猛暑が続いた日々、昼間はほぼ外出しなかった。暑さには弱いのだ。少し暑さが和らいだ7月6日、思い立って日の出町の白山神社(白山さま)に行った。
↓ 参道
一応舗装されており、車で上がれるが、自転車を途中にデポし、歩いて登る。写真には写っていないが、かたわらには山百合の蕾。
御岳山から続く通り矢尾根の最末端、日の出町の裏山とでもいうべき位置に在る。だいぶ前にこの尾根を歩いているから立ち寄ったかもしれないが、当時は石仏や寺社には興味がなく、記憶にない。
↓ 標高300mほどのところから振り返り見る都心方面。
私はこの都心の高層ビル群を遠望すると、それが墓標群に見え、いつも「ネクロポリス」という言葉を思い出す。元旦には初日の出を拝みに多くの人が登るそうだ。
↓ 参道脇に何対もあった木製の常夜燈。
「奉祝御大典」と書かれ、令和の御大典の際のものだろう。石造だと大変だが、木製だと安上がりで、数多く建てられる。実際に火を灯すのは年に何回だろうか。「御大典」など、天皇関係のものについて、そのうちまとめてみたい。
↓ 御神木。
杉だったか、檜だったかは未確認。なかなか神寂びた風情。参道の途中にあるというのが、少し解せないが…。
↓ 「敬神」の碑。白山神社崇敬会。
写真にはないが、下から歩いていると、参道から社殿まで、あらゆるところに数多くの竹箒が置かれていた。実に良く清掃され、整備された神社だったが、この団体がそのようにしているのだろう。地方の小さな神社でここまで徹底しているのは珍しい。ご苦労様です。そうですか、「敬神」ですか…。菊理媛神を信仰する分には文句はないのですが。
主祭神は菊理媛神(ククリヒメノカミ)、別名、白山比羊神/白山比咩大神(シラヤマヒメノオオカミ)。修験道の山でもある加賀の白山の女神を勧請した神社。神仏習合においては白山妙理権現(本地仏は十一面観音)とされ、本来は農業に関与する水神であるが、「ククリ」が「括る」と連想され、縁結び・和合の神ともなっている。また、白山の白からの連想か、一部では養蚕の神とされることもあるようだ。
参道の傍らには、地味だがそれなりに興味深いものがいくつかあった。
↓ 唯一あった石仏らしい石仏。
神社だから無くても不思議ではないが、これ一つだけあるというのが気になる。
刻字等見当たらず、神仏種は不明。頭部の冠と左手の開敷蓮華(?)から観音かと思われるが、開敷蓮華としては少し妙だ。あるいは、桑の葉を持つ蚕神≒ククリヒメの可能性もあるのかとも思う。ただし、ここの白山神社に養蚕神社としての信仰があったかどうかは不明。その意味でも興味深い像である。資料等には見当たらない。
↓ 社殿全景。
中にプラスチックなどの芯が入っていないと、こういう形にヘタってくるわけだ。それとも宝珠の形なのか?
↓ 二つの弊社(木造)があった並びにあった稲荷社。
コンクリート製の社殿(これはこれでちょいと良い味)の右奥の立っている石は陽石、手前の白い石灰岩は陰石ということだろう。その手前に一対の狐がある。
↓ 金属製(鋳物?)狐
狐は稲荷社の神使で、ふつうは石造か磁器製。この狐は金属製(鋳物?)なのが珍しい。私は初めて見た。写真には写っていない弊社(神社名不明)の一つに、金属関係の会社の人が奉納した小絵馬があった。稲荷神は本来穀物・農業神だが、一部に金属神の要素もあり、そうしたことと関係があるのか、それとも考え過ぎか。さて?
一通り見終わって、社殿の裏から、例によって地図には出ていない支尾根の路を下る。仕事道にしては妙に丁寧に手入れがされている。ところどころに、いくつかの不思議な造形物が現れる。立木彫刻、顔面石、自然石を積み上げた造形物。その前には花立がしつらえられており、礼拝対象と位置づけられている。
↓ 石祠。詳細不明。
社殿の裏から尾根を少し歩いたところにあった石祠。宝形造(でよいのか?)の祠のフォルムが実に良い。この屋根の形は初めて見た。刻字は見当たらず、祭神等は不明。
↓ 一字一石供養塔。
一字一石供養塔とは、末法思想=弥勒信仰に基づく納経行為の一つとして、法華経を小石一つ一つに一字ずつ書き写して地中に埋めるというもの。経典供養塔の一種。
「紀元 二千五百四十七年 一字 一石 法華經塔 施主 山崎三右エ門」とある。明治19/1886年のものだが、明治という元号ではなく、皇紀年が刻まれたものは初めて見た。
皇紀とは、明治5/1872年に政府が太陰暦から太陽暦へと改暦し、その6日後に『日本書紀』の記述に基づき、神武天皇即位を紀元(元年=西暦紀元前660年)とすることを布告したものである。むろん歴史的根拠は無い。
以後、(場に応じながら)正式紀年様式として、元号と皇紀が併用されたが、一般的には西暦も使用された。つまり当時の日本では三種類の紀年法が併存した。昭和になってからは、特に戦争との関連(国粋主義的風潮)で多用されるようになった。昭和15/1940年には奉祝国民歌として『紀元二千六百年』が発表され、大いに流行した。
戦後も皇紀を廃止する法令は特になく、現在でも一部の神道関係者などが使用している。いずれにしても皇紀自体が神道的なものでありながら、法華経という仏教の塔に使用されているのが、珍しい。明治19年という、神仏習合の色合いを濃く残した時代性の一つの表れか。また神社近くにあるということも、同様の理由からだろう。資料には未記載。
↓ 立木彫刻
路のかたわらの立木に彫刻したもの。コケシのようだが意図するところはわからない。
↓ 近づいて見る。
円空や木食とは似ても似つかぬが、意識したのだろうか。あまり上手いとも思えないが、道具使いというか、技術的な巧拙はわからない。
↓ 手前と向こうに二つの顔面石。
なぜか花立があり、賽銭が置かれている。よく見ていると、顔が彫られているらしいことに気づいた。
↓ 反対側の顔面石。
目、鼻、口とおぼしき形が彫られている。石材としてはふさわしくない、そこいらにあった自然石を彫ったもののようで、技術的には稚拙としか言いようがない。しかし、この熱意と意図は何だ?
↓ 「はしご坂」
先の顔面石の先から振り返る。ちょっとした傾斜だが、丁寧にステップが刻まれている。「はしご坂」と命名されているのは、よほど達成感があったからなのだろう。
↓ ここからは自然石を積み上げた造形物がいくつか現れる。
しいて言えば、右奥のそれは五輪塔風。左は毘沙門天のような武人風。
↓ 舟形光背石仏風。
これは未加工(?)の石を台石の上に立てただけだが、全体としては舟形光背の石仏風。あるいは陽石風と見えなくもないか。花立もある。ほかにもう一つあった。
どうやらこの路は、独自の感性(と信仰)を持った地元の誰かが、最近になって整備した「信仰の路」でもあるようだ。一つ一つの造形物にこめられた意味や名称はわからないが、神仏習合的要素をこめた、ワンダーランド(異界)の気配が漂う。麓の人家近くまで降りてきて、結界の注連縄を見た時には、少しホッとした。
↓ 終点近くの愛宕神社。
扁額はないが、途中の手作りの道標にそう書かれていた。
↓ 麓近くの十字路。
注連縄が張ってあり、結界(神域)はここで終わり。やれやれ。右に行けば民家の脇を通って、道路に出た。
近辺の裏山、里山、あるいは寺社の一画でも、気をつけていると、時おりこうしたワンダーランド的領域に遭遇することがある。単に信仰の所産といって良いものかどうか微妙だが、私は必ずしも嫌いではない。人の心性やビジョンの不思議さを思う。
(記・FB投稿:2022.7.7)