艸砦庵だより

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スクリプト 武蔵美・特別講義 「内省の美-石仏の魅力とは」

 以下は11月11日にFBに投稿したアナウンス、11月16日に武蔵野美術大学で行った特別講義「内省の美-石仏の魅力とは」のためのスクリプト/脚本=進行メモに水上泰財教授の紹介と質問を加えたである。

 本番では教員引退以後十数年振りのレクチャーということもあり、予定の1/3ほどしか消化できなかった。本稿は覚書的なスクリプトなので、レジュメではない。論旨的にも文章的にも未定稿だが、内容的には私と石仏探訪と小ペン画の関係について語った今のところ唯一の論考なので、記録の意味も含めて、ここに投稿しておく。

 なお「*画像2-1」のように関連画像の投影を指示した個所があるが、点数が多くまた、他の投稿と重なるものが多いので、この投稿ではすべて外した。

 

【参考:FB投稿 テキスト】

11月16日、武蔵野美術大学で特別講義を行います。

「内省の美―石仏の魅力とは~」

17:00~18:30 武蔵野美術大学1号館103講義室

 

 少し前に話が来て、そんなことを言っていたら、「一般の人でも聞きに行けますか?」という質問をいただきました。確認したところ、Off Course! Welcome!とのことなので、今回アナウンス。

 まあ、アナログでアナクロ(?)なコンテンツなので、20人ぐらいでしんみりとと思っていたら、会場はけっこう広い~。

 予約も申し込みも必要ありません。ご希望の方は、直接会場にお出で下さい。

 関係ありませんが、11月の初めにインフルエンザにやられまして、しばらく寝込んでいました。この件やら、あの件やらで、やることが一杯だったので、大弱り。

 現在はなんとか回復途上ですが、講義の日には元気で語りたいと思っています。

 

 ↓ 学内掲示用ポスター

 

 

以下、スクリプト

 

1 水上先生による紹介

 

〇「内省の美―石仏の魅力とは―」(油絵学科教授 水上泰財)

 河村正之氏は、私が画家として兄事する先輩であり、長きにわたりその作品を鑑賞してきた友人でもある。作風は、氏の趣味である登山から触発されたものなども多く、厳しく構成された幾何形態や煌びやかに彩色された植物群などは、俗世間とは一線を画したものである。美と醜であれば美、聖と俗であれば聖、生と死であれば死を連想させ、それらを追求し展開する、現代の美術状況においては貴重な存在だと思っていた。発表も個展を数年に1回か2回するだけなので、知る人ぞ知る作家であり、その寡黙でストイックな制作姿勢においても一目置く存在なのである。

 ところが近年、氏は小ペン画ギャラリーと称して小さなペン画をSNSなどでも発表し、驚くことに近々詩集も出版するのである。私に言わせれば、覚悟を決めて山から地上に降り、俗世間との距離を一気に縮めはじめたようにしか思えないのだ。なぜかは、分からない。でも、そのペン画は、肩肘張らない自由気ままな作品が多く、中でも石仏から発想を得たものが、愛嬌があり、私は好きなのである。

 IT以降、現在のAI(人工知能)から対話型AIなどが自明の風景となりつつある日本あるいは世界において「石仏」などといったローカルで小さな存在が、若い芸術家にとっての表現のヒントになるかどうかは分からない。しかしながら、そこには少なくとも各々の出自からなる歴史性・世界観に通底するささやかな回路がひっそりと横たわっているのかもしれない。否むしろ、より鳥瞰的🟰普遍的な視座を獲得できるのは、そうしたアナクロニズムとも見なされかねない、当たり前のように昔からあって、ひっそりと目立たない存在からなのではないかと思ったりするのである。

 この講座では、画家河村正之氏の仕事を紹介するとともに、近年興味を持ち始めたと言う内省の美―「石仏」【私が勝手に、自分がお地蔵様に自然に手を合わせる姿を思い浮かべながら、それは内省の美なのではないかと思ったのだ(笑)】の魅力について大いに語っていただきたいと思っている。

 

〇河村正之氏への質問 (水上泰財)

*スクリプト中では〇青文字で表記。

 

○そもそも、小さなペン画を始めた理由は何か。

 

○石仏に興味を持ち始めたきっかけは何か。また、氏が思う面白石仏ベスト3とその理由を教えて下さい。

 

○赤い前掛けのお地蔵さんと石仏の意味の違い、はたまたそれらと五百羅漢など羅漢との違いを人はどのように使い分けたのか。

 

○木の彫刻(仏像)と石の彫刻(仏像)の違いは、屋内にあるか外にあるかの違いが大きいと思うが、外にある石仏たちに惹かれる理由は何か。

 

○石仏は、主にどのような場所にあるのか。例えば、村と村の間とか、海への道の道標とか、村の中央の祭祀場だったところとか、目的を持たずに、そこにあるとは考えにくいが、どうか?

 

○多くの石仏は風雨にさらされ、顔形が欠けているものさえあるが、氏は、彫り上がったときの彫刻を想像するのか、それともその石仏が庶民と暮らした時間にロマンを感じているのか。

 

○我々美術家は、創作物の肌触りやその質感などに感心して、それを取り入れたり真似たりすることがあると思うが、ご自身で石の質感に惹かれて、石の彫刻などを手がけて見たことはあるのか。

 

○先にも書いたが、河村作品の油彩やテンペラのタブロー作品は聖、小ペン画は俗といった印象を受ける。例えば私などは、良いドローイングと思えば、すぐにキャンバスに移したくなるが、そのような気持ちはあるのか、ないのか。または、実際、理由があって使い分けているのか。

 

○ここにいる学生たちがそうであるし、私もそうであったが、具象絵画を考えた時、若い時にはモチーフに悩む。氏は、これら小ペン画においては、イメージが溢れてくるとおっしゃっていたが、若い人たちにモチーフへのアドバイスをお願いしたい。

 

 

2 自己紹介 

「内省の美―石仏の魅力とはー」というお題。今時の美大生に「石仏」というアナクロ・アナログでマイナー・マニアック?なコンテンツというミスマッチ?に脱力の「笑」。脱臼的に引き受けた。そういうのもたまには良いか。

 「こんなものもあるよ」という「紹介」を主眼?

 

2-1 自己紹介 石仏・石仏ペン画 

○赤い前掛けのお地蔵さんと石仏の意味の違い、はたまたそれらと五百羅漢など羅漢との違いを人はどのように使い分けたのか。

○イントロダクション「石仏とは何か、なぜ石仏に興味を持ち、時にそれらにインスパイアされた絵、小さなペン画を描くのか」

 石仏-12点~ 観音・不動明王~陽石 *画像2-1

 石仏を扱ったペン画―3点 

 石仏を扱ったタブロー―1点(ペン画とタブローの関係性)

○「物質的想像力と物語の縁起―マテリアル、データ、ファンタジー GO FOR KOGEI 2023」 地方・地域での町・村おこし的ビエンナーレトリエンナーレ

 現代の(若い作家の)作品や現代美術等において「地域性」「歴史性‐縄文」(「地霊=ゲニウス・ロキ」)といったコンテンツの流行→消費されている-「アイデンティティー探し?」→結果として安易にあるいは容易に「異世界/ファンタジー」へのベクトル→消費の対象。

○それらの枠組みにしばしば透けて見える「ゲーム・漫画/ファンタジー(という二次的な在りよう)」がベース・母体‐若い人の世代的風景なのか。消費者としての制作? 浅く、安易で既製品的な、既にある、常識的で既視感。「Z世代?」

○石仏(という異世界)などというローカルで小さな話題・コンテンツから異なった視点?回路?風景?→非直線的・非二元論的な「脱構築」‐「パラダイム変換」‐「トゥリー→リゾーム/根茎構造」(ポストモダン)であり、ポスト・ポストモダンへのベクトルへも?

○抽象美術/非再現・非形象絵画は世界中で同時多発的に発生した。その始まりの一つであるカンディンスキー青騎士やロシア構成主義はロシア農民美術・民画の採集・研究から始まった(エルミタージュ美術館の隣?のロシア美術館)。すなわち「小さな」「外部性」の参照・採用。

○ちなみに私には信心・信仰心はない。石仏から比較宗教学を通じても、すべての宗教はほぼ迷信であるというのが結論。しかし、そうした自分を越える何者かを求める人間の在り様、祈り・願望は否定しない、できない。そのはざまに美術芸術がある。美術・芸術はその発生以降、かなりの部分が、宗教あるいは「祈り」との関係において存在した事実は否定できない。

○絵以外の仏教・宗教史的な事柄では専門の研究者ではないので話半分か7割程度。

○そのためにまず(石仏以前に)どんな絵を描く画家であるかの作品紹介。

 

2-2 自己紹介作品紹介 *画像2-2-①・②

 ①タブロー作品・金箔テンペラ作品 

②ドローイング/和紙 

自身の志向・資質として人間嫌い→現実の社会・世界が嫌い、認めがたい。

絵とは見えないものを描くもの。私は見たいけれども、見えない(実在しない)ものを描きたい。人間が存在しない世界。→非再現的であることを厭わない。

絵とはわかりやすいものではない、エンタメではない、室内装飾ではない(そうであっても構わないが)。鑑賞において感覚的に「感じる」ことと知的に「読まれる」こと。絵は哲学であり、思想の模索の表明である。

美しく存在するものは、それを見れば良い。「花の美しさといったものは無い。美しい花があるだけだ(小林秀雄-反語的レトリック)。そもそも美しいものは、人の存在と無関係に存在する―登山/自然・世界との合一感-体験などから。

大学2年の初めてヨーロッパ旅行の圧倒的な西欧美術体験の後から、非欧米の美術、アジア美術に興味を持った。「美術の未来は欧米にはない。アジア、特に日本が面白い」「絵画の多くは宗教との結びつきを通じて、あるいはそれを口実として存在してきた」→宗教というものの無視できなさ。

同じ年に古美術研究旅行(奈良・京都2週間)と相互作用があったのかも。→非欧米美術・非アカデミズムへの関心・志向。

③小ペン画 *画像2-2-

○「そもそも、小さなペン画を始めた理由は何か。」

ペンとインクそのものは20歳ころ浪人中から自然に興味を持ち、描いていた。→ヨーロッパ美術・特にイタリアルネサンスの卵黄テンペラ技法との関係。伏流していた。

小ペン画を描きだしたのは2019年6月から。具体的なきっかけはささやかで個人的なこと。「もったいない」―ファイル・和紙・紙。

スタシス、クートラス、エクス・リブリス、といった伏線もあった。

 

3 前段「石仏とは何か」

○木の彫刻(仏像)と石の彫刻(仏像)の違いは、(屋)内にあるか外にあるかの違いが大きいと思うが、外にある石仏たちに惹かれる理由は何か。

○石仏は、主にどのような場所にあるのか。例えば、村と村の間とか、海への道の道標とか、村の中央の祭祀場だったところとか、目的を持たずに、そこにあるとは考えにくいが、どうか? ←重要なポイント。

 

○石仏探訪を始めたのは2020年5月から―コロナ+ウクライナ/海外旅行(30数回)の中断。―それ以前からの民俗学への興味などの前段階的要因があった。

○私は石仏や仏教史、比較宗教史の専門的研究者ではない。アマチュア。厳密なところでは知らない、答えられないことや、不正確なこともある。とりあえずは、おおよその鳥瞰的な、アバウトな正確さがあれば良い。石仏の専門的研究者はほとんどいない。定説が定まっていない事柄も多い。新しい独自の解釈も可能。だからここで言うことは、正確さ60~80%ぐらいに聞いておいてください。

 

○石仏とは狭義には石で作られた仏像または仏教関係の石造物‐幅広く石造物全体を対象―宗教的対象にこだわらず。

石仏とのかかわり方

 ①歴史資料・民俗学的資料として

②宗教・信仰的対象

③美術的対象として 金銅仏→塑像仏→木彫仏→石仏

○①と③から、比較宗教学的→宗教や哲学、思想といったもの、形而上学への関心。結果的に宗教というものの、共通性といい加減さを通じて、神仏・宗教への否定性。同時にそれらを必要とし創り出し、変容を重ねてきた人間というものへの考察、哀惜。

○大きく分けて、①仏教・神道道教等の宗教関係のも。②宗教以前の民間信仰をベースにするもの。③宗教とは無関係の社会的、個人的記念碑。

碑・塔を建てることは垂直性(天に向かう)という、世界共通の本能―直立から?

 

①仏教系「石仏」

3 石仏画像‐種類・分類

  • 「仏」の種類―ほぼ無限にある。大きい数に対する信仰?はインド特有?

仏の流行―釈迦如来弥勒菩薩兜率天)→阿弥陀如来西方浄土)→薬師如来大日如来→人々の願望に応じて発明され、その意味合いも変化してきた。キャラクター化―観念連合・類感呪術―語呂合わせ・ダジャレ・類推・イメージによる。

3-1 石仏画像・如来 *画像3-1 如来:釈迦如来薬師如来大日如来

「来るがごとし」→この世にはいない。阿弥陀如来西方極楽浄土薬師如来の東方瑠璃光浄土、釈迦牟尼仏の無勝荘厳国とか。

○菩薩:文殊菩薩普賢菩薩地蔵菩薩観音菩薩虚空蔵菩薩

3-2 石仏画像・菩薩 *画像3-2

悟りは開いたが成仏せず→弥勒菩薩兜率天)―釈迦牟尼の次に現れる未来仏/56億7千万年後までの間人々を救う―大乗仏教理論(釈迦は言わず)。

 観音菩薩六観音(千手観音・十一面観音・如意輪観音馬頭観音)―三十三化身→三十三観音霊場 三十三観音→中国

 地蔵菩薩バラモン教では大地の女神プリティビー/僧形・遊行姿-観音と共にオールマイティー道祖神との習合→浄土教による地獄思想・六道輪廻思想―地獄の閻魔大王六地蔵→子供たちの守護神

3-3 石仏画像・明王・天部・他 *画像3-3

インドの古代のバラモン教の神が仏教に取り入れられたもの密教における最高仏尊大日如来の命を受け、仏教に未だ帰依しない民衆を帰依させようとする役割を担った仏尊。:五大明王不動明王軍荼利明王~、愛染明王孔雀明王

3-4 石仏画像・天部 *画像3-4

インドの古代のバラモン教の神が仏教に取り入れられたもの。上位の如来や菩薩と人間の中間に位置し、仏教を守る役割。:梵天帝釈天・四天王/毘沙門天広目天~・阿修羅・十二神将・閻魔・弁財天・大黒天・伎芸天・吉祥天・摩利支天~~。羅漢/阿羅漢・十六羅漢・五百羅漢や高僧などを加える場合もある。

仏教系「仏像」ではないが―仏教由来のもの

 五輪塔・宝篋印塔・板碑・廻国巡拝塔・経典供養塔などの「塔」の類。高僧:弘法大師 日蓮大菩薩

 

3-5 石仏画像・民間信仰系‐道祖神庚申塔 *画像3-5

非仏教―民間信仰系のもの/道祖神 庚申塔 日待・月待塔 姥神・山姥・奪衣婆 蚕神 

 

3-6 石仏画像・民間信仰系・仏教以前‐姥神・奪衣婆、創作神、山岳塔 *画像3-6

干支(かんし、えと)=十干(甲乙丙丁…)と十二支(ね・うし・とら・う…)を組み合わせた中国の暦法。「きの(甲)」「きの(乙)」「ひの(丙)」「ひの(丁)」と陽陰に応じて「え」「と」の音が入る。最小公倍数の60で一巡り。

 

3-7 石仏画像・神道以前・さざれ石・陽石・金精 *画像3-7

 山/霊が天に昇るところ・垂直性―汎アジア的‐世界共通/ドルメン・ストーンヘンジ・ピラミッド‐山中他界説。山そのものを神・信仰。→岩/磐座→石/たま・さざれ石→砂/産土。石に関わる信仰=アニミスム的。丸石や変わった形・良い形・きれいな石には神霊が宿る―ヒスイ・勾玉・宝石・パワーストーン

3-8 崩壊・消滅 *画像3-8 

 

4 石仏を扱った、かかわりのある作品 *画像4

4-1 小ペン画

4-2 タブロー

「先にも書いたが、河村作品の油彩やテンペラのタブロー作品は聖、小ペン画は俗といった印象を受ける。例えば私などは、良いドローイングと思えば、すぐにキャンバスに移したくなるが、そのような気持ちはあるのか、ないのか。または、実際、理由があって使い分けているのか。」

 →それぞれは別の表現形式・メディアだと思っている。小説と俳句・短歌・詩という並立した表現制作。別に絵と音楽、等。

 本道と脇道・寄り道・逃げ道・避難場所。複数持っていた方が良い、健康でいられる。

 その形式・サイズにふさわしいそれに見合った表現内容がある。だから小ペン画で石仏的な要素を入れるのは自然だが、タブローではサイズや素材の観点から難しく積極的にはなれない。

 「聖と俗」もあるが私の視野は「聖と賤」。→『迷宮としての世界』(グスタフ・ルネ・ホッケ-マニエリスム論)―「一致する不一致」と民俗学的見地との一致。

 画家・芸能者→「賤」「エタ・非人/士農工商・エタ・非人」としての存在。

芸能者/「エンタメ・河原者・河原乞食」・僧/「乞食=乞食行」=非百姓(おおみたから)。「法印・法眼・法橋」―狩野探幽俵屋宗達尾形光琳―僧の位階/法印=大僧正・法橋=律師。仏師・画家・連歌師儒者・医者など。

 

我々美術家は、創作物の肌触りやその質感などに感心して、それを取り入れたり真似たりすることがあると思うが、ご自身で石の質感に惹かれて、石の彫刻などを手がけて見たことはあるのか。

 →無い。「マチエール」という意味ではなく、「肌合い」ということは重視しているが。それは立体であれ平面であれ、表面について。立体については、いわゆる骨董・古美術に興味があるのみ。

 

. 「なぜ石仏に惹かれ、どんなところに興味を持つのか」

○石仏に興味を持ち始めたきっかけは何か。

もともと登山が好き(人間嫌い?)で、関連して民俗学への興味があった。武サ美―宮本常一柳田国男の系譜。宮崎駿網野善彦。石仏/「見たいものしか見ない」―意識しないものは見えなかった。年齢。

○また、氏が思う面白石仏ベスト3とその理由を教えて下さい。

 

○木の彫刻(仏像)と石の彫刻(仏像)の違いは、(屋)内にあるか外にあるかの違いが大きいと思うが、外にある石仏たちに惹かれる理由は何か。

○多くの石仏は風雨にさらされ、顔形が欠けているものさえあるが、氏は、彫り上がったときの彫刻を想像するのか、それともその石仏が庶民と暮らした時間にロマンを感じているのか。

石仏とのかかわり方

 ①歴史資料として

 ②宗教的対象 信仰対象

 ③美術的対象として 金銅仏→塑像仏→木彫仏→石仏

 人間嫌いの私が人間・社会との接点が民俗学→仏教神道-比較宗教学的→宗教や哲学、思想といったもの、形而上学への関心。宗教というものの、共通性といい加減さ、それらを必要とし創り出し、変容を重ねてきた人間というものへの考察。神仏・宗教への否定性。

 石に彫るのは、永遠性・永続性という観念がある。実際には風化し、剥落し、案外と長持ちしない。風化剥落し崩壊し消滅するから良いのだ?―仏教の教えそのもの、諸行無常を体現しているともいえる。現実には金銅仏や木彫彩色仏に比べ、安上がりで技術的にも容易。庶民的。個人の信仰対象たりうる。面白いのは人間一人一人であり、その集合としての世界なのだ。

 

. 「なぜ時に石仏にインスパイアされた絵を描くのか」

 何よりも「世界」を描きたい。世界→日本/世界(海外)、現代の世界/過去・未来の世界、人間を中心とする世界観・社会/人間の存在しない世界/動植物・鉱物の世界。それらの全体。もっと言えば、ビッグバン―138億年前。膨張宇宙/ドップラー効果。それ以前、それ以降は? 地球誕生―46億5千万年前。兜率天にいる弥勒菩薩は56億7千800万年後に人々を救うために来臨。

 世界を見るには、高所から見下ろす・見渡すか、あるいは小さく穿たれた窓から見るのが良いかもしれない。ごく卑近な事柄から深い真理?に至ることができる。

 まず私自身が生きるこの社会・世界=民衆・人々の世界を知ること←→比較宗教学的等、直感。

 

7 結論・これから

○「ここにいる学生たちがそうであるし、私もそうであったが、具象絵画を考えた時、若い時にはモチーフに悩む。氏は、これら小ペン画においては、イメージが溢れてくるとおっしゃっていたが、若い人たちにモチーフへのアドバイスをお願いしたい。」

 

 具象でも抽象でも同じこと―そもそもその言葉はとっくに賞味期限の切れた言葉。

 モチーフ(題材=写す・描き表す・扱う対象物としての主に具体物)とテーマ(主題=思想・世界観)、同じ意味に使われることもあるが。「何を描くか/どう描くか」。「モチーフ・テーマが見いだせない状態をこそ描けば良い」。学生時代は「どう描くか」ということに専念しても良いのでは。そこにいずれ自ずから自分・個性?が立ち現れる。

 「個性」という言葉をあまり信用しない→「テクストとは無数にある文化の中心からやって来た引用の織物である(ロラン・バルト「作者の死」『物語の構造分析』)のテクストを個性と置き換えてみる。実体ではなく「振舞い方」こそが個性の名に値する。

 同様の理由で「個性」の前提としての「アイデンティティー(自己同一性・独自性・自己認識)」や「ルーツ」もあまり重視しない。なぜならばそれらは帰属性という外部性(日本人・~出身・民族性・世代論)に容易に結びつくから。

 ペシミズム(悲観主義・厭世主義) ニヒリズム虚無主義) シニニズム(冷笑主義