艸砦庵だより

河村正之のページ 絵画・美術、本、山、旅、etc・・・

山歩記+石仏探訪-55「水晶山に姥神を求めて」(2023.5.27)

 5月27日、山形3日目、水晶山667.9m。

 朝、天童に移動し、宿に荷をあずけ、タクシーで麓の集落の少し手前まで行く。今日の標高差は445m。ふつうに登れば1時間半だから、前後にゆっくり石仏探訪も楽しもうという魂胆。

 水晶山は奥羽山脈の支脈のそのまた支尾根にポコンと頭をもたげている。まわりのアプローチの良いもう少し魅力的な山を登り尽くしたので、興味は薄いが「水晶山」という山名、「修験道の山」、「姥神」という三つのキーワードに惹かれて登ってみることにした。

 

 

 ↓ タクシーを降りたところから猪野沢の奥の水晶山を見る。樹林におおわれた、修験の山というにはいささか里に近い、ほぼ里山

 

 

 ↓ 猪野沢楯畑集落の最後の人家を過ぎて、路は山沿いに延びる。旅の実感。

 

 

 猪野沢集落の先の小さな神社が登山口。裏参道(?)に当たるようだが、特に問題もなく樹林の中を淡々と登る。途中の神楽岩などが修験道の名残か。

 

 

 ↓ 登山道入り口の神社。名称不明。右手前にそれらしき石碑があり、刻字もあるようだが、読めず。

 社殿の中には水晶の細かな群晶が付着した石塊が御神体(?)として置かれていた。

 

 

 ↓ 神楽岩。写真ではわかりにくいが、大・中・小の対になった四角柱が3組建てられている。玉垣の一部(?)のように思われる。傍には名前のついた水場もあり、ここが修験道ゆかりの場所の一つなのだろう。

 

 

 頂上直下には水晶山神社。すぐ上が山頂。

 

 

 ↓ 水晶山神社の社殿。麓の二つの集落の神社を合併して、昭和28年に水晶山神社と改称したとか。数人の登山愛好家グループが休んでいた。すぐ裏に奥の院(石祠)があり、その上が山頂。

 

 

 ↓ 水晶山山頂667.9m。半分ほど視界が開けるが、どれが何山だかさっぱりわからない。

 頂上には蔵王権現と見なされる大岩(=陽神)があるそうだが、その時点では知っておらず、また木が繁っていたこともあり、気がつかなかった。

 

 

 ↓ 昨年登った雨呼山905.5mだろう。う~ん、みちのくの山。

 

 

 ↓ 下り始めようとして、そばにあった解説板に気づく。あわてて向きを変え、御室を見に行く。

 

 頂上の大岩を蔵王権現(=陽神)、西の竪穴を御室と称し十一面観音(=陰神)とするとか。つまり民間信仰における性信仰を、仏教をベースに修験道的にアレンジしたということだ。なかなか面白い。

 

 

 ↓ 神社の左すぐ先にあった御室。ある程度は人の手が加わっているのだろう。修験の際に泊まり場として使用したように思われる。この御室(窪み)を十一面観音に見立てた。

 つまり、「室=凹=女性性=陰神=十一面観音」と「頂上の大岩=凸=男性性=陽神=蔵王権現」との対照的ペアが成立した。言い換えれば、修験の場としての水晶山を舞台に、修験道と仏教のそれぞれのアイテム(蔵王権現と十一面観音)を習合させることによって、古くからあった、前提としての(民間信仰であるところの)性信仰(金精様、山の神、双体道祖神、等々)を新たな形に再編したということである。この穴=御室を見ることによって、確信した。

 ただしそれには(十一面)観音を女と断定する必要があるが、要するに庶民レベルではとっくに了解済みなのだろう。観音は女であり、地蔵は男であるといったレベルでの。

 

 下山は表参道(?)を下る。途中から舗装道路と出会うが、地図に記載されていない直行する旧参道=遊歩道を進めば、突然二体の姥神と廃れた山神社。なかなかの風情である。以降も関連する石造物や遺構が現れ、修験道との関連をうかがうことができた。

 

 

 ↓ 下山していくと舗装道路に出会う。地図にはない昔からの表参道が整備された遊歩道となってまっすぐ伸びており、それを辿る。ほどなく現れたのがこの2体の姥神。奥には廃社となった山神社の跡。なかなかの風情である。2体とも幾重にも古い涎掛けやら頭巾やらが着せられて、本体が見えない。

 

 ↓ 観察のためそれらを取り外して現れたのがこれ。頭部には赤い布の色が染みついているが、口元の赤は彩色されたもの。右膝を立て右手を置く。左手は何かを持っているようなポーズ。

 

 ↓ 同上。こちらは口元が迫力。左手の形状はよくわからない。

 私には確認できなかったが、「一つは台座に『寛政四子年(1792)』、一つは背面に『寛政十年(1798)』の銘がある」とのこと。(田中英雄 ブログ偏平足 里山の石神・石仏探訪)

 

 姥神の意味・出自には三系統あるようだ。一つは、「各地の霊山には一定地点から上への女性の登拝を禁じた標識に、『女人禁制石』や『女人結界石』あるいは『姥石』などがある。姥石とは禁を冒して登拝した女性が、石に変じたものをいう。(『続日本石仏図典』)」。元々仏教では女性の成仏を認めていなかったところから出た思想。像塔は少ないようだ。

 二つめは足柄山で坂田の金時を育てた山姥に代表される、山の神の零落した、妖怪化したイメージ。したがって本来は仏教と関係がない民間信仰

 三つめは奪衣婆という、三途の川を渡った亡者から衣服を奪い取り、傍らの懸衣翁に渡す役割の老婆。閻魔や十王と関連付けて一グループとして配されることが多い。姿かたちはこの姥神と酷似しており区別がつけにくい。

 姥神には以上の三つの要素が融合しているように思われる。水晶山のこの姥神に関して、ブログ偏平足では「この地方の修験道があった山には決まって姥神が祀られている。姥神の役目は女人結界の場所や禊場の守護である。それが川の側であれば禊場であり、山に入る者は姥神の場所で水垢離を取って身を清めてから山に入った。水晶岳の姥神は2体とも小川を渡った先に祀られている。」と記載している。だが、ニタ~っと笑う不気味な口や片手に持っている正体不明のものを考えると、上記だけではない、何かまだ知られていない要素があるように思われてならない。

 なお『東北里山の石神・石仏系譜』(田中英雄 青蛾書房)の中で「女人結界の姥石と女人救済の姥神」として詳述されている。

 

 撮影を終えて、元のように丁寧に布を戻しておいた。いずれにしても貴重な民俗的文化財である。

 

 

 ↓ これは三日後に村山市楯岡鶴ケ町の古峰神社で見つけた姥神。片膝を立て、手には稲束のようなものを持っているように見える。ひょうきんな顔。

 葺屋内にあるためか、状態が良い。ただし何枚もの古い布が着せられており、撮影のためとはいってもそれらをすべて取り外すことは困難。めくり上げれば、その下からは気持ちの悪い虫やら蜘蛛やら有象無象の抜け殻、死体、繭、卵などがぞわぞわと出てきて、断念した。乳房があるかどうかは確認できなかったが、姥神で間違いないだろう。ちなみにこの写真を見た石仏に全く関心のない友人は大黒様と言った。

 隣には石祠が3基あったが、この像にだけにはいくつもの草鞋が奉納してあった。詳しくはわからないが、そちら方面の信仰はまだ生きているようだ。

 

 

 ↓ 参考までに檜原村小沢の宝蔵寺にある奪衣婆を上げておく。

 片膝をたて、片手を差し出し、乳房を露出し、口を開いた恐ろしい形相といった点では姥神と区別がつかない。おそらくは融合通底する信仰内容といったものがあるのではないだろうか。宝蔵寺での現在の置かれようで見る限りでは、地蔵や十王信仰との関係は不明。

 

 ↓ 平成16年に偶然発見されたという「禊の井戸」。数百年ぶりに姿を現した湧水の池。修験道の遺構である。飲んでみたけど美味い山水だった。

 

 

 里に降りてからも、何か所かの石仏群があり、楽しめた。中でも谷地中の石鳥居と傍らの石仏群にはちょいと感動した。

 

 ↓ 里に下りて舗装道路を淡々と歩く。ふと立ち寄った谷地中の石鳥居。もはやアートである。

 傍にあった解説板によると「上部の笠木や島木は欠損しているが、造立目的は水晶山信仰のためであり、両柱の間から、水晶山がくっきりと観望される。形状は、笠木を上から落とした柄(*ほぞ)穴だけで、貫穴がなく、他に見られない全く異形の鳥居である。(鎌倉時代)」。

 こうした1000年前近く前の古い石鳥居が山形県にはいくつか残っている。いくつかは見たが、このように自然の中で、柱部分だけが残っていると、何か別種の存在感があり、深く感動せざるをえないのである。「もの派」も吹っ飛ぶ存在感。

 

 

 ↓ 上記の石鳥居のそばに牛頭天王馬頭観音、大神宮と、この「獅子舞供羪塔」の4基の石碑があった。

 上部に円相、下に蓮華。背面に「寛延四~ 當村 若者中 ~~」とあった、(寛延四年は宝暦元/1751年)。獅子舞を担当する若者たちが建立したのだ。

 調べてみると岩手県内陸部には「鹿子踊供養塔」「獅子踊供養塔」というのがあるそうだが、「獅子舞供羪塔」というのは見出せなかった。詳細不明というところだが、見たことも聞いたこともないものに出会うのは楽しい。これからも「これは一体何?」というものに旅先で出会いたいものである。

 

 国道に出てからは、あらかじめわかっていたことではあるが、バス便もなく、タクシーを呼ぶ気にもなれず、結局ホテルまで延々と歩いてしまった。まあ、それはそれとして、いろんな要素がコンパクトにまとまった、味のある、なかなか印象に残る山行となった。

 

(記・FB投稿:2023.6.9)