艸砦庵だより

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石仏探訪‐59 「富山~蓼科12日間の旅-② 地霊(ゲニウス・ロキ)―富山市芦峅寺・上市町大岩日石寺・他の石仏」

 富山に行き「GO FOR KOGEI 2023 物質的想像力と物語の縁起―マテリアル、データ、ファンタジー」展を見、その後、周辺の石仏を見て歩いたのは9月のこと。もう三ヶ月も前になる。

 両者はむろん直接の関係はない。だが、同時期に両方を体験した私としては、どうも底の方でつながる何かがあるように思われてならないのだ。それは私の個人的感性だろう。それを言葉にしてみようとしてみたが、なかなかうまくいかない。

 

 同展のガイドブックには「縁起」「生きる場所、創造の場所~」「時間」といった言葉が散見される。いずれも前後の文脈からして、ストレートな解釈に導いてくれるキーワードとはなりえず、私の「うまく言えなさ」と同様の、まさに「名状し難い『何ものか』」にとどまっている。

 ここで展覧会評をしようというのではない。展覧会は、おおよそは良いものであった。「工芸、現代アート、アールブリュットを跨ぐ」領域横断型展示において、会場の富岩運河沿いといった場所性からしても、富山県≒北陸/日本の近代史(あるいはそれ以前を含めた歴史)や地域性とのコミット/協同が、主催者のひそかな伏線の一つとして期待されていたように思われる。だが、そうした必然性というか、座標軸というか、そうした私が期待したものは、全体としても個々の作品においても、あまり見いだせなかった。それは主催者の構想と構えの大きさに対して、作家個々の作品のありようが必ずしもリンクしていないというだけの話でしかないのかもしれない。

 地域芸術祭的な要素や、参加型展示の要素、云々ということではない。最近は古民家、有形文化財住宅、歴史的建造物、寺院等での展示も一般化している。それらの多くは、ホワイトキューブから少し変わった場所に作品を物理的に移動しただけというものが多い。それが必ずしも悪いとは言わないが、場所の固有性とのかかわりや独自の必然性といったものはあまり感じたことがない。

 そうした中でも、同展でのいくつかの作家・作品には、近隣を含む北陸≒日本海側の地誌・歴史性との照応を感じさせるものがあった。私が見たのは初日と二日目のそれぞれ半日ずつだが、全展示を見て、何人かの作家と少し話をした。彼らの多くは数日程度の滞在で、前後に富山のどこかを回るということもなく、あわただしく帰られるとのこと。もったいないことである。富山という固有の場で発表しながら、その固有性とはほとんど縁を取り結ぶことなく、そこに「縁起」が発生しようがないと思われるからだ。

 

 ゲニウス・ロキという言葉がある。ローマ神話における土地の守護精霊(genius/守護霊 loci/土地)の意で、地霊とも訳される。蛇の姿で描かれることが多い。欧米での現代的用法では、「土地の雰囲気や土地柄」を意味し、守護精霊を指すことは少ない(Wikipedia)。だがそれは、現代においても「ある特定の場所」から世界という普遍性を見ようとするとき、重要でユニークな視座・補助線になりうるだろう。

 富山にもまた固有のゲニウス・ロキが在る。剣・立山連峰を背景とする修験道や、そこで行われていた「布橋灌頂」に具現化された擬死再生観、等々。そして、それらと共鳴する石仏・山姥像群。せっかく富山で発表の場を持ちながら、それらと出会う機会を持たなかった現代作家たち。それは個々の自由であり、余計なお世話ではあるけども、つい「もったいない」と思ってしまうのである。

蛇足だが、作家やその作品がゲニウス・ロキ的なアイデンティティーと結びつくことが、必ずしも必須のことではないのは、言うまでもないことだ。しかし「村・町おこし的」地域芸術祭においては、そのスタンスは主催者においても作家にとってもある程度以上問われるのではないだろうか。なぜそこにそれなのか。作家・作品が、他処から此処に移動した甲斐はあったのだろうか。いや、それもまた余計なお世話か。

そんなことを思いながら、旅先で出会ったいくつかの印象的≒ゲニウス・ロキ的な石仏を紹介してみる。

 

 ↓ 富山県上市町 大岩日石寺。

 不動明王制多迦(セイタカ)童子・矜羯羅(コンガラ)童子の不動三尊と阿弥陀如来座像、行基像と伝わる僧形を浮彫した摩崖仏。大きすぎて全容は収めきれなかった。

 明王の像高は2.8m。摩崖仏全体に覆いをかける形で本堂が建造されているため、保存状態は良い。不動明王と二童子平安時代後期。阿弥陀如来と僧形像は後年の追刻。

 ともあれ大迫力である。今でも厚く信仰されているためか、手前に奉納された日本酒が高く積み上げられており、下の方は見えなかった。

 

 ↓ 同前 不動明王拡大。

 後から気づいたのだが、羂索をもつ左手に小さくあるのは宝珠か。だとすれば、少し珍しい。

 感動して見ている私の脇で同行のSは、そばにいた何やら悩みを抱えているらしい若いきれいなお姉さんに話しかけ、いつの間にか不動明王そっちのけで人生相談に乗っている模様。ああ、聖と俗の共存…。

 

 ↓ 同前 不動明王

 本堂から出て、修行の場である六本瀧の手前にあった不動明王。意匠的には素人臭いかわいい像だが、本尊の大摩崖不動明王に圧倒されたわが身としては、こちらの方が私の願いを少しは聞いてもらえそうな気がした。

 

 ↓ ささきなつみの作品(再録)

 岩手県出身、山形県で学んだ若い作家。東北の風土性や自身の狩猟や自然体験に濃厚に根差した表現。そこから縄文回帰といったサイクルを越えて、新しい異世界物語を構築しようとするパワーが魅力的だ。この先、ファンタジーを越えた新たな普遍性を獲得してほしいものである。

 

 ↓ 上田バロンの作品(再録)

 作者によれば、左の上代風の女性が、古事記に登場する(日本書紀には記載がない)沼河比売 (ぬなかわひめ、奴奈川姫ほかの表記もある)をキャラクター化したものだとのこと。キャラクター化=造形。なるほど。私は説明される前に何となくわかったけど、知らない人はキャプションを読んでもわからないだろう。

 ちなみに大国主との間に建御名方神諏訪大社の祭神)を生んだという伝承がある。それよりも重要なことは、日本で唯一産出する糸魚川翡翠(ヒスイ)を支配する祭祀女王であること。翡翠縄文時代から古墳時代まで特殊な呪物として神聖視され、奈良時代以降は急速に忘れ去られたたヒスイの交易史を知ると、同じく縄文時代の限られた地域でしか産出しない黒曜石の交易史と同様のいにしえのロマンを感じるのである。そうした歴史性を現代的テイストで表現した作品。

 また、リュウグウノツカイやら黒い蛸やらまだまだいろんな読み解かれるべきコンテンツが潜ませてある。

 

 ↓ 同前、部分。沼河比売のクローズアップ。

 う~ん。共感。

 

 ↓ 参考までに、古くは沼名河玉とも呼ばれたヒスイ。

 上二つが、糸魚川産。天然記念物なので、原石のある姫川上流での採取は禁止されている。ヒスイと言っても緑色のいわゆるヒスイ色を呈しているものはきわめてまれ。右のものにはほんの少し緑色が見えるが、多くは左のような白っぽい灰色か、わずかに紫がかった灰色など。

 下の三つは世界最大の産出国の一つであるミャンマーで購入したもの。右の四角いものは未研磨なのでわかりにくいが、研磨すればガラス質の色の濃いもの。こちらの方がだいぶ高価である。

 わが家の近くでも、縄文時代の遺跡から大珠といわれる大きなものが発掘されている。

 なお、安価で色の強いヒスイといわれる宝飾品は、大理石の粉末などを練ったものを化学的に着色処理した物なので、要注意。

 

 ↓ 富山市芦峅寺の閻魔堂外観。

 周囲には三十三観音ほか多くの石仏があり、後述の布橋の入り口にある。まさにゲニウス・ロキ的聖地である。堂内が開放されていて自由に拝観できるのがうれしい。

 なお、この閻魔堂と後述の布橋などをめぐる地域一帯の修験道立山信仰については、大きすぎるコンテンツなので、省略。興味のある方はご自分で調べて下さい。

 

 ↓ 同前。閻魔堂内部。

 閻魔大王を中心に左右に十数体の木彫彩色の姥神が十数体据えられている。よく手入れされている。

 

 ↓ 左側の山姥群。木彫彩色。

 白い装束は、かつてこの地より先に登ることを許されなかった女性たちを救済するために行われた、儗死再生儀式としての布橋灌頂儀礼の際に今も実際に身にまとう死装束であり、赤は成仏できない理由の一つである穢れとしての経血を表すものだそうだ。立山の室堂にある赤い血の池地獄はその経血を象徴し、血盆経にはその経緯が記されている。この装束は毎年新しくして着せ直すとのこと。

 

 ↓ 以前に「石仏探訪-5 水晶山に姥神を求めて」として投稿したのと同じ趣旨の木彫彩色の姥神。

 地域によって山姥、乳母様、オンバ様などとも呼ばれ、信仰内容によって一部では三途の川で死者の着衣をはぎ取る奪衣婆と習合する。

 この地での信仰内容についてはまだ深くは知らないが、何よりも女人救済のための神である。ここでは白装束によって隠されていて見ることができないが、石像のそれと照らし合わせれば、痩せ萎びた乳房を垂らし、立膝の奥にむき出しにした股間と、ニンマリと恐ろし気な笑いのどこに女性を救う機縁があるのだろうかと、不思議な気にさせられる。

 

 ↓ 同前

  姥神と一口に行っても、時代や作者によって様々な表情を呈している。

  なんかこの人、見たことがあるような気がする…。

 

 ↓ 閻魔堂の先の姥堂川にかかる布橋。昭和47年再建。

 布橋灌頂の際には、女性だけが白装束を着け、目隠しをして渡る。橋を渡った先が「あの世」とされ、鎌倉時代以来の墓地がある。

 上述の閻魔堂の姥神も本来はそこにあった姥堂にあったもの。

 

 ↓ 同前。

 橋の先に見えているのが鎌倉時代以来の芦峅寺墓地の一部。

 なんというか、まさにこの世とあの世をつなぐ橋の趣き。異界への入口。

 

↓ 釈迦苦行像。

 上市町大岩の日石寺本堂に向かう参道の傍らにあったいくつかの石仏の一つ。

釈迦が修行の一環として断食の苦行をし、結局、苦行の無意味さを悟った時の像。数は多くないが、他で一二度見たことがある。風化したのか、刻字等は見えない。味がある。

 

↓ 参考までにというか、釈迦苦行像の傑作と言えばこれ。3~4世紀、ガンダーラ。ラホール博物館蔵。

 画像はよく知っている。今回あらためて調べてみたら1984年に「パキスタンガンダーラ美術展」に出品とある。私は18歳で上京して以来見た展覧会のチケットはすべて保存しているので確認してみたら、やはりあった。今は無き西武美術館。40年前に実見していたのである。

 なんにしても素晴らしい石仏である。

 

↓ 証拠のチケット(笑)。



↓ 最後の二つは正体不明の脱力系の石仏二体。

 上市町眼目の立山寺の出口にあった「たぬき観音」。そう記された看板があった。他に説明はなく、造形等からすればそう古いものとは思われないが、詳細は不明。



↓ 「きつね観音」

 「たぬき観音」の横にあったもので、説明も看板もないが、タヌキの横でこの造形だから狐なのだろう。やはり詳細不明で、両者ともどういう意図なのかわからないが、供華その他から見てちゃんと祀られていることはわかる。これらもゲニウス・ロキの一つの残照なのだろうか。

 

(記・FB投稿:2023.12.23)