艸砦庵だより

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「板垣豊山が『河村先生』の肖像画を描いた」

「板垣豊山が『河村先生の肖像』を描いた」

 

 畏友、板垣豊山が私の肖像画、『河村先生の肖像』を描いた。

 一年ぐらい前に、私を含めて「友人五人(A・S・K・F)の肖像画を今、描いてるんだよ。」と言われ、その後ほどなく最初に完成した私の肖像画の画像が送られてきた。

 それ以前から、彼の近年の仕事について、何か書こうと思っているのだが、書きあぐねること数年。そうこうしているうちに、最近、彼はその五人の肖像画を自分のFBに投稿した。遅ればせながら、この際、シェアさせてもらうことにした(実際には画面構成上、スクショと参考図版を合わせることにした)。

 

 

 ↓ 彼の投稿したFB画面

 『河村先生の肖像』(2021年 油絵 F10号)

 

 

 作品の評価、受け取り方といったものは、人それぞれでよいのだろうが、私自身の、彼のそれについてが、言葉になりにくいのである。この作品についてではない、彼の仕事全体についてである。ある種の(高い)評価はしているのだが、そのおさめるべき座標軸と、それにふさわしい言葉を見出せないのである。

 彼とは古い付き合いだ。年々歳々、そのアウトサイダー的要素を濃くしている。正確に言えば(基準にもよるが)、彼は純然たるアウトサイダーではない。そうでありながら、まぎれもない純正アウトサイダーアート的体質を持っている。表現者(≒芸術家)は多かれ少なかれアウトサイダー的要素を持っているものだが、作品においてそれが顕現するケースは、実際にはきわめて少ない。多くの場合は、作品を構成する表現性と表出性が、ほぼ一目でわかり、瞬時に分析できて、それでおおよそは終わりだ。

 

 彼の持つアウトサイダーアート的要素は、なまじの鑑賞や分析を拒絶する。

鑑賞(力)にもランクがある。初級レベルでの、好き・嫌いや、何が描かれているかとか、あるいは中級レベル(?)での色や形といった造形性を云々するあたりは見る人の自由だが、彼の作品にはそうした初級・中級レベルの鑑賞や批評を跳ね飛ばし、無視する強さというか、屈折力とでも言うべき深度がある。

 いまここで私の肖像画1点を取り上げて云々言っても、ほとんど意味がない。彼の本領は、彼自身が「美人画」と規定(?)した、一連の女性を描いた作品群にある。

 つい数年前までスマホすら持たなかった彼が、この一二年でFBやらTwitterやらインスタグラムにまで数多くの作品を公開しているのだから、興味のある方はそれらを見て自由に判断し、あるいは鑑賞や趣味の壁に突き当たればよい。「板垣豊山」で検索できる。

 繰返しになるが、今の時点で私は自分の直感以外に、彼の作品を評価する座標軸と評価観点の基準を未だに正確には見いだせていない。ただし、その直感の中には、彼の絵には「絵とは何か、絵を描くとはどういうことか」という根源的な問いと、それに由来するある種の「踏絵」的な毒があるということだけは確信している。批評・評価に際して、独自の座標軸を創り出さなければならないという事実がそれを証明している。

 

 

 ↓ 参考:「マスカット」 (2015年 油絵 F8号)

 これと次の1点は、二十年近い空白期間をへて数年前につき合いが復活した時に初めて見た、現在につながる作品群の一つ。

 当時の、ほぼ廃屋としか見えない彼の住居兼アトリエでそれらを見た時の衝撃は、今思い出しても、少し恐怖感をおぼえる。一言で言えば、理解できない作品をダイレクトに見た稀な体験だったからだ。その衝撃のゆえにこの2点を買った。

 本人が昨年の4月にFBにアップしている。



 

 ↓ 参考:「森の姫」 (2014年 F8号)

 同上。

 これも私が所蔵しているものだが、画像はだいぶ前にFBに投稿されたものから。あまり画質は良くない。ワトーやフラゴナールを参照した様子が見てとれる。



 

 ↓ 良く見たらFB画面のスクリーンショットでは絵の下の方が少し切れていることに気づいたので、全体画像を追加。

 

(記:2022.5.6)