艸砦庵だより

河村正之のページ 絵画・美術、本、山、旅、etc・・・

「旅の余録―旅のカケラ 奈良~和歌山~山口篇」

 4月10~12日の11泊12日の旅を終え、帰京した。11泊12日はけっこう長い。

 奈良県の葛城市・御所市・奈良市和歌山県由良町山口県の下松市・山口市防府市を訪れた。実家の改葬関係のミッション(これが旅立ちの理由)のほかに、3回の山行で4つの山(低山ばかりだが)に登り、2つの美術館・博物館に行き、8夜、酒を飲み、温泉に1回行き、そのほかに数多くの神社・仏閣・路傍の小堂等を訪れ、無数の石仏・石造物を見、写真を撮った。

 帰宅して以来、各地で撮りためた無数の石仏・石造物写真の分類・整理・考察に追われ、昨夜ようやく一段落着いたところ。間を開けると、記憶も資料も劣化してしまう。

 そろそろ生活を制作中心モードに戻さなければいけない。というわけで(?)、とりとめも、前後関係もあまりなく、旅の印象の断片をいくつか。

 

 

 ↓ 和歌山県由良町の沖、黒島の筏で釣をしていると、この鳥がミャア-、ミャア-と啼き騒ぐ。同行のFはカモメだというが、ミャア-、ミャア-とは啼かないだろう。調べたらやはりウミネコだった。両者共にカモメ科だが、海猫と言えば、なんとなく少数が北日本日本海側にいるだけだと思っていたらそうでもないようで、むしろ純正のカモメの方が今では見ることが難しいのだとか。

 釣れない私を小馬鹿にしたような横目でずっと見ていた。

 結局カモメではなかったけど、「春の岬 旅の終わりの鴎(カモメ)鳥 浮きつつ遠くなりにけるかも」(三好達治)の風情。

 

 

 ↓ 日暮ヶ岳693mを登り終えて、麓の大原湖(ダム)上流の施設でバーベキューランチ。ふと、傍らの佐波川を見ると、1羽の白鳥。ダムの上流だから、若干の高低差がある瀬の流れは少し急で、そこは乗り越えにくいのか、このあと少し急な部分を迂回して、小石だらけの右の岸を多少、弱っているのか、ヨタヨタと這い上がり、上流に行った。

 それにしても、なぜこんなところに、こんな時期に白鳥がいるのか?地元在のTは「あれは、はぐれ白鳥と呼ばれ、1羽だけで通年ここに住んでいる。別にもう1羽、もう少し下流にもはぐれ白鳥がいる。」とのこと。白鳥にもいろいろな事情があるのだろうとは思うが、なんか少し、哀しいものを見たような気がした。

 

 

 ↓ 特にリクエストしたわけでもないが、帰郷すると、高校山岳部時代の先輩、後輩が何人か集まって山登りをする。この日の山は山口市(元は佐波郡徳地町)の日暮ヶ岳693m。みんな50年前と(あまり)変わらず、元気なものだ。

 麓の大原ダムの底には、私が生まれる前の先祖代々の家が眠っている。日暮ヶ岳登山口の「青少年自然の家」は、小学生だった父をはじめ、部落全体が牛に食べさせるための草を毎日のように刈りに行っていた台山と呼ばれていたところ。個人的な感慨ではあるけれども。

 

 

 ↓ 登り口の標高が高いせいで、登り1時間、下り30分。みんなの後ろからゆらゆらと下っていく。50年以上、こんなことをやっている。

 

 

 ↓ 途中にあったフデリンドウ(筆竜胆)。あきる野市のわが家の近くでも見かけるが、新緑の山野に青紫の色が強い。



 ↓ 日暮ヶ岳登山、解散後、途中の「野谷の石風呂」に寄ってみる。源平の争乱で焼失した東大寺の再建に奔走した俊乗房重源が、その用材搬出等に当たった人々の衛生治療を目的で作った石風呂。狭い穴の中で焼石に水をかけ、その蒸気に当たる蒸し風呂(サウナ)である。この地域には他にも残っているが800年以上も前のものが、ほぼそのまま残っているのは驚き。

 

 

 ↓ 石風呂の入口。人一人、身をかがめてやっと入れる大きさ。写真には写っていないが、入口の右には「拝み石、念仏石」と呼ばれる1m弱の石が建っており、出入りの際にはそれに向かって、名号やお経を唱えたというから、入浴という衛生治療措置も、東大寺再建という宗教行事の一環に位置づけられていたということだろう。

 

 

 ↓ 由良町の黒岳に衣奈集落から登った。地図に道記号はあったものの、上部の畑は長いこと放棄されたままであり、道は荒廃していた。 ミカン栽培の盛んだったころをしのばせる名残が散乱し、その荒廃ぶりはむしろ見ごたえがあった。その途中の落椿。荒廃の美と照応するかのような、腐爛の美。



 ↓ 防府市滞在中お世話になったK宅の近くを流れる迫戸川。佐波川本流から引き込まれた用水。この用水をはさんで山側に家々が並び、その出入りのために自家用の橋がかかっている。中にはいくつかこのように、立派な花崗岩の長い材を数本並べたものがある。いつ頃からのものかわからないが(そう古いものではないと思うが)、良く見ると、生活感のある良い風情だ。考えてみれば、かなり贅沢な話(=個人用石橋)だ。

 

 

 ↓ 山口市徳地深谷正覚寺に行った。小さくはないお寺だが、現在は無住のようで、その裏に、この小さな物置だったと思われる建物があった。藁葺き、土壁造り。集落の人が減り、寺は無住となる。滅びるものは滅び、朽ちるものは朽ちていく。パンタレイ(万物流転)と言うのは大げさかもしれないが、そこにも美しさはある。

 

 

 ↓ 山口市屋敷で見た石仏群。地蔵1基といくつかの自然石の墓標群。詳細不明。

 

 

 ↓ その地蔵の前垂れを、観察のため、失礼ながら取り除いてみた。胸に二つの切れ込みがある。その切れ込みは乳房を表しているように思われる。同行の女性たちにも意見を聞いたが、乳房だろうと言う。こうした表現は初めて見た。

 観音では具体的に乳房をあらわにし、童子を抱いている乳観音と言われるものはいくつもある。乳房地蔵で検索するといくつかはヒットするが、具体的に乳房を表現しているものはまだ確認できていない。

 もとより仏であるから、理念としては男性女性ということはあまり言わないのだが、実際の庶民レベルでの像塔においては、その意識が強く出ているものも多い。

近所の人に話を聞いてみたいが、誰もいない。今のところ詳細不明としておくしかないが、もう少し調べて見たいものだ。基礎には「宝暦」(1751~64年)の刻字。

 

 

 ↓ 故郷、防府市桑山の護国神社正面の右にあった「奉納戰利品」の砲弾。

 「明治四十季三月 陸軍省」とある。左には対をなして同様の砲弾があり、「奉納 国務大臣 武村正義」とあり、平成7年に設置されたものである。あるいは、元は神社近くの桑山招魂場にある「砲彈柵」の前に置かれていたのではないかと思われる。

 同様の「戦利品」や「凱旋記念」の「奉納」は東京や埼玉でこれまで何度か目にしており、おそらく日本中のあちこちの神社にあるのだろう。時代背景等からすれば、やむをえないと思うが、平成7年に国務大臣の名をもって奉納するというのはいかがなものか。私がこれまで置かれているのを見たのは、熊野神社神明社といった、鎮守や産土神社だったが、ここは護国神社。神社・神道といっても様々なそれがあり、一概には言えないのだが、護国神社神社本庁といった組織のきな臭さを嗅いでしまうのである。ロシア‐ウクライナの教会にも、いずれこうした奉納がなされるのだろうか。

 

 ↓ 山口市徳地深谷の平岡神社、遠望。

 この角度は神社の正面にあたり、参道があるはずなのだが、無い。消滅して田んぼになったのか。それはそれとして、過疎集落にあって、良く雰囲気の残された、いかにも鎮守・産土神社といった風情だ。

 庶民レベル(?)では、仏教でも神道でも、亡くなった人の霊は30年とか50年とかすると、個性や人格を失い、一種の集団霊=祖霊として子孫を見守るようになると言われている。公式の祭神はともかく、その祖霊を祀るのが鎮守や産土神社だから、この風情には、なんとも言いようのない懐かしさをおぼえるのである。

 

(記・FB投稿:2022.5.1)