艸砦庵だより

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石仏探訪-56 「只見町から金山町の鮭立摩崖仏へ」

 7月10~12日、福島県の只見町へ行ってきた。山旅と言いたいところだが、目的①は現在進行中の、私の詩歌集(俳句・短歌・詩/自費出版です)の編集作業の詰めを対面で行うこと。(秋ごろ?発行の目途がたったら、またアナウンスします。)

 

 30年以上前に同じ山岳会に在籍して、何度も山行を共にしたK氏。一旦は縁が切れたが、その後只見に移住し編集の仕事や農業をやっていると、風の噂で聞いていた。

 ニ三年前から詩歌集を出したいという(柄にもない)望みを抱いたものの、絵とは勝手が違い、プロの編集者の必要を痛感していたところに、これも別口で両方の知り合いであった元山岳雑誌の編集者Y氏の口利きで実現したのである。奇縁と言えば奇縁。30年振りの再会。

 むろん、あわよくば目的②久しぶりの只見の山と、さらには目的③として石仏めぐりも少しばかりはと思ってはいた。だが余りの暑さで、結局登らずじまい。

 

 それでも、K氏の気遣いのおかげで、半日ばかり只見町と隣の金山町の石仏を何か所か見ることができた。只見町も金山町も、いわば辺境の地。辺境であるがゆえの素朴さとか古拙ということがあるかどうかは、うかつには断言できないけれども、予備知識なく訪れた「鮭立摩崖仏」では思いがけない雅な(?)美しさと可愛らしさ(?)に出会い、感動した。

 「鮭立摩崖仏」は天明飢饉の惨状を見た修験者法印宥尊が発願し作り始め、それを継いだ法印賢誉が完成させたもの。天明年間~天保年間(1700年代後半~1800年代前半)の作。つまりそう古いものではない。スケールは大きくないが、修験道ならではの神仏混交の多種多様なユニークな摩崖仏。ユニークだけれど、儀軌(元禄3/1690年の『仏像図彙』など)には適っている。全51体だったが、風化が進み、現存するのは36体とのこと。

 町指定文化財にとどまっているのが微妙なところだが、歴史資料としては時代がやや足りず、信仰史的には局地的にすぎるということなのだろう。だがもう一つの要素、美術的な価値はもっと評価されて良いような気がする。ただし「美術的価値」に「素朴さ」や「可愛らしさ」が含まれるかは、また微妙な問題ではあるが。

 

 只見周辺は、以前はよく山登りで訪れたが、当時石仏には関心がなく、石仏探訪としては初めての地といってよい。詩歌集に関して、また石仏探訪に関して、暑い中、付き合っていただいたK氏Y氏、共に感謝深謝です。ありがとうございました。

 

 ↓ 只見町某所のK氏邸。

 出発時の東京でもそうだったが、山に囲まれた只見でも温気が立ち込め、息苦しいほど。

 十余年前の只見線の鉄橋が流されつい昨年まで不通になった集中豪雨の際には、近くの伊南川の水流が緊急放水した只見川の増水に押し返され、あたり一帯沼のようになったとか。川の水との付き合い、戦いは昔も今もあるようだ。

 

 

 ↓ K氏邸(標高370mぐらい)の裏山。

 見えている稜線で600~700mぐらいだが、左の山には雪食地形(?)が見える。

 奥の田子倉湖周辺では標高1500mクラス、只見町周辺では800~900mクラスの山々があり、いずれも実に美しかったが、気が付けば一枚も写真を撮っていない。やはり山に登ろうという気にならない時、写真を撮ろうという気にはならないものだ。

 

 

 ↓  亀岡の若宮八幡神社にあった明治22/1889年の「龍王神」と記された文字塔。

 珍しい記し方だが、要は水神である。右に「川除」とある。只見川本流は昔から暴れ川であり、この碑のあった近くを流れる支流の伊南川もまた同様にたびたび水害をもたらした。そのため川の氾濫を恐れる気持ち、洪水防護の念から「川除」の文字となったのだろう。水神といえば、農耕のための水の安定した供給を願うことが多いが、その反面の水害回避を願うこうした文字を見たのは初めてだ。人々の生活を垣間見る思い。

 

 

 ↓  下から見る鮭立摩崖仏の全景。

 右の右窟と中央の左窟があり、さらに左奥も窟にはなっているが石仏は無い。

 

 

 ↓  右窟の全景。

 像が認められるのは三か所。左から地天・水神の龕(掘り込まれた窪み)、大黒天の龕、不明・青面金剛の龕。右の赤い布の部分は彫り込まれ連結された二つと、上の陽刻の一つで造形された三つ一体の宝珠のように見えた。

 

 

 ↓  右窟、地天と水神。

 上部に白い地層が走っており、ちょっと不思議な効果を上げている(?)。

 水神には他のいくつかもそうだが、赤い着色(ベンガラ)が残っている。地天の根拠はよくわからないが、水神は明らかに蛇体。下部に頭部があり、宇賀神との共通性が認められる。やはり大事なのは大地と水、農耕に関わる神ということなのだろう。

 

 

 ↓  左窟はこの龕から左へ展開すると見ることができる。

 この龕には現在何も置かれていないが、下には奉納された飯豊山神社の御札(?)が奉納されている。

 飯豊山も新潟・福島・山形県境にそびえる修験の山。当然、修験道以前から月山と同様の水神・農耕神の性格を持っていた。修験道との関係においては五社(一王子~五王子)権現信仰と、その本地仏としての五大虚空蔵菩薩としての山そのものが御神体とされている。

 

 

 ↓  左窟の右側。

 右から左に、不動明王とセイタカ・コンガラ童子龍頭観音牛頭天王などがある菩薩・天部の一画。そこから左に角度を変え、飯縄権現から最大上下四段に区切られた数多くの菩薩・天部群の一画がある。その左にもう少し続く。

 ところどころに赤い彩色の跡が残る。

 

 

 ↓  左窟の続き、左側。

 上下四段に区切られた数多くの菩薩・天部群から上下の風神・雷神をへて、やや大きめの九頭龍権現・深沙大将閻魔大王?・鬼子母神の4体が並ぶという構成である。最後の3体が見やすいこともあって、ここを代表する像となっているようだ。

 

 

 ↓  左窟の中心となっているのがこの不動明王

 修験道=100パーセント不動明王とは言いきれないが、修験道と強く習合した密教大日如来の化身である以上、やはり結びつきは強く、信仰の中核をなす。

 火炎光背を前面に出した龕と不動明王と手前のセイタカ童子、コンガラ童子を一緒に掘り出している。造形的にも技術的にも、ちょっと面白い。資料によれば八大童子もあるということが、どこの部分がそれなのかわからない。

 

 

 ↓ 牛頭天王

 像塔を見るのは二回目。左手に長い斧と右手に羂索を持ち、頭部に牛の頭(黄牛の面)が見られる。

 

 

 ↓  飯縄権現

 白狐に乗った火炎光背の烏天狗飯縄山戸隠山は共に修験の山。邪法・外法とされつつも俗信・修験道においては定着し信仰された。

 

 

 ↓ 左窟の菩薩・天部群。

 4段構成でごちゃごちゃと賑やか。あちこちに赤い彩色跡が残っている。

 写真の中段左から、摩利支天・荼枳尼天・尊名不詳座像・渡唐天神・淡島様・愛染明王。下段左から広目天持国天増長天多聞天・子安観音・地蔵菩薩

 

 

 ↓ 雷神。

 石造物の像塔雷神を見るのは初めて。背に雷太鼓を背負い、両手にバチを持って楽しそうに踊っている(?ように見える)。足元は雲。「可愛い」という言葉が口をついて出てくる。上には風神がいる。

 

 

 ↓ 左から鬼子母神閻魔大王深沙大将

 鬼子母神は左わきに子を抱えている。中央は閻魔大王という説が一般的だが、「『仏像図彙』に酷似する修験道と縁の深い箱根権現か湯殿権現ではないか」という説もあり、無視できない。右の深沙大将の像塔はきわめて珍しい。「西遊記」の沙悟浄のモデル。

 三体ともまとまりと保存状態が良く、古雅・古拙というべき造形となっており、この鮭立摩崖仏を象徴する像でもある。

 

 

 ↓  道祖神 男女双体握手型、浮彫立像、舟形。

 金山町から只見町へ戻り、昼食の蕎麦を食べにいった入叶津の路傍で見たもの。共ににっこりと微笑んで手をつなぎ合っている、仲の良さそうな男女(老夫婦?)双体像。以前何度も通ったところなのだが、この存在は気づかなかった。村はずれ、集落の境界という道祖神の立地条件は満たしている。

 男女双体道祖神と言えば信州、次いで群馬県だが、会津や越後のそれについてはほとんど知らない。会津で出会った記念すべき第一号。右の刻字造立年が明和七年(1770)と読めるかどうか?

 

(記・FB投稿:2023.7.18)