の正式名称。その右の( )内は展覧会のサブタイトル。下段は美術館名と見た日。[ ]はざっくりとしたジャンル。●以下は簡単なコメント-印象記。少しややこしいものについては、別稿として次のブログでアップする。

 

1.「ラスコー展」(クロマニョン人が残した洞窟壁画)

 国立科学博物館 1月13日  [歴史・原始]

 ●前年度の「私の3点」ということで、年が明けて見に行った。博物館の考古的・歴史的展示なども多少好きなので、海外ではわりとよく見る。北澤憲昭は「絵画の起源へとレプリカでいざなう美術館を出し抜く発想において」取り上げたとのこと。しかし例えば最近芸大がさかんに提唱している「クローン文化財」の発想にはいささか虚を突かれたというか、なるほどと思わせられるところもあるが、本展に関してはピンとこなかった。学校教育、社会教育の一つとしては有効かもしれないが。

 

2.「岩佐又兵衛 源氏絵」(〈古典〉への挑戦) 

 出光美術館 2月2日  [日本画

 ●辻惟雄の『奇想の系譜』以来気になっていた画家だったが、ピンとこなかった。通俗的という印象。

 

3.「ガラス絵」(幻惑の200年史)

 府中市立美術館 2月25日  [ガラス絵]

 

 ↓ 展覧会のチラシ

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 ●マイナーアートの魅力?数年前のはけの森美術館での「ガラス絵」(浜松市美術館の名品)展も面白かったが、これもなかなか面白かったです。

 

3-2 「常設展」(絵画の庭 小特集 府中の風景)

 府中市立美術館 2月25日  [洋画]

 ●上記展のついでに。特になし

 

4.「第41回 从展」

 東京都美術館 3月4日  [洋画等]

 ●いわゆる団体展は見に行かないのだが、たまたま今回のみ本展に関係した友人に頼まれ、招待券をもらったのでやむなくというか、まあたまには、といったぐらいの気持ちで見に行った。

 ところで、この団体展はアンデパンダン(無鑑査)なのだろうか?表現と表出の差異が弁別されていない作品が多い。

 

5.「シャセリオー」(19世紀フランス・ロマン主義の異才)

 国立西洋美術館 3月15日  [洋画]

 

 ↓ 展覧会のチラシ

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 ●考えてみればシャセリオーの単独展を欧米以外でやるというのは、相当すごいことなのではないだろうか。ということで、久しぶりにヨーロッパアカデミズムの勉強をしに行ってみた。来た作品の多くはひ弱なものだったが、ある程度以上の力量はあるのだろう。だが線は細い。新古典主義ロマン主義のはざまで若死にした(37歳)から、仕方がないのか。

 

5-2 「スケーエン デンマークの芸術家村」

 国立西洋美術館 3月15日  [洋画]

 

 ↓ 展覧会のチラシ

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 ●「シャセリオー」を思いがけず早く見終わったので、サブ企画(?)でやっていたのをついでに見た。まったく知らなかった作品群。きれいで誠実な作品群だが、ローカル。そこまでの話。抽象へと移行する時代の動きに反して、袋小路へと向かった誠実さである。

 

6.「ミュシャ展」

 国立新美術館 3月31日  [洋画]

 ●別稿

 

7.「伊勢神宮 内宮・外宮」

 伊勢神宮 4月8日  [寺社]

 ●高校同期の友人たちと観光旅行で行った。特にコメントはなし。本当は書くべきことが多いのだろうが、やはり美術の文脈だけでは語れない。

 

 ↓ 外宮の次に遷宮されるべき場所。現在は空き地。今建っている社殿は撮影禁止、だったような。美術の文脈だけでは語れない。

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8.「栃尾観音堂」(円空仏)

 奈良県天川村 4月11日  [仏教美術

 ●旅の一環、偶然、行った。ブログ「伊勢・大峰・大和への旅(観音峰山・三輪山) その2」に既述。45年前に東京で見ていたのだった。

 

9.「喜多美術館 常設展」

 奈良県桜井市 4月12日  [洋画・現代美術]

 ●友人のFが関係していることからアドバイスを頼まれて、旅の一環として訪問。個人コレクションとしての質は良いが、保存状態・展示方等、不可。これをきっかけとしてG大学のK氏、A氏の協力で修復、保存方法の見直し等、再生の方向に向かうことになった。

 

9-2.「金屋の石仏」 

 奈良県桜井市 4月12日  [仏教美術

 ●喜多美術館に隣接していたのでのぞいてみた。特になし。

 

10.「當麻寺」 (本堂・講堂・金堂) [仏教美術

 奈良県葛城市 4月13日

 ●同じ旅の一環。学生時代に一度見たはずだが、特に記憶なし。今回も特にコメントなし。

 

11.「アドルフ・ヴェルフリ」(二萬五千頁の王国)

 東京ステーションギャラリー 5月1日  [アウトサイダーアート]

 ●正統派かつ古典的アウトサイダーアート。由緒正しきお手本(?)である。こうした展覧会を見ることができて、私は幸福である。

 しかしそれにしても、なぜアウトサイダーアーティストたちはそれぞれの王国を、歴史を、建設しようとするのか。むろん、それがここではない外側に在るからである。

  展覧会のチラシは 旧論再録 「表現のはじまりとしてのアウトサイダーアート」  に載せているので、省略。

 

12.「小貫政之助」(生きた時代の証言) [洋画]

 たましん歴史・美術館 6月7日

 

 ↓ 展覧会のチラシ

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 ●未知の作家。まあ、見たという感じ。「生きた時代の証言」というサブタイトルからして、結局、ある種の通俗性のうちに終始したような気がする。その時代と共に消えゆくべき作家か。それはそれとして、自由美術にはこういったある種の「絵肌/テクスチャー」の系譜があるような気がしたが、さて?

 

13.「佐藤直樹個展」(秘境の東京、そこで生えている) 

 アーツ千代田3331  6月7日  [洋画]

 ●別稿

 

15.「浅野竹二の木版世界」(生きる、笑う、自由に!)

 府中市立美術館 6月21日  [版画]

 

 ↓ 展覧会のチラシ

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 ↓ 前半の創作版画から新版画へと移行した時代の作品

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 ●創作版画の作家、未知の作家だったがゆえに見にというか、確認しに行った。前後半生の作品の違いが、私的には面白かった。はじけ具合にセンスあり。残念なのは、借りだされた個人蔵のものならまだしも(?)、出品されていた館蔵品にすらいくつかのものにカビ(!)が生えていたことである。最近こうして例が増えているような気がするのは、私の目が意地悪になっているせいなのか、それとも学芸員の怠慢、あるいは予算不足なのか。それにしても・・・。

 

15-2.「常設展」(「ゆかいな作品たち」) 

 府中市立美術館 6月21日  [版画]

 ●浅野竹二を見た後だったので、ついでに視野も広がり、多少面白かった。

 

16.「不染鉄」(没後40年 幻の画家)

 東京ステーションギャラリー 8月25日  [日本画

 

 ↓ 展覧会のチラシ

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 ↓ 「思出之記」1927年f:id:sosaian:20180117214908j:plain

 

 ●迷ったが、未知の作家ゆえに見に行った。私の不勉強ゆえの未知かと思ったら、東京では初めての回顧展とか。あながち私のせいばかりではなかった。

 不思議な魅力がある。近代京都画壇、国画創作協会の時代あたりの、華岳、波光、あるいはさらに岡本神草、稲垣仲静あたりと通底する空気。そしてそれはその後の時代を通しても、決してメジャーにはなりえぬもの。未だよくわからぬ、消化しきれぬ作家である。

 

17.「藤島武二展」(生誕150年記念)

 練馬区立美術館 8月29日  [洋画]

 ●藤島のいくつかの作品は色々な機会を通じて見ているが、単独での展覧会を見るのは初めて。二三の魅力的な作品をのぞいては今一つといった印象。既述ブログ「国会議事堂の壁画の謎」につながるヒントでも見出せないかと思っていたが、それは見いだせなかった。

 

18.「山下清 とその仲間たちの作品展」(踏むな 育てよ 水そそげ 石川謙二 沼祐一 野田重博)

 川崎市民ミュージアム 9月13日  [アウトサイダーアート]

 ●別稿

 

19.「ハイチアート展」(川崎市民ミュージアム) 

 川崎市民ミュージアム 9月13日 [エスニックアート]

 ●別稿

 

20.「浅井忠の京都遺産」(京都工芸繊維大学美術工芸コレクション)  

 泉屋博古館 分館 10月11日 [洋画・工芸]

 

 ↓ 展覧会のチラシ

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 ●浅井忠は工部美術学校中退、明治美術会設立等ののち、いったんは東京美術学校教授となるが、2年後にフランスに留学。その2年後に帰国したが、そのまま新設の京都高等工芸学校教授になる。以後油絵=西洋画ではなく図案・デザインの教育にあたる。油絵=西洋画については聖護印洋画研究所(のち関西美術院)という私塾(?)でおこなった。そのあたりの経緯がよくわからない。あるいは左遷のニュアンスがあるのか。

 ともあれ、浅井の京都以降のアールヌーヴォー風の仕事に興味があったのだが、その手のものはほとんど出品されておらず、ウ~ン・・・、残念。黙語は黙したままだった。*(黙語は浅井の号)

 

21.「林敬二展」(品川区民芸術祭2017)

 O美術館 10月25日  [洋画]

 

 ↓ 展覧会のチラシ

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 ●新しく館長になったTさんから招待状が来たので、表敬訪問に行った。私は公募団体展には行かないことにしているので、美術雑誌等でたまに見るぐらいしか知らない作家だったが、まとまって見ると案外悪くない。ある種の誠実さを感じる。なお、団体展を見に行かないということは、当然その日本的特殊性を否定しているわけで、そうしたことについても考えざるをえないのだが、それはまた別の話。

 

22.「奈良 西大寺展」(叡尊と一門の名宝) 

 山口県立美術館 11月7日 [仏教美術

 ●同時期開催の「雪舟発見!展」を見に行ったのだが、美術館的にはこちらがメイン企画。しかし今の私には縁がなかったというか・・・。東大寺関係ではけっこう好きなものが多いのだが。

 

23.「雪舟発見!展」(発見!幻の雪舟

 山口県立美術館 11月7日  [日本画

 

 ↓ 展覧会のチラシ

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 ●これも実はその後の毛利博物館での雪舟筆「四季山水図(山水長巻)」特別公開と、セットの企画だった。なるほど、そうですか、という感じ。

新(再)発見を含めた6点の倣古図が出ていた。倣古図というと、まあ模写である。岡山県立美術館所蔵のものだけ伝雪舟とあるが、やはりその一点だけ格が下がる。模写のそのまた模写といったところであろう。

 

24.「特別展 国宝」(雪舟筆「四季山水図(山水長巻)」特別公開) [日本画

 毛利邸+毛利博物館 11月7日  [日本画

 

 ↓ 展覧会のチラシ

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 ●私のふるさと山口県防府市にある毛利博物館。国宝の雪舟筆「四季山水図(山水長巻)」を有している。そこに、文化・美術に関して一応の見識を持っている旧友が、昨年から理事となって勤務し始めた。彼とのやり取りの中で、アドバイザー的発言(?)を求められ、他の用件と合わせて見に行った。

 ずいぶん前に一度は見たことがあるはずだが、ほとんど記憶がない(あるいは公開していない期間だったのかもしれない)。雪舟自体についても、知っているつもりで、実はこれまでほとんどちゃんと向かい合ったことはなかったのである。今回、必ずしもそれを見たいという気が熟してのタイミングではなかったので、受容の仕方が難しい面もあったが、やはり良いものは良い。正直に白状すれば、前記の「倣古図」と合わせて、『雪舟はどう語られてきたか』(2002年 山下裕二 平凡社ライブラリー)を出発前に読み始めるという泥縄的事前学習をしつつ赴いたのである。同書の「わかりやすいもの 雪舟筆『山水長巻』」(橋本治)によって蒙を開かれたというか、鑑賞を助けられた感はある。

 それにしても今回は全16mのそれが全巻広げられているのを、ガラス越しではあるが、間近で、ゆっくりと見ることができた。全巻広げられるのは年に一度、40日程度だとの事。同行のK以外は、客が一組二人ほど来て去って行っただけ。Kもしばらく見てほかへ移り、長時間一人だけで見た。思えば相当に贅沢な時間であった。昨年10月の京都国立博物館での「国宝展」には他の多数の国宝と共に、本作の一部が出品されたが、長蛇の列だったとの由。そうしたことからもこの博物館での、同作の扱い方、取り扱い方において、今日的な目からはいくつも問題、改善すべき点を指摘することができる。文化財を経済的資源としか見ない、最近の政府発言は論外としても、その時代なりの見せ方、活用の仕方において、それぞれに工夫する必要はあるだろう。

 

25.「山頭火の句 名筆特選」(~百年目のふるさと~)

 山頭火ふるさと館 11月9日  [文学]

 

 ↓ 展覧会のチラシ

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 ●わがふるさとの生んだ自由律俳人種田山頭火の人気は近年ますます高く、その文学的評価も定着したと見るべきであるが、地元での受容度は極めて低かったと言わざるをえない。そこには、一つには、彼の一種無頼派とでもいう生き方に対する嫌悪、反発が根強くあるのだろう。それは、作品への評価とは別の、近親憎悪的感情とも思われる。それはいたしかたがないこととも言えるが、いま一つ、わがふるさとが、芸術・文化に対してきわめて冷淡な風土であることに由来するというのが、私自身の実感でもある。

 そうした風土でありながら、ここにきてようやく彼の記念館ができた。その最初の展示である。内容や設備構成を見て、ウ~ン・・・大丈夫だろうか、というのが正直なところだ。しかし、できたばかりなのだから、あまり文句を言うのは控えよう。ただ一つ、こうしたMUSEUM=展示施設の主役は収蔵品であり、使命の一つが収集及び研究であるとだけは強調しておきたい。器だけ作って収集購入予算を削減された施設の悲惨さ、さびしさは、全国どこにでも遍在しているのを知っているからである。

 

26.「ディエゴ・リベラの時代」(メキシコの夢とともに)

 埼玉県立近代美術館 11月15日  [洋画]

 

 ↓ 展覧会のチラシ

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 ●ディエゴ・リベラフリーダ・カーロについては、数年前にメキシコである程度見てきた。今回は比較的珍しいラテンアメリカ近代美術(全般)ということで見に行った。代表作、名作といったものはほとんどなかったが、ふだんあまりふれる機会が少ない分野であり、また幅広い目配りのきいた構成によって、その全体感はそれなりに勉強できた感じはある。

 

  1. 「銅版画家 清原啓子」(没後30年) 

 八王子市夢美術館 12月7日  [版画]

 

 ↓ 展覧会のチラシ

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 ●若くして逝った未知の作家。私と同年生まれということで、同級生みたいというか、まったく同じような空気を吸って生きていたことが感じられた。幻想的細密画と言ってしまえばおしまいだが、肯定的にせよ、否定的にせよ、それなりの魅力はある。

 

28.「オットー・ネーベル展」(シャガール カンディンスキー クレーの時代)

 Bunkamuraザ・ミュージアム 12月14日  [洋画]

 

 ↓ 展覧会のチラシ

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 ●チラシを見て、一見どう見てもクレーに似ているが、全く未知の作家であり、気になって見に行った。一流の作家であれば私が知らないはずがない、という自惚れを持っているからである。結果、ウ~ン・・・という印象。つまり、やはりせいぜい1.5流以下の作家だということである。それはそれで仕方がないことであるが。

 なお、展示構成等は親切で、また同時出品されていたクレーや他の作家の作品に良いものがあり、楽しめた展覧会ではあった。

 

  1. 「野生展」(飼いならされない感覚と思考)

 21-21 DESIGN SIGHT 12月18日  [現代美術・民俗]

 

 ↓ 展覧会のチラシ

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 ●中沢新一がディレクターだということで、少し期待して見に行った。民俗学的モチーフの巨大な丸石神(本物?なんだろうね?)をいきなりもってくるなど、けれん味たっぷり。しかし冷静に見てみれば、六本木ミッドタウンの21-21 DESIGN SIGHTというあたりからしても、この展覧会自体が飼いならされているようにしか見えない。高度資本主義社会の最先端の安全地帯での、無国籍で都会風でコンテンポラリーなアート(?)。南方熊楠(のレプリカ)はともかく、個々には良い作家、良い作品があったにもかかわらず、結局のところ肝心の「野生」なるものが見えてこない。何を言いたいのかわからない。やはり、しょせん中沢新一という人は、センシティブでかっこいい切り口は示せても、その先の体系というか、思想や情念の塊を紡げない人なのだろうか。

 若くスタイリッシュな外人の観客がけっこう来ていたから、外貨獲得には貢献したというか、評判は良かったんだろうな。

 

 なおこれは記事そのものとは関係ない話だが、私はこれまでに美術館等(いわゆる市中の画廊は除く)で見たすべての展覧会を一覧表で記録しているが、本展はそのちょうど1200番目である。実質18歳からの45年間の数字で、まあそれはそれで、ちょっと感慨深い。

 

 以下、●別稿と記したものについては、次回に取り上げる。

(記:2018.1.17)

 

今年の山納め:大高取山から鼻曲山をへて越上山 (2017.12.27)

 不調である。何とはなしに。不定愁訴とでも言おうか。よくあることだ。だからこそ山に行かねばならない。

 今年16回目の山行が、本年の山納めである。年度目標の月2回×12=24回には遠く及ばなかったが、夏場の天候や体調等の問題もあり、まあ、こんなもんだろうと思う。

 前二回の山行がともに一部スリリングというか(その分面白かったのではあるが)、ちょっと恐いところがあり、今回は絶対安全安心というか、そうした要素のない楽なところに行きたいと思った。予感による危険回避というほどのことでもないが、年末でもあるし、基本的には陽だまりハイキングのイメージである。

 とは言っても、そうしたイメージにかなう手持ちのカードもそうはない。とりあえず前回に続き奥武蔵の、大高取山376.4mを起点として南下するコースを選んだ。後半、越上山に行くか、山上集落として有名なユガテの方に行くか、現場で決めることにする。大高取山は昔から初心者向けハイキングコースとして有名なところ。おそらく一生行くことはないと思っていたところだが、まあいいか。

 

 ふだんよりもう少しゆっくりと7:48、五日市発。越生駅9:20着。「ハイキングのまち 越生」の看板がある。昨年4月28日に全国で初めて「ハイキングのまち宣言」をしたんだそうだ。ふ~ん・・・。

 

 ↓ 越生駅前からの西山高取(?) 右の中腹の白い建物が「世界無名戦士之墓」

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 ↓ 越生の石仏 右の庚申塔石灰岩 中の「いなり大こんけん(稲荷大権現)入口」は秩父青石 左の馬頭観音の材は? いい感じです。

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 大高取山はどこからでも取り付けそうだが、とりあえず「世界無名戦士之墓」なるところを目指す。車道をゆっくり登った先の階段の上の、横広がりの白い建物がどうやらそれらしい。ちらっとのぞいてみると仏教式の慰霊施設(?)のようだ。帰宅後一応調べてみた。例によってウィキペディアによると「~1955(昭和30年)に完成。264人の戦死した無名戦士の墓として遺骨が納められ、さらに世界60余ヶ国の251万の戦死者を安置している」との由。意味がわからない。当然「出典がまったく示されていないか不十分です」のレッドカード付き。私はこの手のものに対しては、まずは胡散臭さを感じる方なので、あまり深入りはせず、早々と脇のハイキングコースに入る。

 

 ↓ 「世界無名戦士之墓」 アルメニアグルジアにも同様の趣旨、同様のデザインのものがあった。

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 ↓ 登り始め こんな感じ

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 「ハイキングのまち宣言」のせいか、ルート全般に標識は多い。特に大高取山一帯は「月例ハイキング大会」のイベント用パウチ標識がやたらと多く、目ざわりだが、イベントだから仕方がないか。

 

 ↓ 数十枚も目についたパウチ標識 なんと二ヶ月以上放置されたまま

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 そう思い、当然のごとく、近々予定されているイベントの準備かと思った。帰宅後、何げなく越生町のHPで「月例ハイキング大会 平成29年度月例ハイキング」を見てみたら、来年1月は「武蔵越生七福神めぐりコース」とあり、違う。終わった12月は9日で「野末張見晴台コース」、11月が「健康長寿(樹)コース」で、いずれも違う場所だ。さかのぼって見ていくと、10月14日に「山々をめぐる健脚コース」として「越生駅前ポケットパーク→世界無名戦士の墓→大高取山→黒山三滝→傘杉峠→顔振峠→桂木観音→越生駅」とあった。これだ。なんと二カ月以上も前のイベントのパウチ標識が何十枚もそのまま放置されているのだ! 呆れた。

 「ゴミを持ち帰ろう」の看板も山中にいくつもある。用の済んだイベント用パウチ標識は、タチの悪いゴミ以外の何物でもない。それを「ハイキングのまち宣言」の町が率先して、撒き散らしているのだ。何をかや言わん、である。イベントが終われば速やかに回収すればよいだけの話である。

 参加した人、地元の人の見識も疑う。何も感じないのだろうか。このブログを見て、気がついた行政当局(越生町役場産業観光課)なり、地元の心ある人が速やかに回収におもむいて欲しいと思う。

 

 気分は悪いが、話を戻す。

 路は歩きやすいが、予想通り、ただただ植林帯の中。この日歩いたコースの8~9割が植林帯。江戸以来の西川材の地であり、さらに江戸の大火や関東大震災、戦後の復興等への貢献からすれば仕方がないか。植林帯は今もなお生きているようで、見通しのきかない起伏の中に、多くの仕事路、作業道が錯綜している。多すぎるハイキング用標識もむべなるかな(と先ほどまでは思っていた)。

 途中には「白岩様」と表示のある石灰岩の露頭があった。この日のコース全体、特に後半にはあちこちで規模の大きな石灰岩の露頭、大岩が散見されたが、それらのほとんどは針葉樹の植林に隠されている。自然林の中であれば、もっと見栄えがするだろうに、残念なことである。馬子にも衣装というが、その逆だ。

 

 ↓ あちこちにあった石灰岩の露頭 中央に小さな「白岩様」の表示 

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 大高取山周辺では何人かの登山者、トレランの人に出会った。さすが、ポピュラーコース。大高取山頂上では北東側が伐採されて展望が効く。都心方面から筑波山まで見えた。

 

 ↓ 大高取山山頂

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 ↓ 筑波山遠望 右には都心が望める この写真はさきほどの「世界無名戦士之墓」から撮ったもの

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 桂木山はどこか気づかぬまま通過し、少し下れば桂木観音に至る。由来は養老三年(719年)の行基に遡るとの由。彼が彫ったと言われる本尊の千手観音でも見れるなら別だが、信仰心のない私はスルー。

 

 ↓ 桂木観音

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 ↓ 桂木観音を下の車道から見る 山里の風情

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 参道の下には舗装された立派な車道が上がってきており、見れば近所には普通の民家が点在している。標高で言えば240mにすぎないにしても、ここもまた山上集落であったかと、合点する。この日は結局その後さらに3回舗装された林道を通過することになった。

 その先のルートがややわかりにくいが、おおよその見当をつけて進む。民家の横から柚子畑の脇を行き、桂木峠とおぼしき峠から再び山道となる。

 天気は良いが、風は冷たい。途中でコンビニ弁当の昼食を食べている時、山口のKらからライン。雪の県境の莇ヶ岳から弟見山に登っているとのこと。向こうは4人パーティーで昼食は暖かいウドンだと聞けば、少しうらやましい。

 

 再び舗装された林道を横切れば、そこからは今日初めてと言っていい落葉広葉樹林が現れる。やはり植林帯よりは遥かに気分が良い。368.3mの四等三角点ピークの名は天望ということだが、由来はわからない。

 

 ↓ 舗装された林道正面の赤い標識の右から山道に入る

 

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 ↓ 登り始めて以来、久しぶりの広葉樹林 下生えは常緑の喬木

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 ↓ 送電線鉄塔付近から見た関八州見晴らし台方面

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 広葉樹林帯と植林帯を交互に進む。二カ所ほどのやや急登の先でひょっ

こりと鼻曲山(447.3m)の山頂に飛び出した(13:05)。やっと山頂らしい山頂で、少し気分が良い。

 

 ↓ このちょっとした急登のすぐ先が鼻曲山山頂

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 ↓ 鼻曲山山頂

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 その後もちょっとした岩場、植林帯、落葉あるいは常緑広葉樹林帯と進めば、一本杉峠。あたりの植林に紛れてはいるが、標識の後ろのそれが「一本杉」の名の由来なのだろうか。

 

 ↓ ちょっとした岩場(逆方向より)

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 ↓ コースの8~9割はこうした植林帯 下生えは馬酔木

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 ↓ 標識の後ろが名の元になった一本杉だろうか

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 さて、ここからどちらに進もう。西へ越上山か、南へユガテか。時間的には同じようなものだ。少し迷ったが、やはり越上山という「山頂」を目指す。

 一度舗装林道を横切り、尾根筋直下の山腹を水平にトラバースする路を辿る。尾根筋、山腹には植林帯の中、ところどころに石灰岩の大岩。車の通れそうな幅広い道に出た先に越上山への標識がある。そこを右に10分ほどで越上山566.5mの山頂に着いた(14:45)。展望はないが、感じは案外悪くない。大高取山、鼻曲山、越上山とだんだん山らしくなってきた感じだ。

 

 ↓ 越上山頂上手前の岩 右下は切り立っているが、植林のせいで迫力なし 見栄え悪し

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 ↓ 越上山山頂

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 下山は諏訪神社に出たあと、いったん阿寺集落の舗装された林道に出る。遠くにわが家から毎日見る大岳山と、その右に富士山が顔をのぞかせている。これから下る予定の尾根も確認した。

 

 ↓ 下山途中の林道から見る筑波山遠望

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 ↓ 左 大岳山と富士山 (富士山好きのFさんのために特に掲載) 

  富士山はラーヘンしている(煙草を吸っている=雪煙をあげている:ドイツ語)

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 ↓ 右の尾根が下山コース(のはずだった)f:id:sosaian:20171228195631j:plain

 

 林道を右に少し進み、標識に従って左折、予定の虎秀山への尾根に向かう。幅広い路はしっかりしており、標識もある。ここまで来ればもう楽勝だ。そのはずであった。しかし、好事魔多し。

 ほどなく現れた分岐には、正面に「東吾野駅(井上方面)」、左に「東吾野駅(虎秀)」の二つの標識。「虎秀山」方面に進むつもりであった私は、一応地図で(手書きの)「虎秀山」の位置を確認した上で左を選んだのである。しかしその手書きの「虎秀山」の右の谷間に「虎秀」という集落名が印刷されていたのに、気がつかなかったのだ。

 歩きだせばほどなく沢沿いに進むようになる。先ほど見た地図にあった分岐も沢沿いに下るようになっている。実は私が左に入った分岐と、予定していた地図上の分岐はだいぶ位置が違っていたのだが、思い込んでいたのでそのことに気づかなかったのである。

 ところどころにある石灰岩の露頭や、鍾乳洞の赤ちゃんのような小さな穴を観察したりしているうちに、右下の河原に大きな岩場を発見。どう見てもゲレンデのように見える。私は全く知らなかったのだが、阿寺の岩場として結構有名だということを、帰宅後に知った。

 

 ↓ 阿寺の岩場 左下に祠が納められていそうな小さな洞窟が見える

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 ちなみに阿寺は諏訪神社の下にある集落の名だが、「アテラ」とは東日本を中心にある地名で、「左」の字を当てられることも多い。越後や会津ではアテラの付いた山や沢も多かった。語源としては、「あちら側」という音韻からきたという説もあるが、「左」の字を当てられる場合は、その意はそのまま「左側」ということであり、それは同時に「日当たりが悪い」ということでもあるらしい。やはり古来日本では右が正=陽、左が邪=陰ということか。ともあれ、古い地名であることは間違いない。

 

 まあ、間違えはしたのだが、予定の尾根筋を歩くよりは、虎秀川沿いの車道歩きの方が結果的には早く楽だった。とはいえ、車道を歩いていて、間違いに気づいたのはだいぶたってから。単純かつお粗末な話である。東京付近の、特に奥武蔵あたりの林業がまだ多少なりとも生きている地域、高地集落がある地域では、今なお地図に出ていない仕事道や作業道、生活道が多い。案外間違えやすいゆえんである。

 しかし、今回のルートミスもまた、要は思い込みが原因である。間違えてばかりだ。ともかく反省。それにしても下りに関しては、奥武蔵とは何か相性が悪い・・・。

 

 暗くなる寸前、足が棒になる寸前に東吾野駅に着いた。電車を待つ間に夕闇が迫り、プラットホームはなんだかちょっと童話のような光につつまれていった。

 

 ↓ 東吾野駅ホーム ちょっとメルヘン

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 ↓ 5万図「川越」

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  【コースタイム】2017年12月27日快晴 単独 最大標高差約500m

越生駅9:25~世界無名戦士之墓9:47~大高取山10:55~桂木観音11:20~展望(P368.3m)12:32~鼻曲山13:05/13:20~一本杉峠14:00~越上山14:45~諏訪神社15:13~東吾野駅16:45