艸砦庵だより

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もう一つの表現の不自由「アートビューイング西多摩2021」青梅市立美術館  (記・FB投稿:2022.1.3)

 正月早々、あまり愉快ならざる投稿。

 昨年11月20日からこの1月16日まで青梅市立美術館で開催中の「アートビューイング西多摩2021 開花するアート」展において、以下のような「もう一つの表現の不自由」な展示が発生し、進行し、解決(?)し、現存している。

 

 

 ↓ 「アートビューイング西多摩2021 開花するアート」展フライヤー 表面

 

 

 ↓ 西多摩の地域紙「西の風」。この問題を初めて取り上げたメディア。

 

 

 複数の作家の作品が展示公開され、ほどなくブルーシートをかけられて非公開、あるいは撤去や差し替えとなり、現在はようやく当初の展示のままの公開となったようだ。推移については、投稿した記事を見てもらうとして、要はその経緯の決定における責任や当事者性の不在・不透明性ということである。当事者である公立美術館=行政と、主体であるはずの実行委員会、参加を要請された作家自身、その三者の役割や責任性が構造化・共有されないまま推移するという、まさに現代日本の美術界の一端が露呈する事態となった。

 

 

 ↓ 展示開始後二三日して、鹿野裕介さんの作品はこのような形でブルーシートで覆い隠された。

 

 

 ↓ 同じく作家自身のFB画面を転載。

 

 

 この「アートビューイング西多摩~」には私も過去何回か参加させてもらって、おおよその空気は知っているつもりだ。今回の出品作の多くは現代美術であり、私自身のあまり好むところではなく、まだ見に行っていないが、それは個人的な話。

 ここで、「あいちトリエンナーレ」でも起きた、一見正論に聞こえる「作品の質」を問うといった言説は、的外れである以上に、問題の本質を見失わせ、結局、世間世俗多数派の同調圧力に芸術が屈することになるだけだ。

 

 ↓ 朝日新聞12月24日(以降?)の報道。

 

 

 

 話は変わる。縁あって、アーティゾン美術館の森村泰昌の「M式『海の幸』 ワタシガタリの神話」を見に行った。非常に良い展覧会だった。恥ずかしながら森村泰昌について、私は今日まで食わず嫌いで、不当に低く評価していたと認めざるをえない。

 

 ↓ 「M式『海の幸』 ワタシガタリの神話」フライヤー

 

 

 その展示は青木繁の「海の幸」を起点として、日本の近代―現代を批評的・批判的に通観するという、まさに「現代美術」の担うべき一つの役割を全うするものであった。

その「批評・批判」は鋭く、相当な毒を含んでいる。だが、その毒は巧妙な芸術的手わざによって、見える人にしか見えないように仕組まれており、凡庸な世間の人々は気づかぬまま「よくわからない」けど「おもしろかった」といった結論を持ち帰ることになる。

 

 

 ↓ 「M式『海の幸』 ワタシガタリの神話」フライヤー

 

 本当だったら「あいトリ」以上の物議をかもしてもおかしくない内容なのだが、それが展覧会そのもののクオリティ、すなわち作家自身の戦略、思考と作品そのものの質と、それらをふまえた美術館の理解・覚悟・支援の度合いの違いだと言えよう。朝日新聞2021年12月21日の「私の3点」で山下裕二が「現代作家、美術史家として真摯に青木繁に向かい合った周到なコラボ。」として選んだのも、当然とはいえ、慧眼である。

 

 表現者にとって「アートビューイング西多摩2021」展は、またしても重く、鬱陶しい話題であり、踏み絵である。投降するタイミングも難しく、ついスルーしたくなる。だが、そうすることは、私自身の思想信条に反する。何とか会期中に間に合うように、思いペンを持ち上げて投稿することにした。

 

 

 ↓ 「アートビューイング西多摩2021 開花するアート」展フライヤー 裏面

 

(記・FB投稿:2022.1.3)