艸砦庵だより

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石仏探訪-54「転落した金剛の滝の不動明王、その他あれこれ」

石仏探訪-54「転落した金剛の滝の不動明王、その他あれこれ」

 

 二ヶ月ほど前に女房の知り合いのAさんが、「金剛の滝の不動明王が下に落っこちている」という投稿をされ、私にも質問がきた。元あった数m上の岩壁部に据え直したいとの意向のようだが、さて??

 ともあれ、一度見に行こうと、女房を誘って見に行った。普段はほとんど人と会うこともないが、今日はずいぶん行き交う。ゴールデンウイーク、こどもの日か。

 

 

 ↓ 秋川支流、逆川の上流、金剛の滝がある小さな支沢。伏流していて、水は堆積した土砂の下を流れている。

 

 

 ↓ 何年か前の台風まではこのあたりまで水流があった。左奥の金剛の滝下段の滝の滝壺も深く、いつも何匹かの岩魚が泳いでいたが最近は見当たらない。何十年か後にはまた復活するのだろうか。

 右の穿たれた穴をくぐり登る。

 

 

 ↓ 金剛の滝への胎内潜り。

 

 

 確かに不動明王は岩壁基部に横たえられていた。何度となく見上げてその大きさをイメージしていたのだが、実際に足元に横たえられているのを見て、大きさにビックリ。2m近くある。

 

 ↓ 落下地点の浅くなった滝壺から引き上げられている。足元にはお賽銭。

 

 ↓ 間近く正面から見る。基壇に「光明不動尊」とあるそうだが、未確認。想像していたよりも大きい。利剣を持っていた右手先が失われているが、左手には羂索を持ち、火炎光背の立像浮彫。きちんとした作りだが、造形的にはそれほど優れたというほどの作ではない。

 

 ↓ 眼は左右の向きが違う「天地眼」でなく、「平常眼」。口元は左右の牙の向きが異なる「利牙上下出相」。う~ん、やはり現状がご不満なのだろう。さて、どうすべきか。

 

 確認したかった刻字も左側面にはっきりと読み取ることができた。

 

 ↓  左側面に確認できた刻字の下段。右に90度回転して読みやすくしてある。

「江戸糀町山本町 行者 渡辺兼次郎 関大垣藩 施主 中瀬久次郎」とある。上段には「慶應三年」(1867年)、明治維新の前年。ある資料にはこの刻字まで記載されているそうだが、私はその資料は未見。

 

 ↓ 参考:2年前の2月の写真。左中段に不動明王が立っている。

 

 ↓ 参考:同上。この撮影時期は渇水期だっで見やすかったが、普段はもっと濡れて黒光りの印象。まわりも草や苔が繁茂していて見辛い。

 

 すでにAさんは石屋や空師(高所で作業する庭師)の方にも見てもらっているとのこと。下に足場を組み、上からロープを降ろし、などと想像をたくましくして見るが、まあ素人の手には負えそうにない。何よりも場所が行政区域の異なる八王子市内で、今熊神社との関係や、正確な所有者というのか、当事者がよくわからないのを勝手に動かして良いものかということがある。費用のこともある。

 

 

 ↓ 大きさの比較もかねて傍らに座ってもらう。「どうやってあそこまで持ち上げるのかしら?」 よく見ると、来ている服にプリントされている女性像と不動明王の対比が妙というか、変だ。

 

 

 それにしても幕末の江戸市中の行者が大垣藩(の人)から依頼され、江戸市中か近辺で像を制作し、ここまで運び上げ、設置するというのは、たいへんなことだ。そのエネルギーの中核が信仰であったとしても。

今回の据え直しを、信仰行為として行うのか、文化財保護的な観点から行うのか、微妙なところである。ましてや当事者不明(?)。

 私個人としては、応急的な意味でも、岩壁下の左側にでも立てて据え直すだけでも良いのではないかと思う。いろいろな事情から元の位置から移動するというのはよくあることだ。味わいは薄まるかもしれないが、その分身近になるというメリットも生じるだろう。

 とりあえず現時点で近くの八王子の某寺に依頼していわゆる「魂抜き」をしてもらったそうなので、不動明王としては職務休業中(?)ということで、横たえていてもそう失礼には当たらないだろう。ともあれ、こうした石仏が移動したり無くなったりという変転は、気をつけていると時々目撃する。なるべくなら移動も紛失も改変もしてほしくない。その意味でも協力できることは協力したいと思うが、さて今後どうなるのだろうか。

 

 おまけとして、帰路に目にしたあれこれも何点か上げる。

 

 ↓ 帰路、山道の傍らで地蜂(クロスズメバチ)の巣が何者かに襲われた跡を見つけた。ちょっと珍しいかも。ここは昨年に巣を作っているのを確認している。襲ったのは狸か?熊か? クロスズメバチの残骸がいくつか残されていた。



 ↓ 帰路、秋川左岸を歩く。左の(写真には写っていない)「小庄の田圃」方面へ水を導く用水路の取水口。斜めに砂嘴状に土砂が盛られている。

 つい最近見た中村哲アフガニスタンでの用水路建設の際のエピソードを思い出した。流れに対して直角に伸ばす西洋工法ではなく、九州筑後川に築かれた斜めに伸ばす伝統的(?)な工法の「山田堰」。感心した。

 たしかにここも流れに対して斜めに伸びている。でもここは大きな石は使われていないようで、そのためにすぐ流失するのか、しょっちゅう重機が入って土砂を整備しているのを見ている。

 

 

 ↓ 前述の写真の土砂部分の手前から、この左のコンクリートで固めた流水路に導かれている。なんか、肝のところ、導入口の部分が土砂だけだと危うく見えるのは、素人考えなのだろうか。

 

 ↓ 傍らに建てられていた「五日市井堰 竣工昭和廿四(24)年」の碑。

 

 いわゆる石仏ではないので、あまりまじめに見たこともなかったが、良く見れば大きさ・形状といい、石質といい、文字といい、案外な雅趣がある。それ以上に耕地に水を引きたいという当時の人々の切なる思いがある。

 

 

 ↓ 小庄の田圃近く、あゆみ橋近く。

 

 バーベキューランドをはじめ人出は多い。セザンヌを思わせるような、水遊びをする人たち。今日は夏日だった。ヨーロッパ近代絵画に水浴図が多いわけを考えたりする。

 

 

 ↓ 自宅近くになって、ぽとりと桐の花が落ちてくる。これはこれで面白い。いくつか拾って、白い皿に置いてみる。

 

 ↓ 少し物足りないので、庭のナニワイバラと、紫蘭と、ほほけてはいるが綿毛にはなっていない翁草と、一緒にしてみる。悪くもないが、なんかダリが生けた花のようなテイストになった。後ろは描き始めのM100号ですが、あまり見ないように。

 

(記:2023.5.5)