艸砦庵だより

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石仏探訪‐53 「今年の石仏探訪 あれこれと」

 石仏探訪とはいうものの、それ自体を目的として丸一日を費やすことはめったにない。たまに半日2~3時間、多くは何かのついでの寄り道で1~2時間ということの方が多い。

 昨年2022年は45回(+α)。今年になってから行ったのは、今日2月13日までで7回(+カウントするまでもないのが3回)。

 地方への旅ならともかく、東京周辺の出先駅の近くを何か所という廻り方では、場所性や地域の歴史性との関係からしても、面白い石仏に出会える確率は低い。四、五ケ所廻って、面白いのは3、4体、内容的に意義のあるのが、2、3体といったところか。といって目的追求性とか効率を求める気もあまりないので、まあそんなものだろうと思っている。

 そんな程度の普段の「石仏探訪」だから、あるテーマや要素を軸に一つの投稿をまとめるのは、かえって案外難しい。なにがしかの軸があればこそ考察も可能だが、それはそれでFB投稿というフィールドでは、おのずと全体の分量も限られる。

 そんな打率2割以下といった普段の探訪の記録を放置しておくと、それはそれで溜まってしまい、何となく気分がよろしくない。

 というわけで、今回はテーマや脈絡はさておいて、今年になって見たものの中から、私にとって「面白かった」ものをいくつか並べてみる。すべて東京都内のもの。全体としてのまとまりや一貫性はない。こうした出し方はあまり好きではないが、まあ、たまには良いだろう。

 

 

 ↓ 1.  「宇賀神」 三鷹市井之頭公園 井の頭弁財天 明和4/1767年

 

 個展の出勤前に、前から気になっていた井之頭公園に寄り道した。

 この像は、数は多くはないが時おり見かける人頭蛇体の宇賀神の中でも代表的なもの。

 子供の無かった世田谷の長者夫婦が願をかけ、さずかった娘が16歳になった時に本来の池の主である白蛇の姿になって池に戻り、残された長者夫婦が供養(?)のために寄進したと伝えられる。

 以前は弁天島向かい正面参道脇にある「石鳥居講中碑」の上にあったが、像の部分だけを取り外して平成25年に現地に移設。「講中碑」から外すことでその趣旨・意味が見えにくくなった。場所的には今の位置の方が良いかもしれないが、何か客寄せ、商業主義的な感がある。でも弁才天→弁財天と水の神・音楽の神→福神/金儲けの神にも進化したのだから、一理はあるか。

 娘なのに女性姿の弁財天ではなく、老翁姿の宇賀神なのは、もともと別系統の水神であった両者が時代とともに習合していく過程を反映している。

 以前にこの像が載っていた「石鳥居講中碑」に記されている世話役の屋号に「錺屋、家根屋、乗物屋、肴屋、車屋」などとあるのは、この井之頭公園が神田上水の源泉として江戸市中の飲用水をはじめ、生活に欠くことのできないものであったから、中流以上の庶民の信仰すること切実であったことの証明である。堂々としたしっかりした作行は、それを支えた江戸中流庶民の経済力も示している。

 

 

 ↓ 2.  「宇賀神弁財天」三鷹市井之頭公園 井の頭七井不動 延宝4/1676年

 

 井の頭弁財天と橋でつながる七井不動の堂の前に置かれている。弁財天ではあるが、上述の弁財天と宇賀神が習合した形で、弁財天の頭上に人頭蛇体の宇賀神が載っている。この宇賀神は老翁ではなく、若い女性姿。一面二手。

 先の宇賀神から約100年前の、素朴な作行。その100年の間の庶民の経済力の推移が見て取れる。

 

 

 ↓ 3.  「水天」 東大和市芋窪6  慶性院

 

 水つながりで、「水天」の像塔。「水神」と記された文字塔や石祠などはよく見かけるが、水天の像塔は東京都でも3基しかないそうで、貴重である。当然見るのは初めて。実はこれを見る二週間ほど前に一度この寺を訪れていたのだが、その存在に気づかずに見落としていた。帰宅後の事後学習で知り、再訪。

 一面二手、宝剣と竜索(=羂索)を持ち、火焔輪後光のある浮彫立像。亀に乗るとされているが、本像では亀は見えない。素朴だが、なかなか良い味の面白い像だ。

 水天はヒンドゥー教から仏教に取り入れられ、金剛界曼荼羅の四大神の西方を守護する竜王で、外金剛部の十二天帝釈天毘沙門天から地天、風天、日天、月天、等々)の一つとなる。民間信仰系‐神道系の「水神」とは出自は異なるが、同一視されている。

 この像は、現在は村山貯水池(多摩湖)湖底に沈んだ石川の慶性院の移転に伴って、大正11年に現在地に移動したもの。多摩湖の南面にはこうして移転してきた住人や寺社や石仏が多い。水没しないで良かった。年記はないが、江戸末期のもの。東大和市重宝に指定されている。

 

 ↓ 4 . 「金剛界大日如来/日待供養塔・逆智拳印」 東大和市芋窪6 慶性院 享保8/1723年

 

 水天と同じ慶性院にある。基礎に「石川谷」とあるが、湖底に沈まなくて良かった。

 石仏を見始めた当初は、何が如来で何が菩薩だかさっぱりわからなかったが、さすがに場数を重ねてくると、ある程度はわかるようになる。金剛界大日如来などは、その独特の忍者の用いるのと同じ智拳印という印相(その仏の趣旨と種類を表す手の形)のおかげで、比較的わかりやすいものの一つ。(同じ大日如来でも胎蔵界の大日となると、法界定印となり、石仏では阿弥陀如来の弥陀定印や薬師如来の薬壺印と区別がつきにくい。)

 ただしこの像は一見して妙な違和感がある。左右の手が違うのだ。普通は左手の人差し指を右手の拳で握るのだが、これは反対になっている。逆智拳印と言うらしいが、全国の大日如来の1%もないらしい。逆であることに何か意味があるのか、少し調べて見たが、わからない。まさか単純に間違えたということもあるまいが、珍しいもの。

 未確認だがどこかに「奉納日待供養」とあるらしい。日待供養とは、広義には日を定めて一定の場所に集まり忌み籠りして日の出を待つ行事だから、月待、庚申待、念仏講などを総称するのだが、この場合の在りようを少し知りたい。いずれにしても、顔は少し間延び(失礼)しているが、全体としてはなかなか堂々とした良い像である。

 

 

 ↓ 5.  「大日如来/日待供養塔」 武蔵村山市神明3 神明ヶ谷戸大日堂 享保8/1723年

 大日如来の続き。隣の武蔵村山市にある神明ヶ谷戸大日堂に安置されているが、施錠されている扉に指を差し込んでわずかな隙間を作り撮影したもの。マジで指が痛かった。

 慶性院のそれと同じく、おそらく基礎のどこかに日待供養の造立趣旨が記されているとのことだが、未確認。両者は造立年も同じで、ともに日待供養塔でもあり、関連があると思われるが、詳しくはわからない。

 こちらは普通の智拳印。全体のバランスも良く、たいへん作りの良い美しい像である。

 

 

 ↓ 6.  「六指地蔵」 武蔵村山市中央3 原山神明社六指地蔵尊

 

 地蔵菩薩宝珠錫杖丸彫立像。傍らの解説によると、江戸初期、地頭の前島重左衛門の娘が六指に生まれ、年頃になって世をはかなんで自殺したのを悼んで造立したとのこと。

 路傍に立つ平和そうな地蔵であっても、その造立趣旨をよく見てみると、殺されたり、自殺したり、事故に遭ったりといった不慮の死を遂げた者を供養するためといったケースがけっこうある。供養と言えば聞こえが良いが、その底にはそれが行きずりの行商人などであっても、ちゃんと弔い供養してやらないとその地に祟りを為すといった、仏教以前の、祟り神の考え方感じ方が横たわっている。

 この近くの原山地蔵尊にも「土地の祭の時に人が殺されその供養として造立」したとの解説があった。私が住んでいる近辺や、探訪のおりに見た中にも、そうした例はいくつも挙げることができる。もっとも、今ではそのことを知る地元の人も少ないとは思うが。現在の「水子供養」もその延長線上にある。

解説によれば「今では子育地蔵として信仰されている」そうである。

 

 

 ↓ 7.  「六指地蔵」‐部分拡大

 

 解説を知らなければ「六指」の意味もわからず、ごく普通のちょっと真面目な顔をした遊行姿の地蔵にしか見えない。しかしよく見ればその右手は六指に彫られている。それが当時の人々のメッセージなのだろうか。

 六指は今で言えば「多指症」という名の先天性異常だが、手足の先天性異常では比較的多くの割合を占めるとのこと。つまり生物学的には一定の確率で起こりうる症状のようだ。

 現代の先進国では幼いころに一本切断することが多い。私の知り合いのお子さんもそうした状態で生まれたというのを、その親族が声をひそめて話しているのを聞いたことがある。著名人では豊臣秀吉J・D・サリンジャー江青毛沢東の4番目の妻)、その他色々上がっていた。(以上参考Wikipedia:多指症)

 要するに今日の医学的見地からすればそれほど大した話ではないのだが、江戸時代の年頃の娘とあればそうも言えないだろうと想像できる。そうした場合に地蔵が求められるのも、無理はないのかもしれない。

 

 

 ↓ 8.  「納骨堂」全景 品川区北品川2 法禅寺

 

 天王洲での知り合いの展覧会に行くために、初めて品川駅から歩いたおりの寄り道。旧東海道品川宿だから少し期待して行ったが、時間のこともあり、あまりたいしたものは見れなかった。

 法禅寺のこの納骨堂は、天保の大飢饉の際、品川宿で亡くなった流民の死者を弔うために建立されたもの。手前には六地蔵、上には次の「流民叢塚碑」と「徳本名号塔」と「万霊塔」が乗せられている。詳しくは次の解説を見ていただきたい。何も知らずに行って、いきなり「歴史」に直面させられ、私はただ驚いた。

 なお「徳本名号塔」についてはまた別に取り上げてみたいコンテンツである。

 

 ↓ 9 . 「流民叢塚碑‐解説」

 

 この碑が建てられたのは天保の飢饉の30数年後。天保の飢饉といっても断続的に何年間かに渡ったので、いつを基準とするのかはわからないが、三十三回忌とか三十七回忌という節目を意識したものだろうか。

 いずれにしても江戸と明治とはいえ、たかだか三十数年前のことだから、その体験は多くの人にまだ生々しく残っていただろうから、ちゃんとした供養の必要は切実だったのだろう。単に供養ということにとどまらぬ、祟りの回避という恐怖感もあったのではないか。100年後に納骨堂を建てたというのは、そうした年忌の意味があるのか一応の区切りとするのか、よくわからないが、より近代的な措置だったと言えよう。

 

 ↓ 10.  「流民叢塚碑」 品川区北品川2 法禅寺

 

 「流民叢塚碑」の実物ではあるが夕方近い逆光気味の漢文とあって、視覚的には全く面白くはないが、まさに歴史の証言者としての意味の面白さ。

 なおこの寺にはレンガ造りの覆堂に納められたいくつかの石仏群などもあるが、先述の流民叢塚碑や六地蔵なども含めてどれも妙に煤け、黒ずんでいる。あるいは戦時中の空襲で火災にあったのか。

 飢饉、戦争、自然の、そして人為的な厄災の連続する歴史の痕跡を目にすると、例えば仏教の存在理由といったものがわかるような気もするが、むろん問題はそれ以前だと思わざるをえない。

 

 ↓ 11.  「善福寺‐本堂」 品川区北品川1

 

 境内には昭和6年の聖観音の供養塔が1基あるだけ。

 あまりさえない寺だなと思いつつ見れば、あるいはこの近辺にいくつかあるというレンガ造りのそれかと思ったが、むしろ壁の一部に残る鏝絵が気になった。

 帰宅後調べて見たら、何と鏝絵の名手と名高い伊豆長八の手になる雲竜図だった。

 

 

 ↓ 12.  「雲龍図 伊豆長八作鏝絵」 品川区北品川1 善福寺

 

 伊豆長八について詳しくは知らない。おそらくずいぶん昔につげ義春の「長八の宿」がきっかけで知ったのだろうが、実物は見ていない。しかし例によって気になったのか、関連の本は確か一冊持っている(実物を見ていないぐらいだから、読んでもいない)。伊豆の長八、本名入江長八、文化12/1815~明治22/1889年。

 伊豆に行かなければ見れないと思っていたが、戦災で多くが消失したものの、生活拠点は東京だったため、泉岳寺など東京地区に45点残っているそうだ。う~ん、気になるコンテンツがまた一つ増えた。鏝絵ね~。たしかにある意味民衆芸術(フォークアート)の一つではあるが…。寺社装飾の類はあまり興味がないし、積極的には見ないのである。

 ともあれ、伊豆長八のそれと知らず見たのだから、あまり偉そうなことは言えない。残念ながら残っているのは全体の4割ほどで、保存状態は必ずしも良くはない。細部の出来を味わうほど熱心には見なかった。まあ、出会いとはこんなものかもしれない。

 

(FB投稿:2023.2.13)