半月前ほど、日の出町細尾の光明寺に行った。寺の前、境内と見て、傍らの墓地ものぞいて見る。私の石仏探訪は、基本的には墓域内の個人墓標は対象としないが、墓地入口あたりに六地蔵をはじめとする石仏群があることが多く、また墓域内にも時には見るべきものがあることもあるので、一応のぞいてはみるのだ。
その時も山腹を造成した墓地の上の方に、何やらある気配。上がって見ると、そうたいしたものではなかった。だが、その周辺の景色が何かひっかかる。少し観察しているうちに、思い出した。ここ光明寺は両墓制が残っている場所だったということを。
両墓制とは「遺体の埋葬地と墓参のための地を分ける日本の墓制の一つ(Wikipedia)」で、沖縄から関東、東北まで濃淡はあるが、全国のあちこちで見ることができた。以前、民俗学に強い関心を持っていた頃、沖縄の洗骨風習や風葬などといったことと共に、この両墓制ということを知り、一面でポリネシアや東南アジアに起源を持つと思われるそうした風習に、ある種のロマンチシズムというか、エキゾチックな興味を持ったのである。
両墓制は各地で様々な形式・特色があるが、共通した要素としては「埋め墓(ミハカ、サンマイ/三昧、ボチ/墓地、ヒキバカなどとも言う)」という遺体埋葬地と、「詣り墓(ラントウバ/卵塔場、ラントウ、タッチョウバ、サンマイとも言う)」という遺体のない墓参用墓地の二つが存在しているということである。日の出町では埋め墓のことをヒキバカと言う。
↓ 埋墓(このあたりではヒキバカと言っている)。およそ人一人分の面積に石で区画が記されており、プラスチック製の花立が設置されていた。
↓ 傍らには昭和63年/1988年の「○○家埋墓改修工事」という碑が建てられていた。これでその家にとっての両墓制は終焉ということである。
実は、石仏探訪とは限らず、これまで山歩きや散歩のおりに、何か怪しげな不思議な感じのするところに出くわしたことは何回かあった。今思えばその内の何か所かは両墓制墓地だったように思われるが、具体的な場所が記された資料を読んだことがなかったので、それと確認することはなかった。
それは土葬を前提とした、とっくに廃れた過去の葬送形式であり、現在でもそうした場所が残っていることは、最近まで、不勉強のため知らなかった。郷土史関係の資料にも、具体的な場所まで記載されていることは少ないようだ。
もう一つ。光明寺の両墓制の場所を見たあとで、その先の別の林道の脇にいくつかの石仏があるのを見つけて寄ってみた。資料にも出ていない、樹林の中に10基ほどの墓標が立ち並ぶ、一家族だけの、つまり屋敷墓と言われるもののようであった。
↓ 林道入口の集落の近くの樹林にある屋敷墓。10基ほどが整然と並んでいる。集落の名主とか有力者の一族のものなのだろうと推測される。
墓地と言えば、寺院に隣接するものや、地方自治体や組合の管轄する共同墓地が多い。だが、私が住んでいるあきる野市や日の出町に限らずとも、自宅の敷地内や、少し離れた畑と山林の際などに、その一家だけのいわゆる屋敷墓というのも、今でも全国のいたるところで見ることができる。
その屋敷墓にあった石仏の内の二つが、素晴らしいものであった。
↓ 如意輪観音半跏思惟座像 浮彫座像 舟形 元禄6年/1693年
石質良く、彫りの深い実に見事な像。墓標仏と思うが、正確にはわからない。
↓ 地蔵菩薩宝珠錫杖 浮彫立像 舟形 (頭部一部破損)
梵字種子 右:「~~空~信~」 左:「毎日晨□八於諸定安~~」
如意輪観音と同様に石質良く、彫りの深い見事な像。作風から見ると如意輪観音同一の石工の手になるものか?
丸彫に近い舟形光背の浮彫の如意輪観音半跏思惟座像と宝珠錫杖を持つ地蔵菩薩立像。如意輪観音には元禄6年/1693の年記がある。ほかに偈(仏教用語で、経典中で詩句の形式をとり、教理や仏・菩薩をほめたたえた言葉。頌/じゅ、讃とも訳される)らしき文字が刻まれており、かなり格調の高いもののようだ。こんな炭焼きと林業ぐらいしか生業のない貧しい山村に、このような素晴らしい墓標仏を建立する、どんな歴史があったのだろうか。
一般的に「お墓」にはあまり良いイメージというか、明るいイメージはないだろう。関連して石仏関係の投稿全般にあまり評判は芳しくない。まあ、それはそれで仕方がない。だが、ピラミッドもフィレンツェのメディチ家礼拝堂もノートルダム寺院も、言ってみれば墓であり、死者を祀ったところなのだ。国内外の名所旧跡の多くは、そうした死者とかかわる場所が多い。
↓ ミケランジェロ作 メディチ家礼拝堂 ジュリアーノ・デ・メディチの墓碑
上:ジュリアーノ・デ・メディチ像 下右:「晝」 下左:「夜」
下の石棺には当然ジュリアーノ・デ・メディチの遺体が入っている。
思いついて過去の海外の旅の写真を見てみると、そうした墓や墓地を写したものがいくつもあった。見はしたが、撮影はしなかった所の方が多い。意図して墓や墓地を撮ろうとしたのではない。たまたま出会ったそれらが造形的に美しく感じた場合に撮ったまでである。だがそれらを並べて見ると、異なる風土や文化や宗教の違い、あるいはそこから来る死生観や哲学の違いと、逆に共通性といったものまで見て取ることができそうで、面白く感じた。
石仏探訪においては、墓地・墓石を避けて通ることはできない。そもそも美術・芸術において、死と向き合うことは避けられない。そうした観点から、ごく一部ではあるが、私の見た世界の墓標、墓地を少し紹介してみることにした。
車中からの撮影でピントが合わず、わかりにくいが、ところどころに点々とした土盛がある。昔の中国人(漢族)の墓というか、葬った場所だとの事。漢族以外の先住の蒙古族などは墓は作らず、軽く石などを載せて終わり。すぐに場所もわからなくなり、墓参りの習慣はないとのこと。現在の様子はわかりません。
右下にチラッと見えているのはラクダに乗った現地の人か、観光客。
↓ スウェーデン、ゴットランド島。古いものだが、詳しいことはわからない。墓標は立てず、石棺の蓋に文字が刻まれている。
↓ スウェーデン、ストックホルムのとある教会附属の墓地にあった古い墓標。浅く文字が刻まれている。味わいある形。
↓ 同じ墓地のもの。三角形の形の意味はわからないが、同じく、味わいある形。
↓ 2000年に行った、文字からするとドイツかオーストリアと思われる教会の床。正確な場所はわからない。この教会ゆかりの僧侶やパトロンの王侯貴族などが床下に埋葬されている。柩の蓋の意味合い(?)でこのような肖像が彫られたものが床になっている。人々は(かつては)その上を歩き、その結果表面はすり減り、このような風合いとなる。
↓ 同上。細かい表情は摩滅し、おおよその輪郭だけが残っている。
以下、「世界の墓地・その2」に続く。
(2021.3.1)