近所の正一位岩走神社を通りかかったら、茅の輪くぐりの「茅の輪」を作っていた。
↓ 近所の方数名が作業していた。ご苦労様です。
↓ 茅(ちがや)とはいうものの、近くの横沢入で採った葦のようだ。使っているのは真新しい押切。昔実家で牛を飼っていた頃、餌を食わせるのに、この大型のものを使っていた。
↓ 現在も置かれている年越の祓でつかった茅の輪。冬に作るので稲藁製。
6月30日に各地の神社で執り行われる「夏越の祓(なごしのはらえ)」で行われる儀式、「茅の輪くぐり」に使われるもの。多くは夏越の祓のみで行うが、一部の神社では12月31日の年越の祓でも行う。冬は茅が入手しにくいこともあって稲藁を使うことが多いようだ。
↓「茅の輪くぐりのくぐり方」そういう作法があるのだそうです。
由来としては、旅の途中で宿を乞うた武塔神(=須佐之男命)を、裕福な弟の巨旦将来は断り、貧しい兄の蘇民将来は粗末ながらもてなした。後に再訪した武塔神は、蘇民の娘に茅の輪を腰につけさせ、彼女(家族)を除いて、弟の巨旦将来の一族を皆殺しにしたという伝承がある(ただ宿を貸さなかったというだけで一族皆殺しというのは、さすが日本の神は本質的に「祟る神」だ)。
それ以来、無病息災を祈願するため、茅の輪を腰につけていたものが、江戸時代を迎える頃に、現在のようにくぐり抜けるものになったとのこと。
↓ 飯能市の竹寺、牛頭天王宮本殿にあった「蘇民将来」。お守りだか何だか、私は知りません。
ところでその武塔神=須佐之男命は、神仏習合的には薬師如来であると同時に、祇園精舎の守護神牛頭天王(皇)でもある。また蘇民将来伝説に見られるような「祟り神」的な側面から、行疫神としても崇められていた。全国各地の祇園神社=天王社=八坂神社の祭神である。
↓ あきる野市にも須佐之男命=牛頭天王関係の神社、小祠等はあるが、石造物ではあまり見ない。私が見つけたのは、引田の八雲神社の、この彫りが浅くて見えにくいが「牛頭大権現」と彫られたもの一つだけ。
とにかく出自のわからなさ(朝鮮起源説もある)と複雑な性格のために、明治維新の神仏分離・廃仏毀釈では「権現」と共に最大の排撃の対象となった。
ところで茅の輪くぐりは、上記のような須佐之男命を祀る神社でやるのは当然だとしても、調べてみるとあちこちの、須佐之男命を祀っていない神社でも行っているようだ。なんだかよくわからない。
岩走神社自体も直接は須佐之男命と関係がない。12世紀に信濃国伊那郡から、近くで採れる伊奈石を加工するために石工として移住してきた12名が、その前からあった山王社(=日枝神社・日吉神社)を向かい側の川岸に移し、元の場所に本国から勧請した戸隠大明神(手力男命)を祀った。現在の祭神は稚日女尊(わかひるめのみこと)で、相殿として手力男命と棚機姫命(たなばたひめのみこと)で、つまり三柱とも信濃伊奈郡の神である。現在の地名も伊奈だから、移民たちが村を分家(?)し、先祖代々の神を持ってきて祀ったということだ。しかし、須佐之男命との関連はない。
↓ 道を隔てた反対側の川の崖の上に移転された山王様。祠に向かって手を合わせると、その先が先祖が住んでいた信州伊奈郡、さらにその先が戸隠神社になるという。
しいて言えば、6社ほどある弊社の一つに「疱瘡神社」とあり、これが「祟り神=行疫神」として、佐之男命の面影を投影しているのだろうか。
またしても神社と日本の神の不思議さを、茅(=葦)の緑の鮮烈さを通じて感じた出会いだった。
↓ 岩走神社の弊社の一つに、疱瘡神社があった。ほかの弊社は稲荷神社、八雲神社、熊野神社、金刀比羅神社。
↓ 弊社に奉納(?)されていた柊の枝。本来はイワシも刺さっていたのか。魔除けとしての「柊鰯」と言うらしい。
↓ 深い意味はありませんが、雨だれが落ちるところ。自然石、加工石、玉石、苔と、何となく神道的(?)日本を感じさせる造形。
追記
書き忘れていたが、岩走神社の御神体は馬頭観音(三面六臂の金属製座像)だが、秘仏として非公開だそうである。神社の御神体が観音!さすが神仏習合。ぜひ見てみたいものだが、秘仏とあっては無理だろうな~。
(記・FB投稿 2022.6.18)