艸砦庵だより

河村正之のページ 絵画・美術、本、山、旅、etc・・・

「2022年 私の読書」 (FB投稿の再録)

 個展も終わり、作品もとうに返却されてきた。見に来ていただいた方、ありがとうございました。見に来れなかった方、残念でした。またの機会に。

 個展が終わってしばらくの間は、気抜けというか、脱力状態が続く。事後・事務処理のほかはこまごました些事、雑事をこなす日々。FB投稿の気分にもならない。

 でも投稿しないとスッキリしない恒例(?)のコンテンツもある。ということで、遅ればせながら「2002年 私の読書」。

 2022年に購入した本は79冊(過去最低)、計89.880円、激減といってよい。最近は古書店に行くことも減り、新本古書の割合は半々ぐらいか。購入金額が割高なのはそのせい。

 読了したのは48冊(過去二番目に少ない)。ここ数年、自分なりの教養人としての基準値100冊を下回り続けているが、仕方がない。そろそろ教養人という看板も下ろすか。

 

 ともあれ「マイベスト」を発表したくての、遅ればせながらの投稿です。(読んだのは2022年ですが、購入した年は様々です。)

 

 

山・自然関係は、あまり数は読んでいないが、読んだものは最近ではわりと豊作だった。

 

●『新編増補 俺は沢ヤだ!』(成瀬陽一 2021.4.10 ヤマケイ文庫)

 元沢屋としては共感できる。想像を絶する、変態的と言っても良い、その自由さ。

●『ビヨンド・リスク 世界のクライマー17人が語る冒険の世界』(ニコラス・オコネル 2018.9.1 ヤマケイ文庫)

 登山の本質は探検と冒険にあると思う私には手の届かぬ世界ではあるが、やはり面白い。

●『山岳渇仰』(中村清太郎 1944.10.25 生活社/山と渓谷社) 

地図さえなかった明治の南アルプス。本当の登山の古雅な味わい。だが、戦時下の出版のため、紙質は最悪、読めない難しい漢字が頻出。往生した。続けて手に取った同じ書写の『ある這松の独白』(1960.5.15 朋文堂)は冗長に過ぎて、読み通せずにいる。

●『山と渓に遊んで』(高桑信一 2013.10.10 みすず書房

かつて所属していた山岳会の代表で、十年ぐらい一緒に山に行っていた著者の自伝。彼の何冊かの著書には私も実名で登場するが、本書には出てこない(写真には一枚写っている)。他も含めてその辺の書きにくさとか、舞台裏も垣間見え、不満がなくもないが、読みごたえはある。ともあれ、相変わらずのある種の名文である。

 

 

今年読んだのはやはり、石仏・仏教・宗教・民俗学関係のものが多かった。

 

●『日本石仏図典』(日本石仏協会 1987.8.25一刷1992.1.20二冊 国書刊行会

●『続日本石仏図典』(日本石仏協会 95.5.25 国書刊行会

 図典(図鑑+事典)という名の資料集ではあるが、完読すると実に面白い。教養の基礎はやはり知識量と良識である。余談だが、『続日本石仏図典』は古本で14.525円! 

 「マイベスト」なのだから普通は面白くなかった本は取り上げないが、下の一冊は例外。

◆『群馬の石仏』(佐鳥俊一/若杉慧堀口大学熊谷守一 1975.12.20 木耳社)

 アマチュアカメラマンにして石仏愛好家の地元新聞社の社長が出した大型の写真集だが、序文・若杉慧、跋文・堀口大学、題箋と仏画熊谷守一という顔ぶれがすごい。

 堀口大学の跋文には「写真は一枚も見ていない」とやや皮肉っぽく記されているが、金と力(?)にあかせた地方の名士(富裕階級)の振舞と、それに追従する芸術家たちといった伝統的構図が見てとれる。写真自体はありきたりとはいえ、必ずしも悪くはないが、解説を含めて趣味的で学術的価値は薄い。途中から読む気を失くした放置。こんなこともある。

 

 

宗教・民俗学関係のもの

 

●『日本の神々』(谷川健一 19 99.6.21 岩波新書

●『わかる仏教史』(宮元啓一 2017.4.25 角川ソフィア文庫

●『仏教の大東亜戦争』(鵜飼秀徳 2022.7.20 文春新書)

●『民間信仰』(桜井徳太郎 2020.5.10 ちくま学芸文庫

●『精霊の王』(中沢新一 2018.3.9 講談社学術文庫) 思想≒文学

 いずれもいわば勉強のために読んだものだが、面白かった。

 『日本の神々』は神道を含む幅広い「神・カミ」の俯瞰図。基本書。

 『わかる仏教史』はアジア圏における仏教の俯瞰的通史。何であれ、歴史を考える場合、こうした俯瞰性と通史を基礎に持つことの重要性を再認識した。

 『仏教の大東亜戦争』は、過去も今現在も存在する国家・権力と宗教と民衆との関係性を実証的に記している。宗教関係者にとどまらず、多くの「普通の人々」に読んで欲しいもの。ある時代の「普通」は時としてフツーではないということ。その名残は石仏探訪のおりにしばしば目撃する。

 『民間信仰』は書名の通り、「民間信仰」をどのようにとらえるか、ある程度の視野を提供してくれる。仏教との関係も含めて、基本文献というべきだろう。

 『精霊の王』については別の場で簡単に記したが、史料と哲学における思索の飛躍が文学(ファンタジー)の領域に着地したかとも思われるあたりに、実証的学問足りうるのかという疑念が強く残るが、何といっても著者らしいアクロバティックな力技であった。

 

 

美術関係も多少買ったが、重厚長大なものは読んではいない。

 

●『イメージを読む-美術史入門』(若桑みどり 2005.4.10一刷2006.4.10四刷 ちくま学芸文庫

 美術史以外の学生を対象とした大学の集中講義でのミケランジェロの「システィーナ礼拝堂の天井画」、ダ・ヴィンチの「モナリザ」、デューラーの「メレンコリアⅠ」、ジョルジョーネの「テンペスタ(嵐)」を対象とした、「美術史入門」書。「入門書」とは言うものの、内容はけっこう高度。最近は各種の美術鑑賞本があるが、本書は学術性も高く、かつ面白い。私は、絵は、やはりわかりすいだけであってはならないと思う。

●『無言館 戦没画学生たちの青春』(窪島誠一郎 2018.4.20一刷2022.8.30二刷 河出文庫)ぐらい。

 著者の以前からの夭折画家好みの延長にあるとも言えるが、夭折画家がある程度以上の才能の開花を見せ、一定の完結性を示すのに対して、「戦没画学生」として括られた無言館での展示作品は、開花以前のものとしての在り様しか見えてこなかったというのが本当のところだ。著者の関心も作品のレベル云々ではない、別の時代性・歴史性といったところにある。

 

社会関係。

 

●『日本左翼史(真説・激動・漂流 全3冊)』(池上彰佐藤優 2021.6.20~2022.7.20 講談社現代新書

 60-70年代の学生運動新左翼の思想というか空気は、私の少年~青春時代の背景をなしていた。私自身はガキの頃から自分が画家=芸術家という自覚=自惚れを持っていたから直接的な影響を受けることは少なかったが、対世界の気分としては、大きな影響を受けた。以来今に至るも、細々とながら読み、考え続けている。

 著者(論者)の二人については全く信用していないが、違った視点からの通史という意味では貴重な本だと思う。共産党社会党の違いがよくわかった。

●『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る アフガンとの約束』(中村哲 2021.9.15一刷21.12.6三刷 岩波現代文庫

 中村哲の為したことについて、かつて私は無知に根差した偏見を持っていたのだが、亡くなられた後に彼の著作を何冊か読んで、大いに反省し、考えを改めた。ほぼ自伝であり、彼の活動を概観するベースになる。クリスチャンである彼の行為が、私には菩薩業に見える。

 

 

小説、詩歌、評論等の文学関係は少ない。

 

●『そこから青い闇がささやき ベオグラード、戦争と言葉』(山崎佳代子 2022.8.10 ちくま文庫

 (淡い出会いの機会を逃したまま)全く未知の詩人だったが、人からすすめられて詩集『秘やかな朝』(2004 書肆山田)を読んだ。とても良い詩群だったが、その今風(近ファンタジー)ぶりにどこか引っかかるところがあって、別に本書を読んでみた。

 1990年代の内戦下の旧ユーゴスラビア、現セルビアベオグラードに住んでいた著者の折々のドキュメントであり、エッセイである。

 20世紀末から21世紀にまたがる、先進地域ヨーロッパでの本格的な戦争。それも宗教や民族浄化といった時代錯誤な観念に由来する、むしろ中世的なありよう。戦争(内戦)だからどちらか一方が絶対的な悪とは言えないのだろうが、それでももし罪の重さが客観的に計れるとしたら、セルビアのそれはより重いだろう。

 当時、セルビアに住んでいた当事者としての筆者の主観としては、そのあたりのことはあまり目に映らなかったようだ。人として、詩人として誠実ではあっても、そこに詩人や芸術家の限界が現れるのだろうかと、シリア、ミャンマーウクライナと繰り返される今日この頃、まだ納得しきれない私がいる。芸術家自身と作品は別物なのか。

 右は同時に借りたもう一冊の詩集『アトス、しずかな旅人』(2008.3.30 書肆山田)。『秘やかな朝』を返したので、書影がなく、代わりにまだ読み終わっていないこちらを一緒に上げておく。

 

(FB投稿:2023.2.9)