艸砦庵だより

河村正之のページ 絵画・美術、本、山、旅、etc・・・

小ペン画ギャラリー-25 「1~3月の近作から」

 別に月一と決めているわけではないが、中一ヶ月空くと、自分の作品(ペン画)をPCやスマホの画面上で見たくなる。半ばルーティンと化した「小ペン画ギャラリー」の投稿。

 今年に入ってからの小ペン画制作点数は、1月が15点、2月7点、3月18点、4月2点。2月前後は大きい作品の制作に集中したり、また別の新作に取りかかったり、4月は旅で、点数は伸びない。現在タブローの方は、一進一退の膠着状態。つまり普通。両者は必ずしも両立しない。

 

 今回の6点は単純に近作、今年に入ってからのものの中から適当に選んだもの。特に括りなどはない。すべて未発表。制作順。

 

 

 ↓ 546 「供物を運ぶをみな」

 2022.1.10-11 19.3×14.1㎝ アルシュ紙に水彩・ペン・インク

 

 最近読んだ民俗学関係の本の中に、頭の上に荷を載せて運ぶ頭上運搬ということが出ていた。イメージとしてはアフリカやアジアの発展途上国など、日本なら沖縄や離島、せいぜい昔の漁村といったところだが、案外全国的に分布していたようで、少し驚いた。

 関係ないけど、海女・海士の分布についても同様で、つい最近(50年ぐらい前)のことでも知らないことが多いことに驚く。

 その本をもう一度読み直したいと思ったのだが、さて、どの本に載っていたのか、見つからない。ともあれ、その記事の内容とは直接関係はないが、それをきっかけとして、こんな絵を描いた。

 

 

 ↓ 547 「ある楽曲への感謝」

 2022.1.17-20 19.2×14.5㎝ アルシュ紙特厚に水彩・ペン・インク

 

 第二次世界大戦独ソ戦で最大の激戦の一つ、レニングラード(現サンクトペテルブルク)包囲戦をめぐる、ショスタコビッチの代表作「交響曲第7番」を扱ったドキュメンタリーを見た。

 芸術とプロバガンダ(情報戦・宣伝戦、またそれを担った作品)。作品が生成する社会や時代といった、情況と文脈。現在のロシアのウクライナ侵攻と重ね合わせて見るとき、なんとも複雑な位相である。交響曲第7番が優れた楽曲であるかどうかは、私には判断しかねるけれども。

 音楽を絵にするのは難しい。

 

 

 ↓ 551 「夜のまろうど」

 2022.1.24-26 20.6×16.2㎝ ワトソン紙に水彩・ペン・インク

 

 「まろうど」を漢字で書けば「客人」。客人と書いて「まれびと」と読むこともある。

 昔、漫画誌ガロで描いていた鈴木翁二に「宵のまろうど」という作品があった。むろん本作とは関係ない。どちらかと言えばつげ義春の方が近いかも。

 

 

 ↓ 561 「沼沢地の人」

 2022.2.14-16 19.3×14.3㎝ アルシュ紙に水彩・ペン・インク・カラーインク

 

 あまり強いインパクトではないが、直接のきっかけとなったのは、ある映画(『マッドマックス 怒りのデスロード』)の一シーン。

 その前提には、ボッシュや北方ルネッサンスあたりの、綺想の人物表現や悪魔・化け物などの絵などがある。別に中国の『山海経』経由の『和漢三才図絵』などにある、「手長足長」を描いてみたいという気が前からあった。これは「手長足長」ではないが、まあ、同根の発想。竹馬や各地の民俗的シーンにしばしば見られる異相的在りようの一つでもある。

 

 

 ↓ 567 「急ぐ人」

 2022.3.2-7 15.4×12.4㎝ 洋紙に水彩・ペン・インク

 

 この作品の直接のきっかけになったイメージや映像といったものはなく、また、作者からのメッセージや意味といったものもない。

 全くの想像力だけで描いたのだが、結果として、何とはなしの寓意性が匂い立つ。イメージには、時おりそうした不思議な自律的働きを示すことがある。この作品に限らず、今回紹介する6点には、そうした感じが多かれ少なかれあるように思われる。

 

 

 ↓ 569 「転生」

 2022.3.4-7 14.4×19.1㎝ アルシュ紙特厚に水彩・ペン・インク

 

 転生という画題は、学生時代の師であったT先生が時おり扱われたものだった。

 輪廻転生、永劫回帰、リインカーネーション。文学や美術、芸術の世界ではなじみ深いイメージ/世界観である。私は直接的な生まれ変わりなどは信じる気にもならないが、分子レベルでは、永劫回帰は常態であろう。

 本作はもちろんそんなことを考えたわけではないが、ごくスッと出てきたもの。たぶんこれ以上の奥行きは持たないだろう。

 

 

(記・FB投稿:2022.5.10)

 

石仏探訪-39 「足摺山三十三観音と儀軌の問題」

 廃仏毀釈に関する本を読むと、私の故郷山口県はそれが最も激しかったところの一つという記述が必ず出ており、さもありなんと思っていた。ところが今年になって二度帰郷したおりに、あちこちと歩いてみれば、その説が信じられないほど数多くの石仏があった。その落差の意味するところは、まだわからない。

 例えば三十三観音(西国三十三観音霊場の写し)や、四国八十八ヶ所霊場の写しを何か所も見た。防府市だけでも、松尾山三十三観音防府八十八ヶ所霊場、桑山八十八ヶ所、向島厳島神社御旅所前の八十八ヶ所、周防三十三観音の一部、などがあった。防府市以外でも山口市小鯖の禅昌寺三十三観音、そして先に投稿した萩市の足摺山の三十三観音という次第である。こんなにもたくさんあるのか。思わずため息の一つも出ようというものではないか。

 その足摺山の写真を分類整理していて、気づくことがあった。以下、それについて記す。

 

 はじめに西国「三十三観音霊場」とは、法華経の「観世音菩薩普門品第二十五(観音経)」に説かれる、観音菩薩衆生を救うとき臨機応変に33通りの姿に変化する(三十三応現身=婆羅門身・比丘身・童男身・童女身・夜叉身・等々/具体的な観音の名前は出てこない)という信仰に由来し、その数字に対応した三十三ヶ所の霊場(寺院)を言う。そこを巡拝することによって、現世で犯した罪業が消滅し、極楽往生できるというものである。

 それとは別に「三十三観音」がある。その「楊柳観音白衣観音魚籃観音水月観音、等々」といった33種の観音の名称と容姿は、天明3年(1783年)刊行の、絵師土佐秀信が著した『仏像図彙』に拠るものである。それは中国起源の新しい観音を取り入れたりしており、上述の「三十三応現身」とは対応しない。つまり、ほぼ彼の創案した、近世の「キャラクター」なのである。したがって儀軌としての正当性は、疑わしいと言える。むろん、そこには古来の六観音聖観音、十一面観音、千手観音、如意輪観音馬頭観音、准邸観音/または不空羂索観音)は含まれていない。

 結論として、土佐秀信33観音と三十三観音霊場は、33という数字は共通しているものの、まったく別系統のものである。紛らわしい。

 いずれにしても、各地の三十三観音霊場には、近世以前に創建された西国の寺院が割り当てられているわけだから、上記の六観音(七種類)に限られる。

 

 三十三所巡礼の起源は養老2(718年)とされるが、ほどなく忘れ去られ、11世紀にその前身と言えるような形が成立し、ようやく15世紀後半以降に現在のような形で一般化し、江戸時代以降、庶民化したとのこと。

 当時も現在でも、京都を中心とする8府県に散在するそれらをすべて巡ることは、大きな負担を必要とする(だからこそ功徳が大きいということなのだが)。そこで一日か、せいぜい数日で回り切れるような範囲に、勧請した(分霊を移した=写した)三十三観音を設置することによって、信者の(お手軽な)信仰に応えるという寺院の戦略が生まれ、日本全国に実に多くの○○観音霊場が生まれた。それらの多くは廃れ、いくつかは今も生き残っている。

 

 仏像には数多くの種類がある。如来でも阿弥陀如来大日如来は違う。菩薩でも弥勒菩薩地蔵菩薩は意味と歴史が違う。観音菩薩でも千手観音と馬頭観音は、姿形が違う。したがって、姿形に関する多くの決まりごとがある。

 それらを作ろうとするときに、当然ながら顔は一つなのか、三面なのか、手は何本なのか、何を持っているのか、どういう手の形(印相)なのかを知らなければならない。それらの特徴によって仏の種類と意味を示さなければならないからだ。しかし実際のものには、かなりの違いがある。

 昔の地方の貧しい寺や石工が、そうした正確な知識を持つことは難しかっただろう。そうした規則(儀軌)を記した典籍や何らかのお手本が必要なのだが、そうしたものを見ることはなかなか難しかっただろう。そのために、地方をめぐる修験者などがもたらした、木版の刷物やお札などを、多少怪しげではあっても、参考にすることもあっただろう。

 さらに、仮にある程度正確な御手本があったとしても、それを忠実に再現するのは石という素材の上では技術的、費用的にかなり難しい。したがって、省略、簡略化が行われる。例えば馬頭観音は、本来慈悲相の観音の中で唯一憤怒相の三面六手なのだが、数多い実際の石仏としての馬頭観音においては、ほとんどがシンプルな造形の一面二手合掌の慈悲相として表されている。飼馬を供養する施主の心情としては、正確さ云々よりも、むしろその像容の方が心に叶うのだろう。

 

 足摺山の三十三観音を、記された番号と像容、「千手・十一面・如意輪」などの刻字を対照させてみると、そこに多くの齟齬や間違い(?)、混同を見出す。「弥勒」や「八目」といった像との関係が不明瞭な刻字もある。

 だが、彫りの仕事のレベルを見る限りにおいては、素朴ではあるが、かなりまじめに複雑な仕事をしており、手を惜しんではいない。ということは、そうした間違いや混同は、結局のところ、三十三観音霊場や各種観音像に関する基本的な知識の少なさと、それを補うべき良いお手本がなかったことに由来する、おおらかないいかげんさなのではないかとも想像されるのである。

 足摺山三十三観音霊場についての、創建時期、創設の経緯等の基本的な情報を、私はまだ知らない。いずれにしても昔(江戸後期前後?)の山陰の山あいの小集落というものを想像してみれば、この程度の儀軌上、図像上の間違いや混同など、大した問題ではないと思えなくもない。それを補って余りある複雑さをいとわぬ丁寧でまじめな仕事ぶりは、当時の人々の信仰をあつめ、今に至ってもなお野趣と地方色と素朴さにあふれつつも、何か味わい深いものを今なお呈示しているからである。

 また、洋の東西を問わず、歴史上における造形や表現とその規範(御手本、粉本)との関係といったことに、多少なりとも考えを巡らさずにはおれない気になるのである。

 

 

1. 十一面観音、17番。

 十一面観音の図像上の最大の特徴は、頭部にある十一面の顔。ふつうは2手で、右手に念珠、左手に蓮華(を挿した水瓶)を持つ。だがこれは頭部に十一面あるものの、左手:施無畏印、右手:与願印で、持ち物はなし。



 

2. 十一面観音、25番

 十一面観音の中には、左手は蓮華を挿した水瓶、右手に数珠の代わりに地蔵の持つ錫杖を持つものもあり、こうしたタイプのものは「長谷寺式観音」と言われるらしい。ただし、足摺山にある「十一面」は、数珠ではなく三叉戟だったり、また数珠は持っているが、錫杖ではなく開敷蓮華だったりするからややこしい。これは左手:開敷蓮華、右手:与願印に数珠。



 

3. 十一面観音、26番(二十六バン/二十四バンとも読めるのが悩ましい)。

 手は千手観音の表現で、錫杖と三叉戟を持った「長谷寺式?」座像。

十一面観音の中には、例は少ないが、「十一面千手観音」(文京区光源寺にあるらしいが私は未見)というのもあるらしいから、「十一面」と書いてあって「千手」ということも間違いとは言い切れないかもしれない。だが、26番なら聖観音のはずなのだが??もし24番なら十一面観音で間違いない。

 

 

4. ややこしいことに、もう二体26番と読めるものがある。

 こちらには「〇〇(読めず)千手 廿六ば(変)ん」。〇〇が気になるところだが、像容は3をそのまま立たせた感じの、また後にいくつも出てくる、千手・十一面・錫杖と三叉戟持ちの立像。だんだん混乱してきた。

 

 

5. 十一面観音、33番(三十三[変体仮名]ん)。

 二手タイプ。



 

6. 不思議なことに33番(丗三ば[変体仮名]ん)、「千手」も、もう一つある。

 こちらは千手観音タイプ。33番なら十一面観音のはずだが?

 

 

7. 「聖」、31番と彫られているから、聖観音ということだろうと思うのだが、表現としては千手観音タイプで、錫杖と三叉戟を持っている。

 ちなみに聖観音とは三十三通りに変化する観音の変化しない標準形と言うべき姿で、ふつうは左手蓮華、右手与願印か蓮華に添えるだけ。千手の要素はない。

 だが三十一番長命寺の札所本尊は、ここだけは特別に(?)「千手観音十一面観音聖観音」なので、間違いともいえないのか。

 

 

8. ここから本来の(?)千手観音。

 番号は不明。錫杖と三叉戟持ち。

 

 

9. 26番、千手観音。

 苔に覆われて読み辛いが、三つ目の26番。これには「千手」と彫られているが、二手。26番なら聖観音で像容的には合っている。

 

 

10. 6番、千手観音。

 「如意」とあるから如意輪観音だろうが、像容的には1の十一面観音(千手タイプ)と同じ。面白いし味のある像容的なのだが…。

 

 

11. 13番、如意輪観音

 「二臂如意輪」とあり、半跏座像ではあるが、如意輪観音の最大の特徴である頬杖をついた「思惟」像ではない、中途半端な像容。

 

 

12. 如意輪観音半跏思惟座像、1番。

 これは他と比べても、特に彫りの良い、円光や開敷蓮華と未敷蓮華を組み合わせるなどした立派な造作である。石工の棟梁が彫ったのか?にもかかわらず、11と同じく「二臂(手)如意輪」とあるが、四臂(手)である。何か意味があるのだろうか?ああ、もう何だかわからない。

 

 

13.  4番、千手観音。

 「弥勒」とあるが、4番の槇尾寺なら本尊はこの通りの千手観音。弥勒菩薩を本尊とする札所はない。これまでにも見られた番数と本尊の食い違い。

 

 

14 準提観音、11番。

 ふつうは「准胝観音」と表記する。三眼十八手、ないし八手が基本で、この像は14手のように見えるが、おおむね儀軌に近い。

 

 

15. 9番、不空羂索観音

 9番だから不空羂索観音で、多臂で異形像が多く、仏としては作例が少ないということだが、六臂で羂索を持っているから儀軌どおり。「八目」の意味は不明。



(記:2022.6.25)

山歩記+石仏探訪・38 「知られざる石仏の山 足摺山」(2022.6.3)

 5月30日~6月4日、所用2件を携えて帰郷(所用の件は省略)。その一日、萩市(旧阿武郡田万川町)の足摺山に登った。出発直前にKがネットで見つけた石仏の山だが、ほとんど知られていない。私も知らなかった。急きょ、高校山岳部OB関係の5人が集まる。

 

 この山には、最近まで登山者はほとんど訪れなかったようで、古い道型は残っているが、入下山口とも、手入れはほとんどされておらず、薄暗い常緑樹林の落ち葉の堆積で滑りやすい。1時間ほどで快適な尾根に乗る。

 326mの山頂には、古い石祠を構築していたかと思われる自然石の重なり。南に戻り、尾根を辿れば、急に展望が開け、岩稜が続いている。このあたりの地形を形成した古代の火山活動の名残で、山麓には関連した柱状節理が多く見られる。

 その岩稜上に多くの石仏が置かれている。「○○バン(番)」、「千手」などの文字が刻まれ、西国観音霊場の写しだと思われた。しかし、見ると「西ノ河原」と刻まれた子を連れた地蔵や、「文殊」と刻まれた像、弘法大師を祀った小堂などもあり、わからなくなった。

 ともあれ、点在する石仏と、遠望する中国地方の山々を愛でつつ、快適な岩稜歩きを楽しみながら下った。

 

 結局、山稜には全部で33+3、全部で36体の像があるそうだ。いずれもこの手のものとしては、かなり複雑な図像を刻んでいる。それでいながら野趣と地方色と素朴さにあふれた、味わい深いものだった。造立年等は確認できず、江戸末期前後と思われるが、もう少し詳しく知りたいものだ。

 全体としては、おそらく西国観音霊場の写しに、そこに弘法大師関係のなにがしかの像と意味をつけ加えたのだと思われる。こうした観音霊場には、麓にそれと関連した寺があるのが普通だが、地図で見ても無い。廃寺となったのか。帰宅後に知ったのだが、下山地点の近くには一畑薬師分霊所開作奉安所という御堂があるらしい。山稜の石仏群は、それとの関係で設置されたものと思われる。また、以前は周辺の集落から登る道がいくつもあったとのことだから、それなりに信仰の場として栄えたのだろう。

 いずれにしても、まったく知らなかった山と石仏群。標高は低いが、良い山だった。中国地方山口県の山々の風情も実に良かった。全国にはまだこうした観光地化されていない、知られざる良い山、良い石仏群があちこちにあるのだろう。それを思えば、こうして投稿するのに若干のためらいがなくもないのだが…。

 (*写真については、メンバーが撮った写真が一部含まれています。やはり私のコンデジよりもスマホの写真の方が良く撮れている…。)

 

 

1 登り始めは暗い植林帯から、密生したスダジイなどの照葉樹林体。年間通しての落葉の堆積で滑りやすい。道型はしっかりしているが、注意が必要。

 

 

2 樹は多いが気持ちの良い尾根に出るとほどなく326mの足摺山山名表示板。標高差246m。下には古い石祠を構築していたかと思われる自然石の重なり。

 南に下がった310m圏を正しい(?)山頂とする表示板もあるが、要するにこの山体一帯を足摺山と言うのだろう。

 後輩のF嬢K先輩の奥様。今どきの山ガール(?)はファッショナブル。

 

 

3 いきなり展望の開けた、いくつもの石仏が置かれた小平地に出る。ここで豪華なランチ。

 

 

4 見下ろす山里。中国地方、あるいは日本。

 左は千手観音、右、聖観音。どちらも凝った彫り。

 

 

5 千手観音。左に持つのは錫杖、右は三叉戟。



 

6 「文殊」とあるから文殊菩薩。この左には子連れの地蔵菩薩。いずれも観音ではない。



 

7 かたわらには朽ちかけた石州瓦葺きの小堂に素焼きの弘法大師像。なにかもう一体右にあったはずだが、今は見当たらない。弘法大師とくれば四国八十八ヶ所となるのだが…。



 

8 岩稜上の石仏群。良い感じ。

 

 

9 同じく、良い感じだ。



 

10 こうした細長い岩稜がしばらく続く。気分が良い。

 

 

11 牛の背という所か? 牛の背というよりは馬の背のようで、ちょっと違うか?



 

12 地元の伝説にある大男の足跡と言われる窪み。左にもはっきりしないが、それらしきものがある。

 

 

13 下山後、帰りがけに近くの畳ヶ淵に寄る。六角形の柱状節理の岩壁と川床。奥に見えるのは竜神社。

 

 

14 竜神社の内部。「天保十一(1840年)~ 石宝殿改」とあるから、江戸中期ごろにはこの前身となる信仰の場が成立していたのだろう。

 

 

15 その夜は、山行には参加できなかった高校山岳部仲間も集まった。会場は私の定宿K氏宅の古い方の座敷。昭和の飲み会。

 

(記・FB投稿:2022.6.6)

旅のカケラ 「和歌山由良町・黒岳・重山と奈良葛城市点描」

 (前後しますが、4月16日に新幹線車中からFBに投稿したもののブログ再録です。)

 

 旅に出ています。前半、奈良葛城から和歌山由良町へ。

 一日、海釣り(チヌの紀州釣り)に挑戦するも、釣果ゼロ。日に焼けただけでした。

 一日は一人、近くの黒山と重山に登る。前者は道形はあるものの、最近はほとんど歩かれておらず、途中から獣道に入り、予定外のところに下山。気を取り直して、次の重山は快適。頂上には予期せぬ室町前後の石仏群。ともに300mに満たない低山だが、南国照葉樹林の印象的な山登りとなった。

 一日、和歌山県立美術館と橿原考古学研究所附属博物館を見る。

 合間合間に行き当たりばったりの石仏探訪。

 なかなか興味深い奈良・和歌山の旅でした。

 明日からは後半、故郷山口の旅と用事。現在、新幹線で移動中。

 

 

↓ 友人Fの別荘のベランダから見る白崎。一頃クライミングの対象として脚光を浴びたが、現在は登攀禁止だとのこと。

 

 

↓ 大引集落で見た石垣に根をはるガジュマル(?)。

 

 

↓ 紀伊水道に沈む夕陽。

 

 

↓ 右前方、黒島に設置された釣り用筏に向かう。Fの強い希望で、紀州釣というかなり専門的な釣に挑戦したが、できればもっと気楽な雑魚釣をしたかった。



 

↓ 南国の海。美しいけど、魚は釣れず。海猫はうるさい。日がな一日、紀州釣とて糠団子をこねては投入することの繰り返し。

 

 

↓ 衣奈から耕作放棄されたミカン畑(?)の谷筋を辿り、黒山242mから八重越をへて番所山161.1mへの予定が、半ばすぎ239.5mピークの先で、獣道に導かれ、予定外の吹井方向に下山。尾根上は確かに圧倒的な猪の道。



 

↓ 次いで登った重山262.6mの遠望。美しい乳房型。こちらはルートが良く整備されており快適。途中の魚見台、雨乞台、山頂の石仏群と、民俗学的コンテンツも充実。楽しめた。



 

↓ とある日の日没。雲のせいか、カメラのせいか、こんな歪んだ不思議な夕陽が写った。

 

 

↓ 和歌山県美では本命の「月映」系の版画は見れなかったが、かわりに以前からきになっていた野長瀬晩花(日本画家 1889-1964年)を少しまとめて見ることができた。

 

 

↓ 個人的には評価され過ぎではないかと思っている白髪一雄(1924-2008)も、大作の現物を見るとやはり魅力がある。

 

 

↓ 重山山頂にあった板碑型五輪塔。この地方には結構あるようだが、私は初めて見た。詳細はこれから調べます。

 

 

↓ 宝永2/1704年の道標。
梵字種子:キリーク/阿弥陀如来 左 よし野 かうや(高野)」などという文字が読み取れる。書体も含めて、全体に良い味だ。

 

(記・FB投稿2022.4.13)

旅のカケラ「山形の旅から」(2022.5.26)

 写真、カメラ、撮影が苦手なのは昔から。最近はそれでも少しは人間が丸くなってきたのか、写真を撮ることも増えてきた。だが、スマホと、コンパクトデジカメのオート以外は使えない。

 写真と撮影の基本スタンスは、資料として。制作や、研究・考察のための資料であって、写真それ自体を自分の作品や、アートや、楽しみとしてとらえてはいない。

 だが海外を旅するようになり、またスマホを使用するようになって以来、写真を撮る機会が増え、いつしか「資料」の範疇におさまりきらぬ写真も増えてきた。そうした範疇と目的のゆらぎは、自分でも少し興味深い展開ではあるが、まあそれは、今は措く。

 ともあれ、そうした資料ではないが、どこか捨てがたい味わいの、旅先で拾ったいくつかのカケラ。旅にはいくつかの実際的な目的も含まれているが、ほんらい旅すること自体が目的なのだから、「資料(のため、として)」という目的意識性とは別の、こうした旅のカケラこそがその旅の味わい、匂い、印象を形づくるものなのだろう。先日の山形の旅でひろった、そんなカケラをいくつか取り上げてみる。

 

 

1. 山形は人が少なく、土地は広く、広い道路が山林と接している。七十歳近い、運転免許を持たぬ我々二人が自転車でヒーヒー言いながら走っていると、路傍にこの木、花が現れた。

 

 高い杉の木のてっぺんまで藤の花が満開。およそ山村では、藤は木を締め付け殺すとして嫌われ者。道路際の半端な立地条件がゆえに、こうして放置され、大きくなったのだろう。ここまで大きくなると、家主である杉の木を乗っ取って、堂々たるメルヘンである。

 

 

2. 同上、少し拡大。これは絵になる。

 

 

3 地元に住むIは見慣れているためか、興味を示さず、通り過ぎようとする。私はあわててこの千載一遇の景を撮るために自転車を止めた。

 

 

4 I氏宅の近所にあった洋館の廃屋。ウン十年前のこの地方には珍しい洋風建築で、幼いころの彼の異国趣味をかきたてたとか。手前には煉瓦造りの暖炉があったことを示す構造が見える。新しいガードミラーとの対比。

 持ち主は地元の名士だったが、その後、熱海の芸者(?)との色々な事件(?)など、まさに江戸川乱歩的な物語もあったらしいが、詳しくはわからない。

 

 

5 同上、裏手の棟続きの建物。こちらは旧来の茅葺の田舎風で、全体としては和洋折衷の家だったようだ。現在は廃屋となって、無常の感をそそる。

 

 

6 その近くの耕作放棄された畑の、一面の、何の花だろう。シシウドに似ているが違う。これはこれで、無常の影をたたえた美しさ。

 

 

7 天童市雨呼山を登りに行った時の景。山間の集落から沢を渡って、山仕事に向かう路にかかった橋。それなりに立派な造りだが、最近は渡る人も少なそうだ。その先の山路も草深い。

 

 

8 村山市大淀の羽黒神社に登った。標高差70mほどの山頂の羽黒神社の脇に、小さな弊社が二つ。その前に置かれた燈明立て(正式名称は知らない)。

 穴の開いた石を重しの基礎とし、太い番線を通して手作りしたもの。機能と目的を追求したプリコラージュ。ほぼ絶品の造形と言っていい。

 

 

9 ついでに、その隣にあった別の弊社の燈明立て。こちらは完全手作りとはいえないが、小さいだけに民芸風の味わいのあるもの。

 同様のものはアジアの仏教・ヒンドゥー教圏や、西ユーラシアのキリスト教圏等にもある。そもそも、なぜ人は神仏の前で灯を灯すのか。花や香や楽曲やお経などと同じく、供養、捧げものの一形態だということはわかるけれども…。

 

 

10 同羽黒神社、本殿外壁に浮かび上がった模様。

 打ち込まれた釘の錆(鉄分)が染み出した「クサレ」だという。李禹煥の作品ではないが、彼の意図したところと通ずるものがある。作為したものではなく、モノ自体があらわに発現するコト。芸術ではないが、アートの領域だ。

 

 

11 村山市を流れる、というよりも、山形県を代表する大河、最上川が大きく蛇行する、大淀と呼ばれるところ。惜しむらくは対岸の左側の樹々が大きくなり過ぎて、葉山の全容が見えにくいこと。それはそれとして、水量豊かな川の中流域というのは、良いものだ。

 

 

12 村山市の白鳥城址

 なんの予備知識もなく、出会った看板に導かれて登ってみた城址、白鳥城。

小さな山城か山砦といった規模。戦国時代にあまり興味はないが、現地に佇めば多少の感慨がなくもない。

 

 それとは無縁に、疲れ果てて、最上川の対岸の奥羽山脈方面を眺めるI氏。ベレー帽の横から白髪がのぞいている。フリードリッヒの絵のような。悠久の山河と無常の城址。絵描きと光と風。

「旅の余録―旅のカケラ 奈良~和歌山~山口篇」

 4月10~12日の11泊12日の旅を終え、帰京した。11泊12日はけっこう長い。

 奈良県の葛城市・御所市・奈良市和歌山県由良町山口県の下松市・山口市防府市を訪れた。実家の改葬関係のミッション(これが旅立ちの理由)のほかに、3回の山行で4つの山(低山ばかりだが)に登り、2つの美術館・博物館に行き、8夜、酒を飲み、温泉に1回行き、そのほかに数多くの神社・仏閣・路傍の小堂等を訪れ、無数の石仏・石造物を見、写真を撮った。

 帰宅して以来、各地で撮りためた無数の石仏・石造物写真の分類・整理・考察に追われ、昨夜ようやく一段落着いたところ。間を開けると、記憶も資料も劣化してしまう。

 そろそろ生活を制作中心モードに戻さなければいけない。というわけで(?)、とりとめも、前後関係もあまりなく、旅の印象の断片をいくつか。

 

 

 ↓ 和歌山県由良町の沖、黒島の筏で釣をしていると、この鳥がミャア-、ミャア-と啼き騒ぐ。同行のFはカモメだというが、ミャア-、ミャア-とは啼かないだろう。調べたらやはりウミネコだった。両者共にカモメ科だが、海猫と言えば、なんとなく少数が北日本日本海側にいるだけだと思っていたらそうでもないようで、むしろ純正のカモメの方が今では見ることが難しいのだとか。

 釣れない私を小馬鹿にしたような横目でずっと見ていた。

 結局カモメではなかったけど、「春の岬 旅の終わりの鴎(カモメ)鳥 浮きつつ遠くなりにけるかも」(三好達治)の風情。

 

 

 ↓ 日暮ヶ岳693mを登り終えて、麓の大原湖(ダム)上流の施設でバーベキューランチ。ふと、傍らの佐波川を見ると、1羽の白鳥。ダムの上流だから、若干の高低差がある瀬の流れは少し急で、そこは乗り越えにくいのか、このあと少し急な部分を迂回して、小石だらけの右の岸を多少、弱っているのか、ヨタヨタと這い上がり、上流に行った。

 それにしても、なぜこんなところに、こんな時期に白鳥がいるのか?地元在のTは「あれは、はぐれ白鳥と呼ばれ、1羽だけで通年ここに住んでいる。別にもう1羽、もう少し下流にもはぐれ白鳥がいる。」とのこと。白鳥にもいろいろな事情があるのだろうとは思うが、なんか少し、哀しいものを見たような気がした。

 

 

 ↓ 特にリクエストしたわけでもないが、帰郷すると、高校山岳部時代の先輩、後輩が何人か集まって山登りをする。この日の山は山口市(元は佐波郡徳地町)の日暮ヶ岳693m。みんな50年前と(あまり)変わらず、元気なものだ。

 麓の大原ダムの底には、私が生まれる前の先祖代々の家が眠っている。日暮ヶ岳登山口の「青少年自然の家」は、小学生だった父をはじめ、部落全体が牛に食べさせるための草を毎日のように刈りに行っていた台山と呼ばれていたところ。個人的な感慨ではあるけれども。

 

 

 ↓ 登り口の標高が高いせいで、登り1時間、下り30分。みんなの後ろからゆらゆらと下っていく。50年以上、こんなことをやっている。

 

 

 ↓ 途中にあったフデリンドウ(筆竜胆)。あきる野市のわが家の近くでも見かけるが、新緑の山野に青紫の色が強い。



 ↓ 日暮ヶ岳登山、解散後、途中の「野谷の石風呂」に寄ってみる。源平の争乱で焼失した東大寺の再建に奔走した俊乗房重源が、その用材搬出等に当たった人々の衛生治療を目的で作った石風呂。狭い穴の中で焼石に水をかけ、その蒸気に当たる蒸し風呂(サウナ)である。この地域には他にも残っているが800年以上も前のものが、ほぼそのまま残っているのは驚き。

 

 

 ↓ 石風呂の入口。人一人、身をかがめてやっと入れる大きさ。写真には写っていないが、入口の右には「拝み石、念仏石」と呼ばれる1m弱の石が建っており、出入りの際にはそれに向かって、名号やお経を唱えたというから、入浴という衛生治療措置も、東大寺再建という宗教行事の一環に位置づけられていたということだろう。

 

 

 ↓ 由良町の黒岳に衣奈集落から登った。地図に道記号はあったものの、上部の畑は長いこと放棄されたままであり、道は荒廃していた。 ミカン栽培の盛んだったころをしのばせる名残が散乱し、その荒廃ぶりはむしろ見ごたえがあった。その途中の落椿。荒廃の美と照応するかのような、腐爛の美。



 ↓ 防府市滞在中お世話になったK宅の近くを流れる迫戸川。佐波川本流から引き込まれた用水。この用水をはさんで山側に家々が並び、その出入りのために自家用の橋がかかっている。中にはいくつかこのように、立派な花崗岩の長い材を数本並べたものがある。いつ頃からのものかわからないが(そう古いものではないと思うが)、良く見ると、生活感のある良い風情だ。考えてみれば、かなり贅沢な話(=個人用石橋)だ。

 

 

 ↓ 山口市徳地深谷正覚寺に行った。小さくはないお寺だが、現在は無住のようで、その裏に、この小さな物置だったと思われる建物があった。藁葺き、土壁造り。集落の人が減り、寺は無住となる。滅びるものは滅び、朽ちるものは朽ちていく。パンタレイ(万物流転)と言うのは大げさかもしれないが、そこにも美しさはある。

 

 

 ↓ 山口市屋敷で見た石仏群。地蔵1基といくつかの自然石の墓標群。詳細不明。

 

 

 ↓ その地蔵の前垂れを、観察のため、失礼ながら取り除いてみた。胸に二つの切れ込みがある。その切れ込みは乳房を表しているように思われる。同行の女性たちにも意見を聞いたが、乳房だろうと言う。こうした表現は初めて見た。

 観音では具体的に乳房をあらわにし、童子を抱いている乳観音と言われるものはいくつもある。乳房地蔵で検索するといくつかはヒットするが、具体的に乳房を表現しているものはまだ確認できていない。

 もとより仏であるから、理念としては男性女性ということはあまり言わないのだが、実際の庶民レベルでの像塔においては、その意識が強く出ているものも多い。

近所の人に話を聞いてみたいが、誰もいない。今のところ詳細不明としておくしかないが、もう少し調べて見たいものだ。基礎には「宝暦」(1751~64年)の刻字。

 

 

 ↓ 故郷、防府市桑山の護国神社正面の右にあった「奉納戰利品」の砲弾。

 「明治四十季三月 陸軍省」とある。左には対をなして同様の砲弾があり、「奉納 国務大臣 武村正義」とあり、平成7年に設置されたものである。あるいは、元は神社近くの桑山招魂場にある「砲彈柵」の前に置かれていたのではないかと思われる。

 同様の「戦利品」や「凱旋記念」の「奉納」は東京や埼玉でこれまで何度か目にしており、おそらく日本中のあちこちの神社にあるのだろう。時代背景等からすれば、やむをえないと思うが、平成7年に国務大臣の名をもって奉納するというのはいかがなものか。私がこれまで置かれているのを見たのは、熊野神社神明社といった、鎮守や産土神社だったが、ここは護国神社。神社・神道といっても様々なそれがあり、一概には言えないのだが、護国神社神社本庁といった組織のきな臭さを嗅いでしまうのである。ロシア‐ウクライナの教会にも、いずれこうした奉納がなされるのだろうか。

 

 ↓ 山口市徳地深谷の平岡神社、遠望。

 この角度は神社の正面にあたり、参道があるはずなのだが、無い。消滅して田んぼになったのか。それはそれとして、過疎集落にあって、良く雰囲気の残された、いかにも鎮守・産土神社といった風情だ。

 庶民レベル(?)では、仏教でも神道でも、亡くなった人の霊は30年とか50年とかすると、個性や人格を失い、一種の集団霊=祖霊として子孫を見守るようになると言われている。公式の祭神はともかく、その祖霊を祀るのが鎮守や産土神社だから、この風情には、なんとも言いようのない懐かしさをおぼえるのである。

 

(記・FB投稿:2022.5.1)

小ペン画ギャラリー-24 「世界・社会・歴史関連」

 ウクライナミャンマー、シリア、イエメン、等々の現在進行形の事態。

 物心ついたときにはベトナム戦争。以後、カンボジアパレスチナ中南米ソ連のアフガン侵攻、ユーゴスラヴィア内戦、湾岸戦争…。戦争、紛争、内戦の火の途絶えた年はなかった。時代のせいか、多くは対岸の火事としてしか捉えられなかったにせよ。

 国内、自然界においては、阪神淡路大震災や3.11、そしてコロナ禍。それらに芸術家はどう向き合うか、などといった言説が飛びかった。

 現在進行形の世界・社会の事象に、芸術家はどう向き合うか。

 私は、それらを直接描こうとは思わない。「紅旗征戎吾がことに非ず」ということではない。大きすぎて描けないのである。だから、そうした事象をも作品化したブリューゲルボッシュゴヤなどには、驚嘆し、畏敬の念を抱く。

 第二次世界大戦時のドイツのオットー・ディックスやゲオルグ・グロッス等についても、ほぼ同様。

 私は、芸術を「夏炉冬扇・無用の用」とする思想を否定しない。それでいながら、事象の深部に潜む本質に迫る大きな仕事を、時間をかけてやりたいとも、ぼんやりと夢想する。

 

 それとは別に、小ペン画というごく小さな場では、日々の暮らしの背景としての、そうした今現在、あるいは過去の世界・社会の事象が、ある程度率直に影を落とすことがあることを知っている。割合としては多くないが、今回紹介するのは、そうした作品の一部。

 「描きとどめておくこと」は大切だ。「私の世界」は「私の外の世界」と無縁ではない。「私=世界」「現在=過去」という鳥瞰的視座(=世界観)は、芸術家にとって絶対に必要なものだ。現れたものが理解されにくいものであっても、かまわない。世界・社会の事象自体がわかりにくいのだから。文脈によって絵が描かれるのではなく、描かれることによって意味が発現する。

 

 

 ↓ 60「嵐」

 2019.9.30-10.19  15.2×12.6㎝ 和紙に膠引き、ペン・インク

 

 欧米タイプ(?)の原発の図。スリーマイル島の事故はいつのことだったか。チェルノブイリの二日後に私の息子は生まれた。

 原発放射能汚染のリスクと、化石燃料使用による温暖化のリスクを考えると、どうあるべきかがわからない。太陽光発電里山のあちこちに乱立し、耐用年限後の発電パネルの無毒化さえできず廃棄され埋め立てられている現状を知ると、信頼できない。あれやこれやと、悩ましい限りである。 

 

 

 ↓ 140「抗議する花の子(グレタ)」

 2019.12.5  8.8×8.3㎝ 和紙・膠引き、ペン・インク・色鉛筆

 

 気候変動等に異議申し立てをしたグレタさんを、初めてテレビのニュースで初めて見、その理念を聞いた時、驚愕した。その3秒ぐらいの印象で描いたもの。似せようという気もない。

 彼女、そして影響を受けた若者たちが、SDGsの観点から、確実に世界を変えようとしている。偉そうなたしなめ顔から、あきらめ顔に変わる大人たち。問われる「無責任の罪」。 

 

 

 ↓ 408「黒蘭」

 2020.11.29-12.10  14.8×10.4㎝ 水彩紙にペン・インク・ガンボージ・水彩

 

 関東軍主導で樹立した満州国(1932-1945年)。国際連盟は承認せず、日本の傀儡国家というのが世界の定説である。隣接する蒙疆と言われた地域を旅したことがある。

 現在でもトルコしか承認していない北キプロスアルメニアがらみのナゴルノ・カラバフ共和国のほか、今回のウクライナ侵攻で派生的に注目を浴びている沿ドニエストルや、ジョージアとの国境のアブハジア南オセチアといったロシアがらみの国(地域)を傀儡国家とは言わないのか?よくわからない。ともあれ、「五族共和・王道楽土」と同様の口当たりの良いスローガンは、何度も繰り返されるということだけは確かなようだ。

 芥川龍之介の江南・上海旅行を扱ったテレビ番組でチラッと見た場面がきっかけだったように思うが、よく覚えてはいない。画中背景には満州の国旗、左胸の蘭は満州国の国章。

 昔の植民地-コロニアル趣味には、たしかにある種のエキゾチシズムを感ずるのだが、その美しさは危ないということを、自覚しなければならない。

 

 

 ↓ 487 「辺境の村の少女への危険な誘い」

 2021.7.23-30  16.8×12.4㎝ 木炭紙に水彩・ペン・インク

 

 「あいトリ/表現の不自由展」以前の中学高校生時代から、植民地朝鮮支配時の強制連行等については、間接的ながらも見聞きし、読んでいた(私が朝鮮半島に近い山口県出身だということもあったのだろう)。出稼ぎや、経済的困窮からの自由意思による渡航もあっただろう。だが並行して、戦時下の従軍慰安婦問題が存在したことは事実だ。

 描くには重いテーマだが、イメージが降りてきたからには、描かないわけにはいかない。何の図像資料を見たわけでもないから、チマチョゴリに見えなくても構わない。

 

 

 ↓ 498「 隘勇線にはばまれて」

 2021.8.3-8  21×15㎝ 和紙(?)に油彩転写・水彩・ペン・インク

 

 日本がかつて植民地としていた頃の台湾。生蕃(後に高砂族と呼称)と呼んでいたアミ族等の先住民対策に手を焼き、総延長470㎞の柵と砦を構築し、それを次第に狭め、順次高地山岳に追い上げ、餓死に追いやるという施策。それを「隘勇線」と言う。

 トランプのメキシコ国境の壁、パレスチナガザ地区エルサレムユダヤ人入植地の壁、遡ればユダヤ人自身が追い込まれていたゲットーと同根のもの。ほとんどの日本人はこうした過去を知らない。台湾にも私の教え子がいる。 

 日本の台湾植民地経営のことについて淡い興味はあったものの、「隘勇線」の言葉は最近まで知らなかった。何かの拍子にそれについて少しばかり調べたことが、この作品を生み出した。画面やタイトルを見ても、その意味内容はわからないだろう。だが、とりあえず、描きとどめておくこと。

 

 

 ↓  480 「出口」

 2021.7.17-27  21.7×16.5㎝ 和紙にドーサ、油彩転写・水彩・ペン・インク

 

 「アラブの春」の最悪の結果(現在進行中)、シリア。対ISだか、アサド政権対反政府勢力だか、わからないが、人々が人間の盾として行き場のない情況を、報道番組で見る。「出口なし」という普遍性。 

 

 

 ↓ 450「三指の旗を掲げて歩く人」

 2021.4.21-29  16.×12.4㎝ 木炭紙にペン・インク・水彩・ガンボージ

 

 縁あって訪れたミャンマー。その1年後に起きたクーデター。

 現地の大学でレクチャーをしたことでFB友達になった若い学生たちから、リアルな投稿が続々と届いた。彼らの非暴力・不服従を旨とした、SNSを駆使した世界への発信は、地政学的な情況からか、残念ながら世界からは注目されること少なく、今日まで膠着状態(-貧しい戦争)が続いている。

 ささやかな寄付をすること以外に有効な支援の方法を見出せず、不服従のシンボル「三本の指」を入れてこの絵も描いてはみたものの、現実の事象から描くことの難しさを痛感しただけであった。

 

 

 ↓ 566「主張する男」

 2022.3.2-4  15.7×12.2㎝ 手漉き洋紙に膠、水彩・ペン・インク

 

 ロシアのウクライナ侵攻こそは驚愕だった。理性的、合理的にはありえない話。

 ごく初期の報道番組で演説するプーチンを見ながら、覚えず手が動いていた。手元など見はしない。その間、数秒。見ればプーチンにわずかに似ていた。

決して「プーチンという人物」を描こうとしたのではない。「事実」と「真実」のせめぎ合い。描きたかったのは、冷徹な男が冷徹に「真実」を主張し、実行する、その普遍性なのだと思い至る。

 しばらくたって、次のクレーの作品と、少しばかり重なるところを見出した。

 

 

 ↓ クレー 「プロパガンダの寓話」1939年 詳細不明

 

 

 ひと頃クレーの作品画像を集めていた。膨大な数の同じ画像が出てくる中で、この画像だけはただ一度出てきただけ。初めて見た作品。

 「退廃芸術家」と規定され、危機のうちに生まれ故郷のスイスに亡命するも、容易には市民権を獲得できず、病気に苦しみ亡くなる前年の作品。

 ヒトラーを描いたものであることは間違いないが、タイトルも「プロパガンダの寓話」とあるだけで、多くは語っていないように見える。

 現実そのままに描くことはなかったクレーだが、当然ながら世界や社会の事象は時空を越えて、彼の作品世界に独特の影を落としている。

 

(記・FB投稿:2022.4.9)