艸砦庵だより

河村正之のページ 絵画・美術、本、山、旅、etc・・・

石仏探訪-17 「花と新発見(資料未掲載)の石仏三体」

 3月14日。女房につき合って、横沢入にヨゴレネコノメソウを見に行く。まだ早すぎた。入口にある大きなコブシ(木蓮?)は満開には少し早いが、豪華なくせに静かな印象で、毎年見るのを楽しみにしている。

 

  ↓ 横沢入入口に咲くコブシ(あるいは白木蓮)。

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 そのすぐそば、民家というか作業所の入口に石仏を発見した。何百回も行き来しているのに、これまで気づかなかった。頭部の様子から馬頭観音かと思ったが、手や衣の様子などを見ているうちに、わからなくなった。刻字はない。手持ちの資料にも出ていない。正体追求はいったん保留にしておく。

 

   ↓ 頭部を見ると馬頭観音のように見える。場所的にもあって不自然ではない位置。だが、全体の象容や持ち物などを見ると馬頭観音とは思えない。光背右に文字があるようにも見えるが、読めない。神像にも見えなくはない。結局、今のところ正体不明。手持ちの資料には出ていない。

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 次いで、日の出町肝要方面に向かう。高原社(たかはらしゃ)はふんいきのある神社だが、石造物としては弘化2年/1845年再建の石祠と、明治昭和の二つの手洗石ぐらい。おりからの椿の落花が、神寂びた神域にあって、息をのむほどなまめかしい。

 

   ↓ 高原社。神寂びた良い雰囲気。祭神は天照大神月読命。右の御神木の杉は樹齢300年ほどで町指定の天然記念物。

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    ↓ 御神木の根元の椿。

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  ↓ 古きものと落花の対称。

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 慶福寺には、向かい合った二つの石仏群に、一般的だが、よく見るとなかなか面白いものがあれこれと並んでいる。

 

  ↓ 慶福寺入口左側の石仏群。経典供養塔、馬頭観音、万霊塔など。

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   ↓ 慶福寺入口右側の石仏群。子安地蔵を中心とした六地蔵かと思ったが、必ずしもそうではないようだ。珍しくほとんどの頭部が壊されておらず、当初のまま。地蔵丸彫像にしては、バロック的と言いたいような、肉厚な立体表現がユニークである。

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 奥の小さな墓地に登ると、すぐ近くに小さな神社(岩本稲荷社=個人持ちの社か?)と、小さな御堂やら、寛政10年/1798年の石祠などがあった。石祠には穴の開いた石灰岩=姫石(女陰石)。

 

  ↓ 岩本稲荷社とその左に小さな御堂がある。さらに写真に写っていない左に石祠と九層の層塔がある。

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   ↓ 寛政10年の石祠。側壁に「十一世浄眼氏建之」とある。本来は何を祀ったのか不明。

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    ↓ 石祠には穴の開いた石灰岩が置かれている。姫石(女陰石)。

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 稲荷社傍らの小さな御堂には思いがけず立派な石仏がある。一面八手、浮彫座像櫛型。壁には「疱瘡乃神・山末之大主神」の木札。これで正体がわからなくなった。ともあれ、見ごたえのある像だ。『日の出町史 文化財編』には未記載。

 

 ↓ 「疱瘡乃神」は疱瘡=天然痘を防ぐ神で、住吉大明神があてられることもあるが、要するに民俗神。「山末之大主神」は「古事記」にのみ出てくる大山咋神のことで、いくつもの系統がある「山の神」の一つでもある。いずれにしても石仏としては容像は数少ないく、また儀軌と参照しても当てはまらない。「日の出町の関連文化財群(平成23年)」挿図中の「弁財天(弁才天と書くこともある)座像」がふさわしい。『日の出町史 文化財編』は平成元年発行で無掲載だから、それ以降にこの像の存在が認識されたということだろう。

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  ↓ 一面八手。頭上にはとぐろを巻く蛇。弁才天には二手から八手まで、座像立像といくつかのバリエーションがある。水辺に置かれることが多いが、この場所にあるのは少し不思議なきがする。

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   ↓ 参道から見返る。典型的な春の里山風景。

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 帰路にチラッと見かけた葺屋らしきものに寄ってみる。意外にも立派なというか、妖しく美しい像がある。見慣れない三面八手の座像だが、馬頭観音で間違いはない。やはり上記資料には未記載。

 

   ↓ 馬頭観音 三面八手座像 舟形光背。表面は風化が進んでいるが、全体の象容はよく残っている。刻字塔は確認できなかった。個人の畑の際にあり、個人が管理されているようで、一度話を聞いてみたいと思った。

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 帰宅後三体の石仏の正体を調べたが、横沢入のそれはお手上げ。あとの2体は、ようやく文化庁の『日の出町【東京都】歴史文化基本構想(平成23年策定)』のサイトで、「日の出町の関連文化財群」をみつけ、挿入地図中にわずかに「弁財天座像」と「舟形三面八手馬頭観音座像」とあるのをみつけた。説明も図版も一切なし。象容からしても妥当なところだが、「弁財天」がなぜ「疱瘡乃神・山末之大主神」とされているのかはわからない。もう少し探求してみたいところではあるが…、きりがないのである。

 

 いずれにしても今回は、面白い石仏を見ることができた。石仏は文化財であり、歴史資料であることは言うまでもないことだが、実際にはまだこのように、ほとんど知られることなく、静かにそこに佇っているものが無数にあるだろう。それらに運よく出会えることは、石仏探訪の醍醐味である。

 

 里山には、紅梅白梅をはじとする花が咲きはじめている。石仏探訪も悪くはないが、山登りに行きたいと思うフラストレーションがたまっている、規則正しい遅寝遅起きの画家=私。

(2021.3.15)

 

 

 

 

石仏探訪-16 「福生市千手院の三陸海嘯供養塔」

 3・11。当時、キューバからメキシコへの旅(3.1~3.15)の途上にあった私は、3・11を体験していない。最初に知ったのは、IT事情のきわめて悪いキューバハバナで。新聞や画像を初めて見たのは、翌日のメキシコシティの空港で。

 日本にいなかった私の感じることは、多くの日本人と微妙に違うようだが、それについてはここでは置く。

 

 昨年9月に訪れた福生市の千手院にあった石碑を思い出した。

 

 

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 高さ70~80㎝ほどの自然石の文字塔。中央に「三陸海嘯死亡諸精霊等」、右に「明治二十九年七月十九日」とある(「~諸精霊等」の「等」は「塔」の意。)。左にも一行あり、おそらく建立者であろうと思われるが、撮影した写真では判読しづらい。

 

 明治29(1896)年6月15日の三陸地震は、観測史上最大の海抜38.2mの津波により、2万人以上の死者が出たとのこと。120年以上前に、遠隔地での惨事を、一か月後には遠く離れた福生市の寺で供養するというのは、驚くべきことのように思われる。少し不思議に思い、少し感動する。何か理由があるのかと思い、調べたが、わからない。こうした遠隔地の供養塔は、他にも在るのだろうか。

 福生市郷土資料室のサイトには「福生市の指定文化財」として「9件17基の石造物が、〔千手院の石造物〕として登録されています。」とあるだけで、詳しいことはわからない。文献でも石仏・石造物を中心とした入手しやすいものは、今のところ見当たらない。

 

 それはそれとして、供養が寺院の務めであるということはわかる。ではもう一つの務め、特に密教系の真言天台宗における、「国家安全」に代表される、「国難」や疫病(コロナ禍)や災害を防ぐための積極的能動的な「加持祈禱」は、現在はどうなっているのだろう。

 仏教は国家統一のためのシステムとして輸入された。その後、末法思想下での貴族階級個人の救済(成仏)システムの段階をへて、「国家安全」の御利益をもたらす「加持祈禱」を強力なツールとする真言天台密教が国家体制の一部となった。さらにそれを推進しつつ一般民衆を取り込んでいった鎌倉仏教以降も、「国難」や「防災」のための「加持祈禱」というシステムは存続しているはずである。例えばこのコロナ禍において、それらの寺院は疫病退散のための加持祈禱を行っているのだろうか。行っているからこの程度で済んでいるのだろうか。それとも住職もまた、ただ外出自粛を事としているだけなのだろうか。

 私は、加持祈禱が現実に有効であるとは、むろん思っていない。だが、宗教というものが、本質的に現実よりも非現実(幻想)に根差しているものであるのだから、幻想(=信心)としての加持祈禱という作法を全うしないことには、自身の存在理由を見出せないのではないかと、思うのである。

 

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(かつて高尾梅林と呼ばれた名残の梅の花は、供華の意味で載せました。)  

 

(2021.3.11)

石仏探訪-15 「美しき聖観音と世界の墓地 – 2」

 少し前に八王子市恩方方面に石仏探訪に行った。自転車やバスで行くとなるとかなり不便な地域だが、女房の車で行くと30分足らず。

 恩方と言えば、和田峠に抜ける案下川沿いの陣馬街道と「夕焼け小焼けの里」。だが私が最初に目指したのは、その上流の支流の醍醐川流域。バス便もなく、より不便なところだ。手持ちの資料はない。

 まず地図上の最奥の卍記号龍泉寺に行く。境内に雰囲気の良い石仏群はあるが、小規模でさほど興味を引くものはない。引き返して本命の陣馬街道に戻るかと思っていたら、女房が何やら地元の人と話をしている。ウォーキング途中の、けっこう石仏に興味をお持ちの方。この先に何か所かあり、ウォーキングのついでに案内してあげましょうと言われる。

 資料のないところで石仏を探すのは、難しい。在るのか無いのかさえわからないのだから。地元の人に聞くのが一番だが、地元の人でも、興味のない人は全く知らないということが多い。その方の先導で何か所か見せていただいたが、なるほど、これは知らなければまず見つけられないだろうというところが多かった。実に感謝感謝である。

 

 醍醐川自体はまだ奥まで伸びているが、その人のウォーキングコースの折り返し地点(最奥の集落?)に福寿草の群落と共に、素晴らしい観音像があった。聖観音、開敷(かいふ)蓮華持ち。浮彫立像舟形光背。蕾の未敷(みほう、またはみふ)蓮華を持つものは多いが、開いた蓮華を持つのは比較的珍しい。蕾のままの蓮華はまだ悟りに至らぬ人々を、開いた蓮華は悟りを開いた段階の人々を表す。ちなみに聖観音とは、三十三通りに変化するという観音のスタンダードな姿。だから正観音ともいう。

 

 ↓ 聖観音と三つほどの自然石の文字塔墓石。全体が小さな屋敷墓だったと見るべきか。

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 左右に年記があり、二人分の供養塔と思われる。端正な彫りで、無理のない自然なフォルムと自然な表情。素晴らしい造形である。私が見た中で最も美しいものの一つ。

 端正な彫りで、ゆったりとした自然なフォルムと、飾り気のない自然な表情が素晴らしい。これまで見てきた聖観音の中でも最も美しいものの一つ。

 光背の左右に「天保十亥九月吉日 一應貞□信女」、「 天保十亥七月〔 ]」と刻まれているから、二人の女性、あるいは夫婦つまり両親かの供養塔であろう。天保十年は1839年

 

  ↓  聖観音菩薩 浮彫立像舟形光背。

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 すぐそばには、福寿草の群落と共に、「~早世~」と読める自然石の墓標(残欠?)や、「延宝?□~」「~(読めず)~」といった刻字の認められる自然石の墓標(残欠?)があったから、ここは規模のごく小さな屋敷墓(というべきかどうか、よくわからないのだが)だったのかもしれない。「延宝」年間だとすると、1673~81年だから、相当古い。

 

 そのすぐ近くには、青みがかった自然石に線刻された地蔵菩薩宝珠錫杖があった。正徳2年/1712年。「施主 五人」とある。彫りは素人臭いが、かえって朴訥な味わいの面白いもの。帰宅後確認したら『八王子石仏百景』(植松森一 1993年 揺籃社)に「通称:疣地蔵、勝負地蔵。この年恩方で疫病が流行し子供が死亡したことと関係あるかもしれない。」とあった。

 

 ↓ 地蔵菩薩宝珠錫杖 線刻(下部少し埋没)。正徳2年/1712年。

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 案内していただいた中には、他にも、やはり立派な彫りの寒念仏塔を兼ねた庚申塔を中心とする石仏群やら、それとよく似た彫りの庚申塔と二十三夜塔、一面二手としては珍しい憤怒相の馬頭観音やら、「日蓮上人菩薩祈願所」と彫られた道標やら、珍しい、面白いものが多くあったのは意外であった。今でこそ寒村といった趣きの裏街道沿いの小さな集落の連なりだが、和田峠によって甲斐の国とをつなぐ要衝でもあったのだろうから、往時はそれなりの人通りや経済活動があったのだろう。

 

 

 ↓ 途中の車道から少し入った旧道山道にあった石仏群。寒念仏塔を兼ねた立派な笠付角柱の庚申塔。基礎の三猿は見えにくいが、珍しい、面白いポーズのもの。

隣の地蔵菩薩丸彫立像は新しいもの。ほかにすべて頭部を破壊された六地蔵(?)と同様な地蔵の念仏塔がある。

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  ↓  馬頭観音 一面二手 憤怒相 浮彫立像 角柱。文化11年/1814年。

馬頭観音は本来三面の憤怒相だが、石仏では一面二手慈悲相が一般的。一面二手の憤怒相は珍しい。憤怒相ではあるが、大きな冠(?)の上にチョコンと乗っている馬頭を含めた全体のプロポーションは、むしろ可愛らしさを感じる。

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 いずれにしても、ただ車から見るだけでは、見落としそうなものばかりである。石仏の所在を熟知しておられる地元の方と出会えて、本当に幸運だった。

 

 恩方、陣馬街道にはいずれ近いうちに再訪するつもり。だが、今回の主旨は「世界の墓地 - 2」なのだ。

 世界の墓地・墓標、その2として、グルジア正教アルメニア正教、ユダヤ教イスラム教、そして、古代トルコとローマ帝国のものを少々紹介してみる。

 

 

 ↓ 東西世界のはざまトランスコーカシア地方の一つ、グルジアジョージア)のアルメニア国教近くにあるUbisa教会の古い墓地。2016年9月。

 グルジアはたしかアルメニアに次いで二番目か三番目にキリスト教を国教と定めた国。石棺風と墓塔らしきものと両方が見える。

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 ↓ グルジアトビリシ近郊ムツヘタの教会の床。他の古いキリスト教会で見られるのと同様に石棺の蓋(?)がそのまま床にはめ込まれている。刻まれているのはグルジア文字。

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 ↓ 同じ教会のもの。前のと同じグルジア文字の、違うタイプの装飾的な書体だと思うが、正確にはわからない。少し新しいもののように思う。

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 ↓ 2016年9月。アルメニア、サナヒンのサナヒン修道院かセヴァン修道院のどちらかにあったハチュカル。無縁仏風にまとめて大量に置かれていた。だいぶ古いもののように思われる。

 ハチュカルはアルメニア教会を象徴する石造の十字架。墓標に使われるが、複雑多様な美しいデザインが施され、見ていて飽きない。

 東西世界のはざまトランスコーカシア地方のもう一つの国アルメニアは、世界で初めてキリスト教を国教とした(301年)国。グルジアと同様に歴史的に常に紛争の舞台となる国で、つい最近も隣のアゼルバイジャンとの間でナゴルノカラバフ紛争を再燃させ、ほぼ負けに等しい停戦協定を結んだばかりで、何かときな臭い。

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 ↓ 同じくアルメニア、ハフバットのハフバット修道院の建物に組み込まれていたハチュカル。洗練されたデザイン。周囲にいろいろ文字が刻まれている。

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 ↓ アルメニア、エレヴァンのリプシマ教会かエチミアジン大聖堂かズヴァルトノツ大聖堂の広場に並べられていたものの一つ。大型。

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 ↓ 2018年5月。イスラム圏のウズベキスタンサマルカンドの郊外で見たユダヤ教徒の墓地。周囲には壁が張り巡らされている。石棺方式(?)と墓塔形式と混在。シンプルなものが多い。このあたりの一神教ユダヤ教イスラム教)は、規模や形から見て、現在でも、最後の審判の日に備えてまだ土葬であるようだ。

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 ↓ 2009年9月、トルコ、イスタンブールのシュレイマニエ・ジャミイというモスク附属の墓地。この時が初めてのイスラム圏への旅で、イスラム教の墓地を見るのはたぶん初めて。一部植物文様もあるが、文字が主で、塔のスタイルもいろいろあり、その造形性に驚いた。円柱状のものは日本の無縫塔と言われる多く僧侶の墓石と似ているなと思った。それを機に、少しずつ海外の墓地というものを意識するようになった。

 期せずしてこうしたイスラム墓地を見て、異文化を感じたというか、同時に日本の墓地との共通性も感じた。しょせん人間の考えることには共通性があるということだ。

 よく見ると埋葬部分の中ほどに穴が開いており、そこに植物が植えられている。

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 ↓ おなじくシュレイマニエ・ジャミイの墓地の中の墓標の一例。文字だけを刻んだものもあれば、このように植物由来の装飾文様を刻んだものもある。

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 ↓ これまではほぼ現代のものだったが、ここからは博物館等にあった古代のもの。

2009年9月、トルコ、イスタンブール古代オリエント博物館のもの。正確にはわからないが、個人の墓標だと思われる。いずれも大理石製のためか、長い年月をへて、美術品というかフォークアート的な素朴な美しさに至っている。

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 ↓ 同じくトルコ歴史博物館。両親を供養したものだろうか。日本の双体仏と服装が違うだけで、同じ発想。

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 ↓ 同じくトルコ歴史博物館。これは墓標ではなく、石棺の一部ではないかと思う。

こうなるとほぼ完全にアートである。私はマッシモ・カンピリMassimo CAMPIGLI(1895~1971)の作品を連想した。 

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 ↓ 参考:「メダルのためのレリーフ下絵」マッシモ・カンピリ 1962年

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 ↓ 石棺の一部を上げたので、ついでに堂々たる石棺の全体をあげてみる。同じくトルコ歴史博物館。正確な時代はわからないが、ローマ帝国支配時代の司令官クラス(?)のもののように思われる。 

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 ↓ 同じくローマ帝国支配の石棺の部分復元。見てわかるように、白い大理石材は、本来は着色されていた。いわゆるギリシャ・ローマ彫刻やパルテノン神殿なども、基本的にはすべて着色されていたのである。「真っ白な大理石のギリシャ彫刻」というイメージは基本的には間違いなのだ。着色されていたという点においては、日本の木彫や乾漆の仏像においても同様である。むろん、色がなくなった立体としての像そのものを、時間の経過を含めて愛でることは、それはそれでかまわないが。

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 しかし、世界の墓地や墓標に興味を持つ人はそう多くはないだろう。歴史的、民俗的、美術的な観点からは、面白い対象なのだが。そう思えば、ヒンドゥー教徒の墓地とか、見ていないもの、見てみたいものはまだいくらでもある。そういえば、そんなコンテンツをまとめた本は見たことがないなあ。

 (記:2021.3.4)

「石仏探訪‐14 美しき如意輪観音 二つの墓地と世界の墓地・その1」

 半月前ほど、日の出町細尾の光明寺に行った。寺の前、境内と見て、傍らの墓地ものぞいて見る。私の石仏探訪は、基本的には墓域内の個人墓標は対象としないが、墓地入口あたりに六地蔵をはじめとする石仏群があることが多く、また墓域内にも時には見るべきものがあることもあるので、一応のぞいてはみるのだ。

 その時も山腹を造成した墓地の上の方に、何やらある気配。上がって見ると、そうたいしたものではなかった。だが、その周辺の景色が何かひっかかる。少し観察しているうちに、思い出した。ここ光明寺は両墓制が残っている場所だったということを。

 両墓制とは「遺体の埋葬地と墓参のための地を分ける日本の墓制の一つ(Wikipedia)」で、沖縄から関東、東北まで濃淡はあるが、全国のあちこちで見ることができた。以前、民俗学に強い関心を持っていた頃、沖縄の洗骨風習や風葬などといったことと共に、この両墓制ということを知り、一面でポリネシアや東南アジアに起源を持つと思われるそうした風習に、ある種のロマンチシズムというか、エキゾチックな興味を持ったのである。

 両墓制は各地で様々な形式・特色があるが、共通した要素としては「埋め墓(ミハカ、サンマイ/三昧、ボチ/墓地、ヒキバカなどとも言う)」という遺体埋葬地と、「詣り墓(ラントウバ/卵塔場、ラントウ、タッチョウバ、サンマイとも言う)」という遺体のない墓参用墓地の二つが存在しているということである。日の出町では埋め墓のことをヒキバカと言う。

 

 ↓ 埋墓(このあたりではヒキバカと言っている)。およそ人一人分の面積に石で区画が記されており、プラスチック製の花立が設置されていた。

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 ↓ 傍らには昭和63年/1988年の「○○家埋墓改修工事」という碑が建てられていた。これでその家にとっての両墓制は終焉ということである。

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 実は、石仏探訪とは限らず、これまで山歩きや散歩のおりに、何か怪しげな不思議な感じのするところに出くわしたことは何回かあった。今思えばその内の何か所かは両墓制墓地だったように思われるが、具体的な場所が記された資料を読んだことがなかったので、それと確認することはなかった。

 それは土葬を前提とした、とっくに廃れた過去の葬送形式であり、現在でもそうした場所が残っていることは、最近まで、不勉強のため知らなかった。郷土史関係の資料にも、具体的な場所まで記載されていることは少ないようだ。

 

 もう一つ。光明寺の両墓制の場所を見たあとで、その先の別の林道の脇にいくつかの石仏があるのを見つけて寄ってみた。資料にも出ていない、樹林の中に10基ほどの墓標が立ち並ぶ、一家族だけの、つまり屋敷墓と言われるもののようであった。

 

 ↓ 林道入口の集落の近くの樹林にある屋敷墓。10基ほどが整然と並んでいる。集落の名主とか有力者の一族のものなのだろうと推測される。

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 墓地と言えば、寺院に隣接するものや、地方自治体や組合の管轄する共同墓地が多い。だが、私が住んでいるあきる野市や日の出町に限らずとも、自宅の敷地内や、少し離れた畑と山林の際などに、その一家だけのいわゆる屋敷墓というのも、今でも全国のいたるところで見ることができる。

 その屋敷墓にあった石仏の内の二つが、素晴らしいものであった。

 

 ↓ 如意輪観音半跏思惟座像 浮彫座像 舟形 元禄6年/1693年

  上:梵字種子 右:「十方如来大慈大悲~~」「観秋妙音~~」

  石質良く、彫りの深い実に見事な像。墓標仏と思うが、正確にはわからない。

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 ↓ 地蔵菩薩宝珠錫杖 浮彫立像 舟形 (頭部一部破損)

 梵字種子 右:「~~空~信~」 左:「毎日晨□八於諸定安~~」

 如意輪観音と同様に石質良く、彫りの深い見事な像。作風から見ると如意輪観音同一の石工の手になるものか?

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 丸彫に近い舟形光背の浮彫の如意輪観音半跏思惟座像と宝珠錫杖を持つ地蔵菩薩立像。如意輪観音には元禄6年/1693の年記がある。ほかに偈(仏教用語で、経典中で詩句の形式をとり、教理や仏・菩薩をほめたたえた言葉。頌/じゅ、讃とも訳される)らしき文字が刻まれており、かなり格調の高いもののようだ。こんな炭焼きと林業ぐらいしか生業のない貧しい山村に、このような素晴らしい墓標仏を建立する、どんな歴史があったのだろうか。

 

 一般的に「お墓」にはあまり良いイメージというか、明るいイメージはないだろう。関連して石仏関係の投稿全般にあまり評判は芳しくない。まあ、それはそれで仕方がない。だが、ピラミッドもフィレンツェメディチ家礼拝堂もノートルダム寺院も、言ってみれば墓であり、死者を祀ったところなのだ。国内外の名所旧跡の多くは、そうした死者とかかわる場所が多い。

 

 ↓ ミケランジェロ作 メディチ家礼拝堂 ジュリアーノ・デ・メディチの墓碑

 上:ジュリアーノ・デ・メディチ像 下右:「晝」 下左:「夜」 

 下の石棺には当然ジュリアーノ・デ・メディチの遺体が入っている。

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 思いついて過去の海外の旅の写真を見てみると、そうした墓や墓地を写したものがいくつもあった。見はしたが、撮影はしなかった所の方が多い。意図して墓や墓地を撮ろうとしたのではない。たまたま出会ったそれらが造形的に美しく感じた場合に撮ったまでである。だがそれらを並べて見ると、異なる風土や文化や宗教の違い、あるいはそこから来る死生観や哲学の違いと、逆に共通性といったものまで見て取ることができそうで、面白く感じた。

 石仏探訪においては、墓地・墓石を避けて通ることはできない。そもそも美術・芸術において、死と向き合うことは避けられない。そうした観点から、ごく一部ではあるが、私の見た世界の墓標、墓地を少し紹介してみることにした。

 

  

 ↓ 中国甘粛省敦煌の鳴沙山近くの砂漠地帯。

 車中からの撮影でピントが合わず、わかりにくいが、ところどころに点々とした土盛がある。昔の中国人(漢族)の墓というか、葬った場所だとの事。漢族以外の先住の蒙古族などは墓は作らず、軽く石などを載せて終わり。すぐに場所もわからなくなり、墓参りの習慣はないとのこと。現在の様子はわかりません。

 右下にチラッと見えているのはラクダに乗った現地の人か、観光客。

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 ↓ スウェーデンゴットランド島。古いものだが、詳しいことはわからない。墓標は立てず、石棺の蓋に文字が刻まれている。 

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 ↓ 同じくスウェーデンゴットランド島。詳細不詳。  

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 ↓ スウェーデンストックホルムのとある教会附属の墓地にあった古い墓標。浅く文字が刻まれている。味わいある形。

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 ↓ 同じ墓地のもの。三角形の形の意味はわからないが、同じく、味わいある形。

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 ↓ 2000年に行った、文字からするとドイツかオーストリアと思われる教会の床。正確な場所はわからない。この教会ゆかりの僧侶やパトロンの王侯貴族などが床下に埋葬されている。柩の蓋の意味合い(?)でこのような肖像が彫られたものが床になっている。人々は(かつては)その上を歩き、その結果表面はすり減り、このような風合いとなる。 

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 ↓ 同上。細かい表情は摩滅し、おおよその輪郭だけが残っている。

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以下、「世界の墓地・その2」に続く。

 

(2021.3.1)

石仏探訪-13 わが家の石仏

 庭に石仏(馬頭観音)をすえてみた。

 

 ↓ 馬頭観音 三面四臂の憤怒相の座像 高41㎝

 とりあえず、枝垂桜の根元へ。横にマンリョウ、手前に春蘭、後ろにバイモやシュウメイギクなどが咲くだろう。馬頭観音だから私の旅の守護仏としよう。

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 石仏探訪に「ハマった」のは昨年6月頃からだ。この馬頭観音は7月にヤフオクで落札したもの。それで思い出したのだが、それ以前から持っていた石仏(石造物)と言えるものがあと二つ、わが家にはあった。

 

 一つは20年ぐらい前に骨董市で買った道祖神。ごく小さな祠型の、おそらくコンクリート製で、大正前後のものかと思っている。ある友人からは「コンクリートだからニセ物」と言って笑われて少しへこんだが、考えてみればこの手のものにニセ物もクソもないのである。江戸の石工が彫ったという態のものではないが、よくある屋敷神の祠などと同様に、商品として造り置いたものではないかと考えるが、どうだろう。少数の例外をのぞいて、どんな石仏や宗教的グッズであろうと、専門職人が手掛けるものである以上、商品としての側面は逃れられないのだ。

 ただし、その後も同様なものは、見たことがない。とすれば、逆にその希少さは貴重なのではないかと、今では思っている。

 

 ↓ 道祖神 妻入小祠型 コンクリート製 高14㎝。しっかりした刻字。

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 もう一つは、ある友人から旅先の土産として貰ったもの。ある場所で、無数の小さな地蔵が奉納されているおり、自由(?)に持ち帰って良いとか言われたとの由。詳しいことは聞いていないが、おそらく願が叶えば2体にして返すとか、そうした風習でもあるところなのではないだろうか。今度会ったら、あらためて聞いてみよう。

 

 ↓ 地蔵 合掌 丸彫立像 高14.5㎝

 首は折れていたのを継いである。素朴な彫だが、花崗岩(?)質で決して彫りやすくはなさそうだが、細かいところまでまじめに彫ってある。

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 さて、ヤフオクで落札した馬頭観音である。

 だいぶ前から野の仏が盗まれたり、行方不明になったということはよく聞く。だから多くの資料では、寺社以外の路傍などに在る場合、その所在場所を特定されないように努めている。

 地方の骨董屋の店先に石仏や五輪塔が置いてあるのは、時々見かける。地蔵や如意輪観音の刻まれた小さな舟形光背のそれらのうちのいくつかは、おそらくは墓標であったのではないかと想像される。墓石であったことを承知で買う人も多くはないだろうから、戒名などは削られていることもあるようだ。

 各地の墓地の整備改修がなされる際に、いわゆる子孫が絶えたり、管理費が払われなくなって無縁仏となった墓標類の処理には、各寺院も昔から苦慮しているようだ。その対応の一つとして、墓地の一画に無縁塔とか万霊塔と称して、そうした墓石を積み上げて一括して供養するというやり方もある。それはそれで悪いやり方ではない。

 

 ↓ あきる野市大悲願寺の無縁塔。

 地蔵や如意輪観音馬頭観音、双体像などいろいろな種類のものが含まれている。

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 ↓ 吉祥寺月窓寺の万霊塔

 元禄期のものなど良い如意輪観音が周囲に廻らしてある。

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 しかし地方の小さな寺ではそれも難しいようだ。昔の墓では土葬時代の個人墓標が多い。魂抜き(精抜きとも言う)という儀式を経てのことだろうが、墓地の一画にそうした無縁仏となった、あるいは家族墓に一括し終わった個人墓標が積み重ねられていたりする。寺院内にあった庚申塔馬頭観音の破片が混じっているのを見たこともある。墓地改修の業者にそれらの処理を頼むということもある。そうした過程での流出ということもあるだろう。

 

 墓石以外の小ぶりな石仏の代表である馬頭観音は、墓域に置かれることはめったになく、したがってどこからか持ち去られた可能性がある。盗品とわかっているものを買うのは嫌だが、実際問題として、誰もかえりみる人がいないそれらが、単純に処分されたということもありうる。ヤフオクには今出来のものを含めて、石仏石造物はコンスタントに出品されている。数多くのガンダーラ仏やアジアの仏像も、そうしてコレクターの手に収まっていく。

 骨董の世界では仏教美術は格が上とされる。そこで流通しているのは、経済的に困窮した寺院からの放出や廃仏毀釈のおりに流出したもの、中には近年の盗品もあるだろう。それを思えば、気が重い。

 ちなみに大英博物館のパルテノン・フリーズやツタンカーメンのマスクをはじめ、自国外の歴史的発掘品は、帝国主義的侵略や植民地時代の略奪品≒盗品である。いまだに元の国から返還要求が出ている。〔*ツタンカーメンのマスクは2019年にカイロのエジプト考古学博物館に変換されたとのことである(知らなかった!)〕。

 

 入札するに際してはだいぶ迷いもあった。だが、経緯は不明だが、事実として出品されているものである。わが家に置けば供養にはなる。

 馬頭観音は、本来は観音には珍しい憤怒相だが、石仏には、どちらかと言えば少女像かと見まがう慈悲相の一面二手のものが多い。これは比較的珍しい本来の三面四臂の憤怒相の座像。左右の第一手には三叉戟と未敷蓮華。第二手は合掌。

 石材は粒子の粗い花崗岩(?)で、表面はだいぶ風化し刻字等は見えないが、雰囲気は保っている。残念なことに、光背上部になにやら削ったような形跡が見えるが、戒名ではなし、梵字種子だったのかとも思うが、わからない。三重県西部のものだとのこと。

 ダメ元で入札したら案外安く落札できた。半年以上ベランダに置いて、腑に落ちるかどうか確かめた。そして庭の片隅、枝垂桜の根元に据えることにした。再度の落ち着き場所を得たと思ってもらって、今後長く付き合うことにしよう。

 

 ↓ 馬頭観音

 三面四臂の憤怒相の座像 高41㎝

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(2021.2.18)

「石仏探訪-12 今熊山と金剛の滝」 (2021.2.11)

 石仏探訪を兼ねた裏山歩き。今熊山は何回か訪れているが、石仏を意識して登るのは初めて。その気になって見てみると、予想以上に多くのものがあった。多すぎて今回はそのごく一部だけを紹介する。

 今熊山は神仏混淆修験道の山というイメージがあるが、今のところ詳しい資料は持っていない。紀州熊野本宮大社を勧請して今熊野宮と称し、祭神は建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)と月夜見命(つきよみのみこと)となっているが、まあ明治維新以降のこと。要するに熊野神社修験道である。

 表参道まで女房の車で送ってもらう。参道に入れば、葺屋の石仏群、道標、2種類の丁目石、いくつもの石灯籠や刻字のある玉垣群、等々。見るべきものは多い。

 

  参道脇にある葺屋。右奥から庚申塔地蔵菩薩丸彫立像2体。中央の地蔵は念仏塔かとも思われるが、詳細不明。

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 ↓ 葺屋の左には板碑型や自然石の塔が数個あるが、いずれも風化剥落が激しく、読めない。おそらく墓標であろうと思われる。 

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 ↓ 参道右脇の福徳稲荷社の手前の空き地に投げ出されていた、馬頭観音の文字塔(文化14年/1817年か?)と、「十六丁目」と刻まれた丁目石(町石とも言う)。同様の丁目石は山頂の本殿までに五つ見出すことができた。参道の入り口には「今熊山大権現入口」「従之三十六丁」と記された弘化2年/1845年の大きな道標が建てられていたから、それに対応するものだろう。側面には寄進者の氏名が記されている。

 またそれと並行して昭和6年/19331年に建てられた花崗岩製の別の丁目石が100mおきに建てられているのが14本確認できた。こちらは「二千百米」などと記されている。

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  ↓ 今熊神社の拝殿と本殿の分岐。左は今熊神社(拝殿)へ。右、本殿(今熊山山頂)へはここから山道となる。

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  ↓ 尾根道の途中の注連縄の結界。ここからさらに神域度が増すということなのだろう。

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 ↓ 山頂の本殿への石段と鳥居。

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 標高505mの頂上の神社本殿周辺には、いくつもの興味深い石碑群がある。いずれも修験道神仏混淆神道の系譜を示すもの。初めて見るものもあった。

 

 ↓ 本殿傍らの石碑群。ほかに新旧8基ほどの石祠群などがある。また本殿の下の段にも興味深い石碑がいくつかある。

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 ↓ 「山神 水神 地神 石経塚」と刻んだ文字塔。こうした山の神を含む三尊(?)形式のものを見るのは、私としては初めて。「地神」という概念は一般的にはあまり知られていないだろう。

 「石経塚」と刻んであるのは、経文の文字を一つの石に一字ずつ書いた「一字一石経」を埋めたということであり、いわゆる経典供養塔を兼ねている。神仏混淆の証である。年記は確認できないが、裏に「別當 鳳明沙?□」とあるので、今熊山中興の祖と言われる鳳明が活躍した安政3年/1856年頃のものと思われる。

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 ↓ 「天満大自在天 雷神 風神」と刻んだ、やはり三尊形式の文字塔。「天満大自在天」とは天神様の菅原道真、つまり雷神。そこから風神につながり、合わせ祀ったということだろう。

 先日NHKBSでやっていた「映像詩 宮沢賢治 銀河への旅 ~慟哭の愛と祈り~」というのを見た。資料をよく読みこんだ、新しい観点の盛り込まれた興味深い内容だった。そこで風神のことが取り上げられていた。山と風神は縁があり、昔から気にはなっていたが、その石碑を見るのは初めてで、少し感動した。

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↓ 今熊神社中興の祖、鳳明と恵賢大和上の線刻像。安政2年/1857年。彫りが浅く、やや見づらい。

 背面に「金色山隠士比丘恵賢大和上生像模之」「當山中興別當鳳明生像模之」の「造立主」として近隣の寺院関係者の名前が記されている。恵賢についてはわからないが、鳳明は他の石碑にもある「沙門鳳明」と同じ。二人並んだ僧形のどちらが鳳明かというと、やはり右の高い位置にある人物が恵賢大和上で、左の低い方が鳳明と考えられる。

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 次いで金剛の滝へ行く。ここは四季を問わず何度も訪れているが、雄滝の左岩壁にある不動明王―金剛童子を確認するため。

 

 ↓ 今熊山頂から金剛の滝へ。春未だ浅し。

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 『東国里山の石神・石仏系譜』(実に面白い本です)の著者田中英雄は、そのブログ「偏平足 山の石仏と独り言。」の「石仏224 刈寄山 金剛童子」で、「~見事な石仏である。不動明王と見間違うこの石仏は、右手に剣がないことと二つの蓮華に立つことから、金剛童子とした。ただ金剛童子の象徴である左手の三鈷杵が羂索になっているのが気になる。」と書いている。

 

 ↓ 金剛の滝。見えているのは雄滝。下に小さな雌滝があり、二つの滝は右岩壁に穿たれたトンネルでつながれている。昨年の台風によって滝壺は浅く埋まったまま。

 滝の左岩壁に不動明王―金剛童子の像がある。この季節以外には草木が繁茂し、岩壁は濡れて黒く、見辛い。

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 金剛童子とは仏教の守護神で、阿弥陀仏の化身ともいうが、如来-菩薩-明王の階層にはないのだから、しいていえば天部以下の周縁的存在である。したがって金剛童子の石仏はめったにない。滝=不動明王と思いこんでいた私は、それを確かめたくて再訪したのである。

 

↓ ブログ「偏平足」では、「右手に剣がないこと」とあるが、ズームして見ると、右手首のあたりから折損している。肩から腕全体の形を見ると、本来は剣を持っていたと思われる。ブログの投稿は11月17日とあるが、写真を見る限り、まだ周辺に草木が茂っており、象容を正確に見るのは難しかったように思われる。手前の植物の葉が、ちょうど右手首あたりを隠しており、完全な見間違いである。また左手の三鈷杵は金剛童子の象徴であり、それが羂索に替わるということは、儀軌上からもありえない。

 また、「二つの蓮華に立つ」とあるが、そのようなものは見えず、意味がよくわからない。したがって二つの観点は、誤読。不動明王で良いと思う。

 なお、頭部の上にある光背には梵字種子らしきものが見える。たしかに他の部分の火炎の意匠とは異なっていることはわかるが、相当にデフォルメされており、拡大してみてもそれが不動明王のものか、金剛童子のものなのか、判然としない。

 私自身、この像は何度も見ているが、こんなに草木に邪魔されず、岩壁も像も濡れて黒くなっておらず、ハッキリと写真に撮れたのは初めてである。

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 今回は冬枯れの季節だったので、草木や苔の繁茂が少なく、岩壁も濡れておらず、正確な観察ができた。詳しくは写真の方でコメントするが、結論としては、金剛童子説は著者の見間違い=誤判断で、やはり不動明王だと判断する。

 

 今回も数多くの石仏、石造物の写真を撮り、帰宅後にその分類分析に時間とエネルギーをとられるのはいつものこと。今回はとりあえずここまで。

久しぶりの裏山散歩(+石仏探訪-11)・金毘羅山から穴沢天神社へ

 昨日、毎月5日に近所で開催されているはずの骨董市「五の市」に久しぶりに行ってみた。行ってはみたが、やっていない。いつの間にか第三日曜に変わったようだ。またしても世の中の変化に取り残されている。

 

 

 ↓ 近所の高尾公園の梅。この木だけはや三分咲き。青梅の吉野梅林に倣ってか、かつてはこのあたりを高尾梅林と言っていたこともあるようだ。

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 予定変更を余儀なくされ、そのまま金毘羅山への裏山散歩に方針変更。山登りも裏山散歩も、昨年は激減した。コロナ禍の影響というよりも、心境の変化プラス体力の衰え。その根底には遅寝遅起きという、生活習慣の固定化がある。

 

 金毘羅山へは何度も登っているが、今回のルートは、ほんの少し初めて歩く部分を含んでいる。とはいえ、基本的には植林帯の何の変哲もない路筋。

 

 ↓ 基本、桧の植林帯。特に面白くはありません。体力不足を痛感。

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 金毘羅山の金毘羅神社とその奥の院的な「ククリ岩」では、いつもより少し丁寧に観察。

 

 ↓ 金毘羅神社社殿に掛かっていた奉納された天狗(左はカラス天狗=秋葉権現)の額。祭神は大物主神(と崇徳天皇)なので天狗は関係ないと思うが、天狗岩からの連想でこうなったのだろう。

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 「ククリ岩」には「イナカブ岩」の手書きの表示が付けられていたことがあった。「天狗岩」という呼称もあるようだ。イナカブは稲株だろうが、「ククリ岩」についてはどこかで読んだ記憶はあるのだが、内容は思い出せない。

 

 ↓ ククリ岩(=イナカブ岩=天狗岩)。磐座ではあるが、金毘羅神社とは直接の関係はなさそうだ。

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 ↓ 写真には写っていないが左手前には文政11年/1828年の石祠が壊れて残置されている。新しく設置されたこの石祠の正体と時代は不明(刻字が浅くて風化しており、読めない)。横には奉塞物の丸石が二つ、ガラスかと思ったら透明アクリルの珠が一つ。

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 ↓ ククリ岩の奥にはもう一つ先があり、下三分の二が欠損した石仏(馬頭観音?寛政十□年)と写真にはないが昭和55年/1980年の新しい地蔵菩薩合掌舟形が置かれている。これはこれで風情がある。

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 さてその先、どこへ行こうか。これまで歩く気になったことのない竹星林道を辿って途中から横根(?)を養沢の本巣にでも行ってみようかと、林道に下りてみたらそちら方面は「通行禁止」。無視して行ってもよいのだが、そんな気にもなれず、逆方向の深沢へ向かった。

 

 ↓ 金毘羅尾根と竹星林道がクロスした深沢寄りの路傍にある鳥獣供養塔。東京猟友会五日市支部による平成元年22年/2010年。

 日本人は神仏・経典や先祖を祀り、供養するが、そのほかにもこうした鳥獣や、はてには筆や針といったモノまで供養する。モノには魂はないという外国人には理解できないようだが、はてさて…。

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 すぐに深沢の手前の南沢へ降りる路が出てきて、そちらに入る。少し下で二つに分かれるが表示の「山の神」にひかれ、そちらに進む。

 山の神=山の神神社はアジサイ山の一画にある、特にそれらしい特徴もない普通の社。入口の石柱に書かれていることだけで、それと知られる。

 

 ↓ 降り立った南沢集落にはあちこちでミツマタの蕾がふくらみはじめていた。近くでは和紙(軍道紙)作りをしていたから、その名残なのだろうか。

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 ↓ 集落にある民家。今時珍しい茅葺の兜造り。隣の家も大きな家で、かつての(?)山林地主だったのだろうか。

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 ↓ 五日市駅からこの深沢一帯には「深沢小さな美術館」の美術作家・人形作家、友永詔三さんの手になるこうした「ZiZi」と呼ばれる妖精(?)が道案内をするように、いたるところに立っている。コンセプト等よくわからないが、まあ、これはこれで。 

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 そこから先は何度も歩いている。途中の奇妙な形をした石灰岩を、あるいは寒念仏塔ではないかと覗き込んでみたが、ただの奇岩だった。

 

 ↓ 寒念仏供養塔かと思って見たら、ただの奇岩(石灰岩)だった。

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 ついでにそこにあった標識に従って、東京都の天然記念物になっている鳥ノ巣山石灰岩産地の山頂に登ってみる。

 

 ↓ 集落の一風情。個人の別荘だろう。これを右手に見て登る。

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 10分足らずで二度目の山頂。表示も何もない、つつましい小さな山頂。単なる突起だから山名もない。

 

 ↓ つつましやかな南沢鳥ノ巣山石灰岩産地の山頂。石灰岩の露頭に浸食された筋が彫り込まれている。

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 南沢から深沢の何度目かの穴沢天神社へ。庚申塔道祖神も、季節のせいか、前に見た時よりもよく見える。

 

 ↓ 穴澤天神社の左、庚申塔享保6年/1721年)と右、道祖神安政4年/1857年)。庚申塔は、石質彫り共に素晴らしい。右第三手には蛇を持っているが、よく見ると蛇の口が開いている。そのように表現されたのは見た記憶がない。

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 ↓ 道路沿いの窪んだ構造物。ひょっとしたら石仏でも安置されていた跡かもと思ったが、この先にも同様なものがあり、どうやら用水・排水関係のもののようだ。 

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 途中では、数は多くないが、山茱萸サンシュユ)?や紅梅(?)などが咲いており、はや春の気配が感じられた。

 

 ↓ 山茱萸サンシュユ)だと思いますが、よくわかりません。

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 ↓ 紅梅? 緋寒桜ではないと思いますが、よくわかりません。

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 (2021.2.6)