艸砦庵だより

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石仏探訪-22 「オリンピックのとばっちり~雨武主神社遥拝所と丸山家墓地」(記・FB投稿:2021.7.24)

 *モデムとルーターの仕様を更新したことで、しばらくブログを開くことができませんでした。以下、主にFBに投稿したものの後追い再投稿です。若干見苦しい次第ですが、御了解のほどを。

 

 「誤リンピック」、「毒リンピック」、「狂リンピック」、「カス(スガとも、アベとも)リンピック」など、さまざまな言われ方をされている(アートの方では「デスリンピック」というのもあったらしい)オリンピックが始まった。オリンピックとか万博とかには、基本的にへそ曲がりな私は、それなりの関係性しか持てない。必ずしも否定はしないけれども。

 それはそれとして、ここのところの暑さで、日中は心ならずもクーラーを効かせたアトリエに引きこもり、制作に専念するしかない。まじめに制作するほどに、肩こり・腰痛などに悩まされる。自転車で片道35分かけていつもの鍼灸院にマッサージに行く。お休み。張り紙には「オリンピック~云々」。オリンピックがらみで祝祭日が移動するとか言っていたような気はしていたが、まさかこんなところでそのとばっちりを喰らうとは…。

 再び炎天下を35分かけて帰るしかないが、せめて運動かたがた、少し寄り道道草でもしながら帰ることにしよう。

 

 秋川のハケ河岸段丘の崖)に沿って、なるべく通ったことのない道をさまよっていると、思いがけない所に大きな鳥居が立っていた。思い当たるところがある。手持ちの資料には記載されていないが、秋川対岸にある雨武主(あめむしゅ)神社への遥拝所だ。扁額を苦労して読むと「雨武主大明神」。神仏混淆時代の名残。手前の幟立てには「御大典記念」。国家神道の名残。

 

 ↓ 雨武主神社遥拝所。鳥居場とも言う。中の鳥居から見る。手前の幟立てには「御大典記念」「昭和三年十一月戌 氏子中」とある。この年記は幟立てを建てた時のもので、遥拝所自体が建てられた時期は不明。

 雨武主神社は地元の鎮守であるから、地神から発生したものであることは間違いなかろうが、現在の祭神は天御中主命速須佐之男命品陀別命大気都比売命となっている。これは他の多くの神社と同様に、明治維新前後の廃仏毀釈等で適当にひねり出された可能性の方が高い。

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↓ 中の鳥居の扁額。何という書体なのかわからないが「雨武主明神」とある。象形文字的な書体と晒された木目が相まって、良い感じだ。だが「明神」という神仏混淆時代の名残と幟立てにある国家神道時代の名残の「御大典記念」。考えてみれば奇妙な共存である。

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 残念ながら、奥の竹藪が繁っていて、はっきりとは見辛いが、すぐ先に足を伸ばしてみると、確かに対岸には雨武主神社がある丘陵の高み(明神山)が見える。

 

 

↓ 遥拝所のほんの少し先からのぞむ対岸、秋川丘陵。右のこんもりした盛り上がりが明神山。現在は杉檜の植林で社殿は見えないが、長い急な階段を上った頂上の少し下に雨武主神社の社殿がある。植林以前は、季節によっては遥拝所から社殿そのものが見えたのだろう。

 ちなみにゆるやかな稜線の連なりに見えるが、神社の奥を登って主稜線上に立つと、細いナイフリッジとなっており、そこにしっかりした踏み跡がある。ただし稜線は左右とも道路や造成地によって断ち切られており、忠実に稜線通しに歩くのは不可能。

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 あきる野市(旧秋川市五日市町)という、秋川と共に暮らしが成り立っていた地域ゆえに、こうした川を挟んでの遥拝所があるのだろう。北の方にも、平井川を挟んだ小宮神社の対岸にも同様な遥拝所がある。ほかにもこうした場所があるのだろうか。それにしても、そもそも遥かに川を隔てて対岸の神社を拝むというのは、本質的にというか、どういうことなんだろう。

 何となく拾い物をしたような気分で、気持ちの良い崖上の小道を歩いてみると、傍らに墓地があった。

 

 

↓ 丸山家墓地。一家族の屋敷墓にしては相当規模が大きい。このあたりの名士だったのだろう。

 最近の家族墓もあるが、古い小さな舟形の墓標仏や、四角柱の文字塔、無縫塔(これは一般には僧侶の墓標であることが多い)なども多い。

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 ちょっとのぞいて見ると、屋敷墓のようだが、ずいぶんと多くの墓標がある。意外にも立派な彫りの墓標仏がいくつも見受けられた。またいくつもの無縫塔もあるところからすると、近辺の寺院との関連があるのかとも思われるが、詳しいことはわからない。この墓地の所在は資料にも記載されていない。聞こうにも人影はない。

 

↓ 地蔵菩薩 宝珠 円光 丸彫座像(右手先欠)。延享2年/1745-6年。

 一応地蔵としたが、基礎に刻まれた梵字種子は、「ア」であるように見え、そうすると大日如来になるが、私には不勉強で判断できない。像容と儀軌との関係は実際にはけっこう妖しい場合も多く、判断保留。ご存知の方がいたら御教示願いたい。

 いずれにしても次の像と一緒だが、右手宝珠、左手には錫杖を持っていたと思われる。他もふくめて250年前後前のものとは思われない状態の良さである。「直徳院 台峯宗元居士」。

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↓ 地蔵菩薩 宝珠 円光 丸彫座像(左手手先欠)。延享2(3?)年/1745-6年。

 前の像とほとんど同じ造作。特にしもぶくれの顔は瓜二つ。もちろん同一の作者(石工)の手になるものだろう。仏の種類等についても同様。

 基礎には「蓮池院樂所□安大姉」とあり、右の像の延享2年/1745年の「直徳院 台峯宗元居士」と夫婦なのではないかと思われる。

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↓ 聖観音 円光 丸彫立像。明和2年/1765年。

 聖観音の(だけではないが)シンボルである未敷蓮華(未だ悟りきれないことの象徴)やさしく手を添えている。年代からすると先の二つの地蔵の作者とは異なるかもしれないが、多少の共通性はあるようだ。

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 いずれにしても、刻まれた年号は延享、宝暦、明和、天明と古いものが多く、またその割に風化剥落破損の度合いがきわめて少なく、良い状態のものが多い。それほど硬質な石質とも見えないが、少なくともこのあたりに多い風化しやすい伊奈石ではないようだ。

 

↓ 千手観音 浮彫立像 舟形光背。天明2年/1782年。

 光背には梵字種子:キリーク(千手観音)、「法林院禅~(戒名)」とあるから墓標で間違いないが、墓標仏として千手観音を刻むのはあまり見たことがないが…。

 顔の表情は今一つ(失礼)だが、足元など、良い感じだ。

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↓ 同拡大図。手は14本。そう硬いとも見えない石質だが、指先の繊細な感じまで表され、よく残っている。

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 石仏探訪とはいえ、野仏的なもの以外は、ふつう個人の墓標仏や屋敷墓はあまり積極的にはかかわる気はないのだが、今回は造形的技術的な面から思わず引き込まれてしまった。調べれば、いずれ郷土史的な興味深い物語もあるのだろう。

(記・FB投稿:2021.7.24)