艸砦庵だより

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小ペン画ギャラリー32 「十六羅漢‐2 倣貫休と倣非羅漢画」

 十六羅漢その2。

 

 私が興味を持つ人間像のタイプの一つに、僧侶や修道士、巫女や修行者といった宗教者の存在がある。私は無宗教者であり、無神仏論者だから、直接宗教的問題とかかわるのは難しい。だが宗教的問題そのものではなく、その周縁に位置する人間には関心を持ちやすい。実在のということではなく、イメージとしての、あるいは歴史上の彼ら。

 「羅漢」はその典型というか、究極と言えよう。修行を極め、もはや学ぶものが無くなった人の境地とはどんなものだろう。そこにおける人としての可能性・在りよう、といったものに興味がひかれる。むろん実際にそんな人には出会ったことがないから、想像裡に描く。想像の自由のうちに描くことの限界を感じて、アウトサイド/過去の絵を参照し導入する。倣う。引用する。翻案する。そうしたマニエリスティックな過程の中で、おのずから画面や意味に変化が生じる。それは面白い問題だ。

 今回は「倣・倣貫休」作品を1点とその関連図版4点、別に貫休等の十六羅漢図とは無関係の私オリジナル羅漢を5点。修行を極め、学ぶものの無くなった人の境地を想像と妄想と批評性のうちに描いた人物像である。

 

 

1.  576「(Rakan‐5)華持尊者(倣倣貫休)」

 2022.3.20‐24 21×14.8㎝ 雑紙(羊皮紙風)に水彩・ペン・インク 発表済み

 先回紹介した一点と同様に、これも二重輪郭を持つ倣倣貫休羅漢である。華持ちと題したのは、元になった絵では如意と思われるものを持っているが、本作では未敷蓮華や開いた花に置き換えたからである。

 

 

2.  貫休 十六羅漢‐5 「諾矩羅尊者」

 前掲の元となった倣貫休羅漢像。二重輪郭。持っているのは如意(?)と思われる。如意とは「僧が読経や説法の際などに手に持つ道具。孫の手のような形状をしており、(中略)権威や威儀を正すために用いられるようになった。『如意』とは『思いのまま』の意味。本来は孫の手の様に背中を掻く道具で、意の如く(思いのままに)痒い所に届くので、如意と呼ぶ。(Wikipedia)」とあるが、正直言って意味がよくわからない。

 

 

3. 十六羅漢-5 「諾矩羅尊者」 瑞穂町殿ヶ谷 福正寺

 『禅月大師 羅漢図讃集』に拠ったという昭和58年作の「諾矩羅尊者」。前掲図とほぼ同じ構図。これも手にしているのは如意だろう。丸彫石像なので二重輪郭は現されていない。

 

 

4.  貫休 十六羅漢‐5 「諾矩羅尊者」石刻

 二重輪郭が気になるので、もう一つの典拠の杭州孔子廟の石刻の拓本を見てみると、まるで異なった構図である。手には数珠。貫休十六羅漢像には二系統あるとのことだが。こちらは別系統のものか。

 どうでもよいことだが、左下の履物を見ると、現代のビーチサンダルと全く同じであることに驚く。

 

 

5.  貫休 十六羅漢‐5 「諾矩羅尊者」 根津美術館

 もう一点、根津美術館蔵のものを見てみると、こちらも樹下に数珠を持っているのは共通だが、あまり似ているとは言い難い図。こちらも別系統か。まあ、いろいろ画家が創意を働かせているということなのだろう。

 これもまたどうでもよいことだが、こちらのサンダルには鼻緒がない!

 いずれにしても二重輪郭の典拠は見出せなかった。

 

 

6.  577「(Rakan‐6)耽書尊者」

 2022.3.21‐23 19.3×14.2㎝ 水彩紙に水彩・ペン・インク 発表済み

 ここからは貫休等の十六羅漢図とは無関係の、私オリジナルの羅漢。

 「学ぶものの無くなった」ところで、人は何をどうして過ごすのだろうか。もう本を読む必要もないのだろうか。いくら万巻の書を読んだといったところで、本は無限にある。本・書物と知はイコールではないにしても、本を読まない人間・人生なんてつまらなさそうだ。

 

 

7.  582「(Rakan‐7)貪晶尊者」

 2022.329‐31 17.9×12.1㎝ 和紙に膠、油彩転写・ペン・インク 発表済み

 このタイトルの「晶(≒結晶)」は知や美のアレゴリーであるとしよう。それを貪る、独占する、他へ広げないといったことへの批判、といったところか。

 

 

8.  600「(Rakan‐8)禁欲尊者」

 2022.7.20‐25 19.2×14.2㎝ 水彩紙に水彩・ペン・インク

 上部に描かれた二人の女人は、仏教でもキリスト教でも戒められている淫欲・姦淫のあからさまなシンボル。あからさますぎて少々恥ずかしくもあり、当初は上下逆に描こうとしたのだが、それでは意味が解らなくなり、ストレートすぎるのを承知でこのように描いた。うまくは扱えていないが、率直に描いたとしか言いようがない。

 聖アントニウスの誘惑においても、仏陀の修行の過程を邪魔する悪魔(カーママーラ)の姿でも、しばしば若く美しい女人の姿が描かれる。私は淫欲・姦淫のベースにあるエロス的なるものを否定する気は無いが、宗教や哲学の中で垣間見える性差については、やはり時代の限界といったことを思わずにはいられない。同時に、それだけではすまぬ本質的な人間、男女の在りようにも、思いを馳せずにはいられないのである。

 

 

9.  608「(Rakan‐9)冥漠瞑想尊者」

 2020.7.31‐8.8 18×13㎝ 洋紙に水彩・ペン・インク

 「冥」は暗い、「瞑」は目をつむるの意。暗い砂漠のようなところで、半眼で瞑想する人。漠然と、思索するとはこうしたことかもしれないとも思う。否定でも肯定でもなく。

 

 

10.  609「(Rakan‐10)抱蕾尊者」

 2020.7.31‐8.8 水彩紙に水彩・ペン・インク

 抱いているのは未敷蓮華=まだ開いていない蕾の状態の花(蓮華)。それは悟りを開いていない状態(の人々)を表す。多くの仏教美術で扱われているが、開敷蓮華(開いた状態の蓮華=悟りを開いた状態)も、割合は少ないが存在する。

開く=悟りを開いたといったところで、数日で花弁は散る。私は悟りをそのようなものとして認識している。であるがゆえに大切なのは、蕾の状態をいつくしむということなのかもしれない。

 

(記・FB投稿:2023.7.31)