艸砦庵だより

河村正之のページ 絵画・美術、本、山、旅、etc・・・

石仏探訪-33 「ひので野鳥の森自然公園から妙見宮七星殿(不思議の宮)へ」

 4日前の1月31日、女房に誘われて、隣町の「ひので野鳥の森自然公園」に行った。

 

 ↓ 1) 「ひので野鳥の森自然公園」、新しい立派な管理棟からスタートし、谷ノ入古道を辿り、この小広場から右上に稜線を目指す。

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 ↓ 2) 谷ノ入古道のかたわらにあった2体の馬頭観音天保10/1841年の文字塔と年代不明の像塔。この後のものを含めていずれも資料には未掲載。

 青梅と行き来していた200年近く前からずっとこの場所に佇んでいるのだろう。石仏はやはり本来あった場所で見るのが、一番良い。

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 山と里のはざまの丘陵地帯。この一帯はあちこち歩いているが、古い山道が手入れをされず荒れていたり、逆によく整備されていたり、あるいは行政系の自然公園やら遊歩道とやらで妙にきれいすぎる道ができていたりと、当たり外れが大きい。

 

 

 ↓ 3) 稜線の一画にはこうした展望が開けた場所が何か所かある。見えているのは日の出町と遠く立川方面か。

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 ↓ 4) 手前の足下田入(沢、集落名)と、遠く武州御岳から大岳山方面。

 予想に反して植林の針葉樹が少ない。新緑の頃はきれいだろう。

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 今回の自然公園の外側のラインは昔ざっと歩いたことがあるが、「野鳥の森自然公園」の存在は知らなかった。

 

 

↓ 5) 稜線の反対側は火薬工場やら東海大菅生高校やら機動隊関係やらがあり、古い尾根道の側らには侵入防止の鉄条網が張り巡らされている。新しい散策路はそこから数m離れて並行しているが、尾根道にはこんな「日の出アルプス」と貼られた杭が残っている。

 「鎌倉アルプス」、「瀬戸内アルプス(山口県周防大島)」、「長瀞アルプス(埼玉県長瀞町)」、「沼津アルプス(静岡県沼津市)」等、「アルプス」を冠した山なみは全国あちこちにあるが、「○○銀座」と同根の発想だろう。別に悪くはないが、「日の出アルプス」はちょっと無理があるかな~。

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 ↓ 5-2) 今回の最高峰で唯一名前のある山頂、猿取山285m。国土地理院の地形図には山名は出ていないが、現地には小さな山名表示板があった。

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 歩いて見れば、良く整備された良いところだった。いくつかのルートが取れる、標高差125mの快適な里山裏山歩き。山中で思いがけず二ヶ所の馬頭観音を見つけたのも、うれしい。昔日の山と里の交流、人と馬の生活がしのばれる。

 

 

 ↓ 6) 下りの宮本古道(尾根道)の傍らに佇む馬頭観音。安永3/1774年。250年近くもここにずっとおられたにしては、状態は良く、愛すべき像。

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 帰路駐車場まで戻る途中で、ふと立ち寄った東光院。何度か訪れたことのある寺だが、その裏の妙見宮七星殿に初めて足を伸ばしてみた。そこは静かで奇妙な不思議の宮。

 

 

 ↓ 7) 東光院参道(石段)入口にある仁王。近年のもので特にどうと言うことはないのだが、「開運妙見大菩薩」の幟が、後から考えればアヤしい兆しであった。

 この参道周辺にはいくつかの渋い石仏がある。

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 ↓ 8) 参道(石段)の中ほどに、なぜか二宮金次郎が設置(固定)されている。どこから持ち込まれた(?)ものかわからないが、石段のど真ん中に置くかなあ。単純に面白いとは思ったが、これもまたアヤしい兆しの一つだったかも。(*この写真は写りが悪かったため、一昨年9月のものを使用)

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 ↓ 9) 本堂前の猫の像。お賽銭と白い巻貝が奉納(?)されている。この猫は信仰の対象なのか。どういう意味があるのか。置いたのは誰か。深い意味は無さそうだが、本堂のど真ん前だからね~。

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 ↓ 10) 「建設記念(碑)」は仕方ないとして、2体のお地蔵さんもまあ良いとして、左のキティちゃんはどういう意味なのか。寄進されたものなのか。寺が自前で購入したものなのか。

 以前に、お寺は寄進されたものはすべて無条件に受け入れるというのを聞いたことがある。ミャンマーその他の東南アジアの寺でもそうだったから、それは仏教に共通する御布施=供養ということなのだろう。それはよいとして、では本当に何でも、たとえばこのキティちゃんのようなものでも受け入れるのか。

 他の寺でも特に「可愛いお地蔵さん」系の石像をよく見かける。私個人は見苦しいと感じ「困った系石仏」として分類しているが、どういう思想がそこに在るのだろうか。(*この写真も写りが悪かったため、一昨年9月のものを使用)

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 ↓ 11) 本堂の裏手から妙見宮への参道にかかるが、その入口にあった宝船に乗る七福神。この寺と七福神の関係は不明だが、ノーコメント。

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 ↓ 12) 妙見宮への参道の入り口には沢が横切っており、橋がかかっているが、そのたもとにあった河童の頭部。沢=水(=結界)→河童ではあろうが…。まあ、無視。

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 ↓ 13) 橋のすぐ先に(第一の)池。手前の手水鉢に龍(龍神・八大龍王?)が水を吐く。それはふつうだ。その向こうにはどう見てもアフロディティ(ビーナス)風のヌード像。

 水と言えば日本では弁財天だが、アフロディティで代用したのだろうか。アフロディティはクロノスによって切り落とされたウラヌスの男性器にまとわりついた泡(アプロス)から生まれたというから、まんざら水≒泡と無縁でもないが、これを設置した人にはそうした意図はあったのだろうか。

 像そのものは出来合いのもののように思われるが、設置するための台座を池の中にしつらえてあるのだから、なにがしかの意図はあるのだろう。とりあえず、東西の神の共存。

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 ↓ 14) 赤い鳥居のある長い石段を登っていく途中に、川柳作者の高木角恋坊(1937年没)という人の像や関連した句碑がいくつもあった。私には全く未知の人。句は達筆すぎてほとんど読めない。「おもしろや 草葉のかげに かくれん坊」

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 ↓ 15) 裏山の中腹にある妙見宮七星殿の社殿。詳しいことはわからないが昭和62年に韓国の資材と職人によって建てられたとの事。建物の前面が狭く、横からしか全容が写せない。

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 ↓ 16) 社殿内部。中央の金色に耀くのが一面六手の妙見菩薩。まわりに如来やら菩薩やら神仙やらが十数名並んでおられる。

 妙見信仰とは北辰信仰、つまり北斗七星ないし北極星を神や仏に見立てる信仰で、つまり道教由来のもの。葛飾北斎が熱心な信者だったのは有名。

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 ↓ 17) 外壁にはこうした中国の神仙たちが描かれている。韓国の職人の手になるものとはいえ、表現内容の実質は中国世界である。これはこれで好きかも。

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 ↓ 18) 御堂の裏には湧き水による池があり、そこに置かれた本場インド風(?)の弁財天。水=弁財天で間違いはないのだけれど、静かに端座する日本風の弁天様に見慣れた目からすると、動勢激しく、ジミヘン風に後ろ手で琵琶をかき鳴らしつつ、乳房をふるわせ舞い踊る土俗インド風弁財天というのも、なかなかインパクトのあるものだ。彼此の神のイメージの違いに圧倒される。少々俗っぽくはあるが、かなり面白い像で、私は好きである。

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  仁王、二宮金次郎から始まり、キティちゃん、河童、竜神アフロディティ風裸像、(インド風)弁天様をへて、韓国風御堂の御本尊の妙見菩薩まで、何の違和感もなく(?)様々な神仏が同居する不思議な世界。

 その不思議さは必ずしも不快なものではないし、場としてのある種の真面目さのようなものも感じるのだが、意図というか、それらを受け入れ(導入し)、共存させる思想の一貫性と行ったものがわからない。またしても、宗教とは信仰とは何かと考えさせられつつ、不思議の宮を楽しんでしまったのである。

 

 ↓ 19) 北辰信仰に関連してのオマケ。

 前から何度も見てはいたのだが、その名前と意味を知ったのはつい最近。近くの金毘羅山登山道のそばに小さな神社(五社神社とのこと)の御堂があり、そこに安置されているもの。神社+不動尊=?ではあるが、そう驚きもしない。この像を「不動尊北極大元尊皇」と言うとのこと。もはや地元でもほとんど忘れ去られているらしい。

 北斗七星ないし北極星道教経由で仏と習合したものが「妙見菩薩」だが、「不動明王」と習合したものは、私は今のところ聞いたことがない。もう少し調べてみたい。

 ともあれ、これを造立したある修験者個人が感得したイマジネーション/幻想に過ぎないのか。だとすれば、やはり信仰とは何か、イマジネーションとは何か、幻想とどう違うのか、といった根源的な疑問がひたひたと湧いてくるのである。

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(記・FB投稿:2022.2.3)

石仏探訪‐32 「荷渡地蔵尊‐神仏その他習合のタイムカプセル(山形便り-補遺2)」

 山形の石仏探訪から三カ月たったが、未提出の宿題がいくつかある。「見た」というだけで済ましても構わないのだが、それでは研究・考察好きの私としては面白くない。「これだけは河村に見せたい」と連れて行かれた東根市の「荷渡地蔵尊」もその一つ。

 そこは、かつて存在した、最上川の「藻が湖」と呼ばれた大きな沼地に沿った山際の、集落同士の中間地点=交通の要衝、つまり境(=関)であったところ。

 「荷渡地蔵尊」と刻まれた寺社号塔と鳥居。すでにこの段階で当たり前のように神仏習合である。解説板ではごく一部しかわからない。奥には三つの小堂が並ぶ。

 

 ↓ 入口。「地蔵尊」+「鳥居」=神仏習合

 後ろは山、反対側は道路を隔てて昔「藻が湖」、今は圃場整備済みの水田が広がる。

 正面が荷渡地蔵尊。写っていないが、左に二つ御堂がある。右の建物は詰所。

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 ↓ 解説板

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 正面の小堂の外壁には、奉納され結ばれた無数の穴開き石。中に入れば、布地が着せられて像容がよくわからないが、あちこちが欠けた丸彫り地蔵菩薩と見えなくもない像が祀られている。これが「荷渡地蔵」だろう。奥には「幸神社」の札が添えられた小祠。猿田彦を祀るという。それらの置かれたこの御堂が荷渡地蔵尊のメイン。つまりここには猿田彦地蔵菩薩の、本来異なる系統の二つの神仏が併存しているのだ。

 

 

 ↓ 荷渡地蔵尊。注連縄もあるし、見た目は神社。

 外壁には奉塞物の無数の穴開き石。下にもたくさん落ちている。穴開き石を奉納するのは女性だろう。

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 ↓ 赤いべべ着た荷渡地蔵。

 首の欠けた地蔵に見えなくもないが、旅人の身としては、おべべを外して確認するわけにもいかない。毎月24日が「お地蔵の日」とされているそうなので地元の人が集まるのかもしれない。その時に確認させてもらえればよいのだが。

 奥の「幸神社」の祠の中は何が入っているのか。

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 「幸神社」は「さちがみしゃ」と読むのだろうか。「幸」の本来の音は「さい・さえ」で、「塞(さい・さえ)の神」に幸の字を当てたもの。「道祖‐土(さい‐ど)」となる場合もある。私の住む隣町にも幸神神社があり、幸神(さちがみ)という地名がある。現状がどうであれ、神仏分離令以前の本来の祭神・御神体は、塞の神であるところの自然石その他(何もない場合もある)である。

 

 左の葺屋には「山神」と刻まれた大きな自然石。文久元年/1861年。明治に近く、荷渡地蔵より新しい。「塞の神道祖神」という、民間の素朴な習合変容と、その次の幕末の国学者神道家主導による「道祖神猿田彦→山神」という「神の書き換え・重ね合わせ」の流れからすれば、猿田彦はこちらかと思うが、詳しい名称推移の経緯はわからない。少なくともここには二つの「塞の神‐幸神社‐道祖神猿田彦=山神」があるということだ。

 手前には木彫り石彫りの大小の男根がいくつか奉納されている。最初の御堂の外壁には、束ねられた無数の穴開き石。むろんそれらは、山の神‐男根=金精に対応する、穴開き石=姫石=陰石=女性性器のシンボルであり、基層信仰としての子孫繁栄、子宝授かりを願う性信仰の現れである。

 

 

 ↓ 鉄板とベニヤ板と黄色のペンキで造られた山神社。これはこれで。

 基礎には「■■■ 太■■ 三久良 庄市 市助」とあるが、手前のものが邪魔してよく読み取れない。他に刻字があるかどうか、確認できない。

 左右にあるのは大きな陽根一対。言いうまでもなく陽根信仰は世界中で、基層的であり普遍的な信仰である。

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 ↓ 左下の奉塞物。

 木製、石製の陽根が五本。

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 ↓ 荷渡地蔵尊の外壁に吊るされた無数の穴開き石。

 穴開き石や丸石などを奉納するという風習は全国どこにでもあるが、ここまで数が多いと、自然に穴の開いた石を拾ってくるというよりも、人工的に穴を開けたのではないかと思われる。奉納するのは女性だと思うが、どうだろう。

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 さらにその左の御堂には「荷渡地蔵尊御詠歌」の額を挟んで、左に依り代?御神体?風の鏡の前に、自然石か風化剥落した地蔵か見極めのつかない塊が官女風の着物を着せられている。最初は自然石のように見え、直感的には自然石道祖神かと思ったが、今見るとたぶん違う。正体不明。右隣には稲荷社が並んでいる。

 この御堂については扁額もなく、解説板でも触れられておらず、正体はわからないが、弊社的な存在だろう。

 

 

 ↓ 名前不詳の御堂をシェアしている二つの御社。

 右は稲荷だが、左は荷渡地蔵尊と共通する地蔵尊の残欠(?)。その官女風のおべべの下にはどんな形の像(?)があるのか。

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 以下、少し違う観点から記してみる。

全国的に川や湖沼のほとり、湧水地などに、水神としての水分(みまくり)神社が見られる。東北地方には、同系統の御渡・三渡・見渡(みわたり)神社、二渡・荷渡・庭渡(にわたり)神社がある。山形県の内陸部では荷渡と書くのが多く、「にわたり様」「おにわたり様」とも呼ぶこともあり、そのため「鬼渡」となっているところもある。

 そうしたほとんどの神社が、本来の水神として以外に、「咳の神」「百日咳を防ぐ神」として流行神としての信仰を集めた時代がある。百日咳の音が「とりしわぶき(しわぶきとは咳のこと)」と呼ばれ、鶏の鳴き声に似ているということから来たそうだ。また「にわとり」と「にわたり」の音の近しさからであろう、「にわとり権現」と呼ばれるところもあるそうだ。

 そしてその「咳(せき)」は、古くからの防ぎ(ふせぎ)=塞(ふせぎ=さえぎ・せぎ/さい・さえ)の神との関係をベースに、村境を意味する「関(せき)」と容易に結びつく。つまり、水に関わる場所性の上に存在した水神としての「みまくり」は、「みわたり」→「にわたり」と音律変化し、「にわとり」をへて、新たな意味(御利益)を、「咳(せき)」⇔「咳・関・防ぎ・塞ぎ(せき/せぎ)」という音の連鎖の上に一時的に確立したのである。

 塞の神は後にふせぎの神という性格に加え、道祖神として道の神・交通の神という性格をつけ加えていったが、古くから持っていた子孫繁栄をもたらす性神=金精=性器崇拝の性格も、変わらず保ち続けた。その意味の一部は、宝珠錫杖姿の地蔵菩薩丸彫立像(延命地蔵)の屹立する形態に受け継がれていった。それゆえに「荷渡‐地蔵」はそれらの全ての意味合い、要素を引き受け、山の神、塞の神といった先行する信仰と共存し、その意味を共有しつつ、今日に至っているのである。

 

 この東根の荷渡地蔵尊という場の三つの御堂の併存には、上述した全ての要素、「塞ノ神=幸神=道祖神」⇒「山の神・地蔵」へと変換された、あるいは重ね合わせられていったプロセスが、並列・共存している。つまり、変容するものとしての民間信仰のありようが、変容それ自体をそのまま体現しつつ保存された、タイムカプセルのような場となっているのである。そして、それは今現在も、生きた信仰の場として機能している。

 

 結論1:「荷渡地蔵尊」は現在「にわたし地蔵尊」と読まれているようで、「荷物を受け渡し運搬の安全を祈った」と説明されているが、それは後代の解釈である。既述したように水神として発生した神が、塞の神道祖神・地蔵等と習合した複合的信仰態なのである。

 

結論2:要するに、民間信仰の当事者である庶民にとっては、仏教であろうが、神道であろうが、民間信仰であろうが、そんなものは様式にしかすぎないのである。

大事なのは、子宝に恵まれ、子孫繁栄することであり、疫病が流行らず、百日咳に罹らないことであり、「天地清明・風雨和順・天下泰平・二世安楽」なのである。仏教も神道も器にしかすぎない。御利益があれば、幸せになれるのであれば、一切合切こき交ぜて手を合わすのである。

(記・2022.1.13 FB投稿:2022.1.22)

小ペン画ギャラリー‐20 「民間信仰系」

 12月は何だかあれこれ妙に気忙しく、なかなかFBに投稿する余裕がなかった。

 一か月で10日以上、病院その他に行った。私の健康診断とインプラント手術、女房の白内障の二度の手術とその前後の検査等の付き添い。手術は朝8:15から。6時には起きなければいけない。それを機に、長く続けてきた、朝方4~5時就寝、昼11~12時起床という生活パターンから、(普通の)早寝早起き生活スタイルへと方針変更し、現在はその過渡期。

 とはいえ、石仏探訪に3回、(それとかぶるところもあるが)美術館・博物館に5回、飲み会3回、マッサージ2回などと出かけているのだから、単純に忙しかったからというわけでもない。投稿したいコンテンツ、投稿すべきコンテンツはいくつもあるのだが、それを最低限熟成させる余裕が持てなかったというだけの話。

 あまり間が開くのも何となく落ち着かないので、除夜の鐘をききながら、今年最後の投稿をしよう。

 

 10~11月の二カ月、小ペン画は全く描かなかった。タブローを描いていたから。小ペン画とタブローを並行しての制作は、案外と両立できないものなのである。

 「小ペン画ギャラリー」の投稿も2か月以上空いてしまった。空いても別に問題はないのだが、これは私自身が「振り返り」と「気づき」を兼ねて、結構楽しみでやっているところもあるので、間が開くと少しさびしい。

 前回「仏教系」という括りで出すのは、けっこう勇気が要ったのだが、投稿してみたら何か少し頭がすっきりした。今回はその余勢をかって「民間信仰系」。民間信仰とくくったが、神道的要素や民俗学的な要素も含む。絵のイメージというのは、現実の事物もさることながら、さまざまな方向から訪れるものなのである。

 

 

 ↓ 479 「山水礼拝」

 2021.7.17-21 20.6×14.9㎝ 木炭紙に油彩転写・水彩・ペン・インク

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 神道というと即天照大神という反応があるが、それは大和朝廷を成立させた朝鮮半島から渡ってきた一団一族が持参した、彼ら固有の祖霊信仰(皇祖信仰)である。それ以前の縄文時代、あるいはそれ以前に起点を持つ自然(崇拝)信仰(≒アニミズム)や、多種多様の「神道」がある。

 それらの中で最も古い形の自然信仰とは、山や川や海といった自然そのものに対する畏れと崇敬の念であろう。無宗教者を自負する私でも、それらに対しては、おのずから畏敬の念を持つというか、頭が下がるのである。そんな感情を描いてみた。

 今さらながら、自然を大切にしたいものだ。

 

 

 ↓ 360 「祖霊は故郷を見守る」

 2020.9.27-10.1 17.3×13.4㎝ インド紙にペン・インク・水彩

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 絵柄としては来迎図の一種「山越阿弥陀図」のイメージが前段にある。来迎図というのは、臨終の際の念仏に反応して、阿弥陀如来が極楽に迎えに来るというイメージ。

 本作は、阿弥陀ではなく、女性像の「祖霊」であり、臨終時ではなく、散歩したりしている日常風景(?)である。そもそも迎えに来ているのではなく、産土の鎮守が「故郷を見守る」という構図。本来、鎮守に祀られているのは、明治維新後どんな祭神とされていても、祖霊(その土地のご先祖様たちの集合体)なのである。つまり仏教的要素と祖霊信仰的要素のフュージョン(習合イメージ)。

 

 

 ↓ 404 「山際に現れた巨人」

 2020.11.25-29 16.9×11㎝ 台紙にミャンマー紙・ドーサ、ペン・インク・グアッシュ

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 巨人伝説というのは世界中にある。おそらく人類に共通する根源的な記憶に由来するものだろう。日本ではダイダラボッチ(だいだら法師、ほか)という名の巨人伝説と、ゆかりの地名(丹波天平/たんばでんでいろ、など)が全国あちこちに残っている。なぜなのかは、私は知らない。

 また、山神、山人というイメージには、柳田国男の挫折放棄した山人論に見られるような濃厚なロマンチシズムがある。それはまた洋の東西を問わずある「零落した神」のイメージとも通底する。そしてそれらは今日、多くはファンタジーの世界で生き延びている。

 

 ↓ 409 「山に帰る孤独な巨人」

 2020.11.29-12.2 15×10.3㎝ 和紙(杉皮紙)にドーサ、ペン・インク・水彩・顔彩 

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 前作のバリエーション。

蛇もまた山の神の一つであり、また農耕とかかわる水神である。

 山の神は春に里に降りて田の神になり、冬にはまた山に帰り山の神となるとされる地域もある。

 

 

 ↓ 446 「前鬼」

 2021.2.25-3.4 17.9×13.1㎝ 和紙に膠、ペン・インク・水彩

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 修験道の祖とされる役行者が実在したかどうかは定かではないが、修験道が果たした役割は単に宗教上のことや山岳関係の技術に限らず、全国の、特に地方の農山漁村において文化全般に渡って重要な役割を果たした。

 その祖とされる役行者の手下として使役された前鬼・後鬼という夫婦の鬼がいた。夫婦であれば子もいただろう。その子孫の娘を想像して。図像的には手足の指が一本少ないという。

 

 ↓ 463 「シナド」

 2021.6.10-16 18×21㎝ 和紙に膠、油彩転写・水彩・ペン・インク

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 シナド(シナツヒコ志那都比古神、シナトベ/級長戸命・・・)とは日本書紀に出てくる風の神。また、中部から北日本にかけて「風の(又)三郎」という風神もおり、会津にはその名を冠した山(風の三郎が祀られた祠がある)もある。

 意図して風の神を描こうとしたわけではなく、線の自律的な展開のままに描いていって、出来上がった絵から思いついたタイトル。絵としては描き過ぎだと思っていたが、タイトルを「シナド」としてみると、まあこれはこれでといったところか。

 

 

 ↓ 465 「追われるシナド」

 2021.6.14-16 16.8×12.8㎝ 和紙にサイジング、水彩・ペン・インク

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 前作を描き進めるうちに、「風の(又)三郎」的な風の神を描いてみたくなった。必ずしも宮沢賢治の(完成形)「風の又三郎」をイメージしたわけではないが、その先駆形(?)のもう一つの「異稿風の又三郎」を思い出した。

 なんとなく、少し気に入っている作品である。

 

 

 ↓ 488 「道筋と一対の門‐民俗学的絵画」

 2021.7.24-28 21×15㎝ 水彩紙に水彩・ペン・インク 

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 「民俗学的絵画」とは絵のタイトルらしからぬ副題だが、直前に読んだ『土葬の村』(高橋繁行 20 21年 講談社現代新書)の内容にけっこうインスパイアされたというか、参照している。もちろん自由な解釈によってだが、そもそも葬送儀礼を絵のモチーフにするというのも、絵としては珍しいだろう。ちなみに同書は、私が読んだ今年のベスト3に入る興味深い内容。

 

(記・2021.12.21 FB投稿:2021.12.31)

 

 

石仏探訪-31「どんど焼きと塞の神/道祖神」

 1月10日。自宅近くの高尾神社前での「どんど焼き」に参加した。昨年はコロナ禍で中止。今年は規模を縮小しての実施だそうだ。私の住むあきる野市の多くの自治会(旧村単位)では、現在でもどんど焼きを行っているところが多い。

 

 ↓ 今年のどんど焼き

 例年より小さい。人も少ない。神社の前でやるが、神社の行事ではない。あくまで民間信仰である。

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 ↓ 一昨年のどんど焼き

 達磨の串刺し十字架。その他、注連縄や松飾、以前は大きな門松などもこの時燃やしていたという。

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 ↓ う~ん、火あぶり。

 邪気を燃やすということなのだろう。

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 ↓ 達磨磔刑図。

 裏側から見るとより迫力がある。

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 どんど焼きは、ある時期から子供が中心になって行うようになった行事。わが地区でも少し前までは中学生が主体となって準備実行していたが、時代の変化で、鎌や鉈や火を使うのが危ないということになり、大人が主体でやるようになったとのこと。残り火で焼いた餅や豚汁などを子供たちに振舞う楽しい行事だったそうだが、今年集まったのは、私のような爺さん中心の10名ほど。そのおかげ(?)で、地元の古い話をいろいろ聞けたのは収穫だったが、やはり少しさびしい。

 

 

 ↓ 子供たちが後ろで待っている。大きな焚火を見るのは子供にとって新鮮な体験だろう

 わが地区の小学生も少子化で減り、今年は10人以下になるそうだ。ただし、自治会に入っていない家庭も多いので、正確な数字はわからないが。

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 ↓ お待ちかねのお餅、その他あれこれのお振舞。

 やはり子供の多い風景はなごむ。

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 その規模縮小したこともあり、またあまり良い写真が撮れなかったので、画像のほとんどは一昨年のまだもう少しにぎやかだった時のものである。

 

 「どんど焼き」とは言うものの、地元の人に聞くと、以前は「せぇのかみ」と言っていたそうだ。「せぇのかみ=さえのかみ=さいのかみ」つまり「塞の神」。別に「サギチョウ(左義長)」とか「サイトウ(柴灯)」という言い方をする地方もある。要するに小正月(1月15日)に行う火祭である。

 どんど焼きという言い方は、現在全国を通じて最も一般的な言い方であろうが、『民俗学辞典』(柳田国男監修 1951年初版/1979年53版 東京堂出版)と『日本民俗事典』(大塚民俗学会 1994年 弘文堂)のいずれにも「どんど焼き」の項はなく、左義長塞の神の項で副次的に言及されているだけである。つまり本来の意義からは離れた形容的名詞であり、それゆえに全国的な共通語になったのだろう。私の山口県での子供時代でも「どんど焼き」と言っていた。しかし「さいのかみ」とは言わなかったようである。

 では「塞の神」とか「左義長」とは何かというと、これがまた実に複雑怪奇でややこしい。「左義長」はおいて、「塞の神」についてのみ簡単に記すと、記紀にある「フナド(岐)神」から「石神」「八衢神」「庚申」などと習合し合っているが、大もとは村境などで外部からの邪気・疫病などを防ぎ、サエぎる神である。「道陸神(どうろくじん)」と言う地方もある。その形態は二又の木の枝や自然石・丸石などをはじめ、多種多様であり、中には信州などのように男女の双体道祖神として独自の発展を見せたところもある。

 それらの道祖神塞の神と直接結びついてどんど焼きを行っている地区があるのかどうかは、まだ確認していない。

 

 どんど焼き=火祭りの本質を私はまだよく理解できていない。だがせっかくだから、より古い言い方、より古い本質であると思われる塞の神道祖神をいくつか紹介してみよう。現在あきる野市全体で、道祖神は全部で7基ある。多くはない。すべて文字塔。

 

 

 ↓ あきる野市伊奈の路傍に立つ草書体で書かれた道祖神

 寛政10/1798年。「石橋造立二ヶ所」とあり、石橋の供養塔を兼ねている。地元伊奈石製のため、風化が進んでいる。

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 ↓ あきる野市深沢の穴澤天神社にある道祖神

 安政4/1857年。固い川原石製なので、風化剥落が少なく、繊細な筆跡をよくとどめた端正な文字塔である。

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 ↓ あきる野市菅生の福泉寺にある道祖神

 一見してわかるように堂々たる金精=陽根の形の自然石であり、道祖神(=塞の神)のもう一つの側面である、子孫繁栄を意味する性器崇拝がうかがわれる。文化12/ 1815年。

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 そのうちの1基は猿田彦。もう1基は「道祖神大■衢命(ヤチマタノミコト ■は彳+八)」。

 

 ↓ あきる野市小津の熊野神社にある明治7/1874年の「猿田彦」の碑。

 猿田彦道祖神だと言い出したのは幕末の国学者であり、明治維新廃仏毀釈等を通じていわば「神の書き換え」が行われたのだとも言えよう。

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 あきる野市留原の個人宅石垣に組み込まれている。

 「道祖神大■衢命」と書かれており、■は彳+八。千葉県に八街市があるが、これである。「八衢神/やちまたのかみ」は記紀に記載があるが、複雑なので略。

 大正9/1920年の造立で、「南 八王子」「北 秋川橋」と記され、道標を兼ねている。この前の道筋が当時檜原村、五日市で産出された繭玉を八王子へ運ぶ、いわば「シルクロード」だった頃の名残である。

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 ↓ 山形県村山市名取道六にある道陸神(どうろくじん)。

 「道六神」の名が当てられ、そこの地名になっている。嘉永元/1848年。

 このように道祖神があった場所が「道祖土(さいど)」などといった地名になっている例は、さいたま市浦和区のそれのように、全国に多く見られる。

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(記・FB投稿:2022.1.10)

 

 

山歩記+石仏探訪-30「久しぶりの山行 奥武蔵・日和田山からユガテへ」

 わが家の玄関先には「山屋」と書かれた看板が掛けられていた。今ではもう文字も薄れ、ボロボロになり、たいていは下に落っこちたりしている。「山屋」の字にはかつては「さわや(沢屋)」とルビがふられていたが、ほぼ完全に消えてしまった。そんなになった「山屋」の看板だが、まだ捨てられない。・・・以上はほぼアレゴリーなのだが、ここ2年、裏山歩きをのぞいて、山から遠ざかっていた。

 

 11年前、56歳で早期退職した時に将来を考えた。65歳までは山に登りたい。70歳までは海外旅行に行きたい。75歳まではちゃんと絵を描きたい。それ以上はおまけの余生、両親の逝った80歳が一応のゴールかなと。

 実際には全然山に登らない年もあったし、質はともかくとして、11年間で97回登った。海外旅行には12回18ヵ国に行った。絵は製作時間、点数ともに増えた。つまり当初の目標(?)はほぼ達成している。そして、山登りは体力的な面からも、もう卒業してもよいのかなとも思う今日この頃。

 それがここのところの「生活改善推進運動」によって、少し早起きができるようになり(まだ人並み以下の発展途上だが)、久しぶりに山に行く気になった。困ったときの奥武蔵。現在の実力からして家族向きのコース。ということで、多少の石仏探訪を兼ねて、日和田山からユガテ(山上集落)へ行ってきた。最大標高差345.9m。コースタイム4時間少々(実際には休憩や石仏探訪を入れて6時間。妥当なところだろう)。

 

 ↓ 西武池袋線高麗駅から歩きはじめる。前方の日和田山は305m。

 何ということのないありきたりな里山だが、左の沢沿いにロッククライミングのゲレンデとして有名な岩場がある。私も昔何度か行った。一昨年、山のかかわりの飲み会仲間の一人、指揮者のTさんが転落して死んだ。ずっと昔、私がかつて在籍していた山岳会の一人がやはり転落し、重症を負った。そんな一面を持つ山でもある。

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 ↓ ようやく登りはじめ、一の鳥居、滝不動尊などをへて、男坂の岩場を登る。あ~楽しい。

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 日和田山までは正月休みとあって、子供連れなども多い。稜線上には舗装道路も通っているのだが、丁寧に古い山道を辿ってアップダウンを繰り返せば、ほとんど舗装道路を歩かずに済む。もとより登山としてはそう面白いルートではないが、そうしたところでも以前に比べて、よりいろいろな要素を味わい楽しめるようになってきたように思う。それもまた年の功か。

 入下山時の寺社や途中でも石仏はそこそこあり、そちらの方も充分楽しめた。

 早起きさえできれば、欲をかきすぎなければ、登るべきルートはまだいくらでも見出せる。何よりも山登りは私の精神の健康に必要欠くべからざるものなのだ。とは言ってみたが、さて、この先どうなるのだろう。

 

 

 ↓ 登り始める前に途中の御嶽神社、圓福寺、長寿寺、九万八千神社(すごい名前!)などの石仏にひっかかる。

 これは圓福寺の石幢(?)。三面に二体ずつ地蔵が彫られている。ふつう石幢は六角柱なのだが、これは四角柱。文政7/1824年。

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 ↓ 同じく圓福寺の観音。

 基礎に「○○観音」と記されていたが、あまり興味が持てず未撮影。たしか現代的なネーミングだったような。それが裏から見たらなんとも不思議なというか、妙なというか、魅力的なフォルムに見えた。着色されているが、石造なのか鋳造なのか、わからない。 

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 ↓ すぐ先の長寿寺の石仏群。

 享保7/1722年の宝篋印塔ほか、如意輪観音、板碑残欠、墓標、五輪塔、等の数々。風情である。

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 ↓ 日和田山頂上間近の金刀比羅神社にあった石碑。

 「武尊山大権現・御嶽山座王権現・意波羅三社大権現 木食普寛」とある。普寛は木曽御岳を開いた行者。「武尊山大権現」は同じく普寛が開いた上州武尊山。御嶽三座神というと「御嶽山座王権現・八海山大頭羅神王・三笠山刀利天宮」が普通だから、だからこれは珍しい部類。年代不詳。

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 ↓ 金刀比羅神社前の岩場から遠く望む富士山。何も言うことはありません。

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 ↓ 日和田山山頂にて。自撮り棒がないと顔がデカい。表情が硬い。

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 ↓ 日和田山山頂にあった宝篋印塔。何も知らなかったのでビックリ。

 享保10/1725年にしては状態が良い。それにしても300年も前にこんなものを担ぎ上げるのは大変だっただろう。

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 ↓ 稜線上の景。

 写真には写っていないが、全体に舗装道路が走っている。別に左の水平な幅広い登山道?もあるが右の忠実に尾根上を辿ることもできる。それを辿っていくと、いくつもの名前のついたピークを上り下りすることになるが、それが山登りというものだろう。

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 ↓ 途中から見た、はるか彼方のたぶん男体山(中央奥)、奥白根山(右手前)。自信はありません。

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 ↓ 本日の最高地点、スカリ山山頂434.9m。これはこれで。

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 ↓ 武甲山遠望。

 まだ登ったことはないが、石灰岩の採掘で山の形も標高も変わった、かつての名山(今も200名山)。遠目には良いが、採掘現場を見るのが嫌で、あまり登りに行く気になれない。

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 ↓ 山上集落ユガテ。

 かつて「山上の楽園」とか「隠れ里」、「桃源郷」などと言われていた。山上にしては平坦地も広いが、今は多くは「ユガテのヒマワリ畑」になっている。舗装道路も通っており、家は3~4軒(?)のようだが、実際に住んでいるのは何人だろうか。

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 ↓ 下山したところにある福徳寺の阿弥陀堂重要文化財)。

 正面は蔀戸で、なかなか良い感じなのだが、残念なことに周りをガッチリと柵で囲まれ、頑丈に施錠されて今日は中に入れない。奥に石仏群が見えるのだが、近寄れない。残念。

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 ↓ 今回一番驚いたのが、この福徳寺入り口にあった石碑。

 「大地震記念碑」とあり、右に大正十二年九月一日」、左に「午前十一時五十八分」と刻まれている。関東大震災のもの。造立年等はわからなかったが、まだ「関東大震災」と命名される前に、時を置かず建てられたものだろう。あるところにはあるのだろうが、私はこの手のものは初めて見た。趣旨等もよくわからないが、こんな辺鄙なところにあると、なんだか不思議な気がする。

 

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(記・FB投稿:2022.1.6)

石仏探訪‐29 「コンテンポラリー地蔵と観音」

 先の投稿「小ペン画ギャラリーー19 仏教系」で、地蔵や観音などのイメージの、私なりの「変奏」について述べた。

 それを投稿する前日の10月27日、孫の少し早めの七五三だというので、さいたま市大宮氷川神社に向かった。途中の寺にふと立ち寄る。わりと大きくて立派な東光寺。その山門に何気なく近寄ってみた。

 一瞬、何が在るのか、理解できなかった。そこにあったのは、異次元異世界風の、フィギュア?、現代彫刻?、もしかして仏像? 周囲の壁面には赤や紫の光がゆらめいている。見れば「地蔵真言 オンカァカァカビサンマエィソワカ お唱えください。」とある。地蔵であり、観音であった。

 

 ↓ SORA地蔵

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 山門とくればふつうは仁王だろう。だが、目にしたのはこれ。しばらく地蔵だとはわからなかった。顔はマネキンのようだし、サイズはほぼ等身大だが、全体に細すぎる。左手には宝珠を載せている。 

 後から気づいてギョッとしたのだが、この日の七五三の私の孫の名は「空(そら/SORA)」(本当です)。偶然?奇縁?お導き? なんかわからないけど、どうかよろしくお願いします。

 ちなみに、驚きが大きすぎて、山門全体を撮るなどの基本的なことをすっかり失念してしまった。

 

 ↓ YUME観音

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 施無畏印与願印。やはり細すぎるが、観音の面影はある。女性身。

素材は(FRP/合成樹脂?)なのだろうか。立体系は畑違いのため、素材等については見ただけではよくわからない。

 

 

 神仏が漫画やアニメ、ゲーム等でキャラクター化されているのはよく見かける。そういうものには興味がないが、眼前のこれをどうとらえたらよいのか。現役現実の寺(曹洞宗)である。ふつうなら阿吽の仁王像があるべきところに、これ。

しばし判断不能に陥り、その間、ものすごくエネルギーを吸い取られた(?)。それぞれ2体置かれている眷属(?)のようなキャラクターも、性格や意味がわからない。

 

 

 ↓ SORA地蔵全景と、眷属(?)の二人?二体?さて?はて?

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 ↓ YUME観音全景と、眷属(?)の二人?

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 後光(光背)を表す光は、紫から青へゆっくりと変わった。

 

 

 ↓ SORA地蔵の下左の像

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 龍の童子倶利伽羅竜王の化身でもないだろうが…。首元には牛のネックレス…。サイズは80㎝ぐらいか。君は誰? 

 

 

 ↓ SORA地蔵の下右の像

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 ほっかむりした犬? いったい君は誰なんだ? 趣旨は? 根拠は?

 

 

 ↓ YUME観音の下左の像

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 龍の童女?がいたから虎の童女か?足元はそれっぽいし、首元にあるのははっきり猫だし。ああ、わからない。

 

 ↓ YUME観音の下右の像

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 これが一番わからない。長靴をはいた黒柳徹子? キノコ?あるいはミカン?の妖精? そもそも、なんで下を向いているの?誰か教えて下さい。

 

 

 待ち合わせの時間のこともあり、尋ねるべき人も、説明書きも見当たらない。作者等はわからない。帰宅してから、あらためて写真を見ながら考えた。これは何なのか、良いのか、悪いのか。一晩考えた結論としては、「(とっても)良いことだ」。少なくとも画家としての私は、見慣れた古いものだけを良しとする怠惰な感性の持ち主ではありたくない。見慣れぬものに迷ったら、否定よりもまず肯定なのだ。

 寺のHPには「YUME観音像 ~非常に優美で現代的なお姿のYUME観音が安置されています。」「SORA地蔵像 ~非常に端正な顔立ちでどこかSF的な雰囲気のSORA地蔵像が安置されています。」とある。確信犯である(信念をもってやっている)。これを設置した住職は大した度量だ。たぶん、まじめに仏教ということ、寺ということ、そしてそれらの未来ということを考えているのだろう。

 想像力を働かしてみれば、奈良の大仏が完成した時の、まだ酸化被膜で覆われる前の金色に光り輝く巨大な盧舎那仏を見た当時の人々、特に庶民の目にはどう見えただろうか。UFOから降り立った巨大な宇宙人を見たぐらいのショックがあったのではないか。それからすれば、これぐらいの解釈の変奏はあっても良いのではないだろうかと思うのである。

 

 それにしても偶然とはいえ、「小ペン画ギャラリー‐仏教系」の原稿を書き上げた翌日に、こんなコンテンポラリーな地蔵と観音に出会うなんて。しかもわが孫「空(そら)」ちゃんの七五三の日に「SORA(そら)地蔵」と出会うとは…。これもまた一つの巡りあわせか?お導きか? いやはや、現実って、すごいなぁ~~~。

 

 

 ↓ 光背の変容についての考察。

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 上の画像は、ミャンマーマンダレー近郊の岩山、ポッパ山の山頂の寺院にあったもの。

 光背がネオン?LED?の色を変化させながら、ぐるぐると発光する。あまりに俗っぽく感じた私は、同行していたミャンマーの人に疑問を投げかけたら「光背は特別な人(仏)だけが示すハロー(halo/暈)なのだから、揺らぐ(変化する)方が正しいのではないか。まして信仰の問題なのだから、その素材とかありようを云々するのは間違っている。」と言われて、恐れ入った。理にかなっている。つまり、解釈や手法は変化しうる、つまり変奏はありうるということだ。

 

 ↓ 地蔵ほか

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 コンテンポラリーなものだけでは落ち着かないので、対照というか、その解釈の落差をふくめて、無縁塔にあったいくつかのものを上げてみる。

 この地蔵(宝珠錫杖)3体と右の不明の1体は、無縁塔の前の小さな御堂に置かれたもの。頭部はすべて後補。欠落部も多い。年代、趣旨等はわからないが、それなりに古そうだ。こういうものを見て、なぜか心落ち着くというのは、反動というか、情緒的に過ぎるだろうか。

 

 

 ↓ 阿弥陀如来

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 後の2体を含めて、いずれもやや古い墓標仏。寛文8年/1668年の来迎印の阿弥陀如来。すっきりした作行で、常態も良い。

 

 

 ↓ 蓮花に載る享保年間(1716~36年)の如意輪観音半跏思惟座像。

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 コンテンポラリー観音を見た後では、この像も何かUFOにでも乗って空中に浮いているように見えた。

 

 

 ↓ 地蔵?

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 右中に「安宗童(?)■(子?)」、下に「土手宿女■■」とある。幼い子を亡くした母親が供養のために建てたものだろうか。右に宝暦2年?/1752年、左に ■(天)明8年/1788年とあるのは、死亡年と、後に建立した年を二つ記したということなのだろうか。像は剥落部が多いが地蔵で良いと思うのだが、はかなげな風情で、やはり何かそうした事情が反映されたようにも思われる。

 

(記・FB投稿:2021.10.31)

小ペン画ギャラリー‐19 「仏教系」

 石仏に関心をもって以来、後追い勉強の日々。石仏関係のみならず、この際だからその根底にある、仏教、神道修験道民間信仰からヒンドゥー教、宗教史全般、民俗学、等々。きりがない。

 関係ないけど時おり、エホバの証人の方が冊子を置いていく。たまに幸福の科学の冊子もポストインされる。それらもたまに読んでみる。ほとんど読み通せないけれども。

 そうした勉強をするほどに、私の信仰心が増したかといえば、否。むしろ、宗教というものを否定する気持ちの方が強くなった。

 ただし否定したいのは、宗教の現実態としての制度性と論理性の部分である。人々の「祈り」を否定するものではない。宗教に限らず、思想上のあらゆる理想主義は、現実態としては時間の中で劣化し、堕落する。人類の歴史の中で、例えば戦争・紛争に宗教が直接、間接に関与した割合と役割を思い起こせば、それは自明の事であろう。近くはパレスチナユーゴスラビアアフガニスタンのそれ。

 私は無神論者だと宣言するほどの度胸はないが、無宗教者だと宣言するのには、ためらいはない。それでも、多くの人々が抱く「祈り」や「願い」に対しては、無視も否定もしない。そもそも、絵を描くこと(芸術)は、何ものか(あるいは虚無?)に向けた供養であり、荘厳(しょうごん)のいとなみなのだと、昔から思っている。

 

 宗教、政治、性、などについては、話題にしにくいというのが、良くも悪くも一般常識。絵においても、似たような縛りがある。だが、それはそれ。それは他人が引いた一線だ。

 石仏から始まって、その後の仏教や民間信仰等の勉強を通じて、考え、感じたことを絵にすることもある。むろん、その教義や理念を現わそうなどと大それたことは考えていない。村上華岳や入江波光、ルオー、ウィリアム・ブレークらのスタンスとも違う。観念やイメージの、私なりの解釈や変奏なのである。「見えるモノを写す」ことに比べて、それはとても面白い「芸術的」作業だ。だから、それらの絵が仏教的なものに由来するとは思われなくても差し支えない。

 これまでにも、そうした傾向のものをFBに上げたことはあるが、今回あえて「仏教系」とタイトルを掲げたことで、あるいは生真面目な仏教徒からひんしゅくを買うかもしれないが、それはやむをえない。縁の問題だ。

 とにかく、石仏から始まって、勉強して、その結果何点もの、私にとって新しい作品を描くことができたということは事実だ。それは石仏≒仏教から恩恵を受けた≒イメージの源泉を得たということである。それは、私なりに、まじめに(石)仏に接したことによってもたらされた、功徳というか御利益と言えるかもしれない。

 

 

 ↓ 1. 419 「犀の角のように一人力強く歩む人」

 2020.12.10-13 12.4×9㎝ 和紙に膠、ペン・インク

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 手始めに『ブッダのことば スッタニパータ』(中村元訳 岩波文庫)を手に取った。後年の解釈ではなく、根源の釈迦その人のことばを知りたいと思ったからである。その初めのあたりでぶっ飛んだ。

 「~~子を欲するなかれ。いわんや朋友をや。犀の角のようにただ独り歩め。」

 「交わりをしたならば愛情が生ずる。愛情にしたがってこの苦しみが起る。愛情から禍いの生ずることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。」

 以下、

 「~~~、犀の角のようにただ独り歩め。」

 「~~~、犀の角のようにただ独り歩め。」

 「~~~、犀の角のようにただ独り歩め。」と、41篇が続くのだ。すごい。感動した というか、あっけにとられたというか、呆然とした。

 

 

 ↓ 2. 420 「犀の角のようにそれぞれ佇む五人」

 2020.12.10-13 水彩紙にサイジング、ペン・インク・水彩

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 同前。それぞれにただ独り歩もうと、迷い、悩み、呆然とする者たち。

 

 

 ↓ 3. 449 「Jizou」

 2021.4.16-20 2021.4.16-20 15.4×11.9㎝ 木炭紙にペン・インク

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 「地蔵」を描こうとしたのではない。描いて見たら「地蔵」的だったのだ。ゆえに「地蔵」ではなく「Jizou」。地蔵は最もポピュラーで庶民に近い仏。石仏の数でも断トツ。仏ではあるが、出自はヒンドゥーの土俗神、一説には女神とも言われ、また日本で受容される過程で、基層信仰であるところの金精信仰≒道祖神などとも習合した複雑さも持っている。それゆえに人々のあらゆる願いに対応してくれる万能の仏。

 

 

 ↓ 4. 349 「地涌」 

 2020.9.10-12 12.5×9.5㎝ 和紙風ハガキにドーサ、ペン・インク (発表済み)

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 「地涌(じゆ)」とは法華経の中に書かれている(らしい)説で、末法の世にあって(弥勒菩薩が救いに現れるのは五十六億七千万年後!)人々を救うのは 異世界からやってくる(迹化の)菩薩ではなく、この世(娑婆)の大地から湧き出てくる無数の(地涌の)菩薩だということである。これだけでは何の事だかわからないが、まあそういうことになっている。

 その地涌の菩薩イコール地蔵というわけではなさそうだが、地涌‐地蔵の連想は自然だろう。半ば土に埋もれかけた地蔵や、摩崖仏などを見ると、地涌の言葉もそれなりに自然なイメージかとも思われる。

 

 

 ↓ 5. 394 「魚涌」 

 2020.11.8-10 14.8×12.5㎝ 洋紙にペン・インク

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 地から湧く菩薩があれば、海からでも、魚の腹の中からで湧いてきてもおかしくはあるまいという、イメージの変奏。旧約聖書の「ヨナ書」にある、魚に飲み込まれ三日後に再び吐き出されるという物語を描いた絵は、西洋古典美術では時おり見かける。その連想がなくもない。ボッシュブリューゲルの絵もまた無縁ではない。

 

 

 ↓ 6. 447 「音を観る」 

 2021.4.1-04 19×12.7㎝ 洋紙にペン・インク

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 観音菩薩というのは、人々の苦しみや悩みの声を聞くばかりでなく、その具体的内容を観られることから「観音」というのだそうである。

 女性像(風)に描いているのは、以前から石仏に限らずいろいろな観音像を見ていて、多くが女性的に表現されていることに妙に納得できなかったのだが、『救いの信仰女神観音 庶民信仰の流れのなかに』(小島隆司 2021年 青蛾書房)を読んで、インドでの観音発生の当初あるいは直後から、また中国経由の過程で、明確に女性像=女神としてとらえられていったのだと知って、納得したからである。

 

 

 ↓ 7. 448 「Kwannon」 

 2021.4.16-20 2021.4.16-20 17×12.4㎝ 水彩紙にペン・インク

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 「かんのん」の語は、本来の正確な発音表記では「クワンノン」。三十三通り(=無限)に変化する中には、馬頭観音のような三面のものもある。だからというわけでもないが、これも三面。

 

 

 ↓ 8. 371 「かくの如く来たれる者」 

 2020.10.11-12 14.8×10.5㎝ 水彩紙にペン・インク (既発表済)

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 如来は菩薩の上位に位置する存在。自身はすでに悟りを開き、現在は浄土という異世界におられる。「如来」を直訳すれば「かくの如く来たれる者」。つまり、まだ(我々を救いには)来られていない、だいぶ先に現れるであろうという存在。

 テレビでヒマラヤに雲が湧き上がる映像を見ていたら、ふと「如来」という言葉‐イメージが浮かび上がってきた。

 

 

 ↓ 9. 多羅菩薩・観音/緑/女性の尊格 ネット画像

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 先に観音菩薩≒女神説を引いたが、その典型としての「多羅菩薩/観音」というのをネットで見つけた。三十三化身の一つ(三十三観音札所の24番)で、女性身=女性の尊格ということだが、私はまだ像としては意識して見たことはない。このネット画像は中国のもののようで、なんともすばらしく艶めかしく描かれているが、まあ、こうした解釈もあると、ご参考までに。

 

 

 ↓ 10. 同じくネット画像。

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 インドの画家の手になるネット画像。こうした感じの、愛し合う二人というか、性愛をも暗示するといったイメージのシリーズ。これが仏教系のものなのか、ヒンドゥー系のものなのか、私にはわからないが、仏教はヒンドゥー教の一部と考えられている立場からすれば、どちらでもよいのかもしれない。私はこれも観音の一解釈だと思っている。

(記・FB投稿:2021.10.28)