艸砦庵だより

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石仏探訪-37 「石仏の顔(地蔵篇)」  

(記・FB投稿:2022.4.7)

 石仏(石造物)との接し方には、大きく分けて三種類の観点・態度がある。

 一つは、学術的というか、歴史的な観点からの接し方であり、民俗学や宗教史の観点も含む、いわば知的態度。

 二番目には、美術として見る、味わう接し方。つまり感性的態度。

 三番目は宗教的な接し方、つまり信仰対象として接する態度である。自身の抱えているあれこれとの直接的感応こそが本義であり、したがって、その像の本来の趣旨や歴史的由来等はさほど重要視しない。時には馬頭観音大日如来をお地蔵様と言っても、あまり差し支えはない。信仰的(≒精神的)態度。

 

 三つの見方、態度は、実際にはいくらかの部分を共有することが多い。そうした中で、像の刻まれたものに対しては、文字だけの塔よりも、視覚的要素のゆえに、特に二番目の美術的な観点が強まることは当然であろう。私にとっても、それが最大の要因である。表情、風情、味わい、美しさ…。そうした要素から鑑賞という美術的過程をへて、個人との対応が発生する。

 その当否を問うても、あまり意味はないだろう。石仏を仏教美術という領域概念でくくることに、私は反対ではない。その上で私が気になるのは、実際にその像を作った作者である石工の作家性や表現性といったものである。

 もとより彼らの多くは無名の職人であり、普段は石臼、石段などといった生活に関わるものを作ることも多かったのではないか。おのずからにじみ出る手癖、個人性は別にして、果たして現代にも通ずる造形性といった意識はあったのか。言葉はともかく、皆無ではなかったと思う。

 大学時代以来学んで(?)きた美術・芸術としての仏像の、費用的・経済的序列からしても、金銅仏―乾漆仏―木彫仏といったヒエラルキーの末端に位置する石仏であるからこそ、庶民の日常で、見られ、手を合わされ、花を手向けられ、佇ち続けてきたそれら。

 少なくとも、他の要素を抜きにして、その表情が集約される顔だけに意識を向けてみるということは、必ずしも無意味なことではないように思う。半眼の沈黙のかすかな微笑。美術という意識なくして美術たりうるもの。

 とりあえず石仏の中でも最も多い地蔵菩薩から選んでみた。選択に特に基準はない。むろんその表情に心惹かれたものではあるが、ほぼ順不同。

 

 

 ↓ あきる野市乙津上軍道の光明山への登山道の脇にあった。地蔵だと思うが、資料には無記載で詳細不明。

 小さな石仏で、生真面目な合掌形が、どうしても童子のそれに見えてしまう。

 

 

 ↓ 八王子市上川町 長福寺の無縁仏群の中の一つ。墓標仏だが、詳細不明。

 特にどうということのない、つまり仏の尊顔というよりも、ごく普通の人の、ごく普通の表情のように思われる。「あの人」。それもまた墓標に地蔵を刻むことの意味かもしれない。

 

 

 

 ↓ 東村山市諏訪町徳蔵寺の六地蔵のうちの一つ。

 お寺の入り口や、墓地の入り口に置かれることの多い六地蔵。元文元年/1736年。「奉納大乗妙典」とあり、経典供養塔を兼ねている。

 六地蔵ではあるが、顔がそのまま残っているのはこれと次の2体だけで、他は破壊されたり、他のもの(?)で代用されて原型をとどめておらず、ある種の痛ましさがあった。

 地蔵にはこのように帽子や前垂れが被せられ、全容が見えないことが多いが、この場合はかえってそれが顔に意識を集中させることになった。鼻先は少し欠けているが、浅いが心地よい緊張感のある彫りで、半眼と言うよりもほとんど閉じた目で、愛らしくも厳しい瞑想ぶり。

 

 

 ↓ 同じく徳蔵寺の六地蔵の一つ。同じく元文元年/1736年。三界万霊塔を兼ねている。

 同じ石工の手になるものだろうが、ふっくらとやさしい別の表情も見せているようだ。

 

 

 ↓ あきる野市星竹光寺の六地蔵。慶応元年/1865年。

 顔面には地衣類なのか黴なのか、斑状に白くなっているが、それがかえって独特の表情をかもし出している。もっさりと鈍重で大型だが、頼りがいがありそう。これは六道のうち、どこに赴かれる地蔵だろう。



 ↓ 瑞穂町箱根ヶ崎円福寺六地蔵

 データを確認してあらためて驚いたのだが、平成3/1991年と新しいもの。屋外に置かれ、苔もつき、もう少し古いものかと思っていた。全体として見た時にはそれほど良いものとは思わなかったが、顔だけ取り上げてみると堂々としたものである。信用(?)できそう。



 ↓ 八王子市上川町正福寺の墓地入口の六地蔵

 比較的小ぶりの舟形浮彫の六地蔵の一つ。江戸後期のもの。六地蔵は一つ一つ持ち物が違うが、これは香炉だろうか。風化、剥落、さらには蘚苔類におかされつつも、なにか楽観的というか、明るい表情。これも石仏の表情の一つの在り様なのだろう。

 

 

 ↓ あきる野市雨間のM家の墓地の地蔵。

 広いM家の墓地には立派な丸彫りの墓標仏が数多くあるが、資料には未記載で詳細は不明。これも立派な宝珠錫杖姿の半跏像。首がコンクリートで継いである。年記は確認できなかったが、他との関係から延享から宝暦年間(1716~1762年)のものと推定される。

 他の像の造作も共通性があり、同一あるいは同系の石工によるものと思われ、石材の質が良い。注文主からの依頼があったのだろうか、石仏墓標仏にしては稀なほどに表情が豊かで、近代的な造形性を感じさせる。

 

 

 ↓ 八王子市加住町の寶印寺にある地蔵。

 昭和5/1930年と、古いものではない。仏像という超越性のアイコンであるにもかかわらず、これまで見てきた中でも、最も人間臭い表情のもの。N氏という個人による造立で、何となくそれなりのストーリーがあるようにも思われるが、詳細は不明。

 仏像は古代インド人の姿形だから、耳たぶには大きな耳飾りをしていたせいで、大きく長いものだが、それにしても大きい。何となく幸薄そうと言いたいような表情の、肖像彫刻っぽいお地蔵様だが、ついほだされて(?)しまいそうだ。

 

 

 ↓ 八王子市川口町長福寺近くの路傍石仏群の一つ。

 路傍に古い地蔵丸彫立像が整理されず8体置かれていた。これは他の六地蔵の中の中尊だったのではないかと思うが、詳細は不明。これ以外のものは頭部が丸石だったり、下半が欠損したりしていてあまり顧みられていないようだ。これも首が一度は折れたようだが、本来の頭部のままではないかと思う。そうした変遷を経ているためか、ある種の無常観というか、諦観という言葉を思い浮かべる表情。

 

 

 ↓ 檜原村小沢宝蔵寺の墓地の一画にまとめられているものの一つ。

 宝珠を持った地蔵だろうと思うが、それにしても小さく愛らしい。三等身足らずだから、子供というよりも赤子の体形で、もはや顔をクローズアップする必要もない。墓標仏だかどうだか不明だが、これを造立した親(?)の心情が思いやられる。もはや無縁仏となり、蘚苔類によって荘厳されるままだが、表情はいよいよ愛くるしい。


(記・FB投稿:2022.4.7)