艸砦庵だより

河村正之のページ 絵画・美術、本、山、旅、etc・・・

「キクのこと」(記・FB投稿:2021.5.13)

 5月11日はキクの一周忌だった。キクとは、21年間飼っていた猫のこと。FBのプロフィール写真に、私と一緒に写っている猫。

 

 1999年の4月にあきる野市に転居。新学期、中学生になった息子が帰宅途中で、捨てられていた生後一か月ほどの仔猫を拾ってきた。

 

 ↓ 1999年6月。

 わが家に来て2か月たった頃。外界が気になってしかたがない。

 

 

 わが家の女房が猫好きで、結婚した時にも、それまで実家で飼っていた(ノラ出身の)猫を嫁入り道具として持ってきた。猫好きではなかった私だが、しかたがない。以来、その時どきで猫を飼っていたが、病気になったり、事故にあったり、家出したりと、なかなか長続きはしなかった。

 キクは丸21年と一か月、共に暮らした。

 

 

 ↓ 1999年夏。

 3か月目頃。完成した新居を見に私の両親がやってきた。その両親もとうにいない。後ろは女房の陶芸小屋。

 

 

 ↓ 2001か2002年頃。

 青春少女時代(?)のキク。元気一杯。陶芸小屋の屋根に駆け上り、あたりを睥睨する。

 

 

 ↓ 2013年。

 疲れて寝入った女房に寄りそう。長老の域に達し、体重が増え、貫禄がついて、ほぼ相似形。

 

 

 ↓ 2018年11月13日掲載の通販誌『フェリシモ 猫部』に「里山の三毛猫・キクとミケタ」として取材を受ける。写真はその時のカメラウーマンが撮ったもの。詳しくは以下で。

https://www.nekobu.com/blog/2018/11/post-1894.html?fbclid=IwAR1ncod4vuD2xMnX_dsPwJlrrCjmh_MvveJg4b9fnRELkZ-k1w9LuX_eqRo 

 

 

 ↓ 2014年3月。

 35年来の友人M君が酒を飲みにやってきた。彼も以前は猫を飼っていた。猫可愛がり。

 

 

 ↓ 2019年。

 50年来のつきあい、高校山岳部の後輩F嬢が山登りの途中で立ち寄る。老猫にはなっていたが、嫌がりもせずサービス。

 

 

 ↓ 2018年大晦日

 初孫と共に。世代はめぐる。

 

 

 人生はいつだってハードなものだが、そのハードで、ストレスの多かった40代、50代の私と21年間も付き合ってくれた。気のやさしい猫で、こちらの調子の悪い時には寄り添ってくれて、ずいぶん慰められた。そして歳をとり、力尽き、寿命が尽きて、逝った。それが一年前。

 

 ↓ 2019年1月。

 FBプロフィール用に撮影した中の一枚。製作中の二階のアトリエにもよくやってきた。最後の1年ぐらいはもう階段が登れなくなっていたのに、死ぬ少し前に突然登ってきたのには驚いた。何か言いたいことがあったのか。自力で階段を下りるのはもはや難しく、抱きかかえて下りてやった。

 

 

 すでに火葬し、骨になって、女房の作った小さな骨壺に入って、今は仏壇の上に置いてある。近い将来に、近くの取得済みの河村家の墓に納める予定。

 FBにはあまりプライベートなことは投稿しないようにしているのだが、まあ、たまにはいいだろう。わが家を訪れた友人たちにも嫌な顔一つせず(?)、抱かれていた。そんなキクを知る友人たちへの報告と供養を兼ねて、この一文と写真を投稿します。合掌。

(2021.5.13)

小ペン画ギャラリー-22  「デカルコマニー」 (記・FB投稿:2022.2.21)

 「デカルコマニー」とは、ある程度の流動性を持った絵具を二つの支持体の間に挟み、それらをずらしたり、こすり合わせたりするなどした後にはがして、その際に現れる偶然的効果を生かす技法のこと。ロールシャッハテストのあれと言えば、「あれか」とわかる人も多いだろう。

 

1. 参考 1977年頃

 アニメーションフィルムに黒ニス・補充用マジックインキ等

学生の頃、偶然性ということを重視して制作していた頃の試作・実験。乾燥がきわめて早く、究極(?)の流動性と瞬間的作業。こうなると、加納光於の作品を意識せざるをえない。

 

 

2. 「習作」 1977.6

 LKカラー(紙)にポスターカラーあるいはグアッシュ・ペン・インク。

同様の試作・実験。デカルコマニーは、それに加筆して仕上げるのが常道で、ここではペンとインクを使っている。今見れば下手くそだが、こうすればこうなるとわかったような気がして興味を失い、これ1点で終わり。

 

 

 美術史的には、ルネサンス期の『美術家列伝(?)』(ヴァザーリ)あたりにもそれに関わる言及があったように記憶しているが、積極的な絵画技法として公認されたのは、偶然性という価値観を認めた20世紀初頭のシュールレアリズムにおいて。

 原理的には誰にでもできる技法だし、手わざでは難しいある種の精緻なグラデーションも可能なことなどから、専門画家以外の詩人等にも手がける人がいる。評論家の瀧口修造とか、詩人の田中清光、ちょっと違ったタイプだがヴィクトル・ユーゴーなど。

 私もその味わいが好きで、若い時から多少使ってみたりした。だが、その技法を駆使する加納光於という作家がおり、また誰にでもできるという原理性にあきたらず、部分的要素として以上に使うことはなかった。

 数年前にスタシス・エイドリゲヴィチウスの展覧会を見た。私が小ペン画を描くきっかけの一つにもなった展覧会だが、その初期の作品の多くは、テンペラ絵具によるデカルコマニーが使われていた。

 

3. 188 「水の火を見つめるスタシスの二人」(発表済み)

 2020.1.17-18  2.3×9.5㎝ 色紙(黒)に樹脂テンペラ・顔彩・グアッシュ・修正白・ルツーシェ

 以下の4点が、黒い有色紙ないし古アルバムの台紙にテンペラを使用したもの。ボディが強い=絵具層の厚みがあるので、ペンは使いにくい。おのずと面相筆を使うことになる。これは最初の作品で、筆の選択に迷い、結果的にスタシス風の人物になった。と言うよりも、この材料道具の組み合わせでは、自ずとそのような描き味になるのだなと、感得した。

 

 

 テンペラは概念規定にもよるが、基本的には卵をメディウムとする絵具である。しかし、拡大解釈して、卵を含まないグアッシュや泥絵的なものもテンペラ絵具と言う場合もある。数年前にウズベキスタンで見たお土産用の絵を描いていた現地の職人が使っていたのも、チューブ入りロシア製のテンペラ絵具だと言っていた。卵成分を含んでいるかどうかは不明。

 

4. ウズベキスタンタシケント 2018.5.29

 アブドゥール・ハシム・メドレセは元神学校だが、現在は一つ一つの部屋が伝統工芸を主とした工房兼お土産屋となっている。その一つに手描きの小さな絵を制作して売っている店があった。

木の葉に描いている。この時使っているのは右の固形絵具(不透明水彩)だが、その奥のチューブが気になる。

 

 

5. ロシア製テンペラ絵具 ウズベキスタン

 奥のチューブを見せてもらった。テンペラ絵具だと言う。ロシア語は読めないが、下にキリル文字テンペラと書かれているように見える。

 

 

 卵に含まれる油脂分を考え、杓子定規に言えば、紙に直接描くことは避けるべきかとも思うが、プレパレーション(絶縁層)を施せば良いだけの話でもある。紙にテンペラ絵具で描いた例はいくらでもある。

 私の描く小ペン画はペンのタッチが主だから、主張(ボディ)の強いグアッシュやアクリルは、ふつうは補助的にしか使わない。だがタブローを描いたある日、気まぐれに思いついて、余ったテンペラ絵具(樹脂テンペラ=全卵+スタンドリンシード+ダンマル樹脂)を、小ペン画には使いにくい有色紙にデカルコマニーしてみた。滑らかな紙ではないので、絵具は伸びないが、それでも一定のそれらしさは出た。

 

6. 194 「負傷者」(発表済み-個人蔵)

 2020.1.23-24 12.5×8.4㎝ 古アルバム紙(黒)にペン・インク・樹脂テンペラ・顔彩・テンペラワニス

 言うまでもなく、黒い紙の上では透明水彩はほぼ機能しない。テンペラやグアッシュといった不透明絵具を使うことになる。

 

 

7. 189 「小鳥と蝶と子ども」

2020.1.17-18 12×9.5㎝ 古アルバム紙(黒)に樹脂テンペラ・顔彩・グアッシュ・ルツーシェ

 小ペン画と言いながら、これもペンは使っていない。これはこれで良いのだが、私が今やりたいのはこうではないのだろうなと思った。

 

 

8. 195 「目隠しをされて」

 2020.1.23-25 12.3×7.9㎝ 色紙(黒)にペン・インク・樹脂テンペラ・顔彩・テンペラワニス

 紙質のせいか、デカルコマニーとしては失敗だが、それはそれで何とか生かしてみたといったところ。捨てればそれまでのことだが、生かせば予期せぬ、自分では決して発想しえないテイストを獲得することができる。それはいわばシュールレアリスムの極意だ。

 

 

 デカルコマニーはそれ自体では表現・作品とは言い難く、何らかの形や要素を加えて仕上げるのが常道。それを細い筆でやったり、苦労してペン+インクでやってみた作品のいくつか。

 

9. 434 「塔のある処」

 2020.12.23-29 9.3×12㎝ 有色紙(黒)にドーサ、ペン・インク・グアッシュ

 制作時期は前掲の4点よりも少し後のもの。これ以降は、樹脂テンペラは使わずグアッシュを使用。紙質のせいか、やはりデカルコマニーとしては多少それっぽい程度にしか機能していないが、乗り掛かった舟のつもりで、何点か制作。この程度のグアッシュ下彩であれば、ペンとインクも使える。以下、同じ。

 

 

10. 400 「諦念」

 2020.11.14-16 12.9×9㎝ 洋紙にペン・インク・グアッシュ

 もはやデカルコマニーというよりは、単なるステイニング(滲み)。描かれる画像イメージ以前に、それと無関係に画面(紙)に偶然的処置を施しておくというやり方に、移行していった。

 

 

11. 410 「櫓と結晶」

 2020.12.1-2 12×7.4㎝ 雑紙(赤褐色)にペン・インク・グアッシュ・水彩・ガンボージ

 デカルコマニーともステイニングともつかぬやり方だが、要は下仕事の偶然的処置。単純に下彩と言ってもよい。

 

 

12. 444 「燃える日」

 2021.1.4-5 10.4×9㎝ 雑紙(黒)にドーサ、ペン・インク・顔彩・グアッシュ・水彩

 同上。前掲の何点かの作品と同様に、フクシマ原発事故のイメージが自然に出てきた。

 

 その後の展開で、気楽な下彩といったやり方に辿り着き、最近は特にデカルコマニーといった形でははやっていないが、またその内、やるかもしれない。「ありがち」にさえならないように用心すれば、やはりその魅力は捨てがたい。

(記・FB投稿:2022.2.21)

山歩記+石仏探訪-35 「八王子城山」 (記・FB投稿:2022.2.24)

 2月24日、八王子城山(≒八王子城址)に登った。

 

【コースタイム】タウン入口BS11:12~心源院・深澤弁財天・秋葉神社12:00~第六天12:25~八王子城本丸13:33~天守閣跡14:15~富士見台14:40~太鼓曲輪尾根分岐15:26~城山林道16:02~小殿跡~八王子城跡入口BS

 


 ↓ ルート図。「地理院地図」でこんなものを作ってみたが、今のところ使いづらいというか、使いこなせていない。 

 

 私は民衆生活誌=民俗には興味があるが、天皇・武将・大名=支配者たちの権力闘争史にはあまり興味が無い。だから城跡を見ることに重きを置かず、山歩きの部分がなるべく長くなるようなルート設定をした。北の心源院から尾根続きに城山(本丸跡)をへて、北高尾山稜の富士見台550m圏に登り、太鼓曲輪尾根の途中から一般ルートの入口の福善寺観音堂の近くに下る。標高差350m、歩程4~5時間程度。石仏もある程度は見られるだろう。

 

 ↓ 取り付きの心源院の前にあった石仏群。中央がちょっと珍しい寛政/1795年の寒念仏塔。「寒念佛講中」とあるが、主尊は馬頭観音のように見える。右は風化剥落が激しいが馬頭観音か。

 左は日月(?)を頂き、笠をかぶって踊っているような、見たことのない象容のもの。あるいは笠ではなく、富士山=富士講のものか。刻字等は見えず。正体が知りたいが、八王子市に関する良い資料が見つからないのは、困ったものだ。

 

 稱讃寺から心源院・深澤弁財天を見て、秋葉神社から尾根に取り付く。全体としてゆるやかで、良く手入れのされた歩きやすい路。

 

 ↓ 登り始めから見下ろす心源院。写真には写っていないが右の入口近くに深澤弁財天がある。山は春の気配。城山まで地元の愛好家による、うるさいほどの手作り道標が設置されている。多すぎるのも考え物。

 

 

 ↓ 途中の小ピークが第六天。

 昔ここに第六天の魔王を祀る御堂があったことに由来するらしい。第六天の魔王とは、六欲界の最高天に住む他家自在天だとか。男女和合→子孫繁栄を司るとか。詳しいことは私も現在勉強中なので、以下略。ただ、同じく神仏習合時代の「八王子」というのが、牛頭天王の八人の子供のことというのがあり、それとの関係があるように思われる。また、第六天にせよ八王子にせよ、地名としては全国あちこちに残っている。

 

 ↓ 途中の景。歩きやすい路。誰とも行き会わない。

 

 

 ↓ 八王子城山=本丸跡=八王子神社

 延喜13/913年に、華厳菩薩妙行が修行中に、牛頭天王と八人の王子を感得したことにより八王子権現を祀ったのが始まりとか。この伝説により北条氏照八王子権現を城の守護神としたことが、八王子(市)の由来。でも戦に負けて北条氏は滅んだのだから守護神としてはダメだったということ。

 

 

 ↓ 八王子神社手前にあった天狗。山伏姿で巻物と羽団扇を持っている。

台座に「奉納 城山開山五■年 天狗堂創業十年」「昭和十二年三月~建之 東京市瀧川區~~ 納主 長谷川省一 ~~」とある。天狗堂の業種はわからないが、企業が寄進したものだろう。

 少し手前には「覺妙霊神 普寛霊神 ■■霊神」と記された三尊形式の霊神碑もあり、高尾山との関係で修験道も行われていたということ。

 

 

 八王子城址は下の御主殿から見るのが順路でわかりやすいだろうが、上半から見ることになった。豊臣秀吉小田原征伐の一環として、1590年7月に激戦が繰り広げられたらしいが、詳しくは知らない。ただ今も昔も、権力闘争の悲惨さがしのばれるばかり。

 

 ↓ ややわかりにくいが、一本の倒木の主幹から太い四五本の枝が、独立樹のように垂直に伸びている。若く細い枝が伸びているのはときどき目にするが、このように太く成長しているのを目にしたことは、あまりなかった。

 

 ↓  主稜線、北高尾山稜の一画、富士見台。十年ぐらい前に通過したはずだが、まったく覚えていない。

 

 

 飛び出した北高尾山稜は20年以上前に歩いた尾根筋。富士見台で富士を眺め、その先から太鼓曲輪尾根に入り、途中から城山川に降り立つ。

 

 

 ↓ 富士見台とは言っても今日は見えないなと思って、よく見たら真正面にあった。半逆光で、空に溶け込みかかっているが、その分少し神秘的に見えた。

 

 

 あとは福善寺観音堂に直行すればよいものを、せっかくだからと、御主殿とやらに寄り道したのが運の尽き。立派過ぎる曳橋を対岸に渡り、そのまま古道をなぞった遊歩道を歩いた結果、肝心の福善寺観音堂への入口を通り過ぎてしまったことに気づいたのは、大分たってからだった。

 

 

 ↓ 城山川に下ると御主殿跡があった。比較的近年に発掘整備されたようだ。ベネチア製のレースガラス器の断片や中国の陶磁器等も出たとのことで、急に歴史感覚が呼び覚まされる。ただしここを見たおかげで、肝心の福善寺観音堂を見落としてしまった。

 

 

 かつてそのあたりには、今は八王子市津貫町に移転した東京造形大学があった。私は三浪の時に受験した(入学したのは別の大学)。その後ニ三度遊びに来た事もあるのだが、面影は無い。旧所在地すらわからなかった。北条氏とは異なるが、小さな諸行無常

 石仏に関しては、9カ所の寺社をのぞいて見たのだが、不思議なくらい何も無かった。墓域まで足を伸ばせば、もう少しはあったと思うが。まあ、福善寺観音堂をはじめ、今回は縁が無かったのだ。それもまた良しとしよう。再訪するかどうかは未定。

 以下、石仏篇。

 

 ↓ 一番最初の稱讃寺にあった、一つの蓮台に如意輪観音地蔵菩薩が一緒に乗った塔。三尊像というのはあるが、観音と地蔵の二体が並んで刻まれているのは見たことがない。きわめて珍しいように思うが、同なのだろう。こういうのを見ると、知的好奇心が刺激される。下の10行ほどの偈の右に明暦四(?/1658)年と読める.が、結構古い。

 

 

 ↓ 心源院は広い敷地を持つ寺。入口にこの石仏群がある。

右の大きな地蔵は文政元/1818年のもの。ほかに小~中型の地蔵が五体と医者・学者であった「小谷田子寅の碑」があるが、いずれも今のところ詳細不明。

 

 

 ↓  心源院入口の弁天池には深澤弁財天があり、そのかたわらにこの宇賀神がある。弁財天と宇賀神は同一とも別体ともいうが、いずれにせよインド由来の水の神であり、農業神・福神。

 資料には「石の弁天」「人頭の蛇体」とある。確かにその写真では人の顔がうかがえるが、今回は風化が進んだのか光の加減か、顔らしき表情は見出せなかった。残念だ。同じ資料に「祈願のときは、生卵を割ってかけるのであろうか、以前卵をかけたあとがあった。」とある。

 

 ↓ 深澤弁財天の本尊、木造の宇賀神弁天。

 ここでは弁財天は人頭蛇身と解されている。古いものではないが、それなりの味がある。左下には陶器製(?)の白蛇、右下には蛇をイメージさせる縞模様が浮き出ている自然石が奉納されている。

 

 ↓  心源院敷地内の墓域にあった聖観音。特に変わったものではないが、光の加減か、光背から今まさに歩み出る瞬間のような姿に見えた。写真はあまる良くないが、妙に印象に残った一体。

 

 

 ↓ 関係ないけど、こんな雲が出ていた。

 

(記・FB投稿:2022.2.24)

旧作遠望「絵画によるインスタレーション」 (記・FB投稿2021.8.4)

 (*モデムとルーターの仕様を更新したことで、しばらくブログを開くことができませんでした。以下、主にFBに投稿したものの後追い投稿です。若干見苦しい次第ですが、御了解のほどを。)

 

 昨年から始めた古写真・古アルバムの整理は、断続的にではあるが、進んでいる。一部手をつけかねている領域もあるが、いずれやる。

 そんな中で、見て見ぬふりをしているのが、作品・発表関係の写真。

 学生時代に発表し始めて以来、カメラ音痴、写真嫌いの私は、貧乏なくせに金を払って人に撮ってもらってきた。ポジフィルムの四×五、ブローニーサイズ、35mmスライド、モノクロ・・・。すべての作品は紙焼きし、ファイルにまとめていた。

 時代は移り、デジカメ・データへと変遷。気がつけば、紙焼きはしなくなり、作品ファイルも作らなくなった。撮影自体もサボり勝ち。初期の画像データの中には、開けなくなったものもある。IT弱者である私は、今後どういうふうに記録保存して行けばよいのか、見通しは立たない。

 

 ため息をつきながらそんな写真や画像を見ていて、気づくことがある。これまでの作品のおおよそは2冊の自費出版の作品集にまとめているが、その時系列編集からこぼれ落ちたものがあるということ。思考や作風の傾向的変遷とか、展示空間・会場風景の意味、等々、作品画像一点ずつ見ているだけでは気づかぬこと。

 そもそも30年前、40年前の私の作品を知っている人など、ほとんどいない。また、今見たいと思う人がいるとも思えない。だが、私は見てみたい。私は、作品集にそれとふさわしい形で載せることのなかった、そうした要素を持ついくつかの画像をアップして、遠く(?)から見てみたいという、抗しがたい誘惑にかられる。

 自分個人に向かう「ノスタルジア/懐古」には興味がない。だが、作品自体は過去のものであっても、その意味は「古いもの・こと」ではない。「古・旧」とはとはたんなる時制上の事実にしかすぎず、意味や価値判断はまたおのずから別の次元である。今回、あえて「旧作遠望」というタイトルで、FBというニュートラルなフィールドを借りて、自分自身のための「振り返り/眺め直し/見直し」と「気づき」という試みをしてみようと思う。

 

 今回取り上げるのは、「絵画によるインスタレーション」という志向/思考。

70年代前後の現代美術の中でもとりわけ「モノ派」(註)に対する批判的対峙の中で、特にそのインスタレーション(架設)という手法に対して、「絵画」の観点からどう批判・超克できるのかという、まあ画学生的な、未熟かつ無謀な思考をしていたのである。「絵画によって埋め尽くされた空間/部屋」というのが、とりあえずの中間報告的回答だった。むろん、それはあまりにも情緒的(?)で杜撰なものでしかない。その後、私は現代美術/インスタレーションを「対世界直接性としてしか機能しない(=現実そのものとなり果てる)」という八つ当たり的な総括で締めくくり、以後、絵画に専念するに至った。それについては拙著『メッセージのゆらぎ(博士学位論文)』(1987年 私家版)に論述してある。

 今、これらの画像を見て気づくのは、あらかじめ集合作品群として構想された一群の醸し出す、どちらかと言えば予定調和的な貧しさであり、そしてそれとは別に、個々単独で制作された複数の作品を意味的必然性なく野合・集合させた作品群が期せずして放射するアウラ、という違いである。

 

 いずれにしてもこうした試み(展示)は、物理的制約が大きく、今後実現する可能性は極めて低い。そうした意味では、かつてこうした試みが存在したことを、ここに出して見ることも、まあ、まったく無意味ではないだろう。

 (註)「モノ派」については多くの文献があるが、最近目にした中で比較的わかりやすく公正な記述だと思えたのは「「モノ派」とは何であったか」(峯村敏明 鎌倉画廊 Kamakura Gallery: 峯村敏明「「モノ派」とは何であったか」 )である。

 

 

1. 個展「黄昏の領域」(2000.1.8~23 防府市民交流センター・アスピラート/山口・防府)、展示風景。

 後述の「1998ミューズ春の美術展」(1998.4.3~13 所沢市民文化センター ミューズ ザ・スクウェア/埼玉・所沢)の展示をほぼそのまま再現したもの。一部の作品は天地逆にして展示している。

 以下、すべての画像は紙焼きからスキャンしたものなので、ピントが甘く見えるところはご容赦を。

 

 

2. 図版1の部分拡大

 一つ一つは100号前後の、独立して制作された作品。作品同士の組み合わせに、意味的必然性はない。組み合わせることによって意味が発生する。

 

 

3. 同、図版1の右、部分。この右にももう何点か小さいサイズの作品が続いていた。

 

 

4. 個展「KAWAMURA MASMYUKI  1979~1995  両手を叩いて鳴る音はわかる しかし片手を叩いて鳴る音はなにか」(1996.1.8~30 横浜ガレリア ベリーニの丘キャラリー/神奈川・横浜)第二室の展示の一部。

 

 

5. 図版4の部分拡大。

 

 

6. 同、第二室の別の作品群。



7. これらの「絵画によるインスタレーション」の前段になった集合的作品「水の無い谷間」。全8点、1983年。個展、展示風景(1983.11.17~22 紀伊國屋画廊/東京・新宿)。

 個々の作品はそれぞれ独立しても存在しうるが、本来的に、全体が(集合的)一作品として、構想されたものである。

 こうした展示形式は、現在ではさほど珍しいものではないかもしれない。だが当時、あるいは、それまで無かったわけではないだろうが、私自身は何かの前例をなぞった覚えはなく、あくまでオリジナルとしてやったと自覚している。

 

 

 

8. 6部作というか、6点で1つの作品「彼の岸へ」。各1点はPまたはF100号。

 個展(1984・12.10~15  銀座スルガ台画廊/東京・銀座)展示風景。集合的作品ということの限界が見えたような気がした。



9. 7の「水の無い谷間」と8の「彼の岸へ」、その他の作品を展示した「山口の現代美術‐Ⅲ」(1985.6.14~7.7 山口県立美術館)の展示全景。

作品を床に寝かせたり、壁面展示ではあるが、底辺を床に置いたものなど。今見れば、力感に欠けるのは否めないが、当時の力量からすれば、やむをえない。

 

 

10. 「黄金調和線上の蕩児たち-新たな象徴へ」(1984.6.18~24 田村画廊/東京・神田)。

 地中美術館金沢21世紀美術館東京芸術大学美術館の館長をへて現在練馬区立美術館館長を務めている秋元雄史との二人展(名前および作品の公表については本人の了解をえている。そもそもこの場合は、作家時代の彼の名前を出さなければ話にならない)。

 大学同期、お互い20代後半、彼がまだ作家活動をしていた頃。彼からの発案によって実現した、インスタレーション形式と相互干渉といったことを前提とした展示。これもまた一つの「絵画によるインスタレーション」である。

 中央の「FACE」と床のオブジェ群が秋元の作品。この、趣旨としては「二人展」ではなく、「二人によるコラボレーション(この言葉も概念も当時は身近には無かったと思う)展」。その意味を理解するのには、長い時間がかかった。ちなみに展覧会のタイトルはほぼ私の発案。

 

 

11. 同前。画像10の左壁面。中央の1点が私の、他は秋元の作品。

 打ち合わせというほどの事前協議はほとんどせず、しかし食うか食われるかといった緊張感だけは孕んで臨んだのだが、結果として案外静かなというか、無理のないきれいな(?)空間になったのは少々意外だった。そこからいろいろな問題や可能性を引き出せると思うが、その時点では必ずしも整理できていたわけではない。しかし、同時にある種の豊かといってもよい成果、ああ、自分の絵はやはりこうした非直線的な方向であっても良いのだと何となく感じとれたというのは、今につながる収穫だったと思っている。ただし私の出品作そのものは、当時少し壁に突き当たっていた時のものなので、あまり誇れたものではない。

 今、彼の作品・発表の全体を時系列に沿って正確に思い出せるわけではないが、この時はまだ「FACE」を中心とした絵画制作が軸になっている。その後、絵画から離れ、パフォーマンス的要素が増え、やがて制作から遠ざかったらしい音信不通の10年前後をへて直島で再会した。

 

 

12. 「1998ミューズ春の美術展」(1998.4.3~13 所沢市民文化センター ミューズ ザ・スクウェア/埼玉・所沢)展示風景。

 左奥の部分を後2000年に個展「黄昏の領域」(2000年 防府市民交流センター・アスピラート)で再現。

 

 

13. 画像12の右壁面部分。

 私はある展示空間を前提として、それに合わせて作品を制作するという形はとらない。だから「絵画によるインスタレーション」は、皮肉なようだが、それなりに大きな空間と、新作だけで埋めることができないというネガティブな制作状況と、労力費用といった物理的負担へのサポートという要件が充たされて初めて可能になる表現なのだと、逆説的に結論付けられるかもしれない。

 

(記・FB投稿2021.8.4)

閑話+石仏探訪35「ワクチン接種と里山春日幻想」(記・FB投稿:2022.3.6)

 3月5日、三回目のワクチン接種。

 高尾橋から見ると、多くの釣り人がいる。そうか、山女魚の解禁日か。昼過ぎでこれだから、朝はもっとたくさんいたのだろう。釣りは、自分からはあまりしないけど、好きは好きだ。でも、こんなに人が多い所では御免です。

 

 ↓ 高尾橋の上から。

 釣りをするなら、山登りをするなら、人っ子一人いないところがよい。

 

 

 ワクチン接種を終えて、せっかくだから、ついでにウォーキングと石仏探訪と裏山歩きを兼ねて歩く。

 ところどころに梅の花が咲いている。やはり、庭や公園に観賞用に植えてあるのよりも、生活の一環(梅干用)として畑の際などに植えられているのを見る方が、趣が深い。

 

 ↓ 畑の端っこに植えられた一本の梅の樹。

 花より実。それゆえの花。これまでどれだけ多くの梅の実を提供してきたのだろう。

 

 

 ↓ 小さな谷間の小さな集落の、とある一軒の裏。

 表は小さな山の尾根に面し、裏もまた沢をはさんで、小さな尾根に迫られている。

 

 

 何度目かの開光院、楞厳寺・薬師堂瑠璃閣、五社大明神と、初めて見る開光院大聖殿。二度目、三度目であっても、小さな発見がある。五社大明神の「不動尊北極大元尊皇」と大聖殿の不動明王三尊は関係があるのか。今後の課題だ。

 

 

 ↓ 今はなき楞厳寺の跡に残る薬師堂瑠璃閣。

 薬師如来は東方浄瑠璃世界(瑠璃光浄土とも言う)におられるから、瑠璃閣。医薬の仏として、如来には珍しく現世利益信仰を集めたというから、廃寺後も人々の支持を得て、この堂だけは残ったのだろうか。

 中には木造十二神将などがあるとのことだが、暗く、ほとんど見えない。

 隣接して小さな墓地があり、馬頭観音などもあった。

 

 

 ↓  薬師堂瑠璃閣の前に立ち、ふと足元を見ると、不思議な穴ぼこが並んでいる。少し考えて、それが雨だれが穿った跡だと気づいて、少し感動した。

 石材は近くで産出される伊奈石(凝灰質砂岩)。やわらかく加工しやすい石だが、その分風化浸食には弱い。それにしても、こんなになるまでに、どれぐらいの年月を要したのだろうか。年月もまた、表現者である。

 

 

 五日市入野から樽へ向かうささやかな峠路。紅梅と廃車。

 

 ↓ 小さな峠路を越えれば、小さな樽集落。ここにも梅の花が咲きはじめていた。緑浅い、渋い早春の色調の中にあって、思わずドキッとする艶めかしさ。

 

 

 ↓ 直接の関係はないが、上掲のピンクの梅の花に対峙していたのが、この錆びて朽ち始めたジープ。田舎では、廃車に回す費用を惜しんで、畑の隅などに打ち捨てられるものもよく見かける。生と死。時節柄、何となく、ウクライナ等の戦場の景を連想してしまった。彼の地に平和あれ。

 

 

 道々、とりとめもなく、絵やウクライナのことなどを考える。今日見た地蔵や観音と対話する。

 

 ↓ とりとめもなく思い浮かぶあれこれを、今日初めて見た、夏の間は藪に埋もれて覆われて気づかなかったお地蔵さんに聞いてみた。

 「そんなこと言われても、仏教徒でもない人間のやることやさかい、どうにもならしまへんなぁ。そもそも、このわてかて、見ての通り、すっかり無縁仏として何の供養もされず、藪に覆われたまんま、うっちゃられてるだけやさかいになぁ~」と少々、ご機嫌ななめの態。

 

 

 ↓ それを聞いていた馬頭観音のオバぁちゃんは、

 「まあ、あんた、そんなこと言わんで、私らでなんとか少しでも情況が良くなるように、お祈りしまひょ。」、「あんた、この地蔵爺さん、ちょっと偏屈でガンコやけど、根は悪い人やおまへんさかい、気ィ悪うせんといてな。」と、私に向かって腰をかがめて合掌されたのであった。私もあわてて、合掌し返した。

(以上、春の幻想)

 

 

 2時間半は歩き過ぎか。股関節とその周辺が痛む。

 昨夜から今日にかけては、副反応というやつだろう、左手が重く、痛い。

 春は春。春日幻想。

(記・FB投稿:2022.3.6)

山歩記「奥武蔵・正丸峠~ツツジ山」+石仏探訪-34

 前回1月5日に奥武蔵・日和田山~ユガテを歩いた翌日から、なんだか股関節痛。5、6年前から時おり悩まされているが、またしても…。股関節痛、ひざ関節痛で山から遠ざかっていった人を何人も知っている。いよいよ俺も年貢の納め時かという思いと、それにあらがいたい自分がいる。まあ、山も絵もいつか自主的に免許返納して良いのだ…(どちらも免許や定年は無いのだけど)。

 ひと月様子を見て、一昨日8日、奥武蔵の正丸峠からツツジ南尾根を歩いてみた。頼りにするのはワコールCWX(サポートタイツ)。ガチガチに締め付けて下腹部を圧迫し、慢性的に尿意と便意を催させる嫌な奴だが、股関節保護には有効なのではないかと思いついた次第。

 正丸駅から歩きだす。正丸峠までは30年以上前に歩いた道。途中でいくつかの石仏を見出す。

 

 ↓ 正丸峠までは、こうした植林帯の沢沿いを行く。ところどころに石灰岩の岩場がある。

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 ↓ 登山道の上の凍った水流。透明感のある部分は非常に滑りやすい。

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 (現)正丸峠=舗装道路を越え、未知の尾根すじに入る。といっても「関東ふれあいの道」とやらで、広葉樹林帯と植林帯が相半ばする、良く整備された歩きやすい路。正丸山、川越山、旧正丸峠と越え、親知らず(小さな岩の痩せ尾根)やところどころにある石灰岩の露頭のアクセントを楽しむ。

 

 

 ↓ 正丸峠からしばらくはこうした広葉樹林帯。よく歩かれている道筋。

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 ↓ 正丸山あたりから左に武甲山と、右にこれから目指す横手山ツツジ山方面を見る。冬の奥武蔵。

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 ↓ 「親知らず」(ちょっとした岩場と痩せ尾根)のあたりだったか。

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 牛立久保という名の、ちょっと不思議な気持ちの良い平坦地を過ぎ、別荘や舗装道路のある下界臭い刈場坂峠の先がツツジ山。ここも何年か前に別ルートから来た。

 

 ↓ 虚空蔵峠にあった虚空蔵菩薩の石祠。

 中の虚空蔵菩薩はだいぶ傷んでおられる。「虚空」=無限の空間のような、「蔵」=智慧を蔵される、如来未満の菩薩様。

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 ↓ 稜線間近にある牛立久保という名の平坦な場所。葉の繁る夏は鬱陶しいだろうが、今はちょっと不思議な雰囲気をかもし出している。

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 ↓ 牛立久保から主稜線に抜ける。

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 ↓ 横見山からツツジ山あたりには舗装道路が上がってきており、別荘などがある。その一画にあった妙な神様(?)。

 傍らの札には「錦之宮 奥宮 神木赤松」(写真には写っていないが右に少し大きな赤松がある。それが「神木」)、札の裏には「万古東(?)代 スースースー」と書かれている。また、少し先の刈場坂峠にある石祠の裏には、関連するものなのだろう「神素戔嗚大神 かむすさなるのおおかみ(戔はその下に皿)」(=スサノオノミコト)と書かれた札が立てられていた。

 帰宅後調べてみたら「錦之宮高麗宮」という神道系の新興宗教のものらしい。そのHPには「出口王仁三郎聖師様」という文言があるから、「大本」系。う~~ん…。

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 ↓ ツツジ山山頂、879.1m。

 立て札が多すぎる。

 山名は文献によって「横見山」「刈場坂山」「ツツジ山」などと、また南尾根上のピークも含めて「ツツジ山」「大ツツジ山」「小ツツジ山」などと錯綜している。

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 ツツジ山からは未知の南尾根を下る。石灰岩の露頭が点在する植林帯を下り、三田久保峠から右に折れればほどなく舗装道路に出て終了。あとは地図上で拾った西善寺、八阪神社、その他の御堂や小祠や路傍の石仏などを見ながら正丸駅まで歩く。無住の西善寺前の小さな石仏群、八阪神社脇の三面馬頭観音など、良いものがあった。

 

 ↓ 降り立った坂元正丸の道路わきにあった「本邦帝王切開術発祥之地記念碑」。立て札の奥が石碑。

 嘉永5/1852年6月12日に、この地で日本で初めての帝王切開手術が行われたそうだ。「伊古田純道と岡部均平の二人が、体内で子が亡くなった母親本橋とめを救うために、翻訳本を頼りに麻酔なしで行い」、「その後母親は88歳の長寿を全うした」そうだ。基本的に興味がなく、あまりちゃんと見なかったけど、後で考えてみれば私の息子も帝王切開だったし、石仏ではないけど珍しい内容の石造物であることは間違いないので、これも何かの縁かと、紹介しておきます。

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 ↓ 今は無住の西善寺の石仏群。

 寺に直接行く道が見つけられず苦労した。左の三つが文字庚申塔。無住で不便で人の行きかいが少ないせいで、かえって昔ながらのたたずまいを保っている。

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 ↓ 中が空洞の石灰岩庚申塔

 奥に文字が彫られている。こうしたタイプのものは初めて見た。残念ながら他の記銘は見当たらない。

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 ↓ その内部。

 造立年は不明だが、並んでいる他との関係で、天保年間前後のものではないかと思う。

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 ↓ 八坂(阪)神社の脇の葺屋にある丸彫りの馬頭観音

 儀軌どおりの三面憤怒相立像はあまり多くない。寛政11/1799年の「優品」。赤いおべべを取り払って、ぜひ近くで見てみたいものだ。

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 ↓ 正丸駅前の正丸橋向かいの葺屋にあった2体の地蔵の内の小さい方のお地蔵様のお顔。

 刻字はあるが、石灰岩のためか判読しづらい。右に○○童子と読めるので、墓標仏だろうが、資料には未掲載。なんか、そこら辺を走り回っていそうな、きかん気の強そうな子供の顔だ。

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 標高差580m、コースタイム6時間20分のところを休憩・石仏探訪を入れて7時間弱だから上等だ。出会ったのは単独行の二人だけ。体力筋力の衰えは隠しようもないが、股関節は問題なかった。さて、あとは股関節痛がぶり返すかどうか、だけ…。

 

(記・FB投稿:2022.2.9)

小ペン画ギャラリーー21 「女房の選んだ○○点」

 自分の作品を振り返り、鳥瞰し、そこに見出されるテーマで括り、自己批評するということに、少し疲れた。そうした場合の恒例で、ちょっと久しぶりに「女房が選んだ○○点」。

 

 誰でもそうであろうと想像されるが、女房は最初の観客であり、時に最も辛辣な批評家でもある。その見方は「世間」を代表するものでもある。世間の眼は、時に無視できない、時に重要である。気にしすぎるのは良くないが、時々は自分と自分の作品を客観視するために、あえてそうした他者の視点を導入するのも大事だ。

 

 女房に言わせると、私の作品世界は、その良し悪しは別にして、往々にして私の「波動()が強すぎて、入っていけない、自分(見る人)の(鑑賞上の)想像力が発揮できず、想像世界が広がらないことが多い」、とのこと。う~ん、そうですか。そうかもしれない。それはそれで、まあ、あまりよろしくないような…。

 ということで、今回彼女が選んだのは、私:河村正之の波動が「あまり強すぎず、自分なりの想像力が広げられるもの」だそうである。そうですか…。

 共通するテーマといったものは特にはないようだ。

 最後におまけの一画像。

 

 

 ↓ 345 「プリズムと花をみな」

 2020.9.3-8 14.8×10㎝ エンボス加工の雑紙にペン・インク・顔彩

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 今回の女房のイチ押しがこれだそうだ。私も好きな作品。

 エンボス加工された紙に描くことはあまりない。そう難しいわけでもないが、それをうまく生かせるかどうかはまた別問題。タイトルがイマイチかな~。

 

 

 ↓ 489 「旗を振り行進する回回教徒」

 2021.7.24-26 21×14.9㎝ 水彩紙にペン・インク・水彩

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 オリンピックの入場行進の一シーン、イスラム圏のどこかの国の一瞬の印象記憶から。正確さとか再現性とは無縁。行進とは言いながら、絵の中では一人だけ。「回回(フイフイ)教」というのは回教=イスラム教の古い別の言い方。

 あらかじめ何枚かまとめて水彩で下色を施し、ストックしてある用紙の中の一枚と、絵柄が奇蹟的に良いかみ合わせができた。

 

 

 ↓ 534 「安穏」

 2021.12.6-26 16.9×12.9㎝ 水彩紙に水彩・ペン・インク

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 わりと最近の作品だが、ここのところイメージ日照りで、何年か前のスケッチブックから描き起こしたもの。自分としてはあまり新鮮味がないが、女房という他者がこれを選ぶということが面白い。タイトルと絵柄は、少し乖離があるように思う。

 

 以上、ここまでが女房のイチ押し~三押しで、以下は時系列、制作順。

 

 ↓ 335  「塞のをみな」 *発表済み

 2020.8.13-17  14.8×10 ㎝ エンボス加工の雑紙、ペン・インク・水彩

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 村はずれや辻などに立ち、外部からの邪鬼・疫病などを防ぐという「塞の神」信仰の私的変奏。ふせぎ、立ちはだかる女(をみな)。透明なガラスのマント、あるいは防護ウェアをまとっている。中景には原発関係のシンボルなど。

今回唯一発表済みの作品で、東京在住の高校の同級生が買ってくれた。

 

 

 ↓ 355 「三日月塔」

 2020.9.18-21  13.7×9.9㎝ 和紙風ハガキにドーサ、ペン・インク・水彩・顔彩

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 日を決めて集まり、日の出や月の出を待ちながら夜を徹して念仏を唱え、歓談する風習を記念したのが日待・月待塔や庚申塔など。巳待塔、十六夜塔、二十三夜塔などいろいろあるが、三日月塔というのは珍しい。次の写真にあるものを実際に見て、その文字・言葉にインスピレーションを得たもの。実物は自然石の文字塔。文字=言葉から発生した、私流の変奏イメージである。

 作品としては特に言うことはないが、今見てみると後ろの山の形・表現がなかなか良い。別の作品でまた使ってみようかな。

 

 

 ↓ 参考

 あきる野市戸倉の個人宅の敷地内にあるが、傍らの路地から生垣越しになんとか撮影できた。「三日月供養」と刻まれた自然石の文字塔。味がなくはないが、特にどうということのない塔。明治10/1877年。裏面に「石工 星岳寺向」とあり、すぐ近くに住んでいた石工の名前も特定されている。

 古くは三日月信仰というのがあったようだが、詳しいことはわからない。また、この塔の造立の趣旨なども不明。私が実見した三日月塔は、今のところこれだけ。

 

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 ↓ 368 「踊る遊行僧」

 2020.10.8-10-13  12×8.5㎝ 和紙(メノウ磨き)にペン・インク・水彩・色鉛筆

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 以前に新聞の文化欄(展覧会案内?)に載っていた、室町時代の「かるかや(苅萱)」(説話)にかかわる図版を切り抜いてスクラップした。図版以外の解説文などは保存していないので、念仏宗関係のものと思われるが、詳しいことはわからない。場合によるが、解説文をとっておくと、概念性・お勉強意識が強くなり過ぎるので、制作関連の資料としては図版しか保存しないことの方が多い。後で困ることもままあるが。

 とにかく、阿弥陀の来迎の場面らしいその絵にインスパイアされたものである。

 実物(図版)はほぼ全くの素人の手になる画風だが、実に良い味わいのもの。その小さな切り抜き図版から3点の小ペン画を描いた。これはその一つ。

 

 

 ↓ 398 「地涌の少年」

 2020.11.12-16  12.5×9.1㎝ 雑紙(濃グレー)にペン・インク・水彩・グアッシュ

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 「地涌(じゆ)」という仏教の言葉、イメージからは何点かの作品が生まれた。これもその一つだが、それ以上特につけ加えるべきことはない。

 ふだんほとんど使うことのない、やや濃いめの、しかも扱いづらい有色紙に描いたので、そこそこの難しさはあった。

 

 

 ↓ 540 「黎明を聴く」

 2021.12.19-2022.1.2  20×16㎝ ワトソン紙に水彩・顔彩・ペン・インク

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 昨年の暮れ、古い友人のダンスを見に行った。ダンスカンパニーノマド「MORGEN‐明日恋慕」(演出・振付・テキスト 池宮中夫)。

 物語色の濃いモダンダンス。物語色は濃くても、ダンスだから具体的身体は抽象として振舞い、意味を問うことの必然は宙吊りにされたまま記憶として結晶化される。そこから2点、私のペン画が生まれた。これはその一つ。パフォーマンス中に使われた、長く円錐形に丸められた、世界の調べを聞く紙の聴診器(?)とダンサーの、相克の絵画的構成。私はそこに1930年代の構成派のダンスを、勝手に遠望、懐古した。

 

 

 ↓ 544 「結晶の中の魚」

 2022.1.8-9  16.2×11.9㎝ 木炭紙に水彩・ペン・インク

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 ごく最近の作。ただしオリジナルは数年前に描いて放置していたイメージスケッチ。

 意味もイメージも持たず、直線的な形を描き進めながら、ふと、中ほどに魚らしき形を見出した時に、作品として成立した。

 

 

 ↓ おまけ 「選者近影」

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 今回の作品を選んでくれた女房、近影。

 昨年12月の白内障の手術に合わせて、?十年ぶりにショートカットにした。これはこれで、悪くない。

 たまたまこの日着ていたセーターが、20年以上前に、私の原画を元に、洋裁・編み物好きの姉が編んでくれたもの。もともと私が着るために頼んだのだが、私が着ると全く似合わない。女房が着ると良く似合う。以後、女房のもの。

 20年以上前にこんな絵柄も描いていたのかと、我ながらちょっと意外だが、これも何かの縁ということで、選者近影。

 

(記・FB投稿:2022.1.15)