艸砦庵だより

河村正之のページ 絵画・美術、本、山、旅、etc・・・

「石仏探訪-12 今熊山と金剛の滝」 (2021.2.11)

 石仏探訪を兼ねた裏山歩き。今熊山は何回か訪れているが、石仏を意識して登るのは初めて。その気になって見てみると、予想以上に多くのものがあった。多すぎて今回はそのごく一部だけを紹介する。

 今熊山は神仏混淆修験道の山というイメージがあるが、今のところ詳しい資料は持っていない。紀州熊野本宮大社を勧請して今熊野宮と称し、祭神は建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)と月夜見命(つきよみのみこと)となっているが、まあ明治維新以降のこと。要するに熊野神社修験道である。

 表参道まで女房の車で送ってもらう。参道に入れば、葺屋の石仏群、道標、2種類の丁目石、いくつもの石灯籠や刻字のある玉垣群、等々。見るべきものは多い。

 

  参道脇にある葺屋。右奥から庚申塔地蔵菩薩丸彫立像2体。中央の地蔵は念仏塔かとも思われるが、詳細不明。

f:id:sosaian:20210218181800j:plain

 

 ↓ 葺屋の左には板碑型や自然石の塔が数個あるが、いずれも風化剥落が激しく、読めない。おそらく墓標であろうと思われる。 

 f:id:sosaian:20210218181849j:plain

 

 

 ↓ 参道右脇の福徳稲荷社の手前の空き地に投げ出されていた、馬頭観音の文字塔(文化14年/1817年か?)と、「十六丁目」と刻まれた丁目石(町石とも言う)。同様の丁目石は山頂の本殿までに五つ見出すことができた。参道の入り口には「今熊山大権現入口」「従之三十六丁」と記された弘化2年/1845年の大きな道標が建てられていたから、それに対応するものだろう。側面には寄進者の氏名が記されている。

 またそれと並行して昭和6年/19331年に建てられた花崗岩製の別の丁目石が100mおきに建てられているのが14本確認できた。こちらは「二千百米」などと記されている。

f:id:sosaian:20210218181925j:plain

 

  ↓ 今熊神社の拝殿と本殿の分岐。左は今熊神社(拝殿)へ。右、本殿(今熊山山頂)へはここから山道となる。

f:id:sosaian:20210218182049j:plain

 

  ↓ 尾根道の途中の注連縄の結界。ここからさらに神域度が増すということなのだろう。

f:id:sosaian:20210218182137j:plain

 

 ↓ 山頂の本殿への石段と鳥居。

f:id:sosaian:20210218182207j:plain

 

 標高505mの頂上の神社本殿周辺には、いくつもの興味深い石碑群がある。いずれも修験道神仏混淆神道の系譜を示すもの。初めて見るものもあった。

 

 ↓ 本殿傍らの石碑群。ほかに新旧8基ほどの石祠群などがある。また本殿の下の段にも興味深い石碑がいくつかある。

f:id:sosaian:20210218182236j:plain

 

 ↓ 「山神 水神 地神 石経塚」と刻んだ文字塔。こうした山の神を含む三尊(?)形式のものを見るのは、私としては初めて。「地神」という概念は一般的にはあまり知られていないだろう。

 「石経塚」と刻んであるのは、経文の文字を一つの石に一字ずつ書いた「一字一石経」を埋めたということであり、いわゆる経典供養塔を兼ねている。神仏混淆の証である。年記は確認できないが、裏に「別當 鳳明沙?□」とあるので、今熊山中興の祖と言われる鳳明が活躍した安政3年/1856年頃のものと思われる。

f:id:sosaian:20210218182305j:plain

 

 ↓ 「天満大自在天 雷神 風神」と刻んだ、やはり三尊形式の文字塔。「天満大自在天」とは天神様の菅原道真、つまり雷神。そこから風神につながり、合わせ祀ったということだろう。

 先日NHKBSでやっていた「映像詩 宮沢賢治 銀河への旅 ~慟哭の愛と祈り~」というのを見た。資料をよく読みこんだ、新しい観点の盛り込まれた興味深い内容だった。そこで風神のことが取り上げられていた。山と風神は縁があり、昔から気にはなっていたが、その石碑を見るのは初めてで、少し感動した。

f:id:sosaian:20210218182330j:plain

 

↓ 今熊神社中興の祖、鳳明と恵賢大和上の線刻像。安政2年/1857年。彫りが浅く、やや見づらい。

 背面に「金色山隠士比丘恵賢大和上生像模之」「當山中興別當鳳明生像模之」の「造立主」として近隣の寺院関係者の名前が記されている。恵賢についてはわからないが、鳳明は他の石碑にもある「沙門鳳明」と同じ。二人並んだ僧形のどちらが鳳明かというと、やはり右の高い位置にある人物が恵賢大和上で、左の低い方が鳳明と考えられる。

f:id:sosaian:20210218182358j:plain

 

 

 次いで金剛の滝へ行く。ここは四季を問わず何度も訪れているが、雄滝の左岩壁にある不動明王―金剛童子を確認するため。

 

 ↓ 今熊山頂から金剛の滝へ。春未だ浅し。

f:id:sosaian:20210218182429j:plain

 

 

 『東国里山の石神・石仏系譜』(実に面白い本です)の著者田中英雄は、そのブログ「偏平足 山の石仏と独り言。」の「石仏224 刈寄山 金剛童子」で、「~見事な石仏である。不動明王と見間違うこの石仏は、右手に剣がないことと二つの蓮華に立つことから、金剛童子とした。ただ金剛童子の象徴である左手の三鈷杵が羂索になっているのが気になる。」と書いている。

 

 ↓ 金剛の滝。見えているのは雄滝。下に小さな雌滝があり、二つの滝は右岩壁に穿たれたトンネルでつながれている。昨年の台風によって滝壺は浅く埋まったまま。

 滝の左岩壁に不動明王―金剛童子の像がある。この季節以外には草木が繁茂し、岩壁は濡れて黒く、見辛い。

f:id:sosaian:20210218182513j:plain

 

 金剛童子とは仏教の守護神で、阿弥陀仏の化身ともいうが、如来-菩薩-明王の階層にはないのだから、しいていえば天部以下の周縁的存在である。したがって金剛童子の石仏はめったにない。滝=不動明王と思いこんでいた私は、それを確かめたくて再訪したのである。

 

↓ ブログ「偏平足」では、「右手に剣がないこと」とあるが、ズームして見ると、右手首のあたりから折損している。肩から腕全体の形を見ると、本来は剣を持っていたと思われる。ブログの投稿は11月17日とあるが、写真を見る限り、まだ周辺に草木が茂っており、象容を正確に見るのは難しかったように思われる。手前の植物の葉が、ちょうど右手首あたりを隠しており、完全な見間違いである。また左手の三鈷杵は金剛童子の象徴であり、それが羂索に替わるということは、儀軌上からもありえない。

 また、「二つの蓮華に立つ」とあるが、そのようなものは見えず、意味がよくわからない。したがって二つの観点は、誤読。不動明王で良いと思う。

 なお、頭部の上にある光背には梵字種子らしきものが見える。たしかに他の部分の火炎の意匠とは異なっていることはわかるが、相当にデフォルメされており、拡大してみてもそれが不動明王のものか、金剛童子のものなのか、判然としない。

 私自身、この像は何度も見ているが、こんなに草木に邪魔されず、岩壁も像も濡れて黒くなっておらず、ハッキリと写真に撮れたのは初めてである。

f:id:sosaian:20210218182555j:plain

 

 今回は冬枯れの季節だったので、草木や苔の繁茂が少なく、岩壁も濡れておらず、正確な観察ができた。詳しくは写真の方でコメントするが、結論としては、金剛童子説は著者の見間違い=誤判断で、やはり不動明王だと判断する。

 

 今回も数多くの石仏、石造物の写真を撮り、帰宅後にその分類分析に時間とエネルギーをとられるのはいつものこと。今回はとりあえずここまで。